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[89106] 2015年 11月 19日(木)15:26:20hmt さん
インカ遺跡の麓で 村おこしをした 野内与吉
先月のことですが、福島県安達郡大玉村が、ペルー共和国のマチュピチュ村との間で 友好都市協定を締結した(2015/10/26)というニュースがありました。

世界遺産「マチュピチュの歴史保護区」【1983年登録・複合遺産】。
尖った山を背景にして、尾根に築かれた遺跡の写真は、誰でも見た覚えがあるでしょう。
アンデス山脈中のこの遺跡は、100年ほど前までは 人に全く知られない状態で眠っていました。

インカ帝国の伝説による最後の都・ビルカバンバを求めて イェール大学のペルー探検隊を組織した 米国人 ハイラム・ビンガム。彼が植物の生い茂った西側の急斜面を登りきって、ここにある石組みの遺跡をみつけたのは 1911年7月24日でした。ビルカバンバはこの地ではなかったし、マチュピチュ遺跡もビンガムより少し前に地元民に知られていたようです。
しかし、この遺跡の学術調査を最初に実施し、『ナショナル・ジオグラフィック』誌などの出版物を通じて世界に広くその存在を知らしめた人物として、ビンガムの名は記憶されています。

文字による記録を残さずに滅びた 15世紀のインカ帝国。
写真では 謎に包まれた「天空の都市」というイメージですが、標高2430mというと インカ帝国の首都だった クスコ(3400m)よりも ずっと低いことがわかります。
遺跡があるのは尾根ですが、アンデス山地の大きな地形としては アマゾン川の源流のひとつ、ウルバンバ渓谷沿いであり、麓の村まで鉄道が通じているのも そのためでしょう。

マチュピチュ村は、マチュピチュ遺跡の麓にあり、人口約3000人だそうです。
年間200万人の遺跡観光客は「マチュピチュ村」まで列車で来て、シャトルバスに乗り換えて山上のインカ遺跡に向かいます。

一方の 大玉村 は、昭和30年に玉井村と大山村との合併で成立。平成合併では単独の村として生き残り、全国に先駆けて独自の定住政策を進め、人口が増加し続けています[86365]
安達太良山を望み「大いなる田舎」を自認する農村。「日本で最も美しい村」連合[86495]に加盟しています。

2つの村を「都市」と呼んでよいかどうか? それはさておき、マチュピチュ村と大玉村との間で 世界初の友好関係が成立した背景には、このアンデス山中で、村起こしに尽力した日本人がいました。

それが、福島県大玉村【当時は玉井村】に生まれた 野内与吉(1895-1969)です。
富農の次男ですが 長子相続の時代なので、成人した彼は 契約移民としてペルーに移住して成功する夢を持ちました。しかし、先方の条件が違うので1年で辞めて放浪。ペルーに戻ってからはペルー国鉄に勤務。

野内セサル良郎によれば、1929年にクスコ・マチュピチュ間の線路完成後に、野内与吉はマチュピチュ村の最初の定住者になりました。
飲用や灌漑用の水路、水力発電、機械修理など彼の創意工夫を伴う尽力は村に大いに貢献し、1935年には村で初の本格的な建築物「ホテル・ノウチ」(3階建、21部屋)を建て、一部を郵便局や交番に提供しました。
1939年には村の事実上の責任者である行政官になった彼は村人の信頼を集めていました。

「アグアス・カリエンテス(熱い水)村」(現マチュピチュ村)という名の由来になった温泉も、木材伐採の際に彼が発見したという話もあり、現地では弘法大師のような伝説的英雄になっているのかもしれません。
木材と言えば、彼は材木商としての経験からマチュピチュ付近のジャングルに目をつけており、先住民4家族のみが住んでいたこの村に住み始めた と伝える別の資料もあります。こちらによれば 鉄道開通は1923年。温泉発見の話もあります。

1941年に始まった日米戦争により、ペルーにとっても「日本は敵国」という関係になりました。
野内与吉も、戦時中は公的な活動はできず、監視される状況になったと思われます。しかし、彼を信頼する村人によって 安全は守られていたようです。
前妻と別れたのもこの頃と思われますが、後妻との間も5人の子に恵まれました。

戦後は1947年の土砂災害に際しても働き、1948年には復興のために村長に任命されました。
災害復旧の仕事を片付けた彼は 古巣の鉄道に戻り、クスコに移住して 定年まで勤めて引退したようです。
鉄道の仕事を引き継いだのが ノウチ・セラル・モラレスで、先に引用した野内セサル良郎の父です。

マチュピチュ遺跡が 日本で有名になったのは 1983年の世界遺産登録後でしょう。
しかし、考古学に詳しい三笠宮さまは、早くも 1958年のペルー訪問で見学に訪れ、野内与吉の長女・オルガから花束を贈られました。

日本の新聞にその記事が出た結果、野内家の親類が与吉の健在を知り、大使館を通じて連絡することができました。野内家の人達は 10年かけて100万円を集めると そのお金で与吉を日本に呼び、歓迎会を開くことになりました。このようにして、1968年に野内与吉の大玉村への帰郷が実現しました。52年ぶりのことです。

日本に着いた今浦島・野内与吉の第一声は「電気はついたか?」。

彼は翌年まで日本に滞在しましたが、11人の子供が待っているからと、日本の家族と別れペルーに戻りました。しかし、その2ヶ月後にクスコで亡くなり、家族と村人が見守られながら ペルーに骨を埋めることになりました。日本から持ち帰った玉手箱を開いたので------という記事は みつかりませんでした。

前妻との間にできた次男のホセ・ノウチは マチュピチュ村でホテルを経営。1981年から1983年まで村長に就任。

友好都市の話は以前からあったようですが、お金もかかることなので実現に至らずにいました。
平成27年度になり、日本での支援事業による予算措置が実現。
大玉村からマチュピチュ村を訪問し、マチュピチュ遺跡で友好都市締結式が行なわれたとのことです。
[88941] 2015年 10月 28日(水)16:30:54hmt さん
北九州空港近くの羽島
[88936] グリグリ さん
羽島の所属に関する情報が、Webでもほとんど見当たらないですねぇ。

リンクしていただいたブログの写真からの判断ですが、特殊な趣味的視点をもつ私達は別として、常識的な社会生活を行っている人々の間では、ほとんど無価値と思われる島であるために、Web情報が少ないのではないかと推測します。

では、北九州空港開港という周辺環境の変化をふまえてなされた 訂正の原因は?

これは、表面的には 平成25年面積調 p.104 の記載に尽きます。
訂正(5) 所属未定に訂正(羽島)
(北九州市長(H20.3.19)と京都郡苅田町長(H20.3.24)の申請)

…というわけで、申請内容を境界訂正とした[88936]の下記部分は、事実誤認によるものではないでしょうか。
苅田町との間に所属争論があるように見えます。(中略)との説明から、苅田町からの 羽島を苅田町に含める という公文書による境界申請に基づいて、平成25年の面積調で所属未定となったように考えられます。

先に、北九州空港開港という周辺環境の変化ということを記しました。
私にも、この辺の昔のことはわからないのですが、工業地帯になる前は漁業が盛んで、魚の集まる島や浅瀬には、それなりの価値があったのではないかと考えてみました。

地図を見ると、羽島の近くには毛無島、間島があり、現在空港島になっている付近にも岩礁・浅瀬などがあったと思われます。
漁場という視点に立てば、羽島も 門司の漁村の貴重な漁場として確保される価値があった。

しかし、工業地帯と空港に変貌して漁業が衰え、門司も北九州市の一部になってしまっている現在では、羽島を「門司の領土」として確保する意義は小さくなった。
かくして、周防灘の羽島を 北九州市にも苅田町にも属さない区域【所属未定地】とすることで合意が得られた。
こんな筋書きを想像してみました。

実は、漁業に関係して、「漁業 門司 羽島」で検索すれば、何か情報が得られるかも…と考えましたが、Webでは古い記録は見当たらず。門司審判所の海難記録が2件ありましたが、周防灘ではなく、いずれも日本海にある山口県萩市の羽島でした。この島には昔は人が住んでいましたが、1971年無人化。
[88933] 2015年 10月 26日(月)21:19:35hmt さん
市町村隣接
[88841] [88931] グリグリ さん
大和葛城山北方の4市町村境界隣接に関する国土地理院からの回答を紹介していただき、ありがとうございます。
境界隣接に関する疑問を通じて得られた、自治体の地理的範囲についての認識を、私なりに整理してみます。

基本的に、各自治体が自認する地理的範囲は独自のものであり、隣接自治体の意見が合わないことがある。
隣り合う自治体間で意見が合わない場合は 地理院地図への表示は行いませんので、未確定の行政界が地理院地図に表示されることはありません。

国土地理院の今回の回答によると、関係する自治体から
「国土地理院への境界訂正の申請について、検討はしているが結論はまだ出ていない」
と返答したところ【単数か複数かは不明】があるようです。

現在では、マピオンなど異なる意見の表記も存在し、これに近い意見を持つに至った自治体があるのかもしれません。
現在の地理院地図には、陸地測量部時代からの境界が残っており、そこに示されている隣接関係が、「すべて隣接自治体の合意に基づき確定したもの」と迄は言えないかもしれません。
しかし、問題の4市町村境界について、国土地理院に対して訂正を求める正式の手続きは、現在のところなされていないものと理解されます。
関係する自治体の間で 意見が一致するようならば、正式の境界訂正手続に動くことになるでしょう。

要するに、問題の4市町村隣接関係について、境界線が「今後変更される可能性」はある。
しかし、変更の有無、境界未定になるのか、新たな隣接関係に変更されるのか を含めて、現状では何とも言えない。

私は、国土地理院の回答を このように読みました。

[88931]
この回答からすると、地理院地図はどうやら訂正が必要で、河南町と御所市は隣接していて千早赤阪村と葛城市は隣接していないというマピオンなどの表記が現状として正しいようです。

国土地理院の回答を、そこまで深読みしてよいものでしょうか?

以下、参考までに過去記事を少し拾っておきます。
境界は誰が決めて、地図を作る人はそれをどのように確認しているのか?
この基本的な問い掛け[87841] に対する私の考えは、既に[87846]でも記し、
残念ながら、記された境界が絶対に正しい地図を期待するのは、無い物ねだりではなかろうか?
と書いていました。

富士山を始めとし、地元自治体の意見の相違に基づく境界未定地は各地にあります。
東京の近くでも、平成2年面積調で「境界未定」になった小合溜について、地元意見は江戸時代以来の不一致があったことも記されており、境界問題の根が深いことを窺わせます。[87846]でURLを更新したコラム15「小合溜と都県境」参照。

「境界変更」など国土地理院面積調で使われている用語に関しては、落書き帳過去記事があります。国土地理院からは、「面積調の概要」第I章の末尾に別記Iとして掲載されていますが、そのURLは毎年変ります。最新
[88907] 2015年 10月 16日(金)17:56:09hmt さん
視覚障害者を支援する音響信号機
[88901] 稚拙 さん
得体の知れない「国際標準化」ということばが出てきました。【中略】
一生かかっても理由のわからないことってたくさんありますから、これからも1つ1つ知識を増やしていきたいです。

視覚障害者用信号機の「国際標準化」とは、2007年に制定された ISO 23600 を指していると思います。

その内容は 私もよく理解していないのですが、それよりも、この分野に関係する基礎的な知識を得るために 私が読んでみたのは、国際交通安全学会誌に掲載された解説です。視覚障害者の誘導について

これは 20年以上前の文献で、ISOにおける国際規格化の動向が触れているのは、第2章の いわゆる点字ブロックに関するものでした。5/8コマからの第3章音響信号機については、まだ国際標準化に言及されていませんでした。

音響信号機設置の経緯については、1955年 最初にベル式の音響信号機信号機が設置され、振動式信号機、メロディー式などが開発されたと記されています。
参考までに、メロディー式は 1960年 名古屋でテストされたのが最初。音響信号機ってなあに?

メロディー方式は 21曲が存在。その他に擬音や単純音などの各種方式が存在することになりました。
1975年に全国統一化の要望を受けて整備基準作成に取り掛かり、1996年に擬音への統一方針が出されたようです。
警察庁は 2000年度に調査研究委員会を設置。方角を知りたいという視覚障害者意見調査結果を受けて、擬音の「ピヨ」「カッコー」への統一化。

警視庁交通規制課コーナーに 音響信号機に関するQ&A があり、「擬音式の異種鳴き交わし方式の整備を進めている」と記されていました。

要するに、利用者である視覚障害者の立場で考えれば、個性的ではあるが 多種類が乱立した メロディー方式は、実用的には ベストのものでなかった。
そして、利用者の望む全国統一化と普及とを視野に、仕組みが単純な 擬音式への統一 が行なわれつつある。

私は このように理解し、自分の知識を一つ増やすことにしました。
[88892] 2015年 10月 13日(火)22:48:15【1】hmt さん
10進法の分、60進法の分、4進法の分
[88886] あきすて さん
基本的に、”分”は1/10、”厘”は1/100(”分”の1/10)という認識

漢数字の数詞体系については、落書き帳の初期に[2153] Issie さんの記事があり、1/10の「分」から始まって、厘(りん)・毛(もう)・糸(し)・忽(こつ)・微(び)・…という系列が示されています。
出典は 17世紀の算術書・吉田光由著『塵劫記』や、インドから中国経由で伝来した『華厳経』が挙げられています。
その後、カッパーさんの[9927]もありますが、その内容は難解。

実用的には分(ぶ)・厘(りん)・毛(もう)迄を知っていれば十分と思います。
ここで『単位の辞典』で紹介されている『塵劫記』の原文を見たら、分(ふん)・厘(り)・…となっています。
世間に通用している読み方と違います。

「分」は 文字通り「分ける」という意味です。そこで、基本の数を いくつに分けるのか?

私の理解するところでは、分・厘・毛と分けてゆくのは、インド由来の基本的な数え方である 10進法です。
その場合【日本語の】読み方は「分(ぶ)」です。

天文学の発達したメソポタミアでは、円周を360度【1年の日数】に分け、1度を60に分ける60進法が生まれました。
日本語では、1/60 度の「分」を「ふん」と読んで、10進法の「分(ぶ)」と区別します。
英語では degree, minute(細分), second(2段階細分)と60進法独自の言葉を使います。

天体観測分野での角度測定の歴史は古いが、時間測定の単位として使われる「分」(ふん)や「秒」が測れる 精密な時計 ができたのは、ずっと後のことでしょう。
最初は「1日」という時間を細分して示す目的で作られた「分」や「秒」でしたが、科学技術の発達に伴い制定された現在のSI単位系[86490]の中で、「秒」は一番正確な定義がなされている「基本単位」に出世しています。

余談ですが、10進法を推進したフランス革命[45385]では、時間にも10進法を採用しました。
1週は10日、1日は10時間、1時間は100分。角度についても 直角の1/100の「グラード」を使ったとか。

話が変って、度量衡の「衡」です。これは天秤を使って測定する質量の分野です。
ここでは、分銅の数を最小にできる2進法に利点があり、実用的には2の2乗の4進法や、4の2乗の16進法単位ができました。
質量の基本単位は1両【= 10匁】であり、その 1/4の1分(ぶ)、1分の 1/4の1朱は貨幣の単位として使われました。[33573]
16両【160匁 = 600g】は「斤」という単位です。現在でも食パン1斤などと使われていますが、実際は370g前後であり 340g以上あればOK とのことです。

辞書による いろいろな「分」 の解説
[88888]には既に三省堂国語辞典、大辞林、新明解国語辞典が示されていますが、コトバンクにも 6つの辞書の解説文が載っていました。【大辞林は重複】
確かに、上記の原則論に示した「◯進法」による分け方 以外に いろいろな「分」 の使い方が示されています。

中でも驚いたのが、四分音符は二分音符の半分の長さ という使い方です。
こういう逆の見方もあるのか というのは、計量単位としての「分」に慣れてしまった者の感想で、実は
この語釈の使い方は『ぶ(分)』の原点なんでしょうね。[88888]
一筋縄では解説しきれないほどの「分」の用法があることに感心しました。

【追記】「三分坂」の読み方と、江戸時代の金銭価値
[88891] 伊豆之国 さん
急坂の割増賃金は、銀の重さ三分(さんぷん)=0.3匁を意味しているという横関氏の説。興味深く拝見しました。
お金のことだから4進法だろう。単純にそう考えたら大違いなのですね。
10進法と4進法とでは結果が2.5倍違うことになりますが、それ以上に影響が大きい因子があることを認識しました。

「分」という言葉を使う際には、何を基準にした「分」なのか が明らかにされなければならない。
そのような観点が基本であることを、「三割三分三厘」という用法[88883]に続いて 再認識しました。

金本位と銀本位
「金一両を銀60匁として、『銀三分』は20文に相当し」という記述から判るように、同じ重さでも価値に6倍の違い。

基準が貨幣単位の「両」か 重量単位の「匁」か
金本位の貨幣制度の基準単位は 1両(重量単位では 10匁に相当)。
銀は丁銀として通用した秤量貨幣。従って基準単位は「匁」。従って「銀三分」は 0.3匁の銀の価値。

金と銀で6倍、両と匁で10倍、4進法と10進法とで2.5倍。このすべての相乗になるので、同じ「三分」という表記でも150倍の違いになります。
貨幣の三分(さんぶ)ならば3000文という非常識な高額になるが、三分(さんぷん)の重さの銀なので 実は20文。
この説明に納得しました。
[88875] 2015年 10月 9日(金)20:23:41hmt さん
東京駅の改札口 (3)新幹線・地下新線の駅
これで、東京駅の本格的な駅舎は西側の丸の内と東側の八重洲とに出揃いました。
しかし、両側の北口・中央口・南口を数えても改札口は6ヶ所です。

東京駅改札口を一気に増加させたのは 1964/10/1に開業した「東海道新幹線」です。
全部の改札口・乗換口が当初から存在したわけではなく、名称も変化していますが、現在のJR東海による改札口番号で数えると、1番から5番の5改札口。他に6~9番の4乗換口があります。

その次に出てきたのは「五方面作戦」の一つとして新設された 総武快速線の「東京地下駅」です。
これは、15両編成の電車を丸の内口駅前広場地下5階に乗り入れるものです。
関東大震災後の1925年から行なわれてきた東京の地下鉄工事の中でも、前例のない規模でした。

総武快速線開業は 1972/7/15。
改札口番号 19, 20, 21が関係する この地下駅は、品川への地下線も延長され(1976)、1980年から横須賀線・総武線直通運転となっています。

これも東京駅か と言いたくなるほど離れているのですが、成田新幹線のターミナルとして計画された駅を転用した京葉線の東京駅が、平成2年(1990/3/10)に開業しています。
改札口番号で言うと、鍛冶橋近くの22番と東京国際フォーラム付近の23番。

ここまでの改札口を累計すると、3+3+5+3+2 = 16 です。あと2ヶ所。

東北新幹線の日本橋口(改札口番号10番)は2003年開業。【既に数えている東海道新幹線の1番も同時】
[88859] グリグリ さん
※在来線改札を通らずにJR東の新幹線に直接行ける改札はこの一箇所のみ

最後に、今回も数え落とした八重洲地下中央口。
これは1975年から順次着手された中央通路拡幅工事の一環で、地下八重洲側にありますが、4代目銀の鈴と共に2007/10/25に設けられたのではないかと思います。
[88874] 2015年 10月 9日(金)20:02:10【1】hmt さん
東京駅の改札口 (2)東京駅東口から八重洲口へ
東京駅は、大日本帝国の威光を示すように 宮城【注】の正面に作られました。1914年のことです。
そのため、千代田城に面した西側が表で、中央区【35区時代は日本橋区と京橋区】に面した東が裏側になっています。
【注】宮城
江戸城(千代田城)は明治維新後に東京城や皇城になった後、1888年 明治宮殿落成後は「宮城」と呼ばれました。
言わずもがなですが、読みは「きゅうじょう」です。「みやぎ」と読まないでください。
戦後の1948/7/1からは「皇居」と呼ばれるようになっています。

東京駅の所在地は「千代田区丸の内一丁目」ですが、丸の内側の駅前には丸の内二丁目があり、更に鍛冶橋通りの南【新宿に移転する前の都庁所在地】に 丸の内三丁目があります。3つを合わせた「丸の内」の範囲は、西の日比谷通りと東の外堀通りとの間にあり、元々は 千代田城の内壕と外壕とに囲まれた 大名屋敷地帯でした。

明治になってから付けられた町名は、北側が東京府麹町区永楽町、その南が八重洲町で、東京府庁・東京市役所の所在地は有楽町の一部でした。
その後東京市麹町区時代の1929年に「丸ノ内」になりました。現在は「丸の内」です。千代田区 町名由来板

丸の内二丁目の昔の町名が「麹町区八重洲町」だったと聞くと、現在の東京駅八重洲口前にある「中央区八重洲」との関係が気になります。
「八重洲」という地名が、東京駅を挟んで北東に約1km離れた、別の区に引っ越してしまったのは何故か?

実はこの件、[35062]でちょっと触れたのですが【北東を北西と誤記】、八重洲口を記す機会に 新たな材料を加えて再論します。

中央区の町名由来にあるように、ヤン・ヨーステンの邸は内壕沿い【千代田区】でした。では、外壕沿い【中央区】に「八重洲」という地名が生まれた「きっかけ」は?

それは、明治17年に外壕に架けられた 初代 八重洲橋 でした。
日本橋・京橋の市街地から、内壕沿い丸の内にある「麹町区八重洲町」に行くための橋という意味だったのですね。
日本橋から出発して京都に通じる東海道の最初の橋は「京橋」、次の橋は芝への入り口なので「芝口橋」【後に新橋[74436]】と命名されていました。八重洲という地名を内壕から外壕に移動させた そもそもの原因は、行先の地名を付ける流儀で命名された橋の名だったのでした。

それはさておき、明治の中央停車場計画には裏口がなく、駅の東側は車両基地として使われることになりました。
こうなると、八重洲橋は撤去して部外者の立ち入りを防ぐ方がよい。…当局はそう考えたのでしょう。
人文社の資料により明治の地図を調べると、『明治41年調査 麹町区全図』に描かれていた【初代】八重洲橋は、明治45年の『最新番地入り 東京市全図』では消えています。

外壕沿いの八重洲【麹町区・日本橋区・京橋区の境界地帯】が動き出すのは、関東大震災後の復興事業です。
日本橋区と京橋区の境界に広い八重洲通が作られ、外壕には面目を一新した【2代目】八重洲橋が新設されて、日本橋・京橋と東京駅とを直結することになりました。

東京駅南側の乗車通路から 長い木造跨線橋を仮設して 「東京駅東口」が開設されたのは1929/12/16でした。
もっとも、東口で発売する切符は電車区間のみというローカル駅で、いわば東京駅開業前に存在した呉服橋駅[35062]復活の形ですから、今日の姿とは比べものになりません。
東口跨線橋は 1939年から北口通路接続に変更された後も仮設の木造で、1952年まで使用されました。

「東京駅東口」という名は、牛込に住んでいた頃[41218]に 青バスの行先表示で覚えた記憶があります。
1952年に大学生として上京した時には、既に「八重洲口」の名が使われていたように記憶していました。
しかし、鉄道歴史地図 都電土橋線を用いて 駅前の停留所名を調べたら、1952年までは東京駅東口で、1953年から東京駅八重洲口となっていました。

戦後になると、戦災瓦礫処理により呉服橋の外壕が埋め立てられ、1951年に戦後初の高層ビルである第一鉄鋼ビルが完成するなど、新たな動きが出てきました。
それより前、1948年には東京駅八重洲口新駅舎ができて、木造2階建ながら好評を得たいたのですが、失火により半年で焼失しています。

1952年は鉄道創業80周年で、その記念事業として 高層ビルによる八重洲口新駅舎が推進されることになりました。
百尺という高さ制限の存在した時代ですが、規制緩和を見越して計画されたのが 地上12階の鉄道会館です。
1954年に6階までが完成し、上層階には大丸百貨店などが入居しました。
駅施設と民間施設とが同居する民衆駅の「はしり」になりました。
第2期工事で12階になったのは1966年です。
このビルは、八重洲口の再開発に伴って2008年に解体されました。
[88873] 2015年 10月 9日(金)19:47:15hmt さん
東京駅の改札口 (1)百年前、開業間もない頃の東京駅に入る改札口の数はいくつ?
[88863] にまん さん
東京駅の改札口ですが、在来線があと4つあります。
ということは、合計で改札口が24か所、はっきり言って迷路ですね。

JR東海の東京駅構内図には番号が付けられているので、このシリーズでは、この番号を利用します。
1番から23番まで。一つ少ないので調べたら、銀の鈴広場に通じる「八重洲地下中央口」が落ちていました。
専門家でも見落とすくらいの複雑さなのでした。

JR東日本サイトの全体図でも地下中央通路一帯が隠れていますが、地下一階平面図には示されています。

24ヶ所には新幹線乗換口6ヶ所含まれます。在来線と東海道新幹線の間が中央の7番と南の9番、東北新幹線と東海道新幹線の間が6番と8番、在来線と東北新幹線の間が11番と12番です。従って改札口は18ヶ所。内訳は在来線改札が12【13~24番】、東海道新幹線改札5【1~5番】、東北新幹線改札1【10番】。
改札で分離された3種類の鉄道の複合駅であり、在来線も地上駅に加えて地下駅と京葉線があるため複雑さを増しています。

ここで 100年前、開業(1914/12/20)間もない頃の東京駅に思いを馳せます。
中央停車場という名で準備が進められていたこの駅の名が、正式に「東京」になったのは開業直前の大正3年12月5日で、開業式典は「京浜線」と呼ばれた電車線[39140]の開業を兼ねて 12/18に約1500人の招待者を相手に行なわれました。
つまり、新たに東海道本線の起点になった東京駅に乗り入れていた鉄道路線は、蒸気機関車牽引の本線列車の他に、電車線を使った京浜線電車と品川から乗り入れていた山手線電車があるだけでした。

これら3路線の乗客が入場した改札口は何箇所設けられていたのでしょうか?
驚くことに1ヶ所だけです。その名もズバリ「乗車口」。現在の「丸の内南口」です。

東京駅構内は、一方通行の動線で設計されていたのでした。対応する「降車口」が今の「丸の内北口」。
皇室用や郵便用・手荷物用は別として、改札口はこの2つだけ? と思ったら、「電車降車口」がありました。
2~3両の編成だった電車ホームは短いので 降車口通路に届かず、中央の皇室口の北側に電車降車口を設け、1919年からは乗降兼用の「電車口」になったとか。
戦後の1948年には、現在のように いずれの改札口からも乗降できるようになりましたが、「乗車口」・「降車口」という名は 1959年まで使われ続けたので、学生時代には馴染んでいました。

次は、新幹線の時代になってから東京駅の表のような顔になった八重洲口の来歴を探ります。
[88852] 2015年 10月 5日(月)18:06:40hmt さん
「~改札」と「~口」との使い分け
[88850] グリグリ さん
新橋駅の改札口名称です。正式には烏森改札、汐留改札、銀座改札、日比谷改札です。

5年前に[74436]を書いた当時の駅構内図では烏森口、汐留口、銀座口、日比谷口となっていたので、次のように記しました。
「新橋駅○○口」というのは、駅構内への出入口ではなく、改札口の名として使われており、自由通路に面した南側唯一の地上改札口が「烏森口」で、「汐留口」は1976年 横須賀線の地下移設時にできた東側の地下改札口でした。

同じURLを参照したのですが、その後「~口」から「~改札」へと呼び名が変ったようです。

新橋駅烏森口を出て、自由通路を西の烏森方面に出ても、東の汐留方面に出ても「新橋烏森口駅前」?
そんなバカな。 やはり、この表記はおかしいのかもしれません。

こんな「つぶやき」がJRに届いたのか、「南側自由通路の西側が烏森口、東側が汐留口……と思っていた」人が多数いたせいなのか、南側の改札口は「烏森改札」という名称に改められ、「~改札」と「~口」とを使い分けることにしたものと推察します。

「~口の改札を出たところ」と言うように指定しないと、改札付近なのか駅構内出口付近なのか紛らわしい

汐留改札と言えば地下、汐留口と言えば烏森口を出て東に出た地上。待ち合わせするなら、きちんと指定しないと…

新橋駅よりも複雑な上野駅でも「~改札」と「~口」とを使い分けているようです。
上野駅は、中央改札、不忍改札、公園改札、入谷改札の4か所でちょっと惜しい

上野駅構内図を見ると、「~改札」は4ヶ所でも、「~口」は9ヶ所?あるようです。
中央改札に通じるのが正面玄関口と左右の広小路口・浅草口、更に東上野口。不忍改札に通じるのが山下口と不忍口。マピオンには西郷口というのも記されていました。公園改札の前には公園口。入谷改札の近くにはパンダ橋口があり、それと別に 長~い 入谷通路を隔てて入谷口。
[88851] 2015年 10月 5日(月)16:06:17hmt さん
時刻表
[88848] グリグリ さん
Googleロゴが、時刻表発行121周年を記念した仮想の時刻表画像になっています。

鉄道時刻表そのものは、もちろん明治5年の開業時から存在しました。[80065]汽車運転之時限並賃金表
冊子形式としては、1889/7/1の東海道本線全通の翌月、明治22年8月に大阪の忠雅堂が刊行した 日本全国汽車時間表 があります。
今日121周年を迎えたのは、月刊時刻表の元祖『汽車汽船旅行案内』(庚寅新誌社)です。[23129]

『汽車汽船旅行案内』は大正4年(1915)に庚寅新誌社・交益社・博文館3社の合同事業となり、創刊号は前身の号数を引き継いだ第244号から始まりました。筑波山オフ会のページを開き、オフ会企画の中の『公認汽車汽船旅行案内』の部分をクリックすると、3社を象徴する三本松の新しい表紙【245号】の画像が出ます。

時刻表と言えば思い出すのが 中央公論社の編集者というよりも退職後の鉄道エッセイの分野で知られた宮脇俊三さん[88004]です。
『時刻表昭和史』の中で父が愛用していたポケット版時間表の表紙にも触れています。
私の記憶にある最初の「時間表」の表紙には、そんな色刷りの絵が載っていた。護岸も路盤もなく、自然のままのやわらかい砂の上を汽車が走っているように見えるのはおかしいが、旅心をそそる絵ではある。

付言すると、小学生だった宮脇さん本人は 丹那トンネル開通を機に 母にせがんで自分用を買ってもらいました。
それはポケット版ではなく、現在のJTB時刻表の前身である『鉄道省編纂・汽車時間表』【1925年創刊】でした。
絵本のように大きな時刻表であった。こんな立派な「汽車の時間表」があったのかと私は思った。算用数字で組まれ、左開きであることも、父のよりよほど上等な時刻表に見えた。【時刻表昭和史】

ところで、Googleロゴとして使われた仮想時刻表画像。
NAVERまとめ を見たら、画像クリックで拡大できるようになっていました。
参考までに駅名を列挙 足柄山 しょうじょう寺 かっぱ石 稲穂? かちかち山 ある山里 鬼ヶ島 竜宮城 丹後の国 大江山 八郎潟 イーハトーブ 月の都

列車名は特急ぶんぶく2号に始まり、かめ(6号 12号)うさぎ(14 16 18号)まで。
色分けは列車種別ではなく、GOOGLEの文字になっています。

足柄山から月の都まで「かめ」の所要時間約2時間に対して「うさぎ」は約1時間半と俊足で、かめ12号の後で発車した うさぎ14号が月の都に先着。これは順当です。
ところが、月の都から先、終着駅の隠れ里までの所要時間を見ると、面白いことに気がつきます。
かめ12号は2h20mと、特急に劣らないスピードを出しているのに、うさぎ14号は3時間近くを要しています。
自分の俊足におごった うさぎ14号は、どこかで40分も停車し、かめ12号より30分も遅れて終着駅に到着。
ちゃんと物語の筋書き通りの結末になっていました。


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