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「府県」の誕生から廃藩置県まで

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記事数=14件/登録日:2010年9月9日

江戸城明け渡しという形で、流血を見ずに 中央政権の交代が実現した 翌月、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に、新政府の統治機構・政体書が発表されました。

現在の「都道府県」の前身と言える 「府県」 が最初に設けられたのは、この政体書であり、具体的には 閏4月24日に姿を現した 箱館府・京都府が第1号でした。ほぼ同時に いくつかの旧幕府領に 「県」も生まれ、次々と 府県の数は増えました。

その中には、現在の府県と 同じ名が使われているものも ありますが、その実体は 大きく異なることを 最初に認識しておきましょう。
「自治体でない」ことは 勿論なのですが、形の上でも、諸侯(大名)の支配地は 無関係であり、従って 府県は 日本の一部しか カバーしません。その規模も 小さい だけでなく、現在の府県のような 「まとまった地域」ではない という相違もあります。

さて、薩長土肥のリードによる 「版籍奉還」が 明治2年6月に認められ、諸侯は 新政府から任命された「知藩事」に変りました。
200数10の「藩」は、旧天領を主とする 数10の「府県」と共に、同じ頃に 二官六省へと組織変えした 中央政府 の統制下に 入ることになります。政体書の順番を踏襲したために 「府藩県三治制」と呼ばれます。

藩に対しては 「藩制」などによる統制が加えられたものの、基本的には、地方は殿様の支配が続く分立体制。
財政問題と余剰人員化した士族とを抱えて 苦しい諸藩。盛岡藩のように、生存レースから脱落する藩も出てきます。
勿論、軍事・教育・司法・財政を 「全国一致之政体」にして、近代国家に脱皮したい 政府にとっても、中央政府の強化は大問題。

これを解決すべく 行なわれた荒療治が、明治4年7月14日に断行された 廃藩置県 でした。

この特集では、府県の誕生から廃藩置県までの記事 を集めました。

★推奨します★(元祖いいね)

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[75457]2010年7月8日
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[75459]2010年7月8日
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[75494]2010年7月17日
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[75495]2010年7月17日
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[75497]2010年7月18日
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[75516]2010年7月22日
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[75521]2010年7月23日
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[75924]2010年8月8日
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[75939]2010年8月10日
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[75949]2010年8月11日
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[76076]2010年8月22日
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[76077]2010年8月22日
hmt
[76083]2010年8月23日
hmt
[76100]2010年8月26日
hmt

[75457] 2010年 7月 8日(木)18:20:01hmt さん
1868年頃の「府」 (1)「政体書」に基き、三大都市と四港とが「府」になる
hmtマガジン では、「都道府県」をそのトップテーマに挙げました。
その「都道府県」の3番手である「府」について記します。
個性的な「東京都」・「北海道」と、圧倒的多数を誇る「43県」とに挟まれ、京都府と大阪府の2つだけで、いささか肩身の狭そうな存在です。
でも、「都道府県」でなく、「府藩県」という形で「府」が出現した慶応四年には、たくさんの仲間がいました。

この時代の「府」については、落書き帳の初期に、[3779] 蘭丸 さん や[7739] Issie さん の記事があるものの、あまり話題になっていません。
慶応四年(明治元年)の出来事を日付順に記録した 法令全書第3冊 【以下、数字はこの資料のコマ番号】を繙きながら、1868年頃の「府」の事情に考えを巡らせてみました。

最初に「慶応四年」という表記についてのお断りです。
再発を予測されながら、幸いにもまだ発生していない東海地震ですが、これが前回起った 1854/12/13は、当時の暦では嘉永七年十一月四日でした。
ところが、歴史上では「安政元年」と記録されており、「安政東海地震」と呼ばれています。災害の翌月の師走に、安らかな政治を願って改めた年号・安政が、年初に遡って使われているのです。
人々が望んだにもかかわらず、改元により 天災や世の乱れが終息する ことはなかったのでしたが。参照[57891]

このような明治以前の改元において、改元の効果が 年初に遡る のが正式とされる根拠は「改元の詔書」にあります。
明治改元の詔書【195コマ】には、「慶応四年を改めて明治元年と為す」とあります。
しかし、今回の記事では 便宜的に 当時使っていた日付を そのまま使い、九月八日以後を明治元年、それまでを慶応四年と記します。
この記事ではまた、当時行われていた天保暦法による日付(いわゆる旧暦)を、九月八日のように漢数字で記してみました。

なお、大正改元の際には「明治45年7月30日以後を改めて大正元年と爲す」と区切りの日付が示されました。
昭和改元も同様です。
元号法が制定された後の平成改元では、「元号を改める政令」が昭和64年1月7日に公布され、その「翌日」から施行されました。

それはさておき
「○○国府」など、律令制の時代にも使われた地方官庁の「府」ですが、近代日本の地方行政を担当する官庁として現れたのは、慶応四年閏四月二十一日(1868年6月11日)の政体書です。法令全書の第3冊にも収録されていますが、Issieさんのページ の方が読みやすいでしょう。
一 天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス【120コマ】
一 官職 (議政官以下の7官に続き)地方官を分けて三官と為す ○府…○藩…○県…【122-123】

藩が新政府の直接支配下になり、実質的に「府藩県三治制」になるのは、諸侯が翌年に版籍奉還してからになりますが、建前としては、この時に府藩県が揃っています。なお、「藩」という言葉自体は、慶応三年十月大政奉還直後に早々上京あるべきことを求めた「諸藩へ」の沙汰でも使われています。【6コマ=これが法令全書の最初の文書です】

具体的な「府」の第1号が示されているのは、政体書発布の3日後、閏四月二十四日【125】で、清水谷侍従をして
箱館府知事被 仰付候事(箱館裁判所を箱館府と改称するの令他に見る所なし姑く之を存す)
とあります。組織の改称記録がなく、知事の任命をもって記録としています。以後の他府県についても同様です。

翌二十五日には、同じ要領で長谷宰相を京都府知事とする発令。以下、五月二日 大阪府知事、五月四日 長崎府知事、五月十二日 江戸府判事【131】、同月二十九日 越後府、六月十七日 神奈川府と続き、これで三大都市と開港場を含めて7府が出揃いました。

このように記すと、当時の日本の拠点であった三府五港を「府」とする方針があったようですが、それを否定する材料もあります。
五港の一つとしてこの 1868年太陽暦1月1日に開港していた 兵庫[54322]が 五月二十三日に兵庫県になっているのが、それです。
9年前の最初の開港地が「神奈川府」になったのは 兵庫県よりも更に後のことになるし、新潟開港に先行した「越後府」も、奇妙な存在です。

なお、この 第1次兵庫県の県域 を見ると、当時の「府県」が、現在の府県とは全く異質の存在であったことを、改めて認識することができます。
[75459] 2010年 7月 8日(木)18:41:05【1】hmt さん
1868年頃の「府」 (2)慶応四年に9府、翌明治二年二月には一時的に10府になったが、七月には3府だけ
前回[75457]法令全書第3冊【149コマ】 慶応四年六月十七日 神奈川府までを記しました。
これに続いて七月に誕生した度会(わたらい)府は、伊勢神宮の神領と政府直轄地とから成り、これまでの7府とは性格の異なる 内向きの「府」 です。

そして、七月十七日には“自今江戸を称して東京とせん”という詔書【162コマ】が出され、江戸府は「東京府」と改称されました。
「東京」を漢音で「とうけい」と読むか、呉音で「とうきょう」と読むかを定めた文書はなく、現実に両方の読み方が行われたようです。

東京都公文書館の 明治東京異聞 に掲載された築地居留地地券の写真を見ると、明治4年発行のものには「TOKEI」と記され、明治20年発行は「TOKIO」になっています。同じ資料によると、旧幕時代をしのぶ人は「トウケイ」派が多かったが、いつしか「トウキョウ」が正式の読み方に位置付けられたとあります。明治30年代の国定教科書の振り仮名「トーキョー」が、この傾向を決定的にしたと思われます。

ついでに、東京都公文書館のロビー展 東京府の開庁 に掲載されている「東京府印」の「京」には、ナベブタと小の間が「口」でなく「日」になっている「亰」が使われており、漢字表記にもブレがあります。小木新造著「東亰時代」(NHKブックス)という本もあります。

「府」についての本論から少し外れましたが、慶応四年七月の奈良県改称により 奈良府 が登場した後、九月八日の改元を経て、明治元年九月二十一日には、神奈川府 から 神奈川県 へと、初の「府→県改称」があり、「府」の数は9から8に減少。五港と府との関係はまた薄くなりました。同日に 越後府 は 新潟府 と改称(延べ11)。

十月二十八日に3県を統合した 甲斐府 ができた後、翌明治二年二月に 越後府が再置されました。
法令全書第4冊 《174コマ》 には 分割とも分立とも書いてありませんが、新潟府も存続しているので、これにより最大数の 10府を記録しました。
新潟府に改名する前の(旧)越後府と区別するために、新潟が除外された再置越後府を「越後府2」と記しておきます。
また、江戸府・神奈川府・(旧)越後府があるので、「府」の数は延べ13になりました。

しかし、僅か半月後には五港の一つを管轄する新潟府が新潟県に変ります。度会府・奈良府・甲斐府・越後府2など内向きの府が増え、一方では開港場の神奈川・新潟が県になったことは、府の性格の変化を示しているようです。

前回、新潟開港に先行した「越後府」を奇妙な存在と書きましたが、この時期の越後は北越戦争の最中であり、越後府が最初に設置された地も、新潟ではなく高田だったようです。
慶応四年五月二十九日【139コマ】という越後府の設置日は、新政府軍が 武装中立を主張する長岡藩家老・河井継之助との小千谷談判を決裂させ、五月十九日に長岡を占領した直後という非常時ですから、この「府」は 普通の行政組織ではあり得ません。
この後、七月には列藩同盟軍が長岡奪回、すぐに新政府軍が再占領、そして新潟も占領と続き、八月には戦いの帰趨が決しました。

既に記したように、「越後府」は、明治改元後の九月二十一日に「新潟府」と改称。明治元年十一月九日(1869/1/1)、延期していた新潟開港。
この頃には会津戦争も終結し、「鎮将府」が廃止されています【215】。
いきなり、聞き慣れない「府」が登場しましたが、これは江戸を東京と改めた七月に、東国(駿河甲斐以東13国)平定のために設けられた臨時の組織で、普通の「府」とは違うようなので、ノーカウントにしておきます。

翌明治二年二月八日に「新潟府」から分離した「越後府2」により、「府」の数が最大の10になったことは、既に記しました。
越後府2は 水原に設けられ、こちらが下越の行政中心地になり、同月内には柏崎県も合併して中越・上越を含む越後のほとんどを管下にしました。
既報のように、開港場の新潟府は新潟県に改められ、兵庫・神奈川に続き、3開港場が「府」でなくなりましたが、更に六月になると長崎府が長崎県になり《第4冊152コマ》、七月には箱館府も廃止《176コマ》されて、府は五港と無縁になりました。

そして、七月十七日には「府」の呼称を京都府・東京府・大坂府に限定する 太政官布告 が出されました。京都府が東京府よりも上位にあることに注目。

実は、この明治二年という年は、日本の首都が事実上京都から東京へ移った時期なのです。
前年の七月に江戸が東京になったことは既に記しました。ここで一応は東西二京という形ができましたが、事実上の都はまだ京都で、明治改元後に行われた明治天皇の東京行幸も、世間からは一時的なものと受け止められていました。

明治二年になると、再度の東京行幸が行われます。今回は天子様の「顔見せ」出張ではなく、仕事をするための単身赴任でした。
法令全書第4冊 《86コマ》には次のように記されています。
東京 ご滞輦中太政官彼表へ御移に相成候に付諸願伺等来る四月朔日より東京へ可差出…

天皇の行幸中は太政官も東京に移り、京都には留守官を置く臨時の首都移転体制。京都の人々に対しては、戻ってくるから心配するなという告諭を京都府から出させたようです。
明治二年七月十七日時点では、都は京都という建前ですから、京都府・東京府・大坂府という順序は当然なのでした。
でも、十月には皇后も東京に呼び寄せ、天子様は東京に居着いてしまいました。

[7717] ken さん
「大阪、京都を一介の県にするなんて、とても考えられない」という「特別感」が気持ちの上でも、実態としてもあったと思いますね。
という記事のように、東西二京、それに既に消えていますが大坂を都にする大久保案もあった大坂を加えた三大都市は、まさに特別な存在なのでした。

明治二年七月の内に、奈良府・度会府・甲斐府は 奈良県・度会県・甲斐県に改称。
そして複雑な経過をたどった越後府2は、新潟県と統合して水原県へと変りました(この時に佐渡県を分離、翌月中越・上越5郡を柏崎県2として再分離)。

このようにして、京都府・東京府・大阪府の三府だけが残ったのでした。
[75494] 2010年 7月 17日(土)23:06:23【1】hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (1)新政府直接支配地には「府県」を、諸侯支配地には「藩」を置く
1868年頃の「府」 に引き続き、明治新政府が「府県」を設けた頃を振り返ります。hmtマガジン のトップテーマに挙げた「都道府県」関連です。

形の上では、現在の「都道府県」のルーツとも言えるのですが、当時の「府県」は、バラバラの政府直轄地を寄せ集めた支配機構にすぎず、行政区画としての体裁さえもなしていないものでした。
もちろん「地方自治体」ではなく、たとえ同名であっても、その実体は現在の都道府県と大幅に異なるものであったことを、最初にお断りしておきます。

さて、近代日本の地方制度として「府県」が最初に現れたのは、慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)の 政体書 です。一部抜粋
一(第2条) 天下の権力総てこれを太政官に帰す…太政官の権力を分って立法行法司法の三権とす…
一(第5条) 各府各藩各県皆貢士を出し議員とす…
一(第11条) 各府各藩各県其政令を施す…唯其一方の制法を以て他方を概する勿れ…
一(第12条) 官職 太政官分為七官…(中略)…
【122コマ】地方官分為三官
○ 府 知府事一人… 判府事二人
○ 藩 諸侯
○ 県 知県事一人… 判県事【以下(13~15条)略】

# 今回は、明治5年以前の和暦の日付も使いやすいアラビア数字にします。
太陽暦でないことは年号で区別できるので、前回のように漢数字で区別する必要はないと判断しました。
年号については、明治元年9月8日改元より前の日付は、当時使われていた慶応4年のまま表記すること、前回と同じ方針です。

慶応4年のこの条文が、何故に「府」と「県」との間に「藩」を挟んだ順序にしたのか? その理由がわかりません。
当時の日本は、主として徳川将軍家の土地だった政府直轄地と、約 300の諸侯が支配する地とに分かれていました。
従って地方支配体制も、政府直轄地には「府県」を置き、諸侯を介しての間接支配になる地域には「藩」を設けたわけです。
だから、「府県・藩」と併称するのが筋だと思われるのですが、条文の順番のせいで「府藩県」と呼ばれます。

# もっとも、「府藩県三治制」という用語は、普通には版籍奉還して政府支配地になった時代の「藩」について使われており、この場合の「藩」は名前が違うだけで、殆んど「県」と同じものになっています。元の殿様も「諸侯」ではなく、政府から任命された「知藩事」になっています。

先走って言及した版籍奉還よりも前の時代、直接統治の「府県」と間接統治の「藩」とに分かれることになった いきさつ とは何か?
それを説明するために、前年 慶応3年10月14日に行われた「大政奉還」に遡ります。

日本史図録でお馴染みの 壁画「大政奉還」 は、神宮外苑絵画館で見ることができます。そこに描かれているシーンは、朝廷における上奏そのものではなく、二条城に戻った徳川慶喜による、諸侯を集めての事後報告です。

この「大政」とは何か? 日本という統一国家を統治する権原なのでしょうね。
天正18年(1590)に豊臣秀吉により統一された この国の統治権は、秀吉死後、政権内で 多少の争いがあったものの、徳川家康に引き継がれました。

ところが、17世紀初頭に整備された統治機構は 19世紀後半には制度疲労を起しており、黒船に代表される世界の動きにうまく対応できません。
幕府の政策に反対する国内勢力を抑え込む 安政の大獄や、和宮に象徴される 公武合体政策も 問題解決には至らず。

江戸幕府最後のエース・徳川慶喜[43497] は、既に文久2年(1862)から 将軍後見職 として幕政を担当していましたが、第二次長州征伐失敗後、ようやく 15代将軍に就任。
「鯨海酔侯」を自称した 酔っぱらい ながら、幕末の四賢侯とも評価されていた 前土佐藩主・山内容堂が、老中経由で この将軍に対して建白した策が 「大政奉還」でした。

坂本龍馬や 後藤象二郎の案に基くと言われますが、徳川慶喜の観るところ、「大政」を奉還する先の主権者(朝廷)には、統治能力などない。新しい統治機構を作るにしても、従来の官僚組織を抱えた 徳川家の実力 を無視することは できない筈である。そう考えて、15代将軍は 「大政奉還」に同意したのでしょう。
[75495] 2010年 7月 17日(土)23:25:53hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (2)欠席裁判で徳川家から召し上げた領地が「府県」になった
制度疲労から脱却するために徳川慶喜が打った手は「大政奉還」。

形式上は この「大政奉還」が「政権交代」の第一歩になりました。それ故にこそ 大政の受け取り手である朝廷から「諸藩へ」の御沙汰が、法令全書の通番第1号記事 になっています[75457]。日付は大政奉還の翌日、慶応3年10月15日。

しかし、慶喜が読んだように、形式的な大政奉還だけで 政局の風向きが変るものではありません。
そこで、あくまでも武力倒幕を図る勢力は、徳川勢力の一掃を狙い、“摂関幕府を廃し仮に三職を置く”という「王政復古の大号令」を発し、三職による「小御所会議」を招集しました。これが慶応3年12月9日。太陽暦では既に新しい年 1868年1月3日になっていました。

小御所会議では 議定(三職の1つ)の山内容堂ら 慶喜擁護派の主張を抑えて、参与の岩倉具視や大久保利通によるクーデターが成功し、徳川慶喜の 辞官納地 が決定されました。
結果的には無視されましたが、この小御所会議において山内容堂が投げかけた疑問は、もっともな内容です。
薩摩・土佐・尾州・芸州【いずれも議定】が その領地を保有しながら、徳川宗家に対してだけは なぜ納地を迫るのか?

裏の仕組みはとにかく、“大政奉還の功労者”徳川慶喜は、議定に選ばれていないので、小御所会議では欠席裁判。
建前上は徳川家【ここでは尾張家などは含まず、将軍を出している徳川宗家のこと】の私有地であり、幕府の財政を支えていた 全国の天領・直参知行地は、すべて召し上げられました。
これらの土地が、翌慶応4年の政体書で「府県」が置かれることになる 政府直轄地[75494] になったのでした。

この政権交代を 外国に告げる文書 は、ちょうど時期が重なった 兵庫開港 に際して 6ヶ国公使に伝えられています。
日本国天皇告各国帝王…将軍徳川慶喜請帰政権制允之内外政事親裁之乃曰従前条約用大君名称自今而後当換以 天皇称…
慶応4年戊辰正月十日 御名印 
(正月15日に兵庫に於て仏英伊孛荷米6国公使に付し5月29日箱館に於て魯国領事に付す)

国名がわかりますか? 「孛」は孛漏生(プロイセン)王国の略ですが、「普仏戦争」のように「普」を使うのが一般的です。
「荷」はオランダ王国でしょう。これも多くの場合「蘭」を使います。

その兵庫は、開港直後に幕府の兵庫奉行が江戸に引き揚げてしまったので、早くから新政府の管理するところとなり、慶応4年正月22日の 兵庫鎮台、2月2日に改称して 兵庫裁判所と、名称こそ まだ「府県」ではありませんが、新政府地方官庁の中では 最も早く設置された仲間になりました[54430]。兵庫県になったのは政体書発布の翌月です。初代兵庫県知事に記録されている 伊藤五位 とは 伊藤博文のことです。満年齢だとまだ26歳か。

神戸・大阪のように早々と 新体制が整えられた地域 もありますが、倒幕派による王政復古クーデターの結果が 全国に及ぶまでには、戊辰戦争によって 抵抗勢力を排除するプロセス がありました。
旧勢力の本拠地については、3月の勝・西郷会談を経て4月4日に 江戸城明渡し

最初に記した 慶応4年閏4月21日の「政体書」は、このようにして、まだ北越・会津など 平定すべき地方は残されているものの、日本の主要部を支配下に収めた 新政府 が発表した、新たな統治機構だったのでした。
前年師走の「王政復古の大号令」では、摂関幕府という 令外の官 は廃止されたが、さりとて 律令体制への「復古」でもない 三職という「仮」の体制でした。
今度は、太政官の七官・地方官の三官(府藩県)が正式に決められたので、(律令廃止とはどこにも書いてないようですが)実質的に律令体制から決別することになったのでしょう。
[75497] 2010年 7月 18日(日)13:46:42hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (3)慶応4年閏4月24~25日に最初の2府5県が誕生
大政奉還(慶応3年10月)→王政復古クーデター(12月)→戊辰戦争(慶応4年正月~)という経過をたどって、慶応4年4月には 江戸も新政府の手中に入り、その翌月(閏4月)には、新政府の統治機構が「政体書」という形で発表されました。

# 太陰太陽暦では、太陰を基準とした 朔(新月) = 1日【ついたち・月立ち】です。月を季節と合わせるためには、太陽の動きを黄経30度ごとに区切った 雨水・春分・穀雨・小満・夏至…を中気と称し、各中気を含む月を 正月・2月・3月…とします。従って、小満を含む月が4月、夏至を含む月が5月ですが、慶応4年4月の翌月は 中気を含まない「閏月」 でした。「閏4月」とは、4月の次の閏月という意味です。

さて、安政条約第3条では 1863年初からとなっていた兵庫開港。5年間延期した結果 1868年1月1日に開港。
ところが、開港した翌月・慶応4年正月に鳥羽伏見の戦い。兵庫奉行などの幕府関係者は、敗れた将軍慶喜の後を追って江戸に引き揚げ。
このような経過で、兵庫は 新政府の地方組織が 否応なく実働する場になりました。
外国掛兵庫事務所>兵庫鎮台>兵庫裁判所

[229] Issie さん
このときの「裁判所」は“三権分立”のシステムができあがったあとの司法機関としてのそれとはちがって,行政機能も持つものです(というより,この段階では行政と司法は分離していなかった)。
[59167] むっくん さん
府藩県三治の制(M元.閏4.21)の前に旧幕府直轄地を明治政府が治めた裁判所が抜けていると思うのですがいかがでしょうか。
ただ、○○裁判所というのはおそらく江戸時代から明治時代へ変わる際の過渡期の制度であったのでしょうから…

実例は 慶応4年正月27日 大阪鎮台を改め 大阪裁判所 を嚆矢とし、2/2 兵庫・長崎、2/19 京都、3/7 大津、3/19 横浜、4/12 箱館、4/15 笠松、4/19 新潟・但馬府中、4/2 4佐渡 の各裁判所が設置されています。
その多くは短期間で 同名の府県に改称 しました。横浜裁判所だけは、神奈川裁判所を経て神奈川府に改名しています。これは開港地が「建前上は神奈川」であったのが理由でしょう[20917]

「府県」以前の「○○裁判所」はこのくらいにして、法令全書明治元年 では、通番345の京都府知事以下、大津知県事・笠松知県事・日田知県事・富岡知県事・富高知県事と続きます。その前 通番342 として記された 箱館府知事が 閏4月24日 と最初の日付で、[75457]でもこれを具体的な「府」の第1号としました。

もっとも、Issieさんが [55181]で指摘しているように、「法令全書」に収録されている布告が“唯一絶対”というわけでは決してありません。明治元年法令全書の書物自体は 明治20年出版で、慶応4年当時の記録が残されていないものもあります。当時の日付が正確に伝えられていない可能性もあります。
越後府(第1次)の設置日が 法令全書の 5月29日説 の他に 公文録の 5月23日説 とがあることが記されていますが、地方沿革略譜 を見たら、こちらでは 6月3日 となっていました。こうなると、どれを信用してよいものやら。

「府」の第1号について言うと、法令全書の京都府知事は箱館府知事の翌日でしたが、地方沿革略譜(14コマ)は 箱館府と同日(24日)でした。
なお、地方沿革略譜は、内務省の編集で、慶応3年10月から明治14年5月までを府県別にまとめています。

次に、「県」の第1号に移ります。
既にリンクしたように、京都府知事と同じ慶応4年閏4月25日付で大津知県事・笠松知県事・日田知県事・富岡知県事・富高知県事が発令されています。
大津・笠松・日田は、産業や交通の要衝である天領と心得ていましたが、天草の富岡や日向の富高が天領であったことは知りませんでした。

第1号の「県」5つのうち、意外にも3つもあった九州を除外すると、大津県と笠松県。
なんとなくこれで検索してみたら、三重県HPの中に、明治2年に行われた大津県・笠松県から 度会県への 北勢地域の管轄地引渡史料 という文書がありました。
現在の地図で見ると、大津にしても笠松にしても 伊勢国最北部(いなべ市)とは 無関係なように思われますが、こんな場所に飛び地があったのですね。しかも引渡し先が安濃津県でなく度会県だというのも意外でした。

常識的には 三重県北部が安濃津県で、度会県と呼ばれた地域は 三重県南部。
しかし よく考えて見れば、これは明治9年第二次府県統合前の、明治4年11月第一次府県統合時代の度会県でした。
今回の記事で取り扱う時代(明治元年~2年)の「度会県」は、県庁所在地である 度会郡山田(伊勢外宮所在地)付近 は共通でも、その他に 伊勢北部の旧幕府領 を管轄するなど、区域が異なるのでした。

伊勢北部の旧幕府領と言えば、重要な港町の四日市があります。ここは一時大和郡山領になった後、19世紀には信楽代官多羅尾氏の支配する地になっていました。近江国信楽の管理下という歴史が影響して、四日市は大津県の管轄となっていたのでした。

こんな具合に、最初の「府県」が置かれた時代の政府直轄地というのは、現代の地理的感覚からはなかなか理解しにくいところがあるようです。

【付言】
地方沿革略譜の「摂津県」 には、元年正月二十日という置県日が記されているのですが、18コマ大坂府に記された“二年正月二十日割河内摂津二国属於河内摂津二県”から“二年”の誤記と判断できるので、第1号の「県」に関しては無視しておきます。
[75516] 2010年 7月 22日(木)21:50:38hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (4)版籍奉還前の府県
江戸城が平和裡に開け渡され、新政府の勢力が日本の主要部に及ぶことが確定した 慶応4年初夏に発布され政体書。
これにより、中央政府には 太政官七官が設けられ、地方は「府県と藩」の三官に分けて統治されることになりました。

徳川家から召し上げた政府直轄地[75495]のうち、幕府奉行所などがあった要地に設けられた「府」は、一時的に 10府を数えましたが、明治2年7月には京都・東京・大阪の三府に限定され、それ以外はすべて「県」になりました[75459]

「県」の第1号は、慶応4年閏4月25日 大津県・笠松県など5県であり、「府」の第1号とほぼ同時登場でした[75497]

日付順に列挙してゆくのも 能がないやり方ですが、「版籍奉還前の府県」が設けられのは、やはり主要な政府直轄地であると考え、少し続けます。

慶応4年閏4月中に第1号の2府5県に続いて設けられたのは丹後国 久美浜県 でした。翌明治2年8月10日 生野県分離 とあるように、一時は 旧生野代官支配地を統治する(但馬)府中裁判所[75497] を統合し、丹後・丹波・但馬・播磨・美作の旧天領・旗本領を管轄していたようです。

5月の大阪府・長崎府・江戸府は既出[75457]
江戸府ができた直後の5月15日に、彰義隊が決起しましたが、長州の大村益次郎が指揮する政府軍は、本郷台地からの上野砲撃により、10時間で「抵抗勢力」を討伐しました。西郷隆盛は、この戦争の激戦地黒門口で、薩摩軍を指揮しました。上野公園の有名な銅像からは、本来の職業軍人として、この上野の地で活躍した姿を想像することができませんが…

この後、5月中に 倉敷県・奈良県・なぜか兵庫府でなかった兵庫県[75457]・飛騨県 と「県」の設置が続きます。
北越戦争の混乱中[75459]に(あえて?)設置された越後府の日付が 資料により異なることは、[75497]で触れました。
6月には 飛騨県が早くも高山県に改称されました。富岡県も 天草県となっている資料があり、改称された可能性があります。
三河裁判所([75497]では書き落し 4/29設置)や横浜裁判所>神奈川裁判所も、6月に三河県・神奈川府に改称。
上野国の岩鼻県、和泉国の堺県も6月設置。

伊勢国四日市の 大津県所管 は 既に[75497]で触れましたが、讃岐国塩飽諸島の 倉敷県所管など、当時の管轄は、現代の府県を越えたものがあります。

また、現在の常識からすると、○○県の存在を前提に「○○県知事」があるのですが、当時は「知県事」という官職が任命されても、その管轄する「○○県」という名は、必ずしも設けられたわけでなかったようです。
地方沿革略譜 には、慶応4年8月に 下総知県事 に任命された佐々木貞之丞が(明治元年) 12月に罷める時には まだ県名が設けられておらず、後に【明治2年正月13日】葛飾県と称した とあります。つまり、「下総県」は存在しなかったようです。

こんなことを書いたのは、慶応4年には 「武蔵知県事」が 3人も同時に存在したからです。
江戸には 江戸府(7月17日 東京府[75459])が設けられましたが、その近郊の武蔵国にある 天領・御家人知行地も 新政府に召し上げられました。新政府は、ここを統治するために、3人の旧幕府代官を 武蔵知県事 に任命しました。
それぞれが 10万石余を担当した 3人の知県事の役所(元の代官所)は、翌明治2年になると それぞれ大宮県・品川県・小菅県と呼ばれるようになりますが、慶応4年6~7月の段階では、下総と同様に 知県事あれども県名なし の状態でした。
類例は、常陸知県事(M2若森県)、上総安房知県事(M2宮谷県)があります。真岡知県事の役所は 明治2年に移転改称して 日光県になりました。

あと、江戸近郊の天領というと、伊豆韮山の 江川太郎左衛門代官所[59110]支配地も 政府直轄地になりました。法令全書では、江川英武(幕末の海防に尽力した江川英龍の五男)が正式に知事になった 明治2年 に記録されていますが、地方沿革略譜では 慶応4年6月 韮山県設置 となっています。

北越戦争も収束しつつある越後では、柏崎県が越後府から7月に分離。
8月には 信濃に 伊奈県設置。この県は、北信濃の中野までを管轄するだけでなく、明治2年6月には三河県を併合し、南北に驚くほど離れた領域を管轄しました。
記念すべき「県の第1号」5県のうち、富高県は日田県に、富岡県>天草県は長崎府にそれぞれ8月に編入されて消滅。
9月初めには、佐渡県設置の後、甲斐国で府中・市川・石和の3県設置。改元後の10月には統合して甲斐府。

9月8日に改元の詔書が出て、一世一元制になりました。法令全書通番726
“慶応4年を改め明治元年と為す”を文字通りに適用すれば 年初に遡る のですが、改元前の日付は あえて慶応4年で記しています[75457]

上からは 明治だ などというけれど、「おさまるめい」と下からは読む

明治元年になってからの、越後府>新潟府、神奈川府>神奈川県、甲斐府、いずれも既出。
明治2年の葛飾県・小菅県・新潟府から分離の越後府2・若森県・品川県・大宮県・宮谷県・日光県・新潟府>新潟県なども既出。
新たな県では、隠岐県が置かれた後、移転改称で大森県へ。更に翌年浜田県へ。
大阪府から分離の摂津県は、豊崎県と改称後兵庫県に編入。同じく大阪府から分離の河内県は、堺県に編入。

さて、ここで これまでの府県が設置されてきた 徳川家の旧領 とは異なる性格の地が登場します。
明治2年3月28日、陸前国に設置された「涌谷県」と「栗原県」です。
涌谷(わくや)は伊達騒動に登場する伊達安芸の本拠であった地であり、現在も宮城県遠田郡涌谷町があります。
戊辰戦争で敗れた仙台藩は大幅に領地を削減され、この地は土浦藩取締地の政府直轄地を経て、涌谷県が設置されました。
涌谷県や栗原県の存在は、宮城県の行政区画の変遷 によって確認することができるのですが、これまで このシリーズで引用してきた 法令全書と地方沿革略譜 のいずれにも、なぜか掲載されていません。

明治2年5月4日には若松県が置かれました。これも同じ性格の旧会津藩領です。法令全書は不掲載ですが、地方沿革略譜 には掲載。

明治2年には、地方統治に関して、これらよりも更に重要な動きがありました。
「大政」は奉還したものの、中央政府から任された状態になっていた諸侯支配地の「版籍奉還」がそれです。
[75521] 2010年 7月 23日(金)23:26:23hmt さん
「府県」が最初に置かれた政府直轄地 (5)版籍奉還
[75516]では、慶応4年閏4月の政体書から、明治2年6月実施の版籍奉還前までに設けられた府県をほぼ年代順に列挙しました。
この1年余の期間の日本は、このシリーズ のタイトルである「政府直轄地」と、ほぼ江戸時代のままの「諸侯」の領地(藩)との二本立の統治体制でした。
この体制のままで近代化は可能か? 連邦国家像を描くにしても、300近い藩に細分化された状況のままではやはり無理であり、藩の再編成を避けることはできない。これは、誰しも考えたことでしょう。

「雄藩」の藩主たちの思惑がどのようなものであったのかはともかく、明治2年正月23日に「長薩肥土四藩上表」なるものが提出されました。

法令全書明治2年通番75 には、毛利宰相中将、島津少将、鍋島少将、山内少将4侯に宛てた沙汰書が掲載されています。
これは、4藩主の上表に対する受取書であり、再度東京に行幸した際に会議を開き、公論を集約した上で、沙汰する という内容です。

参照として示されている上表文の ポイントと思われるくだり。
抑臣等居る所は即ち天子の土 臣等牧する所は即ち天子の民なり 安んそ私に有すへけんや 今謹みて其版籍を収めて之を上る 願くは朝廷其宜に処し 其与ふ可きは之を与へ 其奪ふべきはこれを奪ひ 凡列藩の封土 更に宜しく詔命を下し これを改め定むへし

土地・人民は日本の主権者たる天子に帰するものだから、列藩が徳川家から預かっていた「版籍」(= 版図 + 戸籍)を 一旦 天子にお返しする。
朝廷は宜しく、つまり 列藩に対する 封土の与奪権 を行使して、列藩の封土を改定してほしい。

4藩主の申し出は、日本の近代化にとり必要な 封土再編成を朝廷にまかせる というものですが、彼等が期待しているものは「藩の再編成」であり、「廃藩」ではないように思われます。

もっとも、府藩県三治の制度は作られたが、藩は家法・職制等まちまちだから、藩を改めて府県と同じにしようと、より明確に「廃藩」を打ち出した提案も既にありました。
「姫路藩の版籍奉還建白」(明治元年11月、「史談速記録」収載)を挙げておきます。

明治2年正月の御沙汰書でも触れていた東京行幸は 3月に行われ[75459]、6月17日に 版籍奉還願の通り という許可の御沙汰がありました。
薩長土肥という有力4藩が願い出た 版籍奉還 は、藩の再編成を求める潮流となり、4藩に続く 同様の申し出が、列藩から続々と出されていました。法令全書通番543 の宛先は「版籍奉還願出候面々」と、4藩と追随者とを含めた 版籍奉還組の諸藩一括 となっています。
なお、通番544の宛先は「版籍奉還不願出候面々」で、こちらには“其藩も封土版籍返上被仰付候事”という一文が加えられています。

上記2件の御沙汰の後に、参照として 274藩の「藩知事表」が 147コマから 151コマまで 列挙されています。
通番542にあるように、この日に「諸侯」の称号は廃止され、新たに「華族」ということになりました。
藩知事表に続いて、一橋家以下の「地所廩米の家」4家と「廩米の家」8家とが記されています。

6月25日には「知藩事」に対する 明治2年576 行政官達 が出され、支配地総高・費用・職制職員・藩士兵卒員数等の報告を求めています。既出一覧表は「藩知事」でしたが、今回は「知藩事」と、知県事と同様な名になっています。

要するに、明治2年6月に出された決定は、正月の上表時に 多くの藩主たちが期待したであろう 「封土の再交付」ではなかったのでした。
藩主たちにとり、今回の変革は、将軍の代替わりにおける 本領安堵を少し修正した程度 では済まないものであることを 実感させる結果でした。
このような結果をもたらした経緯につき 詳しくは知りませんが、正月24日の御沙汰で“会議を経公論を被為”と予告されていたことから、公議所での議事対象になったものと思われます。
五ヶ条の御誓文 の第1条に掲げられた“広く会議を興し萬機公論に決すべし”を具体化した公議所では、政府各官や藩の代表が公議人となっていましたが、藩主たちとは違った視点で、近代への一歩を進めたものでしょう。

藩の職制については、明治元年902 で、執政・参政・公議人の他、“大凡府県簡易の制に準じ”という程度の指針が示されていましたが、版籍奉還によって藩主が政府から任命された知藩事になって以後、「藩」も 府県と同列の行政区画 としての位置付けがなされてゆきました。

明治3年579 藩制 を見ると、藩高の 10% は知事家禄に充当。藩高の 9% が海陸軍費で、残る 81% が士卒の禄を含む行政費 という割当です。
県と同列の行政区画と言いましたが、大勢の武士を抱え、藩ごとに陸軍を持つ点、府県と違う藩の独自性を持つことになります。

軍事費の半分は海軍費として官に納め、半分は陸軍費するというのですが、これでは どれだけ装備の充実ができることやら。
尤精々節減し有余を以て軍用に可蓄置様可心掛事
という状況であるのも、うなづけます。

明治3年藩制 の最後のあたり、9月決算明細書を差し出すべき事の後に、藩債支消や藩札引換の計画についても言及しています。これも府県と違う藩独自の問題でした。

# 版籍奉還して政府支配地になってからの「藩」も、まだ「府県」との異質性がかなりあり、とても“名前が違うだけで、殆んど「県」と同じもの[75494]”とは言えないようです。やはり「府藩県三治制」ではなく、「府県・藩三治制」と呼ぶべきか。
[75924] 2010年 8月 8日(日)12:22:18hmt さん
廃藩置県 (1)廃藩置県と軍制改革
「府県」という制度が作られた 明治初年のことを記しています。

都道府県は、市町村を包括する広域の地方公共団体である というのが、地方自治法での位置付けです。
しかし、「地方自治」が憲法に示されたのは 1947年のことです[75012]
明治から昭和戦前にかけての府県には、国の統治組織の一環という性格が強く存在し、府県知事は官吏でした。

その 戦前の府県 にしても、約 80年間ずっと同じだったわけではなく、特に最初の数年間は、目まぐるしい変革を経ています。
その変化は、地方制度という枠 を超え、わが国が 近代国家に生まれ変わるプロセスの 一環でした。
それ故に、「府県」をテーマとする 今回のシリーズの記事も、「明治維新」全体の動き と連動しながら記述してきました。
今回取り上げる 廃藩置県 も、タイトルに記したように、軍制改革 と密接な関係を持つものでした。

過去記事 を復習しておきます。
17世紀初頭に作られた 江戸幕府による日本統治のシステム。19世紀後半には、すっかり変った世界情勢に 対応できない状態 になっていました。
そこで最後の将軍・徳川慶喜が、変革の中で 徳川権力の生き残りを図って 打った手が 大政奉還(慶応3年10月)[75494] でした。しかし、この企ては 倒幕派による巻き返し 王政復古クーデターに敗れ、軍事的にも 鳥羽伏見の戦いで敗北。翌年4月には 江戸も新政府の手中に入りました[75495]

政治的な駆け引きも いろいろありましたが、結局のところ、薩長を旗頭とする 倒幕派諸藩の軍事力 がモノを言った感じです。
こうして、政体書(慶応4年閏4月)という形で発表された 新政府の地方組織として、「府県と藩」が登場しました[75494]

徳川家から召し上げた領地を主とする 政府直轄地 には、箱館府・京都府・大津県・笠松県…が設けられました[75497]
戊辰戦争に敗れた 奥羽越列藩同盟の諸侯から 没収した地 にも、翌明治2年には県ができました。[75516]で、涌谷県・栗原県・若松県を挙げています。

しかし、このように「府県」の置かれた 政府直轄地は、まだ当時の日本の 一部に過ぎませんでした。
大部分の諸侯の支配地は 「藩」となり、新政府の地方支配は、間接的なものとして出発しました。

次の一歩を進めたものは、薩長土肥を初めとする 版籍奉還願 です。これにより、明治2年6月には、「版籍奉還不願出候面々」を含めて、各藩の封土版籍が 政府の手に帰しました。「藩」も 形式上は 府県と同列 の行政区画になり、政府の影響力は大きくなりました。しかし、藩の独自性はまだまだ残っていました[75521]

明治3年の師走に 大蔵大輔の大隈重信が建議して 太政官に認められた「全国一致之政体」は、軍事・教育・司法・財政の4法を確立する必要を唱えるもので、府藩県三治制でなく、共通の機構による中央統治を目指すものでした。

このような全国均質な体制を実現する上で 最大の障害になるのは、まだ各藩ごとに抱えていた 大勢の武士団です。
これは 藩の力を裏付ける軍事力 でもありますが、同時に 藩にとって 大きな財政的負担 でもあります。
新政府最初の地方組織「藩」は、近代国家の 軍制と財政とを整備 する上で、問題を投げかける存在でした。

さて、近代国家の軍制として、国民軍を作ることが必要 であることを 最も強く認識していたのは、慶応2年(1866)の 四境戦争 を戦った 長州藩 だったでしょう。[75494]で 幕府側の立場から “第二次長州征伐”と記した この戦争は、長州側から見ると 大島口・芸州口・石州口・小倉口の四境から攻撃してきた 幕府軍に対する 防衛戦争 でした。高杉晋作の創設した 奇兵隊などによる 百姓出の兵士が 戦争のプロであるはずの武士で構成された幕府軍を破った実績は、国民軍の評価を裏付けました。

周防国の蘭方医出身で、徹底的に合理的な考え方を進め、四境戦争の勝利をもたらしたのが 大村益次郎でした。
余談ですが、このところの暑さ。「お暑いですね」という 時候の挨拶をする時に 思い出すのが、「夏は暑いのが当たり前です」と 無愛想な応答をしたいう この合理主義者です。村医者・村田良庵時代の逸話のようですが、これでは 評判は良くなかったことでしょう。

それはさておき、大村益次郎は、明治政府内で 新しい政府直属軍の創設(農兵論)を主張し、薩長土を主体とする藩兵論の 大久保利通と論争しました(明治2年6月兵制会議)。

大村の主張は、この段階では通りませんでしたが、新しい軍制構想は、兵部大輔になった 彼により第一歩が踏み出され、大村益次郎暗殺(明治2年11月)後も、山田顕義 そして 山縣有朋へと主導権が移りながら 進展しました。

その山縣有朋が 明治3年師走に 西郷隆盛に提案したのが、天皇と中央政府を守る 政府直属の軍隊で、これを 薩長土の献兵で組織しようとするものでした。
こうして、翌明治4年2月に入京した 西郷を中心とする「御親兵」 が正式に発足しました。

まだ国民軍ではありませんが、ともかくも 政府直属軍が発足したわけで、この兵力を背景に 明治4年7月14日に断行されたのが、「廃藩置県」でした。
[75939] 2010年 8月 10日(火)22:29:04【1】hmt さん
廃藩置県 (2)藩の全廃(明治4年7月14日)に先立つ 個別の廃藩置県
「廃藩置県」という言葉は、普通の用例では 明治4年7月14日に行われた、「藩を全廃」して 県に置き換えた 地方制度改革を意味し、日本全体の軍制・財政改革と密接に結びつくものでした[75924]

しかし、「藩を廃して県に置き換える」という本来の意味では、もっと前の事例があります。
落書き帳の初期の記事を引用します。
[7123] Issie さん
陸奥(岩代)福島藩は幕末段階で譜代大名の板倉氏3万石。小藩ながら譜代大名として代々幕府機構の主要部分を担い,戊辰戦争でも奥羽越列藩同盟つまり「賊軍」側に立ち,あげくに戦後,2千石減封の上,三河重原(愛知県刈谷市)に飛ばされました。
「空き地」となった福島地域は政府直轄となり,「福島県」が設置されます。(…中略…)旧藩名そのままですね。

戊辰戦争では 新政府軍の矛先が 二本松から会津に向けられ、福島は戦場になることを免れました。しかし、この戦争では 会津が敗れて 東北の諸藩も降参。板倉氏は、戦争終結後の処分で 飛地のあった三河へと移され、重原藩に変ったのでした。
こうして「福島藩」は自然消滅。「空き地」にできたのが、同名の「福島県」。地方沿革略譜によると、福島県 が置かれたのは 明治2年7月20日です。

この事例では、「福島」という 場所と名前 が保持されていますが、以前存在した藩は「廃止」されたのでなく、「移封」の結果として消滅したのでした。
会津(若松)藩からの没収地にできた 若松県についても同様であり、いずれも、正確には「廃藩」置県とは言えないのでしょう。
なお、若松県につき、[75516]では 法令全書不掲載 と書きましたが、明治2年8月18日 に 福島県などと共に 掲載されていました。

同じ名前にこだわらなければ、「藩を廃止」して、その地を別の県の領域とする事例もあります。
既に明治4年になっていますが、7月の全国一斉「廃藩置県」より少し前の2月5日に 讃岐国多度津藩を廃止して、倉敷県 に編入。慶応4年には、既に 塩飽諸島の例[75516]もありますから、海を越えた 倉敷県の管轄もあり なのでしょう。
もっとも、多度津藩の親分格の丸亀藩が、僅か2ヶ月後に丸亀県になっているので、なぜ一緒に処理しなかったのか不思議です。

前置きが長くなってしまいましたが、今回紹介したかったのは、もっと「廃藩置県」の名にふさわしく、しかも明治4年7月14日の全国一斉実施に先立つ事例です。

明治3年7月10日 法令全書456 自今盛岡藩被廃 盛岡県被置候事

この太政官布告の「盛岡藩」とは、明治2年に白石から戻ってきた「新・盛岡藩」のことですが、ここでは「旧・盛岡藩」について少し説明し、「新・盛岡藩」とその廃藩置県に関する本論は、次の記事に譲ります。

鎌倉時代以来、奥羽に根付いた名門の南部氏。19世紀になると国持大名に準じる 20万石と、家格は上りました。
しかし、実質加増はなく、蝦夷出兵など支出は増えて 財政的にはピンチに向っていました。
それでも、大島高任により、釜石で日本初の西洋式高炉製鉄を実現し、尾去沢・小坂の鉱山開発を進めるなど、盛岡藩の新しい経済活動は、落書き帳の記事[67425][51666]にもなっていました。

そして迎えた慶応4年。幕府側に付くのか新政府側に付くのか、藩論は対立しましたが、結局は奥羽越列藩同盟の一員として朝敵になりました。

敗戦後、13万石に減らされたのはともかく、遠く 180kmも離れた白石への移封というのは、厳しい処分でした。

この時に、旧・盛岡藩の領地に設けられた 松代藩・松本藩・黒羽藩の取締地が、「盛岡県・花巻県・三戸県」と呼ばれたようです。
明治2年2月の地図が、岩手県の誕生 に示されているのですが、これらの「県」の性格は よくわかりません。
太政官布告などの公式文書に現れておらず、政体書に基き 知県事が置かれた正規の県[75494] ではないようにも思われ、とりあえず、旧・盛岡藩消滅後の「空き地」にできた 松代藩取締地「盛岡県?」は、廃藩置県の事例としては無視しておきます。

# 「涌谷県・栗原県」[75516]も 上記の3県と同類の通称で、中央の公式文書では無視された存在なのかもしれません。
[75949] 2010年 8月 11日(水)19:38:24hmt さん
廃藩置県 (3)「廃藩置県」の第1号? 盛岡藩
太政官から 「明治3年7月10日 盛岡藩を廃し、盛岡県を置く」布告 [75939] が出されたのは、「藩を全廃して県に置き換える」明治4年7月の 廃藩置県(これが通常の使い方)よりも 1年前のことでした。

前回説明したように、戊辰戦争敗北の結果、20万石から 13万石に減封の上、白石に移封になってしまった 旧・盛岡藩の南部氏。

古巣への復帰を政府に嘆願し、70万両の献金を条件に 盛岡藩知事 として復帰することが認められました。
明治2年6月17日の 藩知事表 では、まだ“白石藩 磐城 13万石 知事南部利恭” と記されていますが、おそらく この直後に許可されたものと思われます。

こうして成立した 新・盛岡藩 の領域は、岩手・紫波・稗貫・和賀【注】の4郡 13万石です。20万石だった かつての盛岡藩 に属していた 閉伊郡 が、仙台藩から没収された 江刺郡・気仙郡 と共に 江刺県 になったのは、新・盛岡藩の設置と連動しているものと理解できます。
【注】 正確に言えば、黒沢尻など和賀郡の東部も、 13万石の新・盛岡藩には入らなかったので、江刺県になりました。

旧・盛岡藩の 二戸郡 も、同じ頃に 九戸県になりましたが、八戸県>三戸県と慌しい改称を経て、江刺県 になっています。
二戸郡の一部は、現在の青森県・下北半島にかけて成立した 斗南藩(明治3年5月、旧会津藩の再封)所属になりましたが、[75939]でも引用した 岩手県の誕生 の 明治4年7月の地図 に示されているように、二戸郡の大部分は 江刺県の飛び地 です。

この地図に書き込まれている 2004年当時の市町村境界を参照すると、江刺市は、明治4年7月江刺県の南西端です。(現在は西側の胆沢県と記された部分と合併して奥州市。)
それにしても、ここから 遠く離れた二戸郡までが 江刺県の一部 であったとは驚きです。地図の威力で 認識を新たにしましたが、新旧盛岡藩の差分を抱え込んだ広大な江刺県の領域は、文章だけでは なかなか理解しにくいところでした。

それはさておき、明治2年に念願の復帰を実現したものの、盛岡藩の財政は破綻状態でした。
復帰の条件とされていた 70万両の献金を捻出することなど、とても不可能。
こうなれば、残された道は「自己破産」しかありません。
翌明治3年に、盛岡藩の南部利恭知事が郡県制を建白し、併せて知藩事の辞任を請願したというのですが、知事本人はまだ満14歳のはず。

このようにして、明治3年7月10日に「新・盛岡藩」は僅か1年の寿命で廃藩され、盛岡県になったのでした。
福島県のように、藩が他所に移された後の空地に置かれた県でなく、文字通り「廃藩」の結果として「置県」が実現した第1号と見てよいでしょう。

続いて財政破綻状態で「廃藩」に追い込まれたのが、越後の長岡藩です。「置県」には該当しないが、ついでに記しておきます。

[47404]で記したように、17~18世紀の黄金時代には 新潟港の繁栄 を謳歌した長岡藩(牧野家)。しかし、ドル箱だった北前船の港町は、土砂堆積で機能を損ねただけでなく、天保14年(1843)には「新潟上知」により幕府に召し上げられてしまいました[42835]

家老の河井継之助は、このような財政危機の中で長岡藩の藩政改革を行うべく 登場したのですが、それを達成する前に 幕末の動乱に遭遇しました。
藩内には恭順論もありましたが、河井は軍資金を工面して、長岡藩に近代的な武器を導入し、訓練を施してゆきます。
慶応4年5月、彼は北陸道を進んできた新政府軍の本陣が置かれた小千谷に乗り込み 談判を試みました。
しかし、彼の武装中立の主張は、相手に理解されないまま拒否され、長岡藩が戊辰戦争に巻き込まれてしまったことは、越後府設置[75459]に関連して、既に記しました。

長岡城奪還に一度は成功したものの、この戦で重傷を負った河井は 結局のところ拠点を失い、八十里越[67161]で会津に落ちる途中で絶命しました。
不本意な対応を受けた小千谷談判から始まってしまった北越戦争は、長岡藩にとり、直接的な犠牲だけでなく、戦後処理でも74000石から24000石への大幅な減封をもたらしました。

ただでさえ苦しかった長岡藩の台所事情。収入の激減では、その日の食事にさえも事欠きます。
見かねた支藩の三根山藩から 明治3年6月に贈られた見舞いが 百俵の米。これを藩士に分配せず、教育という先行投資にあてたという 「米百俵」 のお話。1943年に発表された山本有三の戯曲は、戦時中に反戦思想を理由とする弾圧を受けたとか。

「米百俵」は将来の人材を育てたとしても、長岡藩の財政危機を救うことはできず、
明治3年10月22日 自今長岡藩被廃候事 法令全書688
明治3年10月22日 柏崎県 元長岡藩地所其県管轄被 仰付候条請取可申事 法令全書689
ということで「廃藩」になり、明治2年8月に水原県から上越中越5郡を分離して再置した 柏崎県2[75459] に併合されました。

長岡藩については、8年前に Issie さんの記事[890]がありました。
長岡藩は,会津藩と並んで戊辰戦争で官軍と直接戦闘を交えた「賊軍中の賊軍」です。
戦後(会津藩や南部藩とは違って)【同じ場所での】藩の存続は許されたものの領地の大半を明治政府に没収されて,藩財政は完全に破綻していました。ここに(中略)「米百俵」のお話になるわけです。
でも結局,財政的に藩を維持することができず,長岡藩は廃藩置県を待たずに廃止されて(要は倒産した,ということ),既に設置されていた「柏崎県」に編入されました。
[76076] 2010年 8月 22日(日)14:35:34hmt さん
廃藩置県 (4)版籍奉還後も まだ殿様が「力」を持っていた明治2~3年
クライマックスの「明治4年7月14日 全国一斉 廃藩置県」の手前でひと休みした 明治初年の 府県設置 を再開します。

大政奉還>王政復古>戊辰戦争・江戸城明渡を経て、新政府の統治機構が「政体書」という形で発表され、徳川家から召し上げた政府直轄地に、最初の2府5県が誕生したのが、慶応4年閏4月24~25日でした[75497]

明治2年には版籍奉還によって、名目上は全国が政府支配地になりましたが、全国3000万石のうち 新政府が税金を集めることができる直轄地は 僅かに800万石。知藩事という名に変った 殿様の力は まだ大きかったのでした。
井上馨の回想:有名無実の版籍奉還じゃ、収入を取ることも何もまだ出来はしない。是非廃藩立県をやらにゃならぬということが頭に浮かんできた(世外侯事歴維新財政談)。

一方、藩の方の懐具合も、明治3年藩制[75521]により 財政を規制されており、藩債支消や藩札引換計画など大問題を抱えています。
戊辰戦争は、久しぶりに 武士の働き場を作りましたが、それも半年余りで終結してみれば、藩が抱えている士族の大部分は 余剰人員化しています。
帰農法による士族の削減を試みた藩もあれば、家禄を証券化して売買を認める禄券法を実施した藩もあります。いずれも士族の解体につながる施策ですが、最も極端なケースは 藩そのものの廃止です。

盛岡藩は、転封先の白石から盛岡へ復帰する条件であった 70万両献金の約束を果たすことができず、廃藩置県第1号になりました[75949]。これは 例外的に大きな藩ですが、5万石余の丸亀藩も 明治4年4月に廃藩し、丸亀県になっています[75939]

いくつかの もっと小さな藩は、既存の県に編入されて 消滅しました。早くも明治2年末には、上野国吉井藩(昨年まで 群馬県多野郡吉井町 が存在)が 岩鼻県に、小田原北条氏の後裔である 河内国狭山藩が 堺県に編入。いずれも1万石の小藩です。
長岡藩の柏崎県編入[75949]と 多度津藩の倉敷県編入[75939] とは既報。あと、全国一斉の廃藩置県がある明治4年7月の前月に、信濃国龍岡藩が 中野県と伊奈県[75516]とに分割編入、大津藩は大津県[75497]に、津和野藩は浜田県[75516]に いずれも編入。盛岡藩以下の9藩が 廃藩して 県の領域に組み入れられた ことになります。

この他に、明治3年に、敦賀藩から改称した越前国鞠山藩が小浜藩に、播磨国福本藩が鳥取藩に、美濃国高須藩が名古屋藩に、明治4年周防国徳山藩が山口藩にと、いずれも本家の藩に編入されているので、4藩消滅。

余談ですが、3万石の小藩ながら、高須松平家 出身の4兄弟は 幕末の歴史を彩りました。尾張藩主になった徳川慶勝は、議定として慶応3年師走の小御所会議[75495]に出席し、翌年正月には、徳川慶喜逃亡後の大阪城[43497]を新政府代表として受け取りました。それより前、慶応2年末に徳川慶喜の徳川宗家相続に伴い、一橋家を継いだのが 弟の徳川茂徳です。更に下の弟の 会津藩主・松平容保と 桑名藩主・松平定敬とは 幕末京都で治安維持の役目を担い、戊辰戦争の 朝敵 にされてしまいました。戦後、慶勝と茂徳とは、容保と定敬の助命に奔走し、明治11年に4兄弟は再会を果たしたそうです。

脱線しましたが、財政危機と士族問題の根本的解決を迫られていたのは、誰よりも 中央政府そのものです。
士族問題は、財政の負担になる余剰人員という面も もちろんありますが、国防問題、つまり日本の軍隊のあり方に関する問題でもあります。
廃藩立県したいという願望は 井上馨の回想にもありましたが、現実に軍隊を掌握している藩を どうやって廃止できるか。新しい軍隊の制度はどうするのか。知藩事になっている殿様をどう処遇するのか。中央政府は 廃藩置県という形での強化策に なかなか踏みきれません。

大久保利通は、最初は「殿様の力」を利用して中央政府を強化することを考えていたと思われます。大久保が「殿様」として最も意識した人物は、公式には「藩主」でなく、「前藩主」でさえもないが、鹿児島藩の「国父」として 藩を掌握し、幕末四侯の一人として中央政界にも口を出していた 島津久光です。薩摩では絶対的な権力のある この「殿様」をどのようにして動かし 新政府の力とするか、これが大問題です。
もちろん、長州藩には 藩主の毛利敬親がいます。しかし、こちらの殿様は 自分の意思を前面に出すよりも、木戸孝允のような有能な家臣を近づけて、その意見に異議を唱えなかったために、「そうせい侯」と呼ばれています。

木戸孝允は 薩摩のような有力藩が 力を温存して 中央政府をしのぐ 状態なることを警戒しており、版籍奉還を藩主に提言しました。さすがに これは、すぐに「そうせい」というわけにもゆかなかったようですが、結局は説得に成功します。上表文には 一旦版籍をお返しするが、“其与ふ可きは之を与へ”[75521]と書いておきます というような殺し文句を使ったのでしょう。
難関の島津久光を説得して 版籍奉還を承諾させたのは 小松帯刀でしょうか。ともかく、これで 版籍奉還の上表に 長薩肥土4藩主が名を連ねることができました。

版籍奉還上表の直後、明治2年2月の勅書では、薩長両藩を天皇の「股肱」として、薩摩の島津久光と長州藩主・毛利敬親と2人の上京をうながしています。同年12月には、大久保と木戸が帰藩しましたが、殿様を動かして中央政府に抱き込むには至りませんでした。しかし、薩長両藩の協力により中央政府を強化する体制作りの試みは、明治3年12月の 岩倉勅使一行 鹿児島派遣へと続きます。
[76077] 2010年 8月 22日(日)15:01:20hmt さん
廃藩置県 (5)西郷隆盛の建白に基づき 「御親兵」という 政府直属軍は生まれたが…
徳川からの政権交代を勝ち取った明治政府。しかし、徴税対象となる直轄地は800万石しかなく、軍隊も「藩」に握られています。
まだまだ残されている殿様の力を考えると、廃藩置県にる中央集権化には、なかなか踏み込めません。
…となると、薩長等有力藩の協力を頼みとする中央政府強化策を取る他はないのか。

明治3年12月に、政府への協力約束を 鹿児島藩から取り付けるための 岩倉勅使一行が派遣されました[76076]
病気を理由に出てこない「国父」島津久光の代理として 勅書を受け取ったのが 藩主の島津忠義ということは、実力者の殿様が誰なのかを、明白に語っています。
この一行には、勅使・岩倉具視に 大久保利通が随行しただけでなく、兵部省の 山縣有朋(長州)も加わっていました。

彼等を鹿児島に迎えて会談した 西郷吉之助(隆盛)の建白書 が、早稲田大学図書館所蔵大隈重信関係資料にあります。
24ヶ条にも及ぶ長文で、私には十分に理解できていないのですが、拾い読みすると、朝廷(つまり中央政府)が「空名」になっていて、諸藩が兵威を以て上を動かし、「尾大」になっている現状を批判しています。尾大に しているのは誰だ と言いたくなるところなのですが…

とにかく、そういう現状を打破するための方策として、諸藩より 精兵を朝廷に献ぜしめて、近衛兵というか 朝廷(中央政府)直轄軍を作る。もし従わない時には此兵を以て征伐する(pdfの5/11頁)。
これが「御親兵」つまり有力藩の献兵による 政府直轄軍の創設 を提起した くだり なのですね。
[75924]では 山縣が 政府直属軍を提案した と書いていました。山縣は 確かに政府直属軍創設の構想 を持っていたのですが、それは前月(明治3年11月) 徴兵規則 による国民軍でした。師走の鹿児島会談で提起された「御親兵」構想は、西郷からのものだったので 訂正します。

後年、山縣は 西郷の御親兵構想について、これを自らの構想を実現するワンステップであると考え、直ちにこれに同意したと語っているそうです(徴兵制度及自治制度確立の沿革)。
士族の軍隊と国民軍、限られた有力藩からの献兵と 広く府藩県からの徴兵。どうも違うようですが、山縣はとりあえず西郷構想で直属軍を作り、次第に自分の土俵に持ち込めばよいという、柔軟な考えを持っていたのでしょう。

西郷建白書の冒頭に近い部分に、府藩県の制度を同一に定め、勝手に斟酌するように改めるのを禁止する。軍制も亦然り(2/11)。とあります。これだけ見れば、藩の独自性を排除して 府県と同じにする 廃藩置県と 同じようでもありますが、表面的にはあくまでも府藩県三治制の徹底であり、藩の廃止など 論外と思われます。

地方制度以外にも、外国との交際・鉄道反対論(8/11)に至るまで、いろいろ書いてあるようです。

西郷の打ち出した御親兵構想には、鹿児島藩側の事情もありました。
鹿児島藩では、明治2年に士族全員を常備軍に編成し、下級士族を優遇するなどして戊辰戦争の兵力をそのまま維持していました。このやり方は 国父さま 島津久光の方針によるものでしたが、その結果は 1万3000人余という 諸藩の中で最大の兵力を保有することになりました。これは余剰人員である武士階級解体に結びつく 全国的な潮流に反するだけでなく、鹿児島藩自身にとっても大きな負担になっていました。この兵力を献兵として差し出せば、藩の負担は軽くなり、士族の身分も保証されます。

岩倉勅使の本来の目的である島津久光の協力・上京については、少し渋ったものの、とりあえず西郷を代理として送り、久光自らは来年上京することで同意。年が開けて明治4年正月、岩倉勅使の山口訪問で毛利の協力も取り付け。ここで西郷・大久保・木戸が薩長土提携で合意。京都へ戻る岩倉と別れて高知に赴き 板垣に会い、ここに三藩提携が成立しました。

こうして、限られた有力藩による中央政府強化 という 大久保構想は実現した かと思われました。
西郷構想の御親兵は、歩兵・砲兵・騎兵で構成され、総数8000人が 明治4年6月には 東京に集結。三藩の力を誇示しました。
島津久光にとって、このすぐ後に、廃藩置県という大逆転が起こるなどという展開は、思ってもみないことです。

ところが、政府の外では、殿様コンプレックスで廃藩置県に踏み切れない 大久保・西郷を 結果的に 廃藩置県に駆り立てることになる 状況の変化が、出始めていました。
例えば 明治4年1月頃、鳥取藩知事・池田慶徳による3項目の建議があります。第1に郡県制の実行。第2に全国的廃藩、第3に知藩事の東京在住。
# 池田慶徳は、水戸の徳川斉昭の五男で幼名五郎麿ですから、徳川慶喜(幼名七郎麿[73497])の異母兄になります。
同じ頃、徳島藩知事・蜂須賀茂韶の「廃藩建言」があり、少し遅れて3月には熊本藩知事・細川護煕…ではなかった細川護久の人材登用論、4月には名古屋藩知事・徳川慶勝(高須4兄弟[76076])の州制度提起(政治統一化五策の一つ)が出ています。

このような個々の動きは、更に 藩制度の改革を目指す集団 へと発展しました。すなわち、明治4年4月には、高知・熊本・徳島・彦根・福井・米沢の6藩指導者が藩政改革のために集まり、5月には 諸藩会議の開設と 割拠主義の鹿児島藩への働きかけ とが確認されました。
このグループのリーダーは高知藩で改革を進めていた大参事・板垣退助で、奥羽列藩同盟の時に列藩を結びつけた米沢藩の 宮島誠一郎 が、今度の諸藩連携でも働いたようです。
[76083] 2010年 8月 23日(月)17:38:01hmt さん
廃藩置県 (6)明治4年7月14日 寝耳に水の 廃藩置県
[76077]までに記した 明治4年前半の政治状況。明治2年版籍奉還>明治3年「藩制」と府藩県三治体制を進めてきましたが、相変わらず「殿様」が支配する「藩」が近代国家としての統一を妨げています。そして財政的には、中央政府も藩も いずれも苦労。
そんな中で、西郷提案による御親兵は発足したものの、大久保が目指した組織改革は実現せず、三藩提携による中央集権化は7月に入っても機能せず、政治空白状態に陥っていました。
一方、政府外では、大藩の中から府藩県三治制の見直しが論じられるようになり[76077]、中小藩の自発的な廃藩などで、明治2年末から明治4年6月までの間に 9+4=13もの藩が消滅していました[76076]

ここに至って、政府内部からも廃藩論が提起されます。口火を切ったのは やはり兵制の統一を望む兵部省で、殿様コンプレックスの弱い長州人でした。
山縣有朋が鳥尾小弥太や野村靖と時事を論じているうちに 意見が一致し、財政の統一を目論む 大蔵省の井上馨経由で 木戸孝允参議の賛成を得たのが 7月6日のことです。

# 椿山荘[67436]と、そこから東に下る 鳥尾坂 とは、山縣と鳥尾に関係する遺跡です。東京湾の富津沖などに作られた 海堡[26174]は、鳥尾が建議した「東京湾海防策」によるものとされます。野村靖は内務大臣時代の1895年に東京府の 東京都と多摩県への再編成案 を出しましたが、帝国議会や東京市民の反対で実現しませんでした。

こうして長州内の意見は 廃藩断行で まとまりました。
では、殿様コンプレックスの強い 薩摩の 西郷と大久保は どのように対応したのでしょうか。

山縣が 西郷参議を訪ねたのが 同じく6日。廃藩置県の話を持ち出すと、意外にも 即座に同意。
西郷隆盛としても、参議に就任したものの、政治空白状態では世間の物笑い。諸藩の廃藩への動きは人力の及ぶものでない。殿様の御恩に背く廃藩は、私情としては忍び難いが、断固やらねばならぬ。彼は 事後報告で このように言ったそうです。
西郷から伝えられた 大久保利通も、既に 三藩提携による中央集権化の限界 を悟り、起死回生策としては 廃藩断行しかないと 承知しました。

7月9日、大暴風雨の東京九段下・木戸邸。密議に集まったのは、薩摩から 西郷隆盛・大久保利通・西郷従道・大山巌の4人。長州からは 木戸孝允・山縣有朋・井上馨の3人。(藩名は鹿児島藩・山口藩になっているのですが、やはり薩摩・長州と呼ぶ方が気分が出ます。)
僅か7人の密議で知藩事の上京を待たずに速やかに廃藩を発令し、もし応じない藩があれば、武力に訴えることを、失敗したら全員辞職覚悟の堅い結束で決めました。“もし暴動が起きれば、拙者が引き受け申す。”(大西郷全集)

廃藩置県は、薩長の7人によって実質的な決定が下されましたが、手続的には もちろん 明治天皇に上奏して裁可を得ることが必要です。12日に決めた大綱に従い、右大臣の三条実美から上奏することになりました。大納言の岩倉具視は 聾桟敷にして置こうという意見さえあったようですが、さすがに大久保から通知。岩倉でさえ 意外の大変革には 狼狽したそうです。

明治4年7月14日(1871/8/29)、在京中の知藩事 56人は 明治天皇の御前に呼び出され、三条右大臣の読み上げる廃藩置県の詔書 法令全書350 を聞かされました。「さわり」の部分
朕先に諸藩版籍奉還の議を聴納し新に知藩事を命じ各其職を奉ぜしむ 然るに数百年因襲の久き或は其名ありて其実挙らざる者あり 何を以て億兆を保安し万国と対峙するを得んや 朕深く之を慨す 仍て今更に藩を廃し県と為す

先に版籍奉還で知藩事を任命したが、実績が挙っていない。これでは国際的に立ちゆかない。だから藩を全廃して県にする。

知藩事という名になっていた殿様たちにとり、これはまさに 寝耳に水 の宣言でした。

薩長の呼びかけに応じた薩長土提携により、中央政府の 府藩県三治制テコ入れ の一翼を担っていたつもりの 高知藩でさえ、「この日まで」、全くの聾桟敷に置かれていました。
「この瞬間まで」でなかったのは、高知藩知事の代理として呼び出された板垣退助は、上記詔書奉読の直前に、薩長土肥4藩知事に賜った勅語により、廃藩置県を知らされたからです。

この勅語 法令全書351 は、4藩の版籍奉還建議を褒め、廃藩置県への翼賛を命じたものです。
別に廃藩建議(明治4年[76077])に関係した 熊本・名古屋・徳島・鳥取4藩知事宛の勅語(法令全書352)もあります。

版籍奉還の明治2年[75521]には、正月23日の上表を受け、“会議を開き、公論を集約した上で、沙汰する”と約束し、6月に許可しているのですが、今回の廃藩置県は、“広く会議を興し萬機公論に決すべし”などどこ吹く風。
秘密裏に独断専行された電光石火の早業です。
その裏には、西郷の作った御親兵 8000人の威力があったことは、言うまでもありません。

明治2年の藩知事表[75521]にあった 274藩から、明治4年6月までに廃止された 9+4=13藩[76076]を除いた 261藩。
これが廃止されて、そのまま 261県になり、従来からの政府直轄地に置かれた府県と合せて、3府 302県になりました。
[76100] 2010年 8月 26日(木)23:18:22【1】hmt さん
廃藩置県 (7)花火を打ち上げて怒った島津久光も、5万石の家禄で懐柔された
慶応4年閏4月から設置が始められた 府県。明治4年7月の廃藩置県で 261県が加わり、3府 302県になりました。

寝耳に水の廃藩置県。一瞬にして その職を失った 261人の知藩事たちの 当惑もさることながら、誰よりも 驚き、かつ怒ったのは、島津久光だったのではないでしょうか。
西郷隆盛が 明治4年4月に鹿児島藩からの献兵を引き連れて上京する際、万が一にも 鹿児島藩のことを忘れるな と念を押していたにも拘らず、完全に裏切られてしまったわけですから。

維新当初、余が藩を犠牲とし、一身を顧みず、断じて天下に殉じたるを忘失せし乎
「版籍奉還」は しぶしぶながら認めた。しかし、「廃藩」など、とんでもないことだ。
鬱憤を晴らすために、邸内で花火を打ち上げたという 有名な話が伝わっています。

でも、廃藩置県の詔書にも示されているように、知藩事は 版籍奉還の結果として 天皇から任命されたものです。
任免権が 既に天皇に握られている という理屈でけでなく、御親兵という武力を得た政府は、現実に藩に対する強攻策を取り始めていました。
明治4年3月には、藩ぐるみの反政府活動を行っていた 久留米藩の権大参事を罷免し、藩知事を謹慎させています。
廃藩置県直前になると、福岡藩知事が 偽札事件の責任を問われて 罷免され、有栖川宮熾仁親王を後任としています(7月2日)。
「殿様」が解職される事例は、既に現実のものに なっていたのでした。

極端な言い方をすれば、1人の知藩事を解職することができるならば、理論的には全員の解職も可能。
そして、全国を 知藩事不在の「政府直轄地」にして、「県」を設けるのにも 文句はあるまい。

もちろん、力づくだけで 事を進めるわけにはゆきません。
後から噴出する可能性のある 不平不満や 反乱を防ぐために、何よりも大事なのは、知藩事(華族)や士族への保障措置です。
知藩事にしてみれば、家禄を保障されさえすれば、藩内から徴収する税金を失っても困りません。苦しい藩財政のやりくりから開放されて、東京に在住する華族に転身するのは、かえって好都合だったのでしょう。明治3年「藩制」で義務付けられていた 藩債や藩札の整理義務からも免れます。同様に、士族に対しても、家禄の保障が決め手になります。
とりあえずは、これで収めましょう。長期的な財政問題の処理は先送り。

最も手強い相手の島津久光に対しては、5万石を家禄とする優遇策を講じて乗り切ったとのこと。

ここで一服して、雑談を。
3府 302県ともなると、名前を聞いたこともない「県」がたくさんあります。
「小さな藩」は そのまま「小さな県」になったのですから、それも当然と 言えるのですが、意外に大きな県で 知らない地名 があります。

その一例が 「宮谷県」[75516]です。この県名は、明治4年7月14日の廃藩置県ではなく もっと前、政府直轄地に設けられた 安房上総知県事の役所所在地・上総国大網宿宮谷(みやざく)に由来します。宮谷県になったのは明治2年2月ですから 宮崎県など存在しない頃で、名前が まぎらわしいことはないのですが、「大網」ならともかく、「宮谷」の地名を知る人は少ないでしょう。

大網白里町HP によると、宮谷県の管轄地は 安房上総だけでなく、下総国から現在の茨城県の一部に及び、石高は 37万2千石というから 大藩なみの大きさの県です。
この大きな県が「字」にすぎない「宮谷」を名乗っているのが、なんとなく不思議です。
なお、「大網」の名は、宮谷県より後の明治2年11月に 羽前国長瀞から移転してきた 大網藩が一時使用しました。
しかし、廃藩置県前に 常陸国龍崎藩に再改名しているので、「大網県」にはなりませんでした。

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