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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

シリーズ・地域の地理雑学−大分県編−

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記事数=20件/更新日:2004年2月17日/編集者:YSK

別府や湯布院などの温泉地、椎茸や関サバなどの名産、一村一品運動などで知られる大分県に関するメッセージ集です。本「落書き帳」常連のなおさんがお住まいですね。

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★推奨します★(元祖いいね) なお

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[166]2001年2月20日
Issie
[471]2001年11月13日
ブルーアイズ
[1405]2002年5月6日
なお
[1742]2002年6月4日
Issie
[2998]2002年9月10日
YSK
[4530]2002年11月4日
Issie
[6499]2002年12月15日
白桃
[8011]2003年1月21日
そゆーず
[8039]2003年1月22日
そゆーず
[8049]2003年1月22日
そゆーず
[10018]2003年2月28日
なお
[11256]2003年3月15日
なお
[12309]2003年4月2日
なお
[12387]2003年4月3日
Issie
[12743]2003年4月9日
なお
[13562]2003年4月20日
なお
[17794]2003年7月4日
なお
[17844]2003年7月5日
三丁目
[17845]2003年7月5日
太白
[17850]2003年7月5日
地球人

[166] 2001年 2月 20日(火)23:26:04Issie さん
Re:市制順序その他について
>前田宏治さん

>ところで、各都道府県ごとの市制施行順を見ると20世紀になってから
>市が登場した県というのがあります。(しばしば問題になる北海道と沖縄
>はとりあえず除外)地域的に九州東岸と関東になぜか固まっているように
>見受けられますが、やはり人口の集積が進まなかったからでしょうか。

面白そうなので,これに関する表を次のページに掲載してみました。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/cities/c-oldest.htm

20世紀になって初めて「市」が設置されたのは(北海道と沖縄県を除くと)大分県(1911年),千葉県(1921年),埼玉県(1922年),宮崎県(1924年)ということになります。
近世から近代初期にかけて日本の都市のほとんどは城下町でした。1889年に最初に市制を施行した都市の多くも城下町ですね。上の4つの県の領域はいずれも小藩に分割されていた地域で,それに比例して城下町も小規模なものでした。
この4県だけでなく,市の設置の遅れた県のほとんどは,小藩が分立してて大きな城下町が発展しなかった地域です。

徳川氏の領域の根幹たる関東地方の場合は言うまでもなく,江戸のまわりを徳川氏に最も忠実な(であろう)譜代の小藩でかためていたわけで,1889年のうちに市制施行したのは東京市と水戸市(水戸家35万石),そして生糸の輸出港として急速に発展した横浜市だけです。
埼玉県で最初の「市」は川越市。これも,県内では一番大きな城下町だからですね。中仙道の宿場町としてもあまりサエない存在の浦和が行政機能を集積させて市になる前に,熊谷にも先を越されています(熊谷も県庁所在地だったことがあるのですが)。
千葉県も似たような話。こちらの場合は,最大の城下町であった佐倉の集積度が川越よりもさらに劣っていたのでしょうね。

大分市(旧称:府内)の場合,戦国時代には大友氏の本拠地として,また南蛮貿易港として発展していたのですが,徳川政権下,豊後は徹底して分割支配されているのですね。府内は,わずか2万石クラスの城下町に転落します。それが,府内あらため大分市への人口集積を遅らせたのかもしれません。
宮崎市の場合はさらに,もともと宮崎神宮があるという以外には特徴のない小集落にすぎず,宮崎神宮自体も明治政府の保護下で整備され発展したものです。その小集落が,薩摩藩そして鹿児島県の管轄下にあった日向南部(都城が中心)も加えて日向1国全体を管轄する県が設置されてはじめて県庁所在地となり急速に人口を集積させ都市に発展していったのです。つまり,「市」となるのにふさわしいだけの人口を集めるのにそれだけの時間がかかったということでしょう。
[471] 2001年 11月 13日(火)17:19:51ブルーアイズ さん
大分市と大分町
初めまして
現在の大分市は昭和二十九年~昭和三十八年の間
大分市(旧)大分町、鶴崎市、大南町、大在村、坂ノ市村
に分かれていました。ということはその間、「大分」が二つあったと言うことです。参考になりますかな?
[1405] 2002年 5月 6日(月)20:25:06なお[KN] さん
グリグリさんへ
本当にKUDO NAOKIは去年考えなしにつけた名前で僕が投稿しています。
昨日父の話を聞いたのですが、大分駅が高架化すると聞きました。
高架とは東京、大阪などでよく見ますが大分では別府と中津にしかありません。
駅も立て替えするとかしないとか。
人口は50万を目指している大分市ですが、問い合わせてみると統計と同じ47万人を構造を作り直しているそうです。
まだ10代なのですがよろしくお願いします。連続投稿すいません。
[1742] 2002年 6月 4日(火)20:45:21Issie さん
日田郡
負けなかったですね。歴史的な超大金星です。
(冷静にものを考えろ。「初めてリードを取った」チームだぞ。「初めて勝ち点を取った」チームだぞ。日本の実力は,まだまだその程度なんだ。トーナメントなんて出られたらそれだけで歴史的大勝利。期待だけはしましょうね。)

で,本題。
日田郡が大分県というのは,水系や今の県域で判断すると少し奇異に感じるのですが,要は日田郡が古代の律令時代以来「豊後」に属していたから,そうなっただけですね。
今の福岡県と大分県という区分からすると,筑後川上流域の日田郡が豊後,そして大分県というのは変です。でも,北九州市の小倉(←豊前国企救郡)と戸畑(←筑前国遠賀郡)の境界から始まる「筑豊国境」をたどっていくと,日田郡が豊後そして大分県に属しているのは自然に見えてきます。ちょうどこの線が九州にとって「南北の“正中線”」に相当するのですね。
日田盆地からは筑紫(つくし)の中心たる博多よりも,豊(とよ)の中心地域である瀬戸内海海沿岸の京都(みやこ)郡や宇佐地方に近いですね。ヤマトからのアプローチなら当然,瀬戸内に面したトヨ(京都郡周辺)やオホキタ(大分郡周辺)からヒタ(日田)に入ったことでしょう。
7世紀頃に,ヒタ地方が「トヨ」改め「豊後」に属したのは,そんなつながりがあるんじゃないかしら。

小国が肥後,というより「アソ(阿蘇)」に属するのは,よくわからないですね。ヤマトの影響下に入る前からアソの支配下にあったんでしょうか。
「小国」という地名は外に越後(新潟県)や出羽(山形県)にもあるのですが,肥後のそれも含めて,どれもが「をぐに」という地名のとおり,こじんまりした地域を構成しています。そして,時に応じて周辺地域に含まれたり含まれなかったり。

越後の小国の場合,現在は刈羽郡に属していますが,過去には魚沼郡に属したり,独立していたり。刈羽郡というのは本来,柏崎で日本海に注ぐ河川の水系を領域とするのだけれど,小国地方(小国町)は信濃川水系の渋海川の谷間であり,実際に(刈羽郡の)柏崎よりは(古志郡の)長岡との結びつきが強い。
出羽でも肥後でも,「小国」というのはちょっとまわりとは違ったまとまりを持ってきているのかもしれません。
ちなみに,ウチの母方の田舎は新潟県小国町。林家こん平が言うところの「チャーザァ村」です。
[2998] 2002年 9月 10日(火)22:51:01YSK さん
一般的な呼称と自治体名が違う自治体
[2995]
私も、真鶴町が「まなつるまち」であることは知りませんでした。

同様の例として、滋賀県米原町があります。
この町の代表駅は言わずと知れたJR東海道線他の米原(まいばら)駅ですが、自治体名は「まいはらちょう」ですよね。

また、読みが違うというわけではないのですが、大分県天瀬町の例があります。
この町の町名は、「天ヶ瀬温泉」からとられています。
しかし、1955年に中川村・馬原村・五馬村の合体により誕生したのは天ヶ瀬村ではなく、「栄村」でした。

当初は「天ヶ瀬」を村の名前にする予定だったのですが、天ヶ瀬地域に吸収されるようで納得がいかないという反対意見が根強く、「栄村」という玉虫色の決着をみたという経緯があったということを、どこかの本で読んだことがあります。

1969年の町制施行の際に現在の「天瀬町」に町名変更されましたが、反対派に配慮し「ヶ」の字は省かれたとのことでした。

米原町や真鶴町も、同様に理由によって現在の町名を名乗るようになっているというのは考えすぎでしょうか?

[2996]訂正
バンドルネーム→ハンドルネーム
[4530] 2002年 11月 4日(月)21:18:04Issie さん
府内,千葉,直江津
[4522]
>福島のように小藩から県庁所在地になったのは大分市(府内藩)があります。ちなみに大分県で最大の藩は中津藩でした。

実は近世(江戸時代)以降と中世(室町・戦国時代)以前とは日本社会全般にわたって大きな断絶があるのですが,たとえば戦国末期,大友氏の支配が崩壊するまで豊後府内(大分)は豊後で最大の都市でした。
(もう少しきちんと言うと,“中世後期”の室町・戦国時代が日本史上の大断絶点と考えられています。それ以前(鎌倉時代以前)とそれ以降(織豊政権期以降)とでは文化・社会全般にわたって根本的な違いがあると理解されています。)
徳川政権になって,豊後は徹底的に分割されて府内の地位は大きく低下したわけですが,明治になって県庁が置かれたあたり,豊後地方の主邑となるべきそれなりの条件があったのでしょうね。(そういえば,中津は豊前ではないか。「大分県」とくくることに,どれだけの意味があるのか。)

中世の関東で鎌倉に次ぐ都市として繁栄したのは下総・千葉氏の本拠地であった千葉だと言われています。
千葉亥鼻城(現千葉大医学部)下,現在の国道16号(本町通)にそったあたりが千葉の城下町(戦国時代以降の城下町とは性格が違いますが)と考えられています。
応仁の乱に先駆けて関東で起こった動乱の中で千葉氏とともに千葉の町も没落し,すでに没落した鎌倉とともに関東の主邑の地位は(後)北条氏の本拠地の小田原に移り,さらに豊臣秀吉の小田原征伐,徳川家康の関東入府によって,江戸が関東の主邑となります。

越後高田は室町以来越後の支配者であった上杉氏(実は謙信以降は家来の長尾氏)を出羽米沢に追い出した後,若干の曲折の末に松平忠輝が春日山から城を移して成立した城下町ですね。たかだか400年足らずの歴史しかない町です。
それに引き換え,直江津はこの港(津)に隣接して設置された越後国府と歴史をともにする大変に由緒のある町。こないだ出来たばっかりの高田なんぞ足元にも及ばない。
そのような歴史を持った高田と直江津が合体して“新しい自治体”を形成したわけです。
何で「直江津」を差し置いて,はるかに歴史の浅い「高田」がデカい顔をできましょう。

「高田市」と「直江津市」が合体した背景には,お互い厳しいライバル関係にあった両市の競争を止揚・統合(ジンテーゼ)して「上越」地方全体の発展を目指すという意識があったはずです(少なくとも「建前」の上では)。だから,「高田市」でも「直江津市」でもない「上越市」なのです。
そこのあたりの気持ちは是非にも汲み取らなければならないと思います。単純に「高田市」がいい,なぞとは言えない(部外者の余計なお世話かもしれないけれども)。

「さいたま市」の都心部(予定地)。そこは,たまたま旧与野市域に属するけれども,これから建設しなければならないのは「浦和」でも「大宮」でも「与野」でもない新生「さいたま市」のはず。まして,浦和と(特に)大宮が余りに見苦しい地域エゴむき出しの争いを演じて合併が御破算になりかけた後だからこそ,「与野」の名を捨ててまで「中央区」としたのでしょう。
私としては「与野」の名は惜しんで余りあるものだけど,そこらへんの気持ちは最大限に斟酌しなければならないと思います。
[6499] 2002年 12月 15日(日)22:25:37白桃 さん
なごり雪
 土日で大分県駆け足職場旅行に行って来ました。大分空港から大分市内で昼食のあと、臼杵へ。磨崖仏もさることながら、地元の方の案内による臼杵の町の散策はなかなかのものでした。映画「なごり雪」のロケ地ということもあり、町並み景観保存に相当力を入れられている様子。宿泊は湯布院。これがまた、家族・グループ旅行のお客さまを対象とした宿屋でしたのでいたって健全ムード。いや、健全すぎているというのが正直なところ。男ばかりの平均年齢56歳というメンバーでしたので、カラオケで演歌ぐらい歌いたかったようなのですが、仕方なく部屋に戻りNHKのナツメロフォークソングに併せて涙流しながら歌うという情けなさ。それはともかく、観光地として今のところ湯布院町は頑張っている様子。ただ、ある筋によると周辺の自治体との合併話もあるようナ。(KNさん、ご存知でしたら教えてください。)今日は早起きして、不精者白桃としては珍しく朝のお散歩。宿泊所の近くの金鱗湖周辺を散策し、朝食後、また同じところを散策。その頃になると観光客も沢山出ていました。昼食は別府市のチャンコ屋さん。ダラダラした後、杵築も見たいという白桃の真面目な意見は無視されて一路空港へ。旅行業関係者の職場旅行としては、いろんな意味で中途半端なもので終わってしまったよう。
 補足:大分市は元気そう。別府は病気?
 温泉:1回きりのカラスの行水でコメントできません。
 お酒:まあ、それなりに飲みました。(乗り過ごしの心配がありませんでしたから)
[8011] 2003年 1月 21日(火)17:36:55そゆーず さん
大分空港
どうも、2回目の書込みです。

[7990] uttさま
不便な空港10選に我故郷の大分空港が登場したのでちょっと一言二言。

大分空港の歴史は大分川にあった旧大分海軍航空隊が使用していた基地を戦後米軍が占拠しその後1956年の返還を受けて
大分空港の開港になりました。もともと大分市内にありましたが滑走路の拡張性が無い事や1964年2月27日に死者20名を出
した航空機事故をきっかけに空港移転問題が本格化して現在の国東半島に1971年10月に移転されました。
建設当初からアクセスの問題は指摘されていましたがその他の候補地よりも航空の安全性、建設費などの諸条件を比較検討
した結果選ばれたようです。
しかし大分市内からのアクセスの悪さはやはり大きな問題でして空港・大分市を結ぶ手段としてホバークラフトが導入され
ました。この時期日本のいくつかの地域でもホバークラフトを新しい交通手段として運行したようですが採算性があわず
結局日本で残ったホバークラフトの営業路線は大分だけとなりました。
これは裏を返せばそれだけ空港と大分市とのアクセスの悪さを物語っています。
最近では空港道路が出来、高速道路との接続もされてずいぶん改善はされてはいますがやはり他の地域と比べるとアクセス
の点では問題が残っています。

大分空港のある安岐町、武蔵町はともに東国東郡で現在郡内5町村での合併話がもちあがっています。
しかし、安岐・武蔵両町は郡内5町村の合併以外に2町での合併も模索しているようです。
というのも大分空港があると言う強い武器もありわざわざ5町村で合併するよりも2町で合併したほうが得と言う判断も
あるといわれています。
また、2町合併をちらつかせ最終的に5町村で合併して新役場を誘致しようというねらいもあると言われています。
この辺出身者としては大変興味深く今後どう動くのか楽しみでもあり不安でもあるところです。
[8039] 2003年 1月 22日(水)09:59:31そゆーず さん
大分空港
[8034]utt さん
他の候補地にはどこがあったのでしょうか?
~中略~
国東半島ではなく佐賀関半島あたりが適地だと思いますが。
大分空港の候補地としては、大野郡千歳、大分市岡、速見郡日出、杵築市住吉海岸、北海部郡佐賀関、大分市野田、東国東郡安岐 武蔵の7地区の候補地があったようです。現地調査や飛行試験など繰り返して最終的に決定されたようです。
佐賀関も候補地として入っていたようですがなぜ外れたのかは良く分かりませんが、あの辺は地理的に気象条件が厳しいように思えます。それともなにか政治的意図がなにかあったのかもしれませんね。

新空港候補地となればかなり熾烈な誘致合戦があったと想像できます。大分県は交通の便が悪いために空港は「大分の玄関」的意味合いが他の県よりも強いと思われるのでなおのことだったと思われます。
空港があるのと無いのとでは地域の発展に大きな差ができてしまいます。事実同じ国東半島でも空港がある安岐町・武蔵町~杵築市は発展していますが、その逆方向は発展が遅れています。やはり空港は地域の発展に大きな影響を及ぼしているみたいですね。
[8049] 2003年 1月 22日(水)16:47:56そゆーず さん
大分空港
[8047]雑魚さん
現行地は案外絶妙な位置かも知れませんね。
大分県は山間部が多いため現実的に海に面するのが安全性の問題から見ても妥当だと思います。それに加えて大分市内からの距離、気象条件などを鑑みるとやはり国東半島に落ちつくのかもしれませんね。
空港移転に関して昔の新聞記事など調べてみると面白いかもしれませ。

また、ここ(↓)を見ると早い段階で安岐・武蔵町に内定しているのがわかります。
http://www.oita-cab.go.jp/gaikyou/12nenpu.htm

S40.06.06大分県新空港建設調査候補地として県内7候補地を選定
S40.08.大分県新空港建設促進協議会発足
S41.02.~.05.航空局現地調査及び試験飛行実施。 安岐・武蔵地域を第1候補地に内定

国東半島では国東町に旧制中学がありました。歴史的に半島ではここが中心的な地勢を擁していたのかな。
そうですね。国東町は面積的、人口的にも大きくまた県の出先機関なども集中しており東国東郡の郡都と呼ばれていたようです。
今回の合併話も県の示したパターンでは国東町を中心とするとなっています。
またもし東国東郡全町村で合併すれば地理的にも国東町が中心となるのが自然だと思いますが、安岐町・武蔵町は中心は空港のあるところが良いと主張しているようです。この辺合併の難しいところだと思います。
また東国東郡は広域連合を作っておりますが、そのれは合併をしない前提として作られたもので、今回の合併話は嫌々尻をたたかれてやっている感が否めません。
その他の大分県の自治体に関しても合併話が進むにつれて不協和音が出始めていますね。
[10018] 2003年 2月 28日(金)18:48:53なお[KN] さん
明日の合併、小学校パンク
佐伯町,吉和村南部町,富沢町がまもなく消滅し、新しく南部町が誕生します。
このごろ話題が考えつけなくて書き込みができなかったので1ヶ月間書き込みができませんでした。
一年前4月に書き込みをしなかった1ヶ月は120件しか書き込まれていなかったのに、今回はなんと
2000件も書き込みをしていませんでした。

[1956]
後ここ坂ノ市では7642人と1ヶ月に10人づつ増えてます。
※松岡は4450人で1ヶ月に70人増えてます。

長すぎてすみません
後、大分市松岡校区では、4350人という人口のなかで一ヶ月でなんと70人も増えています。
人口推計

2月末 4217人
3月末 4301人 増加数84人 増加率1.99%
4月末 4352人 増加数51人 増加率1.17%
と増加率もたった一ヶ月だけでも1%以上増えています。2ヶ月では3.2%増えています。
一応パークプレース大分通り
(ビックアイが真ん中にある街)
に約2000世帯の建売住宅がありそれで恐らく4500人位増えると思います。
※なんとこの計算では人口9000人へこれで大分市も44万5000人に来年5月にもなって欲しいと願っています。
と半年前書き込んだのですが、今では1月末現在で4646人と30人増えました。

3日前の記事でこの地域にある松岡小学校の記事を見たのですが、今220人いる松岡小学校に90人の小学生が転入してくるそうです。2005年には660人増えて以前住んでいた別保小学校の950人に迫る規模になるため、パークプレイスに小学校を新設してとの要望が住民からあったみたいです。
東京江東区と同じような事態に大分市も陥っています。
[11256] 2003年 3月 15日(土)09:39:46なお[KN] さん
椎茸と大分県の合併
[11254] ぷりぷり さん
なんと言ってもしいたけをヨーグルトに入れてまで消費を促そうとするのは、大分ならではかと
大分県の特産物は椎茸ですが大分市内は椎茸をヨーグルトにつけるところは少ないです。
僕は、椎茸にヨーグルトをつけて食べたないのですが、椎茸も年1070食の内40~50食ぐらいしか
食べていません

[8238] ごろごろ さん

都道府県 市町村数  法定・任意  協議会参加

           協議会数   市町村数
             ・
             ・
大 分    58   12       53
これが2003/3/26
大 分    58   13       56
になります。
これで計算すると大分県内の市町村数は15市町になります。
しかし玖珠郡合併協議会の協議が困難を示しています。
もしかすると大分郡3町・玖珠郡・竹田直入地域任意合併協議会が空中分解し、
今模索している、九重町・湯布院町・庄内町・直入町・久住町の5町でのやまなみ合併に
なるかもしれません。
[12309] 2003年 4月 2日(水)20:15:52なお[KN] さん
大分の方言
[12307]般若堂そんぴん さん
ところで,KNさんは大分にお住まいでしたよね.以前,「一寸(いっすん)ずり」という言葉がラジオで「渋滞がひどくて少し進んではまた止まるような状態をさす言葉」として紹介されていました.渋滞に引っかかったときなど,ぴったりの言葉ですので,我が家では喜んで使っております.この言葉は大分では普通に使われているのですか?
僕の親や周りの大人はよく使うそうですが、僕は今日はじめて聞きました。
でも親もこのごろは使ってなかったみたいです。

[12305] 実は小学生 さん
HNは決りましたか?
きまったら都道府県市町村 落書き帳 のメンバー一同にも伝えてください。
[12387] 2003年 4月 3日(木)21:47:04Issie さん
おほきた,みやさき,するがふちゆう
[12267] ken さん
大分というのは少なくとも江戸時代は府内と言ってたと思いますが、何時、どういう由来で、出てきた名前なのか?
宮崎もちょっと何時出来た名前なのかわかりませんが。

「大分」も「宮崎」も本来は郡名ですから,地名そのものは律令時代までさかのぼれますね。
それが京都府峰山町の「丹波」集落や,奈良県桜井市の初瀬川扇状地(三輪地区)の「ヤマト」のようにピンポイントな地名が広域地名に成長したものか,逆に「さぬき市」のように広域地名が域内の部分について用いられるようになったのかはわかりませんが。
(よそのHPでも話題になっているようですが,「大分」を「おおいた」と読むのは直接には律令時代に「おほきた」または「おほきだ」と読まれていたものが“音便”と同じ作用によって「き」の子音が脱落したからです。だから問題の核心は「おほきた」に「大分」という字を当てたのはどういう理屈か,ということになるのですが,私はその答えを知りません。)

近世城下町「豊後府内」が近代都市「大分郡大分町」に改称された正確な日付は手許の資料ではわからないのですが,おそらくは明治もしばらく経ってからのように思います。ただし,1889(明治22)年の市制・町村制施行段階では「大分郡大分町」が町村制による「大分町」に移行した,とあります。
府県レベルでは明治4(1871)年7月の廃藩置県で「府内藩」が「府内県」となった後,この年の11月に豊後国内各県が統合されて「大分県」が成立しています。これは県庁所在地の府内が「大分郡」に属するからなのですが,福岡県に属する豊前のうちから宇佐・下毛2郡を編入した1876(明治9)年の段階では「大分郡府内」という呼称であったようですから,明治10年代のうちに改称されているのかもしれません。

宮崎は近世城下町でさえない小集落であったものが1873(明治6)年に美々津県と都城県のうちの日向部分を統合した新しい県の県庁が置かれて急成長したものですね。県庁が置かれた段階で「宮崎郡宮崎」という呼称ができあがっていたようです。
宮崎には市内に宮崎神宮があります。この神社そのものは由緒の古いものであるようですが(神武東遷以前の「宮崎宮」跡なんていうのは,もちろん単なる“伝説”に過ぎないものでしょうが),神社の“格”が上げられて積極的な整備が行われるのは明治になってからですから,江戸時代に「都市としての宮崎」があったかどうかは,疑問に思います。
やはり「都市・宮崎」は県庁が置かれてから,と考えたほうがよいでしょう。

“県庁所在都市”の名前で意外に新しいものにもう1つ,「秋田」があります。
「秋田」という地名そのものはとても古くて,律令時代,「東夷」に対する前線基地である陸奥の「多賀城」や「胆沢城」と対応する対「北狄」前線基地の「齶田(飽田:あぎた/あきた)城」が置かれて以来のもので,平安末期から中世にかけては「城(じょう)氏」や「秋田氏」の“名字の地”(中世,人の呼称で何も付けずに「城(じょう)」と言えば,それは「秋田城」を意味します)となり,安東氏(秋田氏)の支配の下で室町・戦国時代には現在よりも土崎寄りにあった(当時の)秋田城周辺に集落が発展しました。
けれども,現在の「秋田市」はそれを直接引き継ぐものではなく,秋田氏の転封・佐竹氏の入封以降,より内陸に新たに建設された「久保田城下町」を引き継ぐものです。
近世を通じて「久保田」と呼ばれた都市が,明治4(1871)年に「秋田」と改称したものなのですね。都市の名前としては意外に新しいわけです。

「駿府(駿河府中)」が「静岡」に改称されるのは,徳川宗家16代当主・徳川家達が駿河府中藩の知藩事に任命された直後の明治2(1869)年8月7日のことのようです(だから,以後は彼は「静岡藩知事」)。
「静岡」への改称は「府中」が「不忠」に通じることを嫌ったことによる,という説明がよく行われます。このことだけを取り上げれば,それは本当かもしれませんが,実は事実として,版籍奉還後の知藩事任命の際に駿河だけでなく全国の「府中藩」が一斉に改称しています(常陸府中→石岡,長門府中(長府)→豊浦,対馬府中→厳原)。全国的な視野から見れば,これは中央政府管下の地方行政区画としての「藩」に同名のものが存在することを回避するための改称であると思います。
外にも同名の藩が複数存在していた「勝山藩」「金沢藩」「亀山藩」「田辺藩」「松山藩」「吉田藩」,あるいは表記は違うけれども読みの同じ「みねやま藩=峰山/三根山」で,少なくとも一方の藩の改称が行われています。
詳しくは,こんなページもつくってみたので,こちらを。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/h-iten.htm

ところで,私は「静岡」というのは本質的に「駿府」という地名を改称したものに過ぎないと考えています。
「静岡」と呼ばれるようになって以降,その範囲が徐々に拡大して清水をも呑み込むことになったのですが,「静岡」が「駿府という都市」を包摂する,というのは本来的に私にはシックリ来るものではありません。“大静岡市”の中に「駿府城下町」の区域が含まれる,というのなら理解ができるのですが。
[12743] 2003年 4月 9日(水)10:18:53【1】なお[KN] さん
学校について
[12742]太白 さん
主に小中学生の皆さん(または親御さん?)に質問なのですが、今の1クラスは何人ぐらいなのでしょうか?
 私の頃は、「第2次ベビーブーム」だったこともあり、小中学校は1クラス40人~45人くらいで、45人を超えるとクラスが増えていました。今は1クラス30人くらいなのでしょうか?
僕が住んでいる地区の学校では
2003年4月1日現在(学校までいって調べました)

学年児童数クラス数クラスあたりの人数
小170人2クラス35人
小275人2クラス37.5人
小354人2クラス27人
小468人2クラス34人
小582人3クラス27・28人
小660人2クラス30人
中1151人4クラス38人
中2135人4クラス34人
中3139人4クラス35人

となっています。
大分市内の360人~550人規模の学校では大体35人くらい、現在大分県では40人学級になっています。
しかし、2月に2万筆の署名が集まったので二年後くらいには30人学級になる見込みです。
それに加え公立小中高校では、1学級40人以下と定められています。
近年では自治体の選択で30人以下などにできえるようになっています。
それと、また変わりますが、僕が先月卒業した小学校の5年生が40人の2クラスから、
27.33人の3クラスになりました。

ところで、白山の指ヶ谷小学校の周辺半径300m圏内には、柳町小学校と、[11036] などで話題となった誠之小学校の計3つの小学校があります。かつての本郷区・小石川区の境界も影響しているのかも知れませんが、これだけ小学校が密集しているのも珍しいと思います。近い将来統合されるのではないかと思ってしまいます。
(指ヶ谷小学校付近の地図)
大分市の中心部でも同じようなことが起きています。
しかし、それでも学校は500mは離れています。
それでも、学校が小規模になったため県庁地区の荷揚町小学校が中島小学校に
編入されると予定されています。
しかし、全国へ飛躍した人物が多い荷揚町小学校なので、反発の声も高まっています。

明日、4月10日に中学校に入学します。


追加:実はこれも、最近の区画整理のため増えたためで、僕が来た頃は1クラス32人くらいでした。
   中学校のほうも30人前後でそこまでなかったんです。
   区画整理はまだ終わっていません。
   終わったら軒並み、小学校は3クラス、中学は5クラスくらい
   になると思います。
[13562] 2003年 4月 20日(日)19:25:45なお[KN] さん
鶴崎のことについて
[13550] 白桃 さん
鶴崎町 17751 1町4村 鶴崎市 27974 大分市と合併 大分市
現在、旧鶴崎市は9万人になっています。
当時は農村だったみたいですが、今では整備のつかないほど
住宅が増えた地区が(ここに住む前に住んでいた場所)あります。
新興団地や大型商業施設も10年間の間にできました。
[17794] 2003年 7月 4日(金)22:56:59なお[KN] さん
駅裏の事情と大分の見た目の規模
[17789] utt さん
徳島駅には、「駅の南側にしか街がない」という罠があります。
 そうです。同じように、JR松山駅も西からは出られないのですね。(地下道があるかどうかは、忘れましたが、もしあったとしても、ただの住宅地ですから使う人は限られています。)そういった、片側しか出られない駅は、もう片側は広大な操車場などが立地している場合が多くて、街として発展しにくい構造になっている場合が多いですよね。この逆転の発想で、操車場を郊外に移動し、街の中心地に近い広大な操車場跡地を再開発する都市もあるようです。旭川や釧路なども、確かそういった計画があるとか何かの本で読んだ記憶がありますが、今はどこまで進んでいるのでしょうかねぇ??
大分駅南側でも同じようなことがおきています。
北は一極集中が目立ち、南は住宅地が広がっています。
これを改善しようと駅周辺整備が進んでいます。2008年には完成予定です。

ひとつ質問ですが大分市は見た目でどのくらいの規模の都市に見えますか?
僕は50万に都市に見えますが・・
[17844] 2003年 7月 5日(土)17:55:50【2】三丁目 さん
大分市、と福岡市。さらに加えれば佐賀市
[17794]KNさん
ひとつ質問ですが大分市は見た目でどのくらいの規模の都市に見えますか?
KNさんへの初めてのレスだからガンバッて書こう、と思ったのですが、よくよく考えてみたら、大分県内では、中津市へ行って福沢諭吉翁の銅像と記念撮影したり、地獄めぐりはしたことがあるのに、大分市の記憶が全然ありません。もしかしたら、大分駅は通過しただけで、降りたことがないのかもしれないことに、今さらですが気づきました。
中学(広島市からの修学旅行で九州北部地方めぐり)、高校(都内所在の学校からの修学旅行で九州一周)、大学(神戸周辺から3人で集まっての九州一周自由旅行。ただし、芦屋からの阪九フェリー)と3回も九州地方をめぐっているのですが。これは、どうしたことでしょうか?あまり有名な観光資源が大分市内にはないからでしょうか?中学の修学旅行で覚えているのは、西海橋と阿蘇と地獄かなぁ。高校は、グルッとまわりましたから、散漫な記憶が残っています。大学生のときの旅行は、行こう、と誘われてついていっただけなので、自分ではプランを練っていないのです。

それで、同様に福岡市も、大濠公園、中洲、天神、と知ってはいるものの、行ったことはありません。鹿児島出身、及び宮崎出身の2人に、お二方とも福岡市内勤務経験があるので聞いたところ、福岡市内は、観光というより、地元の人が行って楽しむところが多いかもね、と言われました。

佐賀市については、以前ふれましたが、旧国鉄佐賀駅前の田圃に呆然としました。

九州地方の中で、これらの県庁所在地について、私がイメージがわいてこないのは、観光で立ち寄ることが少ないからではないか、と思いました。それ以外では(あくまで例として書き出すだけですからね)、長崎市=グラバー園・皿うどん(ちゃんぽんよりこっちの方が好きなのです)、宮崎市=青島・こどもの国・フェニックス、熊本市=熊本城・馬刺し・路面電車、鹿児島市=西郷どん・磯庭園・桜島(対岸ですが)、と思い浮かびました。(沖縄県は、私にとって未踏の地であるため、軽々に語ることができないので、省略させて頂きます)

ということで、KNさんにおかれましては、大分市をご紹介して頂けると、ありがたいです。どうにも、温泉の湯布院とか、ワールドカップの中津江村とか、大分市以外のイメージしか、私には、ないものですから。それとも、県都が突出することがなく、県全体としていろいろな地域が知られているのは、元知事の平松さんご提案の「一村一品運動」の成果といえるのでしょうか?
[17845] 2003年 7月 5日(土)18:33:13太白 さん
人口と都市景観にギャップのある都市
…といえば、千代田区に決まっているでしょう!…と思ったら、[17791] で地球人 さんが挙げてらっしゃいましたね(笑)。

 [17658] 軒下提灯 さんの挙げている武蔵野市(吉祥寺)のギャップはすごいですね。記憶では、駅前に東急、丸井、ロンロン(駅ビル)、パルコ、近鉄、西友と、これだけの大型店が揃っているのは100万都市並みではないでしょうか? 駅前の道の狭さは10万都市ですけど。

 人口と、街を歩いている人とのギャップがある都市(見かける人が少ない)としては、名古屋を挙げたいと思います。名駅が中心街ではないことと、地下街が発達していて地上を歩く人が少ないこと、夜の店じまいが早いこと(何故なんでしょうね…)などが理由です。夜だけ比べたら、福岡の方が遥かに都会に感じます。

 一般論でいえば、後背地の少ない場所や「坂の町」といわれる都市は、斜面に張り付いて建物が密集するとともに、地価が高くなることにより、中心地区の高層化が促されるのではないかと思います。主観的な印象としては、小樽、塩釜、舞鶴、尾道などは、人口よりも都会に感じます。長崎は40万都市相応と思いましたが。

 アメリカでいえば、カリフォルニア州のサンフランシスコとサンホセはいずれも80万~90万都市ですが、前者は狭い坂道に高層ビルがひしめき合う神戸並みの都会、後者は、シリコンバレーの中心地ではありますが、だだっ広い土地に比較的低層の建築物が続く…旭川よりは都会という感じでしょうか。

[17794]KNさん
大分市は見た目でどのくらいの規模の都市に見えますか?
結論からいうと、30万人台の「実際の人口より若干小さめ」の都市に見えました。
駅前の通りの高層ビル街や、大分駅前の道を渡るための地下通路などは、きちんと整備されていますが、駅の裏側が住宅地であること、お城の近くの商店街がアーケードでないこと、駅が高架でないこと、道が広々しているせいか交通量がそれほど多くないこと、路面電車がないこと、などが理由です。(念のため)以上に挙げたものが、大分に必要だと言っているわけではないです。

 余談ですが、世田谷区は「80万都市」ですが、ここの「中心地」はどこなのでしょうか。 三軒茶屋? 千歳烏山? 二子玉川? 私鉄沿線ごとに住民の動線が独立していて、ここという中心が存在しない、分散型の区のような気がします。
[17850] 2003年 7月 5日(土)19:40:58地球人 さん
大分市
[17794]KNさん
ひとつ質問ですが大分市は見た目でどのくらいの規模の都市に見えますか?

大分県には親戚がいるので、宇佐・安心院・中津にはよくいきますが、大分市にはほとんど行ったことがありません。大分市って、44万人もいる大都会なのに、大分県ですぐに思い出すのは別府市ですかね。イメージってそんなものですね。そういえば、高崎山駅ができるそうですね、利用客って多いのかな。

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