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畿内から北陸へ

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本州日本海側の港の中で、敦賀港は特異な位置にあります。琵琶湖までの距離は20kmもありません。
ここに運河を作ることができたら、琵琶湖・淀川を経由して大阪湾との間を船で結ぶことができる。
地図で見ながら そのような空想を描いた人は、商人だけでなく為政者・技術者を含めて多数いたことでしょう。
でも、越前と近江を隔てる国境の山地を切り開いて 日本のパナマ運河 を建設する技術など ありませんでした。

明治時代になると、鉄道で結べないかということになります。
明治17年(1884)の柳ヶ瀬トンネルはその最初の成果でしたが、無理やり山地を越える鉄道は問題を残していました。
トンネル掘削技術が進歩した第二次大戦後になって、ようやく深坂トンネルルートが開通。
それでも敦賀との間には急勾配が残り、鳩原(はつはら)ループ線(1963)による改良を経て、現在の複線電化完成は1966年でした。

敦賀の先、今庄との間は嶺南・嶺北を分ける木ノ芽峠です。
木ノ芽峠や栃ノ木峠を越える街道が 杉津駅・山中峠越えの鉄道になり、更に 北陸トンネルによる新線に変ったのは1962年でした。
これを含め、敦賀近辺での交通路を主テーマとするこの記事集をまとめ、北陸新幹線開業の特集 とペアにしました。

記事追加 2015/4/22 2件(本州横断運河、畿内と近畿) 2015/4/28 1件


記事数=17件 更新日:2015年4月28日
記事#記事日付
記事タイトル
発言者
[49409]2006年2月23日
北陸本線ループ N-H
[49446]2006年2月25日
ループ橋コレ編集記(その3) 太白
[49452]2006年2月25日
鳩原ループ むっくん
[49454]2006年2月25日
Re:鳩原ループ N-H
[49455]2006年2月25日
交通機関が高低差を稼ぐ手法 N-H
[49460]2006年2月25日
鳩原ループ Issie
[84479]2013年11月26日
第10回オフ会旅行なぜだろう・どれだろう・なんだろうクイズ 白桃
[84484]2013年11月28日
おひさしぶりです〜 NTJ会長
[84485]2013年11月28日
クイズ・ループ 白桃
[87452]2015年4月5日
愛発越え 伊豆之国
[87455]2015年4月6日
畿内と越前とを結ぶルート hmt
[87465]2015年4月13日
日本海と琵琶湖とを結んだ鉄道は「東海道線」の一部だった時代もあった hmt
[87466]2015年4月14日
線路名称の区間表示 デスクトップ鉄
[87470]2015年4月15日
気比大神 木ノ芽峠 hmt
[87492]2015年4月22日
本州横断運河 hmt
[87493]2015年4月22日
畿内と近畿 hmt
[87498]2015年4月24日
所さんと、敦賀 ペーロケ


[49409] 2006 年 2 月 23 日 (木) 16:52:17 N-H さん
 北陸本線ループ
hmt 畿内から北陸へ

ループ橋コレクションに鉄道のループもあがっているので気がついたのですが、コレクション中北陸本線(上り)の敦賀のループの開通年が1882年とありますが、これはこの区間の北陸本線の開通年ですよね?
この付近は以前のルートから付け替えが行われて、ループができたのはずっと遅く1957年のことだそうです(参考資料)。またこの資料によれば、このループは「鳩原ループ」と呼ばれているみたいですね。

[49446] 2006 年 2 月 25 日 (土) 01:01:00 太白 さん
 ループ橋コレ編集記(その3)
hmt 畿内から北陸へ

[49407] あきすて さん
鳥飼仁和寺大橋でいいなら枚方大橋はどうでしょうか。
あとJCTがらみになりますが天保山も。
両方とも、ループの途中で分岐しているように見えるのですが…。

[49409] N-H さん
[49418] 北の住人 さん
北陸本線ループ
手元に昭和33年の地図があるのですが、この地図では木ノ本〜敦賀は旧線ルート(新線は建設中)になっており、鳩原の集落はループ線になっていません。ループが出来たのが1882年ではないことは明白ですが、単に、前年開業区間についての地図の更新が間に合ってない可能性もあることから、1957年開通かは裏が取れませんでした。(リストは1957年としていますが)

[49412] 今川焼 さん
和泉山脈中に隠れたループ
これは凄いですね。あと、こんな山奥のループもあるらしく、現地レポートを書いている方もいらっしゃいました。

[49422] たもっち さん
[49205]小松原ラガーさんの西宮山口南
これは単なる見落としです。確かに分岐していますが、大黒IC同様、おまけ的に採用します。

[49437] U−4さん
桃花台新交通システム
車庫に入るところに分岐はありますが、鉄道でこの形態は珍しいので採用しましょう。(廃止されるのであれば短命ですが)
あとの2つは平面交差のため、ループの定義からは外れますので、鈴鹿サーキットと一緒に番外編でも作りましょうか…。

[49452] 2006 年 2 月 25 日 (土) 06:05:25【5】 むっくん さん
 鳩原ループ
hmt 畿内から北陸へ

[49446]太白 さん ([49409] N-H さん [49418] 北の住人 さん)
北陸本線ループ・・・(略)・・・
1957年開通かは裏が取れませんでした。(リストは1957年としていますが)
http://www.geocities.jp/yasummoya/diesel/Diesel.htm
http://www.geocities.jp/akanouda/ED70/ED70.htm
の2つのHPより、木ノ本〜敦賀の現在の北陸本線上り線は1957年10月1日に交流電化で開業しました。
(もしも現在の上り線が開通したと考えないと、上り方向の貨物列車の運行が勾配の関係で不可能になってしまいます)
よって、現在の北陸本線上り線にある鳩原(はつはら)ループは、1957年10月1日に使用開始されたと考えられます。
[49418] 北の住人 さん同様に私もwikipediaだけでは正誤の判断はしない方針です。一応の参考にはしますが)
その後、木ノ本〜敦賀間はwikipediaによると
1963年9月30日 新疋田〜敦賀間
1964年9月24日 木ノ本〜余呉間
1965年8月9日 近江塩津〜沓掛信号場間
1965年9月23日 余呉〜近江塩津間
1966年11月30日 沓掛信号場〜新疋田間
の順に複線化されたようです。

この北陸本線への接続路線として建設された湖西線についての亀レスですが、
[14474]スナフキん さん
湖西線は全線、単線並列方式で信号管制を行っていたはずではなかったかな
確かに建設当初はこの方針だったのですが、開業後に実際に単線並列方式で信号管制を行っている区間は永原〜近江塩津間だけではないでしょうか。私の記憶違いかもしれませんが。

〈追記〉
私の鳩原ループの開業年度の推測は誤っていました。正しくは[49460]Issie さんの書き込みをご覧ください。

[49454] 2006 年 2 月 25 日 (土) 07:10:22 N-H さん
 Re:鳩原ループ
hmt 畿内から北陸へ

[49418]北の住人さん
[49446]太白 さん
[49452] むっくん さん
通称「鳩原ループ」の開通年検証ありがとうございます。
実は、かれこれ30年ぐらい前に鉄道ジャーナリスト種村直樹氏の本を見た際にループ線のことを集めたページがあって、そこで「上越線のループは複線化に際して後からできた線にはループが無いが、北陸本線は後からできたほうだけにループがある。これは戦後のことだ」といった記述があったのを覚えていたのです。
そこで適当にネットで検索してみていくつか出てきた資料を総合して判断し、その中で最もわかりやすく記述されていると思われたWikipediaを引用したのでした。
というわけで、
[49418]北の住人さん
私はこれも素直に信用しないものの1つになってます。
[49452] むっくん さん
私もwikipediaだけでは正誤の判断はしない方針です
私もまたご両人と同じスタンスでいますのでご安心を。
ちなみにWikipediaで「鳩原ループ」と出てきたので、あらためて「鳩原ループ」を検索ワードにして調べたのは言うまでもありません。

ところで鉄道のループ線はゆりかもめの例を除くとほとんどがトンネルの中というものが多く、実際に乗車してみて「ああ、ループだなあ」という実感がぴんとこないものが多いですね。
なかでは肥薩線の大畑ループがもっとも実感がわきますが、それとて道路の「ループ橋」を通るときの面白さには負けます。
それでも鉄道のループにことさら興味がわくのは、私的には「地図で見た目のおもしろさ」に起因しているような気がします。位相幾何学的に「輪っかになっている」というのはものすごく見ていて興奮するんですよねぇ。時刻表の地図でも律儀に輪っかで表現しているのも実用的にはあまり意味は無いはずなのに、何ででしょうね。

[49455] 2006 年 2 月 25 日 (土) 07:35:53 N-H さん
 交通機関が高低差を稼ぐ手法
hmt 畿内から北陸へ

さて、そもそもループ橋やらループトンネルがなぜ存在するのかというと、限られたスペースの中で交通機関が高低差を稼ぐための技術であるのはいうまでもありません。
そのような手法としてどのようなものがあるか。
(1)ヘアピンカーブ
(2)スイッチバック
(3)ループ
(4)閘門(こうもん)
先にあまりにも特殊な(4)について述べますと、これは水路交通で高低差がある水面間を行き来するための設備で、水路に2つの関門を設けて前後の水面の高さが違うものを中間部をバッファとして調節します。そこに船を入れて前後を締め切り、水を抜いたり入れたりして前方の水面の高さにまで変化させるわけです。
パナマ運河にあるものが有名ですが、実は東京にもあります。
ここです。
さて、(1)から(3)までは陸上交通。
このうち鉄道のみに存在するのが(2)のスイッチバック。道路じゃそんな手間のかかることするくらいならカーブでしのいでしまうということでしょう。小規模なものは私道などでは見かけますけれども。
ヘアピンカーブはいろは坂のように道路交通ではありきたりですが、鉄道ではそれらしいほど強烈なものはあまりなさそうですが、代表的なのは道路の「奥出雲おろちループ」を囲むようにしてある木次線のここでしょうか。
すぐ北の出雲坂根駅のスイッチバックともあわせ、いかに高低差のはげしい場所かがよくわかりますね。
ついでここ。これはまさにヘアピンカーブですね。

[49460] 2006 年 2 月 25 日 (土) 11:21:27【1】 Issie さん
 鳩原ループ
hmt 畿内から北陸へ

鉄道ピクトリアル誌1993年4月号(特集・北陸本線)に掲載されている「北陸本線 ルート変更の記録」という記事によれば,以下のような経緯であったようです。

1957年10月1日 木ノ本−近江塩津−(深坂トンネル)−新疋田−鳩原信号場 間開業
 ・鳩原信号場は,旧線(柳ヶ瀬線)との接続点
 ・深坂トンネルは,現上り線(米原方面行)
 ・新疋田−鳩原信号場−敦賀 間は,現下り線(敦賀方面行)ルート

1963年9月30日 新疋田−(鳩原ループ)−敦賀 間開業
 ・現上り線,鳩原ループ使用開始。新疋田−敦賀 間複線化。
 ・柳ヶ瀬線 疋田−鳩原信号場(−敦賀)間および 鳩原信号場 廃止。木ノ本−疋田 間の運行となり,疋田−敦賀 間はバス運行。

1964年5月2日 柳ヶ瀬線(木ノ本−疋田)鉄道営業廃止(12月1日よりバス運行)
1964年9月24日 木ノ本−余呉 間複線化
1965年8月9日 近江塩津−沓掛信号場(深坂トンネル塩津口)間複線化
1965年9月23日 余呉−近江塩津 間複線化

1966年11月30日 沓掛信号場−(新深坂トンネル)−新疋田 間開業
 ・下り線。木ノ本−敦賀間の複線化完成。

[49452] むっくん さん
もしも現在の上り線が開通したと考えないと、上り方向の貨物列車の運行が勾配の関係で不可能になってしまいます

つまり,1957年の深坂トンネル開通・塩津ルート開業により,峠のサミットが246mから143mに下がって峠の勾配は緩和されたのですが,この時点では敦賀側の上り(米原方面行)列車に対する上り25パーミル勾配は残っていたのです。
1963年9月30日の“複線化”が,ループ使用開始の日です。

*記事に掲載されている新旧線対照の縦断面図の見方を間違えていました。新疋田→敦賀間の下り列車に対する最急勾配は,その後も25パーミルのままであるようです。

[84479] 2013 年 11 月 26 日 (火) 19:24:29 白桃 さん
 第10回オフ会旅行なぜだろう・どれだろう・なんだろうクイズ
hmt 畿内から北陸へ

今回のオフ会に参加して私が少し頭を悩ませた出来事がありましたので、それをクイズにいたします。

問一:二次会でオーナーから類題が出されましたが、出雲空港と米子空港、直線距離にしてどちらが「松江しんじ湖温泉すいてんかく」に近いでしょうか?

問二:翌日私は豊岡市に泊りましたが、今や豊岡市となった城崎温泉を舞台にしたえらい短い小説、「城の崎にて」を発表したのは誰?
A.尾崎白桃 B.尾崎紅葉 C.滋賀名古屋 D.志賀直哉

問三:山陰本線の上りで、福知山の次の駅、「石原」は何と読むのだろう?

問四:昨晩宿泊した小浜市に関係ありそうで、一番関係のない人物は?
A.海原小浜 B.貫地谷しほり C.杉田玄白 D.バラク・オバマ E.水川あさみ
(お詫び:オフ会参加の皆さまにお送りしたメールで、Aの方をもう既にお亡くなりになったような書き方をいたしましたが、ご存命でした。ご本人はもちろん、関係する皆さま、大変申し訳ございませんでした。)

問五:敦賀を北陸本線で米原に向け出発し山沿いにさしかかったとき、進行方向の左下に湖のようなものが見えました。一瞬、琵琶湖かな?と思いましたが、結局それは、琵琶湖でも余呉湖でもなかったのです。それは何処で、どうして錯覚したのでしょうか?

問一、三、五は家に帰ってからわかりました。
問四は超難問です。(笑)

[84484] 2013 年 11 月 28 日 (木) 12:18:00 NTJ会長 さん
 おひさしぶりです〜
hmt 畿内から北陸へ

こんにちわ〜、お久しぶりです〜
(8年半ぶりっぽいです〜)

いきなりですが・・・
[84479]白桃さん
問五:敦賀を北陸本線で米原に向け出発し山沿いにさしかかったとき、進行方向の左下に湖のようなものが見えました。一瞬、琵琶湖かな?と思いましたが、結局それは、琵琶湖でも余呉湖でもなかったのです。それは何処で、どうして錯覚したのでしょうか?
ソレは、北緯35度37分14秒 東経136度04分17秒 付近での出来事ですね? ^^
アレを知らないで乗ると、「おぉぉ?!」だろな〜

[84485] 2013 年 11 月 28 日 (木) 15:45:30 白桃 さん
 クイズ・ループ
hmt 畿内から北陸へ

[84484]NTJ会長 さん
ソレは、北緯35度37分14秒 東経136度04分17秒 付近での出来事ですね? ^^
アレを知らないで乗ると、「おぉぉ?!」だろな〜
お久しぶりです。
ご明察です。
北陸本線の上り、敦賀〜新疋田のループだったのです。
ここを乗車するのは初めてではないのですが、ループがあるのをすっかり忘れておりました。
ループに入ってからトンネルを抜け視界が開けた所で見えたのは敦賀湾だったのです。冷静になって考えると、あんなに早く琵琶湖が見える筈がない。それも進行方向左の車窓に・・・。

[87452] 2015 年 4 月 5 日 (日) 22:33:31 伊豆之国 さん
 愛発越え
hmt 畿内から北陸へ

選抜高校野球は、福井県の敦賀気比高校が北陸勢として初めての全国制覇を果たしましたが、
[87447] ペーロケ さん
疋田超え
現在の敦賀市疋田付近と思われる場所に、今から1300年近く前の奈良時代、「愛発(あらち)関」という関所が設けられていました。この「越前国愛発関」は、伊勢国の「鈴鹿」、美濃国の「不破」と共に当時の「三関」の一つに数えられ、畿内から北陸方面へ向かう街道の防御上の重要地点として機能されていました。しかし、平安時代の初めに他の2ヶ所と共に廃止され、その後再び「三関」が復活した際には、「愛発」に代わって、平安京のすぐ近くに「逢坂関」が設けられることになり、「愛発関」はその後復活することなく消えて行きました([14561] まがみ さん)。「鈴鹿関」と「不破関」は、関所がなくなってからもそれぞれ「関(町)」「関ケ原」の地名を残し、また後世には東海道、中山道の重要な通過点として機能していたのに対し、「愛発関」の記憶は時とともに忘却の彼方に去って行き、かつて関所があった場所も今でははっきりわからなくなっているようなのです。明治22年の町村制施行で、疋田など12村の合併によって愛発村が発足するのですが、統合前の村名に「愛発」というのはなく、おそらく江戸後期までには「愛発」の地名は既に消失していたような気がします。その愛発村も、昭和30年に敦賀市に編入されてその名が消え、現在は市内の町名・大字としても残っていないようです。

さて、この「愛発関」にまつわる話として、渡辺久雄氏著「忘れられた日本史」(昭和45年初版、[72732])の中で、「関所と間道」という一節で取り上げられています。この記事では、この「愛発関」が絡んだ奈良時代の大事件「恵美押勝の乱」の顛末と、当時の近江・越前国境を挟む地域の交通路と地形の関係、それに直接「愛発関」とは関係ないものの、やはり近江から越前へと落ち延びて行った源義経と新田義貞の脱走ルートと、後世の「北国街道」との関係などが書かれており、最後の部分では「愛発関はどこにあったのか」という考察と実地踏査のことが書かれていました。
この本によると、奈良時代頃には、畿内と北陸を結ぶ幹線ルートとして、大津からほぼ現在の国道161号線に沿うルートで、旧マキノ町から県境を越え、疋田を経て敦賀に向かう「西近江路」がメインとされ、陸路よりも、むしろ大津から船で琵琶湖を縦断して海津(旧マキノ町)で再び上陸するほうが多用されたこと、「愛発関」を突破して越前に逃れようとした押勝が朝廷軍の防戦にあって退却を余儀なくされ、結局湖上と陸路とを右往左往した末に捕らえられて最期を遂げたことが書かれており、また「義経と義貞の脱走ルート」に関係する部分では、江戸時代の1815(文化12)年に書かれた「越前国名蹟考」という本に記されていた地図に示されていた、当時の主要街道や「裏街道」など、必要な箇所を写した地図が出ており、現在北陸トンネルが貫通している「木の芽峠」越えの道と、戦国時代に柴田勝家によって開かれたと伝えられる北国街道、それ以前に「西近江路」に次ぐ正規の街道として存在したといわれる塩津街道、やはり北国街道前からあったといわれる高時川沿いの大回りルート(現在の滋賀県道285号に相当)などと、さらにこれらの道筋がいずれも断層に沿った構造谷に沿っており、こうした地形を利用して道が開かれたのではないかとの推測も書かれていました。
最後にある「愛発関の位置の推測」では、当時運行されていた、海津方面から県境越えのバスに乗って、近江・越前の境界線上にある、その名も「国境(くにざかい)」という場所でバスを降りて敦賀方面へと、「西近江路」に当たる国道161号線を下って歩いたときの「道中記」が書かれ、「国境から疋田の間までは、両側に山が迫って関所を置くのに適した土地が見当たらず、結局「西近江路」と、現在の国道8号のルートに当たる「塩津街道」、それに後の「北国街道」から「椿坂峠」の手前で分かれて西へ向かう道が落ち合う、現在の「疋田」付近こそが「愛発関」が置かれた場所にふさわしい、と締めくくっています。
現在の疋田地区には、「愛発公民館」が建っています。

…落書き帳の過去記事から「愛発」を検索すると、8件ありました。しかし、そのうち7件までが2003(平成15)年までの古い書き込みであり、しかも「愛発関」そのものや、関所を越える街道について具体的に書かれた記事は見つからないようでした。最新である[85668] (白桃 さん)の書き込みも、「麻雀地名」ネタとして取り上げられているだけでした。

「近江・越前国境を越える交通路」というと、北陸本線のルートと、その変遷について書かれた過去ログのほうは、いくつか見つかりました。福井県の旧越前国内で「嶺北」と「嶺南」とを分ける「木の芽峠越え」の箇所は、昭和37年の北陸トンネル開通により、それまでの山越えルートより距離・勾配ともに大きく緩和されたのですが([61344] hmt さん)、滋賀・福井県境を越える箇所、木之本(駅名は「木ノ本」)〜敦賀間のルートも、それと相前後して付け替えられ、昭和41年までに現在の線形が完成しています([49460] Issie さん)。旧ルートである「柳ヶ瀬越え」の区間は、木ノ本から椿坂峠の手前までは北国街道(現在の国道365号線)に沿い、旧余呉町内の「椿坂峠」の手前で北国街道と分かれ、県境を「柳ヶ瀬トンネル」で抜けて敦賀市域に入り、疋田の先で現在のルートに合流していたのですが、急勾配が連続する山岳路線で、当時のSL列車も峠越えの急坂に難渋し、特に「柳ヶ瀬トンネル」はその中も急な上り坂になっていて、列車がしばしば立ち往生し、機関士が「失神」して窒息死するといった事故も起こり、「魔の路線」として名高かったそうです。そのため、早くから路線付け替えの計画もあったようですが、実現したのは戦後になってからで、その経過は[49460]にある通りでした。旧ルートが路線切り替えと同時に廃線となった北陸トンネルの前後と違って、「柳ヶ瀬越え」のほうは旧線もしばらく残されていたのですが、当初は単線で開業した新ルートが、登り坂になっている上り線をループ線による別線複線化の工事により、旧線は複線化の完成前の昭和39年までに全廃となっています。路線跡は国鉄バスの専用道路となり、柳ヶ瀬トンネルもバス道路として使われていたのですが、それも現在では県境越えの区間は廃止され([48920] むっくん さん)、残った部分はそれぞれコミュニティバスが細々と運行されているという状況になっているようです。敦賀から上り線に乗ると、ループ線から見える敦賀湾の水面が、周囲の状況をよく知らない乗客からは、一瞬「もう琵琶湖が見えるのか」と錯覚させるように見えるのは、ちょっとした話題になっていました([84479],[84485] 白桃 さん、[84484] NTJ会長 さん)。

…先日、青函トンネルの中で列車の床下から煙が発生し、乗客全員が近くの「竜飛海底」駅(既に駅としては廃業)まで歩き、そこから隣接する「青函トンネル記念館」の地中ケーブルカーを使って地上に避難した、という事故がありました。これを聞いてとっさに思い出したのが、昭和47年に北陸トンネルの中で起きた列車火災。食堂車から火が出て、多数の死者が出た大惨事でした。この事故がきっかけとなって、食堂車が国鉄〜JRから次々と消えて行ったのはよく知られているのですが、ついにJRの定期列車から絶滅してしまった「ブルートレイン」の衰退も、あるいはこの「北陸トンネル事故」がその遠因の一つとなったようにも思えるような気がするのですが…。

[87455] 2015 年 4 月 6 日 (月) 22:34:38【3】 hmt さん
 畿内と越前とを結ぶルート
hmt 畿内から北陸へ

[87452] 伊豆之国さん
畿内と越前とを結ぶルートの境界に設けられた「愛発関」(あらちのせき)。
古代三関の一つとして名前だけは知っていましたが、歴史に記録された具体的な役割については知りませんでした。

この「愛発関」が絡んだ奈良時代の大事件「恵美押勝の乱」の顛末

橘諸兄[64972]を排除して政権を握ったのは藤原南家の仲麻呂。とは言っても、極盛期だった天皇の権力によって奈良の大仏が作られた時代のことです。真の権力者は聖武天皇の一人娘・孝謙女帝でした。藤原仲麻呂は 女帝の最初の愛人になって 権力を委ねられ、恵美押勝という名も得たのです。
押勝は女帝の下で唐の文化を手本に 一時は国政を思いのままに操りました。しかし、やがて強力なライバルが出現。
それが 病勝ちの孝謙上皇と親しい関係になった 弓削道鏡でした。
恵美押勝は傀儡の淳仁天皇を通じて上皇に諫言したが怒りを買い、対立する結果になりました。
そして権力回復を図るも先手を打たれて敗退。
越前国守の息子と共に再起を図ろうとした内乱の拡大を防止したのが 愛発関だったのですね。福井県文書館

戦国時代に柴田勝家によって開かれたと伝えられる北国街道

柴田勝家の本拠地・北ノ庄。現在の地名は福井[64833]です。
この地と信長の安土城とを北から南へと最短距離で結ぶルートは、越前と近江の国境を「栃の木峠」で越える 北国街道 でした。
♪今庄朝立ち、木の本泊まり、中の河内で昼弁当♪ と歌われた近世のメインルートです。

鉄道の時代になってからは、海運・陸運の連絡輸送拠点である「敦賀」経由がメインルートになり、栃の木峠越えは寂れました。
「栃の木峠越え」という言葉は、「畿内から越前へ」を意味する言葉として使われる機会はなくなっているのでしょうか?

敦賀経由で「栃の木峠越え」から離れた鉄道ルートですが、木之本以北も柳ヶ瀬トンネル【注】の手前までは北国街道沿いでした。
【注】
1352mの柳ヶ瀬トンネルは、1884年開業時には わが国で最長の鉄道トンネルでした。これも近江越前国境です。
ところが断面が小さく急勾配のトンネルは、1928年に延べ5人の乗務員が窒息死する事故を起しました。

事故対策は、余呉から西に折れ 近江塩津経由 深坂トンネル 5170m で近江越前国境=滋賀福井県境を越える新線です。
この北陸本線新線は 戦争等の影響で遅れたものの、1957年に開業しました。同時に北陸本線の交流電化が始まりました。
このルートで福井県に入るのを「疋田超え」[87447]と言うのは、最初の駅が新疋田だからでしょうか?
でも「疋田」は峠道の名ではなく、偶々旧線の駅名に使われていた集落の名ではないでしょうか。
新線のトンネル名に使われている「深坂」は 峠や山の名 です。このルートの呼び名は「深坂越え」の方が適切と思われます。

旧北陸本線は当面柳ヶ瀬線として残されましたが、1964年の複線化を機会に廃止されました。

以上、古代北陸道の「愛発越え」、近世の北国街道「栃の木峠越え」、鉄道時代初期の「柳ヶ瀬越え」、戦後電化時代の「深坂越え」(疋田越え?)という移り変わりを概観しました。
いずれも越前・近江国境ですが、福井県・滋賀県の県境という枠に広げれば、若狭・近江県境の「鯖街道」など、別の視点のルートも加わると思います。

そして、やがては北陸新幹線が大阪まで全通する時代に。
敦賀から先のルートは未定のようです。丹波から若狭に通じる新たな「○○越え」が登場するのでしょうか。 参考

[87465] 2015 年 4 月 13 日 (月) 23:22:02【1】 hmt さん
 日本海と琵琶湖とを結んだ鉄道は「東海道線」の一部だった時代もあった
hmt 畿内から北陸へ

少し間が空きましたが、[87455]畿内と越前とを結ぶルート の続編です。
[87542] 伊豆之国さん
「近江・越前国境を越える交通路」というと、北陸本線のルートと、その変遷

最初に、明治25年の 鉄道敷設法[61108] に 予定線路として記されていた区間を示します。【地名の頭の○○県下を省略】
北陸線 敦賀より金沢を経て富山に至る鉄道 及 本線より分岐して七尾に至る鉄道
北陸線及北越線の連絡線 富山より直江津に至る鉄道
北越線 直江津又は前橋若は豊野より新潟及新発田に至る鉄道
ご覧のように日本海縦貫線のうち敦賀から北の部分を主とするものですが、上越線や飯山線にも言及しています。

それはさておき、この法律では敦賀から南の鉄道には触れていません。
それは 明治15年に 金ヶ崎【敦賀港】−長浜間が既に開通していた から当然のことなのでした。
太湖汽船【初代頭取は藤田伝三郎[67436]】が運行した鉄道連絡船は浜大津に通じ、日本海と京阪神との間は鉄道で結ばれることになりました。
当初は徒歩連絡だった柳ヶ瀬トンネル区間も 明治17年(1884)に開通[87455]
関ヶ原・米原・馬場【膳所】間の開通により陸路による新橋神戸間が全通したのは明治22年(1889)でした。

北陸線グループの幹線という意味で現在も使われている「北陸本線」という名称は、明治42年(1909/10/12)の鉄道院告示第54号で 誕生しました。私鉄17社の買収が完了した 鉄道国有化の2年後でした。
国有鉄道線路名称左の通定む 北陸線 北陸本線(米原魚津間及貨物支線)、七尾線(津幡矢田新間)

これは国有化後の名称ですが、現在北陸線と呼ばれている区間のうち最も歴史の古い敦賀長浜米原間の官設鉄道は何と呼ばれていたのか?

明治26年鉄道局年報 を見ると 鉄道線路哩程延長・建設費の表があり、東京横浜間【注1】など8区間が示されていました【注2】。
【注1】 もちろん東京駅開業前ですが、新橋横浜間ではないのですね。つまり駅間でなく、都市間で表したらしい。
【注2】 横浜・神戸・敦賀・直江津と 鉄道建設資材荷揚用の港湾名[61303] が目立ちますが、武豊が脱落?

それはさておき、注目すべきは「敦賀大垣間」です。アレ? 東海道線と北陸線に跨っている。
よく見ると、東京神戸間を全通している現在の東海道線は、横浜・大垣・長浜・大津で5つの線区に分断されています。

明治27年鉄道局年報 でも同様なのですが、営業収支を示した87コマでは東海道線、信越線、奥羽線と現在と同様の線区名が登場し、88コマで次のように説明されています。
表中東海道線とは前年度まで東京神戸間、大船横須賀間、大府武豊間、米原敦賀間の4区間に区別したるものを合併改称し…

言及された前年度の表は17コマで確認。こちらには大府武豊間も記されていました。
「東海道線」という線区名は、合併改称により明治27年度(1894)に誕生したものでした。
それは現在の東海道本線、横須賀線、武豊線、北陸線の一部(敦賀以南)を総称したものでした。

既に完成していた米原敦賀間は、建設中だった敦賀から先と区別され、営業上は東海道線の一部という扱いだったのですね。
明治29年7月に敦賀福井間が営業を開始した時点で、米原以北を含めて営業線としての北陸線が登場したようです。

[87466] 2015 年 4 月 14 日 (火) 18:01:10 デスクトップ鉄 さん
 線路名称の区間表示
hmt 畿内から北陸へ

[87465] hmt さん
明治27年鉄道局年報 でも同様なのですが、営業収支を示した87コマでは東海道線、信越線、奥羽線と現在と同様の線区名が登場し、88コマで次のように説明されています。
表中東海道線とは前年度まで東京神戸間、大船横須賀間、大府武豊間、米原敦賀間の4区間に区別したるものを合併改称し…
(中略)
明治29年7月に敦賀福井間が営業を開始した時点で、米原以北を含めて営業線としての北陸線が登場したようです。
「日本国有鉄道百年史」第4巻には、「明治28年2月23日鉄第366号(局長達)で、全国の官設鉄道の線路名称を統一し、創業以来はじめて各線の線路名称が定められた」と書かれています。その鉄第366号は、
来ル二十八年度ヨリ従来ノ営業区間ヲ廃シ更ニ左ノ通相定メ候条此旨相達候也
一 東海道線
 旧東京神戸間、大船横須賀間、大府武豊間及ヒ米原敦賀間(但シ敦賀ステーション迄)ヲ合併シテ本線ト称ス
一 信越線
 旧高崎直江津間ヲ本線ト称ス
一 奥羽線
 福島青森間ヲ本線ト称ス
一 北陸線
 敦賀富山間ヲ本線ト称ス(但シ敦賀ステーションヲ除ク)
というものです。東海道線、信越線、奥羽線の名称は、その1年前の明治27年の鉄道局年報に出ていたのですね。しかし、北陸線の名称は明治29年ではなく、28年に登場しています。

線路名称において、新橋ではなく東京を用い、敦賀と敦賀ステーションを使い分けている(東海道線は敦賀駅まで、北陸線は金ケ崎富山間、但し敦賀駅は東海道線所属と読めます)ことから、おっしゃるように、区間表示は「駅間でなく、都市間で表した」ように見えます。しかし、ここに登場する13の地名のうち、大船と米原だけは、市町村名ではなく、駅名です。
当時大船は小坂村で、1933(昭和8)年2月11日町制施行して大船町になりました。また米原は入江村で、米原町になったのは1923(大正12)年11月15日です。駅名のほうが有名だったのでしょうか。この時点の線路名称はあまり厳密なものではなかったようです。

[87470] 2015 年 4 月 15 日 (水) 18:12:38【1】 hmt さん
 気比大神 木ノ芽峠
hmt 畿内から北陸へ

かつては 敦賀ウラジオ航路を介して ヨーロッパに向う交通路の結節点であった敦賀。
外国貿易港や鉄道基地としての賑わいも 過去のものとなった現在ですが、選抜高校野球大会における敦賀気比高校の優勝で注目され、落書き帳でも話題になっています。

こちらでの話題の中心は畿内と越前とを結ぶ交通路ですが、ここで初心に戻り「気比」(けひ)について。

気比神宮・主祭神の気比大神(伊奢沙別命)は海神・食物神のようです。古代の人にとっては、渤海国など海外を含め、海産物や舶来品を手に入れることができた地、それが敦賀だったのでしょう。海外と言えば、神功皇后の三韓征伐とも関連し、気比大神は朝廷から重視されました。越前出身の継体天皇も関係していると思われます。

気比神宮は明治以後の称号でしょうが、越前国一宮として崇められ、古代からの北陸総鎮守だったものの、南北朝動乱では敗け組になりました。戦国時代も朝倉方で織田信長の侵攻を受けるなどして衰退。

落書き帳で「気比」を検索すると 大多数は高校野球でしたが、その中で気比の松原[16538][58771][61217]が健闘。

明治20年頃の敦賀駅は 気比神宮に隣接していたそうです。
明治26年鉄道局年報に 福井に向う線路を説明し、敦賀停車場から既成線に沿って南進し左旋して東北に向うとあります。その後に駅を南に移してスイッチバック線形を解消したようですが、[87466]で東海道線と北陸線の接点とされた敦賀ステーションが移転後なのか否かは判りません。

それはさておき、上記で引用した年報には 敦賀森田間の線路工事景況が説明されています。
森田は後に九頭竜川北岸にできた森田駅ではなく、工事の終点であった九頭竜川南岸を指していたようです。

「葉原より西北行…屈曲極めて多し…杉津の東に出て山腹を迂回…隧道橋梁交互相接し」などの記述を経て山中峠に達し、「葉原より此に至る4哩半余は 本線中至難の工区」 と記しています。

[61344]でも引用した北陸本線旧線地図を再びリンクしておきます。赤線が明治27年(1894)開通の旧線です。
青線は昭和37年(1962)開通の北陸トンネル経由の新線、緑線が昭和52年(1977)開通の北陸自動車道です。
越前海岸の絶景を展望できる唯一の駅であった杉津駅の跡は 杉津PA上り施設に利用されています。

工部省沿革報告に記された 明治14年6月井上鉄道局長の加越地方巡視復命書には、「江越の境界は 栃の木・木の芽の峻嶺を開通して敦賀線に連絡するは容易の業にあらず」と記されており、これを後回しにする姿勢でした。
しかし、それから15年後の鉄道局年報にあるように、「北陸線は本年度(明治29年)7月15日を以て運輸営業を開始」することができたのでした。

60年前にSL牽引の準急「ゆのくに」で通ったはずの旧線ですが、残念ながら天気が悪く 印象に残っていません。
地理院地図も付けておきます。2段階拡大すると、旧道の木ノ芽峠が北陸トンネルの真上近くを越えていることがわかります。

この木ノ芽峠。別名が「木嶺」で、福井県を分ける嶺北・嶺南という言葉はこれに由来します[85057]
多くの人口と文化とが集積された嶺北の福井(足羽県)は、港湾都市敦賀の拡大を見据えた敦賀県への統合(M6)に反発。
明治9年に敦賀県を分裂・消滅させるに至った騒動[85057]は、嶺北・嶺南を隔てていた木ノ芽峠の険しさを思わせます。

もっともこの措置は嶺北を併合した石川県に混乱をもたらしたようで、明治14年には分県して福井県新置となりました。
嶺南4郡については 滋賀県から離れなければならない積極的な理由はなかった とも言われますが、結局は現在の福井県に落ち着きました。

[87492] 2015 年 4 月 22 日 (水) 13:47:18 hmt さん
 本州横断運河
hmt 畿内から北陸へ

[87452] 伊豆之国さん 愛発越え に始まり、敦賀近辺の鉄道に関する記事がいくつか続きました。
そこで、2006年の鳩原ループの記事と合せて hmtマガジンの特集に仕立てることを考えました。

新しい特集の骨格は 何よりも記事 ですが、それと共に「特集のタイトル」と「まえがき」も必要です。
今回「まえがき」に据えたのは、港湾都市・敦賀が交通路の要衝になった原因である その特異な位置です。
本州日本海側で大きく湾入した若狭湾の東部、敦賀湾として更に深く入り込んだ最奥で、その先には琵琶湖。

琵琶湖と言えば 淀川の源流[67664]。ということはシロウト目にも本州横断運河構想に結びつきます。
これについては予備知識がなかったのですが、近代以前の日本ではパナマ運河のような工事は技術的に無理 ということで片付け、鉄道の話につなげて2015/4/16に 登録しました

これで「まえがき」の形は一応できたものの、やはり 本州横断運河構想 が気になります。
調査したところ、本州横断 運河計画 水運ネットワーク というページがあり、これを手掛りに調査を進めてみました。

海運・貿易によって天下を握った平清盛。その嫡男・平重盛が越前国司であった時代に 敦賀琵琶湖の運河が計画されたという伝説があるそうです。敦賀から笙の川を遡り、深坂峠を切り開いて大川で近江塩津に至るルートでした。その名も「堀止地蔵」という別名を持つ深坂地蔵が 計画断念の遺跡とのこと。参考

近世にも いくつかの計画があり、19世紀初頭に 大阪商人の資金で山中峠経由ルートの改修が行なわれ、幕末まで利用され活況を呈した と記されていました。
地理院地図を見ると、七里半越【現在の国道161号】の国境【「くにざかい」という地名らしい】には 389mと記され、付近にはスキー場が作られています。疋田で合流する笙の川の支流・五位川は 曳舟によってどこまで遡れたものか知りませんが、いずれにせよ近江側の知内川とを結ぶ全区間を 無理に舟運でつなぐというものではなく、道路による峠越えを併用した 現実的なルートであったようです。

幕末の加賀藩運河計画は実現しなかったものの、新湊博物館「高樹文庫」資料中の越前・近江関係には 越前近江糧道測量絵図 慶応三年 その他が残されています。

近代になると 1903年にアメリカが着工した パナマ運河【1914開通】に倣った 閘門式運河計画が登場。
1905年には 貴族院で 日本海から琵琶湖経由大阪までの汽船通船計画が採択されたが、日露戦争で実現できず。参考

昭和恐慌をようやく抜け出た頃の 田辺朔郎による運河計画も、5億円の工費とあって 実現は前途遼遠と伝えられています。

最後に戦後の高度経済成長時代。
海外では 外洋の航行が可能な大型船を五大湖に通じる セントローレンス海路 が1959年に開通。
今度の本州横断ルートは、伊勢湾と敦賀湾とを結ぶ計画で、三重県が熱心だったそうです。
大野伴睦氏を会長とする建設促進期成同盟会を 1962年に設立。岐阜県に港を作る構想もあったようです。中日新聞

でも、もう高速自動車道の時代が近づいており、1965年には名神高速道路が全線開通。
運河構想が日の目を見ることはありませんでした。

[87493] 2015 年 4 月 22 日 (水) 16:04:51 hmt さん
 畿内と近畿
hmt 畿内から北陸へ

[87492] に引き続き、hmtマガジンの特集「畿内から北陸へ」に関する補足記事です。

特集名に 安易に「畿内」という言葉を使いましたが、これは都が京都に移るよりずっと前の言葉でした。
机上の『大辞林』の説明を見たら、律令国家を形成した諸氏族の居住地域【山背・大和・河内・摂津】を行政上特別扱いして四畿内(和泉の分立後は五畿内)と呼んだとのこと。つまり古代国家の「首都圏」を意味していたのですね。
なお、「畿」の意味は王城から五百里【周では200km余】。(漢和辞典)

具体的な範囲が記されている日本書紀・大化二年(646)改新の詔によると、東は名張の横河、南は紀伊の兄山【葛城】、西は赤石【明石】の櫛淵、北は近江の合坂山【逢坂山】迄でした。
都が難波や飛鳥にあった時代ですから、京都から山一つ隔てただけの近江は畿内ではなく、東山道所属なのでした。

従って、近江から越前へのルートを「畿内から北陸へ」と表したのは問題であることを認めざるを得ません。

そこで考えた屁理屈。ここでは平安時代以後を問題にしているので、畿内の範囲は改新の詔を根拠とするのでなく、「京都が都であった時代の首都圏」と解釈していただきたい。

近江は天智天皇時代に短期間ながら大津京が置かれた実績もありますが、それ以上に平安遷都以来千年以上の間に「首都圏」に組み込まれていました。
タイトルの説明だけならば、「畿内から(近江経由で)北陸へ」を短縮したもの と解釈することもできます。
しかし、「京都基準の首都圏」という形で 近江を畿内の中に取り込む解釈 の方が、むしろ適切なように思われました。

もちろん都に近い国々という意味では、「近畿」という言葉を使う方が一般的でしょう。
白桃さんは[86442]で滋賀県を含むブロックを「畿内」と名付けた後、これを適切でないとして、素直に「近畿ブロック」に修正していました。

今回の記事は、[87452]で使われていた“畿内から北陸方面へ向う街道”に影響されて、畿内と越前とを結ぶルート[87455]から戻れなくなってしまったhmtの悪あがきです。ご容赦ください。

[87498] 2015 年 4 月 24 日 (金) 23:02:46【1】 ペーロケ さん
 所さんと、敦賀
hmt 畿内から北陸へ

所さんのニッポンの出番

 最近あまりゴールデンタイムにテレビを見られない仕事環境なので、リアルタイムで見るのは不可能なので、ググってみると、早速動画がアップされていました。まあ、リンクを貼りたいのはやまやまですが、著作権法違反に抵触する行為かもしれませんし、ちょっとそのあたりの法律には詳しくないので控えます。色々と勉強になりますよ。

[87455]ほか hmt さん
[87452]伊豆之国 さん
私が「疋田超え」と称した滋賀県〜敦賀へのルート、確かに「愛発超え」の方がふさわしいですね。疋田と称したのは、実は超えたであろう峠が複数あって、どれがメインだったのか分からなかっただけなのですが(苦笑)詳しい解説をありがとうございます。
 敦賀という街、昔から気になっていました。近畿地方の地図の上の方に敦賀は入るのですが、シティーライナーで繋がっていますし、ほとんど近畿地方と言ってもいいくらい。福井県内の位置関係でも、敦賀は嶺北じゃないのに若狭でもない、逆に言えば、越前なのに嶺南という不思議な位置関係ですね。越前なのに、越前本体との間には際しい木の芽峠[87470]があり、JRで言えば北陸本線で最長の北陸トンネル、北陸自動車道は2本に分かれて上下線がクロスするといった珍しい光景も見られます。ここまでしないと超えられない嶺北と嶺南間の「嶺」を挟んでも、越前が手放さないのも頷けるような良港であり、古来より交通の要衝だったんだろうなと想像できました。近江との峠よりむしろ越前本体との「嶺」の方が険しいのではないか。とも思えるほど。
 そういえば、この「嶺」ではありませんが、6年前のゴールデンウィークに国道8号で嶺北〜敦賀超えをしたことがあります[69963]。国道8号は木の芽峠とは異なり、武生から河野付近とかなり北の方で峠を越え、長い区間を海を見下ろしながら長い坂を下っていく感じですね。残念ながら夜でしたのであまり景色は見られませんでしたが、昼間だったらさぞ美しいでしょうね。。。

※追加

[87493]hmt さん
散々言われてきたことですが、そもそも、近畿の定義もあいまいですからねぇ。。。福井は?三重は?とか。ちなみに福井県は近畿地方整備局管内ですし。



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