[44574][44580] 88さん
再度繰り返しになりますが、88さんが想定されているような内容でも、編集長として地名コレクションに受け入れるつもりはありません。
[44565]に書いたことが一番の理由ですが、その他にもう一つ、「各コレクションの管理には編集長やオーナーも責任を持たねばならない」と言うことがあります。
たとえば、各コレクションを見た人がそれに対する意見を連絡してきた場合、普通は各担当者に対処をお任せしますが、内容や状況によっては先に編集長、場合によってはオーナーが何らかの対処をする必要がある可能性があります。
(今のところ実際にあった事例は、「専用アドレス宛メールで情報提供された内容が過去にボツになったもので、ボツになった理由も明確だったため、その時の経緯を相手にメールで返信し、担当者には連絡しなかった」というものが1例だけですが…)
こういった場合、編集長と編集担当者の編集方針がおおむね同じ方向を向いていないと、対処方針が全然違ってしまう可能性があります。
多少ずれている程度なら調整がききますが、真反対だとどうしようもありません。
(過去にコレクション案の提案があった時に時としてあれやこれやと質問したり意見を言ったりすることがあるのは、方針のすりあわせができるかどうかの確認のためだったりします)
そのため、編集長としてどうしても納得のいかない内容の場合、採用を躊躇しています。
特に今回の提案に関しては私の(そしてグリグリさんの)地名コレクションに対する取り組み方針と完全に真逆と言っていい状態なので、地名コレクション入り、と言うことは前提からはずして頂きたいのです。
重ねてお願い申し上げます。
一方、落書き帳上で「自治体名の検証」について議論することについては、これも先に書いたとおり異論はありません。
が、リスト作成、と言う点に関しては3点ばかり気になるところがあります。
一つは、手法的なものです。
リスト作成というのは「思考結果の集約方法」の一つであると考えます。
そのリストが客観的な基準で作成したものならば「思考結果」=「選択したある種の事実」、主観的な基準で作成したリストは「思考結果」=「作成した人の意見」…の集約結果である、と言えると思うのです。
いずれにおいても、「思考結果」を求めるためには「ある程度明確な採用条件が決まっていること(その条件はリストの性格によって内容…主観的、客観的と言ったことも含めて…が変わってくる)」、「集約」するためには「その採用条件に基づいて採用不採用を決定する責任者がいること(責任者は作成だけでなく、完成後のメンテナンスの責も負わなければならない)」が必要だ、と思うのです。
この2つがそろっていないと、リストの形にならないか、リスト状になっても内容がかちゃかちゃになったまま収拾がつかなくなる危険性が高いです。
ところが、千本桜さんは
[44564]で
何をもって中心地とするかが難しいですね。市役所所在地を中心地とするか、商業集積地を中心地とするか、あるいは大きな市街地を形成した集落を中心地とするかです。それから、市制施行当時を想定するか現在を想定するかで中心地が変わる場合もありそうです。う~頭が痛くなってきました。
と書かれていらっしゃいますし、88さんも
[44574]で
意見は多種多様ですし(連称地名・合成地名・瑞祥地名への許容度の差もあるし、中心地名をどう捕らえるかも意見が分かれる)、「答え(推薦案)」までを出すのはしない(議論百出して収拾つかないことが予想される)、という思いです。
と書かれていらっしゃることから、お二方とも現状ではリストをまとめるための明確な採用条件をお持ちでなく、議論をもとに解決を図ろうとされていると判断しました。
しかし、何らかの形で議論をまとめることを考えなければ、リストに載せる項目が決まらない、と言うことではありませんか?
(リストに載せる事が可能な情報の形状は「ある種の結論」である、と言うことです)
想定している手法がリスト化を前提にした内容になっていない、と感じられました。
と言うか、そもそも主観と主観がぶつかり合う様な議論というのは「結論を出すことが困難な議論」と言えるのかもしれません。
ならば敢えて結論(再度書きますがリストというのは思考結果の羅列であり、何らかの結論が出ないと作れないものであります)を求めようとせず、課程をまとめる方がよいのではないでしょうか。
となれば、集約方法としてはアーカイブスのような方式が適しているように思います。
二つめは、議論する人間の対象をどう考えておられるか、と言うことです。
お二方とも落書き帳のメンバーによる議論、と言う風に考えておられると判断しています。
それならばまだ一定の方向が見いだせる可能性が皆無ではないかもしれません。
が、議論をする場である落書き帳はオープンスペースです。
誰もが自由に議論内容を読み、議論に加わることが出来ます。
と言うことは、議論の最中にとんでもない方向からとんでもない意見の人が乱入してくる可能性が大いにあるのです。
そうなると、ますますまとまらない可能性が高まってしまいます。
議論だけであればそれもやむを得ないかもしれませんが、リスト作成を前提に考えると「ある種の結論」からますます遠ざかってしまうことになります。
状況によってはその距離は「無限大」になる可能性だってある訳です。
例えば、感情的な意見の人が飛び込んできたら…。
(例えば通りすがりにROMった人がたまたま議論対象となっている自治体に住んでいる人で、「何じゃ、俺の住んでいる町をバカにするのか!けしからん!」と怒り心頭で飛び込んでくる可能性だってあるのです)
#感情的な意見と言うのは「主観的な意見」の最たるものです。選択基準が客観的なものであればそれを理論的に説明することで何とか収めてもらうこともできますが(それでもかなり骨が折れます。5月にがんす横町ままさんとやり合いになった時は泣きたくなりました)、主観的な基準で選んだものと主観と主観のぶつかり合いになり、むしろこじれる可能性だって出てきてしまいます。それを考えると、議論中よりもむしろリスト完成後に投げかけられたほうが恐ろしい…
三つ目は、うまい表現ができないのですが、リストの人格性?というか、リストの帰属問題?というか…
もうちょっと具体的に言えば「一人歩きの危険性」ということになるかなぁ。
一人歩き、と言うことであれば単なる発言でも一人歩きすることは多々あるのですが、「データの羅列」となったものはよりその危険性が高いのです。
特に異論が多い話題であるほど、本来関係ない人に帰属するように捉えられるとその人に様々な不都合が生じる危険性が高まってしまいます。
(これは私の仕事上の経験に基づく意見です)
これに当てはめると、「主観的且つ異論の多い意見を集約した」リストは極めて怖いです。
作った人/人たちのすぐ近くにあればまだ良いのですが、置かれ方次第では作った人/人たち以外の人たちに帰属するかのように見えてしまう危険性があるのです。
たとえば議論を重ねた上で落書き帳上で発表した場合、過程を見ずに結果たるリストだけ見られてしまうと「落書き帳としての意見」と捉えられる危険性があります。
そうすると議論に加わらなかった人にも影響が及んできます。
ましてや、落書き帳以外の「都道府県市区町村」内のコンテンツとしてその表が発表されると、それが「都道府県市区町村」としての意見、あるいはオーナーであるグリグリさんの意見として捉え兼ねられないのです。
かなりオーバーなことを言っているかもしれませんが、これに近い状況に遭遇したことがあるため、どうしても気になってくるのです。
今回のような「主観と主観がぶつかり合い、結論が出にくい話題」のまとめ方としては、エッセンスを抜き出さずに発言は発言のままで集約する方法…例えばアーカイブスのような…の方が「責任の帰属のすり替わり」が置きにくいのではないか、と思います。
##ダメだ、眠くて異常にくどい文章にしかならなくなってきた…
最後にもう一点。
どうしても結論を出したい場合は、議論手法をどうするかを考える必要があるかもしれません。
でも、「客観的基準を設置しにくいものに対して」「白黒つけるような結論を求めたい」時に適した手法ってあるんだろうか…
ブレーンストーミングやらKJ法みたいな問題解決的手法は白黒つけたい時には向かないし…
ケーススタディかなぁ…でも一つ一つの事例ごとに実施する必要があるだろうし…
う~~~~ん…