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ezekielさんの記事が20件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[58717]2007年5月28日
ezekiel
[58583]2007年5月20日
ezekiel
[58570]2007年5月19日
ezekiel
[58217]2007年4月30日
ezekiel
[58006]2007年4月15日
ezekiel
[57290]2007年3月16日
ezekiel
[57238]2007年3月10日
ezekiel
[55716]2006年12月29日
ezekiel
[55228]2006年11月18日
ezekiel
[54368]2006年10月8日
ezekiel
[54363]2006年10月7日
ezekiel
[54362]2006年10月7日
ezekiel
[54340]2006年10月5日
ezekiel
[54299]2006年10月1日
ezekiel
[54279]2006年10月1日
ezekiel
[54258]2006年9月30日
ezekiel
[54230]2006年9月28日
ezekiel
[54223]2006年9月27日
ezekiel
[54212]2006年9月27日
ezekiel
[54186]2006年9月25日
ezekiel

[58717] 2007年 5月 28日(月)22:05:06ezekiel さん
風成塵 ~砂漠からの贈り物~
 黄砂を巡って、環境汚染の観点からの書き込みが幾つか見受けられますが、黄砂は風成塵やレスの一種で、東アジアの環太平洋の土壌は、少なからず、この風成塵の堆積による場合もあるようです。特に沖縄周辺の島々は、珊瑚礁の上に風成塵が堆積したものが土壌の基本になったようです。日本海で漁業資源が豊かなのは、風成塵が海に降り注ぎ、その付着したものを含めてプランクトンの餌になるためだとも言われています。

 砂漠化によって、その土地は不毛になりますが、風成塵が珊瑚礁の島の上に幾千年も掛けて堆積することによって土壌が出来て、島々に新たな自然環境が生まれる様(さま)は、まさに砂漠からの贈り物です。

 風成塵と、風成塵と共に飛来する汚染物質とを混同して、風成塵をも環境破壊の要因として悪者扱いするのは、ちょっと悲しいなあと感じます。火山灰や風成塵は、それ自体が近代文明の生活をする者にとっては、確かに迷惑な存在ともいえますが、でも数千年の風成塵の堆積が生んだ新しい自然環境を享受している方々も少なくないように感じます。

 比較的わかりやすい論文を紹介します。

http://www.s.u-tokyo.ac.jp/ken/gakui/absts/D0435.pdf
[58583] 2007年 5月 20日(日)20:24:52【1】ezekiel さん
「たたら製鉄」と「かんな流し」の光と影
[58571] じゃごたろ さん、

[58578] 白桃 さん、

 コメントありがとうございます。

「たたら製鉄」は、経済的効果も大きい光の部分で、じゃごたろ さんからいただいたコメントにあるように地名として「多々良」という嘉名がついたりしています。ただ自然破壊や地形変化の影の部分は、近世以前は環境意識も低く、田畑に砂が入り込むので「かんな流しは農閑期(秋の彼岸から春の彼岸)」という取り決めが出来たりした例も見受けられますが、「かんな流し」が、結果的に扇状地を作ったり、河口に三角州を作ったり、土石流の原因になったり、海岸に豊かな砂浜を作ったりした因果関係がわかっていなかったようで、直接的に地名に反映する例が、ほとんどないのではないかと思っています。地図上の地名からは情報があまり得られないと思います。

 白桃 さんから紹介していただいた戦後の研究が、「たたら製鉄」や「かんな流し」が、地形形成や地形変化に大きく影響したことを解明した最初期の頃のものではないかと思っています。(感謝!)

 中世から近世に掛けて、中国地方の山々の一部では、「たたら製鉄」の影響で山林が伐採しつくされて、山肌が削られて地形が大きく変わり、「かんな流し」の影響で中流・下流の地形も大きく変わったことは、あまり知られていないようです。現在も、大々的に調査が行われた例があまり見受けられないのは、社会学的な別の見地から憚られる要素も多いようで、逆に、地理の愛好家の方々のフィールドワークに期待したい部分でもあります。
[58570] 2007年 5月 19日(土)20:17:51【1】ezekiel さん
「たたら製鉄」と「かんな流し」
 今、「たたら製鉄」や「かんな流し」による古代から中世期の人為的な地形の形成を調べているのですが、あまり地理の分野では取り上げられないようで、この落書き帳でも検索したのですが、ヒットしませんでした。環境問題を扱う方々や地学が専門の方々、郷土史を調べておられる方々には興味がある問題のようで、個別のフィードワークやリポートは結構あるのですが…。

 地元の兵庫県では、千種川や揖保川流域があります。日本刀で「備前~~」というのがありますが、原料となる良質の鉄は、播磨の国の 「千種鉄」や「宍粟鉄」だったようで、宍粟郡や佐用郡では 砂鉄を原料とした「たたら製鉄」が盛んだったそうです。砂鉄は花崗岩類の風化土層を 掘り崩して採掘するようで、山肌を削り、それを「かんな流し」で水との比重差 によって土砂中の砂鉄を凝集し、山林の木材を大量に伐採して薪や炭にして製鉄をしたようです。

 千種川や揖保川は山肌が削られ、山林が伐採され、「かんな流し」による大量の土砂が河川を汚濁してそれが河口付近に堆積するわけで、揖保川では、今の姫路市の網干辺りに平地が出来て、新田が拓かれ、今は工場地帯になっていたり、千種川では、現赤穂市の市街地区域に平地が出来て、遠浅の砂浜が広がり、新田が拓かれると共に塩田がつくられたわけです。

 もっとも顕著なのが島根県で、「たたら製鉄」や「かんな流し」によって形成されたとされる地形は、日野川や斐伊川の流域に多いです。出雲の国の山間部は、一時は禿山状態になったという説もあり、ヤマタノオロチの話も環境破壊の問題として捉える方々も少なくないようです。(今では主流でしょうか?)

 鳥取砂丘も「かんな流し」によって形成されたという学説がありますが、当時は地形をも変えるほどの環境破壊でしたが、今・現在となっては、それが「自然」とされている部分も多いです。そして「かんな流し」をしなくなった為に、河川に含まれる土砂が激減して砂浜が痩せていることが、逆に環境問題として取り上げられたり…

 *

 前触れが長くなりましたが、個々の事例は探せば見つかるのですが、地理の専門の方々が、「かんな流し」による(意図的ではないが人為的な)地形変化を分類したり、まとめたりされている研究者や文献等をご存じないでしょうか?

・「かんな流し」によって失われた山や丘、それによって出来た山間部の盆地や平地
・「かんな流し」によって出来た扇状地や河口に出現した平地、その結果としての新田
・「かんな流し」によって出来た砂丘
・「かんな流し」による地形の変化が地名として残っている例

 何か、情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いいたします。
[58217] 2007年 4月 30日(月)12:26:50ezekiel さん
省略形の読み方  (大学編 「しんだい」)
 略称の話題を読んで、私自身が省略・略称で偶に勘違いするのが、「しんだい」です。新潟大学は新大(しんだい)、信州大学も信大(しんだい)、そして神戸大学も神大(しんだい)です。今まで間違ったことがないのですが、神奈川大学の略称は神大(じんだい)で、音(おん)が違うようです。「めいだい」も名古屋大学なのか明治大学なのか、一度確認したことがあります。
[58006] 2007年 4月 15日(日)06:00:48ezekiel さん
旧石器時代
[57991] hmt さん

ホモサピエンスによる「第2次出アフリカ」が、西はヨーロッパのクロマニヨン人、東は日本の高原山やオーストラリア、そして少し遅れて南アメリカにまで及んだことに思いを馳せると、今回の旧石器発見のニュースが、壮大な人類史の一翼を担うものと理解できます。

 朝鮮半島や日本での旧石器時代の発掘物が、中国に比べて少なかったのですが、今は韓国での発掘がかなり多いですね。この時代の人骨の発掘が日本であれば、かなり大きなニュースになるかもしれませんね。
[57290] 2007年 3月 16日(金)08:51:04【2】ezekiel さん
駅のコア・イメージ
[57276] スナフキん さん
「道の駅」はすっかり市民権を得た感がありますが、これに便乗したとしか思えないネーミングの施設が次々に生まれています。海の駅、川の駅、町の駅…そして今度は「駅の駅」かい!みたいな。

話題作りにと思いましたが…

 ネットのお陰で、地方紙の主な記事を見る機会が増えて、遠くのご当地ニュースが身近になったように思います。

 「駅」という言葉(文字)は、“鉄道の駅”のイメージが付き纏う言葉ですが、「道の駅」という言い回しの中では、“鉄道の・・・”という部分を削ぎ落として「駅」という言葉(文字)に附随されたイメージを利用しているんでしょうね。“鉄道の駅”という物理的・機能的な意味ではなくて、“人が集まる”とか、“駅前商店街”とか、そんなイメージを道路沿いに持ってきた(インストールした)のが「道の駅」ではないかなあ~と思っています。ネーミングとしては、奇をてらったというよりも、「駅」という言葉の持つコア・イメージを結果的に掘り起こしたことになったので、すんなりと定着したのかなあ~と考えています。

 「駅の駅」、この言葉の一つ目の“駅の・・・”は、“鉄道の駅”をイメージさせて、2つ目の“駅”は“道の駅”をイメージさせて、この記事を見て、面白いネーミングだなあ~と思いました。「駅の駅」という端的な言葉で“鉄道の駅舎に出来た「道の駅」”をすぐにイメージさせてくれたのは、「駅」という言葉の持つ2つのイメージがオーバーラップする妙味を活かしたネーミングの故だと感じました。

 「局」という言葉(文字)も、一般には郵便局や放送局を連想する言葉で用いられることが多いですが、官庁では、また違った機能の言葉として使われています。人によってイメージにばらつきのある言葉(文字)の一つではないかと思います。蛇足ですが、放送局の“局”はstationで、これは“駅”とオーバーラップするんですね!

 ネーミングで失敗したのが、“国鉄”に対する“国電”に相当する言葉として“JR”に対しての“E電”があるように思います。新しい言葉が、すんなり受け入れられて定着するか、奇をてらったネーミングで一時的に使われて廃れるか、それとも最初から違和感があって使われぬままになってしまうか・・・。言葉は意味を指し示す機能的な側面もありますが、目や耳にした人が感性としてイメージする側面も大きいように感じます。言葉が歴史の中で変わっていくのも、文化や生活と共に歩む生き物だからでしょうね!各地にある「~銀座」にもアナロジーを感じます。そして地名の多くも、歴史の中で根付いたものが多いのでしょうね。

 スナフキん さんの「話題作りにと」に乗っかって、寒い朝に徒然なるままに・・・
[57238] 2007年 3月 10日(土)23:07:34ezekiel さん
ワイワイマップ
グリグリさん、

[55724]
自分色変更を確認しました。



yahooの地図情報でワイワイマップというのを試してみました。
http://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=mHVIaKLEm9I1s16ui4GJqShx.NMqR3V7U1g-
「写真で綴る兵庫の風景」を、暇を見つけてスポットの登録をしようと思います。
[55716] 2006年 12月 29日(金)10:20:35ezekiel さん
「落書き帳」& ロータリー
グリグリさん、

[55229]
それよりも、ezekielさんにおかれましては、[54377]の私の書き込みに対してきちんと回答していただきたいと思います。
大変失礼しました。「落書き帳」ですね。以後気をつけます。

[54577]
ezekielさん、対応遅くなりましたが改めてよろしくお願いいたします。なお、申請時にご指定いただいた自分色は、未登録メンバーのカラーと紛らわしいため、勝手ながら私の方で色をアレンジさせていただきました。修正ご希望があればお手数ですが再度ご申請ください。
次の通り、修正をお願いします。
  左枠(記事番号日時欄) 背景色 #e3440f 文字色 #8bf3fc
  右枠(ニックネーム欄) 背景色 #fcfbd6 文字色 #498cf1
  下枠(記事タイトル欄)背景色 #e2fefe 文字色 #3d241f



JR加古川線西脇市駅駅前のロータリーを紹介します。
地図

長閑な感じのロータリーです。参考までに写真も紹介します。
写真
[55228] 2006年 11月 18日(土)10:46:11ezekiel さん
Re[54577]他にも懸案事項は沢山あるのですが、時間が取れ次第対応したいと思いますのでご了承ください。
了解しました。現時点での途中経過をお知らせ下さい。
[54368] 2006年 10月 8日(日)07:25:05ezekiel さん
神戸を巡って ~湊川河口付近
[54365] ニジェガロージェッツ さん、
確かに江戸期の豪商・高田屋嘉兵衛の店や邸は西出町にありましたが、この西出町は東隣の東出町とともに「湊西」に含まれます。確かに兵庫津全体の中では、湊川河口に向かって東に突き出た部分に位置していますが、それゆえ「出町」と名付けられ、後に東出・西出に分かれたのでしょう。しかし、湊川を越えて東には出ておらず、実際、幕末期の兵庫津において湊川の東、つまり「湊東」に位置していたのは、東川崎町と相生町の2町だけです。
後に神戸区、更に神戸市と発展するにつれて、兵庫湊東の範囲も拡大していきました。

 湊東という言葉を使ってしまいましたが、かえって指し示す地域がブレてしまった
ように感じます。それと、私自身の中でも西出町、東出町の位置を指し示す言葉に
ブレがあって、

[54363]ezekiel、
湊川の河口近くの左岸、湊東とよばれる地域

[54340] ezekiel、
湊川左岸に関しても、兵庫の町が発展、膨張して、西出町や東出町、東川崎町、相生町が

 私自身も、かなり漠然としたピンボケ状態で捉えていましたので、ニジェガロージェッツさん
との間で齟齬が生じたと思います。おっしゃるように、西出町&東出町と、相生町とを
私がひとくくりに扱ったのが問題だと思います。

 私の視点としては、江戸中期頃からの兵庫の町の拡大が東進して、湊川右岸の河口
近くが北限(東限)だった町の範囲が、河口を中心に湊川左岸に喰い込み、後に湊東
という名称になる地域まで兵庫の町が膨張した経緯に注目したわけです。

 今スポットを照らしているのは、国道2号線が中央区から兵庫区に入って、国道が
右折で、直進すれば高松線に入る七宮神社辺りのポイントを中心とする半径300m
ぐらいの範囲の地域になると思います。旧西国街道は、七宮神社の西から現・高松線の
数十メートル西を兵庫の町を貫通しながら現・中央卸売市場の南辺りから西に向かう
経路だったことになると思います。今は廃止されましたが、市電が概ね西国街道沿い
に走っていたことになるのかなあ~と思います。

 ちょっと余談になりますが、神戸駅の位置は多少は移動しましたが、もし山陽線との
接続を見据えて、元町から直進して湊川神社の北を通る経路にすれば、神戸の町の様子も
随分変わっていたかもしれませんね。東西に細長い神戸の街にあって、JR神戸駅は、ほぼ
ホームが南北方向になっています。当時は港との接続が重要であったので当然のこと
だったと思いますが、旧神戸駅を港専用にして、後の山陽線との接続の為に湊川神社の
北に新神戸駅が出来ていれば、現・山陽電車はなかったかもしれませんし、地下鉄の
経路が大きく変わっていたかもしれません。JR神戸駅の西(正確には南)の急カーブは、
全線に渡って線形が良いとされている東海道線及び山陽線のなかで特異点のようですね。

*

 私自身、どうしても明治期以降の地理的な(行政的な)前提で、兵庫から生田川右岸の
地域を考えてしまいがちですが、ニジェガロージェッツさんのおっしゃるように、
西出町や東出町というのは、どこの村にも属していないような河口の中洲を築地して
出来た出島のような場所だったのかもしれません。当時は田んぼに関しては、厳密に
検地されていたことと思いますが、江戸期のムラとムラとの境界線って、それほど厳密では
なかったと思います。山は入会地で、海岸の多くは入会のような感じだったのかも
しれませんね。江戸初期には、まだ生田の森も随分広大だったような記述も見受け
られますので、当時の“ムラ”というものを、私自身もっと正確に捉え直さないと、
神戸のルーツを見誤るかもしれないなあ~と痛感しています。生田村の件も同じですが、
湊川の左岸、河口付近の海岸線沿いの地域に関しても、しっかりと調べたと思います。
[54363] 2006年 10月 7日(土)17:20:13ezekiel さん
神戸を巡って ~ 湊東の興隆
[54357] ニジェガロージェッツ さん、
ここで仰る「走水村」とは、実のところ「坂本村」ではないでしょうか。
走水村は宇治川左岸(東岸)までで湊川左岸一帯にまでは達しておらず、また兵庫津の市街が宇治川を越えて走水村を侵食したとも考え難いと思います。

 詳細なコメントをありがとうございます。

 私自身、神戸という一村名が、100万都市の名称になった経緯に興味を持って、いろいろ
調べたに過ぎず、スコープが限られています。いただいたコメントを読んで、坂本村の件に
関しては、多分に思い込みがあったのかなあ~と反省しています。

 まず、私自身、江戸初期の兵庫や神戸辺りの地図が手元にありません。ですから湊川の左岸、
湊東とよばれる一帯が、元々何処の村に属していたのかは、走水村だと思い込んでいただけで、
実際に調べていませんでした。

*

 ニジェガロージェッツ さんの書き込みを元に考えると、湊川右岸に兵庫の町があり、湊川
左岸の河口付近から宇治川辺りの地域は、元々は坂本村だったのでしょうか?そして西国街道の
北部が荒田村という位置関係で、坂本村と宇治川を挟んだ東側に走水村というような位置関係
だったのでしょうか?

 私のイメージ(思い込み)では、西国街道の北側に、西から荒田村、坂本村、宇治野村、
花隈村というような位置関係で捉えていました。

 私は、兵庫vs神戸という構図が出発点だったので、兵庫の町、走水村、二ツ茶屋村そして
神戸村にフォーカスを絞ってしまっていました。時代を遡って、生田村に関しても調べたいなあ~
と思っていたのですが、坂本村も要チェックですね。

*

 兵庫のまちの発展を見る中で、江戸中期以降に物流のメインが海運になり、廻船の存在が
大きくなることが見逃せないように思います。そして北前船で有名な高田屋嘉兵衛の拠点は、
昔からの兵庫津ではなくて湊東の西出町でしたし、廻船にのみ注目すると、意外にも兵庫津
以上にニツ茶屋村が多くの廻船を持っていたようです。もちろん兵庫津が中心であることに
変わりはないのですが、江戸中期以降に海運の主流が廻船になってきた時に、湊川左岸の
相対的な位置関係が高くなっていたように思います。

 湊川の河口近くの左岸、湊東とよばれる地域(走水村ではなくて坂本村)は、兵庫の町に
隣接する故に兵庫の町に呑み込まれてしまいましたが、二ツ茶屋村や神戸村は、兵庫の町から
微妙な距離を持っていた故に村として存続しながら近代化や産業化によって実力貯え、幕末
には蓼場が出来、海軍操練所が出来、そして兵庫津からの微妙な距離故に国際港の開港に
至ったと考えると、坂本村は、兵庫の町に近過ぎた為に、地名としては残ることが出来な
かったのかもしれませんね。
[54362] 2006年 10月 7日(土)17:07:27ezekiel さん
神戸を巡って ~ 横浜とのアナロジー
[54351]hmt さん、“神奈川・横浜(1)横浜の居留地は、文字通りの「関内」だった”

 神戸と兵庫を巡っての雑記帳でのやりとりが比較的多いのに対して、神奈川と横浜との関係に
ついての書き込みは、このサイトの中ではhmtさんの[20917]ぐらいでしたので、ちょっと淋しいなあ~
と思っていました。神奈川と横浜との関係に関する詳しい経過、ありがとうございました。

中世文書に神奈河として現れる神奈川(金川)は、近世には東海道でこの付近で最も大きな宿場町として繁盛していました。
神奈川港もあり、三浦方面の産物を江戸に運ぶ中継地でもありましたが、貿易港としての長い歴史を持つ兵庫津には及ぶべくもない、ローカルセンターという程度の存在でしょう。
&
神奈川宿と海を隔てた横浜村は、大岡川低地の前面をふさぐ砂洲の上の漁村でした。横浜村の漁師が、対岸の神奈川宿に船で魚を運び、納めていたという関係でしょう。

 神奈川がクローズアップされるのは、中世の鎌倉との関係の中で神奈川湊が、近海の海運の
拠点になったことで、その後は江戸期に神奈川宿として東海道の宿場町となって栄えたようで、
兵庫の津とのアナロジーを感じます。

 一方横浜という地名は、神戸と同様に幕末までは一村名に過ぎず、歴史の表舞台に立つ
ことはなかったようですが、黒船来航という大きな史実に直接対峙して、(語弊があるかも
しれませんが、結果として良い意味で)歴史の流れに翻弄されたような気がします。

 神戸村が近隣の兵庫津の影響で、二ッ茶屋村程ではなかったようですが廻船を多少所有して
いたようですし、酒造に関しても灘や西宮程ではなかったようですが商品としての清酒の製造
もしていたようですし、幕末近くには西国街道沿いには商家も多少はあって、近代化、産業化
されていたようです。その上、船蓼場を神戸村が誘致するような形になって、そのことが神戸
海軍操練所へとつながり、それらのことが結果的には神戸港開港の礎になったと捉えることも
出来るのですが、横浜村の場合は、一寒村が突然国際港となって脚光を浴びたようなイメージを
持っています。

*

条約文の「神奈川」の解釈を巡って、米国総領事ハリスは、商売上の見地から東海道神奈川宿を主張しましたが、幕府は横浜村を出島化して外国人を隔離しようと対立します(安政6年「神奈川宿本陣対話所」)。
結局のところ、幕府は外国側の反対を無視して横浜に開港場の建設を開始し、既成事実化してしまいました。

 開港に際しても、神戸と横浜では事情が違うようですね。そして県庁所在地となった経緯も
兵庫と神奈川との絡みを見ると、事情が異なるような気がします。

 横浜村が横浜町になったのは1860年、開港の時期が違うのもあるのですが、神戸町の
誕生が3村の連合体とも捉えることが出来る側面を持ち、神戸村の庄屋・生島四郎という
地元の実力者の存在を見逃せないのですが、横浜町の発足というのは、完全な「お上主導」
であったようなニュアンスを感じてしまいます。黒船来航から5年後には開港、翌年には
関内に横浜町と太田町が出来て、安政5年から7年に掛けての2年間で、横浜村は歴史の
大きな“うねり”の波をモロにかぶった大激変を経験したようですね。

 横浜村は、開港と居留地のからみで横浜町となったようですが、今の町村制とは違いますし、
この場合の横浜町って、港町という位置付けだったのか、或いはかなり特異な町という位置付け
だったのか、町としての基盤がない寒村に港が出来て、官民多くの人が雪崩れ込んで、
まさにいアメリカ西海岸のゴールドダッシュで突如生まれた町のようなイメージで当時の
横浜を捉えるのが、良いのかもしれないなあ~とも思います。
[54340] 2006年 10月 5日(木)20:45:05ezekiel さん
神戸を巡って ~ 06oct2006  
[54321] ニジェガロージェッツ さん、“明治初期の神戸”
[54322] hmt さん、“兵庫・神戸(2)兵庫開港、そして開港場の地名「神戸」について"
[54339] hmt さん、“兵庫・神戸(3)開港場は、約束した兵庫でなくて神戸でも「ええじゃないか」"

 興味深い内容や、ご示唆を大変面白く読まさせて頂きました。

 私自身、「神戸って?」という、素朴な疑問から調べていまして、ちょうど桜トンネルさんが、

[54163] 桜トンネル さん
三重県には飯南郡神戸村、名賀郡神戸村、安濃郡神戸村(神戸村が消滅したときは安濃郡、今は安芸郡)、河芸郡神戸町(神戸町が消滅したときは河芸郡、今は安芸郡)の4つの神戸村または町があったのですが、なぜこんなにあるのでしょうか。群馬県でも5つの東村がありましたが・・・。

 神戸という地名の発生、由来に関するようなことに疑問を持たれていたような内容に、私も
興味を持って、全国の神戸の地名と由来を調べたことがありました。また、この神戸という
地名が、私の今住んでいる市町村名になった経過にも興味を持って、続けて調べたことが
ありました。いろいろ調べると面白い話も多く、かなりブレを楽しみながら、現在進行形です。

 一村名でしかなかった神戸が、港町、県庁所在地の市名になった原因として次の3つでは
ないかなあ~と、今現在は考えています。

[54182]ezekiel、
 “神戸”という地名が、県庁所在地・政令指定都市の名前になったのは、
(1) 五畿内の港町の兵庫(大輪田泊)に隣接した位置
(2) 勝海舟が神戸海軍操練所を設置
(3) 幕末に兵庫開港し、神戸村に外国人居留地

 神戸の地名の発端は神社であり、それを支える神戸であって、村名としてのルーツは
きわめて農耕型のような気がします。その村名の神戸が、大都市の名前になった経過には、
港や海運がらみのことが多く、海事型であるような気がしています。

*

 神戸という一村名が、後の大都市の名前になったルーツ中のルーツは、兵庫という近隣の
港町の存在ではないかと思っています。上に挙げた(2),(3)は、兵庫という港町に隣接した
位置の故のものであって、今の神戸の街のルーツは兵庫なんだろうなあ~と感じています。

 ただ、兵庫の近隣の地名の中で、「何故神戸?」を考える時に、その理由を幕末の十数年に
集約出来るのではないかなあ~と思うようになりました。そのトリガーとなったのは
ニジェガロージェッツ さんの神戸駅の開業にスポットをあてた書き込みでした。

[54253]ニジェガロージェッツ さん、
今でこそ神戸駅周辺を「神戸」ではなく「兵庫」の一部だと思っている人は少ないと思いますが、神戸駅のある現在の「中央区相生町」は神戸市誕生当初より1931(昭和6)年の区政施行までは「兵庫」を冠し「兵庫相生町」でした。(区設置以前の神戸市の冠称については拙稿[51105]に記述)

 実は、この書き込みが気になって、改めて兵庫vs神戸という図式をじっくり考え直した
のですが、その中で次の2点が浮かび上がってきました。
(1) 「兵庫というまち」の範囲の変遷
(2) 「神戸」という地名の指し示す地域の変遷

 兵庫の町は繁栄と共に膨張したようで、元禄年間頃には、すでに湊川の左岸にまで及んで
いたようです。そして幕末には、湊川の左岸の西国街道沿いに相生町という兵庫の町が存在
していたようです。詳しいことが未だわからずにいるのですが、とにかく、明治7年開業の
初代神戸駅の位置というのは、当時の兵庫(相生町)と神戸(旧・走水村)の境界地帯で
あったようです。

 ただ、この時の神戸は神戸村のことではなくて、走水村、二ッ茶屋村、神戸村の3村の
連合体としての神戸町です。神戸という地名が、幕末には兵庫の東隣、湊川から生田川までの
地域を指し示すようになっていたように思います。しかし生田という古い地名も存在して
おり、兵庫vs神戸と共に、生田vs神戸という構図にも興味を持った次第です。

 神戸という地名が脚光を浴びた(?)時期が、明治に入っての数年間であったと思って
いたのですが、実は、もうちょっと手前の明治に入る前の数年間ではなかったのかなあ~と、
ここ数日で、考えが変わってきています。

 前置きがひじょうに長くなりましたが・・・

 *

 10C頃には、西から八部郷、宇治郷、神戸郷、生田郷という地名が存在したようで、
まだ兵庫という地名はなかったようです。古代から中世の時代には、生田という地名が
この辺り一体を指し示す名前であったようで、神戸という地名は、その中の一集落の
名前に過ぎなかったのではないかなあ~と思っています。(私自身、古文書を直接
読めないので、入手にした2次資料の範囲だけですが・・・)当時の神戸郷と生田郷の
位置や範囲の詳細はわからないのですが、神戸という地名が、ムラの名前を指し示す
(御幣があるかもしれませんが)行政的な地名であった時代が、江戸末期まで続いて
いたように思います。

 兵庫のまちに関しては、12C以降、興亡を繰り返していたようで、港町として、
そして宿場町として整備されるのは16C以降、特に江戸期に入ってからのようです。
元禄年間には、湊川右岸の南西一帯に町が広がっていたようです。ただ、この時期には
湊川の河口左岸に兵庫のまちが膨張して、西出町や東出町の基になる町並みが出来つつ
あったようです。その後に東川崎町も出来て湊川左岸に兵庫の町がはみ出していた
ようです。前述したように幕末頃には、西国街道沿いの湊川左岸に相生町が存在して
いたようです。

 この辺りのイメージが、どうも今の市町村制で捉えてしまいがちなのですが、神戸の
地名のルーツを探る中で、江戸期の“まち”って一体何なんだろうかなあ~という疑問を
持ったのですが、未だわからないままです。江戸の町が典型的だと思うのですが、近隣の
村が江戸の町に飲み込まれて消滅したケースもあると思うのですが、これは今風の
町村合併とは違うでしょうし、実質的に町が村を侵食していったのかなあ~と
イメージしています。

湊川左岸に関しても、兵庫の町が発展、膨張して、西出町や東出町、東川崎町、相生町が
湊川左岸の走水村を徐々に侵食していったのかなあ~と。(江戸期のまちと村に関しては、
じっくり調べたいと思います。)

*

[54322] hmt さん、
「神戸」という地名が、世界的なブランドになったのは何故か?という問題を解くキーの一つとして、上記のように居留地になった場所に存在した「神戸海軍操練所」の存在にもご注目ください。

 神戸海軍操練所が何故神戸村に出来たのかは、二ッ茶屋村出身の網屋吉兵衛の蓼場
建設が大きいようですね。そして、蓼場の建設をバックアップしたのが神戸村であり、
当時の神戸村の庄屋の生島四郎の存在がキーポイントになるのかもしれません。そして
走水村、二ッ茶屋村、神戸村の3村をリードして神戸町の誕生に導いたのも、“神戸”という
一村名を、兵庫のまちと互角の位置関係にまでアップさせた功績があるように思います。

 資料を見ていると、村の規模としては神戸村が、二ッ茶屋村や走水村よりも大きかった
ようですが、でも財政力としては二ッ茶屋村が上回っていたのではないかと思っています。
神戸村が農村型であったのに対して、二ッ茶屋村には大きな廻船が多数あったようです。
ただ走水村は、兵庫のまちが湊川河口左岸の海岸部まで膨張したためか、村としての規模は
二ッ茶屋村、神戸村に比べると、小さいように感じます。

 もし、網屋吉兵衛の蓼場が、出身地の二ッ茶屋村に出来ていれば、そして、神戸村の庄屋
生島四郎の存在がなければ、神戸ではなく二ッ茶屋の地名がクローズアップされ、明治元年
に二ッ茶屋町が生まれて、区名になってそして市名になっていたかもしれません。


[54321]ニジェガロージェッツ さん、
兵庫開港に際し兵庫津ではなく、実際には北へ離れた神戸村の浜辺を開港場として以来、兵庫港と神戸港が並存していました。

 これに関しては、[54339]で hmt さんも触れられておられますが、神奈川と横浜との
アナロジーで捉えて、神戸の場合と横浜の場合との相似と差異とを比較すると面白いだろう
なあ~と思います。形式原理では兵庫港なのですが、実質的に明治の初期には既に神戸港
であったように思います。ただhmtさんも触れられておられるように、勅許を得て開港した
港は、日本側での公式的な扱いは、しばらくは兵庫港であったはずではないかなあ~と
思います。

[54321]ニジェガロージェッツ さん
まず元来「生田」の地名は生田川を東界とする摂津国八部郡に属していましたが、川の流路の変化もあったのでしょう、いつしか村落は摂津国菟原郡に、生田神社は八部郡と分かれてしまいました。

[54322] hmt さん、
たしかに、この近くには「神戸」の名の由来でもある生田神社が存在しますが、そこの近世の村名は内陸の「生田宮村」(海岸の神戸村と共に八部郡)であり、「生田村」は生田川の東岸・菟原郡でした。従って、新しい開港場の名前とし、港に直結する村名「神戸」の方がより適切だったのではないかと考えます。

 生田という地名に関しては、もう少し調べたいと思います。天領になった以前の尼崎藩の時代
に遡ることになるかもしれませんが・・・
[54299] 2006年 10月 1日(日)23:40:43ezekiel さん
でっかい地名 & 顔にまつわる地名
 神戸を巡って、重要な示唆を頂いたり、なによりも、この掲示板でのやりとりが
大きなトリガーとなりました。また、雑記帳のcgiの機能の便利さも、凄いなあ~と
感心しています。

 ほとんど雑学的な内容ですが、以前に「でっかい地名」を蒐集したことがあります。
雑記帳のcgiの表の書式機能を使って整形しなおしました。(新しい市町村名に変換も)
顔にまつわる地名、それに続いて身体にまつわる地名の蒐集もしていたのですが、
身体にまつわる地名のデータが行方不明になって、とりあえず顔にまつわる地名のみ。
頭や額、目、耳、口は多いの割愛。唇や睫の地名は見つけられませんでした。
顔にまつわる表情や出入りするモノも(歌は多く、唾はなかったです)。

 このサイトの地名コレクションとオーバーラップするのも幾つかあるようですが、
恩恵を受けるばかりなので、情報提供も、と思い・・・


* でっかい地名 *

【日本】
地名所在地地名所在地地名所在地
日本国山形県鶴岡市日本平仙台市太白区日本橋東京都中央区
日本大通り横浜市中区日本平山新潟県阿賀町日本記長野県小川村
日本坂静岡県焼津市日本コバ滋賀県東近江市日本橋大阪市浪速区
日本原岡山県津山市日本原高原岡山県奈義町日本山長崎県松浦市

【アジア】
地名所在地
アジア磯東京都新島村

【世界】
地名所在地
世界谷地宮城県栗原市

【大空】
地名所在地地名所在地地名所在地
大空町北海道網走郡大空町北海道帯広市大空滝岩手県花巻市
大空山兵庫県新温泉町大空岡山県笠岡市大空香川県さぬき市

【地球】
地名所在地
地球岬北海道室蘭市

【太陽】
地名所在地地名所在地地名所在地
太陽北海道新冠郡新冠町太陽の村宮城県柴田町太陽ケ丘団地栃木県河内町
太陽が丘石川県金沢市太陽福岡県田川郡福智町

【銀河】
地名所在地地名所在地
銀河橋北海道北見市銀河の滝北海道上川郡上川町
銀河の森北海道足寄郡陸別町銀河大橋岩手県花巻市

【宇宙】
地名所在地
宇宙大橋秋田県湯沢市

《でっかい地名・番外編》

【莫大】
地名所在地
莫大沼茨城県桜川市

【超】
地名所在地地名所在地
大超寺奥愛媛県宇和島市大超寺大分県日田市

【巨】
地名所在地地名所在地地名所在地
巨釜宮城県気仙沼市巨福呂坂神奈川県鎌倉市巨海町愛知県西尾市
巨椋橋京都市伏見区巨瀬町岡山県高梁市巨勢岡山県美作市
巨勢町佐賀県佐賀市巨田宮崎県宮崎市

【天皇】
地名所在地地名所在地地名所在地
天皇山青森県つがる市天皇寺宮城県黒川郡大和町天皇舘腰福島県二本松市
天皇山和歌山県広川町天皇香川県まんのう町天皇愛媛県西条市
天皇高知県香南市

【未来】
地名所在地
未来大橋熊本県菊陽町

【億】
地名所在地地名所在地
億田愛知県半田市億首川沖縄県金武町

【兆】
地名所在地
吉兆所岩手県一関市


* 顔にまつわる地名 *

《顔の部位》

【顔、貌】
地名よみ所在地地名よみ所在地
左顔ひだりがお北海道芦別市夕顔瀬町ゆうがおせちょう岩手県盛岡市
夕顔田ゆうがおだ岩手県八幡平市顔好かおよし山形県大江町
顔振峠こうぶりとうげ埼玉県飯能市赤顔山あかづらやま長野県川上村
鼻顔橋はなづらばし長野県佐久市顔戸ごうど岐阜県御嵩町
北川顔きたかわづら京都府久御山町面貌山めんぼうやま山口県山口市
上下顔かみしもつら宮崎県日之影町小顔谷こがおだに宮崎県日之影町
振顔野ふるがおの大分県竹田市

【脳】
地名よみ所在地
瑪脳橋めのうばし 北海道瀬棚郡今金町

【髪】
地名よみ所在地地名よみ所在地
御髪山おぐしやま北海道松前郡松前町白髪山しらひげやま仙台市青葉区
髪長かみなが宮城県栗原白髪峠しらがみとうげ三重県松阪市
姫髪山ひめがみやま京都府福知山市白髪岳しらがたけ兵庫県篠山市
白髪山しらがやま島根県松江市黒髪山くろかみやま 岡山県新見市
白髪しらが岡山県真庭市黒髪島くろかみしま山口県周南市
髪無谷かみなしたに徳島県那賀町立髪たちがみ香川県三豊市
白髪谷しらがだに高知県本山町白髪しらひげ高知県仁淀川町
白髪しらひげ高知県日高村下黒髪しもくろかみ佐賀県武雄市
白髪しらが長崎県長崎市黒髪町くろかみ長崎県佐世保市
黒髪黒髪熊本県熊本市白髪野しらがの熊本県あさぎり町

【瞳】
地名よみ所在地
瞳ヶ丘団地ひとみがおか静岡県浜松市


【眉】
地名よみ所在地地名よみ所在地
蛾眉野町がびのちょう北海道函館市高眉山たかびやま岩手県奥州市
眉丈山びじょうざん石川県志賀町眉山びざん岐阜県岐阜市
眉山まゆやま香川県三豊市眉山びざん徳島県徳島市
眉山びざん佐賀県武雄市眉島まゆじま熊本県天草市

【歯】
地名よみ所在地地名よみ所在地
歯舞はぼまい北海道根室市姉歯橋あねはばし岩手県陸前高田市
姉歯あねは宮城県栗原市歯朶平しただいら福島県矢祭町
鋸歯のこぎりば静岡県静岡市向歯無山むかばなしやま島根県邑南町
歯ノ辻はのつじ徳島県神山町歯長峠はながとうげ愛媛県宇和島市
歯朶ノ浦しだのうら高知県土佐清水市

【舌】
地名よみ所在地地名よみ所在地
舌辛したから北海道釧路市鳥舌内ちょうしたない青森県南部町
大舌おおした青森県三戸町舌崎したざき岩手県二戸市
牛ノ舌うしのした福島県浪江町舌山したやま富山県黒部市
舌喰池したくいいけ長野県上田市鬼舌振おにのしたぶる島根県奥出雲町
舌洗池ぜっせんいけ徳島県徳島市舌間したま愛媛県八幡浜市

【頬】
地名よみ所在地
頬白峠つらじろとうげ山口県萩市

【顎】
地名よみ所在地
顎谷びしゃごだに富山県富山市

《顔からの出入、動作》

【涙、泪】
地名よみ所在地地名よみ所在地
涙壁るいへき北海道上川郡美瑛町涙岬なみだみさき北海道厚岸郡浜中町
涙ヶ浜なみだがはま北海道厚岸郡浜中町鬼泪山きなだやま千葉県富津市
涙松址なみだまつし山口県萩市泥泪どろめき熊本県芦北町

【声】
地名よみ所在地地名よみ所在地
声問こえとい北海道稚内市鶴声かくせい北海道阿寒郡鶴居村
八声やこえ千葉県大多喜町初声町はつせまち神奈川県三浦市
二声ふたごえ岐阜県郡上市声ヶ乢こえがたわ岡山県津山市
勝負声しょうぶごえ長崎県東彼杵町

【叫】
地名よみ所在地
叫沢きょうさわ秋田県仙北市

【匂】
地名よみ所在地地名よみ所在地
酒匂さかわ神奈川県小田原市川匂かわわ神奈川県二宮町
匂坂さぎさか静岡県磐田市匂崎においざき京都府舞鶴市

【睨】
地名よみ所在地地名よみ所在地
八方睨はっぽうにらみ 長野県長野市国見八方睨くにみはっぽうにらみ奈良県上北山村

【泣】
地名よみ所在地地名よみ所在地
熊泣川くまなきがわ北海道足寄郡陸別町泣面山なきつらやま北海道函館市
泣面山なきつらやま宮城県川崎町泣坂なきざか茨城県桜川市
泣沢なきさわ新潟県魚沼市夜泣峠よなきとうげ京都市左京区

【笑】
地名よみ所在地地名よみ所在地
笑ノ口えみのくち秋田県大仙市阿仁笑内あにおかしない秋田県北秋田市
神笑かみわらい福島県いわき市本笑もとわろう福島県相馬市
歌笑かしょう群馬県東吾妻町笑子橋えびすばし静岡県焼津市
笑路わろうじ京都府亀岡市笑田わろうだ岡山県建部町
笑田わらうだ広島県庄原市百笑町どうめきちょう高知県四万十市
笑喜すぎ鹿児島県錦江町




[54234]グリグリさん、
現在のレンタルサーバ契約は、複数利用者が相乗りしている契約なので、(1)負荷の高い利用者が入ってきた、(2)レンタルサーバ契約先でコスト削減のため詰め込み制限を緩くした

 私もレンタルサーバを利用していますが、同居の他の利用者によっても随分負荷が
異なるように思います。このサイトはアクセス数はかなり大きいようですが、
キャラクターベースなので、ストリーミングやダウンロード主体のサイトが同居した
のかもしれませんし、回線容量が相対的に小さくなっているのかもしれませんね。
私のレンタルサーバーのアクセス記録を見ると、動画のアクセスが一回あると、
キャラクターベースのページの数十~数百アクセスに相当するトラフィックになります。
・・・専用サーバのレンタルはかなり高価ですから、我慢するしかないのかもしれません。
[54279] 2006年 10月 1日(日)06:08:14ezekiel さん
兵庫県踏破
[54265]k-ace さん、
先週に引き続き、兵庫県の旧自治体の未踏破つぶしツーリングをしてきました。

 先週も今週も、ツーリングには良い天候でしたね!
私も兵庫県を巡るのは好きです。夏場は何処へ行っても暑いですが、早春は
日本海側から南淡まで風景のグラデーションを楽しむことが出来ますし、食に
関してイロイロ楽しんでいます。加古川、揖保川、千種川の鮎も良いですね♪

 私の未踏破は家島と美方町。でも村岡町、一宮町、安富町、三日月町は
通過だけの記憶しかありません。五色町は、播磨灘沿いの県道の眺めが良い
ですね。淡路の西海岸からの、播磨灘を真っ赤に染める夕景を真正面に楽しむ
ことが出来てお薦めです!

 神戸の地名を調べる中で、兵庫の地名をちょっと調べたことがあります。
興味深かったのは“兵庫県団体”という地名、北海道の石狩市の厚田にある
のですが、明治期に兵庫県から30戸が入植して、開拓地の俗称として、
今でも残っています。

 余談になりますが、北海道の北広島市のように、都道府県名が他の地域の
地名になっているのを探したことがあります。東京は多いかなあ~と思った
のですが、西東京市は都内ですし、 長野市に“東京(ひがしきょう)”という
地名があったのですが、東京都に由来するとは思えないのでゼロのようです。
たくさんあるかと思っていた京都ですが、山口市に“小京都”、徳島県つるぎ町に
“京都”、そして福岡に京都郡。全国京都会議 があるのですが、“京”の字が
入る地名は多いですが、京都丸ごとは少ないようです。
[54258] 2006年 9月 30日(土)11:25:30ezekiel さん
神戸を巡って 続・続・続・補足の続き & “ごうど”
[54242]YSK さん、
太田市には強戸と書いて「ごうど」と読ませる地名があります

 この強戸(ごうど)は、どうも額戸(ごうど)が転じたものの
ようです。清和源氏の流れの新田義重の子(庶子)である経義が、
新田荘の額戸郷を拝領(相続?)した時に額戸氏を名乗ったという
説があります。

 逆に額戸経義が、新田荘の中の、現太田市強戸町の地域を拝領
して額戸郷という呼び方をされたという説も見られるのですが、
いずれにしても強戸村の起源は額戸郷で、それが転じて強戸と
なったように思います。

*

 ごうどつながりで・・・ (前回はざっと1行だけですませたので)

神門(ごうど)に関しての[54223]の書き込みの補足です。
西日本の神門という地名は、どうも神社の神門が由来ではないかなあ~と思っています。

 古代の出雲の豪族に神門氏(神門臣・かんどのおみ)があって、
この神門氏の名前の由来が、出雲大社の神門の建立であったようです。
古代の出雲では神門氏は大きな勢力を持っていたようです。結構開拓に
熱心だったという説もあって、神門氏が開拓した地に神門の名前が
ついた可能性があるのですが、(おそらく、その地の神社の神門の
建立に関わったことと想像できます。)でも佐倉市や君津市の神門に
関しては音が異なりますし、神門氏との関係は、よくわからないです。

*

 地名の由来を辿ると、必ずしもルーツがひとつとは限らない場合も
あります。実は、神戸市のルーツも、“生田神社の神戸”が主流
なんですが、異説もあります。“長田神社の神戸”が神戸の地名の由来
だと長田神社は主張しています。

 *

[54253]ニジェガロージェッツ さん、
1874(明治7)年開業の初代神戸駅は、現在の神戸駅からハーバーランド(旧・湊川貨物駅)にかけての広大な領域を構内としていましたが、この場所は意外にも兵庫の領域です。

「神戸」と「兵庫」の力関係について、明治7年の時点の神戸駅の開業と結びつけるのは、ちょっと筋違いかもしれませんが、時代背景としては面白いと思っています。

 詳細な言及をありがとうございます。また、[5887]が私の検索から漏れて
しまって、失礼いたしました。

 江戸期の幕末前夜までは“一集落の地名”でしかなかったが「神戸」という
地名が、明治の区名に選ばれ、市名になり、日本の重要な港名になり、国鉄の
停車場の名前に選ばれた理由。現在は国内外に通用する都市名になり、結構
ブランド力のある名前のようですが、「何故、神戸が・?」なのかは、よく
わからないです。当時は県名の「兵庫」の方が通りが良かったと想像出来ま
すし、隣接する「生田」であっても良かったわけです。

 ニジェガロージェッツ さんの[54253]の書き込みの主旨の大きなテーマの
ひとつが「兵庫ではなく、何故、神戸が・?」ではなかったのかなあ~と
勝手に想像してしまいました。他の地域の神戸が、三重県では神戸氏を名乗る
豪族が現れて市町村制に複数の神戸が残っています。それに対して北関東の
神戸は、ほとんどが市町村制に残ることが出来ず旧村や、旧村の中の一集落の
名前として、昔ながらの地域の地名として留まっています。この違いは地域性
なのか、偶然なのか・・・、いろいろ考えると面白いですね。

* 

 当時の兵庫は、かなりの天井川であった旧・湊川以西となり、港町、宿場町
として賑やか“町”だったのに対して、湊川以東の走水村、二茶屋村、神戸村、
生田村は、西国街道沿いの、農業と漁業の寒村のような感じだったと思います。

 私自身よくわからないのは、神戸村と生田村との関係です。神戸村は、
西隣の走水村や二茶屋村とまとめて3村という括りで捉えられたり、山手の
北野村・中宮村・花熊村を併せて6ケ村と括られたりしていますが、どうも
東隣の生田村とは、疎遠だったのか、或いは対立関係だったのか、一線を画して
いたようなニュアンスを感じます。もちろん6ケ村が福原庄ということで、
結びつきが強かったことは大きいでしょうね。

 江戸期までは、どちらかというと「生田」の地名の方が通りが良かったのでは
ないかなあ~と思います。神社の名前は生田神社、その附近は生田の森で、
山手からの流れは生田川、神戸と生田では、生田の方が地名としては優勢の
ような気がします。


 神戸と兵庫の関係と共に、生田と神戸の関係も気になります。

*

 神戸駅の件ですが、確かに「何故、神戸が?」を辿る時には避けて通れない
と思います。神戸駅が明治7年で、兵庫港が神戸港に改称したのが明治25年。
一方、走水村と二茶屋村、神戸村が合併して神戸町になったのが明治元年
とされ、兵庫、神戸、坂本が神戸区となってのが明治12年です。

 ニジェガロージェッツ さんが着目されておられるように、幕末から
約10年間の間に、“兵庫から神戸”と大勢が流れたように思います。

 実はこの時期に湊川神社(楠公さん)が創建されています。神戸の大きな神社は
長田神社、湊川神社、生田神社になりますが、長田神社と生田神社は神戸を持つ
古代からの神社に対して、湊川神社は明治5年に明治政府によって創建された
神社です。河川跡に造られた街

 この地図は明治18年のモノですが、神戸駅の位置は、古くからの兵庫港と
新しい海外向けの新兵庫港との間で、湊川の左岸河口で、楠公さんの真正面に
なっています。

 このサイトのアーカイブズにまとまっていますが、[1774] Issie さん、
[1775]Issie さん、[1776] f さん、[1777] Issie さん、のやりとりにある
ように、兵庫県の県庁の所在地は兵庫から、楠公さん近辺に移り、明治6年に
現在地へ移転したようです。私は県庁の場所に関する資料を持っていません
ので、このやりとりの情報によると、明治6年以前の数年間ぐらいは楠公さん
のご近所に県庁があったことになります。

*

 私見ですが、兵庫の古くからの町と、新しい兵庫港と居留地のある神戸との
間の場所であり、新しい神社・楠公さんの目の前のロケーションである湊川
左岸の河口附近に兵庫県の玄関の町を作ろうとしたのかもしれません。
そして、その地が兵庫ではなくて神戸だったことが、駅名に反映したように
思います。あるいは明治に入って2~3年で、港と居留地の地名「神戸」が
(国際的にも)有名になったのかもしれません。

 楠公さんは、当初は尾張藩は京都に創建することを薦め、また滋賀や大阪の
計画もあったようですが、楠公の墓の場所であり、それが永く荒れた状態
だったのを徳川光圀が墓碑を創建したこともあって、今の地になりましたが、
もし別の場所に楠公さんが創建されていたら、神戸の駅の場所や駅名は「兵庫」
だったかもしれませんし、兵庫区→兵庫市という名前に落ち着いていたかも
しれません。また、兵庫の古くからの港をそのまま外国向けに使っていたら、
当然のように兵庫市になっていたことと思います。

 生田神社の44戸の神戸が、西国街道沿いの村名として、その地域を
指し示す地名に留まらずに、広域な政令指定都市の名前になったルーツ、
それは唯一の明確な理由があったのかもしれませんし、幾つかの偶然(?)
が重なった故かもしれません。

 何故、生田ではなくて神戸? 何故、兵庫ではなくて神戸?

 ・・・ いろいろ調べてみたいと思います。



[54229] たもっち さん、
ezekielさん。この際ですから、メンバー登録と「神戸コレクション(仮称)」の編集をなさってみてはいかがでしょうか。

 [53879]のグリグリさんへのコメントでも触れていますが、[53720] &[53619]
ペンディングのままになっています。このような状態ではメンバー登録は
考えられませんので、「神戸コレクション(仮称)」の編集は、どうぞ適任の方に
お声掛けして下さい。
[54230] 2006年 9月 28日(木)13:38:07ezekiel さん
黄金色 & 神戸を巡って ~ 続・続・補足の続き
[54227] YSK さん、
この間の日曜日に栃木県北部で撮影してきた黄金色の水田のようすです。もう秋本番となってまいりましたね。

 秋の田んぼの黄金色は良いですね♪ そして稲刈り後の田んぼの土手に、燃えるような
真っ赤な曼珠沙華も、この時期独特の光景。空には秋の雲・・・

 9月に撮り溜めた秋の光景を、私もちょうどまとめました。ハーベスト・タイム
播磨平野は麦畑も広がっており、毎年2度、黄金色の豊饒を楽しめます!



[54223]の私の書き込みの訂正・追加です。

田村市船引町の字今泉の中に小字として「神戸前」という地名がありました。

読みを忘れていました。“かみとまえ”のようです。

 神戸の北限が気になって、午前中にちょっと調べていたのですが、
もうひとつ見つかりました。 

○福島県石川郡玉川村

 旧村に吉(よし)村があって、その集落として神戸(かみど)という地名が
存在していました。吉村は明治22年の合併で消滅してしまうのですが、その後は
大字の吉として残り、小字として神戸も残り続けていたようです。

 ここからは未確認ですが、字神戸はかなり小さな集落で、最近は、どうも人が
住んでいなかったようです。現在は大字の吉は確認できるのですが、小字の神戸は
確認できず、消滅(?)してしまったのかもしれません。

 場所は福島空港の南、あぶくま高原道路の福島空港ICが出来て、その附帯施設
の位置が字神戸に相当するようで、過疎ではなくて移転が原因なのかもしれません。
「インターチェンジで消滅した字」になるのでしょうか?

 鹿島神社のちょうど前に広がるロケーションで、地名の由来が、鹿島神社の
神戸であった可能性があるので、要調査です。



・小神戸 おがみど  茨城県高萩市
・神戸前 かみとまえ 福島県田村市
・神戸  かみど   福島県玉川村

 ごうど(ごうと)で関東を大きく捉えていたのですが、かみと系の読みが
茨城から福島に3つあるのは、偶然ではないような気もします。
[54223] 2006年 9月 27日(水)21:58:12ezekiel さん
神戸を巡って ~ 続・補足の続き   
[54215]みかちゅう さん、
佐倉市に神門(ごうど)があります。ウォッちずで検索したところ佐倉市・君津市に「ごうど」、

 音(ごうど)が同じである神戸と神門に関しては、ちょっと調べたことがありますが、
神戸(ごうど)が転じで神門(ごうど)になった例もあります。

 地名としては現存していないのですが、現在の秩父市下宮地町辺りは、以前は
神戸であったようです。この辺り一帯には神社が多いのですが、それらの神社とは直接
関係はないようです。鎌倉期に秩父神社と合祀されるまでは、下宮地町辺りに妙見菩薩を
祀る神社があったようで、その神社に神戸があり、地名も神戸(ごうど)だったようです。
いつの頃かはわからないのですが、おそらく妙見菩薩が秩父神社と合祀され、いつしか
神戸(ごうど)が転じで神門(ごうど)となったようです。その神門の地名も今は残って
いないのですが、白道山神門寺として、寺の名前に名残をとどめています。

 神社の鳥居の由来については諸説があり、古代の神社には鳥居があったのかどうかは
よくわかりませんが(鳥居は古くからあったようですが、神社との結びつきは、後になって
からという説もあります。)神門に関しては、結構古くからあったようです。西日本の
神門という地名は、どうも神社の神門が由来ではないかなあ~と思っています。

 みかちゅう さんが挙げられた佐倉と君津の神門という地名の由来が、上記の秩父の
例のように、同じ音の神戸(ごうど)が転じたのかもしれませんが、私にはわかりません。

 *

ごうど(神戸、神門)についてネットで検索していましたら、福島県にも神戸の地名が
残っているのを見つけました。田村市船引町の字今泉の中に小字として「神戸前」という
地名がありました。ちょっと文献を探してみたいと思いますが、神戸前稲荷神社があり、
その神社の神戸だったのが由来の可能性もあります。

 神戸の北限が北関東で、新潟・五泉の神戸は特異例だと思っていたのですが、福島にも
神戸の地名があり、興味深い発見でした。

 *

[54221] たもっち さん、

 ネットで、いろいろ調べることが出来るのは、ほんとうに便利ですね。テキスト
データのみならず、イメージとの対応に関しても検索が可能になってきて、その
恩恵に浸っています。

 神戸に関わる地名一覧、活用させていただきたいと思います。次に調べるのが
鳥取県日南町の神戸なんですが、これも一覧に入ってクリックすると地図が出て来て
ちょっと感動しました!鳥取と言っても日南町は島根に入り込んだ部分で、岡山と
接する谷田峠近くの大倉山の南麓一帯が神戸だったようです。「神戸上」という
地名が残っている辺りが最東部だったのかもしれません。井上靖記念館が近くに
あります。

小神戸 おがみど 茨城県高萩市

 ちょっと前から神戸にまつわる地名を調べているのですが、私の場合は、神戸市
との関わりで“神社の神戸”が由来と思われるものを集めていまして、その点から
高萩の「小神戸」に関しては、地名の起源が違うように思っていました。ここには
山城の城館群があったようで、その中の内ノ草館があった場所が小神戸になります。
県道を挟んで南西に小川崎(こがさき)という地名がありますが、ここも小川崎館
という城館跡です。2キロほど南に大塚神社があって、数百年続いている「ささら」
という奉納舞も続いているようで、大塚神社の“離れた神戸”ということで小神戸
という地名になったとも考えられるのですが・・・。たもっち さんの一覧を見ていると、
要調査かもしれないと考え直してしまいました。


p.s. 前回の私の書き込み[54212] で、
群馬と茨城、愛知静岡山梨の神戸も時間を見つけて調査していきたいと思っています。

 愛知静岡山梨 → 愛知と静岡、山梨、長野 : 長野が抜けて、句読点も抜けて・・・、失礼しました。
[54212] 2006年 9月 27日(水)11:55:15ezekiel さん
神戸を巡って ~ 補足の続き  
[54185]桜トンネル さん、
「神戸」というのはとても不思議ですねぇ。もっと詳しく調べていくと面白いことが見つかるかも!

[54187]小松原ラガー さん、
「神戸」の由来、ならびに三重県の4つの「神戸」の話題が出ていますが、どなたか埼玉県東松山市神戸の読みの由来をご存知の方はおられませんか?これ、「コウベ」でも「カンベ」でもなく「ゴウド」と読むようなのですが・・・

[54190] 雪の字 さん
過去ログを検索してみましたら、[15296]で yamada さんが「神戸」の異訓について書いておられるのを見つけました。

[54201]小松原ラガー さん、
「神主」がキーワードになる模様です。

[54202] 揖斐の山 さん、
 因みにその「神戸」と書いて「ごうど」と読ませる町、私の家の住所です。

[54203] YSK さん、
みどり市にも「神戸」と書いて「ごうど」と読む地区があります(東町神戸)。

[54209] inakanomozart さん、
「静岡鉄道駿遠線(すんえんせん:70年全線廃止)」には、「遠州神戸(えんしゅうかんど)」という駅がありました。

[54211]じゃごたろ さん、
諏訪地方では、上社の周辺に「神戸(ごうど)」という地区があり、また富士見にも同じく「神戸(ごうど)」があります。上社周辺は諏訪神社の領域であり、富士見の方も諏訪神社を分社して奉った地域周辺の地名ということで、 どちらも「荘園」というよりは、神(もしくはその現人神)の居る場所そのもの、といった由来と考えたほうが自然だと思います。


 雪の字 さんがご紹介されておられるように、既に[15296]でyamada さんが「神戸」の
異訓について書いておられます。これ以外にも神戸の地名は散在するのですが、
山梨、静岡以東は概ね「ごうど」(ごうと)です。静岡、愛知、三重近辺が「かんべ」、
「かんど」が大勢です。

 東京・多摩では「かのと」、平塚では「じんど」、島根に「かど」、津山では「じんご」
の読みも見受けられます。

 「こうべ」の読みもあるのですが、例えば東京の神津島に神戸山が「こうべやま」
と読みます。どうも神戸市が由来の新しい地名ではないかなあ~と考えています。



 埼玉に結構住んでいたので、"神戸"の地名に関しても埼玉は、最初に手をつけ
ました。埼玉の神戸は、三重とは対照的に市町村名になることはなく、旧村名で
すべて途絶えてしまっています。

○東松山市

比企郡神戸(ごうど)村だったのが、明治22年に神戸村を含む6村が唐子村となり、
昭和29年に東松山市が誕生して、神戸の地名は残っています。神戸神社には、
「神戸の獅子舞」が残っており、結構文書としても残っているようですが、まだ
当たっていません。


○羽生市

北埼玉郡神戸(ごうど)村だったのが、明治22年に神戸村を含4村が手子林村
となって、昭和29年に羽生市が誕生して、神戸の地名は残っています。
鴨田神社に関しては、ちょっと関係する文書を探し当てていません。


○比企郡小川町

明治22年の市町村制の直前には、既に村名ではなくて、比企郡木部村の一集落
としての神戸(ごうど)でした。明治22年に竹沢村となり、昭和25年に小川町。
現在は小川町木部の小字として地名が残っています。三光神社に関しては、関係
する文書を探し当てていません。

○川口市

北足立郡神戸(ごうど)村だったのが、明治22年に神戸村を含む8村2新田
2宿が神根村となって、昭和15年に川口市に編入。大字として残っています。
"朝日神社の神戸"が由来の地名ではないかと思うのですが、よくわからないです。

 ちなみに神根村というのは合成地名です。石神村+安行領根岸村と言われて
神戸とは無関係のようです。



小松原ラガー さんがご紹介されておられる神主説。過去ログを見落としていま
して、早速読んだのですが、私にとって初めて目にする説です。

 ただ、古代における神社を考える時に、今の感覚で「神社」や「神主」を捉える
と本質が見えてこないように思います。古代の神社を考える時に、神主、祝に、
神戸と国司を加えた関係の中で捉える必要があると思います。古代の神社では
すべての神社に神主が居たわけではなく、大部分の神社は「祝」のみであった
とする説もあり、神主は"神社の神職"というよりも"神戸の主"というような
ニュアンスが強かったのかなあ~と思います。

 実は、五畿内には、神戸の地名が皆無なんです。兵庫県の神戸村は摂津の国
ですが、光孝天皇の怒りにふれて在原行平が配流されたのが神戸村の西・須磨
でして、古代の神戸村近辺は辺境の地であったのかもしれません。

 神戸の地名のルーツを辿る時に、古代の神社における神主と神戸との関係は
興味深いなあ~とも思います。神戸というのが(今風に表現すれば)願い出て
封戸から鞍替えすることが容易だったのか、それとも朝廷から定められたもの
であったのか、[54211]じゃごたろ さんのコメントにあるように、神社や神戸
に関して、古代の感覚や視線、概念でで捉え直すと、浮き彫りにされてくる
のかもしれません。

 ちなみに兵庫県の神戸村に関してですが、生田神社は9世紀には44戸の
神戸があったそうで千二、三百人ではなかったかと推測されるそうです。
宝暦10年(1760年)には神戸村の人口は1985人とあります。

p.s. 群馬と茨城、愛知静岡山梨の神戸も時間を見つけて調査していきたいと
思っています。
[54186] 2006年 9月 25日(月)22:05:45ezekiel さん
神戸を巡って ~ 補足
[54185] 桜トンネル さん、

 うっかり見落としていましたが、神戸の地名が市名となった経緯は
[18378]ニジェガロージェッツ さんが既に書き込んでおられました。

 三重の4つの"神戸”ですが、現在の町の中心附近の賑やかな場所で
あることも共通します。これが町村名に採用された大きな要因なのかも
しれません。(戦国時代まで続いた伊勢の豪族・神戸氏の影響もあった
かもしれません。)

 一番大きな神戸は、出雲大社の神戸だったようですが、今は川の名前
以外には残っていないようです。


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