都道府県市区町村
落書き帳

トップ > 落書き帳 >

メンバー紹介

>
千本桜さんの記事が30件見つかりました

… スポンサーリンク …


記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[66567]2008年9月1日
千本桜
[66056]2008年8月16日
千本桜
[65597]2008年6月23日
千本桜
[65553]2008年6月19日
千本桜
[65312]2008年5月30日
千本桜
[65279]2008年5月28日
千本桜
[65215]2008年5月22日
千本桜
[65107]2008年5月13日
千本桜
[65089]2008年5月11日
千本桜
[65031]2008年5月8日
千本桜
[64945]2008年5月2日
千本桜
[64914]2008年4月29日
千本桜
[64907]2008年4月28日
千本桜
[64905]2008年4月28日
千本桜
[64186]2008年4月1日
千本桜
[64020]2008年3月15日
千本桜
[63998]2008年3月12日
千本桜
[63991]2008年3月12日
千本桜
[63981]2008年3月10日
千本桜
[63914]2008年3月3日
千本桜
[63895]2008年3月2日
千本桜
[63848]2008年2月29日
千本桜
[63791]2008年2月23日
千本桜
[63668]2008年2月7日
千本桜
[63525]2008年1月22日
千本桜
[63503]2008年1月20日
千本桜
[63423]2008年1月15日
千本桜
[63280]2008年1月8日
千本桜
[63024]2008年1月3日
千本桜
[62847]2007年12月15日
千本桜

[66567] 2008年 9月 1日(月)19:32:27千本桜 さん
鹽竈神社
[66515]鳴子こけし さん
鹽竈なんて表記見たことありません。いったい何がためにこんな事になっているのでしょうか。

鳴子こけしさんが目にされた道路標識を私は見ていないので何とも言えない立場ではありますが、鹽竈市街← →塩竈市街って有り得ないと思うのです。ただ、塩釜では固有名詞を「鹽竈神社」、「塩竈市役所」、「塩釜警察署」のように書き分けていますから、「左折←鹽竈神社、直進↑塩釜警察署、右折→塩竈市役所」のように「塩釜」の文字を書き分けた道路標識があってもおかしくないとは思います。もちろん、実際にそのような標識が存在するか否かは別問題です。ずいぶん前に、仕事上で「塩釜」の文字を書き分けるように指示された物件があったのですが、どの施設が「塩釜」で、どの施設が「塩竈」だったのか忘れてしまいました。この頃、忘れるのが早くなりました。でも、嫌なこともすぐ忘れてしまうから気楽なものよ。
[66056] 2008年 8月 16日(土)15:05:30千本桜 さん
郵便直営店
[66055]みかちゅうさん
郵便局の検索ページでは

ちょっと違った角度からの郵便局に関する話題で失礼します。北海道では遠軽、美幌、中標津、余市、倶知安、江差など、それなりに大きな後背人口を抱えた町には郵便直営店(支店)が置いてあります。でも、なぜか日高支庁管内には一つもありません。日高地方には8万人ほどが住んでいますから、静内または浦河あたりに郵便直営店(支店)があって然るべきと思うのですが、そうならなかったのには何か訳でもあるのでしょうか。日高地方は異常に大きな郵便直営店(支店)空白地帯です。
[65597] 2008年 6月 23日(月)06:51:56千本桜 さん
ああそれなのに
[65569] 2008 年 6 月 21 日 (土) 20:55:48【3】faithさん

大河原町大字大谷(かつては…ですが、これで合っているでしょうか)にある「大河原駅」の存在がどれほど影響しているのか、私には分からないですが、大都市圏では、駅名がいつのまにか周囲の地名を置き換えている例が非常に多く見られます。
大河原駅前周辺は昭和31年以降、「大字」の字句を省いて大河原町大谷と呼ばれています。でも、大谷の後ろには小字が続いて大河原町大谷字末広などと呼ばれていますから、大谷は今でも大字です。それはさておき、地名にとって「大河原駅」の存在がどれほど大きいかとなると、かなり大きな存在になっていると思います。その意味では大河原駅前を「大河原」と呼んでも違和感はありません。でも、字(あざ)の観点からすれば、やはりそこは「大河原」ではありません。そこで、大河原町の状況を念頭において地名を大きく4種類に分類してみました。(その他の分類方法もあるとは思いますが。)
1・字名(土地と密接に関係する)
2・住居表示による町名(建物・居住地・街区と密接に関係する)
3・行政区名(集落コミュニティ・住民生活と密接に関係する)
4・地理的な市街地名(あぁ・・・う、うまく形容できません)
以上の4種に分けて考えないと整合性がつかなくなります。

2・の住居表示による町名ですが、たぶんfaithさんはこの住居表示の実施区域にお住まいなのではないでしょうか。例に挙げられた中央林間、相模大野、旗の台もみな住居表示で生まれた地名ですよね。ところが、大河原町ではまだ住居表示を取り入れていないのです。基本的には、税金を取るために画された字と地番を住所として使っているわけです。住居表示を実施すれば良いのでしょうが、合併(まだ未定ですが)を目前に控えてそれを実施するのは、時間的にも資金的にも無理です。ですから大河原町の字名問題を考える場合は、住居表示を実施して新たな町丁を画する考えは除外しなければなりません。

3・の行政区名ですが、当地方では大概の集落が複数の小字に跨っていますから、町は小字界とは別の境界線で集落を括っています。それを行政区と呼んでいます。字が土地を区画したものであるのに対し、行政区は生活コミュニティとしての集落区分ですから、住民生活に深く係わってきます。住民は大字名・小字名より、行政区名を使用する機会が多いかもしれません。では、字名をやめて行政区名を住所に用いれば良いかというと、そういうわけにもまいりません。行政区には番地がないから住所の役目を果たせません。

4・の地理的な市街地名ですが、何と言い表せば良いのか迷ってしまいますが、人にはここからここまでの区域を「大河原」と言う地名で呼び合えば通じ合えるだろうというキャッチ能力があると思うのです。それは字や行政区と異なって、明瞭な境界線を持たない感覚的な区画です。このように感覚的な捉え方をすると、大河原と大谷は一体となって大河原市街地を形成していますから、大谷の地を大河原と呼ぶのも違和感はありません。ですが、市街地が一体化したから大谷を大河原に統合して消滅させようなどど、普通の自治体は考えません。藩政村を継承した大字Aが、同じように藩政村を継承した大字Bの領域を指して、そこはBじゃない。Aのものだ。なんて恥ずかしくて言えません。礼儀と言うものがありますからね。それなのに、先の合併協は大谷を大河原に改めるとしました。なぜ、他の自治体では起こらないことが起きてしまうのか。字の失策を重ねて来たからだと私は思います。

たとえば、古川(現:大崎市)の市街地などは稲葉、大柿、古川、中里という4つの藩政村に跨って町場が形成されました。市街地の中で大字稲葉、大字大柿、大字古川、大字中里が交わっていたのです。しかし、市街地が一体化していることを理由に大字を統合して大字古川に一本化しようとはしませんでした。それが普通のやり方ではないでしょうか。もちろん、今では古川市街地も住居表示に切り替わりましたから大字は消滅しています。もし、大河原町がどうしても大谷を消滅させたいなら、住居表示を実施する時にやるべきです。住居表示を実施するわけでもないのに、大字たる大谷を大河原に統合して大字界をいじくりまわすのは、地域の履歴を複雑にするだけで百害あって一利なし。♪ああそれなのに それなに ねえ おこるのは おこるのは あたりまえでしょう♪って、古賀政男作曲なんですって。
[65553] 2008年 6月 19日(木)22:14:24千本桜 さん
字(あざ)施策の失敗
[65473] 2008 年 6 月 10 日 (火) 01:17:14【1】白桃さん
「大河原駅がある大谷地区を『大河原』という名前にしよう。」などという無粋な話が持ち上がっていることが不思議です。また、「東かがわ市三本松と街区が連担している旧誉水村大字川東の「當雀」地区の名を三本松に吸収しちまェ。」という話は三本松側からも川東・當雀側からも出てこないのに、金ヶ瀬字丑越、金ヶ瀬字富田を大河原字丑越、大河原字富田に何で変えようとするの???

このことを説明しょうとすると文言だけでは無理です。地図、系統図などのフリップを多用し、他の市町村の事例を交えながら3時間びっしりと喋り続けなければなりません。とても辛いです。でも、誰かが訴え続けなければ町は気が付きません。町は何に気付かなければならないのか。字(あざ)の施策が失敗だったことに気付かなければならないのです。町は過去に二度の失策をしています。そしていま、合併がらみで三度目の失策を犯す可能性が非常に高いのです。

一度目の失策は昭和31年に大字大河原を廃止し、その区域の小字を大字なしの小字にしたことです。地番が大字起番の地域や住居表示実施済みの地域に住んでいる方には分り難い話でしょう。また、大字なしは他にも沢山あるよと言う人もいるかもしれません。でもちょっと違います。宮城県でも大字なしの区域を持つ(持っていた)市町村は、亘理、岩沼、塩釜、岩出山その他がありますが、それらは藩政村が単独で町村制下の町になったから大字が要らないのです。ところが、大河原町は複数の藩政村が合併して町村制下の町になりました。ですから、当初は大字大河原があったのです。ところが、昭和31年に金ヶ瀬村と合併する際、ある種の思想が頭をもたげて来たようです。市町村名と大字名は別物なのに、どちらの名称も大河原なものだから、ごっちゃにしてしまったのですね。大字大河原は大河原町の本流であり主体である。だから、大河原町の名称があれば大字大河原は不要である。大河原町とは大字大河原を指すのであるという思想です。大字大河原が本流なら他の大字は支流で、大字大河原が主体なら他の大字は隷属です。そこに地域差別の種が蒔かれました。当時の担当者がどのように考えていたのか、もう分らないことですが、こんな大字の取扱いをしたのは、宮城県で白石市と大河原町だけです。角田市や村田町では自治体名と同名の大字名を今も継続させています。

その後、二つ目の失策を施しました。その失策は昭和40年代から今日まで何度も繰り返されています。大河原町は住居表示を実施せずに町名地番整理で処理しています。町名地番整理そのものを悪いとは思いませんが、町名地番整理が実施されると大字名を外して大字なしの字にしてしまいます。これが、大字地域内での差別を生みます。たとえば、(大字)大谷字高田と(大字)大谷字砂田の区域を地番整理して高砂町にしました。住所は大河原町大谷字高砂町ではなく、大河原町字高砂町になります。でも、地番整理から外れた区域は従前どおり大字名を付して大河原町大谷字西原前と書かなければなりません。大河原町では自治体名+字名は新しくて進んだ地区。自治体名+大字名+小字名は古くて遅れた地区と見る住民が多いのです。大字名を付すのが嫌な住民は、大谷を外して自治体名+字名の簡便な住所にしてくれと要望します。本当は住所の表記形式に問題があるのに、いつしか大谷と言う地名が嫌われ者になってしまいました。金ヶ瀬字丑越を大河原字丑越にするという案も同じ理由からです。今でも時々、丑越地区の住民から金ヶ瀬を外して欲しいと要望があるそうです。トップが言うのですから間違いありません。他の町でも町名地番整理をしていますが、大字名を外すことはしません。例えば、角田市角田字町尻ほかを区画整理して豊町という字にしました。住所は大字の角田を付したまま、角田市角田字豊町になります。地域内で住所形式上の差別はありません。

三つ目の失策。それは平成17年に破談解散した合併協議会が結審した字名の取扱いです。この問題はまだ終わっていません。合併協議が再開されて、この結審事項がそのまま生かされたらそれこそ大変です。基本的に、大字大河原の本流主義、主体主義丸出しの安直な字名取扱いだからです。住民は大谷、金ヶ瀬を嫌がっているんだな。それなら大谷、金ヶ瀬の代わりに大河原を付してやろう。これなら住民は喜ぶだろう。そして、大谷は消滅に追いやられ、金ヶ瀬は削り取られる。金ヶ瀬の区域を、そこは大河原だと平気で言う。こんな馬鹿げた話がありますか。単に名称が変わるだけではないのです。大字の境界線が変わるのです。それによって地域変化が引起されます。その変化が地域の将来にとってプラスになれば良いのですが、そうでないから大変なのです。ここはやはり山口百恵さんに登場願って♪「絶体絶命」を唄ってほしい。♪さぁさぁさぁさぁ”はっきりカタをつけてよ”やってられないわ♪。そういう心境です。それにしても山口百恵さんは不思議な歌手ですね。この歌を吹き込んだのは二十歳そこそこだと思いますが、なんだか三十路女が唄っているように聞こえます。声質のせいだと思いますが、嫌いじゃありません。
[65312] 2008年 5月 30日(金)07:22:55千本桜 さん
柴田3町合併、字(あざ)
[65294] 2008 年 5 月 29 日 (木) 05:14:33 揖斐の山 さん
確かこの枠組みは角田市が抜けて頓挫したのでは。
2005年に柴田町・村田町・大河原町合併協議会が破談解散した後に浮上してきたのが、角田・大河原・村田・柴田による1市3町合併構想です。この構想は角田市が抜けて不発に終わりました。2市7町合併構想と言うのは、それとは別物で仙南地域の全市町を対象にした合併構想です。合併すれば面積は約1,550平方キロメートル、人口およそ19万の大きな市になります。合併に興味のある地域住民の多くが「いつかは仙南全体が合併するだろうね」と言いながら、それがいつなのか誰も明らかにしない夢想花のようなものです。

[65296] 2008 年 5 月 29 日 (木) 09:14:56inakanomozart さん
したがって「字」という言葉は、よほどの山奥の人家もまれな地域で使うものだと思っていました。(語弊があったらごめんなさい。)
いえいえ、構いません。清水に住んでいる従姉弟に「いまでも字なんてあるの?イヤね・・・」と言われたことがあります。私の周辺に住んでいる人たちも「字」には抵抗があって、特に「大字」の字句は嫌われ者です。私も「大字」や「字」の字句が入る住所は長くて嫌なのですが、時々、これは便利と思うこともあります。例えば、白石市白川犬卒都婆小松方頭5と書くと、どこで区切ったらいいのか苦しくなりますが、白石市(旧村)白川(大字)犬卒都婆(字)小松方頭5と書くと地域が鮮明に見えてきたりします。「大字」や「字」を「の」に置き換えて、白石市の白川の犬卒都婆の小松方頭の5と読めば、何だか楽しい地誌の勉強になったような気もします。
[65279] 2008年 5月 28日(水)06:53:11千本桜 さん
町名地番整理、地番の起番など
[65276]88さん
88さんもお忙しいでしょうに、質問の一つ一つに丁寧にお答えを戴き感謝しております。多謝。
法務局に足を運ぶことは滅多にありませんでしたが、住居表示および町名地番整理の新旧対照表を無料閲覧するために、たま~に出向くようになりました。

この旧図などの写し(いずれかの地番を特定する必要あり)を正式に請求すると、確かに500円必要で、法務局の証明印がつきます。しかし、法務局にもよりますが、コインコピー機を備え付けてあり、
この方法がとれると助かります。コインコピー機の有無は憶えていませんが、近日中に法務局を再訪してみます。

町名地番整理
法務局の新旧対照表にも「町名地番整理」と書いてあり、「字名地番整理」とは書いていませんでした。ただ、個人的な慣れでしょうが、町名よりも字名がしっくりするんですよね。もしかすると、小字必須地帯に住むゆえの感覚かも知れません。町名という感覚がありません。でも、これからは「町名地番整理」という用語を使うことにしてみます。

「一村通シ番付ニスル」か、又は「大村ニテ地形ノ都合ニヨリ『幾箇ニ区別シ別段ニ番付スル』モ実地紛糺ナキ様処分スヘキ事」と、村単位を主としているように読めます。
なるほど、なるほど。ありがとうございます。このことに興味がありました。短いコメントですみません。時間が来てしまいました。これから直ぐに出かけなければなりません。
[65215] 2008年 5月 22日(木)08:32:49【1】千本桜 さん
町名地番整理
[65115]88さん
地番がないため不動産登記簿は存在しませんが、地図(不動産登記法第14条による地図等)の上では存在しています。

88さん、丁寧なご回答ありがとうございました。それで昨日、法務局に行って参りました。地図閲覧一件につき500円だそうで、閲覧するのを躊躇してしまいました。何箇所も閲覧したかったので、10万円ぐらい用意していかないとだめみたいです。単に地図上の地名を見たいだけなんですと話しましたら、備え付けの住宅地図を見てくださいと言われました。そんな訳で、知りたい箇所の地名を住宅地図から探してみたのですが、やはり釈然とせず未確認に終わりました。収穫を得られずに空戻りするのもなんですから、町名地番整理による字名と地番の新旧対照表(これは閲覧無料)をチェックしてきました。

町名地番整理といえば、隣接する角田、大河原両自治体の字(あざ)に対する方針の違いに興味を抱いておりました。両自治体とも基本的には、自治体名+大字名+小字名+番地で住所を表わす小字必須の地域です。角田市の町名地番整理で最も新しいのは豊町だと思いますが、ここは(大字)角田字町尻や(大字)梶賀字一里壇に跨る区域を土地区画整理して誕生した新しい字(あざ)です。大部分が(大字)角田の領域で、(大字)梶賀の領域は僅かです。新しく誕生した豊町の住所は角田市角田字豊町で、(大字)角田を冠しています。これに対し、大河原町で最も新しい町名地番整理区域の南平は、(大字)金ヶ瀬字下川原など複数の小字(すべて金ヶ瀬の領域)に跨る区域を土地区画整理して生まれた字(あざ)ですが、新しく誕生した字の住所は大河原町字南平で、(大字)金ヶ瀬が省かれています。ここでもう一度88さんにお願いがございます。自分の考えを再確認したいので次の点をお尋ねいたします。
1・私としては、「町名地番整理」より「字名地番整理」の方がしっくりするのですが、「字名地番整理」という用語でも通用するのでしょうか。
2・町名地番整理時に大字名を温存するか省略するかについては、国の方針・指導がなくて市町村の判断に委ねられているのでしょうか。
3・住居表示とは異なり、町名地番整理の場合は住所と登記簿の字番地は一致するんでしたよね・・・?。

ついでにもう一つ。小字必須の地域に住む者の素朴な疑問です。大字単位に地番を付す地域は、いつからそのようになったのか。これについては、明治22年市制町村制発足と同時に大字起番を採用した地域もあると思って良いのでしょうか。何か良く分らないのですが、小字必須が当たり前の地域に住んでいる者の観点からすると、場所特定を簡易にするために後になって大字起番が考えられたのであり、最初はどこも小字必須が一般的だったのではないかなどど考えているのですが、どうも分りません。

脱字一文字挿入
[65107] 2008年 5月 13日(火)06:52:10千本桜 さん
土地登記簿
おはようございます。
初歩的なことが分からず恥ずかしいのですが、ちょっと教えてください。
国有地のため、○○町大字△△字××の区域に無番地があったとします。
○○町は大字制を廃止し、「○○町大字△△字××」を「○○町字××」にしたとします。
住居表示導入によって大字区域が無くなるのではなく、単なる大字廃止です。
この場合、登記簿はどのようになるのでしょうか。

1・○○町大字△△字××のままである。
2・○○町字××に変更される。
3・無番地だから登記簿に記載されない?。
[65089] 2008年 5月 11日(日)22:03:26千本桜 さん
原町の人口急増の理由
[65064]白桃さん
下の約30年の間に、原町の人口急増の理由がよくわからないのです。

大雑把な数値ですが、相馬地域3大都市の人口です。
都市1889年1920年
中村5,6008,000
小高4,2466,200
原町2,6008,700
1889年には中村、小高よりも人口の少なかった原町村ですが、1920年には相馬地域最大の人口を抱える町に発展しています。人口急増の切っ掛けは、1898年の常磐線開通にともなう機関庫の設置に中村町(現相馬市)が反対したため、機関庫・車掌区が原町に設置されたことにあります。ちょうどこの頃、養蚕業が急速に普及し、明治末期から大正期にかけては製糸・織物の工場が進出する新興都市になっていました。
ここから先は想像で書きます。機関庫・車掌区は偶然に原町に転がり込んできたのだろうか。何か違うような気がする。そのころ既に、相馬地域は原町に中心性の集積を求めて胎動していたのではないか。そんな気がしてならないのです。相馬藩の古い本拠地・小高は平地が狭い上に地域の南に寄り過ぎている。相馬藩の居城地・中村は地域の北に寄り過ぎている。この都市配置では新しい時代にそぐわない。地域の中央部に位置し、しかも広い平地にある原町は、♪花の舞台の幕が開く~、と米倉ますみの♪「俺の出番はきっと来る」を唄いながら、この時を待っていたのではないか。そんな気がしてならないのです。ちなみに、相馬藩が北寄りの中村に城を構えたのは伊達藩を意識してのことだそうです。歴史のことは苦手ですが、相馬藩は伊達藩を恐れていたのでしょうね。ところで、南相馬市より北相馬郡が南なのは な~んでかフラメンコ、オレッ!。
[65031] 2008年 5月 8日(木)23:39:27千本桜 さん
原町
[65019]白桃さん
(旧)原町市(現:南相馬市)のように、存在感の薄い、得体のしれない街にスゴ~く興味をそそられる
後背人口約20万、DID人口2万強の都市にしては、確かに存在感が薄いですね。地方生活圏の中心都市ですから、もっとアピールするものがあってよいと思いますが、イメージがぼんやりしています。「原」も「町」もありふれた字面ですし、地域名の相馬はライバルの中村が使っているし、そんなこんなが災い?しているのでしょうか。それに、鉄道・国道の分岐点になっていないことも原因の一つかなと思います。国道網図を見る限りでは、物足りない都市に感じますよね。この原町の中心商店街は、同規模都市(同規模自治体ではない)のそれに比べ、ぼんやりして間延びした感じに見えます。では、それに代わって国道6号沿道の郊外商業地が賑わっているかと言うと、そうでもないから不思議です。むしろ、都市規模としては下位に位置する相馬(中村)の郊外商業地の方が賑わっているように感じます。とは言うものの、相双生活圏最大の都市が原町であることはまちがいありません。
「存在感」という語句は、安易に使用しない方が良いと思います。
最近よく耳にするのでは、スポーツ選手の「結果が出せなくて残念です」という言葉。まだ私には馴染まない言葉です。
[64945] 2008年 5月 2日(金)13:34:26【1】千本桜 さん
字(あざ)
[51483]YSKさん
太田市の場合は地番は「大字」単位に付番されています。「1番地」は大字の中に1つしか存在しません。したがって、わざわざ「字」を住所に書かなくとも場所は特定されます。
古い書き込みを引っ張り出して済みません。私が住んでいる地域は「小字」単位に付番されているのですが、YSKさんの地域が「大字」単位に付番されるようになったのはいつの頃でしょうか。ご負担をお掛けしますが、是非知りたい状況にあります。

[64930]牛山牛太郎さん
何故なんでしょうか?検索すると「船迫字新千代ノ川」で出ますが、どうなんでしょう?
前の合併協議会は既に解散していますが、あの合併協が結審した町名・字名取扱事項の中で「字新千代ノ川」の扱いがずーっと気になっていました。例えば、柴田市になると大字船岡字七作は柴田市船岡字七作になります。大字船迫字土平は柴田市船迫字土平です。ところが、字新千代ノ川だけは自治体名に字が直結して柴田市字新千代ノ川になります。原案立案者がそのような扱いをした理由も分かっているのですが、それが結果として良い事なのか疑問に感じています。いま、そのことに深く言及する余裕がない状態にあります。O町の字問題で手がいっぱいなんです。正念場です。

[64931]白桃さん
香川県東かがわ市の三本松も、大内町と合併することとなった「昭和の大合併」前までは、
ちょっとお尋ねします。かつての三本松町も小字ごとに番地が振られ、三本松町大字三本松字○○1番地または三本松町字○○1番地のような住所表記になっていたと思います。ところが今では小字なしで三本松1番地ですよね。いつ大字単位の付番に切り替わったか憶えていらっしゃいますか。ぎりぎりのところでリアルタイムで憶えていらっしゃるような気がするのですが・・・。

[64933]小松原ラガーさん
いつの頃からか「立花」の字が使われるようになり、その頃からの地名・名称は「立花」が使われているのかと思います。
(中略)
昔の「字XXX」という住所表記の時代には「立花」という表記は存在したのだろうか・・・。
1889年に上之島、栗山、大西、三反田、尾浜、七松、水堂、西難波、東難波、塚口、東富松の11村が合併して立花村が誕生しました。合併で消滅した村は立花村の大字として引き継がれています。住所は自治体名+大字名+小字名で構成されていた筈ですから、下記のように表わされていたものと思われます。
自治体名大字名小字名
立花村大字上之島字○○
立花村大字栗山字○○
立花村大字大西字○○
立花村大字三反田字○○
立花村大字尾浜字○○
立花村大字七松字○○
立花村大字水堂字○○
立花村大字西難波字○○
立花村大字東難波字○○
立花村大字塚口字○○
立花村大字東富松字○○
「立花」は自治体名であり、大字としての「立花」はありませんでした。また、小字にあたる字○○の中に「立花」という地名があったかどうかは資料がないので分かりません。たぶん字立花は存在しなかったと思いますが、定かではありません。
あと、もう一つ。面白いことに、立花小学校、立花西小学校、立花南小学校、立花北小学校、ならびに立花中学校ともに立花町にも西立花町にもないのですよね。
立花村の心臓部は村役場が所在した大字栗山とその周辺だったのではないかと推察します。ですから「立花」の名を冠する施設はその区域に多かったものと思われます。立花小学校(栗山)、立花南小学校(三反田)、立花北小学校(栗山)、立花中学校(上之島)などです。翻って立花駅周辺の立花町や西立花町に目をやれば、昭和10年ころまでそこは一面田畑の広がる土地でした。
JRより南側は古くからの町であり、北側はあとから開けた(といってもずいぶん前のことなのでしょうが)ということでしょうか。
これに関しては、尼崎市のHPに詳しい記述があります。東海道本線立花駅北側の立花町と南側の七松町は同時期に宅地開発されたようです。

脱字一文字挿入
[64914] 2008年 4月 29日(火)10:01:03千本桜 さん
商業統計調査結果と宮城県南部の現況
平成19年6月に実施された商業統計調査結果が発表されましたので、宮城県南部4市9町の年間小売販売額ランキング表を作ってみました。小規模な自治体がどんぐりの背比べをしている地味な地域ですが、それなりに都市間競争の火花を散らしたりもします。現在のところ、強い吸引力をもって商業の核となっているのは名取市と大河原町のようです。それは、人口1人当たりの販売額に表れています。不気味なのは名取市です。本当は下表に示した数値以上に凄いことになっているはずです。前回調査(平成16年)と比べた従業者数は、白石市マイナス15%、柴田町マイナス9.8%、角田市マイナス1.5%。そのようななか、名取市は41.7%の急上昇です。現在、名取市ではダイナミックに大型店の出店が続いています。オープンしたばかりの店舗については、従業者数をカウントできても年間販売額が跳ね返ってこない。調査時期がそのようなタイミングだったのではなかったかと思います。ですから、今現在では名取市の販売額はもっと増加し、人口当たりの販売額も大河原町に迫る勢いではないかと推測しています。地味で目立たない地域ですが、白石、角田、岩沼が商業の中心核だった明治大正時代に比べ、ずいぶん変化したものです。

順位=年間小売販売額を基準にしたランキング
販売額=平成19年6月1日現在の年間小売販売額(単位は百万円)
市町人口=平成19年10月1日現在の推計人口
1人当たり=年間小売販売額を人口で除した数値(単位は万円)

順位市町名販売額市町人口1人当たり
名取市88,20169,346127
岩沼市39,50944,45689
大河原町39,49923,631167
白石市35,97838,68893
柴田町34,30239,55387
亘理町27,53935,18178
角田市24,73132,62476
蔵王町12,66413,12696
村田町10,34512,44783
10丸森町7,76516,22948
11山元町7,34417,20043
12川崎町5,24310,26551
13七ヶ宿町6361,81835
[64907] 2008年 4月 28日(月)03:09:23千本桜 さん
加西、富士見、柴田
[64501]k-aceさん
玉丘町(富合村→加西町→加西市)に「北条」営業所があるのには違和感ありますが、「加西」営業所等に営業所名を変えるほうが混乱が大きいのでしょうか。
この場合、混乱は起きないと思います。私が玉丘町あたりに営業所をオープンするときは、北条営業所ではなく加西営業所にさせていただきます。(♪みんな夢の中)
ところで、この加西本町という交差点名表記ですが、地元の人は本当に加西本町と呼んでますか?。私は違和感を覚えます。ここはやはり、北条本町ではないかと・・・。

[64785]YSKさん
町名・字名の取り扱いでは同村の名称を「富士見町」として残し、その下に字名を付ける方向。
芳賀村は「芳賀」の名称を消滅させて前橋市に合併しましたが、富士見村は「富士見」を残すんですね。現在の富士見村田島は前橋市富士見町田島になるわけですが、もし、何らかの理由で字名の前に「富士見」の名称を付すことができなかったとします。その場合、YSKさんなら、どのようになさいますか。
1・字の前に残せない場合は、「富士見」の名称を残すことをあきらめる。
2・特定の字の名称を「富士見」に改称する。
3・字の一部を分割して(字を一つ増やして)、そこに「富士見」の名称を付す。
唐突な質問で申し訳ありません。不意にこんな質問をされても困りますよね。パスして下さっても構いません。ちなみに、私は苦渋しながらも安全を狙って1を選びます。2と3を選択するのは、その場所に「富士見」と呼ばれる集落があった場合です。でも、富士見村には富士見と呼ばれる集落がないから無理ですね。

牛山牛太郎さん
柴田町字新千代ノ川の場所をご存じないですか。名称から推測すると、大字船迫字千代ノ川から分立した新しい字で、人口0人の農地ではないかと思われます。柴田町の住所は、住居表示実施区域であれば柴田町○○一丁目。それ以外は柴田町大字○○字○○で表わされますが、新千代ノ川だけは柴田町の後に大字なしで字新千代ノ川になるようなんです。この種の住所形式は大河原町では沢山見かけますが、柴田町では非常に珍しいと思います。ここ一ヶ所だけかも知れません。なにか訳でもあるのでしょうか。
船岡のこの場所を走行中に、「直進↑船岡・大河原」、「右折→柴田」の道路案内板を見て、思わず後ずさりしてしまいました。本当に車をバックさせて案内板に見入ってしまったのです。右折の柴田ってどこなんだろうと、あれこれ推測にふけった訳です。柴田の上に国道4号マークも記載されているので、この場所を指しているのは分るのですが、柴田町船岡で「あっちに進めば柴田ですよ」と言われてもねぇ・・・。
[64905] 2008年 4月 28日(月)00:19:06【1】千本桜 さん
あなたならどうする?愛媛町の選択
つまらない作り話だけど、聞いて下さいますか。私が生まれて育ったところはどこにもあるような海辺の小さな港のある町です。名前を愛媛町と言います。明治22年に愛媛、香川、徳島、高知の4村が合併してできた町です。合併して消滅した旧村は、大字愛媛、大字香川、大字徳島、大字高知として愛媛町に引き継がれました。ところが昭和31年、愛媛町は町名と同名の大字は不要として大字愛媛を廃止します。廃止された大字愛媛の小字は大字なしの字(あざ)になりました。後に、これとは別の理由で大字香川と大字高知の一部にも大字なしの字が発生します。大字香川の区域では昭和45年ごろから次々に土地区画整理事業が進められ、今も進行中です。区画整理が済んだ区域は字名地番整理が実施されて新しい字になります。愛媛町はこのような字には大字を付さない方針ですから、大字香川に属さない大字なしの字が広く分布するようになりました。同じように大字高知でも字名地番整理が実施され、大字高知の区域内には大字高知から分立した大字なしの字が散らばっています。文言ではお伝えできないほど複雑に字界が入り組んでいます。
愛媛町は広島町、岡山町と合併して西日本市になる予定です。3町は住所の表記形式を新市名+大字名+小字名+番地にすることで合意していますから、西日本市愛媛町大字○○字○○にはできません。でも、愛媛町は消滅する町名への愛惜深く、その名をどこかに残そうと考えました。どこに「愛媛」の名を残そうとしたと思いますか。愛媛町は町内すべての大字なしの字の前に大字愛媛を付すことで「愛媛」の名を残そうとしました。大字香川や大字高知から発生した大字なしの字も、みな大字愛媛の小字だというのです。その結果、大字高知の区域に大字愛媛の飛地が散らばる複雑な境界になりました。その複雑な境界を解消すべく、大字高知を大字愛媛に統合して消滅させることにしました。藩政村を継承した大字がこのような状況に追い込まれて消滅する例は珍しいと思います。大字高知はとんだとばっちりを受けたものです。大字高知を大字愛媛に統合することで新たな問題が生まれました。大字高知の三崎も大字愛媛の三崎も、どちらも大字愛媛字三崎になって区別が付かなくなりました。そこで、愛媛町は「愛媛高知」という名の大字を新設し、大字高知の三崎を大字愛媛高知字三崎にすることで大字愛媛字三崎との同名回避を図りました。それにしても大字愛媛高知は変な大字です。属する小字は三崎だけですから小字の総称としての体をなしません。このように大字の体をなさない大字が新設された例を私は知りません。
ごめんなさいよ。こんなつまらない作り話を聞かせちゃって。でも、これは愛媛町だけの問題ではなさそうです。自治体名+大字名+小字名の表記形式と、自治体名+字名の表記形式が入り組んだ地域なら、どこでも起こりうる可能性があることだと思います。そこで皆様にお願いがございます。大字高知のように藩政村を継承した大字が、昭和の大合併以降に他の大字に統合されて消滅した例。および大字愛媛高知のように一つの小字のためだけに新しい大字が設置された例。以上の例をご存知でしたなら教えていただけないでしょうか。でも、この作り話は解りにくかったでしょう。たぶん、これは文言より図形で伝えるべき事柄なのです。そこで、あなたならどうする?愛媛町の選択と題し、事の成り行きを地図に表わしてみました。

一箇所、誤字訂正しました。
[64186] 2008年 4月 1日(火)08:10:29千本桜 さん
仙南3町合併、船岡城址公園と一目千本桜、う暗いなクイズ、寒川
[63924]揖斐の山さん
宮城県の仙南3町地区に於いて合併協設置に向け住民有志が申請書を知事宛に提出しました。
署名集めがスタートし、周りが俄然あわただしくなってきました。

[64020]千本桜
館山は360度のパノラマを楽しめる自然が造った展望山です。ところが、柴田町は柴田町側だけが見えるように見晴らし整備し、反対側は見えなくても良いだろうと言わんばかりに藪で覆って目隠ししています。
ついに、その藪の一部が切り払われ、館山(船岡城址公園)からの素晴らしい眺望が戻ってきました。頂上に上り詰めると、残雪の白い蔵王連峰がドーンと目に飛び込んできます。眼下には船岡市街に加えて大河原市街も見渡せるようになり、それまで藪に覆われて見ることができなかった大河原側の一目千本桜も見落とせるようになりました。柴田町に感謝します。でも、やっぱり自治体意識が見晴らし整備を邪魔している点はまだまだあります。眺望に優れた館山に真価を発揮させるには、三町合併して行政の垣根を取り払うしかなさそうです。頂上から景色を眺めていたオジサンに「見晴らしが良くなりましたね」と話しかけました。オジサンは「遅まきながらやっと・・・」と言いました。同感!同感!。遅まきながら、以前より眺望度をアップした今年の館山(船岡城址公園)に、皆さん、どうぞ花見に来てください。

[64129]いっちゃんさん
・大河原~船岡にかけて車窓に見えた白石川のほとりに立ち並ぶ桜の木々・・・参りました。蕾が膨らむタイミングを計っているといった感じでしたが、これらが咲きほころんだときにはものすごいのでしょうね。
そうですよ、本当にものすごいのです。私がこの桜並木をすごいと思うようになるには、一つのきっかけがありました。あれは四十年近くも前の春のこと。桜が満開の朝でした。いつものように友達と駄弁りながら仙台行きの電車に揺られていました。普段なら、主な駅の到着時刻を知らせて終わる車内アナウンスですが、あの日の車掌は違っていました。突然、窓から見える桜並木の説明を始めたのです。車内は一瞬静まり、やがて微かな笑いとどよめきに変わりました。私と友達も顔を見合わせ、はぁ?と驚いて笑いあいました。通勤通学客にとって、この桜並木は特筆するほどのものではない日常のもの。この程度の桜並木は日本全国どこにでもあるだろうと思っていたものですから、車掌のアナウンスが突拍子もなく感じられておかしかったのです。その日を境に、一目千本桜に寄せる私の思いが変わりました。桜並木を美しいと感じる心を抑えられずにアナウンスしてしまった車掌の感性に、私の心も揺り動かされたようです。

[64142]白桃さん
町村名を抹消して「人格」なき郡で止めるなど何事ぞ、と、文句を言っても仕方ありませんが、ともかく♪私はガマンできな~い~。
私もガマンできな~い!。それが伊具郡丸森町のように一郡一町の場合であれば尚更です。
1.私の職場のエライ様は海外出張中で、当然、部屋の電気は消えております。どこの国に行ってるのでしょう?
(ヒント)部屋に入った私、思わず「うっ、暗いな・・・」
和寒(わっ、さむ・・・)。ハイレベルなクイズにハリコフってしまいました。ウクライナ。
2.首都にはホテルが少なく「民宿」が多い国は?
(ノーヒント)
その国の首都と姉妹都市関係にある仙台市民が訪れた際、確かに「みんすく」に泊まったそうです。ところで、白ロシアの「白」って何なんでしょうか。

[64144]Issieさん
現在「高座郡」に唯一残る 寒川町 は,どちらの類型に属するのでしょうか。
Issieさんのことですから、既にご自身の答えをお持ちの上で書かれているのでしょうが、敢えて反応いたします。と申しますのは、かれこれ十数年前に寒川町域全般を徒歩で見て回った事があるからです。その時の印象を基にすれば、藤沢、茅ヶ崎型ではなく、やはり相模原・大和・綾瀬・座間・海老名型に分類すべきだろうと思います。歴史的には旧一之宮村に小規模な町場らしきものがあったのでしょうが、都市というには力不足ではなかったでしょうか。それに、旧一之宮村が肥大化して現在の寒川町があるようには思えないのです。寒川駅から町役場、そして寒川神社へと歩きながら、私は軽いストレスを感じていました。どうも、民家、空地、商店、農地、工場などが混在する空間にストレスを感じてしまう性分のようです。どーんと一本、明確な商店街とかビジネス街があってほしいと思うのですが、寒川にはそれがなかった。寒川で記憶に残ったことは、想像以上に大規模工場が多かったこと、農業用ビニールハウスが随分目に付いたことです。ところで、相模一の宮寒川神社が位置するのは旧宮山村ですが、その南隣の村が一之宮村と呼ばれているのは何故でしょう。一之宮が門前町だとすると、神社と門前町の間隔が離れすぎているように見えるのですが・・・。倉見にも行きましたが、どのような順路で歩いたか思い出せなくなってしまいました。
[64020] 2008年 3月 15日(土)12:55:44千本桜 さん
観光行政
釜臥山から見下ろす むつ市の夜景は美しく、その形状から夜のアゲハチョウと呼ばれています。左の羽は大湊、右の羽は田名部です。上空から見下ろす大河原、船岡も左右対称の羽を広げた蝶のように美しいものです。標高136メートルの館山を胴体に、同じ規模の市街地が左右に広がる不思議な構図をしています。館山は大河原、船岡の市街地だけでなく、角田盆地、村田盆地、そして秀麗な蔵王連峰を見渡せる自然の展望台で、観光里山として優れた資質を持った山です。でも、この山はNHK大河ドラマ「樅の木は残った」の放映を機に変わってしまいました。柴田町は山に資料館を建て、リフトカーを建設し、平和観音像を建立して観光開発に励みましたが、大切なものを忘れているように思えてなりません。そもそも、館山は360度のパノラマを楽しめる自然が造った展望山です。ところが、柴田町は柴田町側だけが見えるように見晴らし整備し、反対側は見えなくても良いだろうと言わんばかりに藪で覆って目隠ししています。この藪は行政が造った意地悪な壁です。せっかく山の頂上まで登って来てくれた観光客に360度の展望を提供せず、180度だけ見せて悦に入ってる感覚は正にナンセンス。観光事業者としてのサービス精神に欠けるのであります。3町合併したなら早くこの意地悪な壁を取り払い、館山から眺める360度のパノラマを取り戻したいと願っております。
[63998] 2008年 3月 12日(水)23:33:33千本桜 さん
一目千本桜ナビゲーション
[63970]白桃さん
なんか明るいな!と思ったら駅のポスターが桜色一色。弘前、北上、角館、三春などにまじって「船岡」という字が目に入りました。完全な間違いではないと思いますが、これじゃ大河原の立場はどうなるの・・・。
[63975]まかいのさん
大河原町と柴田町のどちらか一方を選ぶわけにもいかなさそうなので、「船岡」表記で落ち着いたのでしょうか。
[63976]熊虎さん
ツアー名に「白石千本桜」が入っています。行程を見ると「白石川堤の千本桜」になっていて、

南東北を代表する桜の名所といえば「船岡城址公園」と「白石川一目千本桜」ですが、この二つは隣接しているので一括して扱われる場合が多いようです。二つの場所を一つの地名で表わすと船岡か大河原か、はたまた白石かという、よだれが出そうな究極の地理的判断を迫られて昨夜は眠れませんでした。得意の我田引水の術を使いたいのですが、なぜか今夜は理性が邪魔して使えません。客観的に見て、一目千本桜に船岡城址公園が加わると船岡に分があると言わざるをえないようです。ただし、一目千本桜単独だと大河原に脚光を浴びせたい。もちろん大河原・船岡の連記でも良いのですが、一つに絞ればやはり大河原でしょう。理由は次の点にあります。
1・一目千本桜は白石川の土手に延々8キロも続く桜並木ですが、ざっと見て大河原町域に5キロメートル。柴田町域(船岡)に3.5キロメートルの配分です。
2・一目千本桜が今日あるのは、大正時代に大河原町出身の高山氏が苗木を寄贈したのが始まりです。
3・しばた桜まつり船岡城址公園を会場として行われ、おおがわら桜まつりは一目千本桜と銘打って白石川堤を会場に行われてきた経緯があります。
以上の点で一目千本桜は大河原に分があるのですが、花見客には行政界など関係ありませんね。ですから境界など取り払って大河原町金ヶ瀬のここから柴田町東船迫のここまで、てくてく8キロ歩いてみましょう。8キロも歩くのは苦手という人のためにハイライト区間3キロコースを紹介いたします。起点は大河原駅、船岡駅どちらでも良いのですが、ここでは大河原駅を起点にします。大河原駅を出ると徒歩3分でおおがわら桜まつり会場に着きます。河川敷には沢山の出店が並んで無料休憩所やトイレも仮設され、なぜか郵便局まで設けられています。最近人気のお花見遊覧船もここから出航します。お花見宴会には最適な場所ですが、ここで飲み食いだけして帰っちゃだめですよ。一目千本桜は桜並木の下を歩かなきゃ。直ぐそこの末広歩道橋に行ってみましょう。この橋は少し揺れたりするのですが、中央に立てば両岸の桜並木を見渡せるビュースポットです。あ、橋の下を遊覧船が行きます。韮神堰は一目千本桜随一の景勝地です。白い水しぶきを立てて流れる白石川、咲き乱れる桜並木の遠くには白い残雪の蔵王が見えます。錦絵!、そんな言葉が浮かんできます。このフォトジェニックな風景を収めにカメラマンが朝早くから集まってきます。右手に萩の月の工場が見えると大河原町ともお別れで柴田町に入ります。行く手に赤い水門が見えてきました。この辺りで地形が大きく変化します。北の韮神丘陵と南の館山丘陵が迫り、狭隘になった平地部を国道4号、白石川、東北本線、旧国道が束になって走って行きます。向こうから電車がきました。仙台発白石行の電車でしょうか。お花見サービスで徐行運転をしています。手を伸ばせば桜並木が届きそうな電車の窓から乗客が手を振れば、土手の花見客も手を振りかえす春のポエム。川端揚水場の辺りも大木の桜が多いところです。永年の風雪に耐えた老木たちは風格に満ちた樹姿をしてボリューム感あふれる満開桜になります。行く手に美しいアーチを描いたさくら歩道橋が見えてきました。行ってみましょう。この橋は一目千本桜と船岡城址公園の桜を一挙に見渡せる新名所です。船岡城址公園の館山は麓から頂上まで桜色に染まり、さくら歩道橋の花見客はため息まじりの歓声をあげています。そろそろ3キロメートルの桜散歩も終わりです。さくら歩道橋から徒歩2分で船岡駅の裏口に到着です。また来てくださいね。
[63991] 2008年 3月 12日(水)07:20:23【2】千本桜 さん
柴田郡南部3町合併構想
[63976]熊虎さん
大河原・柴田・村田3町の合併構想は、私が初めて市町村合併に関心を持った、92年4月22日の朝日新聞記事で紹介されていたもので、それだけ古くから話があるわけですが、常に村田町が足を引っ張ってきました。
先の合併協議が破綻してから僅かの年数しか経っていませんが、状況が大きく変わってまいりました。先の協議破談は大河原町の住民投票で反対が賛成を上回ったためとされていますが、それは上っ面の現象に過ぎません。合併破談の根源は、柴田、村田両町長が合併に乗り気ではなかったことにあります。ところが現在、村田町では前町長に代わって合併推進派の新町長が就任しています。これで、合併推進町長が大河原町長、村田町長の二人になり、乗り気でない町長は柴田町長の一人だけになりました。また、住民の動きについてですが、一般住民はまだまだ無関心のようです。でも、一部の住民有志たちが動き出しています。今度こその思いでおります。それにしても、合併に乗り気でないS町長。S町は単独市制ができる町だと豪語して世に出ましたが、減少が始まったS町の人口が5万人を超えるのをいつと踏んでいるのかな。世の中の人口推移を勉強せい!、と言いたい気持ちです。

変換ミスなどを訂正しました
[63981] 2008年 3月 10日(月)23:28:47千本桜 さん
村のままで消滅した大都市。加美石村。筑紫野市。
[63867]白桃さん
東讃5大都市?
引田駅4,315人、松原村2,402人、三本松村2,737人、津田駅5,083人、志度駅5,579人
仙南6大都市?
白石駅3,313人、金ヶ瀬駅1,063人、大河原駅1447人、村田村1,200人、舩岡村1,181人、角田本郷3,105人
白桃さんが挙げられた1875年(明治8年)共武政表による東讃5大都市および仙南6大都市の中で、町制を経験せずに村制のままで消滅した所が一つだけあります。それはどこでしょう。松原村は改称して白鳥本町になりましたから該当しません。すると、残るのは金ヶ瀬駅しかありませね。明治8年共武政表に記載された金ヶ瀬駅とは、当時の平村に形成された宿駅名のことです。明治8年当時には丸森、川崎、槻木などを差し置いて大河原、船岡と大差ない人口を抱えていた大都市!金ヶ瀬は、なぜかその後の発展が停滞。昭和33年には大河原町に吸収合併される始末。それだけなら、まだ我慢できます。しかし、合併して50年経つ今日、旧金ヶ瀬村の一部を指して、「そこは金ヶ瀬ではない。大河原だ。」と言われても、何のことやらチンプンカンプン。痛みも感ぜず、のほほんとしているのであります。大河原町という自治体に属することと、大河原という大字に属することは異質なことなのに、その違いが分らず、のほほんとしているのであります。平和でいいね(自虐)。合併して自治権を失うと、伝承力まで失うものなのか。児島人による児島人の英才教育を受けたhiroroじゃけぇさんが羨ましい。

[63922]okiさん
本来「賀」美石であったものの、「加」美石と書かれるのが普通になり、消滅時には、公式にも「加」美石が使用されていたのではないか、と思われます。あくまで推測ですので、間違っているかもしれませんが。
賀美石村か加美石村か。これは本当に謎です。加美石村だと思いたいのですが、小学校や駐在所が賀美石を名乗っているのが、どうしても引っ掛かります。そこで、国土地理院へ行って旧版5万分の1地形図を閲覧してきました。その結果報告です。加(賀)美石村が誕生したのは明治22年です。加(賀)美石村が登場する最も古い地形図は明治34年測図のものですが、これには加美石と記載されていました。大正3年鉄補、大正14年鉄補、昭和5年鉄補、昭和19年部修、昭和26年応修の地形図がありましたが、いずれも加美石と記載されています。こうなると、やはり加美石村が正しいと受け止めざるを得ません。それでもやっぱり、賀美石幼稚園、賀美石地区公民館など、地区内の施設がすべからく賀美石を用いているのが不思議でなりません。

[63958]かぱぷうさん
朝倉街道駅周辺が山口村であったことに対して驚きを隠せずにいます。
その周辺が二日市の一部に思えてしまうのは市街地の発展の過程からして仕方ないかもしれませんが、もうひとつは住所表記の形式にも原因があるのでしょう。かばぷうさんの辺りでは、明治から昭和にかけて存在した村名を省略して自治体名+大字名(藩政村名)+番地で表わすのが一般的なのですね。例えば、筑紫野市+山口+55番地のように。短くて良いですね。でも、宮城県白石市などでは自治体名+明治から昭和の村名+大字名(藩村名)+小字名+番地で表わすのが普通です。白石市+白川+津田+稗田+55番地のようになります。この方式ですと属していた旧村名を忘れることはありませんが、長くて書くのが面倒。ところで、どうして二日市の武蔵でもないのに、山口の立明寺に「むさしケ丘」なる団地ができちゃったんですか。現地を知らない私などは、「むさしケ丘」って「武蔵」の一画かなと思ってしまいますけど・・・。
[63914] 2008年 3月 3日(月)06:26:28千本桜 さん
宮城県の人口最小町
[63867]白桃さん
高松市の繁華街が三本松に出現したような新鮮な感じでした。確かに、町レベルでは全国でもまれに見る都会っぽい街区だったのではないかと今でも自慢したい気持ちでいっぱいです。
三本松に遅れること30年~40年。白桃さんが南新町の町並みに感じたものと同じものを、私はいま大河原バイパスの景観に感じております。

[63912]okiさん
興味深く人口データを拝見いたしました。ただ、宮城県の人口最小町の欄に福島県岩瀬郡鏡石町が記載されているのが気になりました。素晴らしい一覧表ですので、書込み訂正が可能なうちに訂正して戴けるとありがたいです。
[63895] 2008年 3月 2日(日)08:30:06千本桜 さん
何でも有田
たぶん、地理は総合学なんでしょう。
[63848] 2008年 2月 29日(金)05:25:05千本桜 さん
職安再編、三本松、国道
2月26日の新聞に「職安17ヶ所廃止」の記事が載っていました。全国で17の職安が廃止される予定だそうです。宮城県内の職安は廃止対象になっていませんが、白石職安は降格して大河原職安の出張所になるとのことです。また一つ、仙南の都市間関係を見る思いがします。顔を残して臓器がえぐり取られる「代表都市白石」と、臓器は活発化すれど名もなく顔もない「中心都市大河原」の関係です。下に平成16年10月1日現在の職安別管内人口を集計してみました。
職安名管内人口
仙台1,265,517人
石巻219,632人
古川216,660人
塩釜200,530人
大河原135,674人
気仙沼95,375人
88,254人
築館79,135人
白石54,215人
白石職安の管内人口は約5万人と少なく、大河原職安までは14キロの近さです。このような状況ですと出張所への降格は避けられないのかもしれません。市町村の再編が進み、国県の出先機関の再編が進み、そして地域における核都市の再編も進んでいるように感じます。ちなみに、宮城県内には上記職安の他に大和、青葉の2職安出張所があります。

Yahoo!地図情報で大縮尺の航空写真が見れる地域が拡大しています。東かがわ市三本松南新町の航空写真を見てショックを受けています。この街区は三本松高校の移転跡地に昭和44年に誕生した商店街だそうですが、その都会っぷりな町並みに驚いています。街区内は明らかに民家とは異なるビルらしき建物で埋め尽くされているではありませんか。昭和44年当時の三本松を宮城県に当てはめれば、涌谷、若柳、中新田などと同等規模の都市ではなかったかと推測するのですが、涌谷、若柳、中新田にはこんな都会っぽい街区はありませんでした。もちろん、これは垂直写真ですからビルの高さが判りません。ビルに見えても実は2階~4階建ての低層ビルで、街なかを歩けばそれほど迫力は無いのかも知れません。しかし、どうしてこの場所にこのような新商店街が造られるようになったのか、それが興味です。旧中心街から商店が移転してきたそうですが、当時すでに商人たちは旧中心街に商業地としての先行不安を感じ取っていたのでしょうか。いずれにしても、当時の三本松は大胆な事業を成し遂げたものだと感じました。三本松で不思議に思うことがもう一つあります。推測ですが、高徳線が開通した当時の三本松は、線路の南側よりも北側、つまり旧中心街が栄えていたのではないでしょうか。それなのに、どうして駅は北側に背を向けて南側に造られたのか?不思議です。線路のルートをもう少し南にずらして、駅舎をもっと東寄りに設置することもできたのではないかと、勝手に想像しています。

国道が話題になっていますが、宮城県南を走る国道ですと4号をヨンゴウセン、6号をロクゴウセン、286号をニーパーロクと呼ぶ人が多いようです。113号はヒャクジュウサンゴウでしょうか。でも349号は何と呼ばれているのか分かりません。そもそも、それが349号であることを知らないで走っている人が多いのでしょう。399号に至っては、それが宮城県内を走っていることさえ知らない人が多いようです。私事ですが、ずいぶん昔に当時の建設省の人から、国道には「線」を付けないでくれと言われ、それ以来、国道には「線」を付さずに4号、6号、113号と書くようにしています。でもラジオ道路交通情報のオネエさんは4号線、6号線と言っていますね。それから、国道がらみでもう一つ。どうして、仙台トヨペット株式会社大河原バイパス店 とかミスタードーナツ大河原バイパスショップのように「バイパス」という字句を入れたがるのでしょうね。仙台トヨペットもミスドも大河原に1店舗しかないのだから大河原店や大河原ショップで良いと思うのだけれど、バイパスという字句(言葉)には何か人を惹き付ける魅力があるのでしょうか。私も時おり意図的にバイパスという用語を使いますが、長ったらしくなるから基本的には使いたくありません。スペースの少ない小さな地図に、むりむり「国道4号線大河原バイパス」などと書いてあるのを見ると、これは「国道4号」でいいっちゃなや~と思うのです。町内を何種類もの国道4号が走っている訳ではないのですから。
[63791] 2008年 2月 23日(土)08:33:13【1】千本桜 さん
スーパータウン日記
宮城県をいくつかの広域ブロックに分けて集会を開くとします。その集会が特殊産業などに偏るものでなく一般的なものの場合は、気仙沼、登米(佐沼)、栗原(築館)、大崎(古川)、石巻、仙台、大河原の七ヶ所に会場が設けられるケースが多いようです。四つに絞れば大崎(古川)、石巻、仙台、大河原になる公算が高く、三つに絞ればほぼ間違いなく大崎(古川)、石巻、仙台が会場に選ばれるでしょう。ところが、蔵王おろしがピープー吹きぬける某日の集会は異色でした。なんと、会場は大崎、石巻、大河原の三会場!。県南および仙台周辺の人は大河原に集まってくれという訳です。こうして最大会場になった大河原には数百人の人々が集まり、とある会合が行われました。昼食時に弁当をいただきながら先輩の某氏にそっと耳打ちする。「こういう状況を見ていると私は大河原ってスーパータウンだと感じるんですよ」。先輩某氏も「うん」と深くうなずきました。また一人、スーパータウン大河原を実感した人が増えたようです。それにしてもこのスーパータウンはいつまでスーパータウンのままでいるつもりなのか。つがる市や八幡平市より遥かにシティだというのに・・・。再び動き出した大河原、村田、柴田の三町合併はどんなふうに進んで行くのだろう。

訳あって、会場は大崎(古川)、石巻、大河原の三会場!を、会場は大崎、石巻、大河原の三会場!に訂正。
[63668] 2008年 2月 7日(木)00:24:21千本桜 さん
市区町村変遷情報
でるでるさん、88さん、市区町村変遷情報のまとめ ご苦労様です。都道府県別一覧の宮城県を見ていて一ヶ所 気になりましたのでご連絡いたします。
1928年、角田町、館山村の一部が境界変更とありますが、藩政村だった館山村は1889年に周辺村と合併して館矢間村になりました。ですから、1928年の出来事ですと正しくは、角田町と館矢間村による境界変更と言うことになるのではないでしょうか。
ついでに、もう一ヶ所 気になる箇所がありますので お尋ねします。これは、正しいとか間違っているとかではなく、以前より私自身が判断に迷っている事柄についての質問です。市区町村変遷情報「宮城県」によると、1954年、宮崎村と加美石村が合併して宮崎町を新設とあります。この加美石村ですが、本当に この表記で良いのだろうか?。本当は賀美石村ではないのだろうかと考えながら結論を出せないでいるのであります。角川日本地名大辞典によると、賀美石村は明治22年~昭和29年の自治体名で、孫沢、米泉など9村が合併して成立。昭和29年宮崎村と合併、宮崎町成立に伴い村名は解消とあります。つまり、宮崎町成立直前まで賀美石村だったことになります。ところが同辞典の宮崎町孫沢の項目を読むと、昭和29年の成立直前までは加美石村孫沢だったと書いてあります。一つの辞典の中で賀美石になったり加美石になったりしていますが、う~~ん、本当は どっちなのだろう。まさか、表記は賀でも加でもどっちでも良いということはありませんよね。
[63525] 2008年 1月 22日(火)00:42:26千本桜 さん
地名意識
地区の組合の旅行計画を立てるために秋保温泉の三軒のホテルパンフレットを取り寄せました。ホテル名は伏せますが、旅行業者なら直ぐ判る著名なホテルです。一つは、伝統と格式で秋保温泉に君臨する大ホテル「S」。もう一つは、宿泊収容人員1,000人規模の大施設をもって「S」と張り合うホテル「M」。そして、「S」や「M」より小規模でリーズナブルなホテル「H」の三軒です。頭文字がS、M、Hだからといって、深く考えないで下さい。たまたま、そうなっただけです。できますなら、深く考えて頂きたいのは次に記す事柄についてです。三つのホテルは三者三様に住所を下記のように表しています。
ホテル「S」の表し方→仙台市太白区秋保町湯元
ホテル「M」の表し方→仙台市太白区秋保町湯元字薬師102
ホテル「H」の表し方→仙台市太白区秋保町湯元33-1
ホテル「S」の正式住所は仙台市太白区秋保町湯元字薬師28ですが、表示は大字(湯元)でストップして小字と番地(薬師28)を省略しています。ホテル「M」は何も省略しないで大字小字番地(湯元字薬師102)まで書いています。ホテル「H」の正式住所は仙台市太白区秋保町湯元字除33-1ですが、小字(除)だけ省略して番地は大字に直結(湯元33-1)させています。引っ掛かるのはホテル「H」の表し方です。33という番地は「除」と言う名の小字を細分して発生した番号ですから双方は連動しています。どんな理由があるのか存じませんが、「除」という小字を省きたいなら番地の「33-1」も同時に省いてほしいものです。ホテル「S」のように表して良いのです。湯本に33-1をくっつけても何の意味もないでしょう。また、番地の「33-1」に意味を持たせたいなら面倒がらずホテル「M」のように小字まで書き表すのが当然だと思います。当然な表し方をしない理由は定かではありませんが、根本的には地名や地域に対して無頓着だからだと思います。もし、地名や地域に敏感なら湯元33-1と表すことはしないだろうと思います。なぜなら、湯元には湯元字除33の他に湯元字釜土33、湯元字寺田原33、湯元字湯向33など多数の33番地があります。それらの住民全部が小字名を書くのを嫌がって省略したなら湯元33があちこちに出現して場所の特定ができなくなります。ホテル「H」だけが小字名を省略して良いはずがありません。ちなみに、ホテル「H」から2キロ離れた所に秋保森林スポーツ公園という施設があります。こちらの住所は仙台市太白区秋保町湯元字青木33-1です。スポーツ公園の関係者が面倒がって字青木を省略すると住所はホテル「H」と全く同じ仙台市太白区秋保町湯元33-1になります。[62847]でも長野県小布施を取り上げて似たようなことを書きまして申し訳ないのですが、私はこのような個々の問題より、底辺にある住民の地名や地域に対する無頓着さ、無関心さが怖いのです。合併に反対する訳ではありませんが、無関心でいるうちに急げ急げで合併をせかされ、審議されたのかどうかも分からないうちに字名変更が結審される怖さ。地域の過去へ遡ることが困難になるほどの大胆な字界と字名の変更を行われようとしているのに、ほとんど関心を示さない住民の無頓着さを怖がっているのです。

[63503]千本桜
たぶんこれには気仙沼村に隣接する鹿折、新月、松岩各村の人口が含まれているはずです。もしかすると階上村も含まれているかもしれません。
上記は現状の地理感覚から推測して書いたものですが、これを歴史的背景を重視して推測すると少々異なった意見が考えられます。角川日本地名大辞典によると、その昔、気仙沼、赤岩、新城、月立、鹿折、唐桑、小原木は一つの村だったそうです。それが寛永19年の仙台藩惣検地を受け七邑各村が独立したとあります。寛永19年に独立した村々を明治8年の統計で一村と見なしたかどうか見当がつきませんが、もし、その時の七村を明治8年共武政表の気仙沼村と考えても人口的には大きな違いがありません。これを明治8年の村名に直して記述すると、「たぶんこれには気仙沼村に隣接する鹿折、新月、唐桑各村および松岩村の赤岩地区の人口が含まれているはずです。」になります。でも、どちらが的を得ているかは全く分かりません。そもそも明治8年当時は角田本郷、白石本郷、気仙沼本郷と呼ばれていたはずなのに、共武政表では角田本郷、白石駅、気仙沼村と書いてあります。どのように受け止めたら良いのやら。それから、明治8年の共武政表には陸前国の古川が見当たらず、どうしたものかと思いきや、大柿村2,327人、稲葉村1,330人で載っていました。古川の町場は古川、大柿、稲葉、中里各村に跨がって形成されていたと思うのですが、遠江国の新居宿、浜名村は合体した一つの町(港)と見なされ、古川はばらばらの村として扱われているのも何か変ですね。
[63503] 2008年 1月 20日(日)10:48:49千本桜 さん
共武政表の気仙沼、石巻、涌谷、金ヶ瀬など
明治8年の共武政表によると陸前国で仙台に次ぐ人口は気仙沼村の11,377人。信じ難い数字です。たぶんこれには気仙沼村に隣接する鹿折、新月、松岩各村の人口が含まれているはずです。もしかすると階上村も含まれているかもしれません。根拠は明治15年頃の人口が気仙沼村4,523人、鹿折村2,239人、新月村2,721人、松岩村2,549人だからです。明治8年当時、気仙沼村と周辺村の町並みが連担状況にあったとは考えられず、なのにどうして周辺村を含めた人口になっているのか不思議です。

気仙沼村と相反する扱いになっているのが石巻村です。明治8年の共武政表には石巻村としての人口記載は無く、石巻村ノ内「港駅」5,121人となっています。でも、当時のことを思えば石巻はもっと大きな都市であったはずで、同表に記載された門脇村ノ内「港」2,605人と連担市街を形成し、さらに北上川対岸の湊村2,599人とも一体感のある都市を形成していたと思われます。これを併せると石巻の人口は実質10,000人以上になりますから、仙台に次ぐ陸前第二の都市だったことは間違いありません。

石巻と同じような扱いをされたのが涌谷村です。明治8年の共武政表には涌谷村1,510人、馬場谷地村4,994人と別々に記してあります。涌谷村は涌谷城があった村で、馬場谷地村は江合川を挟んで涌谷城の対岸に発達した宿駅および城下町です。思うに、江合川で間断されるとはいうものの両村の町場は一体化していたはずで、新居宿と浜名村(その他)が連担町屋を理由に人口が合算されるなら、馬場谷地、涌谷両村の人口も合算して6,0509人と扱われても良かったのではないかと思う次第です。この馬場谷地と涌谷の関係は面白いというか少々複雑で、明治22年に馬場谷地村は単独で町制施行し涌谷町を名乗りました。そして、旧来の涌谷村は上郡村、下郡村と合併して元涌谷村になりました。こうして見ると涌谷は大きな町でしたね。今では逆転してしまいましたが、私が初めて涌谷の中心街(旧馬場谷地村)を見た時は大河原よりしっかりした都市に思えたものです。それから、馬場谷地という地名ですが今ではほとんど通用しません。涌谷出身の人に「馬場谷地出身だね」といったら、「馬場谷地って何のことよ」というような顔をされたことがあります。

明治8年の共武政表に記載された中からマイナーな感じの邑を挙げれば、陸前国の南部では金ヶ瀬駅が筆頭ではないかと思われます。金ヶ瀬は平村の内に形成された宿駅ですから家屋は連担していますし、国土地理院の地形図で見ると結構大きな町場に見えるのですが都市と呼べるほどのものではありません。在が狭いから流入人口が少ないのです。地形図を眺めて同規模に見える東北地方の町場の中では、もっとも静寂さを保っていた町並みのはずです。でも、近頃は郊外型大規模店ができて静寂な町並みを車がどんどん走るようになりました。この、村名「平」と宿駅名「金ヶ瀬」のように村名と宿駅名が異なる場合、昔の人は村名よりも宿駅名を強く意識していたのではないかと思えてならないのです。
[63423] 2008年 1月 15日(火)08:20:22千本桜 さん
Re:外海浦
[63420]白桃さん
伊予国宇和郡外海浦は6,280人と「強烈」な数字。当時、伊予では松山(26,424)、宇和島(15,396)、今治港(12,177)に次いで堂々4位なんです。
想像して楽しんでいるだけですから真偽のほどは当てにしないでください。外海浦が堂々4位につけているのは、単純に考えて面積が広いからだと思います。もっと適切に言えば面積の広さではなく、漁村が発生するに可能な海岸線が長いから、と言った方が良いでしょうか。想像だけで申し訳ないのですが、当時は松山、宇和島、今治港をはじめ、三津港、大洲、八幡浜港なども面積が狭かったのではないでしょうか。ところが外海浦の範囲は広域で、直線距離にして東西18キロメートルはくだらなかったと思われます。それがリアス式海岸なものだから、入り組んで入り組んで海岸線は何十キロメートルもの長さを有することになります。その長い海岸線のあちこちに幾つもの小漁村が発生しました。外海浦の人口6,280人は、それら小漁村の合算人口だと思います。ですから、宇和島や今治のように大きな町並みを持った集落があったわけではないと思います。
それにしても、外海浦に限らずこのような大漁村であっても、後に都市に成長していく事例はごく少数です。漁村内部の経済構造、生活様式や周辺部とのかかわりに起因するものだとは思いますが、
統計上は大漁村に見えても、その実態は長い区間にわたって小漁村が点在していただけと思われます。ですから行政的には大漁村かもしれませんが、集落的には小漁村だったのでしょう。外海浦の集落がすべて小漁村にとどまっているのは、山がちで平坦地の少ない地形のせいではないでしょうか。成長したくてもできなかったのでしょう。港の近代化や大型化に適合できなかったと考えます。これに似た統計上の大漁村は肥前、肥後にも出てくると思いますよ。そして、宮城県にも良く似た状況の村が幾つかありました。平坦地が少ないリアス式海岸、長い長い海岸線、統計上は大漁村だが実態は小漁村集落といえば、十五浜村(現在は石巻市の一部)と唐桑村(現在は気仙沼市の一部)でしょう。今をときめくスーパータウン大河原の人口が6,125人だった大正9年に、十五浜村は8,519人、唐桑村は7,217人でした。だからといって十五浜村、唐桑村に大河原のような都市集落が存在していたわけではありません。※外海浦のことを知りもしないで想像で書いています。間違っていたらごめんなさい。
[62890]の「緑のインク」って梓みちよさんでしょうか?。♪メランコリーだなんて、ずいぶん古いのをご存知なんですね。
[63280] 2008年 1月 8日(火)23:35:42【2】千本桜 さん
浜名港はやはり現在の新居町かも知れない
[63273]hmtさん
遠江国敷知郡「浜名港」と呼ばれたのは、今切湊・新居宿のようです。
浜名港は新居ではないことを前提に宇布見と考えましたが、どうやら新居こそが浜名港のように思えてきました。古い地形図を探しているうちに浜名湖に面した主要市街地の発展過程が見てとれるHPを見つけました。明治8年当時の市街地が見れたら良いのですが、有りませんので明治23年の市街地を見てみます。これによると新居の市街が最も大きくて都市らしい形をしています。三ヶ日雄踏(宇布見)舞阪は新居に比べて小ぶりで、静岡、浜松駅、沼津駅、島田駅に次ぐ人口を有していたとは考えにくい形の町並みです。また、現在の鷲津駅付近に至っては人家の少ない寂しい所だったようです。新居の市街地は北部の新居宿と南部の浜名村の町並みが合体してできているように見えます。いつの頃から両者の町並みが連続状態になったか定かではありませんが、ひょっとして明治8年の浜名港6,438人は新居宿と浜名村の合算人口ではないかと思えてきました。と申しますのは、新居宿単独の人口なら「新居宿」と記せば良いわけで、それを敢えて「浜名港」と記すのは「新居宿」以外の区域をも含んでいたからではないかと思うのです。明治19年の人口は、4,082人の新居宿と1,733人の浜名村を併せて5,815人です。明治8年の6,438人に近い数字です。私は今、想像を楽しんでいる訳でして、間違っていたら笑って許して下さい。
東海道鉄道の浜松以西が開通した明治21年の翌年ですが、馬郡(舞阪)-鷲津間に新居町駅(1915年開業)が設けられていないことが示すように、新居宿の拠点性は既に失われていたのでしょう。
明治21年の鉄道開通時に浜松、舞阪、鷲津に駅が設置されて新居に設置されなかったのは地形要因によるものではないでしょうか。明治23年の地形図から判断すれば、どう見ても舞阪、鷲津より新居が上位都市です。鷲津には町並みすら存在しない状態でした。しかし新居には駅を設置する適地が無かった。それゆえに出遅れたのだと思います。新居町駅は大正4年に設置されましたが、それは浜名湖を埋め立ててこそ可能になったことで、明治21年の開通時には埋め立ててまで駅を設置することができなかったのでしょう。明治23年と大正6年の地形図を見比べて、そのようなことを考えました。これも想像ですから事実誤認があったら笑って許して下さい。こうして鉄道(東海道本線)と浜名湖沿岸市街地の係わりを眺めていると、損したのは新居で、得したのは鷲津のように思えてきました。鷲津は未訪地ですが、Yahoo!地図情報の航空写真で見る鷲津駅前は水田ばかりだった鉄道開通前に比べて随分都市化したものですね。

【訂正1】新居駅を新居町駅に訂正しました。
【訂正2】明治23年、大正6年、平成2年の三時代における浜名湖沿岸の市街地を見てとれるHPを貼りましたが、どうもリンク不可のHPのようです。「浜名湖展覧会パンフおねがい」と打ち込んで検索すると「浜名湖」というHPが出ますので、そこから入ってください。細江、三ヶ日、入出、鷲津、新居、舞阪、雄踏、村櫛、佐鳴湖の市街地の変化を見ることができます。
[63024] 2008年 1月 3日(木)03:57:09【2】千本桜 さん
浜名港
[63001]白桃さん
「浜名港」とはいったい、今のどこなんでしょうか?
浜松市雄踏町宇布見は考えられないでしょうか。明治時代の市街地を塗りつぶした簡略な地図を見たことがあります。それによると浜名湖周辺では宇布見村の市街地が一番大きかったような記憶があります。また、1954アメリカ製地図では、浜名湖に面した集落で市街地として描かれているのは新居と宇布見だけです。いま、昭和56年発行の国土地理院50,000分の1地形図を見ています。この地形図には宇布見の市街地(ハッチ表示された家屋密集地)が舞阪、新居、鷲津、三ヶ日、気賀よりも大きく描かれています。でも、周辺部への家屋分布の波及があまり見られず、鷲津、新居、舞阪に比べて発展が停滞しているような雰囲気が感じ取れます(念のために、現在のことではなく昭和56年の地形図を見ての印象です)。

こうして、市街地という観点から推察すると、浜名港とは宇布見のことではないだろうかとも思えるのですが、確信は全くありません。たぶん違っている可能性の方が大きいかもしれません。ですが、共武政表には浜名港の物産は「鰻○」とあります。○の部分が潰れていて読めないのですが、私としては鰻から連想するのは奥浜名ではなく、雄踏(宇布見)、舞阪、新居あたり。舞阪でもなく新居でもないとすると、浜名港は宇布見(雄踏)かな?と・・・。

でも、鰻だけで人口数千人の港町が成立するとは思えません。宇布見が人口6,438人の浜名港であるためには、他に何らかの都市機能を集積しなければ成り立たないことだと思います。そんなこんな考えているうちに、
宇布見から入野を経て菅原町の河岸に至る川沿いは明治の一時期、蒸気船によって東海道の大動脈の役割を果たしました。
と書いてあるHPにぶつかりました。そうか、宇布見は船運で浜松と結ばれていたのか。その時代と共武政表(明治8年)の時代が合致していれば、宇布見=浜名港も有り得る話になります。そして東海道本線の開通により宇布見の都市役割は短期間で終焉し人口減少に進んで行ったと勝手なストーリーまで考えましたが、想像、空想、妄想ですから当てにしないでください。夢は夜ひらくというか、妄想は夜さえるようですが、間違っていても「みんな夢の中」の♪高田恭子です。ところで、今夜は某温泉の高級ホテルに泊まって赤いチャンチャンコを着せられます。ついに来たか。

昭和56年発行の国土地理院25,000分の1地形図を昭和56年発行の国土地理院50,000分の1地形図に訂正しました。
[62847] 2007年 12月 15日(土)11:58:48千本桜 さん
住所を簡略的に書く場合は周辺地区にも気配りが欲しい
感じたことや思うことを伝えるのは難しく、大原町大字山田字川中18番地という架空の地名を例にした[62833]は、かえって物事を解り難くしてしまったかなと悩んでおります。もう一度書かせてください。今度は端的に書きます。小布施町大字小布施808の「808」は、大字小布施を対象にして振り分けられた番地であり、小布施町に対して振られたものではないはずです。ですから、大字小布施を省くなら808も省かれて然るべきだと考えます。小布施堂さんは大字名を省いて長野県小布施町808と書いていますが、その808が余計なのです。小布施堂さんほどの有名店ですから、簡略するなら長野県小布施町「小布施堂」で十分に通じるでしょう。でも、どうしても番地まで記載したいのなら、番地と連結している大字名をないがしろにしないで長野県小布施町大字小布施808「小布施堂」と書いて欲しいものだと私は思います。もし、大字都住808も大字名を省いて長野県小布施町808と書いたなら、同じ住所が二ヶ所あることになって紛らわしくなります。


… スポンサーリンク …


都道府県市区町村
落書き帳

パソコン表示スマホ表示