[41822] トライランダー さん
島根県にま郡にま町大字にま町
「にま」については、発音だけからでは明確な概念を抱きにくい2音地名に当てる漢字が多数ある中で、郡名には「邇摩」が、より使用頻度の多い村名には、字画が少なくて使いやすい「仁万」が定着し、これから改めて「仁摩町」が生まれました
[41861]。
同音異字の地名が連なる類例を探すと、「しが県しが郡しが町」。
「滋賀県滋賀郡志賀町」であり、3連続の「にま」には及びませんでした。
ここは和邇氏や小野氏の根拠地で、1955年に和邇村など3村が合併して生まれた「志賀町」の直接的な由来は、3村組合立の志賀中学校とされていますが、古代から「滋賀」と「志賀」は混用されてきたようです。
「にま」と同様、「しか」の2音地名に当てる漢字は多数あり、滋賀・志賀の他に 志我・志加・志何・磯鹿とも記されました。
なぜ、「滋賀県滋賀郡滋賀町」にしなかったかというと、少し南に、1932年まで「滋賀村」(大津市に合併)が存在していたので、近くの異なる場所に同表記を復活させることによる混乱を避ける配慮をしたのだと思います。
さて、2音を漢字に移しただけの「にま」・「しが」と違って、明らかに別の意味を持つ同音異字地名を連ねた例が、タイトルに挙げた「春日部市粕壁」です。
近世には、日光道中の「粕壁宿」で、これが明治の「粕壁町」になり、1944年の内牧村との戦時合併で「春日部町」が誕生しましたが、中心区域の大字として「粕壁」の名を残しています。更に、1954年1町5村合併により「春日部市粕壁」に。
この「春日部」という地名。「粕壁」を佳字に変化させた
[4742]ようにも見えますが、実は復古なのです。
鎌倉時代に「春日部郷」の地頭職だった春日部実景が、宝治合戦(1247)で三浦方として敗死し、春日部氏は没落しましたが、鎌倉幕府滅亡後に、春日部重行(
[1608] でるでる さん言及の“新田義貞の家臣”)が、後醍醐天皇から旧領の「春日部郷」を安堵されています。でも、結局南朝側は負けてしまいます。なかなか生き残るのは難しい。
その「春日部」は、
[1617] Issie さん にあるように、
大王(天皇)一族で「かすか」という名前の人に奉仕する集団に関わる地名です。
日本書紀の安閑天皇元年(6世紀前半)の条に、武蔵国造が内乱鎮圧にあたり援助を得た礼として屯倉を献上した記事があり、このことから、安閑天皇妃・春日山田皇女の御名代部由来という説が生まれています。
この説を立証する史料はないようですが、この付近は、大和政権との結びつきのあった土地です。
たとえば、私部(きさきべ)に由来すると思われる地名「騎西」があり、1875年に埼玉県から東京府に移管された「舎人」
[36159]も、大王の親衛隊を勤めた豪族がいたことを思わせます。北の方に目を転じると、辛亥の年(471)の銘がある鉄剣の出土した稲荷山古墳があります。
そういえば、埼玉(さきたま)古墳群のある場所は、「同字異音の連続」である「埼玉県埼玉郡埼玉(さきたま)村」でした。北埼玉郡を経て、現在は行田市。
それはさておき
「春日部町」が誕生した1944年というと、皇紀二千六百年の4年後。復古調全盛の時代ですから、この名が採用されたのは当然かもしれません。
それでも、大字に「粕壁」を残したことから、少なくとも400年間使われてきた「粕壁」の表記に対する愛着を感じることができます。
なお、戦国時代には、糟ヶ辺、糟壁などの用例もあります。
さて、「春日部」は人名由来の地名ということでしょうか?
春の日が霞むから、大和の「かすか」という地名に「春日」という字が当てられ、それに由来する人名という具合に遡ると、「地名→人名→別の場所の地名」 という類型
[41805]に入れることができそうです。
参考までに 同音異字連続の住所に関する過去ログ
[39218]グリグリさん
長野県木曽郡木祖村、滋賀県滋賀郡志賀町、島根県邇摩郡仁摩町、島根県簸川郡斐川町、熊本県葦北郡芦北町
ひらがな町もいれると、佐賀県三養基郡みやき町と鹿児島県薩摩郡さつま町
面白データ検索 同一読みの自治体
[360] ケン さん 市名と町名の違う市
つくば市筑波、春日部市粕壁、越谷市越ヶ谷,都留市つる、茅野市ちの、氷見市比美町、礪波市となみ町、羽曳野市はびきの