都道府県市区町村
落書き帳

三富新田

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[3461] 2002年 10月 1日(火)19:04:26でるでる さん
三芳町
[3457]TN さん

確かに三芳町は他の3市町(富士見市・上福岡市・大井町)に比べて、さほど都市化の波に呑まれず、「三富(さんとめ)新田」に代表される様に屋敷と耕地が規則正しく地割りされた独特の農村景観が現在においても残っていますね。私も小学時代に、社会科見学で当地に寄ったことがあります。江戸時代に山も川も無い平坦な武蔵野の地を開発し、都市計画された村が成立したと習った様な記憶があります。「三富新田」を構成する上富・中富・下富地区の内、確か上富地区が三芳町域で、中富と下富地区は所沢市域でしたね。

TNさんのご指摘通り、三芳町は埼玉県で3市町しかない地方交付税の不交付団体ですね。他の戸田市は先日、川口市・蕨市・鳩ケ谷市と4市で政令指定都市を目指す協議には加わらない意向を表明しました。住民アンケートでも、合併に反対の意見が多くありましたし、市北部の美女木地区を中心にかつての合併による”しこり”が残っていることもあるようですね。そして何より、TNさんのご心配と同様に、戸田市の豊かな財政が他の3市に持っていかれるのでは、という懸念もあったようです。ちなみに川口市・蕨市・鳩ケ谷市は、3市での合併を目指しで近々具体的な協議に入る意向とのこと。

もう一つの不交付団体である和光市は、朝霞市・新座市・志木市と4市で法定協議会を設置し具体的に合併協議を行っていますね。こちらでは、4市とも東武東上線やJR武蔵野線が通っていることもあり、都市化(というよりベットタウン化)が進んでおり、市街地もほぼ一体化しておりますね。「朝霞4市」という呼称もある様にそれなりに一体感のある4市においては、このまま合併に進みそうな気がします。

富士見市・上福岡市・大井町・三芳町では、東武東上線を中心に昭和30~40年代より急激に人口が増加した地域ですね。大井町では最近の新駅設置の効果もあり現在でも人口が増加し、将来的な単独での市制施行も実際に視野にある様です。一方上福岡市は、今後団地住民を中心に急激な高齢化の進行が予想され、また子供達も一斉に成人となり市外に移り住むケースも目立ち、それが人口の停滞、しいては人口及び税収の減少にも繋がっている印象がありますね。
今後各市町単位では、税収の伸び悩みもさることながら、急激な高齢化に伴う福祉問題、大井町内や富士見市ないにおいては現在でも続く開発・人口増加による都市基盤の整備がおぼつかない状況にあるのではないかと推測します。一方三芳町では、近年人口はほぼ横ばいながらも、豊かな財政(町内の事業所税収入は勿論、健全財政の賜物でしょうね)により、都市基盤整備も一段落していること、また豊かな財政が他の地域に回されてしまう(ツケを払う)ことになってしまうのではないかと懸念が、他の3市町に比べて、合併に対しては慎重に成らざるを得ない理由なのではないかと推測いたしますが、いかがでしょうか。

住民投票についてですが、「朝霞4市」でも来年実施の予定だそうです。最近は合併特例法に間に合わせようと、合併することを前提の様に、性急過ぎる合併協議の進展させ、住民に合併の是非を判断するほど充分な判断材料が示さない中で、安易に住民アンケートをとったり、住民説明会を開催したりして、挙句のはてはそれによって住民の意向は把握できたと言われてしまう箇所が散見されております。

幸いにも三芳町他3市町では2年前より、合併を前提としてではなく、合併の是非を含めた協議がなされており(本来、法定協議会は合併の是非を含めて協議する場なのに、ほとんどの場合は合併を前提にして協議され、合併しないの選択肢は事実上無い様に思われます)、先日合併を是(推進)としての意見が出された様ですが、もし合併するとしたら例えばこの様な将来計画になりますよといった、住民が判断出来る様な資料をまとめた上で、来年住民投票を実施する意向の様です。
私の個人的な考えとしては、充分な判断材料が無い中での住民アンケートや住民投票は反対ですが、充分な判断材料(勿論正確な)がある中でしたら、大賛成です。

三芳町他3市町の法定協議会は、元々は4市町の住民による住民発議の結果設置された協議会です。確か4市町とも有権者の1割強位の署名だったかと。
もし、結果的に合併をする、しないのいずれにしても、住民にとって最善の選択が出来る様にして欲しいと、心から願っております。
[3920] 2002年 10月 16日(水)13:31:43TN さん
郊外考
オーナーグリグリさん
お忙しいさなか自分色設定して頂き、とても感謝しております。ぐりぐりさんにおかれましても色を変更されたようで、渋いと申しましょうか、秋味をうまく醸し出されておりますね。

常連の皆様
ところで、常連の皆様におかれましては、私の配色や色調に雑魚さんやでるでるさんと紛らわしいとお思いになる方も居られましょうが、目が慣れるまで今しばらくご勘弁の程、宜しくお願いいたします。ランキング(全表示)をご覧のとおりかなり下位に位置しており、いかにも「常連指定特例緩和措置」といった感じではありますけれども。

挨拶が長くなりましたが、本旨へ。
最近の書き込みで、特にYSKさん辺りでしょうか、都市における農村地域について触れられております。私事で恐縮ですが、私は大学在学中にランドスケープアーキテクチャー(馴染みの無い職能ですが、いわゆる造園家と呼ばれるもの)を目指し、その中でも都市緑地計画や農村計画を専攻していました。例えば、東京23区の外周に大公園{砧(きぬた)、芦花、井の頭、和田堀、善福寺、石神井、赤塚、舎人(とねり)、水元、篠崎などの都立公園、のちに光が丘、葛西沖が実現}が多数存在する訳は、幻に終わった東京環状緑地計画の名残である、とかイギリスにおけるハワードの田園都市構想(大田区の田園調布の模範となった)についてどうのこうの・・・きりが無いので止めますが、とにかくそういった歴史的なアプローチからはじまって、身近な公園、屋上緑化、樹木・花卉、風景論などを浅く広くやりました。
上記の理由から、また私自身も三富(さんとめ)新田のそばにかつて居住していたという理由から、緑地(広義の意味で、山間部・農村部・河川・湖沼その他空地を含みますが)の大切さを嫌というほど叩き込まれました。緑地の効能については皆さんもご承知の通り、空気の浄化、ヒートアイランドの緩和、心身のリフレッシュ、遮音、遮蔽などが有り、防風林に至っては砺波平野の散居村や武蔵野新田開発の街村などその地域を特徴付ける上で重要な役目を果たしております。
要するに私が申したかった事は、そこに住んで居られる住民の方々自身がその役割や良さをはたしてどれ程理解されているのか、ということなのです。確かに、私の住んでいた埼玉県入間郡三芳町では農家の方の営農意欲が高く、特産であるサツマイモなどは「栗よりうまい十三里」(栗は九里、よりは四里、九里+四里で十三里は江戸から川越いもの産地、川越までの距離)などと昔から呼ばれ、現在では独自ブランド「富の川越いも」として販売され、また冬季はヤマ(堆肥の生産の為に300年以上維持されてきた雑木林で地元ではこう呼びます)の落ち葉掃きなどは農家以外の地域住民も参加するなど都市と農村が互いに補完し合っています。私の母校(世田谷区の真ん中にあり大根踊りで知られる某農業大学)で、とある研究室が群馬県川場村との交流事業の手伝いをしていたことも思い出されます。これらは、極限られた都市農村交流の成功例です。
広く全国に目を向けると、山間地では、外国産材に押された為に林業の衰退などが進み管理の行き届かない人工林が増えて、国土の荒廃も懸念されているところです。インフラ整備に目をやれば人口密集地に比べ不利なので金がかかり中心集落に比べて後回しにされがちです。ですが実際の行政においては小手先の施策ばかりでこれといった効果がないのが現実、というところでしょうか。かつて堺屋太一氏も述べておりましたが、日本が「都会国」になりつつある現状において少子高齢化や過疎の進行が必然だとすれば、交流などと悠長なことはいってられないのかも知れません。個人的には今後探求したいところではあります。
都市論、合併論では郊外の持つ良さが大いに語られて然りだと思うのすが、まずは農山漁村に暮らされる方がその良さを自覚されたほうが良い、というのが私個人の考えです。もちろんそういったことを熟考されて地域をあとにすることにたいしては、憲法の条文を引くまでも無く誰にも制限することはできないのは言うまでもありませんが。

合併後の面積広大化に対する懸念はなんとなくは理解できます。10年以上前いわき市の四倉に赴いたときはその侘しさに中心部である平とのギャップに驚愕したのを覚えています。だからこその「合併特例債」なのに、都市計画道路や市庁舎、文化会館などに化けてしまうのはいかがなものか、との思いは有ります。

人口集中地区(DID)については、以前YSKさんご指摘のとおり郡部にも存在し、私も三芳町について都市計画図を元に調べたのですが、指定地域が市街化調整区域であったり、逆に市街化区域が含まれていなかったりと、厳密な意味での市街地ではなさそうです。最も、市街化区域だって「概ね10年以内に市街化」していないのが現状ですね。それに業を煮やした埼玉県は市街化区域内の暫定逆線引き地域の指定解除に動いた模様です。
[7212] 2002年 12月 31日(火)23:39:24【1】YSK さん
シリーズ2002地域の記憶(3) ~魅力溢れる、関東の都市群~
2002年は、これまで遠方ばかりに気を取られていた私に、足元の大切さを気付かせてくれた一年でもありました。このことも、ひとえにこの掲示板での、知識と個性に溢れるみなさんとのコミュニケーションの賜物であったと思います。このような再認識のもと、関東の諸地域をいろいろと探索してみました。

6月、埼玉県三芳町と所沢市にまたがる三富新田を訪れました。ここは、江戸期の新田開発のもと、街路に直行する形で、集落とその背後の畑地が短冊状に区画されたものが、現在でもはっきりと保存されている場所です。地理の教科書でもおなじみの三富新田に、近くに住みながら一度も行ったことはないのは勿体無いと思い立っての行動でした。ここでは、当時の建物(名主であった島田家の長屋門)が当時のままに保存されていたり、県道に沿ってゆたかな並木が美しかったり、そして何より短冊状の地割の整然とした佇まいには、本当に感動しました。隣地との境界に茶畑の列があったり、かの地の名産のさつまいもが広く栽培されていたりと、現在でも有力な農業地帯であることを実感させて余りあるものでした。このあと行った小江戸川越のまちなみにもふれることができ、武蔵野の文化というか、原風景のようなものの一端にやっと接することができたかな、そう思えた訪問でした。

さらに、同じ月、今度はいつも通い慣れた国道354号線を東して、古河、岩井などを通過し、水郷の商業地佐原を訪れました。ちょうど季節ははなしょうぶの咲く頃。水生植物園は、さまざまな種類のはなしょうぶが咲き乱れ、梅雨時のなか、それを吹き飛ばすような華やかさを振りまいていました。江戸期、利根川による水運で大いに栄えた商業の町佐原の往時の佇まいは、小野川沿いの一角にいまでも残されていて、感じることができます。石の護岸がところどころ船が発着できるように「出し」と呼ばれる船着場が設けられ、柳がゆれる景観は、落ち着きを感じながらも、船が多く往来したであろう当時の趨勢を思うとき、人々の営みが刻まれた物語のようにも思われ、いとおしささえこみ上げてくるような風景だったと思います。また、この地で活発な商業活動を展開し、後に日本各地を測量し、正確な地図を残した伊能忠敬の功績にも触れることができたのは、地理学を愛するもののひとりとして、また感慨深いものがありました。

そして、関東地方の諸都市を歩く方向性を決定付けたのは、さいたま市の4度にわたるフィールドワークでした。詳しくは、「シリーズさいたま市の風景」として発表しましたので、割愛しますが、2003年、政令指定都市となるさいたま市の過去、現在、そして未来を展望しながら、さまざまな地域性をはぐくんできたさいたま市のゆたかな地域性を感じることができたのではないかと、思っています。現在、千葉市の周辺を探索しておりますが、今後も関東地方の諸地域を歩いて、自らの足場を固め、地域への理解を深めていきたいと考えております。

関東は、地図上では緑一色に覆われた、広大な平地であるように思われます。しかしながら、そこには無数の河川が刻んだたくさんのゆたかな低地、それらを囲むように発達した茫漠たる台地、さらにはそういった諸川にこんこんと水を供給する緑あふれる山岳地帯とが絶妙なコラボレーションを演じる、すてきな土地なのでしょう。その舞台の上で、さまざなま生活が展開しているのでしょう。それらに思いをいたしながら、なるべく多くの場所に足を運んでいければいいな、切に思います。
[19527] 2003年 9月 2日(火)14:36:03hmt さん
「上」と「下」の地名
落書き帳アーカイブズ等に示された事例を興味深く拝見しました。
私は上下の意味付けは命名者の立場で異なるものと考え、次のようにまとめてみました。

先ず、支配者の内裏・都を基準にする上下。まさに「お上」の感覚で名付けた官製地名ですね。
[17469]両毛人さんの上京・下京、[17485]上野・下野(東山道)
[17496]Issieさんの上総・下総(武蔵国編入前の東海道)、[18420]上関・中関・下関(瀬戸内海)
[17590]U+3002さん 相模・武蔵(知りませんでした)
いずれも[17599]Issieさんご指摘の通り広域地名です。

大部分を占める地元密着型の「上下地名」の代表は、発端となった[17468]三丁目さんや [17496]Issieさんのご意見にあった河川の上流・下流と考えます。
[18505]ありがたきさん、[18517]Issieさんにより多数の例が挙げられた武蔵野台地は西高東低であり、おおまかな理屈では川の流れだけでなく、土地の高さでも、京都の方角でも 西=上 を説明できます。
しかしこれらの例における「上」と「下」の高低差は極めて僅かで、川の流れにより結果的に土地の高低がわかる程度でしょう。まして京都の方角など、東国の人々にとっては考慮外のことと思われます。
神田川水系の高井戸・井草、石神井川の石神井・板橋、仙川の連雀と流れの方向は西→東から少し北、南に振れていますが、いずれの例も川の流れの向きと上→下の向きは一致します。北沢川緑道という南東に流れた川の遺跡も日大の近くにあるようです。
河川による「上下地名」は、川越付近の地名でも実証できます。
ここには川越から南東に流れる荒川・新河岸川と、それと直角に南西から流れ込む入間川・不老川(「としとらずがわ」だったのですが、役人が「ふろうがわ」にしてしまったようです。)があります。前者の流域には老袋・古谷・新河岸・福岡・南畑等、後者の流域には奥富・寺山・赤坂・松原等の「上下地名」があり、いずれも川の流れと上下の向きが一致することから、単純な西=上でなく、流れに沿った上下であることが明白です。

ところがこの付近で、上記の規則性に反する実例を見つけてしまいました。
それは上富・中富・下富で、東から西へと並んでいます。見た目には平らですが厳密には西に向って僅かに高くなる筈です。川はありません。
実は、この地は柳沢吉保が川越藩主の時代に開拓させた三富新田であり、ローカルながら“官製地名”なのです。
http://www.pref.saitama.jp/A02/BH00/santome/santome-history.htm
「上」は川越の方角でなく、江戸の方角です。柳沢吉保は将軍綱吉の側近で六義園に住んでいたから、江戸基点も当然かもしれません。江戸時代の支配者にとっては、基点は京都でなかったわけです。
[18502]ゆうさん 東京を基点にした上下の例。[18506] 上=東という用法 にも該当。
「いざ鎌倉」の時代にできた鎌倉基点の官製上下地名もあるかもしれませんね。

地元密着型の「上下地名」に戻ると、第2類型は [18537] Issieさんが示された垂直方向の上下地名です。
例示(上田名・下大島・上原・下原)から、「うえ(うわ)・した」と読む場合は、上下揃っていない場合も含めてこれに該当する地名と思われます。上野原は駅のある桂川の谷から数十m高い段丘上に市街があり、代々木上原も本来は駅から坂を登った台地上です。
駅で思い出したが、「上野」と「下谷」は熟語の上下ペアすね。「上野の山」の別名は「しのぶがおか」(鶯谷駅近くに忍岡中学校)で、しのばずのいけ=不忍池とペア。これは上下から脱線。

[18247]ゆうさん を発端とする上福岡市の「上」問題については、市名の直接のベースになった上福岡駅が、[18524]スナフキんさん指摘のように、中福岡・下福岡のある低地との間に明らかな段差のある台地上にあることから、第2類型の垂直方向上下地名という解釈の余地はあります。
しかし、「うえ」と読まないこと、江戸時代や地形図に「上福岡」の使用例がある([19388] hmt参照)福岡村本村地区が新河岸川の上流に位置することから、第1類型である河川説の方がより妥当と思われます。

アーカイブズ未収録ですが、上諏訪・下諏訪も奥の深そうな地名です。
[18142][18143]kenさん指摘の通り京都基点の街道沿いとは逆で、諏訪大社の上社・下社起源が妥当と思われます。
では、なぜ上社が「上」か? 地図で見ると諏訪湖南岸の上社は、北岸の下社よりやや低い標高のようですから垂直説も否定。河川も無関係。残るは[18158]じゃごたろさんの 本家(本宮)=「上」 説ですか。
この本家説は福岡村本村=上福岡にも使えると言い出すと、また議論再燃になりますね。
親戚に山際(地名)の「かみ」という家があり、隣家は本家なのに「しも」と呼ばれていました。本家よりも河川の論理が優先された例です。
[27529] 2004年 4月 19日(月)13:26:26スナフキん さん
土日はおでかけ日和
先にちょっとほのめかしましたけど、この週末は土曜日にハイキング、日曜日にサイクリングとあちこちうろついてばかりでした。サイクリングの帰りには、とうとう既存建物がすべて除去され完全な更地と化した、上福岡南口駅前の再開発地域を14階から眺めたり。私は高いところがダメなので、身を乗り出しての撮影はできませんでした…そんな人間が山登りするなんて、命知らずな…(汗)。

ハイキングは標高400mにも満たない低山、寄居町にある鐘撞堂山へ。歩行時間は2時間ほどで、それこそハイキングと言うより、散歩に近い距離感…。山には鉢形城に敵の急襲を知らせるための鐘があったといういわれの通り、標高が低い割には関東平野が一望できる絶好のロケーション。ただ、どうしても春は空気が澱んで景色が霞みがち、本来なら距離的にも見えておかしくない熊谷市街地さえ、晴れていたのに見ることができませんでした。その独特の円錐形から、乳房山とも呼ばれる笠山は、裏から見ると全然その名を現していないのですねぇ。東京方面から見ると、秩父連山の一番北側に美しい円錐形が見えます、これが笠山ですね。反対からでも形は変わらないのでしょうが、周りの山々に埋もれてしまって独特の円錐形が目立ちません。この山名は、つくづく東京側から命名されたのだなと感じました。このテの話はよく、逆からは別の名前で愛称されていたりするのですが、笠山に関してはそういう話は聞きませんね…。いずれは登ることになるであろう山に、少し思いを馳せたりして。

期待していた山から望むSLの煙も、事前のリサーチによれば今年は部品に重大な欠損が見つかり、いまだに運転できないとのこと。代わりに芝桜臨時列車が来るらしいので、これをカメラにおさめてから登った次第です。引っ張るのがSLではなく電気機関車に化けたとは言え、民鉄で電気機関車が客車を引っ張る芸当はほとんど行われておらず、運転初日にもかかわらずカメラ抱えた方々がちらほら。片やSLの方はゴールデンウィークの運転もほぼ絶望の掲示があり、貨物列車の減少で収益力が落ちている秩父鉄道の収支にも直接影を落としそうな雰囲気です。今年の運転計画すら立っていない状況で、尾を引かねばいいが…と気を揉むと同時に、古いものを維持し続けるのはとっても大変なことなのだなぁと実感させられました。帰りは1駅だけ、冷房のない車両に乗り合わせました。この陽気のため窓は全開、「JNR」マークの扇風機が天井でブンブン回転中…(正真正銘、大汗)。冷房のない電車に乗ったの、何年ぶりでしょ? 大井川鐵道でさえ、冷房がついていたのに…。行程が短く、少し消化不良な感じだったハイキングでしたが、ほぼ10年ぶりに再開した登山なので、少しずつ体を慣らして本格的縦走もできるくらいまで、体力を戻したいと考えています。

翌日日曜日も陽気に誘われて、三富地域まで軽くサイクリング。もっと遠いという印象でしたが、テレテレ走っても30分かかりませんでした。ずっと行きたいと思っていた多福寺、多聞院、島田家住宅はいずれも訪問を果たせました。多福寺はまさに雑木林の中の寺で静かなたたずまい、江戸の開拓時代の名残をそこかしこに残した、想像通りの素敵な寺院でした。多聞院ではボタン祭りがもう間もなく…いくつか早咲きのものがすでに大輪を開いています。島田家住宅では見学していたら狭山茶を出していただき、人なつっこいネコちゃんともじゃれあったりして、癒しの時間が過ごせました。ダイオキシンで騒がれても、大きな工場や倉庫が立地するようになっても、大型車の通行が増えて道路状況が悪くなっても、やっぱりこの新田開発の景観が私の大のお気に入りであることには変わりありません。この景観がずっと、後生に引き継がれていって欲しいと願うばかりです。そして、産業廃棄物処理施設やダイオキシンのような暗いイメージがついたとしても、いつまでも地元民として胸を張ることのできる景観であって欲しいとつくづく思いました。

最後になって恐縮ですが…
[27418]両毛人さん
もちろん私だけに宛てられたものではないのですが、応援メッセージありがとうございました。私の口からは「がんばります!」くらいしか発することのできる言葉がないのがちょっと悲しいですが。

[27510]みかちゅうさん
道路名、IC・JCT・SA・PAの名称と読みがな、所在地、開通日、区間距離
道路名が、まず難しいですよ。私のデータではいちばん、このカテゴリが悩ましいです。例えば東京外環自動車道に、どうやって「東北縦貫自動車道」と「常磐自動車道」の文字をつじつまが合うように表現するか、かなり悩みました。開通日は正直、それ以上に高いハードルかもしれません。IC・JCTなどは道路開通日からある程度たぐり寄せることは可能ですが(後から増設されたものも何らかの情報が残ることがほとんどです)、SA・PAは一般に外部との出入りが可能な構造になっていない閉鎖的施設であるために、相当難物です。私などはもう分からない部分は空欄にしてサジ投げてますね(汗)、そこまで正確かつ厳格なデータにしようという気ははなからないので。

まだ付けるべきレスはあるのですが…勤務時間が(大汗)。
[42697] 2005年 6月 30日(木)15:24:34【1】hmt さん
上空から三富新田を見る
[42685] まかいの さん
Google Mapsでも三富開拓地割が良く見えますが、惜しいかな、ぎりぎり大縮尺画像地域から外れてしまってます。

上空からの画像ネタと地元ネタとが重なり、思わず飯能(誤変換ですがそのままにしておきます)。

国土画像情報ならば、画面中央、街道の両側に沿って並んだ1軒1軒の農家の背後に、細長い短冊状の耕地が並ぶ様子がよくわかります。まかいのさん推薦のけやき並木と屋敷林の樹冠に覆われて、街道の路面は見えません。画面右側の高速道路は、関越道です。屋敷・耕地の更に背後にある自家用林も短冊状地割になっていますが、これも樹冠に覆われて地割りは見えません。

この空中写真は、三芳PAの約1km南にある三芳町上富付近が主体になっていますが、画像の左下(南西)隅に、上富と直角方向の短冊状地割が少しだけ見えます。これは、所沢市の中富地区の一部です。

この上富と中富の地割の向きの違いは、確かに中縮尺の衛星画像にも反映されているのですが、知っていないと、このことを読み取ることはできないでしょうね。その点、大縮尺の国土画像情報ならば、一目瞭然です。
衛星画像には、中富地区の北にある下富地区(中富と同じ向きの地割)も見えますが、やや不明瞭。

更に北に見える緑色の濃い山林は、ダイオキシン事件で問題になった焼却炉銀座(リンク文書にマップ)の「くぬぎ山」。
ここは、狭山市・川越市を含む3市1町の境界地帯です(更に大井町も近い)。

参考までに、三富(さんとめ)新田に関する落書き帳記事を拾ってみました。
三芳町(でるでるさん)、郊外考(TNさん)、三富新田訪問記(YSKさん)、官製上下地名(hmt)、日曜サイクリング(スナフキんさん)。


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