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千本桜さんの記事が50件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[79784]2011年12月29日
千本桜
[79736]2011年12月14日
千本桜
[79658]2011年11月21日
千本桜
[79657]2011年11月21日
千本桜
[79591]2011年11月2日
千本桜
[79312]2011年9月6日
千本桜
[79289]2011年8月31日
千本桜
[79282]2011年8月30日
千本桜
[79249]2011年8月27日
千本桜
[79092]2011年8月14日
千本桜
[79055]2011年8月12日
千本桜
[78879]2011年8月7日
千本桜
[78803]2011年7月21日
千本桜
[78772]2011年7月16日
千本桜
[78768]2011年7月14日
千本桜
[78767]2011年7月13日
千本桜
[78751]2011年7月10日
千本桜
[78732]2011年7月9日
千本桜
[78712]2011年7月5日
千本桜
[78599]2011年6月20日
千本桜
[78578]2011年6月18日
千本桜
[78559]2011年6月14日
千本桜
[77851]2011年4月1日
千本桜
[77614]2011年2月7日
千本桜
[77608]2011年2月6日
千本桜
[77591]2011年2月4日
千本桜
[77582]2011年2月3日
千本桜
[77570]2011年1月31日
千本桜
[77547]2011年1月29日
千本桜
[77407]2011年1月12日
千本桜
[77119]2010年12月27日
千本桜
[77093]2010年12月23日
千本桜
[77083]2010年12月22日
千本桜
[77082]2010年12月22日
千本桜
[76288]2010年10月2日
千本桜
[76196]2010年9月16日
千本桜
[75500]2010年7月19日
千本桜
[75490]2010年7月17日
千本桜
[75322]2010年6月8日
千本桜
[75311]2010年6月7日
千本桜
[75271]2010年6月4日
千本桜
[75252]2010年6月3日
千本桜
[75196]2010年5月27日
千本桜
[75176]2010年5月23日
千本桜
[75169]2010年5月22日
千本桜
[75156]2010年5月22日
千本桜
[74447]2010年3月26日
千本桜
[74322]2010年3月11日
千本桜
[74255]2010年3月4日
千本桜
[74203]2010年2月22日
千本桜

[79784] 2011年 12月 29日(木)17:36:48千本桜 さん
ここはどこ?解答
問題1(島名を答えてください)

解答1

こんなふうに答えればよいのでしょうか。
[79736] 2011年 12月 14日(水)08:59:43千本桜 さん
地番と住居表示
地番を住所にしている区域は「1番地1」と表し、住居表示実施区域は「1番1号」と表すものと思っていました。でも、住居表示を実施しても「1番地1」と表す場合もあるのでしょうか?
と申しますのは、[79728]でグリグリさんがご紹介されている第8回落書き帳公式オフ会記録・ミニ十番勝負・問1の解説を読むと、日光、銚子、茂原、市原、流山、武蔵村山、藤沢、笠岡、日南各市の市役所住所が「1番地」「1番地1」または「1番地の1」になっているのに住居表示に○が付いています。変だなと思いました。ちなみに、wikipediaの流山市には
流山市では住居表示は行っていないが、土地区画整理事業に合わせて地番整理を行っている。
と書いてあり、藤沢市の住居表示実施区域を見ると、市役所がある藤沢駅北側が住居表示されていない区域になっています。確認したのは2市だけですが、このことから推測すると、ほかの市の市役所所在場所も住居表示されていない可能性があると思います。
[79658] 2011年 11月 21日(月)08:23:17千本桜 さん
仙台区から仙台市に移行する時点での町名・まとめ2
88さんへ。[79657] の続きです

[79282] でも書きましたが、もう一度、明治41年発行「仙台市史」を引用しながら仙台区の町について書きます。なお、仙台市史は町数を載せていないので、私が町名を追いながら計算しています。

【ステップ1】郡区町村編成法が発布された明治11年から始めます。仙台市史は次のように書いています。
明治11年7月22日布告第17号を以て郡区町村編成法を発布せられ、庁下を仙台区と称し、区長一員を置かる、是に於いて仙台は一の独立行政区となれり、此年11月区内を5部に分ち毎部町場持4人乃至6人を置き、部内を4分又は6分して布告布達等の事務を取扱はしむ、之を区行政の区画とする
と記述して、第1部(河原町など31町)、第2部(片平丁など74町)、第3部(南町など50町)、第4部(国分町など59町)、第5部(八幡町など39町)を挙げ、計253町を掲出しています。しかし、この町数は要注意です。延長の長い町は2つの部に分割され、双方の部に町名が載っているからです。つまり重複記載です。このような重複記載が25ありますから、253-25=228で実際は228町になります。

【ステップ2】次に、市史は明治14年に行われた区画変更の記述に進みます。
明治14年4月15日、仙台区と宮城郡南目、荒巻、小田原各村の内、地所交換、区は差引6町1反7畝15歩余を増せり、同年10月24日、1名称にして数町に亘る市街区分を左の如く定めらる
と記述して、140の町名を掲出し、各町を幾つかの丁目に細分しています。具体的には、国分町(1丁目より5丁目まで)、北二番丁(1丁目より14丁目まで)のように書いてあり、丁目の合計数は402になります。この丁目区分は、本当に明治14年に定められたのかは疑わしい。なぜなら、明治13年出版の宮城県仙台区全図に既に丁目が表示されているからです。この区分は、市制直前の町名解決に繋がらないようなので思いきって無視します。

【ステップ3】次に、市史は明治15、18、19年に行われた行政組織と区画更正の記述に進みます。その全文を引用します。
同15年10月行政区画を改めて、各町組合を設け組毎に組長1人を置き、18年4月1日之を更正して140組とし、同時に組長設置規則を改め、組長は満25歳以上にして組内に不動産を所有するものより選挙し、任期を3ヶ年として専ら組内の布告回達、納税注意、戸籍方並に篤行者、極貧者の取調を司り兼ねて共同の事件に関係せり、其筆紙墨料は1ヶ年1戸に付拾銭を徴せり、明治18年10月15日追廻組を中ノ町組に合併、19年2月13日更に改めて56組とし、翌月29日北七番丁(堤通東)を北二、三、四、五、六番丁東組に、北七、八、九番丁(通町東 堤通西)を通町組に変更せり、其名称及区画は左の如し
として、八幡町組(八幡町、坊主町ほか3町)、花京院通組(花京院通、空堀丁ほか6町)など56組207町の名称を掲出しています。207町の名称は下記のとおりです。207町を原文のまま書き出せれば良いのですが、誤字脱字があったり、複数の組に跨がる町については重複記載の調整が必要なことから、私が手を加えています。[79282] に記載した207町をもう一度掲載します
河原町, 新河原町, 新河原町東丁, 南石切町, 新弓ノ町, 八軒小路, 南染師町, 南鍛冶町, 南材木町, 穀町, 三百人町, 五十人町, 六十人町, 畳屋丁, 保春院前丁, 成田町, 表柴田町, 裏柴田町, 元茶畑, 椌木通, 木ノ下, 西新丁, 東新丁, 荒町, 連坊小路, 清水小路, 北目町, 上染師町, 田町, 南町, 柳町, 大町一丁目頭, 大町一丁目, 大町二丁目, 大町三丁目, 大町四丁目, 大町五丁目, 大町五丁目新丁, 新伝馬町, 名掛丁, 二十人町, 榴ヶ岡, 舟丁, 堰場, 石名坂, 弓ノ町, 土樋, 猿牽丁, 姉歯横丁, 石垣町, 米ヶ袋上丁, 米ヶ袋中丁, 米ヶ袋下丁, 米ヶ袋十二軒丁, 米ヶ袋広丁, 米ヶ袋鍛冶屋前丁, 七軒丁, 鉄砲横丁, 桜小路, 道場小路, 伊勢屋横丁, 六軒丁, 片平丁, 本荒町, 良覚院丁, 狐小路, 袋町, 中ノ町, 琵琶首丁, 琵琶首新丁, 花壇, 花壇川前丁, 霊屋下, 越路, 越路六軒丁, 越路路地町, 宮沢, 川内大橋通, 川内柳丁, 川内中ノ瀬町, 川内大工町, 川内川前丁, 川内明神横丁, 川内元支倉, 川内澱橋通, 川内元支倉通, 川内新横丁, 川内数寄屋丁, 川内亀岡町, 川内亀岡北裏丁, 川内三十人町, 川内山屋敷, 肴町, 立町, 立町新丁, 本柳町,元櫓丁, 定禅寺通櫓丁, 元鍛冶町, 常盤町, 北材木町, 本材木町, 跡付町, 木町末無, 立町通, 定禅寺通, 南町通, 南光院丁, 教楽院丁, 薬鑵小路, 裏五番丁, 柳町通, 北目町通, 新寺小路, 国分町, 二日町, 北鍛冶町, 通町, 北田町, 堤町, 支倉町, 木町通, 新坂通, 土橋通, 支倉通, 半子町, 伊勢堂下, 神子町, 北山町, 八幡町, 坊主町, 江戸町, 覚性院丁, 石切町, 中島丁, 切通, 十二軒丁, 北五十人町, 滝前丁, 角五郎丁, 角五郎新丁, 澱町, 勾当台通, 表小路, 外記丁, 堤通, 外記丁通, 同心町通, 中杉山通, 光禅寺通, 二本杉通, 杉山通, 元寺小路, 茂市ヶ坂, 掃部丁, 末無掃部丁, 大仏前, 同心町中丁, 元貞坂, 空堀丁, 新名懸丁, 新小路, 花京院通, 長丁, 長刀丁, 北六軒丁, 鉄砲町, 車町, 小田原山本丁, 小田原裏山本丁, 小田原車通, 小田原宮町東裏丁, 小田原東丁, 小田原袖振丁, 小田原遣水丁, 小田原長丁通, 小田原高松通, 小田原金剛院丁, 小田原広丁, 小田原大行院丁, 小田原牛小屋丁, 小田原清水沼通, 小田原弓ノ町, 小田原北一番丁通, 小田原北二番丁通, 小田原北三番丁通, 宮町, 東一番丁, 東二番丁, 東三番丁, 東四番丁, 東五番丁, 東六番丁, 東七番丁, 東八番丁, 東九番丁, 東十番丁, 北一番丁, 北二番丁, 北三番丁, 北四番丁, 北五番丁, 北六番丁, 北七番丁, 北八番丁, 北九番丁, 北十番丁

【ステップ4】次に、市史は明治22年3月に行われた区域変更の記述へ進みます。仙台区消滅直前の区域変更です。
而して区は22年3月31日更に区域を変更すること左の如し
と述べて、宮城郡荒巻村の一部(字山上清水, 字滝前, 字宮裏, 字上郡山, 字中丿沢)、宮城郡小田原村の一部(字小野田, 字杉山)、宮城郡南目村の一部(字柳沢, 字二軒茶屋)、宮城郡南小泉村の一部(字八軒小路, 字行人塚, 字五ツ谷, 字桃源院東, 字鍛冶屋敷, 字広瀬川橋下)、名取郡長町村の一部(字窪谷地の一部)を仙台区に編入。また、仙台区宮沢の一部を名取郡茂ヶ崎村に編入し、仙台区北六番丁の一部を宮城郡原町に編入したと記しています。

以上のことから、88さんが纏めておられる市区町村変遷情報に載せるべき仙台の町は、【ステップ3】で掲載した207町および【ステップ4】で掲載した周辺村との区画変更だと思いました。しかしその後、市史に町名書き漏れの疑念をいだき、各種資料を突き合わせてチェックしました。チェックの方法は[79312]に書いたとおりです。その結果、上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通の4町が書き漏れとして浮上しました。
しかし、大聖寺裏門通(現在の青葉区本町二丁目錦町公園付近)で頭を抱えてしまいました。地籍があっても家屋が消滅して無人になっていた可能性が見え隠れするからです。大聖寺裏門通という地籍があったとする根拠は歴史的町名復活検討委員会の29ページ「旧城下の町名(住居表示実施直前の町名)一覧」と36ページ右側の地図に大聖寺裏門通の表記があるからです。また、明治22年当時は無人になっていたかも知れないという根拠は、36ページ右側の地図に線引きされた大聖寺裏門通の区域が非常に狭いことに加え、明治後期の地図には家屋のない更地ふうに描かれているからです。
大聖寺裏門通が無人か有人かで引っ掛かり、前進できないでおりましたが、これ以上考えるのは止めましょう。仙台区から仙台市に移行する時点で、上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通の4町は存在していたと決着をつけます。そうしないと埒があきません。

上記を踏まえ、明治22年仙台区消滅直前の町数は、【ステップ3】に掲げた207町に上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通の4町を加え、211町に訂正したいと思います。【ステップ3】に掲げた207町のうち、六軒丁を南六軒丁に修正し、宮沢と北六番丁に(微)を付し、新たに加える上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通は、それぞれ適宜な位置に挿入しました。はたして判断が正しいのか否か自信はありませんが、自分なりに出した結論に従い仙台211町5村を掲出しますので、市区町村変遷情報を下記のように修正してください。

河原町, 新河原町, 新河原町東丁, 南石切町, 新弓ノ町, 八軒小路, 南染師町, 南鍛冶町, 南材木町, 穀町, 三百人町, 五十人町, 六十人町, 畳屋丁, 保春院前丁, 成田町, 表柴田町, 裏柴田町, 元茶畑, 椌木通, 木ノ下, 西新丁, 東新丁, 荒町, 連坊小路, 清水小路, 北目町, 上染師町, 田町, 南町, 柳町, 大町一丁目頭, 大町一丁目, 大町二丁目, 大町三丁目, 大町四丁目, 大町五丁目, 大町五丁目新丁, 新伝馬町, 名掛丁, 二十人町, 榴ヶ岡, 舟丁, 堰場, 石名坂, 弓ノ町, 土樋, 猿牽丁, 姉歯横丁, 石垣町, 米ヶ袋上丁, 米ヶ袋中丁, 米ヶ袋下丁, 米ヶ袋十二軒丁, 米ヶ袋広丁, 米ヶ袋鍛冶屋前丁, 米ヶ袋中ノ坂, 米ヶ袋鹿子清水通, 七軒丁, 鉄砲横丁, 桜小路, 道場小路, 伊勢屋横丁, 南六軒丁, 片平丁, 本荒町, 良覚院丁, 狐小路, 袋町, 中ノ町, 琵琶首丁, 琵琶首新丁, 花壇, 花壇川前丁, 霊屋下, 越路, 越路六軒丁, 越路路地町, 宮沢(微), 川内大橋通, 川内柳丁, 川内中ノ瀬町, 川内大工町, 川内川前丁, 川内明神横丁, 川内元支倉, 川内澱橋通, 川内元支倉通, 川内新横丁, 川内数寄屋丁, 川内亀岡町, 川内亀岡北裏丁, 川内三十人町, 川内山屋敷, 肴町, 立町, 立町新丁, 本柳町,元櫓丁, 定禅寺通櫓丁, 元鍛冶町, 常盤町, 北材木町, 本材木町, 跡付町, 木町末無, 立町通, 定禅寺通, 南町通, 南光院丁, 教楽院丁, 薬鑵小路, 裏五番丁, 柳町通, 北目町通, 新寺小路, 国分町, 二日町, 北鍛冶町, 通町, 北田町, 堤町, 支倉町, 木町通, 新坂通, 土橋通, 支倉通, 半子町, 伊勢堂下, 神子町, 北山町, 八幡町, 坊主町, 江戸町, 覚性院丁, 石切町, 中島丁, 切通, 十二軒丁, 北五十人町, 滝前丁, 角五郎丁, 角五郎新丁, 澱町, 勾当台通, 表小路, 外記丁, 堤通, 外記丁通, 上杉山通, 同心町通, 中杉山通, 光禅寺通, 二本杉通, 杉山通, 元寺小路, 茂市ヶ坂, 掃部丁, 末無掃部丁, 大仏前, 同心町中丁, 元貞坂, 大聖寺裏門通, 空堀丁, 新名懸丁, 新小路, 花京院通, 長丁, 長刀丁, 北六軒丁, 鉄砲町, 車町, 小田原山本丁, 小田原裏山本丁, 小田原車通, 小田原宮町東裏丁, 小田原東丁, 小田原袖振丁, 小田原遣水丁, 小田原長丁通, 小田原高松通, 小田原金剛院丁, 小田原広丁, 小田原大行院丁, 小田原牛小屋丁, 小田原清水沼通, 小田原弓ノ町, 小田原北一番丁通, 小田原北二番丁通, 小田原北三番丁通, 宮町, 東一番丁, 東二番丁, 東三番丁, 東四番丁, 東五番丁, 東六番丁, 東七番丁, 東八番丁, 東九番丁, 東十番丁, 北一番丁, 北二番丁, 北三番丁, 北四番丁, 北五番丁, 北六番丁(微),, 北七番丁, 北八番丁, 北九番丁, 北十番丁, 宮城郡 荒巻村(微), 小田原村(微), 南目村(微), 南小泉村(微), 名取郡 長町村(微)
[79657] 2011年 11月 21日(月)08:13:39【2】千本桜 さん
仙台区から仙台市に移行する時点での町名・まとめ1
苦めのコーヒー飲みながら独り言。国土地理院地形図の集落名は地籍の字名・町名とは限りません。地籍があっても家屋がなければ字名を載せないし、家屋があれば地籍に関係なく通称地名でも載せています。内務省地理局は国土地理院の前身だから発想は似ていたかも知れない。内務省地理局編纂の郡区町村一覧、地方行政区画便覧が掲出した「仙台の町名」には、町名らしからぬ名称が多数混入しているようです。それを基に編纂したであろう新旧対照市町村一覧、幕末以降市町村名変遷系統図総覧もまた然り。ほかの都市については目を通していないので何とも言えませんが、「仙台の町名」を見ていると、郡区町村一覧、地方行政区画便覧、新旧対照市町村一覧、幕末以降市町村名変遷系統図総覧は、やはり要注意のようです。

88さんへ
[78879] [79092] [79249] [79282] [79289] [79312]のまとめです。仙台区から仙台市へ移行する際の町名確認は戸惑いの連続でした。資料によって記述がまちまちだからです。そんなこんなで時間が経ちましたが、私なりの結論を出さなくてはなりませんね。でも、ちょっと気が重いです。これまで見てきた資料10点・AからJまでを振り返ります。

A・【宮城県仙台区全図 復刻版 解説書】
平成17年に復刻出版された宮城県仙台区全図(明治13年 宮城県地理課編集)に関する解説書です。その一部分を引用します。
本図右上部に、「町数305、戸数12,151、人口55,170」と、当時の市勢を掲出している。この町数305には、村落の小字にあたる地区名称(例えば川内中ノ坂通、追廻山下丁、小田原袖振丁など)、及び地区内にある小道(例えば梅原前丁、石名坂横丁、八幡町三丁目横丁)なども加えられていて、県の布例等に記載されている数値とは大きな差がある。ちなみに、明治9年中の県の記録に残された町数は、次のとおりとなっている。
1・明治9年「陸前国仙台区各村町調書」町数280→県公文書館蔵
2・明治9年12月2日「県甲160号」町数137→県公文書館蔵
3・明治9年国史「内閣文庫59022号」町数137→県図書館蔵
なお、史料3に掲載されている「町名」のすべてを、本図発行以降の町名変遷の原点とみなし、原文のまま採録しておく。
と記述して、明治9年国史「内閣文庫59022号」の137町を列記しています。その町数と町名は、B・仙台の大小区変遷およびC・更正区画とまったく同じです。文献A・B・Cから分かることは、明治9年および明治11年3月に宮城県第三課地籍係が確認した町数は137町だったということです。ただし、この解説書に書いてある、明治9年「陸前国仙台区各村町調書」町数280という記述は誤りで、正しくは、発行年不明「陸前国仙台区各村町調書」町数254です。原本を見て町数を数えましたから間違いありません。

B・【1876(明治9)年 仙台の大小区変遷 宮城県史】
明治9年11月の町名が掲載されています。小六区に属するものが58町、小七区が35町、小八区が49町で計142町です。しかし、東一番丁、東二番丁、東三番丁、東四番丁、元寺小路の5町は、2つの小区に跨がっているため重複記載されています。この重複を差し引くと142-5=137になります。つまり、明治9年11月の町数は137ということです。


C・【1878(明治11)年  更正区画 宮城県第三課地籍係】
この文献は図書館に蔵書がないので、知人から複写版を拝借しました。原本は毛筆和綴本で、裏表紙には「明治十一年三月改正方記録係ニテ取調 改正セシヲ写而地籍方定備トス」と書いてありますが、なぜか表紙には「明治九年 更正區畫 第三課 地籍係」と書いてあります。この文献に書いてある町名は、B・仙台の大小区変遷の町名と全く同じです。つまり、明治11年3月の町数は137ということです。問題は、137町のまま仙台区へ移行したかどうかですが、仙台区発足時点(明治11年7月)の明確な町名記録がないので何ともいえません。ところが、下に掲げる資料D・E・Fでは305町に増え、資料G・Hでは297町となっています。1つずつ資料に目を通してみましょう。まず、D・明治13年 宮城県地理課編集 宮城県仙台区全図からです。

D・【1880(明治13)年9月14日出版 宮城県仙台区全図 宮城県地理課編集】
出版は明治13年ですが、調査はそれ以前で、明治11、12年ごろの仙台を描いていると推察します。この地図には、A・復刻版解説書で述べたように、「町数305、戸数12,151、人口55,170」と書いてあります。江戸期の絵図と違い、一定の図式に基づいて表示された実測図で、横丁や袋小路の小道も描かれ、その小道には名称(例えば角五郎川前丁ヨコ丁、北材木町一丁目末ナシなど)も付されています。これらの小道名も町名と見なしているので、町数は305に跳ね上がっています。E・郡区町村一覧と密接に連動しているようです。

E・【1881(明治14)年  郡区町村一覧 内務省地理局】
この文献はネット閲覧できます。明治12年12月調査に基づき305町を掲載しています。掲載してある町名は、D・宮城県仙台区全図の町名と一致します。ただし、Dはヨコ丁、末ナシ、サクラ小路などカタカナ表記も交えて自由奔放。対して、Eは「丁」と表記すべきもの(例えば北一番丁、片平丁など)も、「町」を用いて北一番町、片平町と表記しています。仙台の慣例を無視した誤記といえるでしょう。さらに、木町通を誤って本町通と表記しています。これらの誤記は、後に発行されるF・地方行政区画便覧に遺伝し、G・新旧対照市町村一覧とH・幕末以降市町村名変遷系統図総覧にも伝染していきます。余談ですが、郡区町村一覧は宮城県の最後に「伊達郡湯原村」という珍郡村名を掲出しています。誤記にしてはあまりに大胆。

F・【1887(明治20)年10月刊行 地方行政区画便覧 内務省地理局編纂】
この文献はネット閲覧できます。内容はE・郡区町村一覧の流れを汲んでいて、Eの誤記をそっくり誤記しています。さらに本荒町を木荒町、新寺小路を新小寺小路と誤記したほか、町名記入欄に記入漏れがあり、1マス空白になっています。この空白マスに記入すべき町名は北九番丁です。町数は305町でEと同数ですが、経年変化で町名が入れ替わっています。Eに記載された榴ヶ岡梅原前町、榴ヶ岡二十人町通、榴ヶ岡神明脇町は、榴ヶ岡という名称に1本化されて2町減。新たに有巴沢町一丁目、有巴沢町二丁目が加わって2町増。奇しくも差し引きゼロで、町数はEと同数の305になっています。ところで、当時の内務省地理局は、町の消滅や発生をどのように捉えていたのでしょうか。例えば、町が消滅するとは、地籍が消えることか、住民がいなくなることか?。どちらでしょう。

G・【1889(明治22)年11月15日 新旧対照市町村一覧 東京和泉橋警察署著】
この文献はネット閲覧できます。内容はF・地方行政区画便覧の流れを汲んでいて、Fの誤記をそっくり誤記しています。この文献に記載された町村数は297町4村(南小泉村ノ内、荒巻村ノ内、小田原村ノ内、南目村ノ内)です。Fの305町から1町増加し、9町減少して297町です。増加した1町は古城。減少した9町は川内追廻西町、川内追廻山下町、川内追廻川前町、川内追廻中町、川内追廻九軒町、川内追廻東町、川内追廻通、薬缶小路、大聖寺裏門通です。川内追廻を冠称する町々が消えたのは、この地が軍用地となり、かつての町並みが消滅したからです。それなのに、川内追廻川前町末無だけは新旧対照市町村一覧の中に残っています。川内追廻川前町が消えたのに、そこから枝分かれした袋小路の川内追廻川前町末無だけが存続するのは地理的に絶対無理です。記載ミスの可能性があります。また、薬缶小路、大聖寺裏門通については、本当に消滅したのか否か半信半疑です。

H・【1995(平成7)年8月発行 幕末以降市町村名変遷系統図総覧 太田孝 編著】
誤字を無視すれば、掲載された町名はG・新旧対照市町村一覧の町名と一致します。町村数も297町4村で同数です。この幕末以降市町村名変遷系統図総覧には以下の問題点があります。
1つ目。掲載された297町の中には、自治体町名にあらず、町の中を通る小道(横丁・袋小路)の名称が混在しています。例えば、東九番町一丁目横町、角五郎川前横町、北材木町末無、元材木町横町末無など、その他多数です。たとえこの横丁や袋小路に家屋が張り付いていたとしても、自治体を形成するほどの規模に達していたか疑問です。地図で北材木町末無を見てみましょう。はたして、この小道に戸数が何戸張り付くことができたでしょう。これらの小道が江戸期の市廛を起源とする明らかな自治体町(例えば大町、南町、国分町など)と同等に扱われていることが不思議です。これはE・F・G・Hに共通した問題点です。
2つ目。仙台は「丁」と「町」を使い分ける習わしがあります。「丁」を用いる例として、小田原山本丁、片平丁、東一番丁、北十番丁など、その他多数あります。しかし、E・郡区町村一覧はこの習わしに反して小田原山本町、片平町、東一番町、北十番町と書き表わし、画一的に「町」で統一しました。これは表記の「揺れ」や「おおらかさ」では済まないことで、明らかに誤記でしょう。これもまたE・F・G・Hに共通した問題点です。
3つ目。単純ミスによる誤字が散見されます。カッコ外が誤、カッコ内が正です。大町二丁目櫓町(大町二丁目横町)、川内裏下馬町(川内裏下馬通)、小田原振袖町(小田原袖振町)、新小寺小路(新寺小路)、外記通(外記町)、本町通(木町通)、立町新前通(立町新町通)。本来なら「丁」と「町」を使い分けるべきですが、原文のまま「町」で統一しました。

I・【作成年不明  陸前国仙台区各村町調書 宮城県地籍係】
毛筆和綴本の原本を宮城県公文書館で閲覧しました。調書には作成年が書いておらず、蔵書整理の上では明治9年の文献として扱われています。しかし、赤鉛筆で「明治9年村町調書は内容を見ると明治11年以降と思われる」と注意書きしてあります。また、この調書を原典とするJ・角川日本地名大辞典4宮城県 資料編 小字一覧は、調書の作成年を明治17、8年と推定しています。H・幕末以降市町村名変遷系統図総覧は297町を掲出していますが、この調書が掲出しているのは254町です。その差、43町。その差の主因は、この調書が横丁、末無の大部分(例えば竹屋横町、川内新横町末無、北目町末無など)を掲出していないからです。やはり、横丁、末無の多くは町名にあらず、小道の名称なのだという思いが深まります。

J・【角川日本地名大辞典4宮城県 資料編 小字一覧】
この小字一覧の原典は、I・陸前国仙台区各村町調書です。原典の町数は254ですが、小字一覧では1町少なく253です。薬缶小路という町名を書き漏らしているからです。さらに、河原町東裏町を河原町東新町、新坂通を新坂町と誤記しているほか、片平丁を片平町と表記するなど、「丁」を「町」と記した誤りが散見されます。日本地名大辞典4宮城県をお持ちの方は、どうぞチェックしてみてください。

以上、AからJまで10点の資料を挙げました。これを原典別に3グループに分類します。

グループ1:明治9年国史「内閣文庫59022号」または宮城県第三課地籍係更正区画を根拠とするもので、A・B・Cが該当します。掲出町数はいずれも137町です。

グループ2:宮城県地理課または内務省地理局を根拠とするもので、D・E・F・G・Hが該当します。掲出町数はD・E・Fが305町、G・Hが297町です。町数305と297の違いは経年変化で発生したものです。

グループ3:宮城県地籍係「陸前国仙台区各村町調書」を根拠とするもので、I・Jが該当します。掲出町数はIが254町、Jが253町です。Jが1町記載漏れしているので町数に違いが生じています。

ここまで書いても仙台市制直前の町名に結論が出せません。どの資料を信じて良いのやら、はっきり言って分かりません。やはり、頼りは仙台市史でしょうか。頁をあらため、仙台市史の記述に移ります。

書込訂正機能で、下から3行目、「D・Eが305町、F・G・Hが297町」を「D・E・Fが305町、G・Hが297町」に訂正しました。
書込訂正機能で、C・【1878(明治11)年  更正区画 宮城県第三課地籍係】の記述中、「仙台市発足時点(明治11年7月)」を「仙台区発足時点(明治11年7月)」に訂正しました。
[79591] 2011年 11月 2日(水)06:37:47千本桜 さん
漢字三文字の繁華街、東山温泉、メディアテーク
[79572] ペーロケ さん
なんとなく漢字三文字の繁華街ってカッコいいな?と。
大阪で漢字三文字の繁華街なら、心斎橋と道頓堀を思い出します。でも道頓堀は繁華街よりも盛場とか歓楽街の類いでしょうね。路上の空中をフグが泳いだりして、一年中お祭りをしている感じ。♪今夜も泣かせるネオン川・・・はるみちゃん。

[79575] 伊豆之国 さん
それから20数年を経て再び作並温泉に
私も先月、50年を経て再び会津の東山温泉に泊まってきました。平均年齢70ん歳の団体旅行で、みなさん、歩くのが大嫌い。観光スポットを見て歩く気持ちが薄れてしまった方々ばかりです。でも私には東山に着いたら立ち寄りたい場所がありました。それは、50年ほど前に修学旅行で泊まった小さな旅館です。宿泊ホテルを抜け出して、その小さな旅館を見つけたとき、思わず込み上げるものがありました。なんなの、この感情は。
東山温泉の現状ですが、宿泊したホテルには原発事故から避難してきた方々も身を寄せていて、避難児童はランドセルを背負ってホテルから登校し、腰の曲がった避難老人はホテル玄関で虚ろにデイサービスの車を待っています。この避難生活はいつまで続くのか、つらい現状を目の当たりにしました。

[79576] Issie さん [79582] N-H さん [79587] みかちゅう さん
六角橋
六角橋は初耳なので地図で確認してみました。地図を通して受けた印象は、昭和の匂いのするようなレトロ調。特にこの細い道。両側に小規模家屋がびっしり連なっていて、周囲の町並みとは明らかに異なる雰囲気。アーケード商店街のようですね。家族経営の商店や飲食店が並んでいて、白い割烹着姿のオバさんがサンダル履いて買物カゴぶらさげて歩いてもおかしくない感じ。ところで、横浜で漢字三文字の繁華街といえば中華街が浮かんできますが、これは論外ですかね?。ついでに、どうでもいい話ですが、真夏の真夜中、♪本牧メルヘンを口ずさみながら一人でドライブすると青春時代に戻った気がします。というわけで、横浜で好きな地名は本牧。

[79590] いろずー さん
若干離れたところには「メディアワーク」なる建物もあります。
メディアテークでしょう。ケヤキ並木が美しい定禅寺通に面したガラス張りのビルで、仙台市民図書館が入居しています。1階には、いろずー さんが喜びそうなオープンカフェがあってランチも食べられます。でも、私はこのカフェで昼食をとるとき、しゃれたメニューは要らないからカツ丼を置いてくれと、いつも思うのです。
[79312] 2011年 9月 6日(火)08:44:13千本桜 さん
市制直前の仙台区の町名
[79289]千本桜
[79282] で書き込んだ207町の名称は明治41年発行の仙台市史を見て書きました。しかし、市史に町名記載漏れの疑いを感じています。私は、仙台区廃止時に「上杉山通」という町名があったはずだ、あって当然だ、と思っているのですが、仙台区末期の町名リストに「上杉山通」がありません。なぜ「上杉山通」があって当然だと思うのか。

仙台の街は奥州街道に並行して勾当台通堤通外記丁通上杉山通同心町通中杉山通光禅寺通二本杉通杉山通などの街路が走っています。
以上の9街路名は同時に町名でもあります。この9町は仙台市史の中の町名リストすべて(明治11年、明治14年、明治22年市制直前、明治22年市制直後のリスト)に記載されており、陸前国仙台区各村町調書(明治17?18年頃のものと推定)にも載っています。ただ一つ、明治22年市制直前の町名リストに上杉山通が見あたらないことを除いては・・・。市制間近になって上杉山通だけが消滅し、市制直後に再び登場するのは不自然です。これは、仙台市史が市制直前の町名リストに上杉山通を書き忘れた可能性が非常に高いと推察します。ほかにも記載漏れがないか、市制直前と市制直後の町名リストを照合して確認します。

まず、市制直前の字・町数は旧市街の町が207町、周辺5村から編入した字が16字です。次に市制直後の町数ですが、仙台市史は下のように記述しています。
明治22年市制を仙台区に施行し、4月1日を以て仙台市と改称せり、(中略)区域内の字名称226即ち左の如し
市史は市制直後の字数を226と書いています。内訳は旧市街の町が210町、周辺5村から編入した字が16字になるものと思われますが、字・町名を点検すると228になりました。226とする市史の数と合いません。合わないのは、あやまって重複記載された町名が1つあるためですが、もう1つの原因は分かりません。仙台市史を編纂する際に数え間違えたかもしれません。記録とは、かくも危うきものなのです。ここでつまずいてはいられません。市制直前の町名リストに上杉山通が漏れているのではないか。ほかにも漏れている町があるのではないか。その問題解決に向かって進むことにします。

まず、町を3つに分類します。A:市制直前・直後双方のリストに記載された町。B:市制直前リストに記載があって、市制直後リストに記載がない町。C:市制直前リストに記載がなくて、市制直後リストに記載がある町。以上3種類です。ここで重要なのはCです。Cに属する町は上杉山通、米ヶ袋中ノ坂など14町です。Cに属する町を表形式で表します。表の凡例は次の通りです。
M11=明治11年の町名リスト。M14=明治14年の町名リスト。M17頃=陸前国仙台区各村町調書の町名リスト。市制直前=仙台区末期の町名リスト。市制直後=仙台市発足当時の町名リスト。以上、5つのリストを対象に、町名が記載してあれば○、なければ×を付します。

町名M11M14M17頃市制直前市制直後
上杉山通×
米ヶ袋中ノ坂×
米ヶ袋鹿子清水通×
大聖寺裏門通××
新河原町行人塚××××
越路瑞鳳寺門前丁××××
二十人町通××××
八幡町崖下××××
通町北裏××××
堤通東××××
堤町土手下××××
穴田下堤××××
北七番丁明神××××
北八番丁雨宮××××
上杉山通、米ヶ袋中ノ坂、米ヶ袋鹿子清水通、大聖寺裏門通の4町は市制直前の町名リストに記載されていませんが、市史編纂時に書き漏れした可能性が非常に高いと推察します。大聖寺裏門通が明治14年の町名リストに記載されないのは、当時、元寺小路周辺の小規模町(大仏前、同心町中丁、元貞坂、大聖寺裏門通など)が、一括して元寺小路の名に包含されていたからだと推測します。大仏前、同心町中丁、元貞坂は市制直前の町名リストで復活していますから、同時に大聖寺裏門通も復活していたはずです。記載がないのは書き漏れでしょう。新河原町行人塚~北八番丁雨宮の10町については、市制直前に公的な町として存在しなかったとみて良いはずです。

念のために、上記14町に関する角川地名大辞典の記述を読んでみました。14町は明治41年発行仙台市史に市制直後の町名として記載されています。それなのに地名大辞典は、北七番丁明神を昭和初期~45年の仙台市の町名、北八番丁雨宮を大正期~昭和45年の仙台市の町名と書いています。あくまでも勘ですが、この件に関しては地名大辞典の記述が正しいように感じます。昭和初期や大正期に成立した町が明治41年発行仙台市史に記載されているのは不思議でなりません。これ以上追求しても新たな資料を得ることはできないでしょうから諦めますが、一体、何が真実なのか。何を信じれば良いのか。たかが120年ほど前のことなのに、底なしの泥沼です。
上杉山通:江戸期~昭和45年の町名。
米ヶ袋中ノ坂:江戸期~昭和45年の町名。
米ヶ袋鹿子清水通:江戸期~昭和45年の町名。
大聖寺裏門通:江戸期~昭和45年の町名。
新河原町行人塚:⇒行人塚
越路瑞鳳寺門前丁:⇒霊屋下
二十人町通:明治22年~現在の仙台市の町名。
八幡町崖下:昭和21年以降~42年の町名。
通町北裏:明治期~昭和53年の町名。
堤通東:昭和初年~45年の仙台市の町名。
堤町土手下:江戸期~昭和53年の町名。
穴田下堤:昭和期の仙台市の町名。
北七番丁明神:昭和初期~45年の仙台市の町名。
北八番丁雨宮:大正期~昭和45年の仙台市の町名。

88さんへ
明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等に記載すべき「仙台区の町名」に関する私的結論はまた後日書き込みます。
[79289] 2011年 8月 31日(水)06:34:38千本桜 さん
仙台
[79288] 88さん

[79282] で千本桜は次のように書きました。
明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等ですが、この表組を普通に読めば、「明治22年(1889年) 3月31日に仙台区, 仙台区新河原町, 新弓ノ町,(以下省略)が合併して仙台区が新設された。」になります。表組作成にもう一工夫必要かなと思いました。
これに対し、[79288] で88さんから下記の返答をいただきました。
・ M22.2.9付け(宮城)県令第8号の107コマにより、M22.3.31付けで、仙台区、仙台区の中の207町、宮城郡荒巻村ほか計5村のそれぞれ一部が新設合併して郡区町村編制法下の「仙台区」となる(207町は自治体としては消滅)
・ M222.9付け(宮城)県令第10号によりM22.4.1付けで仙台区が法律「市制」による仙台市となる
ということでよいのですね?
それとも、M22.3.31付けでは仙台区と宮城郡荒巻村ほか計5村のそれぞれ一部との境界変更であり、207町は自治体としてまだ存続し、M22.4.1付けで仙台区と207町との合併により仙台市となったのでしょうか。
どうやら、[79282]千本桜の書き込みはうまく伝えることができなかったようです。もう一度、簡単に書きます。仙台区は明治11年7月22日に発足し、明治22年3月31日に廃止されました。しかし、明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等には、変更種別:新設、自治体名:仙台区と書いてありますから、この表組を見た人は「明治22年3月31日に仙台区が新設された」と誤解するのではないか。88さんの伝えたかったことが伝わらないでしまうのではないか。そんな心配をしておったのです。

[79282] で書き込んだ207町の名称は明治41年発行の仙台市史を見て書きました。しかし、市史に町名記載漏れの疑いを感じています。私は、仙台区廃止時に「上杉山通」という町名があったはずだ、あって当然だ、と思っているのですが、仙台区末期の町名リストに「上杉山通」がありません。なぜ「上杉山通」があって当然だと思うのか。それを説明すると長くなるので、単に地理好きな人間の勘ぐりと受け止めてください。仙台市発足直前に「上杉山通」が有ったか無かったか。これを確認するには、どうすれば良いのでしょう。仙台市発足直後の町名リストを調べる必要がありますね。少し時間を下さい。ひょっとして、記載漏れは「上杉山通」にとどまらず、ほかにもあるかもしれません。もしかすると207町あらため210町などということになる可能性もあります。仙台市史に誤りがなければ良いのですが、誤りがあるとすると何を信じて良いのやら。
[79282] 2011年 8月 30日(火)06:43:52千本桜 さん
仙台区町名
明治41年発行「仙台市史」を引用しながら仙台区の町について書き込みます。仙台市史は「行政組織及び区画の沿革」について
明治11年7月22日布告第17号を以て郡区町村編成法を発布せられ、庁下を仙台区と称し、区長一員を置かる、是に於いて仙台は一の独立行政区となれり、此年11月区内を5部に分ち毎部町場持4人乃至6人を置き、部内を4分又は6分して布告布達等の事務を取扱はしむ、之を区行政の区画とする
として、5部(5つの地域ブロック)と253の町名を記載しています。この数字は要注意です。東西に長く延びた北一番丁などは町域が2つのブロックに跨がっていて、各々のブロックに北一番丁が載っいています。つまり重複記載です。このような町名が25ありますから、253-25=228で実際は228町になります。なお、仙台市史は町数の合計を記載していないので、私が町名を追いながら算出しました。検算していますが2、3の漏れがある可能性も考えられます。

明治14年4月15日、仙台区と宮城郡南目、荒巻、小田原各村の内、地所交換、(中略)同年10月24日、1名称にして数町に亘る市街区分を左の如く定めらる
として、町名と各々の町を細分した丁目を記載しています。町の延長が短い南町などは1丁目から2丁目まで。延長が長い北二番丁などは1丁目から14丁目まであります。これに記載された町の名称は140。丁目の合計は402です。この場合、町数を140とするか402とするか迷いますが、私は140町とするのが自然だと思います。

明治15年10月行政区画を改めて、各町組合を設け組毎に組長1人を置き、
明治18年4月1日之を更正して140組とし、(中略)
明治18年10月15日追廻組を中ノ町組に合併、
明治19年2月13日更に改めて56組とし、
明治19年3月29日北七番丁(堤通東)を北二、三、四、五、六番丁東組に、北七、八、九番丁(通町東 堤通西)を通町組に変更せり、其の名称及区画は左の如し
として、56組207町の名称を記載しています。207町の名称は次のとおりです。
河原町, 新河原町, 新河原町東丁, 南石切町, 新弓ノ町, 八軒小路, 南染師町, 南鍛冶町, 南材木町, 穀町, 三百人町, 五十人町, 六十人町, 畳屋丁, 保春院前丁, 成田町, 表柴田町, 裏柴田町, 元茶畑, 椌木通, 木ノ下, 西新丁, 東新丁, 荒町, 連坊小路, 清水小路, 北目町, 上染師町, 田町, 南町, 柳町, 大町一丁目頭, 大町一丁目, 大町二丁目, 大町三丁目, 大町四丁目, 大町五丁目, 大町五丁目新丁, 新伝馬町, 名掛丁, 二十人町, 榴ヶ岡, 舟丁, 堰場, 石名坂, 弓ノ町, 土樋, 猿牽丁, 姉歯横丁, 石垣町, 米ヶ袋上丁, 米ヶ袋中丁, 米ヶ袋下丁, 米ヶ袋十二軒丁, 米ヶ袋広丁, 米ヶ袋鍛冶屋前丁, 七軒丁, 鉄砲横丁, 桜小路, 道場小路, 伊勢屋横丁, 六軒丁, 片平丁, 本荒町, 良覚院丁, 狐小路, 袋町, 中ノ町, 琵琶首丁, 琵琶首新丁, 花壇, 花壇川前丁, 霊屋下, 越路, 越路六軒丁, 越路路地町, 宮沢, 川内大橋通, 川内柳丁, 川内中ノ瀬町, 川内大工町, 川内川前丁, 川内明神横丁, 川内元支倉, 川内澱橋通, 川内元支倉通, 川内新横丁, 川内数寄屋丁, 川内亀岡町, 川内亀岡北裏丁, 川内三十人町, 川内山屋敷, 肴町, 立町, 立町新丁, 本柳町,元櫓丁, 定禅寺通櫓丁, 元鍛冶町, 常盤町, 北材木町, 本材木町, 跡付町, 木町末無, 立町通, 定禅寺通, 南町通, 南光院丁, 教楽院丁, 薬鑵小路, 裏五番丁, 柳町通, 北目町通, 新寺小路, 国分町, 二日町, 北鍛冶町, 通町, 北田町, 堤町, 支倉町, 木町通, 新坂通, 土橋通, 支倉通, 半子町, 伊勢堂下, 神子町, 北山町, 八幡町, 坊主町, 江戸町, 覚性院丁, 石切町, 中島丁, 切通, 十二軒丁, 北五十人町, 滝前丁, 角五郎丁, 角五郎新丁, 澱町, 勾当台通, 表小路, 外記丁, 堤通, 外記丁通, 同心町通, 中杉山通, 光禅寺通, 二本杉通, 杉山通, 元寺小路, 茂市ヶ坂, 掃部丁, 末無掃部丁, 大仏前, 同心町中丁, 元貞坂, 空堀丁, 新名懸丁, 新小路, 花京院通, 長丁, 長刀丁, 北六軒丁, 鉄砲町, 車町, 小田原山本丁, 小田原裏山本丁, 小田原車通, 小田原宮町東裏丁, 小田原東丁, 小田原袖振丁, 小田原遣水丁, 小田原長丁通, 小田原高松通, 小田原金剛院丁, 小田原広丁, 小田原大行院丁, 小田原牛小屋丁, 小田原清水沼通, 小田原弓ノ町, 小田原北一番丁通, 小田原北二番丁通, 小田原北三番丁通, 宮町, 東一番丁, 東二番丁, 東三番丁, 東四番丁, 東五番丁, 東六番丁, 東七番丁, 東八番丁, 東九番丁, 東十番丁, 北一番丁, 北二番丁, 北三番丁, 北四番丁, 北五番丁, 北六番丁, 北七番丁, 北八番丁, 北九番丁, 北十番丁

而して区は22年3月31日更に区域を変更すること左の如し
として、下記の5村から各々土地の一部を編入したとしています。
宮城郡荒巻村の一部(字山上清水, 字滝前, 字宮裏, 字上郡山, 字中丿沢)
宮城郡小田原村の一部(字小野田, 字杉山)
宮城郡南目村の一部(字柳沢, 字二軒茶屋)
宮城郡南小泉村の一部(字八軒小路, 字行人塚, 字五ツ谷, 字桃源院東, 字鍛冶屋敷, 字広瀬川橋下)
名取郡長町村の一部(字窪谷地の一部)
また、
仙台区宮沢の一部を名取郡茂ヶ崎村に編入
仙台区北六番丁の一部を宮城郡原町に編入
とあります。

以上のことから、仙台区の町村として市区町村変遷情報に乗せるべきは、掲載した207の町名および明治22年3月31日に行われた区画変更の情報だと思います。

(注):207町について。原文のまま書き出せれば良いのですが、
1・誤字脱字が見受けられること。
2・複数の組に跨がる町は重複して町名が記載されていること。
3・同名の町名があり、それを区別表記をしなければならないこと。
そのような理由があり、私が手を加えています。

88さん
明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等ですが、この表組を普通に読めば、「明治22年(1889年) 3月31日に仙台区, 仙台区新河原町, 新弓ノ町,(以下省略)が合併して仙台区が新設された。」になります。表組作成にもう一工夫必要かなと思いました。
[79249] 2011年 8月 27日(土)08:27:28【1】千本桜 さん
仙台区の町名と町数
[79130] むっくん さん
仙台区に関する疑問解決にお付き合い下さいまして感謝申し上げます。私の方でも新たな情報を入手しましたのでお伝えします。と言っても、仙台市発足直前の仙台区における町村名と町村数が解明したわけではありません。

【市区町村変遷情報 仙台区の不思議】
M22.3.31 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等(以後、「仙台区情報」と書きます)で仙台区の町村名を見たとき、何か不思議なものに出合った感じがしたものです。理由は
1):「丁」と「町」の使い分けがされておらず、すべて「町」で表記されていることへの違和感。住居表示が実施される前の仙台を知る者には「丁」と「町」の使い分けは当然のことで、特に東一番丁や北一番丁の「番丁」を「番町」と表すことは非常に違和感を感じるものです。
2):宮城県史に掲載された宮城県の市町村変遷(3コマ掲載のうち3コマ目)によると、明治9年における仙台の町村数は137。ところが仙台区情報では、明治22年3月31日の町村数が295町3村。町数の開きの大きさに驚きました。なぜ、こんなに増えたのだろう。
3):仙台区情報には 姉歯横町末無, 北材木町末無のように「末無:スエナシ」を付す町名が多数掲載されています。「○○末無」のうち、木町末無と末無掃部丁(別称 掃部丁末無)は昭和40年代まで住所地名でしたから良く憶えています。しかし、ほかの「○○末無」は聞き覚えがありません。本当に、明治22年3月に存在していた自治町名なのだろうか。本当は町名ではなく街路名ではないだろうか。そんな疑問を感じているのです。

【明治13年 宮城県地理課編集「仙台区全図」】
仙台区情報に掲載された町名と符合するものはないだろうかと いろいろ書物を調べましたが、姉歯横町末無, 北材木町末無など「○○末無」に関する記述が見つかりません。仙台区の時代に自治体として存在していた町なら少しは書物に書きとめられていそうなものですが、変ですね。書物がだめなら地図を見ようということで、江戸期~明治末期の地図を手当りしだい見てみました。すると、仙台区情報新旧対照市町村一覧と連動していそうな地図を発見しました。明治13年 宮城県地理課編集「仙台区全図」の復刻版です。この地図はまるで強迫観念にかられたかのように、小さな横丁や末無(袋小路)の形状と名称まで丹念に描いています。道路延長30mほどの袋小路まで描き、そこが北材木町末無であることを表す文字を添えています。でも、これって町名なのでしょうか。自治町が成立するほどの広がりは感じられません。あくまでも推測ですが、北材木町末無は街路名で、地籍は北材木町に含まれていたのではないかと思うのです。この地図には、このように小さな末無や横丁が全部描かれています。地図の中の地名と仙台区情報の町名を全て照合してみました。すると、一部を除いてぴったんこ合致するではありませんか。仙台区情報、もとを正せば新旧対照市町村一覧の仙台区を構成する町名の情報源は宮城県地理課の可能性がありますね。もちろん、これも推測の域を出ませんが。

【復刻図の解説書】
明治13年 宮城県地理課編集「仙台区全図」復刻版には解説書が付いています。その一部分を引用します。
本図右上部に、「町数305、戸数12,151、人口55,170」と、当時の市勢を掲出している。この町数305には、村落の小字にあたる地区名称(例えば川内中ノ坂通、追廻山下丁、小田原袖振丁など)、及び地区内にある小道(例えば梅原前丁、石名坂横丁、八幡三丁目横丁)なども加えられていて、県の布例等に記載されている数値とは大きな差がある。

【陸前国仙台区各村町調書】
小道の中には末無も含まれます。仙台区情報新旧対照市町村一覧には約300の町名が記載されていますが、横丁、末無を除外すると仙台区の町数は大きく変わってしまいます。いったい、何が本当なのか。そこで、県の公文書館へ行き「陸前国仙台区各村町調書」をコピーしてきました。それを分析しているところですが、ますます底なしの泥沼にはまり込んで行きそうです。仙台区の町は難しい。今日は村の鎮守の夏祭りです。これから祭りの準備に入りますので、続きは後日にします。

●脱字追加訂正
旧対照市町村一覧→新旧対照市町村一覧
[79092] 2011年 8月 14日(日)23:56:42【1】千本桜 さん
仙台区の町
88さん、むっくん さん。
[78879]でお約束したとおり、宮城県の「明治11年更正区画」を入手し、仙台区を構成する町について分析しているところです。しかし、その前に

1)・88さんが明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等を作成する際に資料とした新旧対照市町村一覧」(和泉橋警察署編、加藤孫次郎、M22)は何を資料にして編纂された物なのか。

2)・仙台区は郡区町村編成法により誕生し、明治11年から同22年まで存在しました。その間、仙台区に属した町、つまり88さんがまとめられた市制町村制施行前の町村名等に列記された町々はそれぞれが明治22年まで独立した自治町でありえたのか。

上記の事柄を明確にしておかないと意味のない分析になるような気がして空しいのです。和泉橋警察署編「新旧対照市町村一覧」は、誤字や記載漏れを単発的に指摘しても済まない問題を抱えているように感じます。どうか、1)と2)の答えを教えてください。

●誤記訂正
参考にした資料をそのままに、冒頭で「明治11年更正区書」と書きましたが、入手したコピーには手書きで「更正區畫」と書いてあります。いまふうに書けば「更正区画」になりますね。「区書」を「区画」に訂正しました。
[79055] 2011年 8月 12日(金)13:00:27千本桜 さん
近郊の正しい使いかた
熱くなっている方々への息抜きクイズです。実態に即しているのはA・Bどちらでしょう。難問です。
A:角田市近郊の大河原町では・・・
B:大河原町近郊の角田市では・・・
[78879] 2011年 8月 7日(日)12:21:06千本桜 さん
仙台
88さん、むっくん さん
仙台区を構成する町についてお尋ねします。私は法令とか条例に疎いので頓珍漢な質問をするかもしれませんが大目に見てください。市制町村制施行時の情報 宮城県によると、明治22年3月31日時点で仙台区を構成する町はおよそ300町。明治9年の仙台は137町でしたから2倍以上に増えたわけです。明治22年仙台市発足時の面積はおよそ17km2、戸数およそ16,800戸でした。1町あたりの平均面積はざっと570m2、平均戸数は56戸です。たとえば、名称から判断して元材木町横町末無という町は、元材木町の横丁の袋小路に面した町ということでしょうから、面積、戸数ともかなり小規模のはずです。幅30m×長さ40mの面積で、戸数は10数戸程度だったかもしれません。こまかい数字にこだわる必要はありません。これで自治体として機能できたのでしょうか。機能していたとして、どの範囲までの自治を行っていたのでしょうか。私は上染師町東末無, 畳屋町末無, 滝前町末無, 川内追廻川前町末無などの羅列を見て、これって自治体なの?、規模からすれば村社会の契約講と変わらないじゃないかと考えてしまうのです。

お手数でも宮城県の市町村変遷をご覧ください。3コマ掲載のうち一番下の表組です。明治9年に137あった仙台の町村数は、明治11年には1になっています。ということは、仙台市街を形成していた137の町々は仙台区が発足した時点で自治体としての役目を終え、単に地名としての町名になったと解釈していいのでしょうか?。でも市制町村制施行時の情報 宮城県を見ると、仙台市街の約300におよぶ町々は明治22年3月31日まで自治体として存続したようにも受けとれるし、どちらなんでしょう。

[78859] 88さん
何か、具体的な資料等をお示しいただけると助かります。

88さんご提示の新旧対照市町村一覧」(和泉橋警察署編、加藤孫次郎、M22)「大日本市町村名鑑」(星野文三編、博聞社,明26.11)では「丁」はことごとく「町」に置き換えられているのですね。驚きました。「ホンマでっか!?」という感じです。「ホンマでっせ!」と、本間千代子さんが現れるよりもっと驚きです。済みません。落書き帳でこんな話は受けませんよね。今年66歳になられた永遠の青春スター本間千代子さんに反応できる感性の持ち主は、落書き帳ではあの方だけでしょうから。

私は「新旧対照市町村一覧」における仙台の情報を黒だと感じています。濃度95%のブラックかな。仙台には江戸期から今日まで「町」と「丁」があることは多様な人によって伝え継がれていますから、疑いようのない事実です。例えば、日本地図センターは「地図と空中写真で見る昔と今」で
市街の大部分は侍の住むまちで「丁」と呼ばれ、足軽・小人・職人・商人等の住む「町」と区別された。
と、記述しています。まず、地図で確認してみます。江戸期の資料として天保4(1833)年の御城下町割絵図をあげます。国分町や南町の「町」と、東一番丁や永丁などの「丁」が読みとれます。次に明治22年発行の仙台中心街をご覧ください。探しやすいように町名に赤線を引いておきます。国分町、南町などの「町名」と、東一番丁、東二番丁などの「丁名」が書き分けられています。国分町は仙台を代表する夜の盛場。東一番丁は仙台を代表する昼の繁華街です。かつて武士が居住した東一番丁がなぜハイセンスな商店街に成長したかは、先を急ぎますので触れないでおきます。次に現代の地図をご覧ください。仙台市は昭和40年から始まった住居表示の実施で多くの「丁名」が消えましたが、住居表示が進まなかった区域には今も「丁名」が残っています。小田原山本丁、名掛丁、東七番丁などがそれです。このように、江戸期から今日まで一貫して「町」と「丁」が使い分けられ、「丁」を廃して「町」とした時代はなかったはずです。

次に地図以外の文献で確認します。まずwikipedia仙台都心部は「丁」と「町」と題し、
侍町の名掛丁や東二番丁には丁を付け、他方、町人町の国分町や大町などには町を付けた。
と記述し、また
丁と町の使い分けに関しては、和歌山城下町でも同様
とも書いています。早速88さんの市制町村制施行時の情報 和歌山県に飛びます。お!やっぱり一番丁, 二番丁, 三番丁, 四番丁と「丁名」が連なっていますね。wikipediaでは心もとない方のために、手持ち資料の中から「宮城県の市町村変遷」「仙台の大小区変遷」を貼ります。これは、宮城県史からコピーしたはずですが、記憶が朧になってしまいました。たぶん、むっくんさんも同じ物をお持ちではないかと推測します。仙台旧市内における「町」と「丁」の使い分けが見てとれます。私が仙台の街と深く関わったのは昭和40年代のことで、江戸期からの町名がたくさん残っていた時代です。好きな町名は角五郎丁、末無掃部丁、保春院前丁、琵琶首丁などでした。懐かしがっている場合ではありませんね。先へ急ぎます。地図と文献から判断して「町」と「丁」の使い分けは明らかです。

[78859] 88さん
どこが「町」でどこが「丁」か、の別も個別に示していただけるとありがたいです。

これがやっかいです。どの資料も「丁」の使い方がアバウトで、明らかに侍町で「丁名」の代表格である「片平丁」が「片平町」になっていたりして、どの資料を信頼したら良いのか苦しみました。手許に「仙台地図さんぽ」という出版物があります。その中に「おもな旧町名・通名 索引」というページがあって、これがなかなかよくできています。この本には大正元年の地図がそのまま復刻され、その地図に記載された地名を
1・明治11年の更正区書はどのように表記していたか。
2・明治22年の市制施行当時の表記はどうであったか。
3・昭和40年代の住居表示実施直前の表記はどうであったか。
以上3つの時点から調べてある優れものです。編集者の熱意が感じられて信憑性があります。
実例をあげると次のようになっています。
畳屋町------大正元年の地図表記
疊屋町------明治11年(更正区書の表記)
疊屋丁------明治22年(市制施行時の町名)
畳屋丁------昭和40年代(住居表示実施直前の表記)
ただし、これは主な旧町名を対照にしているため、約300ある旧仙台市街の旧町名すべてが網羅されたものではないことが残念です。

88さんの「市制町村制施行前の町村名等」を丸ごとコピーし、「仙台地図さんぽ」の明治22年(市制施行時の町名)と照合してみました。
●は私が訂正を加えたものです。○は88さんのデータがイキです。※は「地図さんぽ」では道路・ヨコ丁扱いしています。無印は「地図さんぽ」では触れていないために照合できなかったものです。
 
仙台区, 仙台区 ○新河原町, ○新弓ノ町, ○河原町, ○南材木町, ○穀町,○ 南鍛冶町, ○荒町, ●疊屋丁, ●六十人町, ○連坊小路, ○石垣町, ●船丁,○ 堰場, ○成田町,○ 南染師町, ○南石切町, ○八軒小路, ●三百人町, ●保春院前丁, ●五十人町, ○土樋, ○表柴田町, ○椌木通, ○木ノ下, ○元茶畑, ○裏柴田町, ●西新丁, ●東新丁, 新河原町西町, ※姉歯横丁, 猿牽町, ※東街道, 長町通, ●米ヶ袋廣丁, ○米ヶ袋鹿子清水通, ●米ヶ袋鍛冶屋前丁, ●米ヶ袋下丁, ●米ヶ袋中丁, ○米ヶ袋中ノ坂通, ●米ヶ袋十二軒丁, ●米ヶ袋上丁, ○弓ノ町, ○石名坂, ●南六軒丁, ●片平丁, ●櫻小路,● 鐵砲横丁, ○道場小路, ●伊勢屋横丁, ○袋町, ○元鍛冶町, ○本荒町, ○狐小路, ●良覺院丁, ○大町一丁目, ○大町二丁目, ○大町三丁目, ○大町四丁目, ○大町五丁目, ○肴町, ○立町, ●本櫓丁, ●定禪寺通櫓丁, ○北材木町, ○本材木町, ○本柳町, 立町新町, ●川内川前丁, ○川内大工町, 川内数寄屋町, ○川内元支倉, 川内元支倉通, 川内新横町, ●川内明神横丁, ○川内澱橋通, 川内亀岡通, 川内中ノ坂通, 川内大堀通, ○川内亀岡町, ○川内三十人町, 川内大橋通, 川内柳町, 川内筋違橋通, 川内山屋敷中町, 川内山屋敷北町, 川内山屋敷南町, 川内山屋敷町, 川内山屋敷上町, 川内山屋敷横町, 川内三十人町通, 川内亀岡北裏町, 大町二丁目櫓町, 中ノ町川前町, 中ノ町, ●琵琶首丁, 琵琶首新町, ○花壇, ●花壇川前丁,※ 細横丁, 七軒町, ○川内中ノ瀬町, 川内裏下馬町, 川内亀岡杉町, 米ヶ袋新町, ○田町, ○上染師町, ○北目町, ○柳町, ●東一番丁, ●東二番丁, ●東三番丁, ●東四番丁, ●東五番丁, ●東六番丁, ●東七番丁, ●東八番丁, ●東九番丁, ●東十番丁, ●教樂院丁, ●南光院丁, ○南町通, ○清水小路, ○二十人町,● 鐵砲町, ○小田原車通, ●小田原振袖丁, ●小田原遣水丁, ●小田原山本丁, ●小田原裏山本丁, ●小田原金剛院丁, ●小田原牛小屋丁, ○小田原弓ノ町, ●小田原大行院丁, ●小田原廣丁, ○小田原清水沼通, 小田原宮町東裏町, ●小田原北一番丁通, ●小田原北二番丁通, ●小田原北三番丁通, ○小田原高松通, ●小田原東丁, ●小田原長丁通, ○車町, ○柳町通, ○北目町通,● 新寺小路, ○榴ヶ岡, ※長泉寺横丁, 年徳神横町, 五ツ橋通, ※和光明神横丁, ※於多福横丁, ●新傅馬町, ●名掛町, ○立町通, 赤井横町, ○元寺小路, ●末無掃部丁, ●大佛前, ○同心町通, ●同心町中丁, ○元貞坂, ●國分町, 表小路, ●定禪寺通, ●勾當臺通, ○堤通, ●外記丁, ●外記丁通, ○花京院通, ○中杉山通, ○茂市ヶ坂, ●光禪寺通, ●掃部丁, ●長丁, ●長刀丁, ●空堀丁, ●新名懸丁,●六軒丁, 二軒町, ○宮町, ○北田町, ○堤町, ●北一番丁, ●北二番丁, ●北三番丁, ●北四番丁,● 北五番丁, ●北六番丁(本), ●北七番丁, ●北八番丁, ●北九番丁, 北十番町, ○二本杉通, ○杉山通, ○上杉山通, ※虎屋横丁, ○新小路, ○二日町, ○北鍛冶町, ○通町, ●跡附丁, ○神子町, ○北山町, ●木町通, ○支倉町, ○支倉通, ○新坂通, ○切通町, ●十二軒丁, ○石切町,● 覺性院丁, 伊勢堂下, ○半子町, ○坊主町, ●中島丁,○ 江戸町, ○北五十人町, ○八幡町, ●瀧前丁, 有巴沢一丁目, 有巴沢二丁目, 角五郎新町, ※荒井横丁, ○澱町, ○土橋通, 角五郎表町, 角五郎裏町, 角五郎川前町, 中島町新坂, 中ノ横町, 大願寺前町, 大願寺横町, ●裏五番丁, 新河原町東町, 東九番町一丁目横町, 東九番町二丁目横町, 川内元支倉通一丁目横町, 松源寺前町, 誓願寺通, 西坊主町, 東坊主町, 角五郎川前横町, 大橋通, 小田原宮町三丁目裏町, 新坂通一丁目横町, 八幡町三丁目横町, 石屋横町, 桃源院前町, 沖ノ村通, 東桜小路, 茶畑町, ※竹屋横丁, 椌木前町, ※加川横丁, 鉄砲町三丁目横町, 立町新前通, ※閻魔堂横丁, 石名坂横町, 北山古街道, 大町三丁目横町, 川内亀岡南町, 中島新町, 常磐町, 北五十人町新町, ●大町五丁目新丁, 元材木町横町, 北材木町末無, 十二軒町上末無, 十二軒町下末無, 上染師町西末無, 上染師町東末無, 畳屋町末無, 滝前町末無, 川内新横町末無, 川内追廻川前町末無, 土樋二丁目西末無, 土樋二丁目東末無, 土樋四丁目末無, 姉歯横町末無, 霊屋下新町, ●霊屋下, 宮沢(本), 北六番町九丁目末無, 元材木町横町末無, 覚性院町末無, 北目町末無, 元誓願寺前町, ●越路, 河原町東裏町, 越路路地町, ●越路六軒丁, 霊屋下疣田町, 霊屋下四谷町, 古城, 宮城郡 ○小田原村(微), ○南目村(微), ○南小泉村(微)

結果としてまだまだ不備ですが、「新旧対照市町村一覧」(和泉橋警察署編、加藤孫次郎、M22)を鵜呑みにはできないぞという思いです。で、どうすればいいのか。「仙台地図さんぽ」に書かれている明治11年(更正区書の表記)なるものを見てみる必要がありそうです。仙台市に行けばあるのかどうか。いつまでとは約束はできませんが、あたってみようと思います。ところで88さん、「仙台地図さんぽ」必要とあらば差し上げますよ。必要なときはお知らせください。それから、「市制町村制施行前の町村名等」に「南町」が漏れているようです。「新旧対照市町村一覧」(和泉橋警察署編、加藤孫次郎、M22)の段階で漏れていますね。「南町」は絶対外せないはずです。直感でそう思います。
[78803] 2011年 7月 21日(木)22:09:26千本桜 さん
都市計画道路
[78802] k-aceさん
八雲町の道道202号に3・4・4富士見通というのがありましたが、この「3・4・4」って何の数字なんだろう?

都市計画道路の番号ではないでしょうか。都市計画図を作る時にそのような番号を貼り込みました。「貼り込み」はアナログ時代の作業ですね。今はパソコンだから「入力」と言うのでしょうか。愛知県知多市のHPが都市計画道路について分かりやすく説明しています。
[78772] 2011年 7月 16日(土)08:48:49【1】千本桜 さん
成田山、新月村
[78769] 伊豆之国さん

比叡山の場合は、延暦寺の山号「比叡山」と自然地形の山名「比叡山」が同時に思い浮かんできます。でも、個人的には自然地形の山名「比叡山」の方を強く意識しているようです。高野山の場合は金剛峯寺の山号「高野山」と自然地形の山名「高野山」があると仮定して、個人的には金剛峯寺の山号「高野山」の方を強く意識しています。成田山となると、意識するのは新勝寺の山号「成田山」ですね。こうして考えると、難しいものですね。でも、面白い。
長野県の美ヶ原は山名なのでしょうか。国土地理院は王ヶ頭、王ヶ鼻を山名を意味する文字で表記し、美ヶ原は山名を意味しない文字で表記しています。でも、美ヶ原は日本百名山に入っているのですね。

[78770]むっくんさん
本吉郡新月村についてですが、明治8年に合併してその後分離して明治22年に再度合併した可能性はないのでしょうか。

そこに着眼されましたか。さすがに、むっくんさんです。明治8年に合併したけれど、2、3年後には元の新城村と月館(月立)村に分離した可能性は大ありです。ただし、確信は持てません。確信が持てないのは、そのことについて文章化された記述を見たことがないからです。しかし、表組化された市町村変遷表から推測すると、2村間で合併→分離→合併を繰り返した可能性があることを見てとれます。

ここに、宮城県の「明治5年~22年市町村変遷表」があります。昔のことなので記憶は不確かですが、宮城県史からコピーしたように憶えています。この変遷表によると、本吉郡の藩政時代の村数は33村。明治9年は18村。明治11年は19村。明治14年は19村。明治17年は19村。明治22年の大合併直前は19村。明治9年から11年の間に1村増えています。変遷表を読み進むと、明治9年の欄に新月村の名があるのに、明治11、14、17、22年大合併直前の欄には新月村の名がなく、新城村と月立村の名が記載されています。そして、明治22年の町村制を迎えるに当たり新城村と月立村が合併。新月村誕生。このことから推測すると、合併→分離→合併の可能性が大きいですね。

この変遷表は所々に誤字が目につきますが、表から判断する限りでは、「明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等」の合併後名称新月村の参加自治体
本吉郡 新城村, 月館村
の月館村は、月立村と表記すべきかな?と思われます。いずれにしても、誤字が目につく文献ですから真偽のほどは分かりません。ちなみに、現代に通用する地名は「月立」です。「月館」は藩政時代に通用した書き方ではないかと私は思っています。

訂正機能で追加書き込み。
投稿の後で読んでみると、88さんの「市制町村制」施行時の都道府県別一覧に誤記が多い、と受け止められかねない文章になっていました。誤記が目につくのは、私が所持している宮城県の「明治5年~22年市町村変遷表」ですので、誤解なさらないでください。
[78768] 2011年 7月 14日(木)23:05:01千本桜 さん
明治22年(1889年) 3月31日 宮城県 市制町村制施行直前の廃置分合等
宮城県関係で気が付いた点です。

合併後の名称・宮城郡七北田村について。参加自治体の七木田村は、正しくは七北田村ではないでしょうか。
合併後の名称・宮城郡松島村について。参加自治体に手樽村,幡谷村,北小泉村,竹谷村が漏れているようです。
合併後の名称・宮城郡原町について。参加自治体の仙台区北六番町(微)は、正しくは仙台区北六番丁(微)ではないでしょうか。
合併後の名称・加美郡鳴瀬村について。参加自治体の雑色目村は、正しくは雑式目村ではないでしょうか。
合併後の名称・栗原郡姫松村について。参加自治体の玉沢村は、正しくは王沢村ではないでしょうか。
合併後の名称・桃生郡二股村について。参加自治体の福田村は、正しくは東福田村ではないでしょうか。
合併後の名称・本吉郡十三浜村について。参加自治体に十三榎とあるのが理解できません。十三浜ではないでしょうか。

亘理郡荒浜村について。明治22年、高須賀村が改称して荒浜村になったはずですが「市制町村制施行直前の廃置分合等」の一覧表に荒浜村の記載がありません。単なる漏れでしょうか、それとも「直前の廃置分合等」には該当しないのでしょうか。

本吉郡新月村について。「市制町村制施行直前の廃置分合等」の一覧表に新月村が記載されています。ということは、新城村と月館村が合併して新月村になったのは、明治22年3月31日と判断して良いのでしょうね。ところが、角川地名大辞典には次のような記述があります。原文のまま書き写します。
同8年気仙沼村(気仙沼本郷を改称)・鹿折村・大島村を除く8か村が次のように統合された。
新月村=新城村・月立村
松岩村=赤岩村・松崎村
階上村=長磯村・最知村・波路上村・岩月村
同8年とは明治8年のことです。ところが、同じ辞典の中に明治22年合併らしき記載もあったりして不可解です。結構迷いますね。明治8年にしろ22年にしろ、そんなに遠い昔のできごとではないはずなのに、過ぎてしまったことは曖昧になってしまうものなのですね。
[78767] 2011年 7月 13日(水)22:01:36千本桜 さん
私からも “祝” 市区町村変遷情報(市制町村制施行時の情報) 完成
[78761] 88 さん
今後とも、市区町村変遷情報をよろしくお願いいたします。

大事業、本当におつかれさまでした。感謝申し上げます。早速、宮城県の市制町村制施行時の情報を拝見いたしました。ひとつ、確認をお願いしてよろしいでしょうか。仙台市の市制町村制施行前の町村名等で、片平町、東一番町、教楽院町など(その他、多数あり)は片平丁、東一番丁、教楽院丁と表記するのが正しいはずですので、参考にされた資料との照合をお願いします。仙台の場合、町人の区域は「町」、武家の区域は「丁」と書き表す慣しがありました。

仙台区を構成する市制町村制施行前の町村名等の中頃にある
田原長町通, 車町, 柳町通, 北目町通, 新小寺小路, 榴ヶ岡, 長泉寺横
の「新小寺小路」は正しくは「新寺小路」のはずですので、ご確認おねがいします。

福島県の市制町村制施行時の情報で、田村郡の「三春町」を「三春村」と誤打されているようです。
[78751] 2011年 7月 10日(日)19:12:50【1】千本桜 さん
都道府県を代表する山と川 「高野山」
[78715] futsunoおじさん
「山」には宗教的修行の場等の意味もありますので純粋な山岳を選択したい場合、判断は難しくなりますが「都道府県を代表する山」ではどう考えるべきでしょうか。

futsunoおじさんの問いかけに応えなければと思っているのですが、考えがまとまらず前進できないでおりました。高野山には複数の意味があります。住所地名の大字高野山、金剛峯寺の山号高野山、自然地形の山名高野山などです。この中で、高野山は自然地形の山名に値するのだろうかと迷っているのです。[78715]で提示していただいた Wikipediaを読んでみました。確かに
高野山(こうやさん)は、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1,000m前後の山々の総称
と書いてありました。しかし、読み進むと
なお、高野山という名称の山は無い
とも書いてあります。山々の総称名「高野山」はあるが、個々の山名「高野山」はないと受け止めれば済むのでしょうが、高野山のメインは山頂をもった山々ではなく、それらに囲まれた平坦地形にあるのではないかと感じる私としては、「高野山は山々の総称」という表現に違和感を感じるのです。普通一般に山を思うとき、少なからず山頂を意識するはずですが、私的イメージの高野山は山頂がなくても高野山なんです。自分の中にあるイメージを上手く文章化できなくて辛いのですが、私はそんな風に高野山を捉えています。

さらに Wikipediaで金剛峯寺を調べると
高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する
と書いてあります。高野山は山ではなく、山に囲まれた平坦地を指すと受けとれます。国土地理院の地形図注記に当てはめるなら、ゴシック体で表記される山には該当しない地形と考えられます。お断りしておきますが、私は全てを知った上で書いている訳ではありません。勉強のつもりで試行錯誤しながら書いています。ですから、間違った考えをしているかもしれないし、途中で考えが変わるかもしれません。以下、いろいろ調べた結果を書き出します。

河出書房の日本歴史大辞典(昭和48年発行)には次のように書かれています。
(高野山は)和歌山県伊都郡高野町にあり、略して野山といい、また南山・南岳ともいい、山の形より八葉峰ともいう。
やはり、高野山は山を指す名称なのかと考えがぐらついてきます。

平凡社の世界大百科事典(1972年発行)には次のように書かれています。
(高野山は)和歌山県伊都郡高野町にあり、紀伊山脈の1支長峰山地の東部、陣ガ峰、楊柳山、弁天岳など標高1,000m前後の山々の間に横たわる平たん面(東西6km,南北3km)一帯の総称。
おぉ。やはり高野山は山名ではなく、平坦部を中心とした場所名ではないかと、またまたぐらつきます。

角川日本地名大辞典には次のように書かれています。
(高野山は)伊都郡高野町に所在。平安初期、空海が真言宗の根本道場として創建した金剛峯寺の別称として知られる。固有の山名としてではなく長峰山脈の東部、陣ヶ峰・楊柳山・摩尼山・弁天岳など標高1,000m前後の山々とそれに囲まれた盆地状の平坦地を含んだ総称で、平坦地は標高800mほど、東西6km・南北3kmの広がりをもつ。
「標高1,000m前後の山々とそれに囲まれた盆地状の平坦地」と書いてあるけれど、山々の全ての斜面を高野山と言うのだろうか?。ひょっとして、高野山に該当するのは盆地に向いた斜面だけで、反対斜面は高野山ではないのではないか?。そこが一般の山と異なるところではないか。そんな思いが湧いてきました。

いろいろ探しているうちに、私のイメージを言い当てたようなHPに遭遇しました。高野山の地形と自然環境というHPには、次のように書いてあります。
和歌山県伊都郡の紀ノ川西南高地に位置する高野町。高野山はその主要部に広がる東西約5km南北約3kmの山上盆地をしめします。一般に◯◯山と言われる時、頂上の有る山を想像しますが、高野山の場合「高野山」と呼ばれる頂上はなく、周囲の峰々と、それらに囲まれた盆地部分全体を含めた地域が、いわゆる「高野山」です。
そうだ、これだ、と思いました。私がイメージする「高野山」は、これなのです。

次に、国土地理院は高野山の名称をどのように扱っているか見てみます。参照した地図はだいぶ以前に発行されたものですが、高野山を判断するのに支障なしと思います。
2.5万分の1地形図(ウォッちず)、5万分の1地形図(昭和54年発行)、20万分の1地勢図(昭和49年発行)、50万分の1地方図(昭和57年発行)いずれも、「高野山」を集落名または場地名として読取れるように表記し、山名としては扱っていません。ですから、これらの地理院図を基に編集発行した民間図には、自然地形の山名「高野山」はありません。S社の3万分の1県別道路地図、Z社の10万分の1道路地図、B社の20万分の1道路地図、S社の50万分の1地方図、どれにも自然地形の山名「高野山」は記載されていません。知名度では下位にあるはずの飯野山(香川県)が記載されているのにですよ・・・。こうしてみると、高野山は山名に値しないように思えてきました。

ところがです。地理院の100万分の1日本(平成2年発行)には、高野山が山名として記載されているのです。標高数値は記載されていませんが、文字に斜体が掛けられていますから、間違いなく自然地形の山を意識した注記です。50万分の1に記載がなくて100万分の1に記載があるのはなぜだろう。あらら、困りました。やはり高野山は自然地形の山名なのでしょうか。そこで、T社発行の110万分の1社会科地図帳をみると、高野山(弁天岳)985と記載されているではありませんか。ごく一般の人が見たら、高野山は別名を弁天岳と言い、標高は985mであると判断するのでしょうね。なんだか、私には納得できないものがありますが、これで良いのでしょうか。

futsunoおじさんの問いかけに応えたことにはならない書き込みで申し訳ありません。私自身、高野山をどのように捉えたら良いのか分からない状態です。

書込訂正。誤記2ヶ所、弁天山を弁天岳に訂正しました。
[78732] 2011年 7月 9日(土)00:43:51【1】千本桜 さん
2大
[78730] 白桃 さん
「2大」は納得できないです

「2大スター夢の共演」の会場を覗いてみたら、大下八郎と大木伸夫がデュエットしていたなんて許せないっすよ! 演歌ファンとしては、おんなの宿で涙の酒なんて最高にシビれるけど。
演歌が似合う北海道2大港町。釧路、苫小牧、小樽、函館がノミネートされました。苫小牧は演歌っぽくないので落選確実ですが、釧路、小樽、函館は激戦でしょうね。

女の宿を、おんなの宿に訂正
[78712] 2011年 7月 5日(火)22:18:37千本桜 さん
Re:都道府県を代表する山と川 (改訂版)
[78710] futsunoおじ さん

宮城県を代表する山が蔵王山。これには同感です。ただし、蔵王山の最高峰である熊野岳 (1841m)は山形県に属していますから、山頂が他県に属する山に該当します。

宮城県を代表する川については、北上川、鳴瀬川、名取川、阿武隈川で迷っておられるご様子ですが、鳴瀬川、名取川に代表性を持たせるのは苦しい。やはり、北上川/阿武隈川と連記するか、または一つに絞って北上川とするのが良いと思います。もし、宮城県の輪郭だけが描かれた白地図があったとして、そこに一つだけ都市名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「仙台」を書きます。一つだけ山名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「蔵王山」、一つだけ川名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「北上川」、一つだけ観光地名を入れて宮城県たらしめよと言われたら「松島」、一つだけ桜名所を入れて宮城県たらしめよと言われたら「一目千本桜」を書き入れます。私の場合。
 
ところで、[78710]
和歌山県 ☆高野山 985m
を見て思うのですが、「高野山」と言う名の山はあるのでしょうか?。私は高野山に行ったことがなく、日常的に高野山を意識することも全くありません。早い話が、高野山に対して知識がありません。ですから、「高野山」と聞いて思い浮かぶのは、集落、居住地、町並み、金剛峯寺などの建造物といった類いのものであり、山が連想できないのです。標高985mは弁天岳を指しているのでしょうが、地元の人は弁天岳を「高野山」と呼んでいるのでしょうか?。ちなみに、国土地理院の2.5万分の1地形図には、集落名「高野山」はありますが、山名「高野山」は記載されていません。したがって、5万分の1地形図や20万分の1地勢図にも記載されていません。
[78599] 2011年 6月 20日(月)07:28:49千本桜 さん
Re:都道府県を代表する山と川
futsunoおじさんが山形県を代表する山に「蔵王」を選ばれたことに同調します。ただ、昔(私がまだ、まじまじと山形盆地の風景を見ることがなかった頃)、山形市在住の方に「山形市民にとっての山はどこですか」とお尋ねしたところ、即座に「月山」と答が返ってきて驚いたのを憶えています。「蔵王」じゃなかったのですね。あくまでも山形市民にとってですが。
ところで[78597]の富士山3376mは、正しくは3776mでしょうね。
[78578] 2011年 6月 18日(土)17:50:22千本桜 さん
富山県出町、五百石と宮城県槻木、金ヶ瀬の共通点
[77087] 88 さん
富山県の市制町村制施行時の情報を上梓予定ですので、引き続きご活用いいただければ、と思います。

市制町村制施行時の情報を見て、富山県の出町(砺波市)と五百石(立山町)は、宮城県の槻木(柴田町)と金ヶ瀬(大河原町)に似た経緯を辿って来たことを知りました。

共通点・第1段階(江戸期)
槻木は入間野村に形成された町場の名。
金ヶ瀬は平村に形成された町場の名。
出町は杉木新村に形成された町場の名。
五百石は松本開(開は村と同義)に形成された町場の名。
ということで、いずれも「村名と異なる名称を持つ町場だった」ことで共通します。宮城県にはこれに類する町場が数多くあります。
ここで素朴な疑問が生じます。江戸期の入間野村に槻木と言う名の宿場町が開設されました。入間野村にあるなら入間野宿でよかろうに、なぜ槻木宿を名乗るのか。なぜ入間野宿を名乗れなかったのか。地名由来を追っても解決しない問題です。柴田町のその道に詳しい人にお尋ねしても、やはり分からないとのことでした。

共通点・第2段階(明治22年 町村制施行時)
入間野村など10村が合併。新自治体は入間野村の町場名をもって槻木村とし、それまでの入間野村は槻木村大字入間野になりました。
平村など3村が合併。新自治体は平村の町場名をもって金ヶ瀬村とし、それまでの平村は金ヶ瀬村大字平になりました。
杉木新村など8村と杉木村の一部が合併。新自治体は杉木新村の町場名をもって出町とし、それまでの杉木新村は出町大字杉木新になりました。
松本開など8村が合併。新自治体は松本開の町場名をもって五百石町とし、それまでの松本開は五百石町大字松本開になりました。
ということで、いずれも「村名を抑えて町場名が自治体名に出世した」ことで共通しています。「入間野の槻木」から「槻木の入間野」へ逆転したわけです。宮城県にはこの類の町場が結構あります。

共通点・第3段階(昭和の合併時)
槻木町は船岡町と合併して消滅。しかし、大字入間野を大字槻木に改称することで、槻木の名を残しました。
金ヶ瀬村は大河原町と合併して消滅。しかし、大字平を金ヶ瀬(大字の字句を冠しないが実態は大字)に改称することで、金ヶ瀬の名を残しました。
出町は周辺5村と合併して消滅。しかし、大字杉木新を大字出町に改称することで、出町の名を残しました。
五百石町は槻木町、金ヶ瀬村、出町より少し複雑な経緯を辿りますが、結果的に大字松本開の区域は大字五百石に改称されています。
宮城県には、第1段階から第2段階へ進展した町場は結構ありますが、第3段階まで進展したのは槻木と金ヶ瀬だけです。くしくも出町、五百石はその仲間でした。通称町場名に由来する地名が生き残る中、公称村名に由来する地名が消されて行く。この現象をどう解釈すれば良いのでしょうか。町場名は強いですね。自分が帰属していた村名を消滅させ、その区域を自分の名に書き換えてしまうのですから。

ここで、村名と町場名が同名の場合はどうなのかという疑問が涌いてきます。例えば、富山県の上市は江戸期の村名が上市で、そこに形成された町場も上市のはずです。現在私たちが上市と呼んでいるのは、村名を引きずった上市なのか、町場名を引きずった上市なのか。どっちなんでしょう。
なんだか疲れてきました。話題を砺波地方の都市間競争に切り替えます。

砺波地域(砺波市、南砺市、小矢部市の範囲を想定)と仙南地域は地勢こそ似ていませんが、どちらも小規模都市がドングリの背比べをしている点で似ています。砺波地域の中心都市って、どこなんでしょう。やはり今でも出町、石動、福光がビッグ3でしょうか。井波、福野がビッグ5にしてくれと言いたげですが、我慢してもらいましょう。

平成17年の人口集中地区または準人口集中地区比較
都市人口数
石動7,625人
福光4,331人
出町3,691人
出町が石動の半分。やはりDID人口は都市の賑わいや中心性の判断基準になりにくいようです。

平成22年分の路線価より、各都市の1平方メートル当り最高評価額比較
都市評価額
出町56,000円
福光50,000円
石動49,000円
こちらの方が判断基準になりそうな気配です。
[78559] 2011年 6月 14日(火)23:22:25千本桜 さん
赤道
[78555] 山野 さん
どれが「町道」(地区内)か分かる方、居られますか?
一番手っ取り早くて初歩的な解決策は、町役場で道路台帳を閲覧することだと思います。私も赤道で悩まされている住民です。(ごめんね、ニジェさん。「思います」を使って。)
話は少し逸れますが、昨年の秋、南三陸町に一泊旅行しました。宿は町の中心部から遥かに離れた漁村の高台にありました。翌日、日の出と共に目が覚めてしまい、ぶらぶらと坂を下って港の辺りを早朝散歩。まだ朝早いのに、港の周りは牡蠣むき仕事をしている人や漁船の出入りで活気づいていました。道ばたで、漁から帰る船を待つおばさんと立ち話。地元の人との立ち話も旅の楽しみの一つです。つい話し込んでいるうちに、宿の朝食時間が近くなっていました。
わたし:○○旅館へ帰るんですが近道はないですか。
おばさん:ほら、そこを入って行けばいいよ。
わたし:でも、あそこは民家の庭ではないですか。
おばさん:いいの、あそこは赤線だから。
わたし:え!赤線?
こんな岬の外れの小さな漁村に赤線だなんて。たぶん0.5秒くらいは私の顔が固まっていたはずです。もちろん、おばさんが言う赤線は赤道のことだと直ぐに推測がつきましたけど・・・。道路か庭か区別のつかない赤線を通って漁村の坂道を登った日から5ヶ月後、あの漁村も大津波に呑まれてしまいました。美しい風景だったのに。おばさん、助かっただろうか。
[77851] 2011年 4月 1日(金)20:40:07千本桜 さん
亘理町荒浜の高須賀
[77841] hmt さん
宮城県岩手県の沿岸部を主とした 浸水範囲概況図 が、国土地理院HPに発表されています。
浸水範囲概況図11を見て亘理町高須賀集落の状況に感じるものがありましたので書込みます。単調な海岸線が続く宮城県南部も津波で大きな被害を受けました。亘理町では海岸から5kmほど内陸にまで津波が押し寄せた様子が図から読みとれます。そのような中、赤く塗られた浸水区域にぽっんと着色していない区域があります。浸水を免れた高須賀集落です。高須賀とは、洪水などで水が押し上げることのない高い砂丘の地形からきた地名です。まるで今回の震災で津波から免れることを予見したかのような的確な地名ですね。先人が残してくれた地名の重みを感じた次第です。
この高須賀は藩政期の自治村で、高須賀村と呼ばれていました。阿武隈川河口の港町荒浜を端郷にかかえていましたが、いつしか荒浜の方が大きな集落になり、明治22年の町村制で荒浜村に改名してしまいました。江戸期には「高須賀村の中の荒浜」だったものが、明治22年以降は「荒浜村の中の高須賀」に逆転したわけです。
[77614] 2011年 2月 7日(月)22:46:04千本桜 さん
Re:新幹線に踏切が・・・
[77610] YASU さん
高架橋の表示がなくなった代わりでしょうか?
そのようですね。「橋および高架部」の表示を止めたことで、平面交差と立体交差の判別がつかなくなった。そこで、平面交差部には踏切記号を付すことにしたのだと思います。でも、やはり所々に間違いがあるようです。東北新幹線を東京から北に向ってチェックしてみたところ、栃木県那須町、福島県白河市で各1ヶ所、福島県桑折町で2ヶ所、宮城県大河原町で1ヶ所、新幹線の踏切記号を見つけました。あら~~~、これは有り得ないと思って、それ以上チェックするのを止めたところです。
[77608] 2011年 2月 6日(日)20:46:43千本桜 さん
ウォッちずの1/25000地形図と電子国土基本図
[77607] oki さん
今回「ウォッちず」の「電子国土基本図」を見てみたのですが、重大な難点があります。1/25000地形図では、大字と小字は文字の大きさで判別可能でしたが、「電子国土基本図」では両者とも同じ大きさで、まったく判別できません。これでは非常に困る。
同感です。しかし、これはどうも居住地名だけでなく、島や山の自然地名にも及んでいるようです。松島湾に浮かぶ個々の島々の名称と、それらを総称する松島群島という文字が同じ大きさで表されています。個々名の茶臼岳と総称の那須岳も同じ大きさで表されているところをみると、最初から「個々の名称」と「総称」の区別は考慮していないようです。
また、「樹木に囲まれた居住地」の記号がなくなっています。「建物」の記号が従来より淡彩で表示されていることもあり、地方(田園地帯)での集落の状況が非常に分かりにくくなった、というのが正直な感想です。
これも同感です。植生界や送電線や橋の表示もなくなりましたね。時代とともに地図に求められる物が変わってきたと受け止めるべきなのでしょうか。それにしても建物の色は淡すぎますね。文字情報が見やすくなる利点はありますが、少し淡すぎたようです。そのため、相対的に水部の藍色が強くなりすぎたようです。水田地帯では一条河川と水田記号がうるさく感じるでしょう。ちょっと目が疲れます。でも、電子国土基本図に踏切が表示されるようになったのは良案ですね。
[77591] 2011年 2月 4日(金)21:00:55千本桜 さん
海苔巻き、かんぴょう
[77588] 白桃さん
ウチのパソコンはどういうわけか「和田紫波志木の那珂出羽市場ん春日須木です。」となってしまいます。
私のパソコンは自動的に東北訛りに変換してくれるので「和田諏訪・・・」になります。滝川と打てば立川が出てくるし、桐生と打てば知立が出てくる。静岡などは珠洲男鹿に変換ですよ。

なんせ50年も前だし、あの頃しょっちゅう「巻きずし」食べてたから・・・。
あの頃にしては結構贅沢ですね(笑)。ただ、ナニで巻いていたかで贅沢の度合いが変わりますね。舌で巻いて食べてたりして(冗談ですよ!)。私が子供の頃、海苔はちょっと贅沢品だったようで、遠足や運動会のおにぎりは紫蘇の葉っぱで巻いてありました。卵焼きだって、うどん粉を混ぜて増量し、ふくらし粉でボリュームアップして食べたんですから。砂糖の代わりにサッカリンでしたね。サッカリンとか赤チンキ、DDTに込み上げてくるものを感じませんか。そんなわけで恵方巻など食べたことはないし、この地域にその風習がありませんでした。昔、富山県大沢野町の小さな神社に野宿した時、近所のおばさんに、とろろ昆布を巻いたおにぎりを頂いて感激しました。見た目もきれいで高級品に思えたのですが、北陸地方では普通に食べているらしいですね。

[77590] Issie さん
かんぴょう もさることながら,その原料である夕顔の実もあまり見ないなあ。
我が家では栃木からかんぴょうを貰うこともあって、たまに煮物で食べますね。この辺りでは栃木と違ってかんぴょう栽培している家はあまりないはずですが、ときどき夕顔の花を見かけることはあります。花の美しさに大味とか小味って有るのか無いのかよく分かりませんが、夕顔を見るたび、何とまあ大味なと感じますね。まじまじと見ればきめ細やかな美しさも宿しているのでしょうが。
[77582] 2011年 2月 3日(木)01:49:49【1】千本桜 さん
郵便番号
[77573] ぺとぺと さん 郵便番号データの誤収録について
[77576] にまん さん 0.1.1.0.0.0
[77579] oki さん 0.1.1.0.0.0=305
[77580] ぺとぺと さん 0.1.1.0.0.0の一部確認結果

皆さんのご意見通り、栗原市築館芋埣の件は郵便番号簿の誤記だと解釈することにします。郵便番号簿を信じていましたから、自分の方が間違っているのではないかと本気で悩んでいたのです(笑)。あれだけ膨大なデータですから誤記があっても不思議ではありませんよね。だとすると、宮城県には他にも所々に誤記らしきものが見受けられます。
[77570]で私は下記のように書きました。
変則的なところでは、大崎市鳴子温泉赤這や鳴子温泉赤湯が0.0.0.0.0.0ではなく0.1.0.0.0.0になる理由も理解できたつもりでいます。
「理解できたつもり」というのは、郵便番号簿を正当化して自分を押し殺してしまった結果です。赤這や赤湯は小字ですから直下に番地がぶらさがっています。なので0.0.0.0.0.0になるはずですが、郵便番号簿には0.1.0.0.0.0と記載されています。これは変だと思いながらも、赤這や赤湯に冠してあった大字大口が平成の合併時に廃止されたことと関連があるのかも知れないと、無理矢理自分を納得させてしまいました。気仙沼市二ノ浜や三ノ浜もそうです。本来0.0.0.0.0.0になるはずが0.1.0.0.0.0と記載されています。これもやはり郵便番号簿を正当化して自分を無理に納得させています。二ノ浜は俗に梶ヶ浦、三ノ浜は俗に鶴ヶ浦と呼ばれています。公称の字名と通称の集落名が共存しているところに、私の知らない郵便番号簿の事情が潜んでいるのかなと無理に納得したものです。郵便番号簿の誤記だと分かれば悩む必要がなかったわけですね。

なお、okiさんが0.1.1.0.0.0に該当する町域を全国で305ヶ所と弾き出しておられますが、その内の10%は宮城県に所在するものですね。仙台市、名取市、多賀城市、大崎市などに分布し、私としては小字起番の大字である(大崎市古川)稲葉と住居表示された稲葉○丁目が隣接している姿を、ごく普通のことと捉えていました。全国的に見ると意外に少ないのですね。いま再度郵便番号簿を見ているのですが、0.1.1.0.0.0と記載されて当然の仙台市の田子、福室、袋原、名取市の閖上が0.1.0.0.0.0と誤記されているのが目につきました。

書込訂正機能を使って追加書込みします。
「郵便番号データ」と書くべきところを、私が不用意にも「郵便番号簿」と書いてしまったため、皆様に誤解を抱かせているのではないかと心配になってきました。誤記が見つかったのは皆様がお使いになっている「郵便番号簿」ではなく、ネット上の「郵便番号データ」ですのでお詫びして訂正します。詳しくは郵便番号データダウンロードをご覧下さい。取り急ぎお詫びいたします。
[77570] 2011年 1月 31日(月)22:59:11【1】千本桜 さん
栗原市築館芋埣の謎
[77557] oki さん
スペースが限られる表頭部分に、「市区町村の直下の地域区分」などという長たらしい表示をしたくなかったので単純に「大字」と表現したのですが、以上の説明を丁寧にしておくべきでした。
ですよね。たぶん、そのような事情かと思いながらも、本気で宮城県に2848個の大字があると思われたらいやだなと、つい老婆心が働いてしまったものです。これで安心しました。そしてokiさんにお手間を掛けさせてしまったことをお詫びします。

[77486] でokiさんが話題にするまで、私はネット上で郵便番号簿を調べることは滅多にありませんでした。ところが日本郵便の郵便番号簿を見て、これは結構おもしろい!と、はまってしまいました。と言っても、時間の都合から目を通しているのは徳島県の一部と宮城県の全部だけですが・・・。宮城県は「"仙台市青葉区","以下に掲載がない場合"」から始まって「"本吉郡南三陸町","戸倉"」まで、3,320個の番号が割り振られています。小字毎に番地が起番されている町域の表示は0.1.0.0.0.0。丁目を有する町域の場合の表示は0.0.1.0.0.0になりますね。この番号と地名を照合し、仙台市青葉区青葉町が0.0.0.0.0.0。同じく旭ヶ丘が0.0.1.0.0.0。同じく芋沢が0.1.0.0.0.0になる理由は理解できています。変則的なところでは、大崎市鳴子温泉赤這や鳴子温泉赤湯が0.0.0.0.0.0ではなく0.1.0.0.0.0になる理由も理解できたつもりでいます。しかし、どうしても理解できない場所が1ヶ所だけあります。栗原市築館芋埣です。

芋埣周辺は宮城県で最も複雑な合併と分離を繰り返した地域で、その行政区画変遷を理解するのには大変苦労した地域です。現在と違って簡単に資料を入手できなかった時代でしたから泣かされました。現在の栗原市築館芋埣は次のような変遷を経てきました。
明治8年、芋埣村は渡丸村、泉沢村、嶺崎村と合併し宝沢村の一部となる。
明治22年、宝沢村は王沢村、片子沢村と合併して姫松村の大字となる。
昭和30年、姫松村のうち宝沢地区と片子沢地区は岩ヶ崎町などと合併して栗駒町姫松となる。王沢地区は一迫町などと合併し一迫町王沢となる。
昭和31年、栗駒町姫松芋埣の一部が分離して築館町芋埣となる。したがって栗駒町芋埣と築館町芋埣が存在する。
この複雑な変遷が関係しているのかどうか分かりませんが、郵便番号簿では築館芋埣の扱いがどうも変なのです。

マピオンで住所検索をすると、築館芋沢の下部に日照田や沼ヶ崎などの小字が出てきます。日照田4番地沼ヶ崎4番地があることから判断すれば、築館芋埣は「小字毎に番地が起番されている町域」に該当し、その表示は0.1.0.0.0.0になるはずなのに0.0.0.0.0.0と表されています。これが全く理解できない。お手上げです。ちなみに、隣接する栗駒芋埣は0.1.0.0.0.0と表示されています。

わ~~、全くお手上げです。築館芋埣日照田4番地をちゃんとリンクしたのに、地図は栗駒芋埣を指している。何かが変です。

書込訂正機能を使って追加書込みします。
マピオンだと栗駒芋埣を指してしまうので、ヤフー地図で築館芋埣を表示します。築館芋埣日照田4と入力して検索すると、築館芋埣地内の地図が表れてきました。やはり築館芋埣の下部には日照田や沼ヶ崎などの小字があって、それぞれの小字ごとに起番されているようです。そのような区域は0.1.0.0.0.0となるはずなのに、なんで0.0.0.0.0.0なのか悩ましい。
[77547] 2011年 1月 29日(土)19:49:02千本桜 さん
Re:再び、小字について
[77486] oki さん
日本郵便は、ほぼ毎月、全国の郵便番号簿を改定しており、ネット上からダウンロードできます。この郵便番号簿には、「小字毎に番地が起番」という欄があり、これをチェックすることで、全国の大字地域について、それが小字起番かどうかを確認することができます。昨年の2月くらいに、これを使って小字起番地域の分布を調べた結果が以下の表です。
都道府県名 大字数 小字起番 小字起番率
宮城県    2848   773    27.1
レスのタイミングがずれてしまって失礼します。okiさんのネット検索の高い能力には毎度感心しています。郵便番号簿のように有益なサイトを提示して頂けて大変ありがたく思っています。しかし宮城県の大字数が2848個というのは納得できません。この数字は大字の他に住居表示実施で発生した町と多数の小字を含んでいるはずです。明治22年当時の大字数をベースにその後の廃止や新設による変動を加減すれば、宮城県の現況大字数は700前後になるのではないかと推測しているところです。

大字とは市町村の直下にある地名で、多くの場合江戸時代の近世村ですが、そうでない場合もあります(住居表示された丁目地名やビル名は、小字起番があり得ないので除去してあります)。
住居表示された丁目地名は小字起番があり得ないので除去しているとのことですが、丁目がない住居表示済みの町も同様に扱うべきだと思います。仙台市国分町には一丁目、二丁目、三丁目があるから小字起番があり得ず、従って大字ではない。しかし立町春日町には丁目がないから大字扱いにするというのはまずいでしょう。

徳島や宮城は小字起番の割合が30%程度になっていますが、これらの県では大字が分解されてかつての小字が市町村の直下に組み込まれる事例が少なくなく、この場合は小字が大字扱いになってしまいます。
宮城県では大字の分割や廃止でかつての小字が市町村の直下に組み込まれても、小字は小字のままなのが普通だと思います。2006年に[51948]EMMさん、[51966] 矢作川太郎さん、[51973] EMMさん、[51988] 千本桜が話題にしている宮城県登米郡南方町(現・登米市南方町)を例に出します。南方町は昭和53年に大字を廃して自治体+大字+小字の住所を自治体+小字に改めました。現在、日本郵便はその小字一つ一つに異なる郵便番号を付して南方町を159個の番号で区分けしています。oki さんはその159個を大字数と数えておられるようですが本当の大字数は0です。同じように刈田郡七ヶ宿町も小字ごとに105個の郵便番号が設定してあって大字はありません。気仙沼市本吉町も104個すべて小字で大字なし。栗原市高清水町も99個すべて小字で大字はありません。こうして数えて行くと宮城県の大字数2848はあり得ない数字になります。これは宮城県に限らず徳島県でも同じだと思います。例えば徳島県吉野川市山川町の区域は121個の郵便番号で区分けされていますが、この121個を大字の数とするのは感覚的に受け入れにくいことです。もともと旧山川町は大字を編成していませんでしたから、合併して吉野川市山川町になった現在も大字なしの小字地帯であることに変わりはないと思うのです。

okiさんがなぜ「大字が分解されてかつての小字が市町村の直下に組み込まれると小字が大字扱いになってしまう」と考えておられるのか不思議でした。この謎を解く鍵は okiさんの故郷にあるのではないかと思い徳島県阿南市に飛んでみました。国土地理院地形図、角川日本地名大辞典、郵便番号簿、マピオン地図、Yahoo!地図の航空写真を用いてのバーチャル旅行です。一夜漬けの勉強ですが少し阿南市のことが解った気がします。そして okiさんの発想の原点らしきものに触れたような気もします。確かに阿南市には大字が分解されて、かつての小字が大字扱いされているような事例がありました。
明治22年、富岡町、石塚村、領家村、覚原村、西路見村、七見村、日開野村、黒津地浦、辰己新田村、原ヶ崎村、豊益村、芥原村の12ヶ町村が合併して富岡町が成立。富岡、石塚、領家、学原、西路見、七見、日開野、黒津地、辰己、原ヶ崎、豊益、芥原の12大字を編成。この地域は現在、富岡町、領家町、学原町、西路見町、七見町、日開野町、黒津地町、辰己町、原ヶ崎町、豊益町、住吉町、向原町、出来町、畭町、福浦町の15大字に変化しています。大字芥原が住吉町に改称。大字富岡が大字石塚を統合。大字西路見が西路見町、向原町、出来町、畭町、福浦町に分解。ざっとこんな流れでしょうか。 大字小字を語る上で少なからず大字西路見の分解がokiさんを左右していたのではないかと想像しています。間違っていたらごめんなさい。
[77407] 2011年 1月 12日(水)12:56:57千本桜 さん
宮城県の国勢調査速報が出ました
宮城県の国勢調査速報が出ました。仙台市が予想を超える頑張りで20,804人の増加。
不景気風が吹く仙南地域の中にあってスーパータウンは201人の増加。敢闘賞!
[77119] 2010年 12月 27日(月)00:33:18千本桜 さん
卯名沢は小字
[77111] k-ace さん
町名・大字名のみを対象とし、小字名は割愛。
気仙沼市本吉町卯名沢

本吉町は大字を編成していませんので、卯名沢は小字として扱うのが妥当かと思われます。当然ですが、近隣の中島下宿今朝磯などもすべて小字で、敢えてそれらを総称する大字相当の地名を挙げるなら小泉(藩政期の小泉村)になります。旧小泉村の中心となる小字は。藩政期の小泉村は明治22年(1889)に他村と合併せずに単独で町村制下の小泉村になりましたから、大字を置く必要がなかったのです。昭和30年に小泉村、津谷村、大谷村が合併して本吉町が成立しましたが、やはり大字は置かずに、自治体名(本吉町)の後ろに直接 小字名を書くことになっています。
[77093] 2010年 12月 23日(木)19:21:14千本桜 さん
引綱から唐琴へ、平から金ヶ瀬へ
[76203] hiroroじゃけぇ さん
落ち着いて書き込みする時間がとれず、ご返事が遅くなって申し訳ありませんでした。
唐琴は明治22年まで存在した引網村のことではないかと推察します。もし、地理範囲に変わりがないなら、今も引綱と呼ばれて良いはずなのに、どうして唐琴に改称したのでしょうか。
という私の問い掛けに
人口が集中する「唐琴」を採用したのではと推測しています。
との回答を頂きましてありがとうございました。私も人口や居住空間(集落)が少なからず作用しているだろうと感じています。そこで、私なりに藩政期の引綱村が現在の倉敷市児島唐琴町に変化する過程を追ってみました。
明治22年、引綱村と田ノ口村が合併して町村制下の田ノ口村が発足。引綱村の区域は田ノ口村大字引綱となる。
明治40年、田ノ口村と鴻村が合併して琴浦村が発足。田ノ口村大字引綱の区域は琴浦村大字引綱となる。
大正4年、琴浦村が町制施行。琴浦村大字引綱の区域は琴浦町大字引綱となる。
昭和31年、琴浦町と児島市が合併して(新)児島市が発足。琴浦町大字引綱の区域は児島市唐琴町となる。
昭和42年、児島市と倉敷市、玉島市が合併して(新)倉敷市が発足。児島市唐琴町の区域は倉敷市児島唐琴町となる。
昭和46年、倉敷市児島唐琴町に住居表示が実施されて倉敷市児島唐琴1~4丁目となる。住居表示が未実施の区域は倉敷市児島唐琴町のまま残留。
昭和31年に大字引網を唐琴町に改称したようですね。ここまでは調べることができたのですが、なぜ引綱ではダメだったのかについては分からずじまいです。実は、宮城県でも昭和31年に大字平(藩政期の平村)が金ヶ瀬という地名に改められています。あまり参考にならないかとは思いますが、平が金ヶ瀬に変化して行く経緯を紹介します。
【第1段階】
寛永14年(1637)、6月23日朝より大雨。24日雨止まず。25日雨止まず。26日洪水。この洪水で刈田郡宮村(現・蔵王町)の金ヶ瀬宿は流出して河原と化した。同じ場所での再建は方策がたたず、領主の片倉重長は伊達藩主に請願して柴田郡平村(現・大河原町)の畑地を拝領し、そこに屋敷割りを実施して、侍1、町足軽27、百姓修験1、百姓16、計45軒を移転させることにしました。
【第2段階】
寛永19年(1642)、金ヶ瀬宿が平村の南西部に移転して宿駅業務を再開する。この時に形成された町並みは、後に増設される金ヶ瀬新町に対して金ヶ瀬本町と呼ばれます。
【第3段階】
享保6年(1721)、金ヶ瀬宿の貨客増加に伴い、平村の村落部に住む農民90軒を強制移住させて金ヶ瀬宿を拡張する。この時に増設された町並みは金ヶ瀬新町と呼ばれます。金ヶ瀬本町と金ヶ瀬新町は途切れのない一連の町並みになっていて、安永風土記には、本町 長サ三丁拾弍間 家数四十五軒。新町 長サ八丁 家数九十三軒と書いてあります。この時点で平村の村落部に住む住民と金ヶ瀬町場に住む住民の比率が完全逆転しましたから、平とは金ヶ瀬のことという感覚が生まれ始めてもおかしくないと思います。対外的な知名度は、地籍上の村名「平」よりも町場名「金ヶ瀬」の方が勝ってしまったのではないかと想像します。
【第4段階】
明治22年(1889)、平村、堤村新寺村が合併。平村の町場名をもって金ヶ瀬村になりました。旧3村は、平村が金ヶ瀬村大字平、堤村が金ヶ瀬村大字堤、新寺村が金ヶ瀬村大字新寺となりました。
【第5段階】
昭和31年(1956)、金ヶ瀬村は大河原町に合併。村内の旧3大字は、大字平が大河原町金ヶ瀬、大字堤が大河原町堤、大字新寺が大河原町新寺となりました。この段階で大字平(藩政期の平村)は金ヶ瀬という名に置き換えられて消滅しました。
こうしてみると、平は金ヶ瀬に庇を貸して母屋を取られた格好ですが、私としてはあまり抵抗感がないんですよね。リアルタイムのできごとではなく、昔のできごとだからというのも少しはあります。しかし、何よりも大きいのは、へんちくりんな大字のエリア変更がなかったこと。過去の歴史が見えなくなるような大字の領域変更がなかったこと。天保郷帳や安永風土記などの古い書物に書かれている「平村」をそっくりそのまま「金ヶ瀬」に置き換えれば意味が通じる状態に保たれたこと。それが一番の理由です。大字の変更で私が一番恐れるのは、無感心なるが故に安易な領域変更に走る行政による歴史破壊です。これがリアルタイムで目の前で行われたなら、たまったもんじゃありません。
[77083] 2010年 12月 22日(水)19:38:07千本桜 さん
市区町村変遷情報および『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』
[76590]88 さん
静岡県(336件)、長野県(391件)の計1,257件(いずれも町村のみ)の一括登録をしていただきました。
いつも感謝しながら市区町村変遷情報を利用させていただいております。ところで、市制町村制施行時の情報の静岡県ですが、「市制町村制施行前の町村名等」を記載する欄に「施行後の町村名」が掲載されているようです。88さんが間違う筈はないという前提で見ていますから、もしかして私の方が見方を誤っているのかな?と少々頭が混乱していますが、念のため御確認おねがいします。

[76822]YT さん
『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』 東北編
天保郷帳では陸前国栗原郡92村ですが、旧高旧領取調帳では1つ増えて93村になっています。どうしてかなと調べたところ、明治4年(1871)に真坂村から北沢村が分村したことによる増加のようですね。北沢村は江戸期の昔より独立した1個の自治村だと思い込んでいましたが、YTさんの『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』の村数比較を見て、勘違いしていたことに気がつきました。ありがとうございました。ところで、旧高旧領取調帳では羽前国置賜郡292村2町となっていますが、その2町がどこなのか、御存知でしたなら教えて頂けないでしょうか。
[77082] 2010年 12月 22日(水)19:26:40千本桜 さん
鈍感都市
[76095] 白桃 さん
その市の郊外?にあるバス停に到着
そのバス停は大内バスストップのことだと推察しますが、そこで下車した人の数が気になりました。そして仮に、利用客が少ないことを理由にバス会社が大内バスストップへの停車をやめると通告してきたなら、東かがわ市の行政や住民はどんな行動に出るのだろうと考えてしまいました。A・バス会社に停車継続を働きかける。B・行政も住民も無関心のままやりすごす。さあ、東かがわ市はA・Bどちらをとるでしょう。
こんなことを書きますのも、昨年2月から岩沼、大河原、白石に東京行き夜行バスが停車しなくなり、宮城県南部は長距離バスの空白地帯になってしまったからです。私は訳あって大河原、白石両バス停の乗客数を時折チェックしていましたが、乗車する人が非常に少なく、バス会社が停留所を廃止したくなるのも分からないわけではありませんでした。しかし、地域には地域の側の論理があって当然で、東京行きのバスは地域にとって必要、交通機関は都市戦略に欠かせないアイテム、だから通過措置は回避して欲しいと、ダメもと承知で行政が声をあげるのを期待していましたが、その声も聞かれないまま実質バス停廃止に至りました。こうして大河原は東京と直結する交通手段を失ったのですが、それでも平然としていられるのは都市として鈍感すぎ。なにしろ、18万人圏域の中心地としての役目を背負っているのですから、もっと敏感にならなくちゃと思うのです。
そこで、国の出先機関配置から見た東北地方の拠点都市を書き出します。対象となる役所は「地方裁判所またはその支部」、「法務局またはその支局」、「国税局の税務署」の3つに絞ります。東北地方の都市で3機関がすべて設置されているのは青森、五所川原、弘前、十和田、八戸、盛岡、二戸、宮古、花巻、水沢、一関、仙台、気仙沼、石巻、古川、大河原、秋田、大館、能代、本荘、大曲、横手、山形、酒田、鶴岡、新庄、米沢、福島、会津若松、郡山、白河、相馬、いわきの32市1町です。平成の大合併後の自治体にまだ馴染めないので、合併前の自治体を念頭に置いて書きました。このそうそうたるメンバーの中に名を連ねながら、東京との直結交通手段もなければホテルもない大河原町って、やっぱり異色ですね。
[76288] 2010年 10月 2日(土)08:19:57千本桜 さん
児島、日比、水城の御礼
[76203] hiroroじゃけぇさん
[76204] かぱぷうさん
[76205] 中島悟さん
[76263] hiroroじゃけぇさん
私の疑問にお応え下さいましてありがとうございました。拝読いたしましたのに、御礼の書込みが遅れて申し訳なく思っております。実は[76196]を書込んだ後に、敬老会、同級会などの準備や種々の会合が重なって舞い込み、落ち着いて書込みをする時間がとれない状態に陥っておりました。この後も、村の鎮守の秋祭りやカラオケフェステバルに追われますが、それらが終われば書込み可能な状態に戻れると思います。塩生・通生・宇野津をまとめて本荘と呼ぶ習慣はないのだろうか?など、お尋ねしたい事はまだまだあるのですが、取り敢えず御礼まで。
[76196] 2010年 9月 16日(木)08:22:18千本桜 さん
児島、玉野市日比、太宰府市水城
[59333] hiroroじゃけぇ さん
地元における一般的な区分は、
児島(味野・小川・琴浦・田ノ口・唐琴・赤崎・由加をまとめて)
下津井
塩生(しおなす)・通生(かよう)(リンク先は塩生)
郷内
と分かれています。自治体の変遷とは必ずしも一致していませんので分かりづらいでしょう。大まかに言えば、山に囲まれ東側または南側が海の地域が児島、それ以外は別々と言うことです。
児島に関して幾つかお尋ねします。
1・公的な行政区分ではなく、世間の一般的な人々の地理意識を知りたいので教えてください。琴浦から少し離れた地域の人々、例えば下津井や日比の人は琴浦の地理範囲をどのように捉えているのでしょう。A・下の町・上の町の区域を琴浦と呼んでいる。B・下の町・上の町・田ノ口・唐琴・由加・白尾の全域を琴浦と呼んでいる。捉え方は世代によって違いがあるかもしれません。そこで、1つはhiroroじゃけぇさん世代の感覚で捉えた琴浦。もう1つは70才以上の高齢者の感覚で捉えた琴浦。二者の立場からの琴浦を解説いただけたなら幸いです。
2・唐琴は明治22年まで存在した引網村のことではないかと推察します。もし、地理範囲に変わりがないなら、今も引綱と呼ばれて良いはずなのに、どうして唐琴に改称したのでしょうか。
3・塩生(しおなす)・通生(かよう)で1つの区域とした場合、宇野津はどこへ行ってしまうのでしょう。塩生に含まれるのでしょうか。
4・次に、現在の公的な住所地名の話に移ります。旧児島市の区域では、大字に相当する町丁名のほとんどが児島を冠して倉敷市児島○○と表記するのに、郷内村、下津井町および味野町の菰池だけは児島を冠称しません。何故でしょうか。後に児島市に編入された郷内村の区域が児島を冠称しないのは理解できますが、児島市発足当初から児島市に組込まれていた下津井町と味野町の菰池地区が児島を冠しない理由がわかりません。児島を冠せず、いきなり倉敷市下津井、倉敷市菰池になるのが不可解なのです。赤崎が倉敷市児島赤崎ですから、菰池は倉敷市児島菰池になるのが一般的だと思うのですが・・・。
5・さらに不可解なのは下津井の大畠です。明治22年以前、下津井町の区域は下津井村、吹上村、田ノ浦村、大畠村に分かれていました。現在の住所表記は、下津井村の区域が倉敷市下津井、吹上村の区域が倉敷市下津井吹上、田ノ浦村の区域が倉敷市下津井田ノ浦なのに、大畠村の区域は下津井を付さずに倉敷市大畠です。大畠村の区域が児島も下津井も冠称しないのはなぜでしょうか。

玉野市やその周辺に住む世間の人は、日比の地理範囲をどのように捉えているのでしょう。
A・日比という地名を耳にすると、藩政期の日比村に相当する区域を思い浮かべる。
B・日比という地名を耳にすると、日比に渋川和田を加えた区域を思い浮かべる。
C・日比という地名を耳にすると、日比、渋川、和田にを加えた区域を思い浮かべる。
私の関心は、今も日比という地名が玉を包含する力を持っているかどうかにあります。

かぱぷうさんへ
太宰府市近隣、例えば筑紫野市や大野城市の人たちは、水城という地名が及ぶ地理範囲をどのように捉えているか知りたいので教えてください。
1・太宰府市水城あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、と言い習わしている。
2・太宰府市坂本あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、C・坂本へ行くと言い習わしている。
3・太宰府市通古賀あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、C・通古賀へ行くと言い習わしている。

明治22年、藩政期の水城村, 国分村, 坂本村, 観世音寺村, 通古賀村, 片野村, 吉松村, 向佐野村, 大佐野村の9村が合併して町村制下の水城村が誕生しました。これら旧9村は水城村の大字に引継がれ、後に太宰府町の時代を経て、太宰府市の大字・町丁名に継承されています。ところが、旧9村のうち片岡村の名称だけは現在の太宰府市の住所地名に見当たりません。ここから先は推測で書きますが、大字片岡(旧片岡村)は住居表示が実施されて朱雀○丁目になり、住所地名としては消滅してしまったのでしょう。私の関心は、この片岡という地名が世間の人に今も使われているかどうかにあります。かぱぷうさんは片岡という地名を口にしたり耳にしたことはありませんか。もし、かぱぷうさん世代になじみのない地名だとしても、住居表示が実施される以前に物心がついていた人たちは今も片岡という地名を使っているかもしれません。高齢者が片岡を口にしているのを耳にしたことはありませんか。
[75500] 2010年 7月 19日(月)18:13:52千本桜 さん
田老森崎
[75493] 2010 年 7 月 17 日 (土) 22:55:15 しんちゃん さん
岩手県宮古市田老森崎(郵便番号0270354)という所があります。しかし地図検索しても指示点はありますが、どの地図にも字名が書かれていません。どんな所なんですか。

宮古市田老森崎の名称と字界はちず丸で確認できます。ただし、字界の精度は保証できません。マピオンで田老森崎43番地を検索するとこの場所が表示されますが、ちず丸は そこを田老末前の領域にしています。どちらかがズレているわけですが、この場合に限って判断するなら、ちず丸の字界線がズレている可能性が高いと思います。また、ちず丸やマピオンの他に国土地理院ウォッちず2万5千分の1地形図併用をおすすめします。2万5千分の1地形図には森崎の表記がなく、字界も表示されていませんが、地形や集落への想像をかきたててくれます。

森崎は町村制が敷かれる明治22年以前は末前村の字(あざ)でした。角川地名大辞典によると、末前村の字(あざ)は七滝・青倉・立腰・日影山・森崎・末前・和山・鈴子沢の8字です。ただし、日影山は現在、日影と呼ばれているようです。ちず丸は この8字名を全部表示していまが、ウォッちず2万5千分の1地形図は森崎・日影・和山の3字名を表記していません。2万5千分の1地形図の集落名表記は、地籍の上で存在するかどうかではなく、地図の上で集落としての図形が確認できるかどうかで決まります。ですから、家屋が存在しない字(あざ)の名称は表記されず、家屋が少ない字(あざ)も名称表記がされないことがあります。また、ひとかたまりの集落に見えても、複数の字(あざ)に跨がっているものが多々あります。この場合、すべての字名を表記すると繁雑になり、等高線・河川・道路・家屋・植生などの表示に悪影響をおよぼすので、代表的または総称的な地名のみを表記し、他は省略します。

森崎が2万5千分の1地形図に表記されなかった理由は、家屋が少ないことに加え、中心集落の末前と ひとかたまりの集落とみなされ、省略されたからではないかと思います。世に出回っている多くの地図は、国土地理院の地図を基にして作られています。地理院2万5千分の1地形図に記載されない地名は、他の地図にも記載されないことが多くなります。森崎もその例でしょう。

末前村の字だった森崎は明治22年、末前・田老・乙部・摂待の4村合併で田老村(後に田老町となる)が成立すると、田老村大字末前の小字になりました。住所は昭和59年まで田老町大字末前第5地割字森崎○○番地と表記していたようです。昭和59年に字(あざ)の名称変更があり、大字末前第5地割の字句を外して田老町字森崎になりました。この名称変更に関する資料が見つかりましたので貼っておきます。その後、平成17年に田老町は宮古市・新里村と合併し、田老町字森崎は宮古市田老森崎となって現在に至っています。
[75490] 2010年 7月 17日(土)17:05:46千本桜 さん
間違い探し
[75488] 白桃 さん
東かがわ市の合併等の経過図ですが、一部が間違っていますね。
横レスをお許しください。福栄村を構成する入野山村が記載もれですね。

三本松高校の同級生だった市長に言っとこう・・・
この系統図を東かがわ市の市長に見せて、間違い探しをしてもらいましょう。ヒントなしで一瞬に間違いを探し当てたら、頭をなでなでしてあげて下さい。そのとき、ついでに次のことを市長に質問して下さい。
「中筋地区と三本松地区の家並は連続状態ですから、中筋○○番地を三本松○○番地に改めましょうよ。中筋なんて田舎臭い大字名を捨て、都会的な三本松を名乗らせてやれば住民は喜びますからね」。これに対して「いいアイディアだ!」などと乗って来たなら、頭をゴッツンしてやりましょう。藩政村が大字として継承されてきた歴史の重みを認識させましょう。
東北地方の某町では、住所政策担当者にこの認識が足りません。藩政村とか大字の歴史を知っている住民はいないから、大字の名称や領域を変更しても良いのだそうです。変な理屈ですね。
[75322] 2010年 6月 8日(火)22:02:35千本桜 さん
サントス生まれの編集者が選ぶ福岡県の三都市
茨城県:水戸、土浦、日立
(たとえ時代遅れといわれても、まだ この3都市に執着します。“つくば”をいまいち理解できていないからかな)
埼玉県:さいたま、熊谷、川越
(さいたまは浦和それとも大宮?、それが第3位選びに少し影響しますが、川越が伝統の重みで所沢を押し倒し)
千葉県:千葉、銚子、館山
(千葉県の形状を思うと銚子、館山を配置したときが最も安定感を感じます。柏、船橋ごめんなさい)
新潟県:新潟、長岡、上越
(第2位長岡、第3位上越、ともに順当かと思います)
岐阜県:岐阜、高山、大垣
(第2位は岐阜の勢力が及ばない高山。第3位は大垣と多治見が決戦して大垣に)
静岡県:静岡、浜松、沼津
(沈丁花は枯れても香しという諺は沼津のためにあるような)
愛知県:名古屋、豊橋、岡崎
(第2位はすんなり豊橋に決定。第3位は岡崎と豊田が決戦の末に岡崎の判定勝ち)
兵庫県:神戸、姫路、豊岡
(第2位は迷わず姫路。第3位は独自の都市圏を形成し小粒でもピリリと辛い豊岡。尼崎、西宮ごめんなさい)
福岡県:福岡、北九州、久留米
(サントス生まれでトスマニア島育ちの編集員は福岡、北九州、鳥栖を選びました。いくらトスマニアでも、やりすぎでしょう。でも鳥栖は福岡県三都市の一つに選ばれて喜んだそうです。唐津は福岡県三都市から漏れてがっかり。佐賀県って・・・)
[75311] 2010年 6月 7日(月)08:35:41千本桜 さん
Re:県下三都市決定戦
[75271]で書いた
広島県には3つの都市を記載して広島県であることを伝えようとしています。広島、福山、もう1つはどこでしょう。
答えは廿日市でした。

[75306] 白桃 さん
以下の9県で3つの都市をお選びください。
時間がないので取り敢えず、番外・大阪府の「酒の肴編」です。
市りとりマニアの編集者は大阪府の地図に大阪、門真、松原の3都市を表記しました。これにクレームをつけたのは先輩編集者でした。3都市が近くに固まりすぎているというのです。そこで先輩編集者は手本を示しました。いいか、よく見ておけ。大阪府全体を見渡して摂津、和泉、河内の3国にそれぞれ1都市ずつ配置するのがベストなんだ。そして大阪、貝塚、河内長野を選びました。どうやら、この先輩も市りとりマニアだったみたいですね。こんな末期症状の地図編集現場を見て、堺、岸和田、高槻、枚方の面々は、あまりのばかばかしさに第2都市、第3都市に立候補するのをやめたそうです。
[75271] 2010年 6月 4日(金)20:57:10千本桜 さん
Re:イバラキの市に突っ込みを入れてみる
[75263] 白桃 さん
孤軍奮闘しているようなので援軍参加します。さっき、本屋で立ち読みしたプレジデント別冊、なかなか面白かったです。内容が「出世・結婚・お金は県民性で9割決まる」とかで、各県ごとに、ものすごく簡単な地図が載っているわけです。どんな地図かというと、県の輪郭と主要都市が3つ4つ載っているだけで、他の情報は一切なし。たぶん、こういう簡略な地図を真剣に見る人は少ないと思うのですが、主要都市の選択が実に面白い。たとえば、鳥取県は県の輪郭の中に鳥取、米子、倉吉の3都市をプロットして鳥取県であることを表しています。これは順当な選択ですね。山形県は山形、酒田、米沢を選択。3都市だけで山形県を伝えるなら、これも順当。新潟県にも3都市がプロットされています。新潟、長岡とくれば残り1つはあの都市だと思うでしょう。ところが、あの都市ではなく糸魚川を選択しています。なんでやねん。宮崎県も延岡を外して、宮崎、都城、日向を記載。肩透かしを喰らいました。福島県には4都市をプロット。福島、郡山、いわき、そして喜多方!。なんで喜多方?。会津若松が怒るで。ここでクイズです。広島県には3つの都市を記載して広島県であることを伝えようとしています。広島、福山、もう1つはどこでしょう。思わず、うにゃ~とするような都市が選択されています。
では本題の茨城県に突っ込みます。こういう簡略な地図の場合、水戸、土浦、日立の3都市を記載すれば済むだろうと考えるのは、どうやら時代遅れの男たちの感覚みたいです。この地図では水戸、日立、つくば、取手を選択し、土浦を外しています。つくばが土浦に取って代わる。これも時代の流れかなと納得しようと努力してはいるのですが、どうにも納得できないのは、つくばに県都のマークが付され、水戸はその他の一般都市と同じマークで扱われていることです。関東あたりでは水戸って、そんなに影が薄いんでしょうか。(笑)
[75252] 2010年 6月 3日(木)22:49:15【1】千本桜 さん
東北地方の自治体を越える地名
青森県上北郡六戸町大字犬落瀬/青森県三沢市大字犬落瀬
青森県三戸郡五戸町大字上市川/青森県八戸市大字市川町
岩手県花巻市成田/岩手県北上市成田
宮城県大崎市田尻北小牛田/宮城県美里町南小牛田
宮城県大崎市鹿島台木間塚/宮城県遠田郡美里町木間塚
宮城県黒川郡富谷町明石台○丁目/宮城県仙台市泉区明石南○丁目
宮城県黒川郡富谷町東向陽台○丁目/宮城県仙台市泉区向陽台○丁目
宮城県仙台市泉区南中山○丁目/宮城県仙台市青葉区中山○丁目
宮城県仙台市青葉区小田原○丁目/宮城県仙台市宮城野区小田原○丁目
宮城県仙台市青葉区花京院○丁目/宮城県仙台市宮城野区花京院通
宮城県仙台市青葉区五橋○丁目/宮城県仙台市若林区五橋○丁目
宮城県仙台市青葉区土樋一丁目/宮城県仙台市若林区土樋一丁目
宮城県仙台市青葉区茂庭/宮城県仙台市太白区茂庭
宮城県仙台市若林区四郎丸/宮城県仙台市太白区四郎丸
秋田県仙北郡美郷町金沢/秋田県横手市金沢・金沢本町・金沢中野
山形県新庄市大字本合海/山形県最上郡大蔵村大字合海
山形県尾花沢市大字五十沢/山形県村山市大字五十沢
福島県伊達郡国見町大字西大枝/福島県伊達市梁川町東大枝
福島県福島市松川町下川崎/福島県二本松市下川崎
福島県田村郡三春町大字南成田/福島県田村市船引町成田
福島県双葉郡大熊町大字小良浜/福島県双葉郡富岡町大字小良ケ浜

秋田県の美里町を美郷町に訂正。
[75196] 2010年 5月 27日(木)20:43:27千本桜 さん
市場統合
河北新報の報道によると、今年9月ごろをめどに大河原町地方卸売市場、白石市地方卸売市場、角田市地方卸売市場の3市場が統合。白石市、角田市の市場を閉鎖し、大河原町の市場に機能を集約するとのことです。またしても市町逆転。市の都市機能が町に引き寄せられる不思議な地域の、地味なローカルニュースでした。
[75176] 2010年 5月 23日(日)08:07:24千本桜 さん
♪ウミはステキだな~
大磯がハズレだとすると、あとはアソコしかないと思うのですが、人口資料を持ち合わせていないので確認できません。そこで推測ですが、1920年当時に人口1万超の町になっていた要因は炭坑にあり、1960年当時2万人超の町になっていた要因は母都市Fの膨張によるベッドタウン化にあると考えてよろしいでしょうか。すると答えはウミ。
[75169] 2010年 5月 22日(土)20:59:20千本桜 さん
大忙し
[75167] 白桃 さん
これの正解はもちろん音更町なんですが、実は、全国でいうと、もうひとつだけあるのです。
昭和35年には既に人口集中地区を形成していた あの町だと思いますが確認できません。なぜなら、私はいま大忙しだから。
[75156] 2010年 5月 22日(土)02:38:17千本桜 さん
四国旅行
[74078]で書いた四国旅行の件、先週実行して参りました。個人の自由が利かない団体旅行でしたが、晴天に恵まれ、穏やかな瀬戸内の風景を久しぶりに眺めることができました。伊丹空港を出発したバスは中国池田IC→(中国自動車道経由)→神戸JCT→(山陽自動車道経由)→神戸西IC→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路ICのルートを走行して淡路夢舞台へ。夢舞台を全部見るには3時間ほど欲しいのですが、許された滞在時間は40分だけ。我が家のジギタリスやラベンダーはまだ蕾さえ付けていないのに、淡路島では もう咲いているのですね。広い園内の一画だけを見て回り、昼食のため旧東浦町の海鮮料理屋へ急ぎました。このあたりは40年ほど前に自転車で走り抜けていますから、久しぶりの再訪問になります。

昼食後は淡路島の北辺をなぞるように岩屋経由で海辺の道を走り、研修先の旧北淡町のとある施設へ向かいました。研修終了後は北淡ICから鳴門北ICまで神戸淡路鳴門自動車道を走行して大鳴門橋架橋記念館へ。記念館の展望台から眺める風景は明るい日差しを浴びて美しく、海上遊歩道「渦の道」のガラス床から覗き込んだ海もスリルがあって良かったです。この日の宿は大毛島にある大きなリゾートホテル。阿波踊りのショーを見ながらの宴会でした。

翌日は7時30分にホテルを出発。バスガイド嬢によると徳島県には市が4つあるそうな・・・。「徳島市、鳴門市、阿南市、えーと、あと1つは、小松島市ですね。」と言っていました。バスは神戸淡路鳴門自動車道、高松自動車道、徳島自動車道を乗り継ぎ、8時30分には美馬市の脇町に到着しました。平日の朝、まだ観光客がいない静かなうだつの町並みを目にして、私は正直舞い上がりました。宮城県では こんな素晴らしい町並みを見ることができません。でも、脇町観光に割り振られた時間はたった30分。ガイド嬢は300mほど先を指し、「あそこまで行ったら戻って来て下さい」と案内していましたが、それを無視して500m先の脇町劇場オデオン座、そして中心街の県道12号沿線商店街を見て回りました。

脇町観光の次は金比羅参りです。金刀比羅宮へは脇町→(県道12号を西へ走行)→美馬町→(国道438号経由)→琴平のルートで行きました。国道438号を進むにつれて高度が上がり、眼下に吉野川流域の風景が広がって、遠くに貞光の町が見えました。琴平の滞在予定は昼食を含めて2時間弱ですからハードスケジュールです。本宮まで登るのを諦めて途中で引き返し、参道新町商店街JR琴平駅琴電琴平駅神明町商店街→参道の順で町歩きをしました。琴平は町なのに田舎の市より都会的。昔も今もスーパータウンです。参道の食堂で早めの昼食を済ませ、松山へ向って出発。善通寺ICから先は松山自動車道を ひた走るだけなのでガイド嬢も一休み。車内はお昼寝タイムに入って静かになりました。

午後2時に松山のとある施設に到着。そこで研修交流会を済ませて子規堂へ。再びガイド嬢の出番到来です。ガイド嬢によると松山市は人口46万、四国一の大きな都会だそうな・・・。人口にうるさい人がいなかったのはガイド嬢にとって幸いでした。みんなの関心は人口よりも土産品選びにあるようです。個人的には中心商店街の銀天街と大街道を歩きたかったのですが願いは叶わず、バスは子規堂から市役所、県庁、三越前を通過して松山城ロープウェイのりばへ移動。松山は2度目ですが、松山城に登るのは初めてです。天守閣から見渡す市街地の規模は、宇都宮と同じ程度かなと感じました。ロープウエイの下り最終運行が午後5時ということで、早めに下山して道後温泉に向かいました。

その夜の宿は温泉街のどまんなか、あの有名な道後温泉本館の近くでした。平日なのに道後温泉本館の周りは観光客で賑わっていました。こんなふうに賑わっている温泉街を見るのは、3年前に見た草津温泉以来のことです。この道後温泉と宮城県の秋保温泉は年間宿泊客数がほぼ同数ですが、景観は道後の方がずっと大きな温泉場に見えます。秋保は施設が充実した大規模旅館が多く、遊びも買物も旅館内で済ませてしまうので温泉街が育たないようです。秋保って、そんなに大規模旅館が多いのか?と訝る方のために、秋保と道後の旅館規模を比較をしてみます。宿泊収容人数100人以上の旅館を対象に規模別分布を調べると次のようになります。
宿泊収容人数秋保温泉道後温泉
900人以上2軒0軒
700~899人3軒1軒
500~699人1軒1軒
300~499人3軒9軒
100~299人4軒6軒
宿泊した旅館は道後温泉の中でもハイクラスの旅館でしたが、秋保温泉の大規模旅館に慣れてしまった身には少々物足りなさを感じました。私はこれを秋保症候群と呼んでいます。旅館の中に各種施設が整っていないと、どのようにして時間を過ごせば良いのか分からなくなる症候群です。たぶん、仙台周辺には秋保症候群に陥っている人が他にもいると思います。

翌朝は5時に起きて温泉街を散歩しました。道後温泉駅前のからくり時計を眺めていると、「昨夜は明かりがついて綺麗でしたよ」と背後から声をかけられてびっくり。ふりむくと左手にお酒、右手にカップラーメンを持ったホームレスのおじさんが優しい まなざしで こっちを見ています。おじさんは一定の土地にとどまっていられない病気なのだそうです。ひとつ どうです、と酒をすすめられましたが遠慮しました。7年前に隅田川の川べりで博識なホームレス氏にビールを御馳走になりましたが、今度のホームレス氏もなかなかで、「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の・・・・」と茂吉の歌を投げてくるではありませんか。それならこっちも茂吉でと、道後温泉宝厳寺の歌碑に刻まれた「あかあかと一本の道通りたり・・・・」を返しました。ホームレス氏との不思議な時間が流れます。聞けば、望まれずに生まれてきた身とか。でも、そんな優しい目をして身の上話をするのは良くないよ。つい、ほろりとするじゃないか。コンビニで牛乳を買った時の釣銭を、そっとホームレス氏の手に渡しました。

朝食をすませて8時に旅館を出発。石手寺に向かいました。実は、今度の旅行まで石手寺の存在を知りませんでした。想像以上に大きな寺で、朝から観光客やお遍路さんで賑わっていました。ガイド嬢の説明によると、四国八十八ヶ所めぐりの中で一番に参拝客が多い寺だそうです。でも、先を急ぐ旅なので滞在時間は30分だけでした。バスは国道317号を走行して今治へ。そして、しまなみ海道に入ります。来島海峡大橋から今治市街を遠望すると、1棟だけ周囲の建物より突き出た高層ビルが見えました。あれが有名な今治国際ホテルなのだろうか?。絶好の行楽日和のなか、大島、伯方島、大三島と進んで愛媛県とはお別れです。

多々羅大橋を渡って広島県に入りました。しまなみ海道を生口島南ICで下りて一般道へ。生口島の南海岸を回って耕三寺に向かいました。サンセットビーチあたりで、「あれが因島です」とガイド嬢。え!、それはあり得ない。あれは三原市の海岸のはず。でも、それは観光旅行にとってたいした問題ではないのでしょう。バスはちゃんと予定どおり耕三寺に着いたのですから。耕三寺の評価は分かれますね。同行者の話を聞くと、石手寺にはまたいつか来てみたいが耕三寺はもういいだろうという人もいて。瀬戸田の食事処で昼食とお買物です。2泊3日の旅もここが最後の立寄り場所とあって、みんなお土産を買い込んでいました。因島、向島と進んで新尾道大橋にさしかかりました。そこから尾道の美しい風景を眺めることができました。でも不思議です。風景に色がないのです。千光寺山も向島も町並みも、そして青いはずの海までもが水墨画のように白黒です。しかも、反射して光っています。力強いタッチで描かれた水墨画のような尾道。あれは太陽光線のいたずらか、それとも幻影か。新尾道大橋を渡るほんの一瞬ですが、絵になる構図の尾道の美しい風景を見ることができたのは幸いでした。

尾道からは山陽自動車道を走って伊丹空港へ。ハードスケジュールな旅でしたが無事帰宅できました。なお、文中ではバスガイド嬢と書きましたが、本当は“嬢”と言ったら失礼なくらい人生を積み重ねた大ベテランガイドさんでした。ガイドさんは3つ間違いました。徳島県の市数、松山市の人口、三原と因島の取り違えです。でも、それを補って余ある巧みな話術と心配り。素晴らしかったです。あのガイドさんが落書き帳を見ているとは思えませんが、この場を借りて御礼申し上げます。
[74447] 2010年 3月 26日(金)20:44:03千本桜 さん
石巻
[74412] 牛山牛太郎 さん
お久しぶりです。
3月8日には石巻市の市役所が移転を開始し、22日に完了しました。
移転した石巻市役所は雰囲気が良さそうですね。某町の町役場のように、外壁の色が暗くて いかにも役所らしい造りだと訪庁するのも気が重くなります。その点、元デパートの建物を利用した石巻市役所は外観がピンク系、1階がスーパー、6階まで全階エスカレーターあり、映画館だったスペースが議場という変わりものですが、気軽に立寄れそうで好感が持てそうです。ただ、気になったのは駐車場の料金です。大河原駅前ビルの駐車場は60分未満が無料で以降1時間ごとに100円ですが、石巻駅前の市役所駐車場は60分未満が無料で以降30分ごとに150円です。30分ごとに150円は大河原の3倍、仙台市役所の二日町駐車場の1.5倍です。石巻の地価の安さを思えば少し料金が高すぎるように感じます。ちなみに石巻市役所前の路線価は、高知県いの町の中心街から離れた山の際を走る町道と同額の1平米50,000円です。いの町の路線価が高すぎるのか、それとも石巻の路線価が低すぎるのか・・・どっちもみたいですね。そんな訳でまたまた懲りもせずに路線価の話に入ります。路線価は都市の規模を評価したものではないことを承知の上で、都市規模と路線価を照合しながら そのギャップを楽しんでいるわけですから、地価関係者の皆さんは気になさらないでください。

[74322]では釧路・石巻・滝川と徳島県諸都市の路線価を比較しましたが、今回は石巻に焦点を絞ってみます。石巻の中心街を歩いていると岩手県の一関や水沢とそれほど変わらない規模に見えたりしますが、実際の規模は見た目より もっと大きな都市だと思います。そこで、石巻と同じような規模の市を選出し、それらの市との比較を通じて石巻の路線価を考えてみることにします。石巻は都市圏人口221,282人、市域人口161,192人、DID人口97,637人で、市域人口は減少しています。それを踏まえて下記の条件に当てはまる市を類似規模の市とします。
条件1・都市圏人口が15万から25万人(2005年都市雇用圏)
条件2・市域人口が10万から20万人(2009年10月1日推計)
条件3・DID人口が5万から15万人(2005年国勢調査)
条件4・人口増加率がマイナス数値(2005年国勢調査と2009年10月1日推計の市域人口比)
以上の4条件をクリアした市を「類似規模の市」とします。これに該当するのは、鳥取会津若松宇部都城米子大牟田三条石巻伊勢桐生今治酒田岩国鶴岡八代の15市です。ただし、特例として次の市を加えたいと思います。条件1の「都市圏人口」が規定の15万人に満たないものの、条件2、条件3および条件4をクリアした延岡北見新居浜。条件3の「DID人口」が規定の5万人に満たないものの、条件1、条件2および条件4をクリアした飯塚上田の5市です。これで類似規模の市は20市になりました。以上の20市については、最高路線価の位置をセンターにして航空写真をリンクしています。最高路線価は各市とも概ね中心街に位置していますが、伊勢と三条だけは異色です。伊勢の最高路線価は中心街の伊勢市駅周辺ではなく、町並みの どん詰まり伊勢神宮内宮の入口付近。三条の最高路線価は中心街の本町ではなく、新興の燕三条駅前にあります。また、心情的には苫小牧、室蘭、小山、足利、太田、上越、松阪、尾道、山口も類似規模の市とみなしたいのですが、条件に合致しない点があるので外します。では、類似規模20市の都市圏人口(2005年都市雇用圏)、市域人口(2009年10月1日推計)、DID人口(2005年国勢調査)、人口増加率(2005年国勢調査に対する2009年10月1日推計市域人口)、製造品出荷額(2006年)、|卸売販売額(2007年)、小売販売額(2007年)、人口比小売額(小売販売額を市域人口で除した数値)を表形式にまとめてみます。表作成の都合で会津若松を「若松」と表記します。

順位都市圏人口市域人口DID人口人口増加率製造品出荷額卸売販売額小売販売額人口比小売額
(万人)(万人)(万人)(%)(百億円)(百億円)(百億円)(万円)
1位鳥取 25鳥取 20大牟田 10米子 -1.0今治 73北見 38鳥取 22北見 136
2位若松 25宇部 17石巻 10新居浜 -1.0新居浜 69三条 34米子 19米子 129
3位宇部 25今治 17若松 9都城 -1.4上田 59今治 32都城 19若松 127
4位都城 24都城 17延岡 9飯塚 -1.6鳥取 57宇部 29石巻 18伊勢 121
5位米子 24石巻 16北見 9鳥取 -1.7宇部 54鳥取 29上田 18上田 115
6位大牟田 23上田 16鳥取 8伊勢 -2.0石巻 35上田 28宇部 17石巻 115
7位三条 23米子 15桐生 8上田 -2.3伊勢 34米子 25北見 17飯塚 114
8位上田 22岩国 14新居浜 8三条 -2.5若松 33酒田 20若松 16都城 113
9位石巻 22鶴岡 14宇部 8北見 -2.5三条 31都城 20今治 16鳥取 113
10位飯塚 20八代 13米子 7宇部 -2.6岩国 31石巻 20伊勢 16酒田 111
11位伊勢 18伊勢 13都城 6若松 -2.8延岡 29新居浜 17飯塚 15新居浜 102
12位桐生 18飯塚 13今治 6今治 -3.0都城 29岩国 16岩国 14三条 101
13位今治 17延岡 13岩国 6八代 -3.1大牟田 28若松 15鶴岡 14宇部 100
14位酒田 16若松 13八代 6鶴岡 -3.2鶴岡 28伊勢 15酒田 13岩国 99
15位岩国 15北見 13鶴岡 6延岡 -3.3桐生 27飯塚 13新居浜 12鶴岡 99
16位鶴岡 15大牟田 12酒田 6岩国 -3.4米子 26八代 13大牟田 12大牟田 97
17位八代 15新居浜 12伊勢 5石巻 -3.7八代 24延岡 11八代 12今治 95
18位延岡 14桐生 12三条 5酒田 -4.1酒田 23大牟田 10延岡 12八代 91
19位北見 13酒田 11飯塚 5桐生 -4.5飯塚 18鶴岡 8桐生 10延岡 89
20位新居浜 12三条 10上田 4大牟田 -4.8北見 15桐生 5三条 10桐生 84

石巻は都市圏人口9位、市域人口5位、DID人口2位、製造品出荷額6位、卸売販売額10位、小売販売額4位、人口比小売額6位ですから、都市景観の貧弱さとは裏腹に結構高い位置に付けています。しかし、人口増加率は17位と低迷。さらに、1平米当りの最高路線価は鳥取185千円、岩国185千円、伊勢170千円、米子145千円、上田140千円、今治140千円、宇部115千円、新居浜97千円、三条92千円、延岡91千円、都城90千円、飯塚82千円、会津若松81千円、大牟田73千円、桐生69千円、北見67千円、八代62千円、酒田61千円、石巻54千円、鶴岡53千円の順で、石巻は19番目に低落しています。最高路線価が低いのは人口減少が原因かというと、そうでもなさそうです。もっと大きな要因は商業の郊外立地による中心街の空洞化のようです。石巻は商業の郊外立地が著しい都市で、昭和の終わりごろには中心街の橋通りアイトピア立町大通りが寂びれはじめ、郊外の中里地区が活発な商業地になっていたと記憶しています。あれから20年以上を経た今では、中里地区がさらに郊外の蛇田地区にその座を奪われています。現在、商圏人口36万をかかえる宮城県第2の商都石巻の商業活動は、郊外の蛇田地区に完全移転してしまったようです。蛇田地区は、店鋪面積33,000平米を超すイオンSCや11,000平米超のイトーヨーカドーをはじめ、大型のホームセンター、家電店、ドラッグストア、ファッションショップ、さらには銀行、ホテルなども進出して急激な変ぼうを遂げています。その小売店の合計店鋪面積は十日町、大和高田、日南など人口6万人クラスの1市まるごと分の店鋪面積に匹敵し、愛媛県内子町の小売店全部を束ねて4倍してもまだ足りない面積に達しているだろうと推測されます。これほどの店鋪面積が半径わずか500mの区域に集積しているのですから、さぞ地価は熱く跳ね上がるだろうと思うのですが、なぜか路線価の評価額は冷めていて、内子町の国道から1本裏に入った用水堀とおぼしき水路に沿った小道よりも1,000円安い1平米49,000円ですから驚きです。こんなことを書いてると、路線価図の使用目的を間違えてるぞと叱られそうですが、都市規模を念頭において路線価図を眺めると新鮮な驚きが沢山あって面白いものです。
[74322] 2010年 3月 11日(木)07:52:26【1】千本桜 さん
徳島県諸都市vs釧路・石巻・滝川
平成21年分の路線価を見ていて釧路、石巻、滝川3市の最高路線価が低いと感じました。都市の大きさというか、地域の中で占めている都市としての役割の重さに比して、低いと感じるのです。徳島県の諸都市と対比すると、その低さが明確になります。人口集中地区を形成していない藍住町、石井町、美馬市の一等地より、釧路市の一等地の地価が安いなんて・・・。最高路線価(平成21年分)、DID人口(平成17年国勢調査)、行政人口(平成17年国勢調査)、事業所従業者数(平成18年事業所・企業統計)、年間小売販売額(平成19年)を表形式にまとめました。

都市最高路線価DID人口行政人口事業所従業者数年間小売販売額
徳島県 徳島市440,000円189,975人267,833人139,412人30,177,566万円
徳島県 阿南市94,000円5,604人78,002人31,506人6,529,878万円
徳島県 小松島市89,000円19,296人42,115人15,366人3,792,090万円
徳島県 吉野川市86,000円6,547人45,782人15,303人3,381,167万円
徳島県 藍住町82,000円32,286人10,417人3,954,153万円
徳島県 石井町81,000円26,068人8,755人2,370,478万円
徳島県 鳴門市80,000円21,695人63,200人24,291人4,682,792万円
徳島県 三好市80,000円5,410人34,103人13,070人2,163,911万円
徳島県 北島町79,000円11,866人20,703人8,495人2,811,262万円
徳島県 美馬市76,000円34,565人11,472人2,956,786万円
北海道 釧路市66,000円165,175人190,478人84,024人18,721,195万円
徳島県 松茂町65,000円14,926人8,675人1,766,759万円
宮城県 石巻市54,000円97,637人167,324人71,400人18,484,583万円
北海道 滝川市28,000円33,564人45,562人18,748人5,248,671万円

北海道釧路市の最高路線価・北大通五丁目の北大通りは、人口集中地区を形成しない徳島県美馬市の拝原地区を走る県道と同額の1平米66,000円。
宮城県石巻市の最高路線価・鋳銭場の石巻駅前通りは、徳島県阿南市学原町の国道を逸れて奥まった袋小路と同額の1平米54,000円。
北海道滝川市の最高路線価・本町一丁目の国道451号通りは、徳島県美馬市脇町の農地の中を走る市道より1,000円安い1平米28,000円。

書込み訂正。阿南市大字学原を阿南市学原町に訂正しました。
[74255] 2010年 3月 4日(木)00:14:07千本桜 さん
愛媛県内子町VS北海道釧路市
愛媛県内子町(人口18,546)と、その10倍の人口を持つ北海道釧路市(人口184,492)の路線価を単純比較します。人口は2008年10月1日の推計人口。路線価は平成21年分の評価額です。
内子町で最も評価額が高いのはこの場所で、1平方kmあたり79,000円。町外れの農地と家屋が入り混じるこの場所では66,000円です。一方、釧路市で最も評価額が高いのはこの場所で、1平方kmあたり66,000円。内子町の町外れと釧路市の中心街が同額とは・・・。

[74252]小松原ラガー さん
この町の中心駅?
その駅は、北島三郎♪「終着駅は始発駅」ですか?
[74203] 2010年 2月 22日(月)20:56:39【1】千本桜 さん
飫肥駅
[74200] Issie さん
もしかしたら酒谷川を渡って飫肥町の領域に乗り入れていたのかもしれません。ただ,今町も本町(飫肥1~10丁目)も川のそばから市街地が密集していそうで,それならどこに突っ込めたのか。
軽便鉄道は昭和6年、吾田村大字星倉から飫肥町大字本町まで400mほど延伸しています。酒谷川を渡ったのですね。でも、どのようなルートで走っていたのかは不明です。 Issieさんがおっしゃるとおり、市街地が密集しているので鉄道を突っ込む余地がなさそうです。また、Yahoo! の地図や写真を見ても、鉄道跡らしき形状が見つかりません。酒谷川に鉄橋を架けたのなら、両岸にルートの痕跡が残っているはずなのに、その痕跡が無いのが不思議です。ここから先は推測で書きます。推測と言っても全くの当てずっぽうではなく、むかし大河原駅前通りを走っていた軽便鉄道を念頭に置いての推測です。思いますに、吾田村星倉の飫肥駅から飫肥町本町の新駅までは、現在の国道222号と同じルートを走っていたのではないか。道路橋の稲荷下橋を利用して酒谷川を渡り、そのまま本町通りの路上に突っ込んだのではないか。400m延伸ですから、新駅の位置は現在の飫肥一丁目と二丁目を区切る本町通りの道ばたではないか。軽便鉄道ですから、道路の上を走れたのではないか。鉄道ルートの痕跡が無いのは、道路上を走っていたからではないか。そのようなことを考えてみました。間違っていなければ良いのですが、また、はらはらドキドキです。推測することを楽しむお遊びですので、間違っていたら笑って許して。

書込み訂正機能を使って書込みです。
直前に今川焼さんからの書込みがありました。軽便鉄道の新駅は本町通りの少し南になるのですね。間違いまして失礼しました。実際のところ、本当は酒谷川をどのようにして渡ったのだろうと気になっていました。大河原の軽便鉄道は道路橋の尾形橋を使って白石川を渡りましたので、「飫肥 稲荷下橋 軽便鉄道」で検索しましたところ、日南の今昔というサイトにヒットしました。これを見ると、稲荷下橋に沿って鉄橋が架けられていたようです。サイト内の昔と今の写真を見比べて思ったのですが、本町通りは拡幅されていますね。昔の家並は残されているのでしょうか。素朴な疑問です。


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