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hmtさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[96202]2018年6月12日
hmt
[96192]2018年6月8日
hmt
[96178]2018年6月3日
hmt
[96160]2018年6月1日
hmt
[96118]2018年5月25日
hmt

[96202] 2018年 6月 12日(火)23:01:30【1】hmt さん
シンガポール
米朝首脳会談で話題のシンガポール。全島1市・東京23区ほどの広さの「独立国」です。
ニュースで伝えられたように、日本とは1時間の差。標準時が UTC+8。
会場は南端の「セントーサ島」。落書き帳過去記事にも登場 [48354]小松原ラガー さん。

[79492]hmt でラッフルズ以後の歴史を少し書きました。
独自の立地にある貿易港でしたが、水道の原水でさえも輸入に頼らざるを得ない資源小国。

1965年マレーシアからの分離独立以後、リー・クアンユー(李光耀)首相の統率下、どのように生きてきたか。
注目に値する国です。

今日は予告編だけですが、別記事として書いてみたいと思っています。
[96192] 2018年 6月 8日(金)18:10:37【1】hmt さん
地図情報の更新
[96190] 稚拙さん
三江線廃止(2018/4/1)から2ヶ月経過していたのですか。
三江線は 100kmを越す長距離路線で、1975年の全通後でも 40年以上 運行されていました。
しかし、利用者は少数の短距離区間客で、鉄道の特性である拠点間の大量輸送を発揮するには、ほど遠い状態でした。

WEB地図の更新遅れに関しては、営業終了後の残存地物の可能性コメントがありました[96193]
いずれにせよ、大きな実害をもたらす問題ではないように思われます。

情報伝達技術が現在のように発達していない時代の地図の更新は、現在ではとても考えられないほど 遅れていました。
実例を思い出しので、昔の記事を一つ挙げておきます。

[67608] hmt
手元にあった昭和24年(1949)発行の1/25000地形図「上溝」。
これは行政区画資料修正により、戦時合併[37842]で生まれた 相模原町 の名前だけは辛うじて載っているのですが、1931/4/29【厚木-橋本間延伸】開業の相模線でさえ入っていないという、地物に関しては大正10年(1921)測図当時の状態を残しているシロモノです。

[94765] ekinenpyouさん に教えていただいた Stanfordの外邦図に収録されている 25000地形図の索引図
Sagamihara と記されている Sheet Number 17-10 を開くと、大正10年測図(陸地測量部)と記された「上溝」図幅が現れますが、発行日、定価などの記載がありません。
市販品とは別に内務省が調製した政府内部の資料と思われます。
右肩に「二万五千分一地形図八王子近傍十号(共14面)」と記されています。
「図番 17-10」とは、全国的には未整備で一部地域だけ作られていた当時の 25000図特有の 図番だったのですね。

現在は全国整備が済んでいる 旧版地図リストと対照すると、外邦図に収録されていた図は、【相模原町になる前の】1925/2/28発行 リスト番号76-11-4-1 に対応することが分かります。
hmt手元の 1949年発行の版[67608]は 76-11-4-3 でした。

このリストによると、25000地形図「上溝」の 1949年よりも後で、線路の位置が地図に書き込まれたと思われる「改測」が実施されていた版は、実に 1966年です。その地形図の発行は1967年10月(76-11-4-5)。相模線全列車の気動車化【併用は戦前から】とされる 1958年より ずっと後のことです。
地形図「上溝」に描いてもらえなかった「SL時代の相模線」。名称の使い回しに注目。
1921年:相模鉄道が茅ヶ崎-川寒川間で開業。相模川の砂利採取事業[41660]
1926年:倉見、厚木と北に延伸。同年、神中鉄道[28910]も厚木-二俣川間開業
1931年:相模鉄道が厚木-橋本間を延伸開業 
1943年:東急グループ内で、相模鉄道が神中鉄道を合併【相模線の名称は変化なし】
1944年:国有化により運輸通信省相模線となる【残った旧神中線が相模鉄道の社名を継承】
1949年:日本国有鉄道相模線となる

外邦図収録 Sheet Number 17-10「座間」を見れば、1927年新規開業の小田原急行鉄道に「昭和4年鉄道補入」とあります。【76-12-1-4鉄補】
同様に、鉄道開通がいかに軍事的に重要な情報であるからといっても、1931年厚木駅【注】から北への延伸開業をした相模鉄道についても、隠蔽工作などがなされたとは、到底思われません。

25000地形図の「改測」が戦後20年以上も行われずにいたとすると、その事情は何故か? 不思議です。
1949年の「資修」は鉄補でないことを確認していますが、ひょっとすると、1955年発行の 76-11-4-4「資修」で処理された可能性もあるのではないか?

【注】厚木駅[41660]
外邦図の「座間」図幅では、小田急河原口駅との交差点【現在の厚木駅】より少し北に、神中鉄道と相模鉄道との共用ターミナルである「厚木駅」が見えます。神中線が小田急ルート【下記】になり、相模線の旅客駅が河原口に移った後も貨物駅として使われ、混合列車が停車していました。
現在の相模鉄道が小田急と接続している海老名駅と連絡線とは、この地形図には まだ現れていません。
しかし、神中鉄道は 1941年からこのルートで相模川を越え、相模厚木駅【本厚木駅】への乗り入れを開始しました。
[96178] 2018年 6月 3日(日)16:02:45hmt さん
江戸川区菅原橋交差点の歴史
昨日のブラタモリ・下田で登場したのが、静岡県最南端の神子元島。[85781] hmt と同じ頃の記事に登場した北杜市須玉町若神子の「九差路もどき?」[85778]伊豆之国さん からの連想で、七差路コレクションを開いてみました。

江戸川区菅原橋交差点:「[26273]烏川碧碧さんからは「最大十叉路説」の情報提供」と記載されていました。

2004年のこの記事から14年も経ていることでもあり、新たに検索してみました。
その結果、江戸川区郷土資料室による「菅原橋交差点の成り立ち」という 解説シート(2014/10/21更新)が存在することを発見しました。

現在は 国道14号 千葉街道と呼ばれている古くからの幹線道路に存在する複雑な交差点。
菅原橋交差点は、都内でも珍しく右記【地図】のように道が交差する 11差路となっています。

江戸川区が示した【地図】は、マピオンに道路名などを書き込んだもので、国道の北東=千葉県方面(1番)から時計回りの番号を付与。
江戸川区資料には「11差路」と記されています。しかし、9番とは水路を隔てた南側にある8番の道路は、菅原橋交差点から外れていると思われます。これを除外すれば、[26273]の10差路ということになります。

1番 千葉街道NE     2番 旧上八幡道     3番 昭和初期頃の小路
4番 鹿骨街道SE     5番 仲井堀通りS     6番 同潤会通り
7番 千葉街道SW     8番・9番 小松境川親水公園沿いの街道
10番 鹿骨街道NW     11番 仲井堀通りN

文化2年(1805)の『葛西御場絵図』には、「元佐倉道中」(7番/1番)が中井堀を渡る「菅原橋」が描かれています。
橋名の由来となった菅原道真公を祀る天満宮【現在は本一色北野神社】は、『明治38年(1905)の地図』に描かれ、橋の北側から【葛飾の】新宿(にいじゅく)に至る中井堀沿いの道(11番)には、小松川道と記されています。
参考までに 葛飾新宿の更に北は、灌漑用水の水源である 水元・小合溜[82206]です。
この地形図には、菅原橋の東に上八幡道(2番)も記載されています。葛飾八幡宮(かつしかはちまんぐう)の所在地は市川市八幡4丁目ですが、地名の読みは「やわた」ですね。上八幡道も同じかな?

鹿骨街道(4番)の前身らしき道は明治38年の地形図にもありますが、その名は未登場。
鹿骨(ししぼね)は難読地名。この道が整備されたのは、新小岩駅開業後の昭和戦前期のようです。

6番の道路に名付けられた「同潤会」[83708]という言葉は、関東大震災後の被害を受けた後、東京の都市圏が拡大した 昭和戦前時代を象徴しているようですが、この道が菅原橋交差点に接続され、航空写真(1963)のような姿になったのは、戦後の昭和29年(1954)頃であったようだと記されています。
この航空写真では中井堀の南側が完全な水路で残されていますが、それが徐々に暗渠化されて、仲井堀通り(5番)になったのは、1970年代前半とのことです。
[96160] 2018年 6月 1日(金)19:04:21【1】hmt さん
賽の河原
[96080][96118]では、関西「カンサイ」という読みの例外として話題になった「カンセイ」を題材にして、「呉音から漢音へ」という順序で日本に導入された漢字の歴史を概観し、併せて発音において混乱しやすい「アイ」と「エイ」との関連についても触れました。

今回は、京都市右京区の「西院」という地名から始めます。
阪急京都線の西院駅。バス停名は座標方式の交差点「西大路四条」、住所は右京区西院高山寺町。

京都西院駅が新京阪鉄道の地上仮駅として開業したのは 1928/11/1でした。 [20843]太白さん
四条大宮の京阪京都駅まで開通した 1931/3/31 には地下の「西院駅」となり、”関西最初の地下鉄”と謳ったということである。[17211]般若堂そんぴん さん

これよりもずっと前の 1910/3/25に 神戸の川崎財閥により 嵐山電車軌道が開通しています。
これが京都電燈の経営になり、戦時中には 電力企業から分離されて、京福電気鉄道になりました(1942)。

夜の繁華街を持つ京都と繊維工場などを持つ福井県とは、以前から両者を結ぶ送電線によって電力需給バランスを図っていた筈です。
しかし、戦時体制による電力国家管理[28941][61349]は、思わぬところで「京福」という組み合わせの意義を表面化することになりました。

それはさておき、新京阪>阪急の駅名は普通の読み方「サイイン」なのに、先輩格の嵐電>京福の駅名は「西院」と書いて「サイ」と読みます。[33039]ありがたきさん、[33569]なかなかさん
これは、如何なる事情によるものか?

右京区西院高山寺町の由来である高山寺は 淳和天皇[27426][27454]の離宮でした。
御所の西にあるお寺だから「西院」で不思議はありません。
ところが…

[59769]伊豆之国 さん
京都市の「西院」の駅名の読み方が阪急(さいいん)と嵐電(さい)で異なることについて、昔見たテレビ番組で、「元は西院(さい)村と呼ばれ、『賽の河原』からきている、と言う。阪急が『さいいん』と読みを変えたのは、『賽の河原』では縁起が悪いからだ」ということを聞いたことがあります。果たしてこれは本当のことなのでしょうか、読者の中でこの事情がお分かりの方は教えてください。

落書き帳過去記事には、上記の問い掛けに対するレスが見当たらなかったので、調べてみたところ、偶々手元にあった柳田國男『先祖の話』68話「さいの川原」に出会いました。
終戦直前の執筆、1946年発行の粗悪な印刷物ですが、京都五三昧【注】の一つであった「佐比」という川原に由来するということが記されていました。
【注】京都五三昧とされる火葬場
あみだが峯、舟岡山、鳥部山、西院(さい)、竹田(中山)の5ヶ所とされる。出典
参考までに江戸五三昧は[71932]で登場しています。

京都の魔界伝説にも、
西院の地名の由来は、現在の佐井通りに該当する「道祖(さい)大路」に接していたので「さい」と呼ぶようになったと思われる。
と記されていました。

テレビ番組で紹介された「賽の河原」>西院(さい)村 という説は正しいように思われます。
現在の漢字に騙されて、「御所の西だから西院」と単純解釈してはいけなかったのですね。

現在まで伝えられる空也上人の『西院河原地蔵和讃』。
空也が不幸な子どもたちの供養した平安時代はもちろんのこと、柳田國男が『先祖の話』を残した敗戦前後の時代に比べても、私達が当然のように享受している栄養状態や医療環境は格段の進歩を遂げています。
恵まれた時代に生きることができるのを感謝しながら、賽の河原の不幸な子どもたちへの思いを馳せたのでした。

余談ですが、嵐電・西院駅付近にある電鐘。
[91964] 伊豆之国さん
現在進んでいる阪急西院駅の改良工事(中略) どうなるかが気になります…

2018/4/5のお知らせによると、電鐘のある踏切には表示灯が設置され、信号機と警報音だけではなく、歩行者の目線でも電車接近をわかりやすくなっている模様です。ご安心ください。
[96118] 2018年 5月 25日(金)20:12:53hmt さん
関西(かんせい)の読み方(2)スペインの雨
[96080]で記した「呉音から漢音へ」の続編です。
日本語全体の流れの要約
 5世紀から本格化した南朝呉音文化の導入>
 7世紀から直面した隋唐帝国の影響による初期漢音文化>>【宋音の伝来など中間は省略】
 江戸時代・明治時代を経て変質したが、現在も漢音文化が優勢。
但し、仏教用語を中心として 呉音文化も一部に根強く残る。

このような認識を踏まえて、数年前の発言に関係する「地域差」を考えてみました。
[76598] Issieさん
「西:セイ(漢音)/サイ(呉音)」では,「関西大学」と「関西学院」のペアーが有名です。どちらが「かんさい」で,どちらが「かんせい」か,“東夷”(あずまえびす)には区別できません。

関東育ちの hmtとしては、漢音を使った「SEIBU」ブランド[61836]に親しんできました。
しかし、九州には呉音読みの西部(サイブ)ガス【登記上の称号は西部瓦斯】があり、大手都市ガス4社の一角を占めていることを知りました。

このことから、地域による呉音・漢音の使用傾向の違いがあるかと思い、調べてみました。
市町村雑学によると、現存市町村について西の出現は31回ありますが、訓読みの「にし」が多数で、音読みは10件でした。
その中では、呉音「サイ」7市(印西市/湖西市/愛西市/加西市/西条市/西海市/西都市)に対して漢音「セイ」は筑西市・西予市の他に高知県安芸郡芸西(げいせい)村の3つだけ。
地域による違いについては、印旛郡/浜名湖の西にある市が「サイ」で、筑波山の西の市が「セイ」という調子であり、西国/東国の地域差は見出されないように思われます。

福島県西白河郡西郷村は「にしごう」と訓読みでした。
ついでに、NHKドラマのタイトル「西郷どん」の読みは「SEGODON」。

[43834]
明治5年5月の太政官布告で、「従来通称名乗両用相用来候輩自今一名タルベキ事」になり、通称か名乗かどちらかを一つだけを選んで戸籍に記すことになりました。西郷吉之助は、名乗の「隆永」を選ぶつもりが、代理で届けた友人が間違えて父親の名乗の「隆盛」を届けてしまったのだそうです。名乗がほとんど使われていなかったという現実を窺がわせる逸話です。

…というわけで、幕末には「吉之助どん」という呼び名が一般的でした。
名字で呼ぶ現在の習慣もまだなく、「SEGODON」と呼ばれたとすれば、それは没後のことか? 
この呼名がドラマ中に登場する機会があるとすれば、それは年末近くのことと推測します。

それはさておき、呉音のサイゴウどん から 漢音のセイゴーどん に変化し、更に セーゴーどん→セゴどん となる変化は、口の開閉が少なく、口語では起りやすい音韻変化と思われます。

呉音サイ→漢音セイ とは逆向きの変化ですが、エイ→アイ と変化する有名な例についても、言及しておきます。

バーナード・ショーの戯曲『Pygmalion』…と言うよりも、それをミュージカル化した『マイ・フェア・レディ』。
ロンドン東部の下層階級で育ったイライザに正しい英語の発音を教え込み、レディに仕立てようとする言語学者の ヒギンズ教授。
彼が教材として与えた 有名な「スペインの雨」には「エイ」の音が5回出てきます。

The rain in Spain stays mainly in the plain.

これをイライザがコックニー訛りで発音すると、「エイ」が「アイ」になってしまいます。
ザ・ライン・イン・スパイン・スタイズ・マインリー・イン・ザ・プライン

オーストラリアの英語にも、today→トゥダーイなど、同様の訛りがあるようですね。
ドイツ語では「ei」と書いて「アイ」と読みます。

呉音・漢音から出発しましたが、発音は時代と地域が異なれば変化するものである。
当然のことでしょうが、いろいろと調べてみて、改めてこのことを実感した次第です。


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