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hmtさんの記事が10件見つかりました

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[93634] 2017年 9月 1日(金)14:47:25hmt さん
政令指定古都・斑鳩町
[93596] 全角2文字 さん
ご承知のように、この辺の生駒郡4町+北葛城郡3町で広域合併を行おうとしていたのですが、斑鳩町と王寺町が…反対し、…この話はご破算、となってしまいました。

法隆寺がある町に住む中学2年生[91244]という自己紹介をしていただいたのは、1年前の夏休みでした。
私も、中学2年生時代のこと[93581]を書く機会が近頃ありましたが、それはなんと 70年前のことでした。

それはさておき、これを機会に、落書き帳で「斑鳩町」の過去記事を調べてみる気になりましたが、以前は簡単に検索できた全記事対象検索が 大きな負荷要因とされ、現在はできません。[93345]
ブツブツ言いながら地図を眺めていたら、[21047]と書き込んだメモが目に留まりました。この番号を頼りに落書き帳を開いてみるとTN さんの記事で、大津市が全国で10番目の古都保存法指定市町村になったことを伝える内容でした。

実は、「古都保存法」については殆んど知りませんでした。正式名称は昭和41年法律第1号 古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法です。
後代の国民に継承されるべき古都における歴史的風土を保存するために 1966年に公布されたこの法律。
立法の背景にあったもの。それは 京都タワー建設計画、奈良県庁舎建設計画、鎌倉の八幡宮裏山宅地造成計画、京都双ヶ岡のホテル建設計画などによる 歴史的環境の破壊が社会問題化したこと でした【世界大百科事典】。

法律に具体的に記されている「古都」は 上記の時代背景にも登場した 京都市、奈良市、鎌倉市 だけでしたが、これに「政令で定めるその他の市町村」が加えられています。

古都保存法に基づく「政令指定市町村」とはどこか?
上記法律の施行令とは別に、古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の市町村を定める政令があり
古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法第二条第一項の政令で定める市町村は、天理市、橿原市、桜井市、奈良県生駒郡斑鳩町、同県高市郡明日香村、逗子市及び大津市とする。
と記されていました。

詳しく言うと、昭和41年7月4日の政令第232号に記されていたのは奈良県の5市町村で、逗子市は平成12年政令第4号、大津市は平成15年政令第456号で追加されたものでした。
[21047]は、法定3市(京都 奈良 鎌倉)に政令指定7市町村を加えた 10市町村になった時でした。

最も多数を占める奈良県のサイトから、奈良県の歴史的風土の保存 というページをリンクしておきます。

余談:
ご存知「政令指定都市」もどきの名「政令指定古都」を 勝手にタイトルに使いました。
でも、地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市の指定に関する政令には、1956年指定の旧五大都市に続いて、1963年以降に追加された15市が 区別なしに並んでいます。
一方、政令指定古都のリストは 法定3市を含まず、追加7市町村のみ。少し様子が違います。
[93622] 2017年 8月 31日(木)18:02:25【1】hmt さん
昭和の大合併
[93619] Takashi さん
落書き帳メンバーの中で、昭和の大合併当時に生きていた少数派でもあり、少し発言しておきます。

出身地については、昭和30年の合併で 本籍地の表記が変更されました。
しかし、「実生活への影響は 殆んどなかった」と言って良いでしょう。
昭和合併当時の私【学生→新卒】の居住地については、合併と無関係でした。

数十年を経過。落書き帳のメンバーになってから、現在の居住地が 昭和合併を経験した村 であることを知りました。
そして 2006年、埼玉県入間郡富士見村誕生から50年ということで 地元の資料館で 展示会が開かれました。
それを機会に記した記事[55364]があります。先ず これを紹介します。

私自身は全くの別世界で暮らしていたのですが、昭和合併当時の実情が少しは推察できると思います。

「昭和合併」が実行された最初のきっかけは、1949年に占領軍から出された「シャウプ勧告」でした。
その基本理念は、国と地方公共団体の間の事務の再配分を実現した上で、地方公共団体の財政を強化することにありました。

国力の衰えた敗戦国・日本の自治体にとり、1947年度発足の義務教育延長(6+3制)は大きな負担でした。
市および人口5000人以上の市街的町村は、公安委員会や自治体警察も負担することになりました。
(警察制度については、1951年から1955年にかけての改正で現行制度に移行。)

時代は異なるが、豊玉小学校[59567]や 越県合併までした大泉村[62334]の時代から、学校経営の費用で地元は苦労していました。

とにかく、小さな町村では財政のやり繰りが大変です。
合理的な自治体運営を可能にする適正規模「人口8000人」の実現。これが昭和合併の大目標でした。

でも 実務となると、どのような組合せで合併するのか 議論百出。その一例を紹介してあります。
埼玉県入間郡の鶴瀬ブロックは 県の試案5村に始まり、福岡村を加えた6村となるも反りが合わず。鶴瀬は南畑の他に水谷も抱き込み、三芳とも交渉。しかし、土壇場に近く登場した 三芳・鶴瀬両村長の名による「誓約書」(の案?)も実らず、「町村合併促進法」最終期限 1956/9/30 の3村合併による 富士見村へ。


そして 別の記事[55377]では、町村合併促進法の枠から外れた後の 三芳村を記しています。

「新市町村建設促進法」に基づく県知事の合併勧告は返上。
上富地区は所沢市への編入を望んでおり、分村の結果として三芳村消滅か?という危機もありました。
しかし、1959年に至り 分村合併取消議案が可決され、三芳村の昭和合併騒動は ようやく白紙に戻りました。

1960年代になると独立の道を守った三芳村に追い風。工場や倉庫の進出で農村の風景が変りはじめました。
余談:今年2月の火災で話題になったアスクルの物流倉庫も三芳町所在。但しこの倉庫は、近年のものでした。

いずれにせよ、昭和合併が目標にした「人口8000人規模」は、合併することなく実現しました。
1977年には最寄りの東上線「みずほ台駅」【町内ではない】も開業し、団地もできています。

埼玉県入間郡三芳町は、財政力指数が1を超える豊かな自治体であり[80514]、昼間人口比率の低い富士見市からの人口流出先[90619]などの落書き帳記事もあります。

昭和合併により人口だけは増えて、1972年から「市」という看板を掲げている富士見市。
昭和合併を拒んだ結果、未だに「郡部」ですが、自治体としての実質は 隣接する「市」よりも上位にある三芳町。

落書き帳の記事を紹介し、昭和合併で異なる対応をした2つの村の現状を見比べてしまいました。
[93581] 2017年 8月 27日(日)17:22:52hmt さん
「明治節」から「文化の日」へ
[93568] デスクトップ鉄さん
武蔵野市の市制施行は、1947年11月3日。(中略)hmtさん、この日学校が休みだったか、記憶にありませんか。

6・3制発足の昭和22年度は 「(旧制)中等学校併設(新制)中学校」という奇妙な学校[22066]の2年生でした。
その年の 11月3日については、残念ながら定かな記憶が残っていません。
下記のように、制度上は 休日である「明治節」が存在したことは確かです。
しかし、学校では 敗戦前のような式典があったのか? その考察は後回しにします…

[93571] グリグリ さん
戦前の祝祭日を規定した「休日ニ関スル件」の勅令廃止のタイミングを念のためネットでいろいろ調べてみましたが、確実なところはわからないのですが、昭和23年に入ってからのようですね。

日本国憲法は、第二次大戦が終った翌年の昭和21年(1946)11月3日【明治節の日】に公布され、半年後の昭和22年(1947)5月3日に施行されました。
これが国民の祝日・憲法記念日の由来ですが、11月3日も国民の祝日・文化の日になっています。
日本国憲法の中で使われた「文化」という言葉は1ヶ所だけ(第二十五条)ですが、戦争放棄・主権在民・基本的人権を宣言した日本国憲法の目指した国つくりの基本理念は 平和と文化 にあり、それ故に公布の日を「文化の日」にしたと思われます。

日本国憲法が施行された翌年、昭和23年の官報に掲載された 昭和23年法律第178号 国民の祝日に関する法律を示します。
1948/7/20 公布当時の 祝日は、僅かに年間9日でしたが、第二条には次のような趣旨が記されています。
文化の日 11月3日 自由と平和を愛し、文化をすすめる。

第三条に 「国民の祝日」は休日とする。…従来の勅令と同様に、政府機関の休日という意味でしょう。
続く附則の2には、「昭和二年勅令第二十五号は、これを廃止する。」とあります。
これにより、昭和2年の勅令で定められていた「明治節」は 1948/7/20 に廃止されたと判明します。

順序が逆になりますが、11月3日の「明治節」が新設された 昭和2年勅令第25号 休日に関する件改正を示しておきます。

この時の改正内容について:
天皇の代替わりに伴う改正ですから、当然のことながら天長節の日付変更。
先帝祭【先代天皇の命日を祭る】が 明治天皇祭から大正天皇祭になり、日付も変更。
そして明治節の新設。日本の近代化を進めた明治天皇の遺徳を 明治天皇祭廃止後も継続させるため。
ほぼ同じ季節に存在した天長節祝日#(10/31)の廃止で、休日数 12 は変化せず。

明治天皇の誕生は、当時使われていた天保暦の嘉永5年9月22日でしたが、明治6年以降使われているグレゴリオ暦に換算して「天長節」は 11月3日とされました。この日は 明治時代から「晴天の特異日」として知られていました。

代替わりした大正時代。前の天皇を偲ぶ日は、命日・7月30日の明治天皇祭になりました。
大正元年勅令第19号 休日に関する件を見ると、入れ違いに廃止された旧規定は、明治6年太政官布告第344号であり、天長節11/3、孝明天皇祭1/30など若干の変更はあるものの、明治初年以来ほぼ同内容の規定であったことが知れます。なお、明治5年以前のできごとに関わる日付、例えば紀元節[49122]は、すべてグレゴリオ暦換算です。

# 大正時代には、天長節の盛暑を避けた2月後遅れの天長節祝日という休日が存在しました。Wikipedia

それはともかくとして、「四大節」の一つと数えていた1月1日(四方拝)。
大正元年と昭和2年の勅令「休日に関する件」の記載に基づけば、この日は【S23年までずっと】休日でなかった!

この衝撃的な情報は、私にとって初耳でした。象徴天皇になった現在はともかく、国家元首だった時代の天皇にとり、正月元日は伊勢神宮を始めとする天下四方の神々へのご挨拶から始まる「仕事始めの日」であり、「休日ではない」ことを思い知りました。

武蔵野市を追加[93571]していただいたリストですが、四方拝の日に市制施行した5市をどのように扱うのか。
千葉市1921, 足利市1921, 直方市1931, 高槻市1943, 新発田市1947。

現代の常識からすれば、「休日に市制施行した市」 と考えるのが自然であるように思われます。
勅令には従っていませんが、現在のままで良いと思うのですが、いかがでしょうか?

後回しにした、70年前の 11月3日。学校での明治節式典について。
「旗日」という言葉も生き残っていた時代ですが、「日の丸」を掲げたり「君が代」を歌うのには、若干の憚りが感じられる雰囲気もあった OCCUPIED JAPAN でした。
式典など行なわず、「ただの休日」として、無難に過ごしていたのかもしれません。
[93101] 2017年 8月 11日(金)17:02:48hmt さん
手賀沼の干拓
込み入った隣接関係の話題・根戸新田[93095]は 手賀沼西端でしたが、マピオン 14スケール図で もっと広い範囲を見ているうちに、手賀沼の東側が気になりました。

画面の右半分に整然と並んだ耕地割。昔は利根川水運[1643]で賑わった布佐[65861]付近迄続く、広大な沼だったことがわかります。
柏市東端付近・浦部村新田にある手賀沼の文字も、広かった沼の名残を示しています。

明治10年代のフランス式迅速測図に基づく歴史的農業環境閲覧システム[65097]によって、布佐付近まで広がっていた頃の手賀沼を確認することができます。

千葉県東葛農業事務所>土地改良の歴史の中に 「手賀沼干拓の歴史」があり、小さいが新旧地図が掲載されていました。

そのページによると、手賀沼干拓は 江戸時代から何度も 挑戦の歴史がありました。かいつまんで記すと…

享保4年(1729)には 井沢弥惣兵衛[67664]の指導による工事が完成。千間堤を築いて下沼と上沼を分けて別々に排水して下沼に新田を作ったが、洪水で千間堤が決壊し、完成から10年で失敗に終る。
田沼意次による工事の効果も大きく、手賀沼新田は復興の兆しを見せたが、これも未完成のまま中止。

明治以降も再三の計画が着手に至らず、洪水の被害は深刻。
第2次世界大戦後の深刻な食糧危機から、農林省直轄工事で本格的な干拓が始まり、手賀沼の東部分を干拓して 435haの農地がつくられました。西に残る水域650ha(上沼)は貯水池化し用水を確保、25km2を灌漑。
この事業は、昭和43(1978)年に完成しました。

戦前の地図帳を見ると 手賀沼は面積 12km2で、「主なる湖沼」の一角に位置していました。
ところが、現在の調査実施湖沼一覧には 手賀沼が 掲載されていません。
しかし、東半分の干拓により生まれた耕地と、農業用貯水池として残った西半分の手賀沼とは、我が国の乏しい食料自給源としての役割を 立派に果しているのでした。

おまけ
少し下流の印旛沼の地図です。手賀沼より大きいので、13スケールで示します。
干拓により分断された現在の印旛沼
明治時代の印旛沼

もちろん、印旛沼干拓についても、江戸時代から戦後まで、干拓の歴史が積み重ねられています。
[93095] 2017年 8月 10日(木)12:42:57【1】hmt さん
手賀沼西端の 根戸新田
[93091] 通りすがりさん
4
飛び地コレクションの中に、グレートジャンクションもどきがありました。
関係市町村は柏市、我孫子市、柏市、我孫子市です。
マピオン

示された場所は、北柏ふるさと公園の一部、30m四方ほどの小さな土地で、手賀沼西端の埋立地のようです。
公園は その名が示すように 大部分は柏市なのですが、この小さな土地だけが 我孫子市根戸新田となっており、2点で点接触しているのですが一応は我孫子市の飛び地です。
しかもその東に100mほど伸びる細長い土地は 柏市根戸新田(の2点接触飛地)。
地図を見ながらでないと 言葉で説明しても判り難い 奇妙な隣接関係です。

我孫子市も柏市も 母体(点隣接)飛び地(点隣接)母体 という関係なので、4自治体が関係する普通の点隣接と違い、関係自治体は2市だけとなっており、面積と共に「グレート」とは程遠い「ジャンクション」です。こんな市町村境があることは初めて知りました。

この小さな場所に、2点の「グレートジャンクションもどき」だけでなく、「飛び地」や 「自治体越えの地名」【注】までも盛り込まれた複雑な土地です。

【注】我孫子市根戸新田/柏市根戸新田
参考までに、近くの呼塚新田(よばつかしんでん)は[87252]で情報提供され、コレクション収録済みです。

複雑な隣接関係になった由来を解明することはできませんでしたが、合併時の住民意向が関係したようです。
参考ページを紹介しておきます。

(手賀沼を)干拓し埋め立てたのが「根戸新田」。だから、柏市(にも根戸新田、あります。ここら辺は、合併時に地区毎の投票で柏市に付くか、我孫子市に着くか決めたところですので、飛び地があったり、市境が入り組んでいたり…)に接するところから、我孫子駅から下って来る手賀沼公園のところまで、全部「根戸新田」。
[93088] 2017年 8月 8日(火)16:05:11【1】hmt さん
なぜ「グレート」なのか
[93085]の問いかけに関して、[93084]の検索結果よりも更に古い記事に求めた[93086]
その方向は正しいのですが…
「検索範囲」を「全記事」にするだけでなく、「検索順序」にも配慮する方がよかったのです。

表示件数はともかくとして、このサイトで話題になった古い記事の調査ですから、先ずは「検索順序」を「古い記事から」に変えて検索しましょう。
「グレートジャンクション」という言葉が、落書き帳に最初に登場した 2004年の記事が出てきます。

[23953] みやこ♂[みやこ] さん 日本のグレートジャンクション
アメリカには「グレートジャンクション」というのがあって,両手両足で4つの州を股にかける(?)ことができるそうですが,県レベルでは我が国にはありませんよね。(中略)
ところでこれを市町村まで広げたらどうなんでしょう。どこかに4つ以上の市町村が交叉しているポイントってないのでしょうか。(中略)個人的には,「北海道の後方羊蹄山頂がそうだ!」と睨んでいるのですが。

アメリカの「フォーコーナーズ」[11033]に類似した 特異的境界点 なのですが、「グレートジャンクション」は
日本の市町村境界における用例として、このサイト内で すっかり定着している言葉 なのです。
そのように ご承知ください。

【追記】
[93086]の検索結果は新しい方から10件だけが表示されているので、見掛けは[93084]の結果とあまり変りません。
しかし、末尾の指示に従って「次の50件」を検索すれば、「全記事」から抽出された多数記事の末尾に上記[23953]が現れます。
この点が、範囲7000番以降で検索した[93084]と違っており、「貼り直し」は全く無意味ではなかったのでした。
[93080] 2017年 8月 6日(日)17:49:59hmt さん
遠距離通勤
白桃さんの全国的視野に立つ「広域都市圏設定」[93066]と直接の関係があるわけではありませんが、
2015年国勢調査の就業・就学者のデータ
を使えば、遠距離通勤の一端を知ることができるのではないかと考え、とりあえず埼玉県のデータを眺めてみました。
平成27年国勢調査 従業地・通学地による人口・就業状態等集計 00302_11.csv

埼玉県に常住する就業者・通学者 3858637人【100%とする】。 この内、自宅を含む自市区町村で従業・通学するのは 1394941【36.2%】であり、他市区町村への通勤通学 2256143【58.5%】の方がずっと多いようです。
両者を加えた自他市区町村合計が常住従業通学者数にも合わないのは、従業地・通学地「不詳」が 207553【5.4%】もいるため。
「仕事先の市区町村」を問われて、外国出張中の場合「答えられない」のは当然ですが、国内であっても 家族が従業地を答えられない場合が 意外に多数あるようです。

通勤通学距離の判定には直結しませんが、埼玉県内の他市区町村 1049615と、他県 1066918とは ほぼ同数。
これは、930050【24.1% 埼玉県常住就業通学者数に対する%、以下同じ】と圧倒的な通勤通学者数を占める東京都 に隣接する 埼玉県ならではの特徴でしょう。

東京都に次ぐのは千葉県42850【1.1%】、群馬県【0.8%】、神奈川県28067【0.7%】で、やはり隣接県優勢。
その先は茨城県【0.37%】栃木県【0.26%】で、遠距離通勤と言っても この辺が限度なのでしょう。
通勤の実態があるかどうか疑わしい点もありますが、一応 0.1%未満0.01%以上の数値が出た県を多い順に並べておきます。
福島県【0.03】愛知県【0.03】大阪府【0.03】宮城県【0.03】静岡県【0.03】長野県【0.02】新潟県【0.02】山梨県【0.02】北海道【0.01】福岡県【0.01】

県単位のデータだとこんな結果でしたが、市町村単位ならば、もっと詳しい様子を知ることもできます。
例えば富士見市常住就業通学者数 57680【以下これを100%とする】を対象にすると、富士見市内での就業通学者は僅かに 13883【24%】であり、自治体内での就業通学は埼玉県全体よりも更に低下しています。これは、就職先・通学先が市内に整えられていない住居地域であることを物語っています。

…で、就業通学の受入先を見ると予想通り東京都17950【31.1%】が圧倒的です。特別区【28.9%】の中では池袋のある豊島区【4.0%】がトップであり、千代田区・新宿区・板橋区・港区・渋谷区・中央区と続く姿からは、鉄道の威力が見えます。

タイトルの遠距離通勤からは離れますが、巨大な東京特別区の存在は別格として、近隣市町への就業通学状況を見ると、入間郡三芳町【6.34%】が川越市【5.0%】・ふじみ野市【3.9%】を抑えて首位になっていることが注目されます。これに続くのは新座市・朝霞市・志木市・所沢市で 2.8%~2.1%の範囲。

三芳町については、財政力指数で注目していた[80514]だけでなく、昼間人口比率の低い富士見市からの流出先としても記事になっていました[90619]
「市」という看板こそ名乗っていませんが、自治体としてのランクは 上位にあると評価しています。
[93077] 2017年 8月 4日(金)20:44:46【1】hmt さん
町を母体とする村(3)北海道釧路村のケース
[93051] hmt 神奈川県高座郡渋谷村のケースでは、取り留めのない状態で長文を記し、失礼しました。
変更種別の詳細説明に記されている現在の定義には合っている。
としながらも、
渋谷町廃止なのに「分立」とは、言葉として違和感があるのではないか? 
という疑問を捨てきれず、「変更種別についての考えは迷走状態」を続けてしまいました。ところが…

[93065] グリグリさん
町から同一名の村が分立した例として、C.(4)【誤記】 8の釧路村と33の渋谷村があります。
を見たことを契機に、「C.(3) 町からの分立で村」に収録されている事例 1920/7/1「釧路町→釧路区と釧路村」の当時の記録を、1980年に町の名を取り戻した釧路町のサイトによって調査することにしました。

釧路町のあゆみに収録されていた 北海道庁告示大正9年第447号
-----------
釧路郡釧路町ヲ分割シ2級町村トシテ釧路村ヲ置キ大正9年7月1日ヨリ施行ス
其ノ境界左ノ如シ【引用省略】但シ区域図ハ関係町村役場ニ置ク
大正9年6月27日
北海道庁長官 佐上信一
-----------

釧路市の参考資料では、分割で釧路村が置かれたのを大正9年6月27日としていましたが、これは誤って告示日を記したものであり、施行日は大正9年7月1日、つまり 釧路に 北海道区制(明治30年勅令第158号)[74376]が施行されたのと 同日です。

余談ですが、釧路区発足日について:
最初に行なった変遷情報検索にミス【デフォルトにない「区制」を入れ忘れ】があったので、念のために原典の 大正9年6月24日内務省告示第52号も確認しました。
北海道区制第3条に依り大正9年7月1日より北海道釧路郡釧路町を釧路区と為す
大正9年6月24日 内務大臣 床次竹二郎

本筋に戻ります。
釧路村を置く告示文には、「分立」でなく 「分割」と明記してありました。
こちらのサイトの変遷情報では「分立」となっているのですが、変更種別の詳細説明の「分割」は
ある市町村を廃止し、その区域を分けて二以上の市町村を置くこと
ですから、釧路区も市町村の同類であるとと拡大解釈すれば、変遷情報における この説明に合いそうです。

一方、分立の説明には「ある市町村の区域の一部を分け」という言葉を使い、この説明にも合いそうです。

このように紛らわしい「分割と分立」をどのように使い分けるのか?
釧路のケースについて言えば、告示文に従い「分割」としたいところです。

基本姿勢としては、母体と分体とが「同時に存在」した時期があれば「分立」、なければ「分割」でしょう。
グリグリさんも、この姿勢に基づき、【瞬間的にせよ】同時に存在した可能性を考えて、[93065]では
釧路町/釧路村、渋谷町/渋谷村が同時に存在しました。
渋谷町から渋谷村が分立し、同日に渋谷町は藤沢市に編入されたという現在の分類が一番分かり易くすっきりしていると思いました。
としたのだと思われます。

しかし、告示文で「分割」と明記された釧路の事例を前にすると、瞬間的同時存在説を信じてよいのかどうか迷います。
類似する高座渋谷の事例。こちらに「分割」の可能性はないか? …と もう一度粘ってみます。

[32467] Issie さん
1955年4月に 神奈川県高座郡渋谷町 が「分割」されて,北半分が「高座郡渋谷村」という“新しい”自治体に,南半分が藤沢市に編入される,というできごとがありました。
という記載は、分立・分割の厳密な区別を意識したものではないかもしれませんが、事実上は「分割」であるという見方を正直に伝えています。

もちろん、母体の行先は釧路区設置と違い藤沢市への編入ですから、同日に効力が発生する2件の告示[32478]であっても、「二以上の市町村を置くこと」には該当しません。だから釧路村が「分割」であっても、渋谷村は「分立」。
そう言われれば、引き下がる他ありません。

やはり母体の長後地区でさえも自治体としての地位を失った高座郡渋谷町は、分割に値せず……ということか。

変遷情報に関して、有益な追加情報の記事番号を追記することは [80446]で提案され、最近も その事例があります[93064]
話題になった変遷の告示文を紹介した[32478]やこの記事の番号も、変遷情報への追記により、その信頼性確保に役立つことと思われます。今回の事例で告示文の重要性を感じた機会に、一言付け加えました。
[93067] 2017年 8月 2日(水)20:37:38hmt さん
「山冠に品」という文字 = 山にあるゴツゴツと角張った大きな岩
[93061] 通りすがり さん
大蛇ぐら(奈良県吉野郡上北山村)
くらは山冠に品です。表示できないみたいです。

この落書き帳の中で、稀少地名漢字リストというサイトが紹介されています。関係記事

奈良県を開いてみます。「山冠に品」という文字【注】は後半に出ており、 [JIS第3水準], Unicode: 5D53 であることと共に、多数の用例も示されています。
【注】以下 落書き帳の文中では この字を [山/品] と表記します。読みは 連濁「グラ」が多数。

リンク先の大部分は地理院地図であり、その中から主な「○○[山/品]」地名を拾ってみます。

大台ヶ原山関係
日出ヶ岳の西方、熊野川の源流に臨む岸壁に千石[山/品]・蒸篭[山/品]・大蛇[山/品]が並んでいます。
地理院地図では山頂を「日出ヶ岳」とし、「大台ヶ原山」は 「原」を意識した意味で使われています。

マピオンの表記は、山頂に「大台ヶ原山」を使い、「大台ヶ原」は もっと広い山塊に使っているようです。千石ぐら・蒸篭(せいろ)ぐらの表示はあるものの、何故か大蛇(だいじゃ)ぐらは無視されています。

分水嶺を越えた三重県の大杉谷には宮川が流れ、平等[山/品]・大日[山/品]・そして宮川ダムより下流に天狗[山/品]。
余談ですが、大台ケ原ドライブウェイの北側・川上村は紀伊水道に注ぐ紀の川水系。まさに近畿の屋根です。

東日本にも[山/品]地名があります。尾瀬の燧ヶ岳(福島県檜枝岐村)には俎[山/品]と柴安[山/品]。
少し離れますが群馬・新潟県境を関越トンネルが抜ける上には尾瀬と同名の俎(まないた)[山/品]。

【クラ/連濁でグラ】という訓読みの由来は知りません。
しかし、この文字の意味するところは「山にある角張った(品)大きな岩塊・岩壁(いわお=巌)」でしょう。
元々「岩」は「巌」の俗字であったとも言われます。「山」と「品」との組合せなら、上下どちらでも同字です。
地名に使われるのは「山/品」ですが、元々は[品/山]と思われ、「癌」という漢字の音符に使われています。

ジオジャパンの第2集では、日本列島を作った3番目の大事件として、1400万年前の巨大噴火で作られた紀伊半島を取り上げていました。
大蛇ぐらなどがある「大台」の山も、同じ時期の巨大噴火によるもののようです。
紀伊半島の巨石をテーマにした番組。タイトルの象形文字を思い浮かべながら、興味深く視聴しました。
[93055] 2017年 7月 31日(月)16:23:47【1】hmt さん
武蔵国小山田城主伊豆守さん
[93054] 伊豆之国 さん
「戦国市盗り合戦」でその昔「出羽国仁賀保一夜城主」を名乗ったこともある、武蔵国小山田城主伊豆守

「小山田城」の存在は全く知らなかったのですが、所在を調べてみました。
意外にも、私の母の実家・武蔵国【南】多摩郡小野路村【鶴川村を経て町田市小野路町】[33902]の西隣。

そこで興味をそそられて調べてみたら、「初代城主」は 12世紀の源平時代 この地の別当(馬牧の管理者)として赴任した小山田有重という東国武士でした。

地名の小山田も、武蔵国【南】多摩郡下小山田村>忠生村>町田市下小山田町として、現在に伝えられています。

そして歴史の記録に残る「小山田」は、16世紀の戦国時代末期、武田氏滅亡に関係した 郡内【甲斐国都留郡】の有力武将・小山田信茂でした。

Webを調べたら、戦国武将を研究されている方による 小山田城、小山田氏に関するページがありました。
現代の城主・伊豆之国 さん は既にご存知のことと思いますが、せっかくの機会なので紹介しておきます。

小山田城の訪問記(町田市の大泉寺)~自然豊かな多摩の伝承地

小山田記~ 現認・小山田氏400年の存亡【小山田氏関連の考察とまとめ】
 副題にある「まとめ」から、多数のリンク記事を見ることができます。
 「全部見るとかなりの時間を要する」と断ってありますが、なかなかの力作のようです。

私も一部分しか読んでいませんが、小山田有重の子で 同じく多摩丘陵の稲毛荘に進出した 小山田(稲毛)重成は 源頼朝が落馬した馬入川事故[42974] の関係者でもあったとか。


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