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[5201] 2002年 11月 22日(金)00:22:20NSK さん
自治体分離は戦時合併、戦後すぐ分離のパターンが多いですね
[5173]でるでるさん
[5185]ヒロオさん
情報どうもありがとうございます。

・宮田村
ここも地図を見ていると駒ヶ根と合併していても不思議でない場所ですね。
ところで、これまで挙がった(分離した)自治体は、戦時中に合併して戦後に分離したケースがほとんどですが、宮田村は1954年合併、1956年分離と、不可解ですね。

・練馬区
おー!これは不意を突かれました!(笑)
練馬区も「分離した自治体」でしたね。
[6729] 2002年 12月 20日(金)20:06:55N-H さん
山口市と小郡町
[6718] uttさん
>まさか、ここも分離したのかな?

ご明察。山口市と小郡町は1944年に一旦合併、戦後1949年に分離しています。
このように戦時中に強制的に(?)合併させられた市町村が戦後分離した
例は他にも結構あります。たとえば、
・川口市と鳩ヶ谷町(市)
・横須賀市と逗子町(市)
などです。横須賀市はこのせいもあって、首都圏にありながら戦時中の人口と現在
の人口がほぼ同じという不思議なことになっています。まあ理由の多くは戦時中は
軍港都市として多くの軍人とその家族が横須賀市民だったことによりますが。

すごいのは埼玉県の志紀町で、戦後志木町、宗岡村、水谷村、内間木村と4分割さ
れました。結局このうち志木町と宗岡村は再合併して現在の志木市へと至るわけ
です。
[25446] 2004年 2月 27日(金)12:39:42烏川碧碧 さん
鳩ヶ谷
[25432] 花の東京都民 さん

私も都民だったことがあります。

南北線沿線にお住まいだったのですね。鳩ヶ谷駅は足立区からすぐですよ。
鳩ヶ谷駅のそばを通って,よくジャスコに行きます。

鳩ヶ谷駅の側を通っていくとなると、グリーシティかダイヤモンドシティでしょうか。どちらも川口市内になりますね。
鳩ヶ谷市は周りを川口市に囲まれていて、視力検査表に喩えるなら僅かに「C」字の欠けている部分で足立区と接するのみです。

戦時中(町制時代)に川口市と合併し、戦後分離しながらも、今また合併協議中であることは[25117](月の輪熊 さん)で触れられているとおりです。戦時体制による強制的な合併と聞いたことがありますが、未確認です。

鳩ヶ谷市は、公団住宅に向かうバス通りが賑わいの中心ですが、現在、鳩ヶ谷駅が設けられた国道沿いの一帯が急速に開発されているように見受けられます。
埼玉高速鉄道線の開業の影響を大きく受けたバス路線が、終電後の深夜バスを増やすなど鉄道を補完しているようにも見え、これも面白いところです。
なお、鳩ヶ谷―赤羽岩淵間は、バスと鉄道(地下)が並行し、競合していますが、以前からあるバスの方が安価です。

新規開業の鉄道と従来のバス路線網の関係も、調べればいろいろ出てくるかもしれませんね。
[28051] 2004年 5月 8日(土)10:44:17林檎侍[花笠カセ鳥] さん
戦時中に合併したが戦後分立した自治体
[28038]夜鳴き寿司屋 さん
 また、かつては戦時中に強制合併された市町村の分離も1948年から2年間だけ住民投票で決着できる法律があったそうで、実際に全国で33件が実施され、そのうち28件の分離が住民投票で決定になったようです。(個々のリストも欲しいところですが、どなたかアップして下さい。お願いします)
私が、10年以上前に、図書館で緑色の厚い本(タイトル失念)を見て調べた内容のうち、アーカイブズ未収録のものを書きます。

秋田県大久保町、飯田川町、豊川村が17/4/1合併→25/7/1豊川村分立→25/10/1飯田川町分立
31/9/30昭和町、豊川村合併により昭和町

秋田県和田町→17/4/1豊島村を編入→25/7/1豊島村を分立→30/3/31和田町、豊島村、岩見三内村合併により河辺町

埼玉県皆野町、三沢村、国神村、日野沢村、大田村、金沢村18/9/8合併→21/12/1分割→
皆野町、国神村、日野沢村、金沢村30/3/1合併→三沢村32/3/31編入

埼玉県騎西町、種足村、高柳村、田ヶ谷村、鴻茎村18/4/1合併で騎西町→21/5/1分割→29/10/1高柳村以外再合併→30/3/20高柳村を編入

埼玉県栗橋町、静村、豊田村19/4/1合併→24/10/1分立→32/4/1再合併

岡山県加茂町、東加茂村、西加茂村17/5/27合併→新加茂町26/1/1分立→加茂町、新加茂町、上加茂村29/4/1合併により加茂町

高知県山南村、徳王子村、富家村、香宗村17/4/1合併大忍村→23/4/1分立→現在の香我美町、野市町

高知県宇佐町、新居村17/4/1合併で新宇佐町→新居村と宇佐町に24/4/1分立→高岡町、宇佐町、新居村
33/4/1合併で高岡町→34/1/1土佐市

ただし、これらは官報を調査していませんので、告示日などはわかりませんのでご了承下さい。
また、全都道府県を調査したものではありません。
ですから、他の実例を持っている方、追加をお願いします。
[35018] 2004年 11月 11日(木)16:05:55N-H さん
幻の大横須賀市
[35011]いっちゃんさん
10 横須賀 202,038 +8,680 +4.5%

戦争を挟んでのこの動き、何も言いますまい。
この表だけ見ますと、横須賀市は終戦を挟んで何事も無かったかのような印象を持ってしまいますが、実は1940年の調査とこの1945年11月の調査との間に激変がありました。
1940年当時の横須賀市は、現在の市域よりもかなり小さいもので、東京湾沿いに限られておりました。
そして、1943年に大合併があったのです。このときに横須賀市に編入されたのは、浦賀、逗子、長井、大楠の各町と北下浦、武山の各村です。そう、つまり現在の横須賀市+逗子市の市域を持つ「大横須賀市」が戦争末期に忽然と出現することとなります。
さて、その合併後の横須賀市の人口なのですが、今尾恵介氏の「地図で今昔」によりますと、1944年時点でなんと45万人ほどだったというのです。
それが1年後にはどうなったかが、いっちゃんさんの表にある数字です。
この急激な減少の理由は、空襲、疎開などの一般市民の離散・死亡もあるでしょうが、むしろ占領軍が1945年9月に出した「軍人・軍属三浦半島立退き命令」がきいているものと思われます。

ところで1944年時点での「大横須賀市」の人口ランキングですが、他の都市の1940年の人口データから類推するに、広島、札幌、仙台、福岡よりもはるかに多く、なんと6大都市に次ぐ人口規模の大都市だったことがうかがわれます。
それがわずか成立より2年で人口激減となり、さらに1950年に逗子を分離し、首都圏の衛星都市としてその後急激に人口を回復するもついに戦時中の人口を上回ることなく現在に至っているというわけです。
そして戦後もずっと今に至るまで横須賀市は米軍基地問題に悩まされます。
ペリー来航以来、ずっと軍港都市の宿命として翻弄され続けた横須賀市、ぜひ健全な発展をしていってほしいものです。
[37842] 2005年 2月 15日(火)15:13:12【1】hmt さん
戦時合併 と その解体
[37837] じゃごたろ さん
ところで、川口市、美野町、騎西町など複数の市町村が戦後に分割されているのが目に付きますが、これは戦前の合併がかなり強引だったことの裏返しということなのでしょうか。

戦時中の合併には、「紀元二千六百年記念事業」と「大東亜戦体制合併」とがあります。
埼玉県の場合、1940年に川口市や大宮市が周辺の町村を合併したのが前者の例です。もちろん皇紀2600年を口実にしていますが、都市の発展や地方団体強化の要請に裏付けられたものでした。
全国的な代表例としては、翌皇紀2601年の天長節に2町6村が合併して成立した神奈川県高座郡相模原町を挙げておきます。

「大東亜戦争」はこの傾向に拍車をかけ、1942年に埼玉県は「町村合併の手引」を配布し、その実施方策として「町村合併に関する懇談事項」を定めました。その要領の第1項を引用します。(原文は旧字体カタカナ)
一 大東亜戦争下国内必勝体制を整備する為自治体たる弱小町村の合併は刻下の急務なること
戦時合併は全国的な機運で、帝国議会にも市制・町村制の一部を改正する法律案が上程され審議されたようです。

この結果、埼玉県では1943/2/1~1944/4/1の1年余の間に 51町村が再編成され、18町村に生まれ変わりました。
一例を挙げると、北足立郡志木町は同郡と入間郡にわたる3村と郡越えの合併して「志紀町」になりました。紀元2600年から4年も経っていますが、合併日に紀元節を選び、町名に「紀」の字を使っているあたり、まだ2600年気分です。
#そう言えば、ミレニアムという言葉は、すっかり聞かなくなりました。キリバス共和国の「ミレニアム島」は健在でしょうね。

戦時合併は軍需工場の設置・拡張等による要請もあったと考えられますが、敗戦により事情が一変しました。
そこで、例えば 編入された純農村地区が元の村に戻りたいと考えても、地方議会の少数派で議決を得ることができない。
こうした事情に配慮して制定されたのが地方自治法附則第2条(1948)で、法律施行から2年以内に限り関係住民の直接請求を認め、投票を行なうという臨時措置でした。「地方制度資料」によると、本件に該当する戦時(1937.7.7~1945.9.2)合併は、全国で合併合体208(関係町村661)、編入合併188(関係町村341)とされています。

神奈川県相模原町からは1948年に座間町が分離しましたが、「軍都・相模原」で形成された枠組みは戦後も解体せずに残りました。

埼玉県に戻ると、前記の「志紀町」も、1948年に元の志木町ほか3村に戻りました。合併前には入間郡だった宗岡村と水谷村は、今度は北足立郡の村として再生したわけです。後日談ですが、水谷村は1956年の合併で富士見村として入間郡に戻っています。遡ると、水谷村になる前の針ヶ谷村は新羅(新座)郡だった時代もあるらしいから、転々と郡を移り変わっているわけです。

北埼玉郡騎西町と秩父郡美野町は、早くも1946年に解体していますから、臨時措置法より前ですね。志紀町解体も同様かもしれません。1949年には北葛飾郡栗橋町が解体。
北足立郡鳩ヶ谷町が川口市から分離した1950年で戦時合併の後始末は終りました。
ところが、1954年騎西町、1955年皆野町、1957年栗橋町と再結合しているのですから、結果的にはパラパラ地図を徒に賑わせただけ。
[37958] 2005年 2月 20日(日)15:58:20hmt さん
強制合併時代の悪夢
[37931]白桃 さん
逗子市のHPをみると、
1943.4.1 横須賀市に強制合併
1950.7.1 住民の総意により、横須賀市から分離独立
とあります。

市当局が「強制合併」という きつい言葉を使っているのに注目します。
その時代、1947年11月に、米軍が接収して弾薬庫として使用していた池子で、火薬600tの大爆発があり、山林100haが焼失する大事故がありました。

逗子市制50年こぼればなし(5)にある“戦時中に強制合併させられた横須賀市から苦難の独立”という言葉は、分離独立への道も平坦ではなかったことを窺わせます。
1950年6月に施行された「旧軍港市転換法」と関係がありそう。

ところで、[5166]NSKさんの疑問
葉山町は横須賀市に合併されなかったのでしょうか?
御用邸があったことが、軍港施設除けに役立ち、ひいては強制合併も免れるという結果をもたらしたのでしょうか。
たしかに、いくら軍事優先の時代でも、御用邸の隣に弾薬庫は作りにくい。
[40507] 2005年 5月 2日(月)12:56:12たもっち さん
RE:まぼろ市?
暦通りに出勤しております。しかし、全然やる気が出ません(笑)。

[40489] 紅葉橋瑤知朗 さん
「分離独立しようとして果たせなかった市町村」
舞鶴市が、戦時中に舞鶴市と東舞鶴市とが合併してできた市だというのは、ここの方々には有名な話だと思いますが、戦後に分離を求める動きがあったそうです。うろ覚えできちんとしたことが書けなくて恐縮ですが、確か、「西」(旧・舞鶴市)のほうが分離したがったと聞いたように思います。
ご存知のとおり、元々舞鶴と呼ばれていたのは「西」の城下町でした。それに対し、「東」はかつては一介の漁村に過ぎなかったのが、海軍の鎮守府が置かれたことで急速に発展してきた、成り上がりの町でした。戦時中、その軍事的重要拠点の体質強化のために、半ば強制的に合併させられたことに対する不満があったということですが、結果的には分離は叶わず、東西が合わさったままの形で今に至っています。

舞鶴は実は僕の妻の実家がある町です。先週末にも行ってきたところです。今の舞鶴人の中にも東と西とでライバル意識があったりするのか、また妻に聞いてみます(笑)。ちなみに、「東」のまた東の外れに実家があります。
そんなわけで、よそものではありますが何十回と訪れた者の感想としては、確かに間にちょっとした山がはさまっていて、市街地としては連続していないものの、東と西はひとつの街としてまとまっているように思います。ちょっとご飯を食べに、「西」まで行こうか、ということもよくありますし。妻の実家から東に向かうと福井県も近いのですが、そちらへ向かうよりも抵抗は少ないような気がします。
[45821] 2005年 10月 18日(火)13:56:17eiji_t さん
ひたちなか市の水戸工場の由来と「軍需合併」
[45093]eiji_t
水戸工場の名の由来だけは判りましたが、戦争に絡んでいて少々重いので別に…
と予告して、延び延びになっていましたが、やっと纏まりました。

水戸工場の由来には[45417]eiji_t で述べた「多賀工場」と「多賀町」との関係と密接な繋がりがあります。
違いは、その期間にあります。多賀町の場合は昭和10年に地元に打診があり地元も工場の誘致と新町合併に動き、反対派をなだめ工場の新設と新町の誕生までまで3年以上掛けています。

昭和十年代初め軍需産業に傾斜した日立製作所は手狭の上に電力不足の安来工場(兵器用特殊鋼の生産工場)の分工場用地を探します。始めは工場用地を多賀工場の隣(桜川)に求めますが、地元の反対で断念します。
そこで現在のひたちなか市の一部、当時の勝田村,川田村,中野村に跨る広大な農地に目を付けます。
ここで方針の転換があります。分工場ではなく独立した工場として製品を軍に納入する陸軍管理工場として計画し直されます。昭和14年8月のことでした。
またこの地域一帯を水戸市を中心に軍需工場地帯として水戸市に合併する構想が生まれそれに沿って新工場の名も「水戸工場」と決定します。これが水戸工場の名の由来です。
事態が切迫していた事もあり、日立製作所は昭和14年9月工場用地取得に乗出します。降って湧いた農地買収に地元は反対しますが、強制収用をちらつかせ国策の名の下に強引に工場用地を低価格で買収します。12月には百万坪に及ぶ用地買収を完了します。水戸工場完成は翌15年9月です。

平行して日立製作所は県に働きかけ合併を画策します。新工場が3村に跨っていてはその操業に支障をきたす為です。水戸市も将来の編入を視野に入れて合併を促進します。県主動でで進められた3村の合併は昭和15年4月に成ります。新町名は3村が提案した合成名「中田町」ではなく、当時の軍事色を反映して「勝った!」に繋がる「勝田町」に決定します。
勝田町の水戸市への編入の話は翌年には何故か萎み、戦後も周辺の村と合併し勝田市となった後那珂湊市と合併しひたちなか市となる道を選びます。

[37842]hmt さん
戦時(1937.7.7~1945.9.2)合併は、全国で合併合体208(関係町村661)、編入合併188(関係町村341)とされています。
勝田町もこの一例でしょう。勝田町のような例を私は勝手に「軍需合併」と名付けています。
全国には似た例が沢山あることでしょう。
[52518] 2006年 7月 21日(金)18:30:33hmt さん
北本宿・南元宿
[52478] hmt
歴史の浅い地名(「北本宿」に遡っても比較的新しい)

北本市の直接の前身である北足立郡「北本宿村」は、皇紀2603年(1943)の紀元節に戦時合併[37842]で生まれました。
既報のように、その前年6月に埼玉県振興課は「町村合併の手引」を配布。
大東亜戦争下国内必勝体制を整備する為自治体たる弱小町村の合併は刻下の急務なること
というわけで、「石戸村・中丸村両村新体制確立期成会」の会議が1942年12月に開かれ、
新村名は 現実的に考え 駅名から 北本宿村と決定
されました。

村名の由来とされる高崎線の「北本宿駅」は、この戦時合併の15年前に開業しました。
高崎線自体は、日本鉄道が1883年(明治16年)に上野-熊谷間を開業したという、国内有数の古い歴史を持つ鉄道ですが、半世紀近くもの間、約8kmもある桶川-鴻巣間に駅がなかったのです。
大正になってから何回かの中間駅設置の請願が出され、関東大震災での列車事故後もまた請願。しかし地元の負担や駅の位置をめぐる南北の争奪戦もあり、「北本宿駅」が実現した時には既に昭和になっていました(1928年開業)。

この場所にあった信号場の名は「本宿」だったようですが、駅になった時「北本宿」になったようです。
大幹線の高崎線でも、複線化はようやくこの昭和初期に進行中でした。
ついでに言うと、サンフランシスコ講和条約が発効し、「OCCUPIED JAPAN」の時代が終わった1952年4月28日の4週間前、4月1日のダイヤ改正から高崎線は電化し、電気機関車牽引になりました。
同じダイヤ改正で、「Yankee Limited」が日本人も乗れる「特殊列車」に生まれ変わったことは、[51787]で書きました。

「鉄」のことはさておき、日本が独立を回復した翌年の1953年になると町村合併促進法が成立。
翌1954年に埼玉県が作成した合併議案によると、北本宿付近は、鴻巣中心の7町村の合併案です。しかし、北本宿村はこの案に乗り気でなく、結局昭和の大合併を免れて、現状維持のまま、1959年の町制移行[52478] を迎えます。
既に単独の村でも当時の適正規模になっていたこと、国土建設計画により、都心から50km以内は将来東京都に編入される可能性があり、都心から遠い側の鴻巣との合併は不利という判断などがあったとされます。

戦時中に誕生した「北本宿村」は、直接には鉄道駅名由来の村名とされていますが、その駅名が付いたのは、中丸村に「北本宿」という地名があったためです。
でも、この「北本宿」も、明治12年(1879)からの10年間だけ存在した「北本宿村」までしか遡れないのですね。

この明治12年は、郡区町村編成法によって埼玉県に「北足立郡」が新設された年です。
この郡に所属した村の中に、「本宿村」と「元宿村」があり、まぎらわしい名を回避するために、「北本宿村」と「南元宿村」とに改称されたというわけです。
北本の地名の起こりには、“本宿村という村名が2カ所(現在の北本市とさいたま市)あり”と記されていますが、南の村の名に使われた字は、正式には「元宿」のようです。
最近の「芦」の話題[52145]でも記したように、昔は表記に「おおらか」であり、南の村も慣用的には「本宿」と書かれた場合があるのでしょうが。

ついでに、南北の本宿と同様な「郡内の同名回避」は、同じ時期に各地で行なわれました。
今尾恵介さんの「日本地図のたのしみ」 には、“多摩ニュータウンに南大沢があって北大沢がない理由”と題して、同じ頃に新設された(当時の)神奈川県南多摩郡における、「離れたペア村名」の例がいくつか示されています。

角川の地名大辞典によると、戦国期にあった宿場が慶長年間に鴻巣に移転して本鴻巣村になり、元禄年間に「本宿村」と改称されたとか。
どうやら、「北本宿」という地名の起源を探ると、明治になって付けられた「北」よりも、400年以上前を伝える「宿」という字を使う方が、歴史を反映する地名であるように思われます。しかし、昭和の現実としては「北本」という略称が親しまれており、これが1959年の「北本町」につながったようです。
駅名も、1961年には「北本」になってしまいました。

1889年の市制町村制によって、北は中丸村・南は土合村になって共に消滅した2つの「もとじゅく」村。
「北本宿」は鉄道の駅名になったおかげで、54年後に村名として復活し、変形しながらも「北本市」にまで出世?しました。

かたや「南元宿村」などが「十一村合併」をして、1889年に付けられた村名は「土合村」。
十と一で「土」。「合併数地名」コレクション に収録されています。
南元宿という地名は、合併や住居表示の嵐にも耐えて、まだ健在 でした。

yamadaさんの「合併数地名」コレクションに言及したついでに、千葉県から追加データを1件。

合併数:11 名称:土睦村 所在地:千葉県長生郡 現在の市区町村:睦沢町
(参考までに数えてみました。下之郷村,上之郷村,大谷木村,北山田村,北山田寺崎新田,上市場村,寺崎村,岩井村,川島村,小滝村,河須ヶ谷村)
[53580] 2006年 8月 23日(水)21:17:40むじながいり さん
市町村変遷には不思議がいっぱい
[53511] 千本桜 さん
旧伊達町の合併相手として、桑折町は浮上しなかったのでしょうか。
少なくとも伊達町史の該当部には桑折町のこの字も出てませんでした。

ふと思い立って伊達町史の資料編も見てきました。載っていた合併伏黒村建設計画では、役場は確かに伏黒村役場に置くことになっているのですが、「なるべく速やかに新築するものとする」とあり、伏黒村役場に置かれたのは暫定的なものであるようにも読めます。町制後の名称については触れられていませんが、役場の経緯と同じと考え方をするならば、やはりこちらも暫定的なもので、伊達町になることは合併前から決まっていたのかもしれません。


ところで、気になった変更を2件ほど。
熊本県に畫圖(画図)村という村がありました。この村は1932/12/15に画津村に改称し、同日熊本市に編入されるという手続きをとったのでした。なぜ編入され消滅するのに改称する必要があったのでしょうか。現在の熊本市を見てみれば、画図町という改称前の名前が残っているようですが。

同じく熊本県に高橋町という町がありました。1944/02/11に池上村、城山村と合併し三和町となりました。典型的な戦時合併です。1950/05/01に三和町は分割し3自治体に戻る訳ですが、旧高橋町はなぜか高橋村として分立したのです。長野県宮田村とも似たケースです。高橋町は市制・町村制施行時から町だったわけですが、分立の段階で高橋村は熊本県でもっとも小さい自治体となってしまっていたのでした。結局単独ではやっていけないということで1953年に3村揃って熊本市に編入されています。
[55648] 2006年 12月 23日(土)16:28:10hmt さん
埼玉県 分立で生まれた鳩ヶ谷町 と 境界変更・町制・名称変更で生まれた西武町
市区町村の「区域の変化」の1種である「境界変更」は、その数の多さだけでなく、河川改修による境界手直し[39514]など軽微な内容のものまで含まれることが障碍となって、「市区町村変遷情報」に入れてもらえません。
「境界変更」を収録するとしたら何らかの基準が必要になるであろうことはよく理解できます。

そんなことを考えながら、彩の国統計情報館の中にある埼玉県の「市町村の廃置分合等の沿革」 という資料を見たら、
人口に関係のない境界変更は収録を省略した。
となっています。人の居住地域に限る、これも一つの基準ですね。

この資料には、戦時合併[37842]させられた北埼玉郡騎西町、秩父郡美野町(現・皆野町)、北足立郡志紀町(現・志木市他)、北葛飾郡栗橋町の解体再置が一段落した後の1950年頃から2002年までが収録されています。
1950年からの50年間を集計してみると、次のような件数でした。
合体 69件。  編入 38件。  分立 1件。

最後の「分立」は、戦時合併の後始末の最後、1940年(紀元2600年)に川口市に編入された鳩ヶ谷町の復活です。

昭和25年10月11日 埼玉県告示第397号には
地方自治法の一部を改正する法律(昭和25年法律第143号)附則第6項の規定により、川口市の区域を分け、旧鳩ヶ谷の区域をもって、北足立郡鳩ヶ谷町を置き、昭和25年11月1日から施行する。
とあり、「分立」「分割」いずれの言葉も使っていませんが、これは「分立」なんでしょうね。

もう一つ、この告示では “旧鳩ヶ谷の区域” とあります。1940年に編入する前の「旧鳩ヶ谷町」の区域ではなく、分離前まで「川口市鳩ヶ谷」だった区域という意味でしょうか?

なお、この資料の中には、「分離」と記されたものが3件ありましたが、うち1件は鳩ヶ谷町の「分立」の重複記載であり、他の2件も「境界変更」との重複記載なので無視します。

話題を区域変更の種別に戻すと、合体69件、編入38件、分立1件に対して、境界変更は65件。
なるほど、集落のある地域だけに限っても、かなりの件数がありますね。

[55583] 88 さん
「大字の全区域が移動」=「藩政村単位での移動」
65件の境界変更の中から、大字の全区域が移動したと思われるものを拾い出すと12件くらいでしょうか。

大字の全区域というか、もっと大きな明治の行政村が移動した「境界変更」の1例として、元加治村(西武町)を挙げておきます。

入間郡元加治村は、戦時合併で飯能町に編入されていましたが、1954年4月1日に市制後間もない飯能市から分離して、東金子村との合併により西武町になりました。

この合併に際しては法人格の消滅・生成はありませんから、境界変更のはずですが、同時に町制を施行し、名称も変更したので、「市区町村変遷情報」には収録されています
例により「経過等」の部分に、“同時に飯能市から旧元加治村の区域が編入された”旨の境界変更情報を記載しておかれたらよいと思います。

# 武蔵町発足よりも前ですから、「西武町」の名は「武蔵町の西」ではなく、「武蔵国の西部」に由来するのでしょうが、企業の名が有名なだけに、それに押された印象を受けます。

2年半後の1956年9月30日(昭和大合併の最終日[55364])、西武町の南部にある旧東金子村の地区は、北部と分離して、豊岡町などと共に新設合併による武蔵町発足に加わり、結局のところ西武町は、旧元加治村の区域だけになりました。

最終的には、武蔵町が入間市になった後、1967年4月1日に西武町も編入されました。
このような複雑な経過による誕生・段階的消滅の故か、前記資料(埼玉県の[「市町村の廃置分合等の沿革」)からは、西武町ができた沿革が抜け落ちています。
[55656] 2006年 12月 24日(日)13:46:33【1】hmt さん
旧町村民に 戦時合併からの離脱自決権 を認めた臨時措置
[55654] 88 さん
埼玉県における「分立」「分割」「境界変更」の事例に関する件、早速の回答をいただき、ありがとうございます。

鳩ヶ谷町
総理府告示は、埼玉県知事からの届出を告示しているのに、準拠法も区域も埼玉県告示 から変わっているのですね。
県告示(1950/10/11)の段階では誤っていたものを、地方自治庁に指摘され、届出を修正したのでしょうか。
それとも県告示と国への届出とは「別の手続き」であり、準拠法も区域も異なったままで正しいのか?
“○○の区域を分け、その区域をもつて△△を置く”を短縮した言葉が「分立」であると理解します。

さて、引用していただいた昭和23年改正法の附則第二條。
簡単に翻訳すると、
「戦前・戦中にいやいや合併したところは、今なら簡単な手続きでもとの市町村に戻れます」ということでしょう。
とありますが、これは誤解ではないでしょうか。

この規定の実体は、第1項に記されている通りです。
その変更に係る区域の住民は、(中略)從前の市町村の区域でその市町村を置き、又は(中略)境界変更をすることができる。

市町村の廃置分合、境界変更をする主体は 住民 であるということが、「住民」を主語とする文章によって明確に示されています。
「民主主義」という言葉が高らかに謳われた時代です。
あくまでも、手続きを簡単にした規定ではなく、合併した自治体内で少数派になった旧町村民の自決権を認めた臨時措置であることを御認識願います。

手続き上のポイントは、関係する旧村民による直接請求(第2項)と投票(第3項)です。
当該区域が從前属していた市町村の選挙人の投票

[37842]では、このあたりの事情を次のように記しています。
例えば 編入された純農村地区が元の村に戻りたいと考えても、地方議会の少数派で議決を得ることができない。
こうした事情に配慮して制定されたのが地方自治法附則第2条(1948)で、法律施行から2年以内に限り関係住民の直接請求を認め、投票を行なうという臨時措置でした。

西武町 市区町村変遷情報の補足 了解
志紀町 分離した4町村を「分立」から「分割」に修正 了解

埼玉県告示の表現を確認することは可能でしょうか?

浦和に行く機会が少ないもので…。近場でどの程度のことがわかるかな?
[55681] 2006年 12月 25日(月)23:15:4788 さん
三たび、「分立」 or 「分割」、「下夕村」 or 「下タ村」
↑は「夕」と「タ」を使い分けているのですが、判別できますか? 前回の「日」 or 「曰」よりは見やすそう・・・・。

引用する文献を、その都度正確に表記するのも見苦しく字数ばかりかかるので、ここで一度まとめます。今後、基本的にはこの記事番号を引用します。(時々はフルに文献名を書きます。)
略称正式名称等
「総覧」「全訂 全国市町村名変遷総覧」(1991年8月、自治省行政局振興課監修、日本加除出版)
「幕末以降総覧」「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版(1,2)(別冊)」
 (1,2)(別冊)(2000年9月、西川治監修、太田孝編著、東洋書林)
「辞典」「市町村名変遷辞典 三訂版」(2003年8月(3版)、地名情報資料室編、楠原佑介責任編集、東京堂出版)
「消えた辞典」「消えた市町村名辞典」(2000年9月、地名情報資料室編、楠原佑介責任編集、東京堂出版)
「便覧」「旧市町村名便覧」(1999年4月、日本加除出版株式会社出版部編、日本加除出版)

その1 埼玉県の分立・分割について
[55656] hmt さん
旧町村民に 戦時合併からの離脱自決権 を認めた臨時措置
鳩ヶ谷町
総理府告示は、埼玉県知事からの届出を告示しているのに、準拠法も区域も埼玉県告示 から変わっているのですね。
県告示(1950/10/11)の段階では誤っていたものを、地方自治庁に指摘され、届出を修正したのでしょうか。
それとも県告示と国への届出とは「別の手続き」であり、準拠法も区域も異なったままで正しいのか?
埼玉県告示では
地方自治法の一部を改正する法律(昭和25年法律第143号)附則第6項の規定により
となっていましたが、
――――――――――――――――――――――――――――――
地方自治法の一部を改正する法律(昭和二十五年五月四日法律第百四十三号)
附則
6 第七十六條第四項中「その総数の三分の一の数に」の下に、「、第七十四條の二乃至第七十四條の四の規定は、同項の規定による請求者の署名に」を加える。
(項番号がないので引用者が補記、また、条はなく項のみの法律です。)
――――――――――――――――――――――――――――――
第74条の2~第74条の4は、署名の有効数等の規定を同じ法律で追加したものですから、単に署名の数だけの条文で埼玉県では誤って告示してしまい、総理府告示で補正したものと思われます。
さて、引用していただいた昭和23年改正法の附則第二條。
>簡単に翻訳すると、
>「戦前・戦中にいやいや合併したところは、今なら簡単な手続きでもとの市町村に戻れます」ということでしょう。
  (↑この段、88分の再引用(引用者注))
とありますが、これは誤解ではないでしょうか。
私の文章表現不足で申し訳ありません。
「拡大後の大きな自治体の住民」ではなく、附則第2条第1項で『その変更に係る区域の住民』とあるように、「元の自治体の住民」の意思でということを「簡単な手続き」と言う表現で端折りました。
市町村の廃置分合、境界変更をする主体は 住民 であるということが、「住民」を主語とする文章によって明確に示されています。
「民主主義」という言葉が高らかに謳われた時代です。
あくまでも、手続きを簡単にした規定ではなく、合併した自治体内で少数派になった旧町村民の自決権を認めた臨時措置であることを御認識願います。
「住民」と言う言葉ですが、旧自治体も、その長も議会も存在しないのですから、「住民」という言葉しかないのでしょう。もっとも、本則であれば「新自治体全体での意思」というのが成立したばかりの地方自治法の本旨でしょう。しかし、強制合併とも言われる経緯が経緯だけに、戦前・戦中の市町村の旧来への復帰を認めた経過措置的な特例でしょう(企業も従前のように分割された時期ですし)。なお、
――――――――――――――――――――――――――――――
附則
第二條
5 第三項の投票において有効投票の過半数の同意があつたときは、委員会の報告に基き、都道府縣知事は、当該都道府縣の議会の議決を経て市町村の廃置分合又は境界変更を定め、内閣総理大臣に届け出なければならない。
――――――――――――――――――――――――――――――
とあるように、決定権は都道府県知事にあるところは、従来どおりの「市制町村制」時代を踏襲したのでしょうか? 地方自治法第7条では総理府告示(当時)で効力が発生するのですから。
浦和に行く機会が少ないもので…。近場でどの程度のことがわかるかな?
わかる範囲で、また何かの折で結構です。私もまだまだ整理が追いついていませんので・・・。

その2 北海道の分立・分割について
[55667] 紅葉橋律乃介 さん
調査費30円なり
早速ありがとうございました(経費までかけていただいて・・・)。
で、私の書き方が不十分だったのですが、官報情報検索サービスで、戦後(正確には1947(S22)年5月3日以降)の総理府等の告示は私で調査可能です。申し訳ありません。これ以前のものは、官報の紙(マイクロフィルム)や、各都道府県告示を調べるしかない、ということです。
 分かりやすい例と言うことで、昭和23年4月1日付の「佐呂間町・若佐村」(分割設定)と、昭和27年8月1日付の「安平村・追分村」(分立)を北海道告示を抜き出してみましょう。
これらは、官報情報検索サービスでは、次のとおりです。
――――――――――――――――――――――――――――――
● 総理廳告示 第八十号
村の廃置分合
 地方自治法第七條第一項の規定により、昭和二十三年四月一日から、北海道常呂郡佐呂間村の一部を分けて、あらたに若佐村を置き、その境界を次の通りとする旨、北海道知事から届出があつた。
昭和二十三年五月五日
内閣総理大臣 芦田  均
(「次の通り」は引用者略)
● 総理府告示 第二百十号
   村の廃置分合
 地方自治法第七條第一項の規定により、昭和二十七年八月一日から、北海道勇払郡安平村のうち次の区域を分け、その区域をもつて追分村を置く旨、北海道知事から届出があつた。
 昭和二十七年九月十一日
内閣総理大臣 吉田  茂
(「次の区域」は引用者略)
――――――――――――――――――――――――――――――
このとおり、総理庁・総理府告示では、両方とも明らかに「分立」です。「分割」ではありません。北海道告示とは表現が異なります。
 ところが、明らかな違いがあります。
 佐呂間町の町長は、まず昭和22年4月の統一地方選で選出されたのち、改めて23年4月1日より4年間の任期を務めています。つまり、一旦3月31日で「佐呂間町」はリセットされ、若佐村と分かれたあと、改めて設置されたものと解釈できます(設置選挙は? という疑問がありますが)。
 一方で『早来町史』(安平村は分村後「早来」へ改称)を読むと、早来村長の任期は分村後も途切れることなく続いています。つまり、早来から「追分村」が出て行った、と解釈できます。
町村長の任期との整合では、安平村の方は一致するのですが、佐呂間村は一致しません。佐呂間村長が辞職か何かして、再び選挙を行った、と言う理屈は考えられます。
また、[55654] 拙稿でも書いたように、「辞典」を確認すると(これも「今頃」なのですが)、「若佐村」「追分村」はやはり分立で、総理庁・総理府告示と一致しました。よって、若佐村追分村とも「分立」で処理させていただきます。
でも、やはり気になるのは、「市制町村制」時代の「分立」 or 「分割」です。しかも、北海道は一級町村制・二級町村制ですから、他の地域とはさらに異なるルールかも。一番間違いないのはやはり「北海道告示」でしょう。
「総覧」には、「分村により一級町村制を施行した村名」なる記載があります。例えばT8(1919).4.1に紋別郡上湧別村が上湧別村と遠軽村に分かれた際に、遠軽村がこの「分村により一級町村制を施行した村名」として挙げられています。つまり、上湧別村は『当然のこととして』一級町村制です。これも、「総覧」の本文では「分割設定」の表現なのですが、やはり「『分割』となっているが実は『分立』」と解釈するのが正答かもしれません。「辞典」も、「分割」でなく「分立」でした。このため、遠軽村は分立としてとりあえず変更して処理しました。

「分立」「分割」に限っては、資料の優先順位を、
(1)総理府等の告示
(2)「辞典」
(3)「総覧」
にしようかと思います(従来は、「辞典」よりも「総覧」を一次資料にし、適宜総理府等の告示で補足していました。一致しなければもちろん告示優先。)。「市制町村制」時代は市以外は国の告示ではなく、都道府県告示しかないということですので([55276] Issieさん)、(1)を都道府県告示と読み替えます。
なお、これは当面の話であり、もちろん有力な資料があればそれに従います(やはり特に戦前の都道府県告示を確認したい)。また、この優先順位は「分立」「分割」限定としておきます(「辞典」は、「分立」「分割」に関しては法人格の継続をよく抑えた表現のようですので)。
今後、当面、「辞典」を確認の上、「辞典」に沿って順次当面処理しようと思います。

その3 「下夕村」 or 「下タ村」について
[55663]白桃 さん
富山県上新川郡に標記の村があり、「シタムラ」と読んでいたようですが、そうなると、「タ」は夕方の「夕」ではなく、カタカナの「タ」だったのですかね?
すでに皆様からのレスもありますが、私の手持ち資料5点(冒頭のもの)及び官報情報検索サービスの告示を再確認しました。すべて、明白に「夕(ゆう)」ではなく「タ(た)」でした。よって、修正しました。ありがとうございました。

毎度ながら、長文で失礼しました。
[56459] 2007年 1月 27日(土)18:13:40【1】hmt さん
戦時合併した埼玉県騎西町と美野町の解体、旧町村再置手続き
[55654] 88 さん
騎西町と美野町は「分割」
これも、[55646]拙稿とおなじですが、「総覧」をそのままの表現です(ともに「分割設定」でした)。
hmtさんにお願いなのですが、これらの埼玉県告示の表現を確認することは可能でしょうか?

浦和に行く機会があり、宿題を解いてきました。
結論から言うと、戦時(1943年)の強制合併で成立した騎西町と美野町を戦後(1946年)に解体し、旧町村を再置した手続きは、市町村変遷情報・埼玉県 に記載されている「分割」で間違いないようです。

以下、告示文の引用。数字、漢字表記は修正を加えてあります。

埼玉県告示第163号(埼玉県報昭和21年4月30日号外)
町村制第3条第1項の規定により昭和21年5月1日から北埼玉郡騎西町を廃止しその区域を分ちて左の通りあらたに騎西町、種足村、鴻茎村、高柳村及び田ヶ谷村を設置する。
昭和21年4月30日   埼玉県知事西村実造

この後に、1町4村の区域を大字により示した部分が続くが、記載を省略します。種足村には「タナダレ」と振り仮名。
これに続く告示164号は町有財産処分、告示165号は役場の位置です。
この分割に関係する告示としては、「387号 騎西町分割町村人口の件」というのもありました。

埼玉県告示第507号(埼玉県報昭和21年12月1日号外)
町村制第3条第1項の規定により昭和21年12月1日から秩父郡美野町を廃止しその区域を分けて左の通りあらたに皆野町、三沢村、大田村、国神村、日野沢村及び金沢村を設置する。
昭和21年12月1日   埼玉県知事西村実造

この後に続く1町5村の区域を大字により示した部分の省略、続番告示の内容については同様です。

「市町村名変遷辞典」を見ると、騎西町は「分立」、美野町は「分割」となっています。この「辞典」は、「分立」「分割」に関しては法人格の継続するか否かで明確に表記を区別していますから信用してもいいかもしれません。
とありましたが、騎西町も「分割」でしたね。

ついでに「境界変更」の件。
昭和21年の「埼玉県報」をパラパラめくっていたら、告示461号に、「北埼玉郡共和村及び笠原村の入会耕地に対して耕地整理施行した結果、その区画を基礎として村境界を変更する」というのもありました。
たまたま「県報」の中から目に付いた「境界変更」の一例ですが、旧制度時代になると、拾い出しの作業も面倒となり、この種のものを市町村変更情報に網羅的に収録することは、事実上無理であると思われます。

官報情報検索サービスが利用できる現行制度時代を含めて、「境界変更」については、「境界変更告示に基づいて掲載する」という呪縛から、一旦離れてみるのがよいのではないかと思います。
[56460] Hiro(&TOKO) さんによると、境界変更告示は、昭和23年以降でも約5,550件と膨大な件数であり、軽微か否かを判断して選別収録することについては、むしろ「告示から追えるものをすべて順番に掲載」した方が作業効率上よいという指摘もなされております。

観点を「土地」でなく、市町村の「人口」関連に限定する道もあるし、「落書き帳で取り上げられた話題関連」というような、自由な収録基準を使っても差し支えないと思います。
もちろん88さんが既に準備している「総覧」を元にした「境界変更(大)」[55730]という基準を使うのも良いと思いますよ。
「都道府県市区町村」というサイトの中にあって、どんなものを収録すれば役に立つのか、自由に考えてみましょう。
[56491] 2007年 1月 28日(日)14:22:08【3】hmt さん
長瀞・寄居付近
[56459]で戦時合併した埼玉県美野町の解体手続きに触れましたが、この美野町が成立した1943年9月8日は、先に話題になった 桜沢村の寄居町への編入 と同日です。
つまり、荒川が秩父山地から関東平野へと流れ出るあたりで、この日に3件の戦時合併があったのです。

秩父郡皆野町、三沢村、国神村、金沢村、日野沢村、大田村、それに 白鳥村下田野 が合体して美野町成立。
秩父郡樋口村と白鳥村の大字岩田・大字井戸・大字風布の一部分が 野上町 に編入
大里郡桜沢村と秩父郡白鳥村大字金尾・大字風布の大部分が 大里郡寄居町 に編入

上記のように3分割されて消滅した白鳥村。名前の由来は、国指定名称「長瀞」の「白鳥島」 ですね。
見事な結晶片岩の露頭で有名な長瀞の右岸、観光客の視線で言うと「対岸」の山塊が白鳥村で、荒川はその山麓を北に回って寄居に出ます。

この白鳥村は、東斜面が 寄居町に、尾根を隔てた長瀞側の西斜面が 野上町(現・長瀞町)に、そして釜伏山の南西が 上流側に隣接する皆野町を中心として新設された美野町へと3分割されたわけです。
もともと山で隔てられた地形ですから、これが自然の成り行きと言えるでしょう。白鳥村の金尾・風布からも分村編入の陳情書が出ていました。言い換えれば、明治22年の町村制に際して作られた白鳥村は、かなり不自然な存在だったということでしょう。

桜沢村の件は[56265] Issie さんにある通りで、4度目の合併話でようやく実現しました。

最初、明治の町村制施行にあたっては、郡長の寄居合併試案に対して、地形・民情の相違が認められて独立で村制(1889年、当時は榛沢郡)。

2度目、日露戦争後の1908年に提出された合併案が内務大臣の許可を得られず不成立に終わった原因が 「基本財産問題」 にあったことも既に紹介されています。

寄居町が桜沢村と合併しても新・寄居町の基本財産が増えるわけでなく(←このあたりの理屈が今一つ理解できないのですが),これを問題とした内務大臣(←原敬でした)が合併の許可を与えず
と、すっきりしないようなので、もう一度問題を整理してみます。

要するに内務省としては、桜沢村の大字有林を基本財産に吸収して、町村財政の強化を図る目論見であったのに対して、桜沢村としては、こちらが山林を出すなら、寄居町は土地に代る金銭を拠出してこそ対等合併だと主張。

間に立った郡や県が、桜沢村所有の山林の権利を地元に残す形で調整を図った結果が、1908年の合併申請だったが、これが内務省の意向に沿わなかったために不許可に終わったということでしょう。
…若シ大字有土地ヲ新寄居町有ト為サゝレハ合併不許可相成次第ニモ候ハゝ甚ダ遺憾千万ノ儀ニ候得共…
(明治41年9月大里郡長より埼玉県内務部長への申報)

3度目の合併話は大正末期、鉄道を巡る感情的なしこりが失敗の原因になったようです。
坂戸町から高崎への計画線を寄居までに縮めて工事中だった東上線は、1923年(大正12年)11月に小川町までが開通し、1924年末という竣工期限には間に合わなかったものの、1925年7月に秩父鉄道寄居駅に乗り入れを果たしました。
実はそれよりも前、東上線乗り入れ駅の誘致を巡って、寄居町と桜沢村との競り合いがあり、その時の行きがかり上、桜沢村民は寄居との合併に反対する空気が強く、寄居町も断念に至ったと新聞は伝えています(東京朝日埼玉版1925/9/13)。

そして4度目が昭和18年の戦時合併。この時は有無を言わせず合併になったのでしょう。
日付については、前記白鳥村の3分割と同日、1943年9月8日ということになりました。
戦後は、美野町のように解体することもなく無事でした。

【追記】
寄居町風布(ふっぷ)の「北限のみかん」というキャッチフレーズを耳にしたのは ずいぶん前のこと。
最近は事情が変わっているかと調べてみたら、筑波山西麓のみかん園 の方が少し北のようです。常陸太田市のジュース工場 にも実をつける木があるらしいが、これは「産地」とは言えないか。
更に、「国見の里 みかんの実る 北限地」 というのもありました。那須烏山市のみかん園
【更に追記】
[56514] 音無鈴鹿さん から「福島県のみかん」を紹介していただきました。写真を見ると、立派に実っていますね。


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