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伊豆諸島(伊豆七島・青ヶ島・南方四島)

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記事数=22件/更新日:2011年9月2日

東京都に属する 南の島々 は、伊豆諸島(この特集)と 小笠原諸島 とに大別されます。

現在の伊豆諸島を、昔は「伊豆七島」と呼んでいました。
でも、有人であった島を数えると、式根島・八丈小島(1969年無人)・青ヶ島を含めて 10島もあります。
七島とは どこだったのでしょうか? という疑問から、この特集は始まります。

この問に答える「島風とシマ神」へのリンク[24183] は切れていました。菅田正昭さんの 伊豆七島と伊豆諸島 を 改めてリンクします。

八丈島、そして青ヶ島の更に南、小笠原までの間の海上にも、島や岩礁があります。
かつては居住者がおり、気象観測所が開設されていた鳥島は、火山活動のため無人になっています。
フィクション中で怪獣ゴジラを目覚めさせた明神礁は、爆発が終息した後水面下に没しています。

私が「南方四島」[22460]と勝手に名付けた島々?は、どの市町村にも属していない珍しい存在です。

★推奨します★(元祖いいね)


[24183] 2004年 1月 26日(月)17:17:42hmt さん
伊豆七島 という名に苦しめられた 青ヶ島
[24179] トミ さん
伊豆七島とはどの島々のことですか?
大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島という辞典の説明だけでは「落書き帳」のレスとしては不十分ですね。
利島や御蔵島よりも人口が多い式根島が入っていないのは何故? 青ヶ島も入っていないし、八丈小島や鳥島にも以前は住民がいました。それなのに 七島 とは?

このような疑問に答えてくれるのが、菅田正昭さんの「島風とシマ神」です。
http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~yoyo/kaze/ka021210.html をご覧下さい。「伊豆七島に入っていない」という理由で差別待遇に苦しんだ島の歴史が記されています。
菅田さんが助役を務めた青ヶ島村は、
村制施行は昭和15年4月1日と八丈小島より7年も早かったのに、昭和31年7月8日の参議院議員選挙の時まで、国・都レベルでの選挙権を奪われていた
そうです。たかが名称、されど名称の怖いところですね。

このようなこともあって、現在は「伊豆諸島」という名称が一般的になり、「伊豆七島」はあまり使われなくなっているようです。「伊豆諸島」は、例の南方四島(豆南諸島[19744])までを含みます。
リンクした菅田さんの文中に出てくる「伊豆七島観光連盟」も「東京諸島観光連盟」と改称されています。
「東京諸島」とはあまり聞いたことのない名称ですが、伊豆諸島・小笠原諸島を含めた地域のようです。
http://www.tokyo-islands.jp/index_2nd.htm
[24187] 2004年 1月 26日(月)19:12:54【2】hmt さん
「伊豆」は いずこ?
伊豆諸島関連でもう一言。
「伊豆」と言えば静岡県 と考え勝ちですが、言うまでもなく「伊豆国」は、現在静岡県になっている本土側の国地と、東京都になっている島嶼側の島地とから構成されていました。

【2】新政府になってからは韮山県を経て足柄県へ。明治9年の足柄県解体で伊豆部分は静岡県へ統合 [24127]
伊豆の本土側はそのまま静岡県になっていますが、【2】島嶼側は2年後の明治11年に東京府に移管されます。

実は明治9年に小笠原諸島の日本帰属が国際的に認められ、内務省小笠原出張所設置。これを東京府に移すことが検討されていたため(明治13年に実現)、小笠原諸島の手前にある伊豆諸島が一足先に東京府直属になったようです。
このようにして 伊豆の歴史の中で 全部が静岡県だった時代 は僅か2年で終了。

こんどは田方郡の一部から「伊豆市」が誕生するので、「伊豆とはどこ?」の答が更にややこしくなります。

【1】タイトル変更
【2】[24190] Issie さんのご指摘を受けて2個所を修正
廃藩置県後は韮山県を経て…→新政府になってからは韮山県を経て…
島嶼側(賀茂郡の一部)は→島嶼側は

“島地”は伊豆半島の南部と同じく「伊豆国賀茂郡」に属していた。
との記述 http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~yoyo/kaze/ka021101.html に基づいて書いたものですが、
伊豆諸島には律令時代以来,現在に至るまで「郡」が編成されたことがありません。
と指摘されると修正しないわけにはゆきません。
廃藩置県と書いたのは全くのミスです。
[24190] 2004年 1月 26日(月)21:51:48Issie さん
郡未編成区域
[24187] hmt さん
伊豆諸島関連でもう一言。

蛇足ながら,もう一言,二言。

文字通り「廃藩置県」で全国の「藩」が全廃されて(のちに設置された「琉球藩」を除く),それが「県」に変えられたのは明治4年7月14日のことですが,「府」「県」そのものは慶応4(明治元)年春以降,明治政府の機構が整えられていく過程で,旧幕府直轄地および旗本領を接収した“政府直轄地”に順次設置されていきました。

「韮山県」の設置は慶応4年6月29日。旧幕府の韮山代官所を引き継ぐもので,相・甲・駿・豆の各州にまたがる旧幕府直轄領・旗本領を管轄するものでした。
この地域の幕領・旗本領分布の性格から,藩領ほど管轄地が散在するわけではなく,比較的ひとつづきの領域を管轄してはいましたが,それでも例えば小田原藩などの領域との境界は複雑なものでした。
(たとえば,野州烏山藩は相模国高座郡に飛地領を持っていました。烏山藩領であった現在の神奈川県相模原市の一部は,廃藩置県後4ヵ月の間は下野の「烏山県」に属していました。
大岡越前守忠相の家は江戸時代初めより現在の茅ヶ崎市や寒川町の一部を領地としてきました。忠相の代に相次いで加増されて1万石の「大名」に到達し,三河の領地(現在の岡崎市郊外)に陣屋を置いて「西大平藩」となりました。廃藩置県後「西大平県」となりますが,茅ヶ崎や寒川の旧領地も,三河の「西大平県」の飛地となったのです。
これらに比較すれば,「韮山県」は割とまとまった領域を管轄していました。)

で,「伊豆七島」も旧幕府直轄領の1つだったので,「韮山県」の管轄となったものです。

ところで,伊豆諸島には律令時代以来,現在に至るまで「郡」が編成されたことがありません。
「伊豆国」のうち,半島部は 田方・君沢・那賀・賀茂 の4郡に分かれる(郡制施行後は田方・賀茂の2郡)のですが,沖合の島々はどの郡にも属していないのです。
北海道や(南)千島(国後・択捉)では明治2(1869)年に,1875(明治8)年の樺太・千島交換条約によって「日本領」となった中・北千島(得撫以北)も日本編入後に,そして「外地(植民地)」の(南)樺太でさえ1915(大正4)年に「郡」が編成されているのに,伊豆諸島には結局「郡」が編成されることはありませんでした。
だから,「大島町」や「三宅村」その他,伊豆諸島の島々の住所に「○○郡」と書くことはできません。

小笠原は「郡」どころか,どの「国」にも属していませんが。
[24269] 2004年 1月 29日(木)23:43:49【2】hmt さん
伊豆諸島が日本でなかった53日
[24187] では 明治11年(1879)の東京府移管まで しか記しませんでしたが、伊豆諸島の帰属を巡っては、まだとんでもない履歴がありました。
島庁、支庁の設置、都制施行は さておき、なんと 伊豆諸島が日本でなかった時期があったのです。
1946年1月29日(たまたま今日と同じ日付ですね)、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書 「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件」 により伊豆諸島全域が 日本政府の統治領域から外されてしまいました。
戦後の混乱期とはいえ、3月22日に日本に復帰するまでの53日、下田よりも北にある伊豆大島が 日本でない時期があったとは!
しかも この間に伊豆大島では 独自の憲法草案まで作られたというから驚きです。
復帰の日付は 菅田正昭さんの「島風とシマ神」[24183]によりましたが、同じ著者の 「日本の島事典」(三交社1995)[22569]には、昭和21年1月29日から3月12日とあるので 43日になります。どちらかがミスプリントでしょう。

なお、伊豆諸島といっしょに日本でなくなった トカラ列島 下七島 (北緯29度と30度の間) の復帰は 1951年12月5日で、これにより 鹿児島県大島郡には、1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った上三島と共に 2つの十島村(じっとうそん)が存在することになりました。翌年2月10日には上三島が 三島村(みしまむら)に、下七島が 十島村(としまむら)になり、同名は2ヶ月で解消しました。現在は両村共に 鹿児島郡。
北緯29度以南の奄美諸島復帰は、トカラ下七島復帰から2年後の 1953年12月25日になりました。

なお 小笠原諸島の日本復帰は1968年6月26日。沖縄復帰は1972年5月15日。北方四島は未復帰です。
[24274] 2004年 1月 30日(金)01:19:01Issie さん
七島の帰った日
[24269] hmt さん
復帰の日付は 菅田正昭さんの「島風とシマ神」[24183]によりましたが、同じ著者の 「日本の島事典」(三交社1995)[22569]には、昭和21年1月29日から3月12日とあるので 43日になります。どちらかがミスプリントでしょう。

私のところの資料には,連合国最高司令官の布告(SCAPIN第841号)によって3月22日に先の行政権排除の対象が「修正」されて,「伊豆諸島及び嬬婦岩を含むそれ以北の南方諸島」は日本に含まれることになった,と書かれています。
(百瀬孝『事典 昭和戦後期の日本 占領と改革』,1995年,吉川弘文館)

[24271] 今川焼 さん
「四阿屋村(あずまやむら)」…(難読なのが難点か?)

少なくとも北信では難読ではないでしょう。
ただ,北信で「あずまや山」と言えば東筑摩郡の四阿屋山ではなくて,菅平の上の上信国境にある「四阿山」の方が,まずは連想されるものと思います。
「南アルプス市」よりも評判が悪いかもしれません。
[24286] 2004年 1月 30日(金)16:13:22hmt さん
伊豆七島と言うも九島あるが如し
タイトルは[24282]に対応した自己レスです。
「日本の島事典」41頁の伊豆諸島の説明
伊豆半島の南東の太平洋上に富士火山帯に沿って点在する大小116の島々の総称
を参照すると、青ヶ島や南方四島を除外しても100島ぐらいはあると思われます。

0.01km2=1ha以上を目途に、主島別に主な付属島も列挙してみます。数字は面積km2。
大島(91.05)
利島(4.12)

新島(23.17)+ 付属島:式根島(3.69)、鵜渡根島(0.40)、地内島(0.19)、早島(0.11)、大平島(0.01)
# 式根島は元禄地震の大津波(1703)により新島との間の陸地が崩壊分離したと言われ、住民は新島に移住し、明治22年まで無人でした。しかし現在は利島や御蔵島よりも多い数百人が住んでいます。
神津島(18.48)+ 付属島:祇苗島(ただなえじま0.15)、恩馳島(おんばせじま0.04)
# 新島と神津島は、黒っぽい玄武岩や安山岩からなる他の島々と異なり、白っぽい流紋岩の熔岩。粘性の大きい流紋岩が火山ガスの泡を含んで固まったのが軽石。

三宅島(55.44)+ 付属島:大根原島(0.02) 御焼島の名の通り度重なる噴火に見舞われています。
御蔵島(20.55)+ 付属島:藺灘波島(いなんばじま0.01)
八丈島(69.48)+ 付属島:八丈小島(3.08)
これで17。伊豆諸島116と言っても小さな岩礁が多いのでしょうね。
1km2以上の付属島は式根島と八丈小島だけなので、やはり九島(青ヶ島を含めれば十島)ですか。

伊豆七島に入るか入らないか微妙な地位にある青ヶ島は、天明の大噴火で住民334人のうち生き残った202人が八丈島に脱出。八丈島での悲惨な生活から50年後に青ヶ島還住を実現したリーダーは、「青ヶ島のモーゼ」佐々木次郎太夫でした。(柳田國男:青ヶ島還住記)

熱海沖の初島(0.44)は本土の付属島として扱われ、現在は伊豆諸島には含まれませんが、初島を含めて10島の由来が述べられている古書があるように、昔は違うのかもしれません。

話が古くなったついでに、もう一つ
「和名抄」に見える(賀茂)郡内の郷は、賀茂、月間、川津、三島、大社の五郷である。(伊豆国の)延喜式内社は…46座で(中略)三島郷内の海島鎮座は24社とある。なお「続日本後記」の承和7年9月23日条には当郡上津島で噴火による造島
というような記載(角川日本地名大事典22巻331頁)を見ると、平安時代には三宅島、神津島等の島嶼部も賀茂郡の内と認識されていたように思われるのですが……「令外の郡?」>[24190] Issieさん
[24304] 2004年 1月 31日(土)10:29:53稲生 さん
伊豆諸島のお話し
伊豆諸島のお話し
[24183][24187]hmtさん、[24190]Issieさん
に続いて、
[24269]hmtさん、[24274]Issieさん、[24278]太白さん
の 伊豆諸島の帰った日と鹿児島郡十島村のお話し、
地図を開いて、場所を確認しながら、興味深く拝見いたしました。

[24286]伊豆諸島の説明 hmtさん、 [24291]伊豆国賀茂郡三嶋郷 Issieさん
平安の世に戻れば、伊豆半島も伊豆七島も、遠い彼方の地なのですね。

話変わりますが、式根島に添乗員として一週間ほど滞在したことがありました。島全体が平地で、徒歩・自転車での往来がたやすく、美しい海岸線が印象的でした。
民宿の女将さんに聞いた話として、次男以下は島を出るという不文律、これは日本のどの小島でもある話ですが、島の限られた土地を有効利用していく術、当時は生々しく拝聴いたしました。
[24437] 2004年 2月 3日(火)13:50:26トミ さん
伊豆七島のこと
本巣市、飛騨市の誕生、みなとみらい線の開業おめでとうございます。
岐阜県内では3月にも郡上市、下呂市が誕生予定なので、今岐阜県は合併ラッシュなのですね。

[24183][24187][24269][24286]hmtさん、[24190]Issieさん
回答ありがとうございました。「島風とシマ神」を拝見しました。
式根島はやっぱり入っていないのですね。
僕は、その7つの島かなと思って書き込みをしたのですが、小学生時代に式根島に行った時、
「伊豆七島とは大島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島です。」と言われ、
利島は違うのかと質問したら、違うのだと言われました。

青ヶ島はとても悲惨な目にあったのですね。とてもショックです。
僕はできるだけ、「伊豆七島」という言葉を使うのを控えようと思いました。

[24221]グリグリさん
参考になりました。次回、また何か気になることがあったら活用します。ありがとうございました。

[24415]花の東京都民さん
自動車道路と平行して「東京湾横断鉄道線」を建設するべきだと思います。
僕はそうは思いません。
アクアラインには高速バスが横浜方面などに向かって走っていますし、乗客も少なくなりそうな気がします。
個人的には木更津周辺はあの自然環境のままであってほしいです。

僕も東海道貨物線は旅客化してほしいです。東海道線のラッシュ時の混雑が少しでも和らぐといいなと思います。
[28453] 2004年 5月 20日(木)16:54:57KMKZ さん
くさやの干物
いかなご醤油については「香川県大百科事典」にこのように載っていました。
(中略)
今では作られていません。
わざわざ調べていただきまして恐縮です。なんと、古代ローマ帝国のガルムと同じく幻の魚醤となってしまいましたか。
魚醤は独特の臭みがあるのでKMKZは苦手です。
伊豆諸島の特産、くさやの干物はくさや汁と呼ばれる一種の魚醤に漬け込んで作るのですが、あれは臭い。勇気を出して一度だけ食べたことがありますが、食べるとアンモニア臭がつーんと鼻を抜けて行きます。しかし、江戸っ子はくさやを好んだらしく、その名残か東京の居酒屋でも時々見かけます。東京の居酒屋でアンモニア臭を感じたらくさやを焼いている確率が大ですね。
もっとも、単に酔っ払いがトイレのドアを閉めるのを忘れただけかもしれませんが。(笑)
[33548] 2004年 9月 28日(火)23:52:46hmt さん
三宅村は来年2月に避難指示解除・自己責任で帰島の方針
[33543]讃岐の民さん
三宅島は全島避難からもう4年経ちましたが未だに帰島のメドがたっていないようですね。

2004/7/20に三宅村は「帰島に関する基本方針」を出し、“平成17年2月に避難指示の解除”としています。
http://www.miyakemura.com/pr/housin/housin03.pdf

来年2月の避難指示解除・帰島に向けて、三宅村は 9月18日に都内2カ所で住民説明会を開きました。村が「帰島は村民の自己責任に基づく判断」としていることに対し、疑問の声が相次いだとのことです。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040919-00000010-maip-soci
[35748] 2004年 12月 14日(火)09:14:23いっちゃん さん
直接民主制
[35747]229さん
人口の少なかった自治体といったら昭和10(1935)年の神奈川県足柄下郡芦之湯村で62人でしょうか。いくら戦前とはいえ、たった62人で村は成り立っていたのでしょうか。
はじめまして。
人口の少なさで言えば、八丈島の隣の八丈小島(現在は無人島になっている)に昭和30年に八丈町と合併するまで存在していた宇津木村も負けていません。
その数58人。うち有権者が29人で、議会は置かずに有権者による村民総会で物事を決めていたそうな。
詳しくはこちらまで。
[44075] 2005年 8月 12日(金)12:57:56eiji_t さん
小さな村でも合併しない理由
[44017]Issie さん
合併するにしても,しないにしても,木曽郡内のある村のように周辺町村から合併を拒否されるにしても,それぞれに取り組むべき問題があるなぁ
これを読んで、新聞の切抜きを引張り出して、読み返しています。
朝日新聞2005.5.22「千人未満でも合併せず 残った村なぜ」
長野県下伊那郡清内路村は、合併を持ちかけた阿智村から「赤字の村との合併は村民の理解が得られない」と拒否されたそうです。
そうすると、長野県には合併を相手から拒否された村が少なくとも2つ在るという事になりますね。

記事によりますと、千人未満でも合併しない村は22(離島の村11、その他11。人口は2004.4.1現在」)

また、合併しない理由が他に2つ書いてありました。
1.和歌山県北山村、身近に救急車を確保できない。
 役場に置いてある患者搬送車で40分で病院に搬送しているが、合併すると合併先の町から救急車が来るようになるので、80分かかる。
[37887]高津屋 さん
飛び地の問題が、関わっているのですね。

2.東京都・青ヶ島村、利島村、御蔵島村、三宅村の移住懸念。
 八丈小島の2つの村は、八丈本島と合併後、本島へ移住が進み無人島に。「八丈小島の二の舞はごめんだ」
[15423]熊虎[月の輪熊] さん
合併で村がなくなった上に人もいなくなってしまうというのは、無残なものがありますね。

[38985]wasi さん
行くも地獄、行かぬも地獄
山間部の村も、離島の村も、これから大変ですね。
[57302] 2007年 3月 16日(金)21:03:11北神[モリモリ] さん
伊豆七島について
[57299] の88さん
1位の70mはまだわかりませんが
2位の2.9kmはわかりました。
でも、非常に複雑でわかりにくいですよね。

では、今から本題行きます。
なぜ八つ島があるのに「伊豆七島」というのか?
伊豆七島とそれぞれの島の名前いえば本州から近い順に、大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島という様に8つの島があります。
答えは江戸時代中期(1703年)以前は島が7つだったが8つになったためです。
なぜ8つになってしまったのか。その原因は1703年マグニチュード7.9の大地震(元禄地震)
が江戸を襲ったためです。
それ以前は新島と式根島が歩いてわたれるぐらいにつながっていたのです。
でもどうして名前を「伊豆八島」に変えないのか?というと、歴史ある「伊豆七島」の名前を簡単に変えることが出来ないらしいからです。
[65174] 2008年 5月 18日(日)14:24:56hmt さん
直接民主制
[65152] むっくん さん
現在の日本の法体系である間接民主制(法的効力のあることは議会においてのみ決定する)に反することになります。

今更言うまでもないことですが、日本国憲法は直接民主制の考えを否定しているわけではありません。
日本国憲法の改正の国会発議は、国民投票による過半数の賛成による承認を必要とすることがよく知られています(憲法96条1項)。
また、一の地方公共団体のみに適用される特別法は、住民投票による過半数の同意を得なければ制定することができません(憲法95条)。

地方自治について言えば、“普通地方公共団体の議会が議決すべき事件”は地方自治法96条において限定的に列挙されており、“法的効力のあること” の「すべて」ではありません。

「合併しない」ことを住民投票により決めることは、普通に行なわれています。

2001年の 第153国会衆議院総務委員会会議録 に、市町村合併と直接民主主義の問題に関する質疑応答(重野委員)があったので、ご参考までにリンクしておきます。

この中にも出てきますが、町村議会そのものを置かずに、町村総会を設けることもできます(地方自治法94、95条)。
その実例が 東京都宇津木村(八丈小島)[35748]いっちゃんさん でしたが、1955年の八丈町への合併により直接民主制村政は挫折しました。
なお、合併後、八丈島との格差が拡大した八丈小島は、1969年に集団移住によって無人島になりました。

2005年には 長野県木曽郡王滝村議会に、村議会を廃止し代わりに「村民総会」を設置する条例案が 議員提案 されましたが否決されました。

トカラ列島の件について言えば、当局(鹿児島県?)は、返還される下七島を含めた十島(他に無人島)を一つの村として復活させる意向であったと思われます。返還される下七島に「七島村」でなく「十島村」という名を付けたのが、その何よりの証拠です。

“参考までに住民投票を行った”(鹿児島県市町村変遷史)結果、上三島の数百人の有権者の圧倒的多数が示した「下七島と合併しない」という意思表示は、当局にとっては予想外の結果だったのでしょうね。
住民投票の実施は“参考まで”だったかもしれませんが、その結果に反する合併は強制できず、合併議案を出しても十島村議会を通る筈がありません。

十島を一つの村として復活させる意向だった当局者としては、合併拒否がわかっていたならば、返還された下七島を直接に鹿児島県大島郡(1951年当時)十島村に編入するテもあったのにと思ったかもしれません。
しかし、変則的な鹿児島県知事(国の機関)の直轄行政期間を設ける暫定措置に関する政令(昭和26年政令380号)の準備も既に進んでいるなどの事情もあり、変更するわけにはゆかなかったのでしょう。
[72181] 2009年 10月 14日(水)23:27:30伊豆之国 さん
伊豆国賀茂郡ハブ港
[72174]白桃さん
波浮の港
野口雨情作詞のこの曲の歌い出し、
 ‥磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る 波浮の港は 夕焼け小焼け
(でしたっけ?)とあるのですが、
[72175]Issieさん
本当は波浮の港からは夕日は見えないんですよ
実際の波浮港周辺には「鵜」は棲息しておらず、港の西側には険しい山を背負っているため「夕焼け」も見ることができないそうです。雨情は伊豆大島には行ったことがなく(実は私もですが)、故郷に近い北茨城市平潟漁港の風景を思い浮かべながら、この詩を書いたそうです。そういえば伊豆大島を歌った「あんこ椿」なんていう歌もありますが、平潟漁港は鮟鱇(アンコウ)で有名‥。余談ですが、島崎藤村作詞の「椰子の実」、愛知県渥美半島がこの歌の舞台ですが、藤村もやはり渥美半島には行ったことがなく、民俗学者の柳田国男から聞いた話を元にこの詩を書いたそうです。
ところで、この波浮港に鎮座しているのが「波布比め命(はぶひめのみこと)神社」(「め」は口へんに羊)。平安時代の「延喜式」にも載せられている由緒正しい神社で、その「延喜式」には「伊豆国賀茂郡」鎮座とあります。「延喜式」の伊豆国の式内社のところを見ると、他にも「賀茂郡鎮座」とされている神社の中に、現在伊豆諸島にある神社がいくつかみられ、その当時は伊豆諸島が「賀茂郡の一部」と認識されていたのではないかと思われます([60786])。

羽生
将棋の名人(「元」でしたっけ?)・羽生(はぶ)善治氏、最初この名を見たとき、まず埼玉県羽生市を思い浮かべ、てっきり「はにゅう」だと思っていました。「羽生」という苗字は全国に9千人余りいるようですが、やはり「はにゅう」が多く、「はぶ」はマイナーな読みになっているようです(「苗字の百貨店」より)。

話は変わって、
対馬
を「対島」と誤記してしまう人が多いようですが、伊豆にはかつて「対島」という村がありました。昭和30年に伊東市に合併されたこの村、「たじま」と読むようです。「伊豆大島に向かい合う」という意味で付けられた、明治の新村名でしょう。現在も市立対島中学校があります。「伊豆高原」は、この旧対島村に含まれるようです。
「対馬」という苗字は、長崎県対馬にはなく、遠く離れた青森県津軽に多く見られます([40956]トライランダーさん)。 長崎の対馬とは無関係で、元は「津島」だった(そういえば太宰治の本名も「津島修治」でしたね)のを字を変えたそうで、尾張の津島がルーツだとも言われていますが、はっきりしたことはわからないかもしれません。
[18922] 2003年 8月 8日(金)22:59:12TN さん
東京都直轄の島と岩礁
[18791]yamada さん
国土地理院地形図閲覧システム
こんな良いものがあったのですね。

まだ全部は見きれてませんが、その中に「八丈所属諸島」というのがあり、そのような島々があることを初めて知ったので見てみたところ、なぜか通常記してある所属市区町村名が無い場所が4箇所ありました。
http://mapbrowse.gsi.go.jp/indexf25k/4939i.html

http://www.soumu.metro.tokyo.jp/09hatijou/index.html
北から順に
名称面積(平方キロ)
ベヨネース列岩0.00
須美寿島0.02
鳥島4.79
孀婦(そうふ)岩0.00

面積は、東京都総務局のHP内(八丈支庁の管轄する地域)を参考にしたのですが、そこの表中、町村の欄では「都直轄」となっております。
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/09hatijou/tiiki.html

これらの位置から、青ヶ島村に属してもよさそうですが、それなりの理由があって都直轄となっているのでしょうか。どの市区町村にも属さない場所は日本でここだけかと思われますが、間違いなどありましたらお知らせ下さい。


台風に関して
今はその前の静けさといったところです(数時間前は激しく雨風でした)。お気の毒にも被害にあわれた方には、お悔やみ申し上げます。
[18943] 2003年 8月 10日(日)00:39:37【1】Issie さん
どの市町村にも属さない区域
[18922] TN さん
まだ全部は見きれてませんが、その中に「八丈所属諸島」というのがあり、そのような島々があることを初めて知ったので見てみたところ、なぜか通常記してある所属市区町村名が無い場所が4箇所ありました。

そう言われてみると,確かにそうですね。
離島に関しては旧憲法下の地方制度では「本土」と若干違った制度が適用されていて,「自治体」としての町村の編成がかなり遅れた区域も少なからずあった(北海道なども同様)ので,それが尾を引いているのかもしれませんね。

東京府管下の伊豆・小笠原の場合,大島と八丈島には1908年4月1日,利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島では1923年10月1日付けで,本土よりは自治権に少なからず制限のある「島嶼町村制」による町村の編成が行われています。
1940年4月1日には青ヶ島と,小笠原の父島・母島・硫黄島の4島に都合7つの「自治体としての村」が設置されていますが,逆に言えば残りの島には「村」が設置されることなく,戦争末期の米軍による占領を迎えます。
人が住んでいなかった,…せいで「村」を編成するに至らなかったのでしょうか(有人島であった「鳥島」は,火山活動のために1939年に全島民が退去しています)。
小笠原諸島の場合,米軍によって占領された後,1968年に「復帰」した際に全域が一括して「小笠原村」となりました。だから,珊瑚礁の頭が海上に出ているだけで人の住みようのない「沖ノ鳥島」であっても「東京都小笠原村」なわけです。
問題の岩礁や島々は紆余曲折があって,結局は日本政府の行政権排除の対象とはならなかった(米軍の本格的占領下には置かれなかった)せいで,結局市町村の網から「こぼれてしまった」のかもしれませんね。

なお,韓国(および北朝鮮)との間に「意見の不一致」のある「竹島(独島:トット)」は,1905年に島根県に編入され,現在は「隠岐郡五箇村」に属することになっています。
また,現在「南沙諸島」と通常呼ばれている南シナ海上の島々は,「新南諸島」の呼称で1938年12月の閣議決定および翌39年3月の台湾総督府令および同告示によって「高雄市」に編入されています(もちろん,戦後日本は台湾の領有を放棄していますから,現在は日本のどの市町村にも属するはずがありません)。

敗戦前には,伊豆・小笠原のほかにも「どの市町村にも属さない」区域が存在しました。

それは,中千島および北千島の「得撫郡」「新知郡」「占守郡」の3郡に属する,つまりウルップ島以北の千島列島。
“千島列島のうちの残り”,南千島の国後・択捉の2島(5郡)および色丹島(1郡)には北海道のほかの地域と同様,「内地」より1年遅れの1879年以降「郡九町村編制法」に基づく「自治体ではない“村”」が編制され,1923年4月1日に「北海道町村制」による「村」が設置されて,大幅な制限つき(2級町村=村長は官選)ではあっても一応自治制度が布かれています。
http://homepage1.nifty.com/ishato/tiri/sityoson/01hokkai/01_hokkai21.htm#nemuro

けれども,ウルップ島以北の島々の3郡では,「北海道町村制」による「自治村」はおろか,郡区町村編制法による「自治体ではない村」さえも編制されずじまいでした。
軍関係者ではない民間人が住んでいたにもかかわらず。
で,この区域は「根室支庁直轄」とされていました。
結局「村」が編制されることなく,1945年8~9月に進攻してきたソ連軍によって占領されたまま,1952年4月に発効したサンフランシスコ講和条約によって領有権を放棄してしまったのでした。
だから,もはやここは「日本」ではあり得ません。
[19728] 2003年 9月 9日(火)14:04:55hmt さん
孀婦岩
[18922] TN さん
リンクの地形図に99の数字が見えます。
大海原から突き出た99mの岩の柱! もちろん等高線は描けません。
孀婦とは夫に先立たれた女(寡婦)のことで、孤独に直立する姿から名付けられたものでしょうが、実際も、火山の山体が侵食で失われて取り残された熔岩柱なのですね。
[19744] 2003年 9月 9日(火)23:23:57ken さん
re:孀婦岩と鍋屋横丁
[19728] hmt さん
孀婦とは夫に先立たれた女(寡婦)のことで、孤独に直立する姿から名付けられたものでしょうが
孀婦岩と言えば、以前タモリ倶楽部に地図エッセイストの今尾恵介氏が出演したおり、孀婦岩の地図をタモリと見ていましたね。
タモリは、父島、母島、兄島などの「家族」成す小笠原諸島と隔絶して、「寡婦」として、寂しくも厳然と屹立する「孀婦岩」を賛美してましたね。

孀婦岩の様子
http://homepage3.nifty.com/cruisemaniac/gallery/soufu.html
孀婦岩の地図
http://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/nph-ef.cgi?mesh=4440520
ところで、孀婦岩を調べていると、「豆南諸島」という名称が、頻発します。
http://www.diver-web.jp/contents/shop/yomimono/D-48.html
↑「東京都・豆南諸島まるごと探検」という本もあるようで、
ダイバーなら孀婦岩(そうふいわ)、須美寿島(すみすとう)、ベヨネーズ列岩、鳥島という名前は聞いたことがあるかもしれない。これらの無人島群が豆南諸島。
と紹介されてますね。
私は、豆南諸島、という呼称をはじめて知りました。ご存知でした?
釣り関係のサイトにも頻出しますね。

[19717] 両毛人 さん
鍋屋横丁は、「落書き帳」にもしばしば登場する地名ですが、ぜひ訪れてみたくなりました。
是非お越し下さいませ。
私には幼稚園ぐらいまで「なべよこ」が世界の全てでした。
注目していただきたい点は、
http://www.mapion.co.jp/c/f?el=139/40/23.485&scl=10000&pnf=1&uc=1&grp=all&nl=35/41/39.318&size=500,500
の鍋屋横丁交差点付近にある都市銀行の支店名ですが、東京三菱もみずほ銀も「中野支店」となっております。以前はもっと銀行あったんですが。
中央線の中野駅前にあるものは
http://www.mapion.co.jp/c/f?el=139/40/08.277&scl=10000&pnf=1&uc=1&grp=all&nl=35/42/07.985&size=500,500
「中野駅前支店」、あるいは「中野北口支店」であります。
つまり中野の本家は「なべよこ」界隈なのであります。
東京三菱銀行中野支店の角に、鍋屋横丁由来の石碑がありますのでお見逃しなく。
[19806] 2003年 9月 11日(木)15:04:53hmt さん
孀婦岩・続
[19744] ken さん
写真のリンク有難うございました。
父島、母島、兄島などの「家族」成す小笠原諸島と隔絶
なるほど。

[19728]hmt
もちろん等高線は描けません。
気象庁の火山解説資料に等高線・等深線の入った詳細な図がありました。
http://www.seisvol.kishou.go.jp/tokyo/338_Sofugan/338_index.html
「孀婦岩を頂部とする地塊は東西約10km離れた比高1,500~2,000mの2つの山体から構成されている。」
海面下では今でも つれあい と結ばれているのですね。少し安心しました。
私が孀婦岩の存在を知ったのは、30数年前に団伊玖磨さんの紀行文でしたが、現在ネットで検索すると360件も出るのですね。「豆南諸島」という呼称は私も初耳。
http://www5.big.or.jp/~n-gakkai/katsudou/reikai/200010_01.html
によると、17世紀に幕府御船が八丈島から孀婦岩を経て無人島(Bonin Islands=小笠原)を探索しています。
[22460] 2003年 12月 2日(火)13:40:45【2】hmt さん
「南方四島」問題
ここで「南方四島」とは、[18922] でTN さんが「所属市区町村名が無い」「都直轄」と指摘された ベヨネース列岩、須美寿島、鳥島、孀婦岩のことです。
これらの位置から、青ヶ島村に属してもよさそうですが、それなりの理由があって都直轄となっているのでしょうか。
[18943] Issie さんのお答え
人が住んでいなかった,…せいで「村」を編成するに至らなかったのでしょうか(有人島であった「鳥島」は,火山活動のために1939年に全島民が退去しています)。
のように 住民がいなかったことが先ず挙げられますが、「日本の島事典」(三交社1995)は、下記要旨の如き領有権問題があったことを伝えています。

これら「南方四島」につき、青ヶ島を飛び越えたかたちで八丈町が領有権を主張し、青ヶ島村が強く反発した結果、わが国で唯一どこの市町村にも帰属しない地域として東京都八丈支庁が管理している。

なお、鳥島については、昭和40年11月激度の火山性地震による測候所閉鎖後、完全な無人島になっているが、国勢調査人口は 青ヶ島に所属し、現在も国勢調査の都度、青ヶ島村から人口ゼロと報告している ことが記されています。
青ヶ島村元助役による http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~yoyo/kaze/ka021210.html を読むと、「伊豆七島」から疎外されていた青ヶ島が、八丈町に対して村の独立を守ろうとする気概は相当なもののようです。
「南方四島」に八丈町の領有権が認められることは、青ヶ島村の外堀を埋められることに等しく、出城の鳥島が都直轄になってからも、5年毎に「人口ゼロ」を報告する既得権?を死守しているのでしょう。ここで native Torishiman の独白。いくらアホウだからと言って、鳥島の名の由来であるオレタチを数えない「国勢」って、差別じゃないの?

【1】「無人島である」という表現を「住民がいなかった」に修正。これは「無人ぶにん or むにん島」が小笠原諸島(Bonin Islands)を意味する固有名詞でもあったため、これとの混乱を避けるためです。【2】読み仮名追加
[22569] 2003年 12月 6日(土)22:12:28【1】hmt さん
参照資料の引用です
[22560] グリグリさん
[22460]では 要旨として紹介した 「日本の島事典」(三交社1995) の原文を引用します。
なお、ベヨネース列岩、須美寿島、鳥島、孀婦岩の領有権を、青ヶ島を飛び越えたかたちで 八丈町が主張したことに 青ヶ島村が強く反発、現在これら四島は 我が国では唯一どこの市町村にも帰属しない地域として 東京都八丈支庁が管理している。
…というわけで 私の考えではなく、参照資料:(財)日本離島センター監修・菅田正昭編著 の受け売りです。従って「南方四島」が唯一という 「何か特別の理由」 があるか否かについてはコメントできません。
不確実な記憶ですが、八丈町の領有権主張について 否定的なことを記した資料もあったようですから、参照資料を どこまで信用してよいのかわかりません。

現在の帰属未定地については グリグリさんがまとめられた通りと思います。言葉の単純な解釈ですが、陸地および内水面の境界未定は 必然的に所属未定になり、その他に 外海の島のように 自然境界が明確でも所属未定の地がある ということではないでしょうか。

現在に限定しないと、明神礁[18970]・民間人が住んでいた千島の一部[18943] もあったのですね。
【1】新南群島は、高雄市に編入されていたのですか[18943]
ついでながら、新南群島[18954]の出ている日本地図は、今となっては貴重な存在と思います。私の持っている 昭和13年文部省検定済・朝鮮総督府検定済「改訂新選詳圖・帝国之部」は1年早すぎたので出ていません。

昨日オフ会の席で披露された昔の地図の中で、スナフキんさん持参の地図には、「南方四島」が 次の名で記されていました。
バヨンネース岩、須美壽島、鳥島(三子島)、孀婦岩
藤田元春:新日本圖帖(刀江書院)、たしか昭和9年というご紹介でしたから、鳥島に住民がいた時代の地図です。三子島は初耳。

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