すでに,
[21646] で 両毛人 さんが言われているとおり,
日光市の山内ですが、ここには世界遺産で知られる二荒山(ふたらさん)神社が立地しており、また同じくこの地域にある世界遺産の輪王寺は正式には日光山輪王寺といいます。これはおそらくこれらの寺社地の内という意味の和名だと思います。
…と考えるのが,素直でしょうね。
[21629] 月の輪熊 さん
「日暮里(ヌプリ)」のアイヌ語説も有名ですね。
これも,「にいほり(新堀)」という形に還元すれば,あとはアイヌ語を引っ張り出さずとも,日本語の中で十分に説明ができます。
[21648] 両毛人 さん
アイヌ語の「トマリ」は、日本語の「泊」がアイヌの言葉に移入されたとするのが通説のようです。
私もこの考え方を支持します。
ほかにも「イワウ(硫黄」),「メノコ(娘)」など,日本語との接触でアイヌ語に移入されたと思われる単語は少なくありません。
もちろんその逆もあって,「ラッコ」や「トナカイ」などは余り意識されることのない,アイヌ語から日本語へ移入された単語の1つです。
以前に「ニサッタイ」が話題になったとき,私は意識して「アイヌ語」という言葉を使用することを避けました。
たぶん,あそこで話題にした「ニサッタイ」や「コヒルイマキ」「キンタイチ」,あるいは「西モナイ(馬音内)」などの地名が,北方の「エゾヶ島(北海道)」の先住民の言葉と深い関連があるのは間違いのないことでしょう。
さらに言えば,源頼朝の「奥州征伐」で滅ぼされた奥州藤原氏以前の「みちのく」が,少なくとも北海道南部と同一の文化圏を形成していたと考えることには十分な蓋然性があると考えます。
あるいは,
[21625] 愛比売命 さん
DNA的に見たらアイヌ人と琉球民族は非常に近いそうで
というのも,何がしかは事実かもしれません。
だからといって,
大和人(モンゴリアン?)が大陸から渡ってくる前は日本全国にアイヌ文化が分布していたと考えても不思議ではないことですし。
というところまで判断するには十分すぎるほど慎重であるべきだと思います。
ある言語とほかの言語とを比較検討してお互いの系統性を考察する「比較言語学」という分野があります。私もきとんと勉強したわけではないので正確なことをいうことはできないですが,ここで相互の言語を比較検討する際にはかなり厳密な手続きが行われます。
それは当然であって,「恣意的」に拾った単語が相互に似ているからと言って,それでお互いの検討関係を論ずるのは全くに無意味だからです。
その点で地名の語源探求という「お遊び」には,その手の「恣意性」が入り込む余地がありすぎるのですね。
たとえば,宮崎県の「新田原(にゅうたばる)」。
ちょっとした思い付きで,これを英語の new に結びつけることは簡単ですね。
けれども,これは日本語の古くからの接頭辞の「にひ <ニピ:nipi 」に起源を求めるのが素直であって,「にひ →にふ →にう →にゅう」という変化は,日本語の枠の中で完全に説明することができます(参考までに,越中=富山県の「新川郡」は「にふかわ郡」という読み方をされたことがあります)。
確かに「ナイ」というのはアイヌ語で「川」という意味だけれども,だからといって本州以南の「○内」という地名をアイヌ語と結びつけるのは,きわめて短絡的です。
京都市や愛媛県西条市などにある「加茂川(鴨川)」の由来の一つとして、アイヌ語の「カムイ」(神)からきているのではないか、との一説もあるようです。
これも,それをさらに十分に補強する多くの事実が説明されない限り,
たとえば,青森県の「戸来(へらい)」という地名を「ヘブライ」と結びつけ,「ナニャドヤラ」という盆踊り唄の意味不明の歌詞をヘブライ語で無理やり解釈しようとして,挙句の果てにユダヤ部族が流れ着き,イエス終焉の地としてお墓まである,
などという「トンデモ話」と同一レベルの「思いつき」にすぎません。
蛇足ながら,
紀元1世紀,イエスを初めとするユダヤ人たちが日常用いていたのはアラム語であって,ヘブライ語はすでに「旧約聖書」の言語として宗教儀式で使用されるだけの言語となっていました(つまり,普段の日常生活で使用している者はいない)。現在,イスラエルの公用語となっている「現代ヘブライ語」は19世紀末にパレスチナへ移住したユダヤ人の1グループ(誰もヘブライ語を母語とし,日常語として育った者がいない)が意識的に再構築した「人工語」であって,その点,同時期に考案された「人工語」であるエスペラントと全く変わることはありません。
イエスの死後,初期キリスト教会で使用され,「新約聖書」の原典が記されたのは当時の地中海世界東部の国際語あった「共通ギリシア語(コイネー)」です。
ここらへんの事実をすっ飛ばして,イエスとユダヤとヘブライを直結して「トンデモ話」を捏造するあたり,いかにも西アジア一神教(ユダヤ教,キリスト教,イスラム教)世界についての知識を全く欠いた日本人らしいところです。