[46937]今川焼 さん
現佐用町の北部(旧石井村・旧江川村)は明治29年までは旧美作国(岡山県吉野郡)でした。
これは知りませんでした。
早速、20万分の一地勢図「姫路」で現状を確認してみたところ、兵庫・岡山の県界と、播磨・美作の国界とは一致していました。
この県界変更が行なわれた明治29年(1896)は、明治23年に公布された「郡制」が全国的に施行の時期を迎えた時代です。
兵庫県についての直接の資料は持っていませんが、埼玉県では同じ明治29年に、中葛飾郡(最近春日部市と合併した旧・庄和町など)が北葛飾郡に併合されました。
実はこの地域は、もともと利根川が太日川として東京湾に注いでいた時代の川筋(庄内古川、現在は中川の一部)の左岸(つまり下総側)でしたが、17世紀に江戸川の開削によって下総台地の本体から切り離されました。しかし、ずっと下総国の一部であり、明治8年に千葉県から埼玉県に移管されて中葛飾郡という名が付いてからも相変わらず下総国でした。
ところが、明治29年になると、わざわざ「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」によって、武蔵と下総の国界を庄内古川から江戸川に移し、埼玉県全体は武蔵国の一部になりました。
このような「国界変更」が行なわれことは、旧国が実質的な地域名称として機能していたことを示しています
[36159]。
旧美作国吉野郡石井村・江川村が兵庫県佐用郡に移管されたのは、これと同じ明治29年です。県界変更と同時に播磨・美作の国界も変更され、県界との一致を保ったものと思われます。
つまり、兵庫県内には「美作国」の地域はなく、1896年の時点では、摂津(一部)・播磨・但馬・丹波(一部)・淡路の五ヶ国でした。1963年に日生(ひなせ)町の一部(旧・福浦村)編入により備前の一部が加わった後は六ヶ国となり、首位の座を固めています。
旧国が既に実質的な地域名称として機能を失った戦後の県界変更になると、それに伴なって国界を変更して一致させる必要性はなくなりました。
そのために、20万分の一地勢図上ので県界と国界との不一致として「県界変更史跡」が残されることになりました。
“備前国で兵庫県”の備前福河
[46914]は地勢図「姫路」で、“丹波国で大阪府”の旧・京都府樫田村
[31152]は地勢図「京都及大阪」で県界変更の跡を見ることができます。
“越前国で岐阜県”になった旧・福井県大野郡石徹白(いとしろ)村
[31291]は、「岐阜」と「金沢」にまたがっています。手持ちの昭和43年発行の地勢図「岐阜」を見ると、石徹白付近に“白鳥町”の注記はあるものの、13年も前にできた筈の岐阜・福井県境が描かれていません。
同じく1955年に愛知県に越境合併した旧・岐阜県三濃村の一部の「県界変更史跡」は、地勢図「豊橋」にあります。
この付近を中心として、北の現県界、東の明智川、南の矢作川、西の国界(表示なし)に囲まれた範囲が“美濃で愛知県”です。
有力メンバーの多い栃木・群馬県界の変更については、さすがにこの落書き帳に多数の記事があります。
地勢図は「宇都宮」で、手持ちの昭和34年版と平成10年版とを比較してみます。
昭和34年版でも桐生市街の対岸にある旧栃木県菱村
[14592]は、明瞭な「県界変更史跡」を見せています。この“下野国で群馬県”の地域が、平成10年版になると、北方に更に拡大しています。これが1968年に桐生市に編入された栃木県飛駒村の一部
[31165]ですね。
逆に“上野国で栃木県”になったのは、旧・群馬県矢場川村の一部
[14616] です。昭和34年版は足利市編入の前年ですから、当然ながら県界=国界であった矢場川の南はすべて群馬県でした。矢場川は、渡良瀬川の旧河道
[4618]で、その名も両毛橋が架けられています
[25139]。平成10年の地勢図では、栃木・群馬県界が矢場川の少し南に移っているのは良いのですが、矢場川の位置に残るべき国界が消されています。
YSK[両毛人]さんのご指摘
[17073] により、国土地理院は昭和56年からの編集ミスを認め、昨年発行の図から訂正されて、「県界変更史跡」が復活したようです。
最後に、“信濃国で岐阜県”の地域。地勢図は「飯田」です。
手持ちの昭和35年発行図を見たら、恵那山の北方に“中津川市”と記され、昭和33年に長野県西筑摩郡神坂(みさか)村の一部が越県合併した時に生れた新県界が、信濃・美濃国界から離れて北東へと描かれているのですが、ほんの一部だけで途切れ、東と北の県界は描かれていません。要するに「県界変更史跡」は未完成状態。
今年の2月に、長野県木曽郡山口村の岐阜県中津川市への編入が実現しました。“信濃国で岐阜県”の地域は、更に拡大したわけです。
“岐阜県でも信濃国”ですから、この地域の馬籠宿で生まれた島崎藤村は、
[37786] 北の住人 さんのおっしゃるように、「信濃国出身」と書くことができます。たしかに「岐阜県出身」よりは数等「まし」な言い方です。
しかし、藤村本人の意識としては、彼の生まれた馬籠宿は、「筑摩県」でも「長野県」でも「信州」でもなく、「木曾」だったのだと思います。
[37785]参照。
「信濃国」や「長野県」、「岐阜県」のような広域であり、かつ行政の都合で変化してしまう地名を「出身地」に使うことは、誤りではないにしても、「ふるさと」という感覚からはあまり適切でないケースがあるように感じます。
# 実は、県境の話題とは関係ないことなのですが、来年の3月になったら、メンバー紹介記事の「出身地」をどのように記すべきかと悩んでいるのです。