[5536] f さん
>藩は明治時代初期の廃藩置県で県に生まれ変わりましたが、国は廃止されていませんよ。ただそれを使う習慣がなくなっただけです。
[5543] 夜鳴き寿司屋 さん
>明治の県の再編では国は解体しても郡の解体の例はなかったはずです
そうですね。これは f さんの言い方が適当だと思います。
「県」と「国」とは別の体系による区分ですから,「国」が「廃止・解体」されて「県」に置き換えられたわけではなくて,「府県-市郡-区町村」という体系が公私両面で定着するとともに,従来の「国-郡」という体系が使われなくなり,次第に表面から姿を消した,ということです。
それでも時々顔を出しますよね。「さぬき市」とか「飛騨市」とか…。まだ「国」が生きている証拠です。
「国(くに)」「郡(こおり/ぐん)」という行政区画が公式に位置付けられたのは8世紀に確立した「律令制」によるものです。その整備が始まるのは7世紀後半の天武朝(もしかしたら,もう1つ前の天智朝=近江朝)にまでさかのぼるようですが,現在の形がほぼ確立するのは奈良時代半ばのことです。今の表現を使えば,718年制定(701年の大宝令を改定)・757年施行の「養老令」を“根拠法令”としています。
「令」とは現在の“行政組織法”に相当しますが(「律」は“刑法”),この「令」によって国内は「国-郡-里」という体系に区分されました。ただし,末端の行政区分に当たる「里」は,奈良時代後半になると「郷」という単位に変わります(詳しくはもう少し複雑なのだけど,ここでは省略)。
一方で平安時代には「荘園」が形成され,それが都のエライ人(皇族・上級貴族・大寺社)の所に集まってくるとともに「不輸・不入の権」を獲得して「国」の行政機関(国衙,国庁,国府などと呼ばれる。少しずつ意味が違うけど)の支配が及ばないところとなります。荘園は「○○荘」と呼ばれ,これも地域区分の単位となっていきます(「荘」は「庄」とも書かれます。つまりこの場合,この2つの字は“同じ字”です。たとえば「本荘」も「本庄」も同じ地名です)。
それに対して,国府の支配下にある地域を現在の用語では「公領」「国衙領」と呼びますが,「国領」とも呼ばれました。各地に存在する「国領」という地名はこれに由来します。
律令制では中央から国府に派遣される行政官(国司:長官(かみ)=守,次官(すけ)=介,三等官(じょう)=掾)が「国」の行政を行うことになっているのですが,平安時代後期に荘園制が確立するのと並行して国司は実際には任地へ赴任せず,「国」は中央の有力貴族の領地に近い存在に変質して,国司の代理として派遣された「目代(もくだい)」が現地採用の国府の役人(在庁官人。地元の有力武士)を統括して行政実務(主に税の徴収)を行うようになりました。
こうして地方行政レベルでの律令制(国郡制)は形骸化してゆきます。
鎌倉時代,「守護・地頭」支配を通じて地方現地での支配権は武士のものになります。荘園では,名目上の支配者である公家や寺社と現地での支配者である武士との間で“縄張り”を折半したりもしたのですが,戦国時代までに彼らの名目上の支配権も失われます。
この間,「国」は全国を適当に区分する単位として律令時代以来のものがほぼそのまま使用され続けますが,「郡」や「荘園」は様々に分割されました。「荘(荘園)」を分割する単位として「条」が使われたりもします(上条・中条・下条,北条・南条・西条・東条など)。
16世紀末の豊臣秀吉の天下統一によって久しぶりに成立した強力な中央政権の下で,かなり混乱していた「郡」が再編され,同時に「国」の範囲も確定されました。明治以降の「国」の領域は,この時のものを基本的に継承しています。
また,全国的に行われた検地によって「村」が基礎的な行政単位として位置付けられました。「村」単位で期待される収穫高が算定され,年貢を徴収する基礎単位ともなりました。
こうして整理された「国-郡-村」という区画を単位にして,大名や旗本に対する領地の“あてがい”が行われました。で,そうしてあてがわれた大名の領地が「藩」と呼ばれる,幕府の直轄地が「天領」と呼ばれるわけです。
明治維新で天領や旗本領などが没収され明治政府の直轄領となりました。政府はそこに「府」(主要都市など)や「県」を設置します。
1869(明治2)年の「版籍奉還」で諸侯(大名から改称)たちが所領の支配権を天皇に返還し,改めて天皇から「知藩事」に任命される,という手続きを経て,はじめて「藩」が“公式の行政区画”として位置付けられます。
そして1871(明治4)年の「廃藩置県」で「藩」が廃止されて「県」に置き換えられたのです。
この間,「国」は全くいじられていません。
“根拠法令”たる「養老令」は形式上は実に幕末まで行き続けて「王政復古の大号令」(慶応3年末,太陽暦では年が明けて1868年初)でようやく廃止されるのですが,「国」はとっくに政治上の実質を失って慣習上の地域呼称になってしまっていたので関係なかったのでしょうね。そしてそれっきり,そのまんま現在に続きます。
「郡」は1890年の「郡制」で府県と町村の間の“制度上”の行政区画として郡役所と官選の郡長,および郡会と郡参事会が置かれますが,1921年・1926年の2段階に分けて行政上の機関は廃止されました。以来,単なる地域呼称として現在に至ります。
そして「市」は「郡」に含まれないという規定により,市の増加とともに郡の範囲は徐々に縮小しているのです。