[85150] 伊豆之国 さん
同じ東武でも「せんげん台」と同様に新設の駅をいきなり急行停車駅にした「ふじみ野」の例も、同様なやり方だったように思えます(「ふじみ野」のほうは宅地開発が先行したという点で「せんげん台」とは様相が異なりますが)。>hmt さん。
1993年11月富士見市に開業した東武鉄道東上線の「ふじみ野駅」については、これまでに何度も話題に取り上げました。
最近も
[59419]でまとめた発言集「富士見と ふじみ野」が、グリグリさんにより紹介されたばかりです
[85136] 。
しかし、せっかく ご指名をいただいた機会なので、急行停車駅設置についての 私の観測を少し記します。
[46198] hmt
ふじみ野駅開設はこのマンション【アイムふじみ野】事業と事実上一体のものであり、駅の開業時期も、このマンションの第1期に合わせたものでした。
アイムふじみ野第5期の建設着手を報じる
東武鉄道報道資料 を見つけたので、参考までに リンクしておきます。
東武が「ふじみ野」と命名した「いきさつ」は不詳です。
しかし、富士見市と事前協議する過程で、「富士見」の名を付けてほしいという要望を受けたことは、推察できます。
少し変形した表記の「ふじみ野」。これが、1967年の「せんげん台」の手法を踏襲したことは、
[85150]により認識しました。
アイムふじみ野事業と新駅開設事業とは一体的に進められており、どちらが先ということはないと思います。
東武鉄道が清水建設と共同で作った シティヴェールふじみ野 は、アイムふじみ野と線路を隔てた東側で、少し後です。
写真右上がふじみ野駅。
東上線の遠距離通勤客増加に対応して、志木-川越市間の中間点、池袋起点24~25km付近に 緩急接続設備を作りたい。
これは東武鉄道が以前から考えていた構想であると思われます。既存駅では、上福岡駅と鶴瀬駅の中間です。
もし、この両駅のいずれかに 十分な敷地の余裕があったならば、もっと早い時期にその駅で拡張工事が行なわれ、急行停車駅が誕生していた可能性も考えられます。
しかし、両駅共に若干の貨物設備跡地があったものの、緩急接続設備を作る余地はありませんでした。
1986年に、上記両駅の中間で、
富士見市勝瀬原土地区画整理事業 が動き出しました。
ここで区画整理との同時進行という形を取るならば、東武が付近に所有していた土地を集約して大規模マンションを作り、緩急接続設備を備えた新駅を設置することもできます。
上福岡と鶴瀬が急行停車駅を争い、ふじみ野に漁夫の利を占められたというよりも、既存駅は付近の市街地化が先行し、緩急接続駅を作る用地を取得できなかったというのが実情ではないか。私はこのように推測しました。
[85150]で紹介された「せんげん台」駅の事例も、大袋・武里両駅周辺住民の争いよりも、緩急接続設備を備えた急行停車駅の用地問題という視点が決定打になったと思われます。
武里駅への準急停車運動が実現しなかったのは、大袋駅周辺住民のせいではなく、緩急接続設備を作るための武里駅拡張用地が得られなかったためと考えられます。
地図 を見ると、武里団地は武里駅の南側にあります。してみると、
両駅の中間付近の当時周りに何もなかった越谷・春日部両市境付近に新駅を設置し、こちらを準急停車駅とする
という東武鉄道の方針は、決して「苦肉の策」ではなく、武里団地に近く、緩急接続駅を作る用地の取得も可能という条件を満たす正統的な案であったと理解することができます。
結局のところ、優等列車停車駅問題というよりも、緩急接続駅問題であると理解すれば、「せんげん台」と「ふじみ野」の共通点がわかります。
富士見市に戻ると、鶴瀬西口駅前の都市化は、現実にはずっと後でした。
にもかかわらず、鶴瀬には緩急接続駅が作られなかったので、そのあたりの事情を一応考察します。
緩急接続駅は 不動産開発事業と関連する 中間の新駅 にする。
東武鉄道としては、このような方針を早々と固めていたのかもしれません。
また、鶴瀬駅西口は、
区画整理のタイミングも遅すぎ、勝瀬原【ふじみ野】に後れを取っています。
2件の事例を顧みて、東武鉄道にとり より重要と認識された課題は、「どの駅に急行を止めるか」 ではなく、公共交通機関としての 輸送力確保とサービス提供に資する「緩急接続駅をふやす」ことだったのではないか ということです。
このような東武鉄道側の事情に加えて、都市化の進行や、地元が区画整理を行う時期も絡んだ結果、東上線に追加された急行停車駅は、「ふじみ野」に決まったように思われます。
地元のこととて、つい長くなりました。
最後に緩急接続駅の出現で大きな変貌を遂げた ふじみ野駅付近の航空写真を紹介した
[81721]をリンクしておきます。
2007年撮影の写真 だけは貼り直しました。1993年11月の ふじみ野駅開業から 14年目で、 ほぼ完成した街の姿になっています。
過去の写真は、1975年(昭和50年)撮影の写真 から始まり、区画整理前の1984年、区画整理中の1989年を収録してあります。