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okiさんの記事が20件見つかりました

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[65419] 2008年 6月 6日(金)02:37:21oki さん
静岡新聞 徳島新聞 配達する人
[65407] EMM さん
全国新聞折込広告部数集計表を見てみました。
これもなかなか興味深いデータでした。
が、気になった点が何点か。

はい、気になる点がいくつか上がってくるだろうと思っていました。
まず、このデータの性格ですが、広告主が新聞に折込広告を入れる場合の、部数(料金)算定の基礎資料として提供されているものです。ローデータは各販売店の新聞ごとの配達部数で、それを折込専門の広告代理店が集計・整理したものだと思います。したがって、販売店側からのデータ提供がなければ、新聞ごとの部数は分かりません。

静岡県は折込に関して全国でも特殊な地域らしく、どのデータを見ても、新聞別の部数が明らかになっていません。わたしが昔使っていたデータでは、上の部数表とは逆に、全国紙を含めてほぼすべてが静岡新聞の部数になっていました。おそらく、業界内の何らかの事情で、販売店が新聞ごとの部数を公表しないのだと思います。

次に、秋田、山形などの地域紙のことですが、これらは、「部数が少なすぎ」「折り込み広告が入らない」ために、集計表に載っていないのだと思います。大崎タイムスのように総部数7000部程度の新聞でも掲載されていますから、紙名のない新聞はそれ以下の部数しかないのでしょう。
販売店が配達するのは一般紙だけでなく、スポーツ新聞や各種業界紙も対象で、市郡単位でまとめれば数百部程度になるものもあると思いますが、これらは部数表には掲載されていません。小規模な地域紙も、これと同じような扱いになっていると考えられます。

なお、この部数表やABC協会の公表する部数は、いわゆる公称部数で、実際の配達部数とは異なります。新聞業界には「押し紙」と言われる慣行、有り体に言えば部数の水増しがあることは公然の秘密です。押し紙について説明し出すとややこしくなるので詳しくはこのサイトなどを見ていただきたいのですが、一般的には公称部数の2割、場合によってはそれ以上の押し紙があると言われています(新聞社自身はもちろん、テレビも週刊誌も報道しないので具体的な数値は不明ですが)。したがって、部数データを見る場合には、この分を割り引いて考える必要があると思います。

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徳島県が際だっている感があるのは、徳島新聞の占有率だけではなく、ライバル紙が無いあたりも影響しているかも。
「とくしん」が他の県紙と比べても際だった占有率を示す理由として考えたのは、ざっと次のようなことです。
・すでに県内で圧倒的な地位を占めているため、県内資本が新たな新聞社を立ち上げて読者を拡大することは困難(販売店もほとんど徳島新聞が抑えていますからね)。
・隣接する香川の四国新聞、高知の高知新聞も県紙であり、中日新聞や西日本新聞のようなブロック紙と違い、各県内のみを購読対象としているので、徳島まで進出する動機に乏しい(もしそれをやると徳島新聞から反撃されかねません。また、山陰中央新報が鳥取県で主な販売エリアとしているのは境港や米子といった島根県に隣接する都市で、距離的には鳥取市より松江市に近い地域です)。
・全国紙にとって、総部数30数万部に過ぎない徳島は、圧倒的な影響力を持つ地元紙を相手に多大なコストをかけて販売合戦を仕掛け、部数を拡大するほどの魅力に乏しい。

ただこのような状況は、多かれ少なかれ、県紙を持つような地域に共通するはずで、ほかにないかな、と思いついたのが、テレビ視聴のあり方です。
以前にも話題になったことがあると思いますが、徳島の民間テレビ局は徳島新聞と関係のある「四国放送」のみ。この局は、一応は日本テレビ系列なのですが、民放が1つしかないことなどから、ほかのキー局の番組も流しています。しかし、県民の多くは四国放送など見ていません。
県の人口が集中する東部の沿海地域には、生駒山上から発射される大阪キー局の電波が直接届き、四国放送と合わせて5局の民放が見られます(場所によっては和歌山放送や神戸のサンテレビも)。この場合、ほかの県と違って地元局の放送ではなく、大阪の放送が直接見える、という点が重要です。テレビでから流れるニュースは朝日新聞ニュースや毎日新聞ニュースでしたし(今もやっているのだろうか)、枚方パーク菊人形祭りのCMも入ります。

徳島県民にとっての大都会は今も昔も大阪(および神戸)です。東京が日本の中心であるのは分かっていますが、歴史的なつながりが深く、移住者も多い大阪への親近感は非常に強いものがあります。その大阪の情報が、テレビを通してダイレクトに入ってきますから、県外の情報を知るために全国紙を購読する必要がありません。
つまり、県内情報は徳島新聞、県外情報はテレビ、という使い分けができるわけで、とくしんの異常なまでのシェアの高さは、その点が一つの要因ではないかと。今思いついた考えですが。

ただ、県外情報がテレビで得られるためか、徳島新聞の県内ニュース偏重たるや、それはもうため息が出るほどです。実家はずっと全国紙を取っていたので、たまに学校などで徳島新聞を読むと、報道内容の落差に愕然としました。国内外の政治、経済、社会報道はほとんど共同や時事の配信記事で、ほかはすべて県内関係のニュースですからね。

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ついでなので、もう一点、新聞に関わる話題を。
地方は違うでしょうが、東京などの大都市圏の場合、日々新聞を配っているのは多くが新聞奨学生と言われる勤労学生です。販売店に住み込んで新聞を配り、その給与で生活費と学費をまかなっている健気な若者達です。

この新聞奨学生、かつてはすべて日本人でしたが、豊かになった代わりに根性の無くなった日本の若者にはもはや勤まらないようで、ここ10年ほど、わが家への配達をしてくれているのは全員外国から学びに来ている人たちです。覚えているだけで3~4人いますが、一人は17度線を国境にしていた国、ほかは38度線の南の国から来た若者です。
どこの学校に通っているかまでは聞いていませんが、みんな2~3年は継続して流暢な日本語を話せるようになっているので、仕事と学業を両立させた上で帰国しているのだと思います。

こういう形で、日本人がやらなくなった労働の、外国人への置き換えが進んでいるのですね。首都圏のほかの地域や関西圏などでも、自宅への新聞を配っているのは外国人の奨学生、という方は多いのではないでしょうか。
[65405] 2008年 6月 5日(木)02:48:23oki さん
吉野川の潜水橋
[65375] 役チャン さん
例えば河口から100キロまでの間の橋について、吉野川と多摩川をどなたか調べた方はおいででしょうか? 100キロというと、吉野川では阿波池田のあたりか、多摩川だと小河地ダムあたりでしょうか。ついでに両側の自治体の人口などもわかると面白いのですが。

何についても調べてくれている人がいるもので、吉野川の橋の数はこちら、多摩川はこのサイトにデータがあります。
両者を比較すると、吉野川は河口の新吉野川大橋から高知県境に近い大歩危橋までで44橋(高徳線、土讃線の3鉄橋を除く)、多摩川は羽田空港南側の首都高湾岸線から小河内ダム手前の境橋までで62橋(水道管のみの多摩川横断水道橋を除く)です。
一方、流域人口は吉野川が約57万人、多摩川が425万人で、1橋当たりの人口は吉野川約13,000人、多摩川69,000人となります。整理すると以下の通りです。
 橋数人口1橋当人口(含鉄道橋)1橋当人口
吉野川44569536129444712118
多摩川624250000685487457432
多摩川/吉野川1.417.465.31.574.74

なお、輸送手段として同等と考えて鉄道の鉄橋も含めると、吉野川が上記3橋、多摩川が14橋あります。合わせて、吉野川47橋、多摩川74橋で、1橋当たり人口は上の通りです。
吉野川に対する多摩川の比率を計算すると、橋数は多摩川が吉野川の1.4倍ありますが、人口が7倍以上なので、1橋当たり人口では多摩川流域は吉野川の5.3倍、鉄道橋を含む場合でも4.6倍となります。それだけ、吉野川流域の方が単位人口当たりの橋数が多いということです。ただ、これから単純に、
要するに、いかに地方の道路に手厚いか、ということのデータによる説明にもなるかも知れないと思ったからです。
と言えるかどうか。
徳島県の人口は80万人で、世田谷区と同程度。その人口が、東京都、神奈川県を併せたと同じくらいの面積に散在しているわけですから、徳島の人口密度は東京の1/30に過ぎません。同じ1本の橋を架けても、それを日常的に利用する人口に大きな差があり、建設の投資効果が落ちるのは、ある程度は仕方のないことだと思います。もしも、吉野川での1橋当たり人口を多摩川と同じにするべきだ、とするのであれば、紀伊水道から高知県境までで8本の橋しか架けてはいけない、ということになってしまいます。

もう一つ考えなければいけないのは、「同じ1本の橋」と言えるかどうか。かつて、吉野川の特に中下流部には、潜水橋と言われる橋が沢山あり、現在でも一部が残っています
潜水橋とは、出水時に文字通り水流に潜ってしまう橋で、平常時水面からの高さ1~2mくらいのところに、自動車が1台通れる程度の細い橋桁を架けたものです(四万十川水系では沈下橋と呼ばれるようです)。洪水の水圧や流木で流されないよう、水流に直交する断面を可能な限り小さくしてあり、欄干はもちろん、ガードレールすらありません(実物写真はこちらをご覧下さい)。
当然、きわめて危険な代物で、増水時の通行は自殺行為ですし、平水時でも、ハンドル捌きを誤ると水中に落下しかねません。徳島にいた頃には、潜水橋からの落下事故の報道を何度か耳にしたことがあります。

徳島県は交通安全対策として潜水橋の解消を進めているようで、現在吉野川に架かっている新しい橋の相当部分は、潜水橋の架け替えに伴うものでしょう。
それでもまだ9本くらいの潜水橋が残っているようですが、このような潜水橋と多摩川に架かる高速道路橋などとを同列に論じるのは無理があり、正確な比較のためには個々の橋の構造まで調べていく必要があるように思います。

※ 上記を書いている間に[65401] にまん さん の「吉野川と多摩川プラスアルファ」がありましたが、そのまま書き込みます。多摩川の橋はあきる野市より上流の方が多いようで、川幅が狭まって橋が架けやすくなるのではないでしょうか。
[65365] 2008年 6月 2日(月)02:01:56oki さん
新聞三国志
[65313] inakanomozart さん
したがって、静岡新聞のシェアは平均すると51.9%になるのかもしれません。
それにしても、同じ県内で偏りがあるのは静岡県独特の現象かもしれませんね。

これについては昔むかしのアーカイブス地元の言論機関 -地方紙の研究-がありますが、補足すると、静岡以外にも次のような県で地域別に購読紙の偏りが見られます。

青森県:
八戸市と三戸郡はデーリー東北、それ以外は東奥日報で、弘前市を中心とした陸奥新報というエリア紙も存在する。

滋賀県:
全国紙が過半を占めるが、大津市に加えて草津市、守山市など湖南地域に京都新聞が勢力を伸ばす(以前に比べて部数が減っている模様)。彦根市、長浜市、米原市など湖東では中日新聞も比較的強い。

兵庫県:
尼崎~芦屋のいわゆる阪神間諸都市では全国紙が圧倒的だが、神戸市以西では神戸新聞がトップシェア。加古川、姫路など、西部の播州地域ほど神戸新聞の比重が高くなる。

山口県:
基本的に全国紙の地域だが、広島県に隣接する岩国市では中国新聞がシェアトップで、周辺地域にも食い込む。宇部市では宇部日報というエリア紙が一定の比重を占める。下関市に山口新聞があるものの、部数はわずか。

福岡県:
北九州市は山口県と同じく全国紙の地域で、行橋、中間、豊前など周辺地域も同様。西日本新聞は福岡都市圏および筑後地域でトップのシェアを誇り、筑豊は両者が拮抗。ブロック紙である西日本新聞は、佐賀県、長崎県などでも一定の部数を確保。

主なものはこんなところでしょうか。福島県の福島民報と福島民友、沖縄県の琉球新報と沖縄タイムスには地域的な偏りはなさそうです。
また、静岡の場合、中日新聞は浜松と磐田市で全体の1/3弱、ほかでは取るに足りない勢力です。

実は、都市(郡)別の新聞部数を把握しているのは、新聞社よりもむしろ折込屋さん、正確に言うと折込広告専門の広告代理店です。10年近く前に、折込に関係する業務を担当したことがあり、全国データも持っているのですが、古くなっている部分もあるので、こちらの全国新聞折込広告部数集計表を参考にしました。興味があればご覧下さい。


[65309] EMM さん
県内における占有率がトップなのは徳島県の徳島新聞で、なんと県内の80%以上が「とくしん」なんですね。はたから見ると「高すぎ?」と思ってしまうぐらい。
まさしくその通りで、「とくしん」のシェアは圧倒的です。全国紙の部数には、官庁や学校など公共機関での購読や県外からの一時転勤者が結構多いのではないかと思われ、地元民で徳島新聞以外を購読している人はごくわずかです。
父親はその数少ない他紙購読者で、ずっと日経を取っているのですが、困ることがあるそうです。それは、もう高齢なので亡くなる知人がけっこう多く、訃報欄のない日経では死亡の情報が入らず、義理を欠いてしまう畏れがあること。
若者が「紙」の新聞を読まなくなって新聞購読者の年齢層が高くなっているようですが、特に高齢者にとって訃報欄は必需情報であり、地方新聞の存在意義の一斑はそこにある、と言えるでしょう。
[65311] 2008年 5月 30日(金)03:11:55oki さん
逆転駅名総覧
[65282] 鳴子こけし さん
誰か全駅調べてくれないかな~(←他力本願)。

ということで、全駅調べてみました。
スナフキんさんが、自分のホームページに「日本全国駅名一覧(2008.04.01)」というファイルをアップしてくれていて、9108駅記載されています(大変有り難うございます)。このデータに検索をかけた結果では、皆さんがすでに書き込まれているものを含め、全部で74組ありました。
「組」というのは同字異駅が複数あるためで、関わっている駅は189駅になります。すべて2字の駅で、3字以上の駅には逆転はない模様です。

全部挙げると結構大変なので、面白そうなものを。
まず、複数組の駅が関わっているもの。最大で5駅が関連しているのが4組あり、すべてに「山」の字が関係しています。
駅名読み路線←→駅名読み路線
山下やました東:常磐線←→下山しもやま西:山陰本線
山下やました#東急世田谷線←→下山しもやま土佐くろしお鉄道阿佐線
山下やました能勢電鉄妙見線

本山もとやま名古屋市営東山線←→山本やまもと阪急宝塚本線
本山もとやま四:予讃線←→山本やまもと九:筑肥線
本山もとやま松浦鉄道西九州線

北山きたやま東:仙山線←→山北やまきた海:御殿場線
北山きたやま真岡鐵道真岡線
北山きたやま京都市営烏丸線
北山きたやま#土佐電気鉄道[伊野線]

東山ひがしやま北:函館本線←→山東さんどう和歌山電鐵貴志川線
東山ひがしやま京都市営東西線
東山ひがしやま近鉄生駒線
東山ひがしやま#岡山電気軌道[東山本線]

4駅または3駅では次の通り。こちらは「山」に加えて「田」、「野」、「中」が目立ちます。
田野たの土佐くろしお鉄道阿佐線←→野田のだ西:大阪環状線
田野たの九:日豊本線←→野田のだ阪神本線

神田かんだ東:東北本線←→田神たがみ名鉄各務原線
神田こうだ松浦鉄道西九州線
神田しんでん#鹿児島市営[唐湊線]

中田ちゅうでん四:牟岐線←→田中たなかしなの鉄道
中田なかた東:五能線
中田なかだ横浜市営1号線

山崎やまさき北:函館本線←→崎山さきやま平成筑豊鉄道田川線
山崎やまざき名鉄尾西線
山崎やまざき西:東海道本線

山田やまだ京王高尾線←→田山たやま東:花輪線
山田やまだ長良川鉄道越美南線
山田やまだ阪急千里線

中野なかのわたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線←→野中のなか松浦鉄道西九州線
中野なかの東:中央本線
中野なかの上田電鉄別所線

上道じょうとう西:山陽本線←→道上みちのうえ西:福塩線
上道あがりみち西:境線

読みも逆転しているのは4組で、すべて読みが2字です。
駅名読み路線←→駅名読み路線
谷津やつ京成本線←→津谷つや東:陸羽西線
矢野やの西:呉線←→野矢のや九:久大本線
和佐わさ西:紀勢本線←→佐和さわ東:常磐線
和知わち西:山陰本線←→知和ちわ西:因美線

山陰本線の和知駅と下山駅は、逆転駅名を持つ駅同士が同一自治体内で隣接しているまれな例です。ほかにあるかどうかは確認していませんが。

駅間距離では、やはり[65298] 今川焼 さん の谷保←→保谷が一番近そうです。


データの処理を行なっただけで、地図上ですべての駅を確認したわけではないので、間違っていたらごめんなさい、です。
[65136] 2008年 5月 16日(金)01:11:30oki さん
四日市次郎丸村についての考察
[65106] むっくん さん
本当に四日市次郎丸村という1つの村であったのか、という疑問を私は持っています。より正確には、四日市村/次郎丸村の内・四日市村と四日市村/次郎丸村の内・次郎丸村の2村で四日市村/次郎丸村という1村を形成していたと考えるのが自然なのではないか

となると、市区町村変遷情報・広島県に記載されている
2 1890.10.01 町制/改称 賀茂郡西条町 賀茂郡 四日市次郎丸村

2 1890.10.01 町制/改称 賀茂郡西条町 賀茂郡 四日市村/次郎丸村
とでも記載した方が実は実情をより良く表していることになります。以上の私の考えに対し、皆様の意見を伺いたい次第です。

私の考えは、「四日市村/次郎丸村」とする必要はない、とするものです。理由は以下に述べますが、この件に関しては四日市次郎丸村の実態と、その表記に分けて考える必要があると思うので、説明を2つに分けます。

1.四日市次郎丸村の実態
この村について考えるには、むっくんさんも触れられた寺町村の説明から始めなければなりません。
寺町村は天保国絵図記載の石高が2800石という大村ですが、実際には4つの村に分かれていました。遅くとも16世紀初めには次郎丸方など4地域からなっていたと見られ、江戸時代初頭に四日市次郎丸、吉行、土与丸、助実の4村に分立します。
慶長6年(1601)に福島正則の行なった検地では寺町村として一括され、それ以降も、天保郷帳など幕府に提出された文書では寺町村とされていますが、広島藩内部の文書では独立した4つの村として扱われていたようです。庄屋などの村役人も各村ごとに居たと思われます(4村分立の正確な年次は不明です。また、このように幕府に出す文書と各藩内部の文書とで、村の扱いが異なることはままあることです)。
次に四日市と次郎丸ですが、文書上に名称が初めて現れるのはともに天文年間(1630~50年頃)で、それ以前から地名が存在したことは確実です。次郎丸は、上に述べた寺町村を構成する地域の一つ、次郎丸方として初出しています。四日市は天正年間(1670~90年頃)に4の日に市を開いていたとされ、その後山陽道(西国街道)の宿場になっています。次郎丸の一部が町場になったもので、街道に沿って人家が密集する地域が四日市、その周りの田園地帯が次郎丸であったと考えられます。町場と農村という2つの地域からなっていたわけですが、先のように近世初頭から、2つ合わせて四日市次郎丸村という1つの村を構成しており、江戸期を通じて、庄屋職も1人しか置かれていません。
なお、天保国絵図では寺町村のほかに四日市町屋敷分、四日市田畠分が高付けされていますが、これは町場である四日市の分を別に表記しただけで、実際には、上記のように四日市次郎丸村という1つの村でした。
これを証拠立てる資料が、明治3年の郷村高帳です。廃藩置県の前年の文書で、この種の文書としては広島藩が最後に作成したものだと思いますが、「四日市次郎丸村」の文字がはっきりと読み取れます。これから推定して江戸期の広島藩内では、国絵図など幕府文書の記載とは無関係に、四日市次郎丸村として扱っていたことは確実です。
当然、明治以降も四日市次郎丸村という1つの村であり、四日市村/次郎丸村の中に四日市村、次郎丸村があったのではない、と考えます。
(※以上の記述は、「日本歴史地名大系 広島県の地名」(平凡社)および「角川地名大辞典 広島県」に基づいています。)

2.四日市次郎丸村の表記
むっくんさんは、
素直に読めば四日市次郎丸村なのでしょうが、四日市村/次郎丸村とも読めないことはありません
との表現を繰り返されていますが、これは、引用されている各種明治期文書の次のような縦書表記について述べられたものだと思います。
 四 次
 日 郎
 市 丸
  村
(※以下では、このような表記を「併称表記」と呼び、横書きでは「四日市|次郎丸村」と書くこととします、これに対して、「四日市次郎丸村」のような表記を「連称表記」と呼びます。あくまでも、ここだけの便宜的な呼び方です)。
「四日市|次郎丸村」という併称表記が、「四日市次郎丸村」の連称表記と異なることは事実です。しかし、それが直ちに、四日市村、次郎丸村の2村が存在したという結論に結びつくわけでありません。
むっくんさんが「四日市村/次郎丸村」の表記にこだわるのは、歴博の旧高旧領取調帳データベースにそのような記載がなされていたからではないかと思うのですが、その元資料も縦書きであった、ということに注意が必要です。おそらく、そこには「四日市|次郎丸村」の併称表記がなされており、それを「四日市村/次郎丸村」としたのは、歴博の担当者の解釈だと思います。また、
町制を施行して西条町となった県告示について、広島県史・年表(別編1)(編・出版:広島県、1984)には、賀茂郡四日市村・次郎丸村を合併し西条町と改称(明治23年広島県告示第97号)と記載されています。
とあるのも、明治期資料の併称表記を「四日市村・次郎丸村」と解釈したものでしょう。したがって、四日市、次郎丸の双方に「村」を付した「四日市村/次郎丸村」の表記は、原資料のどこにも存在しないはずです。
さらに
地方行政区画便覧によると明治19年1月当時についてでは、四日市次郎丸村が2箇所記載されています。
とありますが、これも考えすぎではないでしょうか。当該箇所には、上段に戸長役場所在地、その下に戸長役場が所管する村名を記載しています。ここは単に、四日市|次郎丸村所在の戸長役場が、四日市|次郎丸村、土与丸村、吉行村の3村を管轄していることを示しているだけ、だと思います。

以上の結果
上述の各文献の記載内容からは私の仮説を否定するよりは肯定した方がいいのではないか、と私は考えます。特に地方行政区画便覧と広島県史の記述は、私の仮説に立った方が説明しやすいのではないでしょうか。
という主張は、その前提が崩れてしまうと考えます。

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以上から、「四日市村/次郎丸村」ではなく、現在の市区町村変遷情報の通り「四日市次郎丸村」の連称表記で記載する方が適切である、というのが私の結論です。
むっくんさん、いかがでしょうか。
(※以上の説明では、明治になって併称表記がなされるようになったのはなぜか、という疑問が残り、それに対する考えもあるのですが、あまりに長くなったのでここら辺でやめておきます)。
[65120] 2008年 5月 14日(水)01:40:22oki さん
正距方位図法_その2
[65116] にまん さん
探しているのは「東京中心の正距方位」の地図です。国境と主要都市が記載されていて、A3~A4程度に印刷できるとベストです。

地図サイトではありませんが、PTOLEMYという地図ソフトがあります。
私自身はここのところ利用していないので、どの程度詳細な地図が描けるのか分かりかねるのですが、東京中心の正距方位地図の作成は可能です。
[65091] 2008年 5月 11日(日)22:58:42oki さん
明治初期の地図情報について
明治大合併期までの市区町村変遷に関し、文字資料としては近代データライブラリなどを参照できるようになっています(特に、むっくん さんの「[62863] 市制町村制施行時の府令県令(ver2)」には大変お世話になっています。これだけの資料を発掘していただいたことに感謝いたします)。
加えて、ネット上で明治初期の地図情報を公開するサイトも増えてきました。皆さん、あまり触れられることがないようなので、私の知っているものをご紹介しておくことにします。

1.関東地方
歴史的農業環境閲覧システム
明治初期から中期にかけて作成された「迅速測図」のうち、関東地方の分を閲覧できるようにしたサイトです。確認した限りでは、明治13~15年時点の地図のようです。明治前期の市区町村変遷に興味がなくとも、地図好きであれば見逃せないサイトだと思います。

2.大阪府(および隣接地域)
大阪市立図書館イメージ情報データベース 地形図をさがす
「2万分の1仮製地図」を選ぶと、明治10年代の地形図の閲覧が可能です。画面が小さくて見にくいですが、現在の地形図を参照しながら閲覧すれば、見たい地域に素早くたどり着けると思います。
ちなみに、このサイトで「妙見山」を見ると、[65062]でご報告した山下町/村が、明治18年測量時点で山下「町」となっていることを確認できます。

3.奈良県
奈良県立図書情報館 絵図展示ギャラリー 古地図・地図
「大和全国地図」、「大阪府奈良県管内細見全図」などが明治10年代の地図です。後者は奈良県が大阪府と一体であった時期のもので、大阪府管内の摂河泉3国と大和国が1枚の地図に描かれています。

4.徳島県
徳島県立図書館 デジタルライブラリ 所蔵絵図
「阿波国全図」が明治3年の地図です。ほかに、明治合併期直後のものと見られる「徳島県明細全図」があり、合併後の村とその中の大字との領域が分かります。

5.岡山県
デジタル岡山大百科 コレクション一覧 絵図・古地図
(「絵図・古地図」ページには直接飛べず、「コレクション一覧」へのリンクです)
「岡山県管内地図 岡山県管内図」が明治12年、「岡山県三国地図」が明治18年の地図です。両者を比較すると、大多府村は明治12年から18年の間に日生村から独立したようです。

以上のうち、1以外では、明治前期のほか江戸期の絵図や大合併期以降の古地図も閲覧可能なので、興味のある方はご覧下さい。
また、これら以外で、村レベルの位置確認が可能な明治前期の地図を閲覧できるサイトをご存じの方は、教えていただければと思います。
[65081] 2008年 5月 11日(日)18:05:34oki さん
メンバー登録のご報告
昨日、メンバー登録をいたしました。皆様、今後ともよろしくお願いいたします。

改めて自己紹介をしておきますと、出身地は徳島県阿南市、現住地は東京都江戸川区です。経県値の登録もしておきました。点数は167点で、こちらのメンバーでは平均的です。愛媛、島根、沖縄と3県も未踏県があるのが痛いところです。

現在、天保郷帳の藩政村から明治大合併期までの推移を調査・入力しているところですが、枝村まで対象にしており、独立・合併などのデータが整備されていないこともあってなかなか進んでいません。藩政村の地図上の位置も入力しているので、ある程度整理できれば、データをプロットしてGoogle Earthなどで閲覧可能にしたいと思っているのですが、いつになることやら。

とりあえず、今後ともおつきあいをお願いいたします。
[65062] 2008年 5月 11日(日)01:08:56oki さん
山下町/村
ご無沙汰しております。

[65038] 伊那谷さん
[65048] むっくん さん

山下町/村について、むっくん さんが挙げられた以外の資料を含め、江戸末期~明治合併期までの経緯を整理してみました。

No調査時点出版年資料名編著者山下?備考
1天保9.5天保国絵図江戸幕府笹部村之内山下町
2明治最初期不明旧高旧領取調帳明治政府なし
3明治13年明治14.3郡区町村一覧内務省地理局山下村
4明治14.1.1不明第4回共武政表陸軍省参謀本部山下町山下町・下財屋敷併せて105戸480人
5明治14年中明治18.8明治14年兵庫県統計概表兵庫県庶務課山下町
6明治16.12明治18.4地名索引内務省地理局山下町
7明治17.7?明治17.11兵庫県管内郡区町村名一覧福本虎蔵山下村調査時点は識語の時点。内容は郡区町村一覧の引き写しでは?
8明治19.1明治20.10地方行政区画便覧内務省地理局山下町
9明治22.4.1明22.5.14兵庫県市町村名称区域及役所役場位置福永惟精山下村/山下町調査時点は県令施行日
10明治22.4.1明22.11.13新旧対照市町村一覧和泉橋警察署山下村同上
11明治22.4.1明25.9.20兵庫県報類纂第2冊明治22年今井馬吉,山下三郎山下村同上

まず、山下という地域は、遅くとも天保期(1830~40年代)から「町」と呼ばれていたことが分かります。笹部村の枝村の扱いですが、国絵図では山下町の北側に古城跡が記され(今も城山があります)、町の北隣に下財屋敷(現在は下財町)の地名があることからすると、中世に国人土豪クラスの居館があって一定の商業機能を備え、それが近世に引き継がれたのかもしれません。ただ、資料4で明治14年の人口が山下町、下財屋敷併せて500人弱ですから、さほどの規模ではなかったと思われます。
次に、資料2では山下の名称が記載されていないので、幕末明治移行期はまだ笹部村の枝村であり、資料3の明治13年までに独立して山下「村」になったと考えられます。
それ以降、資料4~資料8(明治14~19年)は基本的に山下「町」であり、資料3、4の調査時点が正しいとすれば、明治13年中に町になったのでしょう。なお、資料7では「村」ですが、この資料は町村の配列が資料3(郡区町村一覧)と同一であり、後者を引き写したものではないかと思います(資料7の時点は巻頭の識語の執筆時で、実際の調査時点は記載されていません)。
以上であれば、江戸時代に農村の枝村として小さな町場であった地域が、明治に入って独立、その後町になった、というよくある話です。奇妙なのは、明治合併時の資料9~11で山下「村」となっている点です。特に9の場合、東谷村を構成する旧村名としては山下「村」なのに、東谷村の役場所在地としては山下「町」である、という摩訶不思議な記載になっています。

この説明として考えられるのは次の3点。
1.資料9、10、11で、単純に町を村と誤植した。
2.資料8(地方行政区画便覧)の調査時点である明治19年1月から、合併県令の公布された明治22年2月までの間に、町から村に変更された
3.県が認定する公式の自治体名は「村」であるが、地元では江戸時代以来「町」と呼ばれており、それを採用する資料があった

以上のうち、3は伊那谷さんの
2、単純に地元では村とか町と呼ばれており、定まっていない
と同じような考えですが、兵庫県や内務省の公式資料である5、6、8に山下「町」とあるので、ちょっと採用しがたい。
2は、まったくないとは言い切れませんが、いったん町になった自治体が村に戻った例を知らないので、考えにくいと思います(明治維新後、大合併期までに町から村になった例をご存じの方はご教授下さい)。
1については、資料9は町、村の両方が記載されているのでどちらかが誤記であることは明白ですし、10も下財屋敷を下財屋村と誤植していることから、ほかにも誤りがある可能性は高い。11は県庁に直接調査を依頼しているため信頼性はありますが、誤植がないとは言い切れません。

したがって、私としては、町を村と誤植した可能性がもっとも高いと考えますが(3つの資料が揃って誤植した、とするのは躊躇する面があるものの)、伊那谷さん、むっくんさん、いかがでしょうか。

ただ留意が必要なのは、どの資料にも誤記、誤植は必ずあるだろうということ。たとえば、「地方行政区画便覧」の巻末には2ページにわたって正誤表が記載されており、その中には漢字の間違いとともに町と村の誤記も多数見受けられます。このような誤りは他の資料にもあるはずで、何らかの疑問が生じた場合、可能な限り複数の資料を援用してその整合性から当否を判断するしかないと思います。と言っても、一つの資料が間違っていた場合(特に県や国の公的資料)、他の資料にも誤りが連鎖する場合があってなかなか難しいとは思いますが。
[64173] 2008年 3月 31日(月)04:36:19oki さん
盛岡仁王村について
[64165] hmt さん
これらの村の多くは、近くの「○○町」と共に津・宇都宮・大津・岐阜・青森・山口・宮崎の市街を形成していますが、盛岡城下町だけは市街地の名称に「仁王村」など「村」だけが用いられており、「町」という名は使われていません。
従って、明治22年の市制にあたり、「仁王村」などいくつかの「村」から直接に「盛岡市」が誕生したことになります。
これが 村だけで市になった事例 の第1号と思ったのですが、念のため 新旧対照市町村一覧 を開いてみたら、仁王村・志家村に続いて“仙北町の内”と書いてあります。地方行政区画便覧では「仙北町村」だったのですが、疑問が残ります。

hmt さんがあげられたうち盛岡仁王村(等)は、ほかの村から市になったものとは性格が違うと思うので、以前に調べた結果を記しておきます。

盛岡は南部藩20万石の城下町であり、幕末明治初期、東北のみならず全国でも有数の都市に数えられ、市制施行時の最初の市の一つであったことはご存じの通りです。
通常であれば盛岡レベルの城下町は、郡区町村編制法の下で、区にはならないものの、旧城下町を構成した町々が単独の自治体として郡に直属するのが通例です(多くの場合、各町には城下名が冠称されます)。その中で盛岡のみ、旧城下が解体されて仁王村、志家村、東中野村、加賀野村、山岸村、三ツ割村、上田村、仙北町村の「村」になっています(これらの村には盛岡が冠称されています)。
その理由はよく分かりませんが、はっきりしているのは、盛岡城下が村に分解されたのは1878(明治11)年の郡区町村編制法の施行時ではなく、明治4(1871)年だということです。
南部藩は戊辰戦争の結果いったん改易され、改めて白石13万石に転封されることになりましたが、償金70万両を納めることを条件に盛岡13万石への復帰が許されました。しかし、敗戦、転封、所領の10郡から4郡への縮小などのため、最終的に藩財政が破綻、明治3(1870)年、他藩に1年先がけて廃藩し、盛岡県となっています。
盛岡城下町の各丁、小路が、城下形成以前の旧村に属せられ、城下が(形の上で)消滅するのが翌明治4(1871)年です。廃藩と旧城下町の消滅に何らかの関係があると見るのが妥当でしょうが、理由は不明です。考えられるのは、明治新政府の南部藩に対する懲罰、あるいは南部藩から明治政府に対する恭順の意の表明、というところです。ただ、明治政府にとってのA級戦犯である若松や仙台、長岡でも、旧城下町はそのままの形で維持され、盛岡のように村になってはいませんから、明治政府側の意向とは考えにくい面があります(長岡藩も盛岡と同様、明治3年に財政破綻によって廃藩しています)。南部藩内部には、明治政府への恭順派と反政府派との対立があったようで、盛岡城下の解体にはそれが影響している可能性がありますが、詳しいことは分かりません。

いずれにせよ、盛岡は他の大規模城下町とは異なる形で「村」とされたわけですが、それによって住民が四散したわけではありません。明治5年以降の記録である第1回共武政表で盛岡の人口が25,457人、1880(明治13)年の第2回共武政表で32,735人、1886(明治19)年の地方行政区画便覧で盛岡仁王村をはじめとする6ヶ村の人口が30,069人(盛岡仙北町村、山岸村、新庄村3ヶ村の人口が含まれていません)、1889(明治22)年の合併時点で31,581人等々の状況で、旧城下の人口がそのまま維持され、おそらくは増加傾向を示していたと考えられます。
盛岡が市町村制施行時に最初の市の一つになったのも、市となるに十分な人口と、「都会輻輳ノ地」と呼ぶに相応しい市街地を備えていたからでしょう。その意味で、盛岡仁王村などを「村だけで市になった事例の第1号」と呼ぶのは誤解を招きかねない表現だと思います。行政区画として「村」であったことは事実ですが、そもそも盛岡城下を「村」にしたこと自体が例外的、変則的な事態で、実際には他の城下と同じく、南岩手郡に直属する町の集合体であり、人口集積の面でも、「村」と呼ばれるべき実態はなかったからです。
なお、盛岡市は、仁王村、志家村の全域と、東中野村、加賀野村、山岸村、三ツ割村、上田村、仙北町村の各一部(旧城下町部分)が合併して成立しますが、9村の村名は大字として維持され、その下に58の小字が設定されています。この小字が、本来の盛岡の町名に当たるものでしょう。ただ、大字が維持されたために、市内の正式地名は盛岡市大字仁王字内丸などといった表記になったようです。実際には、岩手県の公式文書でも「大字仁王字」の部分が表記されず、盛岡市内丸などとされたようですが。

新旧対照市町村一覧で「仙北町の内」とあるのはよく分かりません。1886(明治19)年の地方行政区画便覧で仙北町村なので、1889(明治22)年の合併時までに仙北町に改称していることは考えにくいのですが、この間の文書が入手できないので、確言はできません。
仙北町(ちょう)は北上川西岸に位置しますが、東岸中心に形成された盛岡城下の一部でした。仙北町村(まちむら)は、城下の一部である仙北町に、北上川西岸の周辺農村を併せて成立した村であったかと思われます。
[64114] 2008年 3月 24日(月)03:19:11oki さん
高校数検証
[64050] EMM さん
少なくとも、七尾市に関しては何らかの注釈が必要だと思います。
また、ほかにも「移行期間中」の学校がある市がないかどうかの追加調査が必要なのではないでしょうか。

遅くなりましたが、追加調査の結果です(05年時点で高校数が7校以上の市に限定。「-」は不明です。表がちょっと複雑なので、きれいには整形されません)。

  旧市のみ   合併市町村を含む   
 2002年 2002年 2005年 2007年  
市町村高校数生徒数高校数生徒数高校数生徒数高校数生徒数備考
七尾市6185982331920946204109年4月から5校
高梁市5 -7 -814296177610年4月から5校
五所川原市6 -8 -8298582719   
福知山市6 -8 -8427084072   
天草市 - -834738291682638   
本庄市55237765697616975991   
栃木市6604466044760037587905年に1校開校
室蘭市7361973619733707309508年4月から6校

改めて調べて確認したのは、次の点です。
1.少子化に伴う高校の再編整備の行なわれている市があり、それに伴って高校数は減少する。今後減少を予定している市もある。
2.ただし、再編後の高校と閉校予定の高校は移行期間中に併存しており、閉校まで「瞬間風速」で高校数が増加することもあり得る。
3.逆に、平成の大合併の影響で、合併後の市の高校数は増加する。
4.生徒数が数10人程度の分校や定時制高校も1校に数えられており、高校の多さは必ずしも生徒数に連動しない。

以上の市のうち、高校の再編が行なわれているのは七尾市、高梁市、室蘭市で、前2市はすでに最高時より高校数が減少、室蘭市もその予定です(現時点で各市に存在する高校名と近年の再編経緯は、下の方に詳しく記載しています)。
また、七尾市と高梁市は瞬間風速で増加した事例で、七尾市はEMMさんご指摘の通り。高梁市も、高梁工業・成羽・川上農業の3校統合で高梁城南高校が誕生していますが、その開校時点である04年4月から3校閉校の06年3月まで、高校数が一時的に増えています。室蘭市は、室蘭東と室蘭商業が合併した室蘭東翔高が室蘭東の校舎に06年4月開校していますが、08年3月まで室蘭商業も存続し、見かけ上は高校数7校で変わっていません。
次に合併の影響では、上記のうち合併を経験していないのは栃木市と室蘭市のみ。他は合併で高校数が増加(水増し?)しています。天草市は、旧市そのものがないですから、合併による増加とは言えないでしょうが、合併前の最大自治体である本渡市の高校数は3校でした。

また、分校や定時制の高校も1校として数えられていますが、ほとんどの場合、その生徒数は少数です。たとえば、定時制の七尾城北高の生徒数は07年時点で45人、高梁市でも定時制である市立松山高・市立宇治高が2校合わせて55人、五所川原市の金木高校市浦分校(定時制でもある)が52人と言った具合。このような定時制高校・分校を、全日制と同列に置いて高校数を論じるのが妥当かどうか。

以上のような状況で、学校数が多いからといって、必ずしもその市の高校力(適当に作った言葉です)が高いとは限らず、生徒数等も加味して考える必要があると思います。

その中で異彩を放つというか、孤高を誇っているのが栃木市。8万人台の人口で、合併せずに高校が7校。生徒数は5879人で5991人の本庄市を少し下回りますが、本庄の7校のうち2校は旧児玉町所在ですから、旧市レベルでは栃木市の方が多い。しかも、他都市の多くで高校数が減少する中、05年4月の学悠館高校の開校で1校増えています。学悠館は定時制ですが、昼夜開講の単位制を取っており、07年の生徒数が661人と、全日制に引けを取りません。
何と言っても特筆されるのが、普通科の男子校である栃木高、女子校の栃木女子、実業科の栃木農業、栃木工業、栃木商業と、市名(ですよねこの場合)を冠した県立高が5校揃い踏みしていること。高校再編の進んだ現在、市名のついた県立の男女農工商高校が全部揃った都市などというのは、北関東や東北の県庁所在地レベルの都市でもなければ、滅多に見られないのでは([64054] 右左府さん によれば、能代市も以前はすべて揃っていたそうですが)。さすが元県庁所在地。人口10万人以下都市の「実質的な」高校力チャンピオンは栃木市で決定、というところですね。
[64047] いっちゃんさん
県南4市で人口最少となろうとも、栃木県南で揺るぎない「格」を備えているのが栃木市
と仰るとおりです。

ただし、その栃木市でも、02~07年の生徒数は6044人→5879人と減っています。07年の数字には学悠館の生徒数が加わっていますから、県立5校と國學院栃木の既存校では800人以上減少していることになります。栃木市といえども、少子化による生徒数減少の趨勢には抗し得ないということです。まして、他の市では大きく減っており、分かっている範囲では02~07年におおむね1割以上の減、天草市では1/4の減少です。学齢期人口は今後も減り続けますから、高校や生徒数も減少は確実。各都市の高校力は今後も衰えていくことが予想されます。寂しいことですが。

以下は、現時点で各市に存在する高校名と近年の再編経緯、および合併との関係。
-----------------------------------------------------
七尾市
公立全日制:七尾高校、七尾東雲高校(七尾工業・七尾商業・七尾農業の3高校を移行し、04年4月新規開校。3校の閉校は06年3月)、田鶴浜高校(旧田鶴浜町)、中島高校(09年3月七尾東雲高と統合して廃校予定。旧中島町)
公立定時制:七尾城北高校
私立高校 :鵬学園高校

高梁市
公立全日制:高梁高校、高梁城南高校高梁校地、高梁城南高校川上校地(高梁工業・成羽・川上農業の3高校が統合されて04年4月に高梁城南高校開校。ただし3校の閉校は06年3月。高梁校地は高梁工業の、川上校地は川上農業の校舎を引き継ぎ。川上校地は10年3月閉校予定。成羽は旧成羽町、川上農業は旧川上町所在)
公立定時制:市立松山高校、市立宇治高校
私立高校 :岡山県高梁日新高校

五所川原市
公立全日制:五所川原高校(定時制併設)、五所川原高校東校舎(分校)、金木高校(旧金木町)、五所川原農林高校、五所川原工業高校
公立定時制:金木高校市浦分校(旧市浦町)
私立高校 :五所川原第一高校、五所川原商業高校

福知山市
公立全日制:福知山高校、府立工業高校、大江高校(旧大江町)
公立定時制:福知山高校三和分校(旧三和町)
私立高校 :京都共栄学園高校、福知山成美高校、福知山女子高校、福知山淑徳高校

天草市
公立全日制:天草高校、苓明高校、天草工業高校(以上3校旧本渡市)、牛深高校(旧牛深市)、天草東高校(旧有明町)、倉岳高校(旧倉岳町)、天草高校西校(旧天草町。01年4月に、独立した天草西高校から天草高校の分校に移行)河浦高校(旧河浦町)
公立定時制:定時制のみの高校はなし
私立高校 :なし(通信制の勇志国際高校が本校を置くが、カウントせず)

本庄市
公立全日制:本庄高校、本庄北高校、児玉高校、児玉白楊高校(以上2校は旧児玉町)
公立定時制:なし
私立高校 :本庄第一高校、本庄東高校、早稲田大学本庄高等学院

栃木市
公立全日制:栃木高校、栃木女子高校、栃木農業高校、栃木工業高校、栃木商業高校
公立定時制:学悠館高校(05年4月開校)
私立高校 :國學院大學栃木高校

室蘭市
公立全日制:室蘭栄高校(定時制併設)、室蘭清水丘高校、室蘭工業高校(定時制併設)、室蘭東翔高校(室蘭東と室蘭商業が合併し、室蘭東の校舎に06年4月開校)、室蘭商業高校(08年3月閉校予定)
公立定時制:定時制のみの高校はなし
私立高校 :室蘭大谷高校、海星学院高校
--------------------------------------------
[64048] 2008年 3月 17日(月)01:48:25oki さん
七尾市の高校数
[64046] EMM さん
七尾市に現在有る高校は七尾高校・七尾東雲高校・田鶴浜高校・中島高校(以上県立全日制)・七尾城北高校(県立定時制)・鵬学園高校(私立)の6校となっております。
このうち、七尾東雲高校は2006年4月に七尾商業高校・七尾工業高校・七尾農業高校が統合されてできた高校です。
よって、2005年時点での七尾市内の高校は6-1+3=8校です。
鹿西高校(鹿島郡中能登町)を間違えて勘定してませんか?

表に示したのは05年学校基本調査の数値です。ただし、文部科学省の全国データでは市区町村レベルの数値がなく、全都道府県の統計を調べると時間がかかるので、統計局の「統計でみる市区町村のすがた2007」所載の全国市区町村別データを直接の引用元としています。したがって、各市に所在する高校をすべて調べ上げたわけではありません。
この調査の調査時点は毎年5月1日で、分校は1校と数える、全日制と定時制が併置されている場合は1つの学校と見なす、通信制のみの高校は含まない、という調査設計になっています。
で、改めて石川県の05年調査を確認したところ(PDFファイルの8ページ、別表7です)、七尾市の高校は公立全日制7、同定時制1、私立全日制1の計9校であったようです。EMMさんのあげられたのと比べると公立全日制が1校多くなっていますが、どちらが正しいのか、私には判断がつきません。また、中能登町には公立全日制高校が1校カウントされているので、鹿西高校が七尾市分に含まれていることもないと思います。
[64042] 2008年 3月 16日(日)16:55:46oki さん
表の訂正
今回はデータ出所が確かですから、間違いないはずです。
と言っておきながら、早速間違えてしまいました。[64032]今川焼さん ご指摘の室蘭市が抜けていたので、訂正しておきます。
また、福知山市の高校は7校とされていて、表の8校とは異なりますが、他の市と基準年を合わせるために、統計の数値のままにしてあります。05年以降に統廃合等があったのかもしれません。

市区町村人口総数高校数高校生徒数昼間人口昼夜間比
七尾市618719209465721106.2
高梁市387998142942635109.9
五所川原市621818298565487105.3
福知山市819778427088235107.6
天草市9647382916102339106.1
本庄市819577616983652102.1
栃木市823407600388095107.0
室蘭市9837273370111709113.6
富士吉田市525726242353348101.5
萩市579906157360708104.7
能代市628586287268755109.4
佐渡市673866194372249107.2
栗原市802486235882282102.5
中津川市84080625428347499.3
中津市843686303386644102.7
宇和島市894446289897234108.7
大和郡山市916726277296070104.8
米沢市9317864267102641110.2
大仙市933526264197471104.4
[64041] 2008年 3月 16日(日)16:33:54oki さん
人口に比べて高校の多い都市
[64032] 今川焼 さん
ところで、福知山市は他に府立高校が3校ありますが、このような人口8万人クラスの市で、7校も高校を擁する市って他にあるでしょうか。

調査結果です。

市区町村人口総数高校数高校生徒数昼間人口昼夜間比
七尾市618719209465721106.2
高梁市387998142942635109.9
五所川原市621818298565487105.3
福知山市819778427088235107.6
天草市9647382916102339106.1
本庄市819577616983652102.1
栃木市823407600388095107.0
富士吉田市525726242353348101.5
萩市579906157360708104.7
能代市628586287268755109.4
佐渡市673866194372249107.2
栗原市802486235882282102.5
中津川市84080625428347499.3
中津市843686303386644102.7
宇和島市894446289897234108.7
大和郡山市916726277296070104.8
米沢市9317864267102641110.2
大仙市933526264197471104.4
<参考>
市区町村人口総数高校数高校生徒数昼間人口昼夜間比
高槻市3518269772429556584.0
川口市4800798679838954581.1
所沢市3361007565127007280.4
八尾市2734876475725739994.1
 ※資料:人口=05年国勢調査 高校数=05年学校基本調査

今回はデータ出所が確かですから、間違いないはずです。
人口が少なくて高校数が多いということは、中心性はあるものの、その及ぼす範囲の狭い都市ということです。また、歴史はあるものの現在は衰退傾向を示す、という予想も成り立ちます。その手の都市は、昼夜間人口比が高くなるはずと思って一緒に調べてみました。
予想通り、江戸時代に城下町や陣屋所在地だった都市が多く、ほかも門前町、宿場町、在郷町など。昼夜間比も、中津川市を除いて100%を超えています。
逆に、人口が多いのに高校数が少ないのは大都市圏のベッドタウンですね。
[63996] 2008年 3月 12日(水)21:23:58oki さん
筑紫野市武藏
[63981]千本桜さん
どうして二日市の武蔵でもないのに、山口の立明寺に「むさしケ丘」なる団地ができちゃったんですか
[63990] 中島悟 さん
考えられるのは
 1.この辺一帯が広く武蔵と呼ばれていた。
 2.武蔵に近いからと、公社の担当者が適当に決めた。

武蔵は江戸時代の武蔵村で、その由来は大字武蔵に鎮座する椿花山武蔵寺(ぶぞうじ)のようです。武蔵寺は、現存するものでは九州最古の寺院だそうで、創建者である虎丸長者にちなむ縁起絵図もあります。Wikipediaによれば、武蔵台高校も武蔵村や武蔵寺にちなんで命名されたようです。
武蔵寺については、蘇我臣日向身刺(そがのおみひむかむさし)なる人物も関連しています。中大兄皇子の頃の政治家で、同族である蘇我倉山田石川麻呂を中大兄に讒言し、族滅させたものの、根拠のないことを知った皇子が後悔して身刺を大宰師に左遷したとのこと。その後、身刺は孝徳天皇の冥福を祈って「般若寺」を建立しましたが、この般若寺は筑紫野市に遺跡のある塔原廃寺で、それが再興されたのが現在の武蔵寺、という説もあるようです

いずれにせよ、武蔵もしくは武蔵寺は、現地周辺ではそれなりにネームバリューのある名称のようで、「むさしケ丘」団地の命名起源はそれに因むものでしょう。
ちなみに、筑紫野市やその周辺は新興住宅地に「○○丘」、「○○台」を付けるのが大好ききなようで、市内にちくし台団地、ちくしヶ丘団地のほか、美しが丘南・北、光が丘、桜台、太宰府市に長浦台、青葉台、大野城市のつつじヶ丘、緑ヶ丘、南ヶ丘、旭ヶ丘、紫台、平野台、宮野台など、どこかで見たような新興地名が目白押しです。

このうち、ちくし台団地、ちくしヶ丘団地は筑紫野市筑紫に位置し、筑紫の名称は延喜式内社の筑紫神社に由来するようです。「むさしケ丘」は、ちくしヶ丘のペアとして発想されたのかもしれません(どちらが先に建設されたのか確認していないので単なる想像ですが)。
[63922] 2008年 3月 4日(火)02:07:40oki さん
訂正してお詫び申し上げます
[63914] 千本桜 さん  宮城県の人口最小町

宮城県の人口最小町の欄に福島県岩瀬郡鏡石町が記載されているのが気になりました。

改めて元の資料を点検したところ、岩瀬郡が宮城県に含まれることになっていたのでした。おまけに、岩瀬郡だけでなく、安達郡、安積郡、北會津郡、南會津郡、大沼郡、河沼郡、耶麻郡、西白河郡、東白川郡、石川郡という多数の郡が宮城県に属しているではありませんか。さらに言うと、鏡石はこの時点で町ではなく村であり、町に昇格したのははるか後世の1962年のようです。
重ね重ねのミスをしてしまい、まことに申し訳ありません。宮城県の人口最小町は栗原郡岩ヶ崎町に訂正します。また、上記の次第で宮城、福島両県の関連データが大きく狂っているので、その部分をお示ししておきます。

町平均人口町数村平均人口村数人口最小町同人口人口最大村同人口町-村
宮城縣5648203233177栗原郡岩ヶ崎町2930桃生郡深谷村9379-6449
福島縣7378212430293磐城郡四倉町2776安達郡小濱村4962-2186

もともとこの資料は、人口などの数値そのものに疑問な点がかなりあり、原資料から入力する際にタイプミスしたのだと思うのですが、数値以外にも明かな間違いがあることが分かりました。したがって、[63912]に示した表はあくまで参考程度のものとしてお考え下さい。
元の資料は筑波大学空間情報科学分野の村山祐司先生が提供されているものなのですが、おそらく学生に入力させて、読み合わせもしていないのでしょう。しかし、他人の入力したものをチェックもせずに使用したのは私なので、責任は私にあります。やはりデータの正確性をきちんと確かめることが第一ですね。反省しております。

ついで、といっては何ですが、[63668]で触れられた「賀」美石村の件、
[63761] 88 さん
では「加」美石村と結論づけられていますが、新たな資料を発見しました。
[62863] むっくん さん が発掘してくださった「現行宮城県布令全書」に、県令第8号として、明治22年3月31日付の合併後宮城県市町村一覧表があり、その中では「賀」美石村と明記されています(111丁です)
したがって、誕生時には「賀」美石村であった、と考えるほかありません。賀美石という村名は、同村谷地森にある延喜式内社の賀美石神社に由来するものと想定され、賀美石小学校、賀美石郵便局が存在することも、この見方を裏付けます。また、現在の加美町のHPでも、賀美石村と明記されています。
一方で、88 さんが1954.7.1付けの新設合併告示で確認されているのですから、消滅時に「加」美石村とであったことも確かでしょう。
もちろん、途中で改称したということでもないと思います。にもかかわらず、誕生時と消滅時で、県や総理府の公式文書に記載されている名称が異なる、という事態が生じているわけです。
ここからは推測ですが、賀茂と加茂に見られるように、地名で「賀」と「加」の混用は一般的で、それもほとんど一方的に「賀→加」の変化が起こっています。「賀」と「加」が同音で、「加」の方が字形が簡単、しかも「賀」の一部分として「加」が含まれているという事情によると思います。さらに賀美石村の場合、賀美郡であった郡名が、村の誕生時には加美郡に変化していました。
以上の事情が作用して、本来「賀」美石であったものの、「加」美石と書かれるのが普通になり、消滅時には、公式にも「加」美石が使用されていたのではないか、と思われます。あくまで推測ですので、間違っているかもしれませんが。

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[63918] 伊那谷 さん
以上の事情なので、ご提供した資料は参考程度のものとしてご理解下さい。

また、明治大合併期後の町について補足しておくと、[63912]の記述では町になったのが合併前から町を称していた自治体だけのようにも取られますが、もう一つ、大きな供給源として旧城下町があったと思います。
大合併期に市になったのはたかだか40程度で、大半が表高20万石以上の大藩の城下です。それ以外に藩は200以上あり、小規模な陣屋を除いても、100以上の城とその城下町が存在しました。その多くは町になったはずです。この場合、自治体としての町の構成要素として、旧城下内の複数の町が含まれたと思います(字としての町、というべきでしょうか)。

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[63916] hmt さん
現行地理例規」所載の「地所名称区別細目(明治9年5月18日内務省議定)」という文書の正しいリンク先を教えていただければ幸いです。

JPEG2000で閲覧しているので、その該当ページのURLを貼り付けたのですが、それでは正しいページにリンクしないようです。お手数を取らせて済みませんでした。今後はページを明記するようにします。
字とは何か、という問題に対する参考にもなるか、と思ってこの部分を引用しておいたのですが、はるか昔に言及されていたのですね。さすがhmt さん、敬服いたします。
浜名港の件は私も気がついていたのですが、長文になりすぎたのと、浜名港に新居宿以外の村が含まれるか否か、については何も語られていないので割愛したのでした。

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上記を書き込もうとしたら、
[63919] EMM さん Re:町と村 その他(石川県関係)
のご指摘がありました。やはりほかにも間違いがありましたか。
おそらく、他の府県でも間違っている部分があると思いますので、[63912]で示した表は、全面的に撤回します。改めて信用できる(原典を確認できる)データをもとに、正しいものを作り直したいと思います。
といっても、万単位のデータを入力するには相当な時間がかかるので、いつになるか分かりませんが(そもそも、本来やるつもりであった藩政村から明治合併期までの村の推移を明らかにする作業がほとんど進んでいないもので)。

とりあえず、寝ることにします。
[63912] 2008年 3月 3日(月)02:04:30oki さん
町と村 その他
[63737] 伊那谷 さん
[63862] 88 さん

いずれにせよ、結果としても(法律である)(旧)町村制では町と村の別は人口では区別していなかったようです。法律M44施行の(新)町村制でも同様に規定は見つかりません。内務省令や内務省告示などに何らかの規定があるのだとは推測しますが詳細は不明です。

ご存じだと思いますが、M21(1888)法律第1号市制町村制には、「市制町村制理由」という付属文書があり、その中に町村(および市)に対する明治政府の認識を示した部分があります。町と村の関係について、もっとも肝要な部分を示すと次のようになります(新漢字に直し、濁点、句読点を補ってあります)。

「元来町ト村トハ人民生計ノ情態ニ於テ其趣ヲ同ジクセザルモノアリテ、細カニ之ヲ論ズレバ均一ノ準率ニ依リ難キモノナキニ非ズト雖モ、本邦現今ノ状況ヲ察シ旧来ノ慣習ニ依リテ之ヲ考フルニ、都会輻輳ノ地ヲ除クノ外、宿駅ト称シ町ト称スルモノ施政ノ大体ニ於テ村落ト異同アルコトナシ。故ニ今之ヲ同一制度ノ下ニ立タシメントス。」

持って回ったくだくだしい表現ですが、要するに、町と村は「人民生計ノ情態」を異にするものの、「都会輻輳ノ地」と対比した場合町村間の相違は小さく、「施政ノ大体」では異同が認められないので、町村制という同一の制度を適用する(一方、都会輻輳ノ地である市には市制という別の制度を適用する)、ということです。
当時の政府は、市と町村とは別の存在と認識していたが、取り立てて町と村を区別する必要性を認めていなかったようです。
ただ町と村は「人民生計ノ情態」が異なるわけで、具体的にはどう違うのでしょう。「現行地理例規」所載の「地所名称区別細目(明治9年5月18日内務省議定)」という文書によると、町と村は次のように定義されています。

一 郡ト称スルモノハ国中ノ区分ニシテ村町ヲ轄スルモノナリ
一 村ト称スルモノハ郡中ノ区分ニシテ字ヲ轄シ農民ノ部落ヲナスモノナリ
一 町ト称スルモノハ郡中ノ区分ニシテ商民ノ市街ヲナスモノナリ。字ヲ轄スルコト村ニ同ジ
一 字ト称スルモノハ村町中ノ区分ニシテ数十百筆ノ地ヲ轄スルモノナリ

町は人家の密集した市街地で商業活動の盛んなところ、対して村は農村地域、というのが「人民生計ノ情態」の具体的な有様ということで、ごく常識的な考え方でしょう。
一方、町村制はその第3条で、「凡町村ハ従来ノ区域ヲ存シテ之ヲ変更セズ」と規定しています。従来の区域を存する以上、名称もそのままにするのが当然でしょうから、結局のところ、町村制施行時までに「商民ノ市街ヲナ」して町であったところはそのまま町であり、村であった自治体は村の名称を継続した、ということになります。
実際には「区域ヲ存」せずに合併した町村の方が多いですし、従来町であったところが町村制の適用後に村になった場合もありますが、農村の数に比べて町は非常に少なかったのが実態ですから(おおむね、村が約60000に対し旧城下町内を除いた町は600くらい)、旧来の町の多くがその名称を保存したでしょう。
この場合、町と村の別を人口で区別するという発想は基本的になかった、と考えられます。

以上ではあまりに当たり前すぎて詰まらないので、町村制施行直後の町と村の人口を示すデータをご呈示しておきます。府県毎の町と村の平均人口と、人口が最小の町と人口最大の村との一覧です。資料出所は以前ご紹介した明治24年の徴発物件一覧表で、明治22年の町村制施行から2年後ですが、大きくは変わってないはずです(資料の制約から九州北部の4県分が欠損しています。鹿児島県も少しおかしいようですが、そのままにしてあります。北海道と沖縄は含んでいません)。

町平均人口町数村平均人口村数人口最小町同人口人口最大村同人口町-村の差
青森縣922552856165三戸郡三戸町4045上北郡野邊地村7001-2956
岩手縣4364202597205氣仙郡盛町1728膽澤郡金ヶ崎村5177-3449
宮城縣6551302808325岩瀬郡鏡石町2758桃生郡深谷村9379-6621
秋田縣6511142665213雄勝郡岩崎町1536北秋田郡阿仁銅山村8641-7105
山形縣8056112906210飽海郡松嶺町2711西村山郡谷地村8843-6132
福島縣6070112560145磐城郡四倉町2776行方郡小高村4391-1615
茨城縣4355442574351那珂郡大宮町1614西葛飾郡五霞村7019-5405
栃木縣7572233623128安蘇郡堀米町2447足利郡北郷村8781-6334
群馬縣5312373165168西群馬郡伊香保町1051山田郡韮川村9374-8323
埼玉縣4823362696324北埼玉郡騎西町2325榛澤郡藤澤村5056-2731
千葉縣5502453054295香取郡滑川町2106海上郡高神村6781-4675
東京府76519283796南葛飾郡新宿町1324荏原郡大森村9767-8443
神奈川縣7320183079205鎌倉郡藤澤大富町1742久良岐郡戸太村10519-8777
新潟縣5285471896736刈羽郡椎谷町1069北蒲原郡新發田本村7327-6258
富山縣5482302128237砺波郡福岡町1772砺波郡平村5466-3694
石川縣5489142275259珠洲郡飯田町2139江沼郡大聖寺村9692-7553
福井縣832793034157今立郡鯖江町2958今立郡上池田村8035-5077
山梨縣2248142南巨摩郡増保村10206
長野縣8824152762369小縣郡長久保新町1060諏訪郡上諏訪村9034-7974
岐阜縣4687242383151可児郡兼山町1291大野郡大名田村8002-6711
静岡縣6128272998272引佐郡金指町1086有渡郡長田村10353-9267
愛知縣6222231943576知多郡高横須賀町1321碧海郡北大濱村5767-4446
三重縣7963182456309度會郡大湊町2118答志郡磯部村5407-3289
滋賀縣1291563210189神崎郡八日市町3823有渡郡豐田村6913-3090
京都府5496152008264船井郡園部町2219宇治郡山科村7052-4833
大阪府5311112542297茨田郡守口町1370西成郡難波村26405-25035
兵庫縣6818292818506有馬郡湯山町1824多可郡中村6796-4972
奈良縣6468123038137宇陀郡松山町1936吉野郡十津川村10419-8483
和歌山縣882022469227西牟婁郡田邊町7199有田郡湯淺村11455-4256
鳥取縣165929邑美郡富桑村3513
島根縣4304111926319周吉郡西郷東町664迩摩郡明治村4967-4303
岡山縣702932260446東南條郡津山東町3617小田郡笠岡村8591-4974
広島縣6371142984357豐田郡御手洗町1590安藝郡仁保島村15060-13470
山口縣1143643952192玖珂郡柳井津町4139都濃郡徳山村12113-7974
徳島縣1285424402137美馬郡脇町7177勝浦郡小松島村12617-5440
香川縣1093853325176多度郡多度津町6699豐田郡大野原村8958-2259
愛媛縣5159122947284温泉郡道後湯之町1267西宇和郡伊方村6735-5468
高知縣285322793194長岡郡後免町835香美郡槙山村6859-6024
熊本縣3855252842300阿蘇郡高森町1722葦北郡水俣村12725-11003
宮崎縣55605410895南那珂郡油津町2514西諸縣郡小林村10796-8282
鹿児島縣974027谿山郡谷山村25060
全国計6001668266910214周吉郡西郷東町664西成郡難波村26405-25741

ご覧のように、平均人口で比べれば村より町の方がよほど大きくなっていますが、個々の町村で見ると、すべての府県で、人口最小の町より人口最大の村の方が多数の人口を抱えています。人口最小町については、それなりの歴史と拠点性を有し、人口はさほど多くないにしても、この時点で町であっておかしくないところが多いと思います。この状況では、単純に人口基準で町村を区分することができなかったのも無理はないでしょう。

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なお、ついでなので、「市制町村制理由」に則って、町村と明確に区別された市についての明治政府の考え方を、次にご紹介しておきます。
・「都会輻輳の地」は、町村と「人情風俗を異にし、経済上自ずから差別がある」ために別に市制を適用する。
・市は基本的に区を継承するものであるが、市制によって明確に郡から分離するとともに、従来区内の町(旧城下内の町)が独立した自治体であったのを改めて、市を最下級の自治体とする(これによって、旧城下内の町が市の内部的な区分=字に戻った、と言えます)。
・市制の施行対象は、3府のほか、人口25,000人以上の市街地とする(従来の区以外も市制の対象にするということです)。
・「区」を改めて「市」とするのは、3府では区が存続するため、これとの混同を避けるためである。

どのような基準で市制の適用対象が決定されたかが窺えてなかなか面白い記述だと思います。実際、明治24年時点の市のうち人口最小の姫路市で24,608人ですから、人口規定はかなり厳密に適用されたようです。

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もう一つ、以下の件について。
「○○村」、「○○町」ではなく「○○鉄山」というものがありました。これは一体何なのでしょうか?
これが一体何なのかは、[63862] 88さんの説明でお分かりかと思います。明治政府は、従来区々としていた自治体の区域名称を町、村に統一しようとし、新田、宿、浦、分、組、郷、島、浜、山、寺、谷、刈、等々を名乗っていたところの多くがそれに従いましたが、郡区町村編制法の時点では旧来の名称に留まったものも少なくなかったようです。
明治24年の段階でも、新潟縣岩船郡粟島浦、神奈川県北多摩郡府中駅、同南多摩郡日野宿が、町村に名称変更していません。明治30年までには変えたようですが。
[63579] 2008年 1月 26日(土)15:15:31oki さん
地名の発音雑感
[63576] Issie さん

的確なご指摘ありがとうございます。
1:カナ表記が現実の発音を“その通りに”写しているとは限らない(これは現代表記も同じ)。

この意味で、調べるときに少し期待を持っていたのが「実用帝国大字辞典」です。「実用帝国地名辞典」と同じ人物の著作ですが、まさに「カナ表記で現実の発音を“その通りに”写す」ことを目的としています。「地名辞典」の方の前書きによれば、現地調査のほか、現地の役所、学校などと何度もやり取りするなど、相当苦労して「見出仮名の発音の儘の表出」に努めているようです。たとえば、徳島県の「一宇」は「いッちュー」と表記されていますが、ともに内務省地理局編纂で
“公式表記”
である「郡区町村一覧」や「地名索引」では「いちう」の表記ですから、「大字辞典」が実際にかなり調査した上で地名表記を行なっているのは事実と考えられます。
また、正確な発音表記のため、長音に「棒引き仮名遣い」を利用し、促音、拗音は小書きのカタカナで表しているのがお分かりと思います。

ですので、「あそー」は当時の発音をそのままうつしたものだと考えます。ですが、「すがお」の方は若干疑問があります。というのも、橘樹郡向丘村の菅生だけでなく、全国すべての菅生の発音が「すがお」だとされているからです。今朝、図書館で平凡社の歴史地名大系を調べたところ、あきる野市の菅生は室町期に「須賀尾」と表記されていたそうなので「すがお」でしょうが、ほかの菅生のほとんどは現在「すごう」の発音になっており、それらが明治後期にすべて「すがお」であったとは考えにくいのです。
著者も言うように、「数萬の地名、時に或は誤謬なきを保せず」ということで、すべての地名について表記されている発音が正しい、とは言えないようです。

ともあれ、今回調べて改めて確認したのは、明治初期はもちろん、学校教育を通じて歴史的仮名遣いが一般に普及定着したとされる大正期以降になっても、地名の発音表記に本則から外れた揺れが見られることで(1929年地形図における「かきを」駅)、こういう類はほかにもたくさんあると思われます。
また、向丘村の菅生の発音にしても、「すごう」「すがお」のどちらかが絶対的に正しいというものでもなく、時代により、地域により、あるいは人により、両方の発音が併用されていたことも十分に考えられるところです。

発音だけでなく、文字の表記も含めてこのような「揺れ」を許容せず、
「公式表記が絶対である」という“思い込み”が激しくなっている
のが現代の特徴で、パソコンによるデータ処理の一般化(「揺れ」を吸収できないデータベースの蔓延)がそれに拍車を掛けているように思います。私自身はできるだけ「思いこみ」に囚われないようにしたいと思っているのですが、自分でお馬鹿なデータベースを扱っていると、役所が出しているデータなのに、櫻井と桜井、四条畷と四條畷が混在し、検索がうまくいかなくてイライラしている、のも事実なのです。

以上、地名の発音に関するとりとめのない雑感です。
[63574] 2008年 1月 26日(土)03:36:03oki さん
麻生 菅生 柿生
[63555] 稲生 さん
[63556] スピカ さん
[63557] [63558] Issie さん

調べてみました。

 18791883190319121917
上麻生カミアサフカミアサフかみあそー
下麻生シモアサフしもあそー
菅生スガフスガフすがおスガオスガフ

 188918991912192119291954
柿生かきをかきおカキオかきをかきお
忠生ただをただおタダオ(タダ)オ(タダ)オ(タダ)オ
 ※すべて、資料掲載の読みがなをそのまま記載しています
  柿生は、1912まで村名、1921以降は駅名を示しています

基礎資料は以下の通り。
1879 郡区町村一覧
1883 地名索引
1889 新旧対照市町村一覧
1899 実用帝国地名辞典
1903 実用帝国大字辞典
1912 改正新旧対照市町村一覧
1917~地形図

「かきを」と「かきお」が混在したり、「すがお」より後で「スガフ」が出てきたりして解釈が難しいのですが、少なくとも、明治大合併時に「かきお」「ただお」という音を持つ村が出現した時点で、「麻生」は「あそう」、「菅生」は「すごう」と発音していたようです。
村名に引きずられて大字名の発音が変わっていったようにも思えますが、いかがなものでしょうか?
[63483] 2008年 1月 19日(土)01:30:38oki さん
共武政表 徴発物件一覧表 その他のデータ
[63482] hmt さん 
近代デジタルライブラリーに、明治40年発行の「徴発物件表」がありました。
ご教示いただき、有り難うございます。

実は、共武政表と徴発物件一覧表については、ほかにもネット上にデータソースがあり、そちらについてご報告しようと思っていたところなのです。

それは、筑波大学の村山祐司先生が運営されている歴史地域統計データのサイトです。見ていただければ分かりますが、明治期の市区町村レベルのデータとして、明治13年の共武政表、24年、30年、34年、40年の徴発物件一覧表、大正期のものとして大正9年の第1回国勢調査、昭和初期の第3回国勢調査(昭和5年)が掲載されています。いずれもエクセルデータなので、そのままダウンロードして閲覧するだけでなく、加工・分析することが可能です。
ほかにも、明治5~18年に至る県レベルの人口統計である日本全国戸籍表、郡区レベルの日本全国民籍戸口表(明治19年)などもあります。
これらは統計データですが、地図データとしても、大正・昭和期の県別行政界データ、明治24年の関東地方、近畿地方、北陸地方の旧市区町村界データも収載されています。
いずれもダウンロードにはユーザー登録が必要ですが、メールアドレスを記入するだけなので簡単です。興味のある方は閲覧してみてください。

私はかなり以前に発見して共武政表以下のデータも見ており、[63434]でご呈示した新居宿等の人口もそれに拠っています。ただ、データ量が膨大なのと、地名とのマッチングに結構手間がかかるので、まだ有効な分析はできていない状態です。
近代デジタルライブラリーに「徴発物件表」があるのは知りませんでした。歴史地域統計データの明治13年の共武政表と照合すると、後者は前者のデータを忠実にデジタル化しているようです。

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なお、このサイトの年次別行政区界シェープファイルのダウンロードというページに、別の興味深い地図データがあります。1889~2006年の任意の時点で、市区町村別の行政区界データをダウンロードできるというものです。つまり、このデータを利用すれば、明治大合併期から平成合併期までの任意時点の市区町村地図を自由に作成することができます。
データ形式はシェープファイルなので、MANDARAなどのGISソフト(もちろんフリーの)で閲覧、加工が可能です。世界測地系の経緯度座標で表現されているので、KMLファイルに加工してGoogle Earthに表示することもできます。
このデータは、1995年の国勢調査町丁・字等別地図(境域データ)の町丁字界を結合することにより作成されたものです。住居表示が行なわれた都市部では、現行の町丁字界は必ずしも明治期市区町村の境界とは一致しませんが、明治合併期以降の自治体であれば、多少の誤差を大目に見れば十分に使えるものだと思います([60788]でIssie さんが作成されていた神奈川県地図の全国版、と考えれば分かりやすいかと)。
ただし、特に初期のファイルはバカでかいので(1889年データはLHZファイルで130Mbyte)、ダウンロードやGISソフトでの取り扱いに注意が必要です。kmlに加工する場合は、県別に切り分けないとファイルの立ち上げすらできないかもしれません。

とりあえず、興味のある方はご覧下さい。


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