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hmtさんの記事が5件見つかりました

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[98211] 2019年 8月 24日(土)16:31:17【1】hmt さん
ヤルタからマルタへ(2)1945年のヤルタ会談と密約
[98206]で付けた シリーズタイトルについて。

保養地として知られる「ヤルタ」は クリミア半島にあります。
クリミアは 19世紀の戦争はともかく、数年前のオリンピック冬季大会【1】の直後とも言える頃(2014/4/1)の ウクライナからロシアへの所属変更でも 記憶に残る地です。

【1】開催地ソチ[85076]も 黒海沿岸ですが、 クリミアと違い 歴史的にもジョージア[92785]【グルジア】に近く、ヤルタの東 約500km離れたリゾート地でした。

しかし、日本に直接の影響を及ぼした歴史的事件は、何と言っても ヤルタ会談でしょう。

第二次大戦末期の 1945年2月、連合国3首脳【ルーズベルト、チャーチル、スターリン】による戦後処理構想の会談が行なわれた地がヤルタでした。
その時代など背景を説明しておきます。

イタリアが 1943年に降伏して枢軸国から脱落した後、1944年になると ナチスドイツも東部戦線での敗北に加えて、ノルマンディーに上陸した連合軍に攻め込まれていました。
太平洋戦線でも 1945年になるとフィリピン陥落。
沖縄など日本領土が次の目標になり、本土空襲も近づいていた時期でした。

それと共に重要なのが 3首脳の一人・米国大統領ルーズベルト【FDR】の状況でした。

[49312] むっくん さん
病魔に侵されたアメリカ大統領ルーズベルトが事理弁識能力を欠いた(意思無能力)ままヤルタ会談に出席したため、ソ連のスターリンが主張した、第二次世界大戦後に東欧諸国がソ連の影響下に入る(これは、著しくアメリカ合衆国の国益を損ねました)ことに異議を唱えられなかったことによります。

病状は、日本心臓財団のページその他の本にも記されています。

そして 首脳間の会談は 欧州の戦後だけでなく、太平洋戦争での日本降伏に必要な協力を得るために、ソ連の要求に応じる形で、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連対日参戦を促した「極東密約」に及んでいたのでした。

「ヤルタ」へのコメントが長くなってしまいましたが、簡単に「マルタ」を説明します。
「マルタ」は、地中海の小島・イギリス海軍の拠点・戦後に独立したミニ国家です。

東西冷戦の象徴になっていた 「ベルリンの壁」崩壊直後の 1989年12月に、米ソ2大国首脳会談が行なわれました。
パパ・ブッシュとの会談で冷戦を終結させたのは ミハイル・ゴルバチョフ大統領です。

いずれも 世界史では有名な地名ですが、国内地理中心の落書き帳では登場する機会が少なく、ヤルタ会談を取り上げた記事は、[49312]の他には Issieさんの[11570]だけ。[66685]は冗談です。
マルタへの言及も古い海軍墓碑[86112]だけでした。
[98206] 2019年 8月 19日(月)20:37:29【1】hmt さん
ヤルタからマルタへ(1)瓢箪から駒?
タイトル変更:
第二次大戦後のヨーロッパを舞台とした シリーズタイトル を付けました。
大戦末期 1945年のヤルタ会談から始まった 東西両陣営の対立時代。
それを象徴する「ベルリンの壁」が崩壊し、冷戦終結が宣言された 1989年のマルタ会談も 30年前の昔話になっています。
世界が新たな対立時代を迎えているのは残念ですが、書き込みの内容は、相変わらずの hmt歴史雑文です。

最初は、冷戦終結時の劇的な歴史展開に出会った記録ですが、「瓢箪から駒?」というタイトルを使いました。

1989/8/19 ハンガリーの辺境ショプロンで、「ヨーロッパ・ピクニック」という名の集りが開かれました。
この集まりは、軽い冗談をきっかけに 計画が始まりました。

もともと 第一次大戦まで、ハンガリーとオーストリアとは 一つの国でした。
この企画は、両国の国境地帯でバーベキュー・パーティを開くというものです。

国境フェンスを囲んだ両国民が 御馳走を交換する姿を世界に示すことで、「鉄のカーテン」と呼ばれたヨーロッパの東西分断も、事実上無視することができる。
そのような平和的示威行動という趣旨だったようです。

ところが、このパーティを本格的に実行し、単なるピクニックでなく、大きな出来事にしようと考える人物が出て、ハンガリーの政治局員などへの根回しを始めました。

こうして、夏も終りに近づいた 1989/8/19 に、東ドイツ国民をハンガリーからオーストリアに脱出させる計画が実行に移されました。

この事件は、もちろん当時のニュースでも伝えられたでしょうが、遠い東ヨーロッパのニュースだけならば、私が 30年後の今日まで記憶している筈がありません。

この事件がきっかけになり、同じ1989年の11月の「ベルリンの壁崩壊」に繋がり、更にNHKスペシャルで8月の「ヨーロッパ・ピクニック」との関係が紹介されたことが、強い印象を残したのでした。

30周年である今日の記事は、私の印象に残る事件になった理由の紹介だけで終りますが、続報で補足するつもりです。
[98178] 2019年 8月 11日(日)11:09:58【1】hmt さん
度量衡の話(3)容積の単位 寛文9年 一升を 64827立方分 に統一
度量衡シリーズの第一回は キログラムの定義変更[98033]、つまり「衡」から始めました。
7月の第二回は メートルの定義[98077]、つまり「度」に関する話。
8月になった第三回は 当然のことながら 体積をはかる「量器」=「枡」の話になります。

…と言っても、長さの基準さえ確立していれば その組み立てにより定義することができる「体積」については、前2回とは異なる視点の話になります。

基本単位でない体積が、長い間「度量衡」の一角という重要な地位を占めていた理由。
それは、経済活動の基礎を支えてきた 「お米」の計量 に用いられた単位だったからです。

現在は kg単位 で取引され、その都度計量する必要もない包装商品になっている「米」ですが、農業生産が経済活動の主流を占めていた時代には「年貢米」という納税対象とされ、地域の経済規模を示す「石高」の算出にも使われていた、最も重要な生産物でした。

【追記】
解りやすくするために「米」を例示しましたが、誤解を防ぐために [58062]okiさんの注意書きを追記しておきます。
石高を持つのは農村だけではなく、また石高の内容は米だけではありません。
また、白米ではなく、玄米や籾で扱われるのが普通でした[72071]。【追記終】

その「お米」を計量する基準は 体積を量る「枡(ます)の寸法」でした。

子供の頃に、ある殿様がこんなアイディアを考えたという昔話を耳にした記憶があります。
年貢米を集める為政者としては大きい枡を使いたい。
そこで、5寸四方・深さ2寸5分という一升枡の形を、4寸9分四方・深さ2寸7分に変えた。
つまり、2辺を1分ずつ減らして 小さな枡に見せながら、深さは2分増した。

これならば、納税者を納得させながら 増税することができるのではないか…という論法。
計算してみれば、62500立方分から64827立方分へと 3.7%以上大きくなっていることはバレバレでしたが、この増税を強行した結果、現在の一升枡の寸法になったという説明でした。

この話は、本能寺の変後の政変に巧みに対応し、近畿地方の政治統一を果した 豊臣秀吉が 浅野長政に命じて統一した「京枡」の由緒と理解していました。
最近見たブログには、もう少し後の江戸幕府による仕業という説明もありました。
当業者のものですが、肝心の枡の寸法記載など疑問があり、信用できない説と思われました。

私としては、コトバンクに紹介された百科事典の解説により、寛文9年(1669)江戸幕府による「京枡への再統一」が正しいように思っています。京枡/江戸枡/一升枡など資料による用語の混乱もあり、いささか当惑しましたが、「京枡への再統一」前に使われた深型の江戸枡(47.5*47.5*29=65431.25)についての記載【世界大百科】もありました。

64827立方分として統一された一升枡の寸法は、江戸幕府から明治政府に引き継がれ、明治8年太政官達第135号度量衡取締条例に、詳細に規定されています。
403-4コマを見ると、旧器斗量と新器斗量とにつき、それぞれ穀量【米用】、水量【酒用】に細分された枡の規格が示されており、水量の一升枡で 64827立方分、穀量では 深さが1厘大きいものの、弦積差引 64827立方分という数字を確認できます。

折衷尺に代ってメートル原器との関連が付けられたのは、明治24年法律第三号度量衡法の第二条であり、ここでも 9コマの末行(第三条)に記された「升」の定義【むしやふな】を確認することができます。
六萬四千八百二十七立方分

枡の産地・大垣市
京都と江戸の枡座時代はさておき、明治時代になると、木曽ヒノキの集積地・名古屋で、枡の生産が盛んに行なわれていました。
奉公を終えて名古屋から大垣に戻った職人が伝えた枡作りの技術。
11社あった大垣の「木枡」生産者も半減したとのことですが、年間200万個を生産し、全国の8割をつくる産地とのことです。
大垣には 2012年岐阜オフ会の前に立ち寄りましたが[82261]、枡のことは知りませんでした。

大橋量器 枡の知識
[98157] 2019年 8月 2日(金)13:43:23hmt さん
高校の所在地
[98155] 白桃さん
それぞれ経緯や事情があるにせよ、自市(町村)内の高校の名称に、他市の名前が使用されていることに地元の方々はなんの違和感もないのでしょうか???

通勤通学度とは無関係な過去の事例ですが、高校名とその所在地の食い違いについて、有名な事例を記しておきます。落書き帳過去記事もあります。
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[48580] Shuji_Kamano さん
都立六中【現・新宿高校】の正式住所は(中略)、一時渋谷区になっていましたが,最近新宿区に復帰したようです.

[48626] hmt
東京府立第六中学校の旧々校舎は、1923年関東大震災の半年前に、天竜寺の東側・当時の東京市四谷区内藤町に落成しました。1947年東京都新宿区になった翌年 1948年度から新制高校になり、1950年にナンバースクールから東京都立新宿高等学校に改称しました。
1969年に、天竜寺の南側に新築した校舎に移転。(中略)1969年の校舎の位置は渋谷区側だったので、「渋谷区にある新宿高校」が出現しました。【中略】
2004年に3度目の新校舎ができて、またグランドと校舎が入れ替わり、正門も甲州街道側に移り、学校の所在地表記も新宿区内藤町に復帰したというわけです。
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このような境界にまたがる施設の所在地については、[75031] hmt でも論じており、施設の主要部分の移転に伴い、新宿区→渋谷区→新宿区と変った新宿高校の事例を挙げています。

高校名からは外れますが、上記【中略】の部分に記した 新宿タカシマヤ[36207]の所在地も 渋谷区千駄ヶ谷です。
宿場町時代の新宿は 玉川上水の北側 で、行政地名はこれに従ったものです。
しかし、新宿駅の一部として作られた 貨物設備のあった南側も、新宿と認識されるようになっていました。
この店を「渋谷タカシマヤ」と名付けたら、下車駅を間違えた客から非難轟々でしょうね。

一般論ですが、行政地名だけが地名ではありません。
行政区域外の地名を名乗る高校があってもよいのでは?
衛星市はともかく、通勤通学度が大きいからと言って、従属市と呼ぶのはどうかな?
[98143] 2019年 7月 26日(金)23:30:43hmt さん
沸かし湯の「○○温泉」
[98142] 伊豆之国 さん
「パロディ風」銭湯がいつの間にか消えた([95532])、…東海道と中山道が交わる宿場町・滋賀県草津市。

市中の銭湯が名乗っていた「○○温泉」。

時代の違いと共に、命名習慣の地域差もあるのでしょうね。

♪草津よいとこ…のブランド力や、湯の花の宣伝効果を利用した「草津市の草津温泉」は、「スーパー銭湯」が流行する前から、落書き帳の古参名所でした。[20908][59019][59033]


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