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hmtさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[95556]2018年3月18日
hmt
[95543]2018年3月15日
hmt
[95531]2018年3月11日
hmt
[95530]2018年3月11日
hmt
[95525]2018年3月8日
hmt

[95556] 2018年 3月 18日(日)13:13:53hmt さん
浮間舟渡
[95554] 特急とりあたま さん
東京都板橋区舟渡/埼玉県川口市舟渡町

この記事を最初に見た時に、私は板橋区舟渡の対岸に舟渡町という地名があるものと誤解して、
「埼玉県舟渡の一部が東京都になった由来……それは 1950年に荒川を舟で渡ったからなのです。」
というレスを書き始めてしまいました。
ところがリンク地図を見ると、新荒川大橋付近の地名は 川口市「舟戸町」であることが判明し、この冗談は不成立。

文字違いのことはさておき、例えば[90145]を見ると、1950/4/1に、埼玉県戸田町舟渡が東京都板橋区に移ったことが記録されています。[79523]には地名「舟渡」は記されていませんが、1番に記された総理府告示による境界変更です。
「舟渡」という地名は、河川改修により 都県境の荒川を越えた結果 なので、立派な「自治体越えの地名」と思われたが、そもそも埼玉県側に「舟渡」が残っていなければ話になりません。

参考までに舟渡の記事集  誤記で「船渡」となっていた記事もあります。

「都道府県市区町村」サイトとしては、自治体越え地名集めもさることながら、変遷情報の充実が大切です。
とんだ失敗の副産物ですが、[90145]を再読した機会に 改めて気になった点を記しておきます。

1 舟渡に隣接する地域名を「浮間」に訂正【[90145]の表】
舟渡の下流側隣接地も、舟渡の境界変更より前 1926/10/1 に 埼玉県から東京府に境界変更されました。
その地域名ですが、当時の北豊島郡「岩淵」町よりも、現在の北区町名でもある「浮間」とするのが適切と思われます。
浮間の地名は 変遷情報詳細に記されており、[36159][65713][79661]などで使っています。

2 「浮間」に隣接する「舟渡」の境界変更が変遷情報未収録となっていることも気になります。
埼京線浮間舟渡駅が設けられている現在では、北区と板橋区に跨る両地域は一体的に理解されているようです。
人口異動289人は前小屋【収録済】の2倍以上の規模。[90145]末尾の【注】に記した「入飛駒」だけでなく、できるだけ変遷情報収録範囲を広げてほしい。ご検討をお願いします。>グリグリさん
[95543] 2018年 3月 15日(木)19:43:25hmt さん
北緯35度
[95542] リトルさん
大津駅の「北緯35度モニュメント」

地理院地図で確認してみたら、現在の北緯35度線は大津駅の南方を通っていました。
言うまでもなく、2002年に世界測地系に移行した結果です。[45617]

北緯35度に位置する最も有名な都市は京都です。
日本測地系時代の地勢図では 中央の北緯35度線が四条通の上に描かれていました。
現在は四条通と五条通=国道1号、9号との中間です。

南房総市が設置した「北緯35度最東端」の 標識 がありました。

北緯35度から少し広げますが、参考までに 経緯度時刻に関する過去記事を拾っておきます。
[95531] 2018年 3月 11日(日)15:48:04【1】hmt さん
「3・11」 と 「3・10」
「3・11」と言えば、2011/3/11に発生した 平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震。[77760][77767][77775]など。
12都道県での死者1万5,859人,行方不明者3,021人。出典
大規模な地震と津波という天災だけでなく、それに起因する原子力発電所の事故に伴う人災により、その影響が長期化したことは報道されている通りです。

日付が1日だけ早い「3・10」は 1945/3/10の 東京下町大空襲。
落書き帳には記事を書いていませんでしたが、戦争という人の行為に基づく「人災」です。
参考 2017/8/13放送のドキュメンタリー 左から3人目が、空襲を指揮したカーチス・ルメイ[43161]です。

空襲は戦争中全国の都市に及び、東京だけでも何回も繰り返されました。
しかし、1945/3/10の焼夷弾攻撃による約10万人という死者数は、特筆に値する人数でした。
1945/5/25の 山の手大空襲 も甚大な被害を及ぼしました。宮城【皇居の呼び名です。読みは きゅうじょう】や新聞社が焼け落ち、「共同新聞」が発行されたことが記憶に残っています。しかし、こと死者数に関する限りは、下町大空襲より ずっと少数でした。

都道府県別の空襲被害死者数を見ると、原子爆弾攻撃を受けた広島・長崎と並んで、東京が抜群のトップ3に入っています。これは3月10日【注】の空襲が、「通常兵器」であっても、核兵器に匹敵する大きな力を発揮する場合があった ことを示しています。
【注】偶然にも、1905/3/10に奉天大会戦[59385]が行なわれた陸軍記念日でした。

それはさておき、別の「3・11」に関するお話。
神奈川県津久井郡城山町と藤野町とは、2007/3/11に相模原市に編入されました。変遷情報詳細
これにより津久井郡は自然消滅。

平成合併の時代には郡の自然消滅など珍しくないこと。何を今更?

でも「津久井」は 落書き帳では有名な地名です。[86752]
元禄4年(1991)には 津久井領から 「津久井県」という名になりました[41805]
これは近世唯一の「県」として明治3年まで存続[1196]太政官布告M3-131

hmtは、出身地だった津久井郡の命日?を偲ぶために、マガジン津久井マガジン相模川とを新設しました。
その他、マガジン海と島の記事も追加。

結局のところ、書きたかったのはマガジンの「お知らせ」だったのでした。
[95530] 2018年 3月 11日(日)12:23:10hmt さん
海と島(30)石狩湾挽歌
[95528] 白桃 さん 後志挽歌
この曲は「後志挽歌」とすべきではないか・・・
小樽の前にある海は石狩湾なので、それでいいじゃないの、幸せならば…。

ニシン漁で賑わった海…と言っても、作詞者・なかにし礼 の少年時代、小樽に住んだ頃よりも前の時代の海。
それを偲ぶ歌なのでしょう。

海がテーマなのだから、地理的な立場からすれば 「石狩湾挽歌」 が適切でしょう。

「石狩」という地名から連想するのは平野の中を蛇行する大河です。
松浦武四郎の命名した「後志」に至っては後方羊蹄山に由来する「陸の地名」です。

それはさておき、Webを探っていたら、歌詞にある「沖を通るは 笠戸丸」に着目した ページ がありました。

移民船や豪華客船としての笠戸丸の存在は、私も辛うじて知っていた程度。
偶々出会った今回のページで、帝政ロシア時代の病院船>旅順港で接収され呉軍港所属になる。
船名の由来は山口県の笠戸島。移民船・豪華客船・台湾航路などの時代を経て、昭和になってからは北方漁場に出漁。
第二次大戦末期にソ連軍に接収され爆沈。…数奇な一生の船でした。

なかにし礼が満州から小樽に引き揚げてきたのは8歳の時で、笠戸丸は既に存在せず。
それでも、成人していた兄が一攫千金を狙ったニシン漁が存在した時代でした。
大きな賭けが成功かと思われたが、輸送中に船が沈没。一家離散という結末でした。

歌のことなど知らないのですが、笠戸を含めて、地名にまつわる雑多なことを書き連ねてしまいました。
[95525] 2018年 3月 8日(木)21:05:01【1】hmt さん
組合村のデータ
【冒頭ですが 追記】
この記事を投稿した後で[95514]ekinenpyouさんの記事をを読み返し、自治年鑑1948に関する次の注意書きの存在に気づきました。
組合町村名が少々わかりづらい箇所があり(福島県など)補完としてこちらなども参照のこと

参照用にリンクされていたのは 1949年発行の「全国市町村便覧」であり、表記は異なるが 神奈川県足柄下郡蘆湯(アシノユ)村 の部分に
箱根町、元箱根村と組合村役場位置箱根町
であることが明記されていました。

注意書きに気づかず、自治年鑑の記載不備を中心に長々と記す結果になってしまいました。
hmtの記事内容は、直接に訂正を必要とするわけではないと考え、そのまま残しておきます。
しかし、投稿時に考えていたほどの価値がある指摘ではなかったようです。
ekinenpyouさん、むっくんさん、読者の皆さんにお詫びします。【追記終】

【以下本文】
町村事務組合。市町村が広域した現在では、消防や廃棄物処理など限られた分野で使われるのが常識になっています。
しかし、1889(M22)年の町村制施行当時は、弱小の村が多く、事情が異なりました。

埼玉県の例を拾うと、現在白岡市の一部になっている地域に南埼玉郡日勝村という村がありました。1895(M28)に前身9ヶ村【1889年発足】の 合併によって成立した村です。

余談ですが、合併日は 日清戦争 講和条約【注】会議の直前であり、村名には「日本の勝利」が高らかに付けられています。
【注】 現在では「下関条約」が普通ですが、当時の地名は「赤間関市」でした。地名の通称により「馬関条約」の呼び名もあります。

それはさておき、9ヶ村合併後でも面積 12km2弱、人口約 4000人という農村地域です。
経済データなどなくても、役場・学校その他の地域役務を行う資金が潤沢にあるわけがない。
必然的に近隣の9ヶ村による共同事業ということになった。その結果が「組合村」。

こうして発生した組合村が合併により統合され、更に戦時合併、戦後の教育改革による中学校新設に伴う課題解決、など種々の要請がからみ、昭和大合併に至りました。

昭和大合併による自治体規模拡大によって ほぼ全滅するまで ある程度利用されていた「組合村役場制度」。
市町村の歴史に関心を持つメンバーとして、その実態を知りたい。
かねて抱いていたこの思いですが、落書き帳に取り上げられないまま、現在に至りました。

古くは[39940]ひげねこ さんの記事がありましたが、フォロー記事が続かず。

しかし、最近になって [95463]の末尾の1行を きっかけとして、むっくんさん・ekinenpyouさんによる 解説・調査が行なわれ、知識を深めることができました[95495]

その後、具体的な材料として、自治年鑑(1948年版)の町村長氏名における組合表示の存在が示され[95514]、これに基いて [95517]では戦前・戦後における府県別一覧表を示していただきました。

ここまで具体的なデータを見せていただいた結果、私の目についたのが次の1行です。
神奈川県 足柄下郡 【S21】箱根町, 元箱根村, 芦之湯村 【自治年鑑1948】箱根町のみ記載

「芦之湯村」から hmtが思い出したのが「直接民主制」「町村総会」というキーワードであり、[35747][35748][65174][92819][92835][92877]などの記事でした。

芦之湯村が1950年代まで存在していたことは知っていました。人口が極めて少ないこの村が組合村から外れ、独立していた筈はない。自治年鑑1948の記載に不備な点が存在するようだ。このことに気がつきました。

芦之湯村消滅時期だけならば変遷情報で確認するのが簡単ですが、折角なので YTさんの表[84549]を使って 1950年国勢調査人口を確認したところ 120人。箱根町826人、元箱根村1050人でした。
国勢調査人口表には組合関係が示されていませんが、1954/1/1合併の前まで存在していた元箱根村と芦之湯村(の村長名)を欠く自治年鑑1948の記載は、不備であることが確かです。神奈川県足柄下郡では、真鶴町組合の首長名についても同様です。

同じ手法で、多数の組合村データが記された自治年鑑1948の福島県【59-61コマ】も調べたところ、[95517]で「○○村のみ記載」と指摘された例は、箱根町の場合と類似不備多数(…のおそれ)。
石城郡澤渡三阪村のように、組合でなく連称表示にしている例もある。なお、沢渡村と三阪村は1955年まで存続し永戸村と共に三和村を新設。永戸村と組合だった箕輪村は同時に分村消滅。
石城郡小川村も、国勢調査や変遷情報の上下2村が正しいようです。勝手に作った村?

一々挙げると長くなるのでこのくらいにしますが、自治年鑑1948のデータは有用な情報が含まれている反面、国勢調査や変遷情報と矛盾する点もあるようです。
まるごと信用することはできない。そのように評価しました。


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