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hmtさんの記事が5件見つかりました

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[100096] 2020年 8月 13日(木)17:25:58hmt さん
十万地名
[100090] グリグリさん 「万」の文字が入る駅名
7   四十万駅   しじまえき   北陸鉄道石川線   石川県金沢市

国語辞典で「しじま」という言葉を引くと、「物音一つせず、静まりかえっていること」などの意味と共に、代表的な用例である「夜のしじま」が示されています。
文学的な響きのある和語で、類似した意味の「静寂」や「沈黙」に ふりがなの「しじま」を付けて表記する場合もあるようです。

私にとっては 初見の地名であり、四十万という表記には少し意外性を感じました。
しかし、【しじゅう + まん】の短縮 と理解すれば、さほど不自然な「読み」ではなかったのでした。
広島県三次市のバス停にも、四十貫【 しじっかん】がありました。
意外な読み方という第一印象の原因は、四国の「四万十川」からの連想も手伝っていたのかもしれません。

それはさておき、落書き帳過去記事の「十万」関連地名。

金沢市四十万(しじま)については、[21337] ありがたき さん の記事があります。

既に 編集者の おがちゃん さんが [100055]で言及しているように、 『○万』コレクションの中にも「十万」があります。

過去の地名ですが、hmt の記事にも、「十万坪」への言及があります。ご参考まで。

[75329]
[75307]で引用した 江東区町名図 でいうと、扇橋から千石にかけての5町は主として享保年間の造成地で、「十万坪」と呼ばれたとか。
中略
名所江戸百景の 深川洲崎十万坪 に名を記す「洲崎」は、この平井新田のあたりです。

[80239]
1643年頃の江戸市街図 の臨海部に戻ります。(中略)左向き矢印の先は永代島に隣接する「十五万坪」(木場町)、上向き矢印の先は「十万坪」(千田新田)等の埋立地[75329]になりました。
[100051] 2020年 8月 1日(土)18:12:43hmt さん
記事番号100000達成
遅くなりましたが、記事番号100000達成おめでとうございます。
この機会に、老後の友になった「落書き帳とhmt」との関係について 駄文を少々。

hmtの最初の記事は 2003年8月【70歳の誕生日の翌月】に書いた[19388]でした。

東京の学校を卒業した 1956年に就職したのは、教授に紹介された大阪の化学会社です。
終身雇用・55歳定年というのが当時の常識的な将来像でした。
インターネットは世の中に存在せず、これが「老後の友」になるとは想像もできず。

もともと東京に近い首都圏の育ちですが、妻や会社との関係から 大阪の影響も受けました。
転勤のおかげで、瀬戸内海や雪国での暮らしも体験しました。

「生まれついての地理好き」というほどではないが、幼時から地図帳を眺めるのは好き。
都道府県市区町村落書き帳とは、先天的な相性と育ちの両方とが合ったのでしょう。

1999年 妻に先立たれ、2000年には 会社関係の仕事からも軟着陸しました。

自称「ふじみ野の御隠居」になった hmt。
独居老人を支えるツールは何か? もちろん年金は必要。
でも、その前に 健康と知力を維持すること ができなければ 生きる意味がない。

そこで、17年前の8月に偶々出会ったのが この落書き帳です。
適度な刺激をもたらす書き込みと その応答。
それだけでなく、オフ会や hmtマガジンの編集など 予想外の広がりもありました。

18回目の8月、この記事によって 連続(17*12+1=) 205歴月 の書き込み が実現したと自負していますが、心身の衰えを自覚しつつある現状からすると、いつまで続けることができるか疑問です。

気にしながらも、なかなか実現できない課題もあります。例えば…
明治以後を残している 東京臨海部の陸地化
3府72県への序章に続くべき本編

書き込み歴月の連続記録や シリーズの完成 などに拘らず、末永く付き合いたい。
これが、hmtと「老後の友・落書き帳」との 付き合い方 だろうと思っています。
[99992] 2020年 7月 17日(金)17:51:18hmt さん
過去の市区町村別人口(と面積) 2013年末の記事に残されている課題
20年以上前に始まった こちらのフォーラムは、平成合併が話題になり初めた時期ということもあり、市町村の合併など 各地の個別情報[2]を伝え、それに関する意見を交換することが大きな柱になっていました。
その 平成大合併も、10年前に終りました[74505]

しかし こちらのサイトでは、合併関係だけでなく、全国の自治体に関して、その変遷・人口・面積など基礎的データを集める作業も、着々と進められてきました。

その成果を できるだけ有効に利用したい。
そこで 利用するにあたり、オーナー・グリグリさんの考え方を 最初に示します。

[84555] グリグリさん Re:明治31年以降の市区町村別人口変遷の変遷
[84549] YT さん
 >一応11月中に明治31年以降の市区町村別人口変遷の変遷が完成しました。

おめでとうございます。素晴らしい成果ですね。早速ダウンロードしました。じっくり拝見させていただきます。ぜひ、この成果を当サイトで見栄えよく情報提供できるようにしたいと思いますが、よろしいでしょうか。

関係記事は、[84549] YT さん~[84577] グリグリさん の範囲内に 集まっています。
必要に応じて参照願います。その後の修正記事 [85280]もありますが…


[84568] グリグリさん
できるところから少しずつでも進めて行きますので、よろしくお願い致します。

その後 7年半を経過しています。
面積データまで含めると 【YTさんを含む】作業量も多くなり、時間がかかる と思います。
取り敢えず 都道府県市区町村サイト内で 希望すること。
それは、[84549] の人口データ だけでも 「サイト内での利用」が実現することです。

あまり時間をかけずに実現できるよう、ご配慮を いただけないでしょうか?
[99985] 2020年 7月 14日(火)20:04:52【1】hmt さん
東京都島嶼部 町村がある島の名
[99984] ekinenpyouさん
東京都支廳ノ名稱等(S18.6.29 内務省告示第470号・中央下部)

リンクしていただいた文書には、管轄区域として 21村 7島の名が列挙されています。

東京都の支庁、それ自体は 「郡」とは異なり、都道府県市区町村変遷情報の対象外とされています。
現在の町村名は 大部分が「島名」と一致しているので、あまり不都合を感じないのですが、このような古い資料を見ていると、東京府の島嶼部にあった中郷村はどこ? というような疑問を抱き、八丈支庁管内をヒントに探すことになります。

「昔の村があった島」については、「村名」よりも むしろ「島名」の方が役に立つ。
これが実感です。

思えば、私達のサイト・変遷情報に記載された市町村についても、同じような問題点があるようです。

島嶼に存在する町村については、変遷情報に「島名」を記録しておく必要があると考えました。

東京都限定ですが、島嶼部地域の管轄区域表を見た機会に、市町村変遷情報の収録状況 と対比してみました。

下記の表。「島名」欄は、変遷情報内の 島名情報不足を 補う目的でを加えたものです。
小さな無人島まで含めると伊豆諸島だけでも約 100島あるらしいが[24286]、主要な島以外は記載を省略しています。

グリグリさん、これを利用して、市区町村変遷情報を補強していただけないでしょうか。

支庁名区域名村設置日__島名(面積km2)
大島元村 岡田村 泉津村 野増村 差木地村 波浮港村1908/4/1大島(90.73)
大島利島村1923/10/1利島(4.12)
大島若郷村 【新島】本村1923/10/1新島(22.97) 、式根島(3.67)
大島神津島村1923/10/1神津島(18.24)
三宅【神着村 注1】伊豆村 伊ヶ谷村 阿古村 坪田村1923/10/1三宅島(55.20)
三宅御蔵島村1923/10/1御蔵島(20.51)
八丈大賀郷村 三根村 樫立村 中郷村 末吉村1908/10/1八丈島(69.11)
八丈小島【鳥打村 宇津木村】1947/5/3八丈島の離島(3.07) 1969年無人化
八丈青ヶ島【青ヶ島村】1940/4/1八丈島の離島(5.96)
八丈鳥島【南方四島[22460]の一つ】-鳥島(4.78) 1902年噴火で無人化
小笠原小笠原島1940/4/1父島(23.45)・母島(19.88)
硫黄島は[56162]などの記事あり・硫黄島(23.73)
小笠原小笠原島その他1968/6/26日本復帰地域に小笠原村設置
小笠原西之島【噴火中】-西之島(2.89)2020年1月面積調
小笠原南鳥島(1.46)・沖ノ鳥島・中ノ鳥島 注21968/6/26
 注1:「著」は「着」の本字であるが、村名の表記は 神着村と思われる。
 注2:「中ノ鳥島」は存在しない[65212]
[99982] 2020年 7月 12日(日)18:04:23【1】hmt さん
変遷情報 小笠原(3)小笠原支庁
[99980] ekinenpyouさん
小笠原に関する情報源の紹介、ありがとうございます。
特に、これまで見落としていた 東京都小笠原支庁のサイト。2件共に多数の情報を含んでいました。

都道府県市区町村からは「仲間はずれ」にされている 中途半端な存在のように感じられる「小笠原支庁」。
しかしながら、小さな村役場だけでは人手が足りない事柄について、東京都という大組織の中で、それなりの仕事をしていることを改めて認識しました。

…というわけで、村の変遷情報には直結しないのですが、ご紹介いただいた東京都小笠原支庁の管内概要 から拾った記録を 一つ引用しておきます。

明治10年、内務卿・大久保利通により建てられた「開拓小笠原島之碑」です。

それより前、幕府による小笠原回収の翌年には 八丈島からの移民 30人が送られました。[26683]
しかし、その後で生麦事件など英国との確執があり、実質的な日本の領有・開拓・統治は休止状態に。

このような日本に対して外圧を加えたのは英国でした。再度にわたり 小笠原の所属を質問。
ここに至り明治政府は 1875年に外務省の 田辺太一らを 明治丸で小笠原に派遣。
神奈川駐在の英国領事も同行して日本側の管轄を既成事実として承認しました。

石碑の原文は 24コマ、下記の訓み下し文は 25/250コマです。【表記の一部 省略】
乃ち外務省 田辺太一等を遣し、往いて之を視さしむ。太一等還り具状を以聞す。
九年内務省 小花作助に命じて土民を勧誘し、【耕作・植林・漁業・牧畜を通じ】全島を統轄せしむ。
初め文禄二年、小笠原貞頼 始めて此の島を検出し、木標を建てて以って我が版図たるを表せり。
勿論、証拠になる木標が残っておらず、そのように言っただけでしょう。
因りて小笠原と名つく。
延宝三年、幕府島谷某を遣し其の地を巡視せしむ。
享保十二年貞頼曾孫【と自称する】貞任、祖志を紹ぎ自ずから請いて往き、漂流して還らず。
既にして内民稍々移住し、外人も亦来り駐まる者有り。
文久元年、水野忠徳を遣し、居民を撫輯し法令を頒布し、碑を建て顛末を記せり。

小笠原貞頼の名は、hmtマガジン小笠原諸島の第5回に登場しており、それ以降の数回にわたり、発見と命名に関する記事が続いています。

[78725]で「詐欺まがいの話」と書いたように、その根拠は必ずしも明確でない話なのですが、文禄2年(1593)という年代は、オランダ東インド会社による 1639年に先んじるもので、島谷探検隊 1675年の事績[68669]を補強する「先発見」の伝承として、1861年の「小笠原回収」の際に行なわれた住民に対する説得だけでなく、各国への説明にも利用されたのでしょう。

このようにして、「回収」によって「無人島」から 新時代の Frontier に変った島は、その名も「小笠原島」が定着しました。
利用された 甲斐国巨摩郡小笠原 という名については、[78750]に記してあります。

『巽無人島記』を根拠に、先祖の小笠原貞頼が南海の島を発見し、「小笠原島」と命名したという宮内貞任の話は、[78720]にも記していました。

改めてWebを調べてみると、同じような話がありました。前編後編

漂流して戻れなかったのは甥であり、貞任本人は後に罰せられたと伝えているなど、今回の石碑と少し違う結末ですが、元々の 小笠原貞頼伝説 自体が「怪しい話」なので、追求するのは無意味でしょう。


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