新自治体名で合併がこじれる例は、明治、昭和の大合併でも沢山あったと聞きます。友部町はその1例です。
茨城県西茨城郡友部町は昭和30年1.15宍戸町、北川根村、大原村が合併し誕生しました。その中心の宍戸町は明治22年4月市町村施行により9村が合併し誕生。町内の殆んどは旧宍戸藩の村で、宍戸藩の陣屋もありました。町名は当然でしょう。9村の1つ友部村は宍戸藩の村ではなく旗本直轄領の小さな村にすぎなかった(合併の直前は南友部村だったのは明治11年の郡制施行の時、同じ西茨城郡の現在の岩瀬町にも友部村が在ったためと思われます)。
それが昭和の合併の時、新町名が宍戸町ではなく友部町になったのは、鉄道の発達が関係していました。
明治22年1月水戸鉄道水戸線(現JR水戸線)が開通、大田町駅設置。5月、大田町駅が新町名に倣って宍戸駅に駅名変更。
当時茨城県から東京方面への鉄道運輸は水戸線が唯一で、宍戸駅周辺は当時賑わったが地権の関係で広い土地が確保できず将来の発展に障害となりました。
明治28年7月水戸線に友部駅開設。駅名は同駅がある大字南友部に由来。江戸時代の友部村、明治11年以降の南友部村に因む大字名です。
友部駅周辺は開業当時狸狐が棲む原野でありましたが、そもそもそんな土地に駅を作ったのは地権者の同意を得られ易かった為です。それがその後の開発を容易にし、後の発展の要因の1つになりました。
明治28年11月土浦線(現JR常磐線の一部)開通。友部駅は土浦線と水戸線の接続駅になります。
明治29年には田端-土浦間、31年には水戸-岩沼間が開通し、明治39年に国有鉄道が買収し常磐線になりました。県内の鉄道輸送の中心は常磐線に移ります。
大正元年には友部駅が宍戸駅の旅客数、運賃収入の約2倍になりました。その格差は年を追って拡大していき、宍戸駅は支線の小駅にすぎなくなっていきました。友部駅周辺は商店街も発展し、官庁も整備され、当地方の中心的存在になりました。
昭和29年に宍戸町、北川根村、大原村の合併の案が持ち上がると、問題になったのは合併そのものより新町の名称でした。北川根村、大原村は「友部」を希望し、友部地区にも異論はありませんでした。しかし宍戸地区住民は「歴史ある宍戸の地名を残せ」と強硬に主張しました。ついに合併協議会で「友部」案が決定するも、それを承認する町議会に反対派町民は大勢押しかけ窓ガラスを割るなどの乱暴をしました。「友部町として合併を施行し、発足後速やかに町名変更の努力をする」という玉虫色の決着が図られ、ともかく友部町が誕生しました。その後も「宍戸町々名保存会」「宍戸町分町期成同盟」まで結成して争いました。
追記
自分に馴染の少ない友部町の改名問題を調べる気になったのは、
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消えゆく町名を駅名を変更してまで残す
で現在の十王駅が開設された当時、駅名を当時の多賀郡櫛形村友部の「友部」にしないで隣町の「川尻」としたのは、友部駅が先にあったと知ったからで、友部駅の所在地がが宍戸町から友部町に変わったのは、友部駅に由来すのではないかと直感したからです。当たりでした。
「川尻駅」は明治時代から改称の動きが度々ありましたが、実現したのは皮肉にも当の十王町がなくなると判ってからで、住民投票で圧倒的に「十王駅」が支持されたそうです。