江戸城が平和裡に開け渡され、新政府の勢力が日本の主要部に及ぶことが確定した 慶応4年初夏に発布され政体書。
これにより、中央政府には 太政官七官が設けられ、地方は「府県と藩」の三官に分けて統治されることになりました。
徳川家から召し上げた政府直轄地
[75495]のうち、幕府奉行所などがあった要地に設けられた「府」は、一時的に 10府を数えましたが、明治2年7月には京都・東京・大阪の三府に限定され、それ以外はすべて「県」になりました
[75459]。
「県」の第1号は、慶応4年閏4月25日 大津県・笠松県など5県であり、「府」の第1号とほぼ同時登場でした
[75497]。
日付順に列挙してゆくのも 能がないやり方ですが、「版籍奉還前の府県」が設けられのは、やはり主要な政府直轄地であると考え、少し続けます。
慶応4年閏4月中に第1号の2府5県に続いて設けられたのは丹後国
久美浜県 でした。翌明治2年8月10日 生野県分離 とあるように、一時は 旧生野代官支配地を統治する(但馬)府中裁判所
[75497] を統合し、丹後・丹波・但馬・播磨・美作の旧天領・旗本領を管轄していたようです。
5月の大阪府・長崎府・江戸府は既出
[75457]。
江戸府ができた直後の5月15日に、彰義隊が決起しましたが、長州の大村益次郎が指揮する政府軍は、本郷台地からの上野砲撃により、10時間で「抵抗勢力」を討伐しました。西郷隆盛は、この戦争の激戦地黒門口で、薩摩軍を指揮しました。上野公園の有名な銅像からは、本来の職業軍人として、この上野の地で活躍した姿を想像することができませんが…
この後、5月中に 倉敷県・奈良県・なぜか兵庫府でなかった兵庫県
[75457]・飛騨県 と「県」の設置が続きます。
北越戦争の混乱中
[75459]に(あえて?)設置された越後府の日付が 資料により異なることは、
[75497]で触れました。
6月には 飛騨県が早くも高山県に改称されました。富岡県も 天草県となっている資料があり、改称された可能性があります。
三河裁判所(
[75497]では書き落し 4/29設置)や横浜裁判所>神奈川裁判所も、6月に三河県・神奈川府に改称。
上野国の岩鼻県、和泉国の堺県も6月設置。
伊勢国四日市の
大津県所管 は 既に
[75497]で触れましたが、讃岐国塩飽諸島の 倉敷県所管など、当時の管轄は、現代の府県を越えたものがあります。
また、現在の常識からすると、○○県の存在を前提に「○○県知事」があるのですが、当時は「知県事」という官職が任命されても、その管轄する「○○県」という名は、必ずしも設けられたわけでなかったようです。
地方沿革略譜 には、慶応4年8月に 下総知県事 に任命された佐々木貞之丞が(明治元年) 12月に罷める時には まだ県名が設けられておらず、後に【明治2年正月13日】葛飾県と称した とあります。つまり、「下総県」は存在しなかったようです。
こんなことを書いたのは、慶応4年には 「武蔵知県事」が 3人も同時に存在したからです。
江戸には 江戸府(7月17日 東京府
[75459])が設けられましたが、その近郊の武蔵国にある 天領・御家人知行地も 新政府に召し上げられました。新政府は、ここを統治するために、3人の旧幕府代官を 武蔵知県事 に任命しました。
それぞれが 10万石余を担当した 3人の知県事の役所(元の代官所)は、翌明治2年になると それぞれ大宮県・品川県・小菅県と呼ばれるようになりますが、慶応4年6~7月の段階では、下総と同様に 知県事あれども県名なし の状態でした。
類例は、常陸知県事(M2若森県)、上総安房知県事(M2宮谷県)があります。真岡知県事の役所は 明治2年に移転改称して 日光県になりました。
あと、江戸近郊の天領というと、伊豆韮山の 江川太郎左衛門代官所
[59110]支配地も 政府直轄地になりました。法令全書では、江川英武(幕末の海防に尽力した江川英龍の五男)が正式に知事になった
明治2年 に記録されていますが、地方沿革略譜では 慶応4年6月
韮山県設置 となっています。
北越戦争も収束しつつある越後では、柏崎県が越後府から7月に分離。
8月には 信濃に 伊奈県設置。この県は、北信濃の中野までを管轄するだけでなく、明治2年6月には三河県を併合し、南北に驚くほど離れた領域を管轄しました。
記念すべき「県の第1号」5県のうち、富高県は日田県に、富岡県>天草県は長崎府にそれぞれ8月に編入されて消滅。
9月初めには、佐渡県設置の後、甲斐国で府中・市川・石和の3県設置。改元後の10月には統合して甲斐府。
9月8日に改元の詔書が出て、一世一元制になりました。
法令全書通番726。
“慶応4年を改め明治元年と為す”を文字通りに適用すれば 年初に遡る のですが、改元前の日付は あえて慶応4年で記しています
[75457]。
上からは 明治だ などというけれど、「おさまるめい」と下からは読む
明治元年になってからの、越後府>新潟府、神奈川府>神奈川県、甲斐府、いずれも既出。
明治2年の葛飾県・小菅県・新潟府から分離の越後府2・若森県・品川県・大宮県・宮谷県・日光県・新潟府>新潟県なども既出。
新たな県では、隠岐県が置かれた後、移転改称で大森県へ。更に翌年浜田県へ。
大阪府から分離の摂津県は、豊崎県と改称後兵庫県に編入。同じく大阪府から分離の河内県は、堺県に編入。
さて、ここで これまでの府県が設置されてきた 徳川家の旧領 とは異なる性格の地が登場します。
明治2年3月28日、陸前国に設置された「涌谷県」と「栗原県」です。
涌谷(わくや)は伊達騒動に登場する伊達安芸の本拠であった地であり、現在も宮城県遠田郡涌谷町があります。
戊辰戦争で敗れた仙台藩は大幅に領地を削減され、この地は土浦藩取締地の政府直轄地を経て、涌谷県が設置されました。
涌谷県や栗原県の存在は、
宮城県の行政区画の変遷 によって確認することができるのですが、これまで このシリーズで引用してきた 法令全書と地方沿革略譜 のいずれにも、なぜか掲載されていません。
明治2年5月4日には若松県が置かれました。これも同じ性格の旧会津藩領です。法令全書は不掲載ですが、
地方沿革略譜 には掲載。
明治2年には、地方統治に関して、これらよりも更に重要な動きがありました。
「大政」は奉還したものの、中央政府から任された状態になっていた諸侯支配地の「版籍奉還」がそれです。