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[80411] 2012年 3月 19日(月)16:55:17hmt さん
戦時合併 と その解体 続編 (1)戦時合併
タイトルに「続編」と付けたのは、7年前に同じタイトルの記事[37842]があるからです。記事集

最初に、「戦時」という言葉の説明から。
私たちの日常用語としての使い方では、「戦時」とは 昭和16年(1941)12月8日から 昭和20年(1945)8月15日までと理解することが多いと思います。
説明するまでもありませんが、これは 「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書」大東亜戦争終結ノ詔書 とによって、日本国民が 開戦と終戦とを 知らされた日付です。

# よく考えれば当然のことだったのですが、終戦の詔書「それ自体の日付」は8月14日でした。
8月14日「ポツダム宣言受諾」という外交上の手続き以上に、8月15日「玉音放送」という国内手続きが重要。
これにより 「事実上の戦争終結」が実現した という事実を 改めて認識しました。

更に脱線:日付が1日違う「県民の日」[55178]も、布告制定日とその公布日とのずれに由来するものと推察。

それはさておき、実は 米英との開戦よりもずっと前【1937年7月7日 蘆溝橋事件[52150]】から、中華民国との間には「宣戦布告なき戦争」が継続中でした。参考までに、当時の日本国内での呼び名は「支那事変」でした。
組織的な戦争体制が 8月15日に終結した後、降伏文書 の調印により、1945年9月2日に正式の「戦争終結日」が到来しました。

例えば、昭和二十三年法律第百七十九号「地方自治法の一部を改正する法律」 附則第二條[55654] には、このような見地に基づいて「戦時」を表現した期間が、次のように記されています。
昭和十二年七月七日から同二十年九月二日に至るまでの間において、市町村の区域の変更があつたときは【後略】

この改正法臨時措置に該当する戦時合併は、全国で合併合体208(関係町村661)、編入合併188(関係町村341)と伝えられています[37842]

変遷情報検索を利用して、昭和12年7月7日~昭和20年の「新設」と「編入」とを集めてみたら199 + 184 = 383件。上記の合体編入件数と完全には一致しませんが、ほぼ同数です。なお、昭和20年は0件。
県別の表示により、戦時合併が多数あった県(埼玉県29件、広島県21件、富山県20件など)が存在した反面、沖縄県は0件で、宮城・栃木・徳島・鹿児島各県も各1件だけでした。

[45417] eiji_t さん は「軍需合併」という言葉を使って、昭和14年の茨城県多賀町誕生を伝えています。
これは実質的に「戦時合併の最初の事例」と言えるのではないかと思います。
法律上は昭和12年からとなっていますが、戦時合併が盛んになるのは、群馬県太田町など昭和15年以降です。

戦時合併の本質は、このような「戦争体制合併」にあると思いますが、その変種として「紀元二千六百年記念事業」を銘打ったものがあることを[37842]で記し、川口市・大宮市・相模原町・志紀町を例示しました。

当時の軍需工場や軍関係施設そのものは、当然のことながら敗戦と戦後復興を経て様変わりしていますが、戦時合併で誕生した枠組みの大部分が現在の自治体に継続し、「軍関係施設」までもが残されているのが相模原町です。

もちろん紀元2601年(昭和16年、1941)の天長節に「相模原町」が誕生した当時の「軍都」構想は雲散霧消していますが、広大な陸軍造兵廠(兵器工場)跡地には米軍相模総合補給廠が鎮座しています。
「鎮座」という言葉を使ったのは、その敷地内に現在でも武神をお祀りした神社があるから[57245]

「軍都」の中には造兵廠以外にも相模大野近辺の通信学校など多くの施設がありましたが、特に有名なものとして、昭和12年に市ヶ谷台から座間に移転してきて、大元帥陛下から「相武台」[5101][19684]の名を下賜された陸軍士官学校本科がありました。

昭和16年の合併には「座間町」も加わりましたが、戦後に分立
日付から判断すると、おそらく臨時措置による手続き[55656]によらず、相模原町との「協議離婚」が成立したものと思われます。
ここには、在日米陸軍の本拠地たる「キャンプ座間」が現存 [12462]
[80415] 2012年 3月 20日(火)19:57:53【1】hmt さん
戦時合併 と その解体 続編 (2)戦後の分立・分割を助けた 臨時措置
[37842] hmt
戦時合併は軍需工場の設置・拡張等による要請もあったと考えられますが、敗戦により事情が一変しました。

このような情勢の変化に基づき、自治体内で 「協議離婚」の合意が成立すれば、地方議会が自主的に分割を議決し、戦時合併前の自治体に復帰する動きを取ることができます。
そのような事例は 埼玉県北埼玉郡騎西町や 秩父郡美野町であり、早くも昭和21年(1946)には、合併前の町村が復活しました。少し遅れましたが、同県北足立郡志紀町の分割も昭和23年に実現。

しかし、埼玉県鳩ヶ谷町(川口市に編入)、神奈川県逗子町(横須賀市に編入)、富山県新湊町(高岡市に編入)などの場合は、独立回復を望んでも、地方議会内の少数派であるために意見が通りません。

それでも独立を回復したい。このような事情を考慮した臨時措置が2年間の時限立法で作られました。
「昭和23年法律第179号附則第二條」という地方自治法改正がそれで、関係住民の直接請求に基づき 旧町村の分立(又は市町村の分割)への道を開くものでした(昭和23年8月1日施行)。
この臨時措置は、[28038][37862]で言及された後、[55654] 88さん により 法律条文が引用されています。

神奈川県相模原町からの座間町分立につき、協議離婚の合意があったと思われる趣旨を [80411]で記しましたが、これは分立の日付が、改正法施行日(1948/8/1)から 僅か1ヶ月後であったという事実から、私が推測したものにすぎません。
もしかしたら、座間町の復活は、臨時措置による分離第1号の成果であったのかもしれません。【追記により否定】

明らかにこの制度に助けられて 独立を獲得したと考えられるのは、逗子町復活ですが、“横須賀市から苦難の独立”[37958] という言葉が示すように、分離独立への道も 平坦ではなかったようです。

【追記】
逗子町再置が 前記改正法“附則第2條第5項の規定”によることは、昭和25年総理府告示第191号 に明記されていました。
そこで、座間町の場合も 再置告示確認によって、臨時措置によるものか否かの区別がつくであろうことに気づきました。
調査の結果は、通常の手続きによる分立のようでした。昭和23年神奈川県告示第360号 【追記終】

更に 気の毒な事例もあります。戦時中に松山市に編入された 愛媛県温泉郡道後湯之町は、戦後の住民投票の結果では 分離賛成が僅かに多数を得たものの、県議会において 分離案が否決されてしまったとか。第7国会参議院議事録参照

このように、大戦→敗戦という大変革の中でも、一旦合併した後の 分立・分割は なかなか実現困難なようです。

このような「分立」の希少性に着目した記事集が、落書き帳アーカイブズ 分立した市町村の実例 です。
ここには、既に主な事例が収録されているようですが、改めて 変遷情報検索機能の活用により、戦時合併からの分立・分割事例を 網羅的に集めてみることにしました。

[28038] 夜鳴き寿司屋 さん
個々のリストも欲しいところですが、どなたかアップして下さい。お願いします
[28051] 花笠カセ鳥 さん
私が、10年以上前に、図書館で緑色の厚い本(タイトル失念)を見て調べた内容のうち、アーカイブズ未収録のものを書きます。
のフォローということになります。

次の記事にリストをのせます。
[80416] 2012年 3月 21日(水)16:11:01【1】hmt さん
戦時合併 と その解体 続編 (3)戦時合併→戦後分離 の事例集
戦時中に合併したものの 戦後に分離した市町村の話題を続けます。[80411]掲載分に加筆した 記事集

[28051] 花笠カセ鳥 さんの記事にあるように、事例を紹介した本が存在するようですが、不明のまま。
88 さん のおかげで、この時代の履歴情報[55225]は 既に 2006年時点で整備済であったのですが、最近になってグリグリさんが提供してくれた 検索機能は、このテーマの事例を 網羅的に集めるにも役立ちそうです。そこで、私が試行した結果の報告です。

変遷情報データベースの中で「分立・分割」を検索する期間は、1945年~1951年と設定しました。
1945年には まだ該当例はないものと予想されますが、念の為 終戦の年から始め、昭和23年の法改正で設けられた特別措置2年間を考慮して、昭和26年までを対象としました。

検索結果 89件中には、もちろん戦時合併と無関係のノイズも多数含まれます。例えば戦時合併がなかった沖縄県。
そこで、分立・分割 89件中の「変更対象自治体名」が、[80411]で検索した戦時合併 383件(新設199 + 編入 184)に該当するものを拾い出し、次の結果を得ました。

No.県名戦時合併分離再置町村名復縁現在記事
1秋田昭和町1942分立1950飯田川町,豊川村1956潟上市[28051]
2和田町1942分立1950豊島村1955秋田市[28051]
3茨城瑞穂村1942分立1949源清田村1955河内町
4埼玉川口市1940分立1950鳩ヶ谷町2011川口市[55654]
5騎西町1943分割1946【注1】騎西町他4村1954加須市[56459]
6美野町1943分割1946【注2】皆野町他4村1955皆野町[56459]
7分割1946大田村秩父市
8志紀町1944分割1948/4志木町,宗岡村1955志木市[55654]
9分割1948/4内間木村朝霞市
10分割1948/4水谷村富士見市[55363]
11栗橋町1944分立19490静村,豊田村1957久喜市
12神奈川相模原町1941分立1948/9座間町座間市[180][64153]
13横須賀市1943分立1950逗子町逗子市[37958]
14富山高岡市1942分立1951新湊町射水市[74310]
14.1分立1951牧野村1951高岡市[15592]
15三重名張町1942分立1949箕曲村1954名張市
16滋賀水口町1942分立1948/10柏木村1955甲賀市
17木之本町1942分立1948/5伊香具村1954長浜市
18岡山加茂町1942分立1951新加茂町1954津山市[74025]
19広島西条町1939分立1950寺西村1959東広島市
20山口山口市1944分立1947阿知須町2005山口市[25065]
21分立1949小郡町2005山口市[6729]
22徳山市1944分立1949富田町,福川町2003周南市[5162]
23愛媛肱川村1943分立1951河辺村2005大洲市
24三島町1944分立1950松柏村1954四国中央市
25高知新宇佐町1942分立1949新居村1958土佐市[28051]
26大忍村1942分割1948/4【注3】山南村他3村1955香南市[28051]
27熊本三和町1944分立1949池上村1953熊本市
28分割1950城山村,高橋村1953熊本市[53580]
29八代市1943分立1950郡築村1954八代市[74310]
30大分竹田町1942分立1950豊岡村1954竹田市

【注1】騎西町,種足村,高柳村(復縁1955),田ヶ谷村,鴻茎村
【注2】皆野町,三沢村(復縁1957),国神村,日野沢村,金沢村
【注3】山南村,徳王子村,富家村,香宗村 復縁は1955年(香我美町,野市町)と2006年の2段階

【追記と訂正】
[80417] k-ace さん ご指摘のように、新湊町と牧野村とは、分立後の変遷で 異なる道を歩みました。
牧野地区については、[15592] TN さん の記事があり、更に、市から分立した後の町村の変遷経緯については、グリグリさんによる詳しいコメント[74310]がありました。(いずれも、冒頭の記事集に追加)
上記の表で1行に同居していた No.14は、分割して2行に改めました。
[80421] 2012年 3月 22日(木)15:22:30hmt さん
戦時合併 と その解体 続編 (4)戦後分離特別措置
[80419] 88 さん
早速、官報により総理府告示を調査していただき、ありがとうございます。
No.5,6,7が空欄なのは、官報情報検索サービスの対象期間(1947/5/3以降)よりも前[56459]だからですね。
No.20 阿知須町分立は、地方自治法になってからの 1947/11/23実施ですが、告示は半年以上前だったのでしょうか。

集計表により、特別措置が適用されたのは、No.25 高知県高岡郡新居村(S24. 4. 1施行)を第1号として、No.18 岡山県苫田郡新加茂町(S26. 1. 1施行)までの合計 20町村の分立であったことがわかりました。
# 施行日を使ったのは、何故か告示日の方が遅いものが多いからです。

同じ徳山市から同時期に分立したのに、No.22 福川町が ○で 富田町が × という違いがあったのは 意外でした。
分立にあたっては、個々事情の相違がある。当然のことを改めて認識させられたデータでした。

No.14.1 富山県射水郡牧野村の挙動なども、いかにも事情ありげです。
[15592] TN さん により紹介されていますが、1940年に先ず隣接する新湊町に編入。次いで、1942年に高岡市に編入と2段階の戦時合併。
戦後の特別措置で分立することになるのですが、今度は1942年の新湊町ではなく、1940年の新湊町と牧野村まで戻ります。
これが、1951年の正月元日でした。
そして正月に分立した2町村のうち、新湊町が3月に新湊市になったのはよいとして、4月には牧野村が高岡市に出戻り。
地図 を見ると、庄川の東側に張り出した高岡市牧野地区は、“第1次戦時合併当時(1940~1942)に戻りたくない”ことを語りかけているように見えます。

熊本県飽託郡三和町からの No.27 池上村「分立」 が特別措置で実現して 「三和」の一角が崩れました。
こうなれば、残る2地域No.28 も 戦前の自治体に戻ることになり、翌年「分割」。これは よく理解できます。
しかし、明治22年の町村制施行時からの「高橋町」に戻ることはできず、城山村と共に生れたのは「高橋村」でした。[53580] むじながいり さん

なかなか理解できなかったのが、No.18 岡山県苫田郡新加茂町の分立です。
[74025] 白桃 さん
1924年 苫田郡加茂村が町制施行し、加茂町(1)に。
1942年 加茂町(1)、東加茂村、西加茂村が合併。【新設合併で加茂町(2)となる】
1951年1月1日 加茂町(2)の一部【旧加茂町(1)の地域】が新加茂町として分立【旧東加茂村、旧西加茂村の地域は、加茂町(3)として残る】
1954年4月1日 加茂町(3)、新加茂町、上加茂村が合併し、加茂町(4)となる【新設合併】

理解しやすいように、4つの加茂町に番号を付けました。加茂町(2)と加茂町(3)の範囲は違いますが、法人格は継続。

加茂中心部の地図 を見ると、南流する加茂川に西から倉見川がY字型に合流。戦時合併した3自治体は、 Y字の川を境界に隣接していました。現在でも津山市役所支所のある北側が行政中心地の加茂町(1)、街道が通り因美線美作加茂駅のある東側は交通の拠点となっている東加茂村。西側の西加茂村には病院マークが見え、生活の拠点のようです。

相互に補完する機能を持つ3自治体の合併に無理な点はなかったのに、なぜ戦後になって特別措置による新加茂町分立という事態になったのか? これが謎でした。

[74025]にリンクされた 加茂分町の歴史 により、その原因が戦後の学制改革であったことを知りました。
3町村にあった小学校の1つを廃校にして中学校にする。犠牲になった旧加茂町(1)の地域からの分離運動は、住民投票で多数を得たものの、県議会でも もめた。その結果が、前記のように 20町村分立の どんじりになった理由でしょう。

このような行きがかりで、分立ということになってしまいました。
しかし、幸いにして 深刻な争いに発展せずに、2町が融和提携する道を歩んだようです。
役場も共用して経費を節約し、発端になった学校問題も2町の学校組合立3小学校へと方針転換。

1954年の昭和大合併では、上加茂村を加えた3町村の合併による加茂町(4)で、復縁を果しましたとさ。
めでたし めでたし。
[80427] 2012年 3月 24日(土)16:11:30【1】hmt さん
戦時合併 と その解体 続編 (5)戦時合併した主な自治体
話が、戦後に分離(分立・分割)が行なわれた事例[80416]や、それを助けた法的措置[80415][80421]に進んでしまいましたが、説明不足だった戦時中の合併に戻ります。

[80411] hmt
変遷情報検索を利用して、昭和12年7月7日~昭和20年の「新設」と「編入」とを集めてみたら新設合併199 + 編入184 = 合計383件。
前回はナマの検索結果は表示しませんでしたが、関与自治体数でいうと 小規模な合併(383件中 2自治体が203、3自治体が71)が多く、またこの期間内に 同じ場所で 2~3回に分けて戦時合併が行なわれたケースもありました。
下記の自治体名と府県とを入力することで、累計5以上の市町村が関与した合併を表示した 検索結果 により、主要な戦時合併を 一覧表で示します。
#16~19と#71は 1937/7/7以前、#77は #36山梨県大和村と同名の村が他県に存在したためのノイズです。

合併後の自治体:盛岡市 仙台市 秋田市 佐野市 群馬県太田町 川口市 大宮市 熊谷市 埼玉県所沢町 飯能町 騎西町【加須市】 美野町【皆野町】 川崎市 横浜市 相模原町 横須賀市 富山県桜井町【黒部市】 富山市 新湊町【射水市】 高岡市 七尾市 小松市 金沢市 甲府市 山梨県大和村【甲州市】 八代村【笛吹市】 岐阜市 沼津市 津市 四日市市 宇治山田市【伊勢市】 上野市【伊賀市】 鈴鹿市 能登川町【東近江市】 長浜市 東舞鶴市【舞鶴市】 堺市 岸和田市 大阪府枚方町 富田林町 和歌山市 浜田市 島根県出雲町 広島県西条町【東広島市】 小畠村【三次市】 高蓋村【三次市】 下関市 岩国市 徳山市【周南市】 山口市 高松市 松山市 西条市 高知市 小倉市【北九州市】 福岡市 大牟田市 長崎市 佐世保市 大村市 諫早市 熊本市 荒尾市 大分市 日田市

念の為、町村の府県名と、名称が変った自治体の現在名称とを付記しました。

【追記】 今回のリストは大規模合併に限ったので、[80411]で挙げた日立多賀は出てきません。リストには、多賀町よりも早い時期であり、しかも いかにも戦時合併と思わせる事例として、1938年の東舞鶴市誕生(5町村新設合併)がありました。

戦時合併に関与した自治体数が最多を記録したのは 横浜市(18)で、都筑郡9町村だけでなく 戸塚町など相模国鎌倉郡8町村を編入し、第六次市域拡張と呼ばれています。編入町村の人口や現在の区名については、[59657] スピカ さんの記事があります。但し、第三次の都筑郡西谷村と第四次の鎌倉郡永野村とは既に横浜市になっていたので、17町村に含まれません。

横浜に次ぐのは富山市[79563]・鈴鹿市の14、堺市・徳山市・松山市・高知市が各11、山口市10でした。
5自治体以上の大規模な合併であるだけに、大きな市への編入と、市制を伴う新設合併とが目立ちます。
相模原町、太田町、所沢町などは、もちろん「戦時」に係る重要施設の所在地ですが、“市になれなかった”という点では、戦時合併リストの中で少数派と言えるかもしれません。

シリーズのタイトルには「解体」が入っていますが、5自治体以上が合併した今回のリストの中で、戦後に全面的に解体したのは騎西町と美野町だけでした。しかも いずれも昭和合併期に復縁[56459]

一部の町だけが脱離した事例も少数です。富田町と福川町は 南陽町>新南陽市を経て 2003年徳山市と復縁して周南市。阿知須町・小郡町も 2005年山口市に戻り、鳩ヶ谷市も 昨年川口市と復縁。

結局のところ、座間・逗子・射水(新湊)の3市だけが、戦時合併を経て独立を果たした市として現存。
独り立ちする実力を備えた町は、やはり 僅か なのでした。

戦時合併も、大局的には「昭和合併の前奏曲」のような 役割になってしまった という結果でしょうか。
[80434] 2012年 3月 26日(月)13:12:35【2】hmt さん
戦時合併 と その解体 続編 (6)座間町分立に影響した法改正 住民投票で分離した28町村
[80429][80430] Issieさん
あえて“特別措置”は行使しないことを表明しながら,むしろそれを条件に町に承認を迫った,とも言えそうですね。

タイミング良く、昨年『相模原市史 現代通史編』が発行されていたのですね。
詳細なご紹介により、当時の実情の一端を知ることができました。

引用箇所が戻りますが、
このように,なかなか上手く進まない座間の分離問題。その風向きを変えたのが「昭和23年法律第179号附則第二條」という地方自治法改正

この改正法附則第二条は、88さんが [55654]で第5項まで、更に[80419]で第9項までを紹介されているのですが、住民による請求期間を2年間に限定した第10項が なぜか脱落していたので追加します。

昭和23年法律第179号附則第二条第10項
第二項の請求は、この法律施行の日から二年以内に限り、これを行うことができる。

【追記】
ここで、このような過去の法律を落書き帳記事にリンクする際に利用できるソースについて、一言紹介します。
2年前の記事[75018]で 「地方自治法の昭和27年改正」 をリンクした時は、国立公文書館の 原本画像 を利用しました。
ところが、最近では もっと使い勝手のよい テキストソースに 簡単にアクセスできることを知りました。
すなわち、衆議院HPに第1回国会以来の制定法律本文があり、日本法令索引からリンクされているのです。

手順を簡単に説明します。
日本法令索引 の現行法令から「地方自治法」を検索。その「法令沿革」で 昭和23年7月20日法律第179号〔第四次改正〕 の「被改正法令」をクリックすると、国立公文書館_デジタルアーカイブ【御署名原本画像】と衆議院_制定法律【テキスト】との両方へのリンクがあります。
衆議院_制定法律 を閲覧すると、原本由来ですが 項番号がありません。最後のあたりに記された附則の 行頭位置は乱れており、少し読みにくい。
しかし、テキストですから、上記のように必要部分をコピペするにも便利です。

なお、衆議院のテキストが使えるのは“第1回国会以来の制定法律”に限られ、それ以前、例えば 帝国議会による「制定当時の地方自治法」[75012] を見るのには使えません。
【追記終】

なお、“2年間だけ住民投票で決着できる”という事実だけは、ずっと前の[28038]で紹介済みでした。

[80431] Issieさん
片瀬町が藤沢か鎌倉との合併(中略)問題を決定するために町民による町民投票を行って方向を決めたのである。

1948年の法改正とは無関係ですが、1948年よりも前に住民投票が行なわれた事例があったのですね。

座間町は、事実上 1948年の法改正を見据えたものではあったが、分立手続き自体は法改正によるものでなく、住民投票も行なわれませんでした。従って、“分離が住民投票で決定”された28件[28038]の中に含まれていないのは当然です。

では、[80419]88さんの表で「○」が付けられた20町村と、上記“28件の分離”との相違とは?

特別措置による分立が行なわれた結果、「分立元」が戦時合併前の単独町村に戻ったケースが該当するでしょう。
秋田県南秋田郡昭和町【合併前は大久保町】、秋田県河辺郡和田町、茨城県稲敷郡瑞穂村【分立3ヶ月後に合併前の長竿村に改称】、埼玉県北葛飾郡栗橋町、高知県高岡郡新宇佐町【分立と同日に合併前の宇佐町に改称】で5件。

熊本県飽託郡三和町から池上村が分立した翌年の分割により 合併前の自治体に戻った城山村・高橋村。
この分割手続き自体は 特別措置によるものでなかったのですが、戦前の形に戻すという住民の意向は、前年の住民投票で示されていた可能性があります。
そして、岡山県苫田郡加茂町(2)から新加茂町分立後に残った加茂町(3) [80421]
これは戦時合併前の東西2村ですが、これも同類と数えれば 20+5+2+1=28件。

むりやり数合わせを強行したきらいもありますが、一応説明がつきました。

[28038] 夜鳴き寿司屋 さん
実際に全国で33件が実施され、そのうち28件の分離が住民投票で決定になったようです。
ということは、住民投票で分離せずの結果を出したり、県議会で分離案否決[80415]されたりの不成功 5例ということか。


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