[6405] TN さん,
[6829] YSK さん,
[6836]白桃 さん
では,長野県の旧・篠ノ井市の場合。
「篠ノ井市」は1959年に更級郡篠ノ井町と塩崎村とが合体して発足しました。善光寺平(長野盆地)の南西隅から,合体市制以前に篠ノ井町が編入していたは犀川南側の丘陵地帯までを領域としていました。1966年に,同じ更級郡の川中島町ほか2村,埴科郡の松代町,上高井郡から1村,上水内郡から1村,そして長野市と合体して,いわゆる「大長野市」となりました。
したがって,単独の「市」であったのは,わずか7年間だったということになります。
さて,目で見た限り,合体したそれぞれの旧自治体どうしに市街地の連続は見られません。
基本的に,合体以前の旧長野市がそれなりの広さを持っていて,旧市域の周縁部の市街化も進んでいないからです。ただし,長野駅南側の芹田地区では紡績工場(現在は廃業)や大学(信大工学部)が進出したこともあって,旧市境の犀川岸まで市街地が形成されており,北国街道(国道18号旧道)の丹波島橋をはさんだ対岸の旧更北(こうほく)村丹波島地区に市街の連続性が見られないこともありません。とはいっても,犀川の存在自体が市街地の連続性を断ち切っています。
さらに都心部から離れた篠ノ井や松代は,市街地としては完全に長野から独立しています。
人や車の流れから見れば,県都・長野の吸引力は圧倒的なものがあると思われます。
かつて,篠ノ井と長野都心部の間には国道18号の旧道(県道:旧北国街道)と新道(現在の国道旧道)とをそれぞれ経由する川中島バスの路線が頻繁に運行されていました。現在では本数はかなり削減されていますが,それはバス利用者が自家用車に移転したからです。
国鉄/JRの信越線は長い間ローカル輸送にはあまり積極的でなかったこともあって,大都市の路線や,あるいは長野電鉄にもわずかに仄見える通勤輸送へのシフトは明白ではなかったのですが,それでもこの区間の通勤・通学輸送需要も小さくありません(もっとも,そのうちの少なくない部分は“篠ノ井発”ではなくて,より遠方の上田方面からのものが占めています)。
全般的に,篠ノ井は長野市との合体以前から県都・長野の衛星都市的な性格の強い都市でした。
一方で,篠ノ井には長野とは逆方向,千曲川をはさんだ屋代(更埴市)との結びつきもあります。
もともと篠ノ井は「更級郡役所」(戦時中は更級地方事務所)が置かれていたこともあるように,更級地域の中心という機能も持っていました。県立更級農業高校の存在がそれを象徴しています。
千曲川をはさんだ埴科郡では藩政時代の城下町・松代にかわって,北国街道・信越線という交通幹線場に位置する屋代が郡の中心として浮上し,お互いに隣接する篠ノ井と屋代が結びつきを深めました。実は,“見た目”で市街地が連続して見えるのは千曲川をはさんだ篠ノ井・屋代間の方です。
長野県では更級地域と埴科地域とをまとめて「更埴(こうしょく)地域」と呼ぶことが多いのですが,この2郡は地勢上,善光寺平の南半分を占める“北部”(篠ノ井・川中島・松代ほか)と,上田盆地への回廊を構成する“南部”(屋代・戸倉・坂城・稲荷山・上山田ほか)とに分けられます。そして,“北部”は県都・長野の成長とともに多くの面で長野都市圏に吸収されていきました。
一方“南部”はその位置から,長野を中心とする「北信」と上田を中心とする「東信」とに時に応じて所属を変えながら,両都市圏とは一定の距離をおいてきたように思われます(…というよりは,両都市圏に同時に属していた)。そして,“南部”の中では屋代への集中度が高まりました。
篠ノ井をはじめとする“北部”の「大長野市」への合体は,この流れを強めます。“北部”が「長野市」になってしまった結果,「更埴地域」とは“南部”をさすことになりました。すでに1959年には埴科郡の屋代町と更級郡の稲荷山町その他が合体して「更埴市」が発足し,(建前では屋代と稲荷山の対等合併でありながら)屋代の中心都市としての地位が固まります。
で,篠ノ井の場合,長野市になった以降も屋代とのつながりは相変わらず強いように思われます。
若干,別のファクターも関連して,本当は例として適当ではないのかもしれませんが,篠ノ井地区からは県立長野高校への流れ以上に県立屋代高校への流れのほうが大きいような感じを受けます。だって近いからね。
結論。
旧篠ノ井市の場合,人や車の流れという一瞥しただけでは判断できない現象は別にして,目で見る限り,長野都心からの独立性は相変わらず強く残っているように見えます。篠ノ井には市民会館があるのですが,これは「独立・篠ノ井市」の遺産ですね。
(ところで,ここでは商業機能にはあえて踏み込みませんでした。元々,篠ノ井は商業機能という点ではあまり大きな都市ではないのです。更級地域の商業中心としては,犀川丘陵一帯を後背地にもつ稲荷山の方が優位だったのです。もっとも,ここは高度成長期以降,急激に衰微しました。)
なお,モータリゼーションの進展と1980年代後半の国道18号(新)バイパスの開通,そして1998年のオリンピックの開催はこのあたりの地域構造に大きな変化を与えつつあります。
具体的には新バイパス沿線への郊外型大型店舗の進出と,信越線の篠ノ井-川中島駅間に新設された今井駅前のオリンピック村を転換した大規模住宅団地,などなど。
結局のところ,篠ノ井は明らかに長野都市圏の中にしっかりと組み込まれています。