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伊豆之国さんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[86405]2014年9月24日
伊豆之国
[86355]2014年9月3日
伊豆之国
[86351]2014年9月2日
伊豆之国
[86346]2014年8月31日
伊豆之国
[86344]2014年8月30日
伊豆之国

[86405] 2014年 9月 24日(水)22:00:38伊豆之国 さん
京都から富士見 & 湖底に消える日本最短トンネル
[83639] hmt さん
富士山が見える都府県 は、全部で 20(但し、京都は証拠写真なし)
その京都府から富士山の撮影に成功した、というニュースがありました。山梨日日新聞
富士山の眺望に関する研究・著書で知られる田代博氏([83639]によると、京都府からは唯一、この辺りからのみ、計算上からは富士山の頂上が見える、ということにはなっていたものの、京都市内とはいえ樹木が生い茂る深い山の中で、たどり着くのも困難で見通しも悪いとあって、「本当に富士山の姿を見るのは不可能に近い」とされていたのですが、今月21日に奈良県の住職が写真撮影に成功し、田代氏によって「富士山頂に間違いない」と認定されたとのことです。田代氏HP
江戸時代に「富士見十三州」という言い回しがありました([83639],[59419])が、この「十三州」(駿河・甲斐・伊豆・遠江・相模・武蔵・下総・上総・安房・常陸・下野・上野・信濃)と、それ以外で富士山が見えることが確認されている、陸奥(明治以降では岩代と磐城)・越後・越中・飛騨・美濃・三河・尾張・伊勢・志摩・伊賀・近江・大和・紀伊に加え、これで山城国からも見える、ということになると、「富士見二十七(二十八)州」ということになるわけです…。
…そういえば、3年前のこの日も、「富士山」ネタを書き込んでいました([79370])…。

次は、「十八番?」の「鉄」系のニュースから。
八ツ場ダムの工事の進展に伴い、水没する区間となる岩島~長野原草津口間の線路が新線に切り替わることになり(→[77742] k-ace さん)、今日24日限りで現ルートによる運行を終了し、この区間を運休して切り替え工事を行い、来月1日より新ルートによる運行を開始、水没区間にある川原湯温泉駅も高台にある新ルート上の駅に移転することになります。この水没区間にある、「日本一短いトンネル」として名高い「樽沢トンネル」(長さ7.2m)も、列車が通るのは今日限りで見納めとなりました。毎日新聞
…川原湯温泉には、11年前、四万温泉に泊まったときに足を伸ばし、立ち寄り湯にも入っています。その頃には既にダム工事による立ち退きが進んでいて、廃業した旅館や土産物店も多く、もうかなり寂れた印象になっていました…。
[86355] 2014年 9月 3日(水)16:27:23伊豆之国 さん
Re:伊勢参宮をめぐる鉄道
前回[86351]の後半に続いて、「伊勢参宮をめぐる鉄道」についてこれまで調べたことから。

現在の近鉄名古屋線の一部(桑名~江戸橋)の前身となっている、「伊勢電鉄」。元々、この路線は、現在のJR関西本線などの前身である「関西鉄道」が津への支線(後の参宮線→現在は紀勢本線の一部)を建設する際、大阪方面からの距離を短くするために亀山を起点としたため、県庁所在地の津に行くためには遠回りを強いられることになった四日市と津との短絡を図るために計画されたとされ(「鉄道ピクトリアル(以下、TP)」誌([86351])より)、明治44年に「(初代)伊勢鉄道」として創立し、大正4年に白子~一身田(高田本山)間で「孤立路線」として営業を開始。大正13年までに当初の目的であった四日市と津の間がひとまず完成、14年には伊勢若松~伊勢神戸(現・鈴鹿市)までの支線も開通しています。その後の飛躍は、15年に社長に就任した、四日市出身の実業家で「豪腕」として知られた熊澤一衛氏。社名を「(2代目)伊勢電気鉄道」(「初代」は、後の「三重交通神都線」となった宇治山田(伊勢)市内の路面電車([86351])が名乗っていたことがある)と改め、全線を電化、更に北は名古屋、南は伊勢への延長を計画。昭和4年に桑名まで、5年には外宮に近い「大神宮前」駅(この辺りと思われます)まで延長開業しています。しかし、名古屋への延長は、折からの「昭和大恐慌」や、木曽三川への架橋に際して国鉄の鉄橋を払い下げて再使用しようとした計画に絡むスキャンダルが発覚し、それが遠因となって「伊勢電鉄」は経営破綻。ライバル会社であった、現在の近鉄大阪線の東半分と山田線の前身「参宮急行」に吸収合併という異常事態に陥ります。結局、名古屋への延長は、合併後の昭和13年、「参宮急行」の子会社「関西急行電鉄」の手によりようやく実現、これにより現在の近鉄名古屋線の根幹が出来上がったことになりました。
一方、大阪からの伊勢直通を目指した「参宮急行」は、現在の近鉄奈良線などの前身、「大阪電気軌道(大軌)」(記事集)が、桜井まで来ていた現在の大阪線を伊勢方面へ延ばすことをもくろみ、「大和鉄道」(近鉄田原本線の前身)から株式を取得して系列会社化し、大和鉄道が取得していた伊勢への路線免許を譲り受け、「参宮急行」を子会社として設立。昭和5年までに山田(現・伊勢市)まで、その1年後にターミナル駅・宇治山田駅まで全通しています。これにより大阪・上本町から伊勢への直通ルートが出来上がり、直通特急の運転も始まり、この時点で全線非電化、SLが走っていた国鉄関西線~参宮線を圧倒し、今日まで大阪~伊勢間の直通客をほぼ独占するという状況が確立されています。
この両私鉄の開業により、松阪付近から伊勢までの間は、既存の国鉄参宮線に加えて私鉄2路線が加わって、3社による激烈な集客合戦が始まることになったわけですが、既に国鉄線があるところへ、競合路線といえる2私鉄に共に路線敷設免許を与え、そしてほぼ同時に開業したというのも不思議ですが、やはりこの「過当競争」の弊害が間もなく現れてくることになります。前述した通り、伊勢電鉄が不祥事もあって脱落し、ライバル会社に飲み込まれる、ということになったわけですが、この伊勢電鉄の「敗北」に関して、前記「TP」誌には、次のようなことが書かれていた記憶があります。

…伊勢電鉄が、名古屋延長を後回しにしても伊勢への路線建設を急いだ理由は何か。もちろん、その一つは同時期に名乗りを上げた参宮急行への対抗意識ですが、もう一つ、三重県人の熊澤氏にとって、「三重県内の鉄道として、何としても自分たちの手で完成させたい」という欲望があったようです。せっかく伊勢まで開通しても、起点が桑名では中途半端で、大阪方面から直通する参宮急行と比べてもやはり不利は否めない。当時、関西線は単線で列車本数も少なく、名古屋延長を優先しておれば、中京圏の客を獲得することによって発展が望めたのではないか…。

伊勢電鉄が参宮急行に合併され、関西急行電鉄を介して名古屋乗り入れが実現したことにより、名古屋~大神宮前間の直通運転が行われ、この時点でようやく名古屋~伊勢間で関西線~参宮線より優位に立つことになったのですが、それもつかの間、程なくして太平洋戦争に突入、新松阪(この辺り)~大神宮前間は「不要不急路線」として昭和17年に廃線となりました。新松阪から、既に参宮急行の支線として開業していた伊勢中川からの線と接続する江戸橋までの区間も単線化されます。名古屋と伊勢の間は、伊勢中川を境にゲージが異なるために(中川~江戸橋間の支線は、参宮急行本線と同じく当初は1435mmゲージで開業したのですが、伊勢電鉄の合併後に、旧伊勢電鉄にあわせて1067mmに変更)、直通ができず、中川での乗り換えとなりました。
戦時中の大合併で「近畿日本鉄道」が発足(戦後間もなく南海電鉄が分離)後も、しばらくこの形が続いたのですが、昭和34年の伊勢湾台風による甚大な被害からの復旧に際し、名古屋~中川間を旧大軌・参宮急行系統の大阪線・山田線と同じ1435mmゲージに広げるという思い切った大改修を行うことになります。これにより再び名古屋~伊勢間の直通が復活し、また中川付近を短絡する新線も開業し、上本町・鶴橋と名古屋の間をノンストップで結ぶ特急も運行を開始しました。その後、昭和45年の鳥羽線開業、これに合わせてそれまで「孤立路線」(参宮線とは鳥羽駅で接続)だった志摩線(元・志摩電鉄-三重交通志摩線)の大改良により、名古屋・大阪・京都方面から賢島までの直通特急が運行され、現在に至っています。一方、旧伊勢電鉄の路線のうち、支線として戦後も残った江戸橋~新松阪間は、中途半端な路線になってか、利用者の低迷が続き、伊勢湾台風による被災後もいったん1067mmのまま再開したのですが、結局昭和36年に廃線となり、その路線跡の多くは道路に転用されています。結局、伊勢鉄道~伊勢電鉄が建設した区間のうち、ほぼ半分に当たる、競合区間であった津~伊勢間が姿を消したことになったのでした。

一方、国鉄時代にも「元関西鉄道関係路線への冷遇」が続いたせいもあってか、これといった改善策も行われぬまま、時代の波から取り残され、うら寂れたローカル線に甘んじることになって久しくなったJR参宮線(現在は紀勢本線の一部になっている亀山~津~多気間を含む)。それでも、実は既に明治時代より一部複線化が行われ、増加するお伊勢参りの客に対応していたのですが、こちらも伊勢電鉄と同様、戦争による「受難」を迎えることになります。いくら当時のご時世、お伊勢参りが「国民的行事」とは言っても、いくらなんでも3路線もの競合は「輸送力過剰」とみなされたのでしょうか。複線区間のレールの一方は、戦時中の鉄材供出の対象とされ、昭和18年までにこれらの複線区間は全て単線化され、現在まで復活していません。こちらを見ると、
先の第二次世界大戦がなければおそらく国鉄参宮線は全線複線化+電化され近鉄名古屋線の現在の繁栄はなかったであろう
とあるのですが、仮に近鉄名古屋・山田・鳥羽線が今と同じように1435mmに統一・直通運転されて特急街道となったにしても、国鉄~JRが以前から「やる気」を出し、名古屋~鳥羽間の電化・完全複線化(現・(2代目)伊勢鉄道の部分も)を早期に行っていれば、特急を多数運行して近鉄と熾烈な争いを展開し、また現在の近鉄志摩線「志摩電鉄」も、1067mmのままJRと相互乗り入れし、JRの豪華リゾート特急が賢島まで直通して、逆に近鉄は鳥羽まで延ばすのが精一杯、という展開になっていたかもしれません(大阪~伊勢志摩に関しては、やはり時間的にもルート的にも有利な近鉄の優位は動かなかったでしょうが…)。

>hmt さん、出来栄えはいかがでしょうか?
ご指摘があったら遠慮なくお願いいたします。

♯お伊勢参りと同様、社寺参拝を目的とした路線の競合は、「金比羅参り」にもありました。これに関しては、[24903] Issie さんの書き込みに詳しく述べられていました。
[86351] 2014年 9月 2日(火)23:21:02伊豆之国 さん
クイズの答え & 伊勢参宮をめぐる鉄道
まず、[86317]で出したクイズですが、

[86336] いろずー さん
まさにその通りです。

ついでに、これに関していくつか説明を記しておきます。
まず、熱海で乗り換えた電車の行き先は、大井川のすぐ手前の島田駅。興津駅始発の浜松行きがすぐ後を追っかけるので、その興津駅で降りたのですが、何しろお盆休みの真っ只中、同じような仲間が結構いると見え、想像以上に混雑。一度は座ったものの、前方の景色見たさに席を譲ると、それからずっと立ちっぱなし、結局座れたのは、「二部」でも苦闘中のジュビロの本拠地の駅でした。「地名コレクションにある湖畔の駅」は、弁天島駅。小学生の頃、この駅で降りて「湖水浴」を楽しんだ思い出もあり、当時は温泉旅館も立ち並んで盛況だったのですが、今では降りる客もまばら、駅の周辺にはホテルが2-3軒があるのみ、代わって高層マンションがずらり…。浜松で乗り換えた電車の終点は豊橋駅、ここから快速で終点の大垣まで乗り通し。米原まで行ってここからJR西日本の快速で、草津駅で寄り道して「草津宿本陣」([85829])を見学、「名物スィーツ」は「姥が餅」([79252])。裏道には「草津温泉」という名の銭湯([20908],[59019] YSK さん、[20921] カッパー さん)も確かにありました。
2日目の夕方、奈良見物を終えて、大和八木で乗り換え近鉄大阪線に。「三本松」駅([86283] hmt さん、記事)のある宇陀市は、私も26年ほど前、室生口大野駅で降り、室生寺を訪れています。県境を越えた三重県は、私の母方の祖父の故郷(南牟婁郡御浜町…[67290] )がある県。ちなみに、ぺとぺと さんも、私と同様にこの県の血が1/4流れている由([72822])。
他県の大都市の市名と同字異音の2文字が入る駅では、かつて近鉄の路線だった私鉄が分岐
は、元「近鉄伊賀線」だった伊賀鉄道が分岐する、伊賀神戸(かんべ)駅([74928] 白桃 さん)。
3日目、突然の足のアクシデントで苦しむ中で町歩きを続けた【F市】松阪市。「国学の大家」は、本居宣長(記念館HP)。三重高校の校歌([86336])にも歌われている旧家「鈴屋」は、元は市街地にあったのを明治時代に現在の城跡に移築したものです。駅前にあった銀行は、三菱東京UFJ銀行。元は東海銀行>UFJ銀行と思われます(旧三菱銀行は、県内では四日市にしか支店がなかったと記憶しています)。
(さくらって何ですか?高速バス?さくら野?)
「昔のさくら」とは、「三井住友銀行」。松阪は三井家発祥の地ですが、「三井住友」はありませんでした(住友家の発祥地にはしっかり支店を出しているのですが…[61364] ぺとぺと さん)。豪壮な商人屋敷を見て、いよいよ本題の伊勢参宮へ。
「東は宇治の翠巒を」で謎が解けなかったことを思い出す。
東はどうみても「伊勢」でどこが「宇治」なんやとツッコミしかない
「宇治」は、内宮の所在地。伊勢市は昭和30年まで「宇治山田市」でしたね。この「宇治山田」は、現在も駅名の他、学校などに名称が残っています(伊勢市駅は以前は「山田」駅でした)。

さて、お伊勢さんを目指した鉄道の話。現在はJR参宮線と近鉄山田線の2路線で、現状は近鉄が圧倒的な輸送力を見せつけてJRを圧倒している状況ですが(それでも近年は名古屋からの快速「みえ」の増発でわずかながら挽回はしていますが)、戦前にはもう一本「伊勢電鉄」という私鉄があり、お互いに壮絶な誘客合戦を繰り広げていました。このことを知ったのは、もう40年余りも前の少年時代、「鉄道ピクトリアル」という本を見てからでした。「伊勢電鉄」とその路線の歴史や、近鉄山田線(と大阪線の東半分)の前身「参宮急行」との激烈な争い。スキャンダルにも巻き込まれた挙句、結局敗者となり、経営破綻に追い込まれた伊勢電鉄は、「参宮急行」に吸収され、路線の北半分は現在の近鉄名古屋線の一部となりましたが、「参宮急行」との並行区間だった津~伊勢間は、結局半世紀ほど前までに全て廃線の運命をたどったのでした。また、もう少し後になってですが、伊勢市内には「神都線」という路面電車が走っていたことも知りました。この伊勢参宮を巡る激烈な争い、「落書き帳」の過去ログにあるか、探してみましたが、どうもそれらしき記事は見つからなかったようです。私ももう少しこのことについてフォローできれば、と思っていますが…この方面にもお詳しい、大先輩のhmt さん。
[86346] 2014年 8月 31日(日)21:21:38【2】伊豆之国 さん
男鹿高原駅の存在価値
[86344]に続いて、最近に見たTV番組より。

以前、「幹線・大都会の秘境駅(閑散駅)」を話題にしましたが([84535],[85164])、今回は正真正銘の「秘境駅」の話題です。一昨日の夜のTV番組の中で、「関東最強の秘境駅」の異名がある、野岩鉄道会津鬼怒川線「男鹿高原」駅の一日が放映されていました。この男鹿高原駅、東武浅草から快速電車で一本で行けるのですが、駅の近くには緊急用のヘリポートと電車の変電所があるだけで、「いったい誰が乗り降りするんだ」([48847] みやこ♂ さん)という、まさに「何もない」辺鄙な場所。「秘境駅巡り」のマニアだけしか乗り降りしないのか、「本当に日常的にこの駅を利用している人がいるのか」というリポートというわけだったのでしょうが、こうした「マニア」数人以外に、果たして1人の男子高校生がこの駅で降り、自宅に向かうというシーンがありました。この高校生が住んでいるというところが、駅の北東約2kmにある、人口60人ほどの「横川」という集落。番組によると、「林業の衰退で人口が激減、小・中学校も廃校、現在はそれどころか小学生も中学生も誰もいなくなり、集落から通学する生徒は高校生が1人だけ」、そしてその通学路には熊も出没し([48886] BANDALGOM さん)、この高校生も小熊に遭遇したという話も出ていました。番組では、「開業(昭和61年)当時は集落総出で開業を祝い、駅には大勢の人が詰めかけ、[大げさな表現ですが]山手線状態だった」という話も出ていたので、おそらくこの駅は、「(鉄道開業によりそれまであったバス路線が廃止され、陸の孤島状態となることになった)横川集落の便宜を図る目的もあって設置された」とも考えられそうです。…ということで、この「男鹿高原」駅の定期的な利用者は、現在高校一年生というこの生徒ただ1人だけ、2年後に卒業すると、普段の利用者は皆無となり「秘境駅巡りのマニア」と、駅近くの変電所の点検作業職員(こちらによると「作業員はきっと車で来るだろう」とありますが、映像では2人の作業員が駅のホームに降り立つシーンが出てきたので、この作業員たちもおそらく電車を利用しているものと思われます)が時折乗り降りするだけ、ということになりそうです。
♯この横川地区は、会津西街道に沿う集落で、会津との境界近くに位置し、江戸時代には「口止め番屋」が置かれ、沿道には往時を物語る古い石仏・道祖神も残っているとのことです(秋田書店刊「歴史と旅」昭和62年5月増刊号[85664]より)。

「超秘境駅」というと、こちらも秘境駅ランキングで上位の常連駅、JR北海道・根室線の「古瀬」駅(HP)。国鉄時代は信号所で客扱いしていた「仮乗降場」らしく、周囲に人の気配がなさそうな駅ですが、実はこの駅にも「日常的な利用者がいるらしい」というのが、こちらも以前に見たTV番組で放映されていました。こちらの利用者も、通学に使う女子高生が1人。少し離れた場所にある牧場経営者の娘で、駅から距離があるため、親がマイカーで駅まで送り迎えするとのことのようでした。私も、この古瀬駅の状況を知ってから「なぜこんな誰も乗り降りせず、道路から駅にたどり着くのにも難儀するような駅が廃止にならなかったのか」と不思議に感じていたのですが、「この女子高生がいるために駅が存続している」という見方もできる、ということで理解できたのでした。こちらも、この女子高生が卒業すると普段の利用者は無くなり、駅自体の廃止、ということになることも予想されそうです…。

【1】[86347] k-ace さんのご指摘、ありがとうございました。「小幌(室蘭線)」を「古瀬(根室線)」に訂正、関連箇所の文章もこれに合わせて修正しました(何しろうろ覚えだったもので…)。
[86344] 2014年 8月 30日(土)22:00:28伊豆之国 さん
十津川警部・故郷と新天地と
…といっても推理小説ではありません。今夕の某公共放送のTV番組より。

奈良県十津川村と、その十津川村が明治の大水害で甚大な被害を受け、多くの村民が移住した北海道新十津川町([80030] hmt さん)。それぞれの地域への、バス旅の道中を描いた番組です。最初に出てきたのは新十津川町。北海道移住の道筋に沿って、小樽港から新十津川に入るというルートをバス乗り継ぎでたどった道中で、今は無き「手宮線」の廃線跡や、やはり廃線となった幌内線の駅跡を整備した鉄道記念館([75360] YASU さん,HP)も映像に出てきました。
後半は、一般道を走る乗り合いバス路線としては日本最長という、近鉄大和八木駅から五條・十津川村・熊野本宮を経て新宮駅までを結ぶ、奈良交通「八木新宮線」([83343] k-ace さん、[70115] むっくん さん)で十津川村を訪れるというコース。同じ「十津川郷士」の一族で、明治の大水害で北海道に移住した人、十津川村に残った人、それぞれの子孫の物語も紹介されていました。

♯私が十津川村のほんの端っこだけに入ったことがあり、その「経村値」が△(接地)であることは、[79317]に…。


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