[12267] ken さん
大分というのは少なくとも江戸時代は府内と言ってたと思いますが、何時、どういう由来で、出てきた名前なのか?
宮崎もちょっと何時出来た名前なのかわかりませんが。
「大分」も「宮崎」も本来は郡名ですから,地名そのものは律令時代までさかのぼれますね。
それが京都府峰山町の「丹波」集落や,奈良県桜井市の初瀬川扇状地(三輪地区)の「ヤマト」のようにピンポイントな地名が広域地名に成長したものか,逆に「さぬき市」のように広域地名が域内の部分について用いられるようになったのかはわかりませんが。
(よそのHPでも話題になっているようですが,「大分」を「おおいた」と読むのは直接には律令時代に「おほきた」または「おほきだ」と読まれていたものが“音便”と同じ作用によって「き」の子音が脱落したからです。だから問題の核心は「おほきた」に「大分」という字を当てたのはどういう理屈か,ということになるのですが,私はその答えを知りません。)
近世城下町「豊後府内」が近代都市「大分郡大分町」に改称された正確な日付は手許の資料ではわからないのですが,おそらくは明治もしばらく経ってからのように思います。ただし,1889(明治22)年の市制・町村制施行段階では「大分郡大分町」が町村制による「大分町」に移行した,とあります。
府県レベルでは明治4(1871)年7月の廃藩置県で「府内藩」が「府内県」となった後,この年の11月に豊後国内各県が統合されて「大分県」が成立しています。これは県庁所在地の府内が「大分郡」に属するからなのですが,福岡県に属する豊前のうちから宇佐・下毛2郡を編入した1876(明治9)年の段階では「大分郡府内」という呼称であったようですから,明治10年代のうちに改称されているのかもしれません。
宮崎は近世城下町でさえない小集落であったものが1873(明治6)年に美々津県と都城県のうちの日向部分を統合した新しい県の県庁が置かれて急成長したものですね。県庁が置かれた段階で「宮崎郡宮崎」という呼称ができあがっていたようです。
宮崎には市内に宮崎神宮があります。この神社そのものは由緒の古いものであるようですが(神武東遷以前の「宮崎宮」跡なんていうのは,もちろん単なる“伝説”に過ぎないものでしょうが),神社の“格”が上げられて積極的な整備が行われるのは明治になってからですから,江戸時代に「都市としての宮崎」があったかどうかは,疑問に思います。
やはり「都市・宮崎」は県庁が置かれてから,と考えたほうがよいでしょう。
“県庁所在都市”の名前で意外に新しいものにもう1つ,「秋田」があります。
「秋田」という地名そのものはとても古くて,律令時代,「東夷」に対する前線基地である陸奥の「多賀城」や「胆沢城」と対応する対「北狄」前線基地の「齶田(飽田:あぎた/あきた)城」が置かれて以来のもので,平安末期から中世にかけては「城(じょう)氏」や「秋田氏」の“名字の地”(中世,人の呼称で何も付けずに「城(じょう)」と言えば,それは「秋田城」を意味します)となり,安東氏(秋田氏)の支配の下で室町・戦国時代には現在よりも土崎寄りにあった(当時の)秋田城周辺に集落が発展しました。
けれども,現在の「秋田市」はそれを直接引き継ぐものではなく,秋田氏の転封・佐竹氏の入封以降,より内陸に新たに建設された「久保田城下町」を引き継ぐものです。
近世を通じて「久保田」と呼ばれた都市が,明治4(1871)年に「秋田」と改称したものなのですね。都市の名前としては意外に新しいわけです。
「駿府(駿河府中)」が「静岡」に改称されるのは,徳川宗家16代当主・徳川家達が駿河府中藩の知藩事に任命された直後の明治2(1869)年8月7日のことのようです(だから,以後は彼は「静岡藩知事」)。
「静岡」への改称は「府中」が「不忠」に通じることを嫌ったことによる,という説明がよく行われます。このことだけを取り上げれば,それは本当かもしれませんが,実は事実として,版籍奉還後の知藩事任命の際に駿河だけでなく全国の「府中藩」が一斉に改称しています(常陸府中→石岡,長門府中(長府)→豊浦,対馬府中→厳原)。全国的な視野から見れば,これは中央政府管下の地方行政区画としての「藩」に同名のものが存在することを回避するための改称であると思います。
外にも同名の藩が複数存在していた「勝山藩」「金沢藩」「亀山藩」「田辺藩」「松山藩」「吉田藩」,あるいは表記は違うけれども読みの同じ「みねやま藩=峰山/三根山」で,少なくとも一方の藩の改称が行われています。
詳しくは,こんなページもつくってみたので,こちらを。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/h-iten.htm
ところで,私は「静岡」というのは本質的に「駿府」という地名を改称したものに過ぎないと考えています。
「静岡」と呼ばれるようになって以降,その範囲が徐々に拡大して清水をも呑み込むことになったのですが,「静岡」が「駿府という都市」を包摂する,というのは本来的に私にはシックリ来るものではありません。“大静岡市”の中に「駿府城下町」の区域が含まれる,というのなら理解ができるのですが。