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外周領域

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[56190] 2007年 1月 12日(金)18:15:48【1】hmt さん
日本から政治的行政的に分離された「外周領域」
[56162]で、第二次大戦の末期に、硫黄島を含む小笠原諸島から、民間人の強制疎開が行なわれたことを記しました。
実は、小笠原からの住民引揚は、これが始めてのことではなかったのでした。

既に[26683]で書いたことなのですが、幕末の1861年(文久元年)に老中安藤信正は外国奉行水野忠徳を咸臨丸で派遣して小笠原を回収させ、翌年には八丈島からの移民を送り込み開拓を始めました。
ところがその1862年に起きた生麦事件[54415]の賠償金をめぐり、英国との間に確執があり、真っ先に攻撃される虞のある小笠原は、早々に開拓を放棄して本土に引き揚げてしまったのです。
この時には、旗本の奥方の疎開騒ぎ[33902]があったくらいで、江戸が襲われることも心配されました。
小笠原は、明治8年になってようやく再回収され、翌1876年には日本の小笠原領有が国際的に認められました。

19世紀の話はこのくらいにして、本題である第二次大戦の敗戦によって失なわれた「日本の外周領域」のことに入ります。

小笠原諸島では、1944年に軍属以外の6886人が本土に引き揚げ[56162]
優勢な米軍は、1945年2月に硫黄島に上陸。栗林部隊2万人が必死に抵抗するも3月には玉砕。
当時の大本営発表では「いおうとう」でした。国土地理院の「いおうじま」や米軍の「Iwo Jima」と違うのは、厚木(あつき)[22152]や物干場(ぶっかんじょう)[38388]のような軍隊方言のせいでしょうか?
父島・母島の生存者は、8月の日本敗戦によって本土に送還されました。

沖縄での地上戦は、3月26日の慶良間諸島(4月1日 沖縄本島)上陸に始まり、6月23日に組織的な戦闘が終了しました。
「鉄の雨」が降り注いだ3ヶ月間に、多数の民間人を含む20万人の犠牲者を出し、日本の行政機能は事実上壊滅ました。

敗戦後、戦場になった沖縄と小笠原を含めたいくつかの島々の行政が、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書(指令のMemorandum)によって日本から切り離されます。

「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件 Govermental and Administrative Separation of Certain Outlying Areas from Japan」というタイトルで、SCAPIN-677 と呼ばれています。SCAP=連合国軍最高司令官(日本の新聞では「マ元帥」と表記)の Instruction Noteという意味です。

この覚書の第3条の中で、「日本の地域から除かれる地域」として列挙された3項目の中に
(b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆、南方、小笠原および火山(硫黄)列島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島を含むその他の外廓太平洋全諸島
があり、“北緯30度以南の琉球列島”の中には、沖縄、奄美群島、トカラ列島の「下七島」が含まれます。

(b)項において、伊豆諸島も日本の地域から除かれています。これに関連して、2004年1月29 日(SCAPIN-677発令58周年)に、[24269]「伊豆諸島が日本でなかった53日」という記事を書きました。この記事に対する Issieさんのレス[24274]にあるように、 SCAPIN-841 による修正によって、伊豆諸島が日本に戻りました。

(b)項には、南方諸島[53392]の名も見えます。(対日講和条約第3条や小笠原返還協定 第1条第2項では、小笠原を含む広い意味で使われています。)
沖縄県に所属するものの、「大東島群」(沖ノ鳥島やパラオ列島に連なる)は、別に挙げられています。
幻の「中ノ鳥島」([26266]の末尾)が、顔を出しているところはご愛嬌。

(a)鬱陵島、竹島、済州島や(c)千島列島、歯舞島群、色丹島が日本に含まれていないことは、領土問題についての韓国やロシアの主張の一つの根拠になっているのでしょうが、もともと SCAPIN-677 は、第6条に明記されているように、最終的な帰属を定めるものではない暫定的な性格のものだから、領土問題にこれを持ち出すのは筋違いということになります。
ついでに言えば、 SCAPIN-677 によれば、鬱陵島・済州島は、第4条の朝鮮とは区別された存在ですね。

原文を読もうと思ったら 画像 がありましたが、読みにくい。
外務省HPの中の 日露領土関係文書IIIの12番目は、全文ではありませんが、よく読めます。

1946年(昭和21年)1月29日に発令された SCAPIN-677 は、2月2日にGHQの民間情報教育局(CIE)から発表され、奄美復帰年表 では、「二・二宣言」と呼ばれています。
昭和21年2月3日毎日新聞(大阪)には、「日本領域マ司令部指定」という記事がありますが、読んでみると、“日本領域として特に指定された島嶼に 千島諸島 および北緯30度以北の琉球諸島を含んでいるが…”とあります。
これは明らかな誤報です。電話送稿で「対馬」と「千島」を取り違えたのでしょう。
[24269] 2004年 1月 29日(木)23:43:49【2】hmt さん
伊豆諸島が日本でなかった53日
[24187] では 明治11年(1879)の東京府移管まで しか記しませんでしたが、伊豆諸島の帰属を巡っては、まだとんでもない履歴がありました。
島庁、支庁の設置、都制施行は さておき、なんと 伊豆諸島が日本でなかった時期があったのです。
1946年1月29日(たまたま今日と同じ日付ですね)、連合国軍総司令部(GHQ)の覚書 「特定外周領域の日本政府よりの政治的行政的分離に関する件」 により伊豆諸島全域が 日本政府の統治領域から外されてしまいました。
戦後の混乱期とはいえ、3月22日に日本に復帰するまでの53日、下田よりも北にある伊豆大島が 日本でない時期があったとは!
しかも この間に伊豆大島では 独自の憲法草案まで作られたというから驚きです。
復帰の日付は 菅田正昭さんの「島風とシマ神」[24183]によりましたが、同じ著者の 「日本の島事典」(三交社1995)[22569]には、昭和21年1月29日から3月12日とあるので 43日になります。どちらかがミスプリントでしょう。

なお、伊豆諸島といっしょに日本でなくなった トカラ列島 下七島 (北緯29度と30度の間) の復帰は 1951年12月5日で、これにより 鹿児島県大島郡には、1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った上三島と共に 2つの十島村(じっとうそん)が存在することになりました。翌年2月10日には上三島が 三島村(みしまむら)に、下七島が 十島村(としまむら)になり、同名は2ヶ月で解消しました。現在は両村共に 鹿児島郡。
北緯29度以南の奄美諸島復帰は、トカラ下七島復帰から2年後の 1953年12月25日になりました。

なお 小笠原諸島の日本復帰は1968年6月26日。沖縄復帰は1972年5月15日。北方四島は未復帰です。
[24274] 2004年 1月 30日(金)01:19:01Issie さん
七島の帰った日
[24269] hmt さん
復帰の日付は 菅田正昭さんの「島風とシマ神」[24183]によりましたが、同じ著者の 「日本の島事典」(三交社1995)[22569]には、昭和21年1月29日から3月12日とあるので 43日になります。どちらかがミスプリントでしょう。

私のところの資料には,連合国最高司令官の布告(SCAPIN第841号)によって3月22日に先の行政権排除の対象が「修正」されて,「伊豆諸島及び嬬婦岩を含むそれ以北の南方諸島」は日本に含まれることになった,と書かれています。
(百瀬孝『事典 昭和戦後期の日本 占領と改革』,1995年,吉川弘文館)

[24271] 今川焼 さん
「四阿屋村(あずまやむら)」…(難読なのが難点か?)

少なくとも北信では難読ではないでしょう。
ただ,北信で「あずまや山」と言えば東筑摩郡の四阿屋山ではなくて,菅平の上の上信国境にある「四阿山」の方が,まずは連想されるものと思います。
「南アルプス市」よりも評判が悪いかもしれません。
[24278] 2004年 1月 30日(金)09:56:16【3】太白 さん
十島村(としまむら)
[24269] hmt さん
[24274] Issie さん
伊豆大島の帰属の話を大変興味深く読ませていただきました。
でも、反応するのは以前から興味があった「トカラ」ネタの方です…。

(hmtさん)
トカラ列島 下七島 (北緯29度と30度の間) の復帰は 1951年12月5日で、これにより 鹿児島県大島郡には、1946年に北緯30度線で分断された際に 日本に残った上三島と共に 2つの十島村(じっとうそん)が存在することになりました。翌年2月10日には上三島が 三島村(みしまむら)に、下七島が 十島村(としまむら)になり、同名は2ヶ月で解消しました。
十島村のHPによれば、「トカラ」の由来は、「トハラ」(奄美方言で沖の海原を表す)、アイヌ語の乳房を意味する「トカプ」、「宝島」の「タカラ」など、諸説あるようです。それが、近世に三島村を含めた有人十島全体が「じっとうそん」と呼ばれるようになり、現在は「としまむら」となっています。
すなわち、「とから」→「じっとう」→「としま」との変遷を経ているわけですが、通称としては現在も「トカラ」の名が根強く生きていることになります。

余計なお世話ですが「十島村」という名称は、「名は体を現していない」典型ですね。村のシンボルマークも「7つの島の団結を示したもの」になっています。

以下は十島村の年表です。

文治元年(1185年)壇ノ浦の戦いで敗れた平家一族が十島列島にも落ち延びて定住(伝説)
嘉禄3年(1227年)十島は川辺郡に属し、平氏系統の川辺氏が支配
宝永元年(1704年)口之島、中之島、宝島に薩摩藩異国船番所、在番を設置。七島の島役は郡司、横目。
文政7年(1824年)宝島でイギリス坂の戦い(英捕鯨船が牛を欲しがったため)
→幕府の外国船打払令のきっかけ
明治4年十島村は廃藩置県の対象外とされ、在藩が引続き郡司・横目と共に行政を担当
明治8年在藩引き揚げ。口之島・中之島・宝島・硫黄島に戸長を置く。副戸長は全島。
明治18年川辺郡十島のうち、下七島は川辺郡帰属のまま金久支庁(翌年大島県庁)管轄、
上三島は大島郡金久支庁西之表出張所管轄となる
明治22年上三島を再編入。市町村制施行から除外され、中之島の戸長が十島全体を統治(?)
明治30年川辺郡より分離、大島郡十島となる。
明治41年「島峡町村制」が施行され、十島村発足。
大正9年本土並みの市町村制実施
大正15年大島県庁を廃し大島支庁を置く。
昭和21年GHQ指令により北緯30度で上三島(竹島・黒島・硫黄島)と分離され軍政下に
昭和26年現十島村で本土復帰運動が起こり、1,970人が署名
昭和27年2月4日に十島村が本土復帰、2月10日に十島村(としまむら)発足(上三島は三島村として同日発足)
昭和31年役場所在地を中之島から鹿児島市に移転し、中之島に支所設置。
昭和35年中之島・口之島に電話開通
昭和48年十島村は大島郡から鹿児島郡へ帰属変更

十島村といえば、「村内に役場が無い」ということで有名(?)なわけですが、歴史をみる限り、少なくとも明治41年以降昭和31年に至るまで、十島村の行政中心は中之島にありました。それが、昭和31年に鹿児島に移転しており、島外の役場設置は「必然」とはいえません。むしろ、電話も電気もなかった昭和20年代以前に、しっかり中之島に行政中心があったわけです。
ただし、村のHPを見ると、
県本土とのかかわりは、益々緊密の度合を増していったことから、昭和31年4月1日から役場庁舎を鹿児島市へ移転した。
とあり、竹富町のように、島相互の交通の便が悪いことによるものではないですね。島の開発を陳情しやすいように県庁近くに役場を置いたことを示唆しています。

また、重箱レスですが、十島村HPの年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日とあり、同10日に十島村発足(上三島は三島村として同日発足)とありますので、同名期間はない(ないし6日間)ではないでしょうか? >hmtさん

【訂正機能にて追加】
明治19年から大正15年までは「大島県」というのが存在したようですが、その後「大島支庁」になっていることから、どうやら他の「府県」とは位置づけが異なるようですね。
[24282] 2004年 1月 30日(金)11:30:04【1】hmt さん
七島なのに十島村とはこれいかに?
[24278] 太白 さん
十島村HPの年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日とあり、同10日に十島村発足
私が参照したのは名瀬市の「奄美群島日本復帰50周年」 http://www.city.naze.kagoshima.jp/museum/museum/hukki-3.html 記載の年表でした。その1951年のところに
連合国最高司令官覚書により北緯29度以北(十島村の下七島)が日本復帰(12月5日)(大島郡十島村(じっとうそん)が二つ存在することとなる)
とありました。SCAP覚書の日付と現実に復帰した日付のズレかもしれません。

旧十島村(じっとうそん)の一部である三島村の硫黄島(鬼界ヶ島)と竹島は、[24108]等で言及した鬼界カルデラ(6300年前に大噴火)の北縁にあたります。

「トカラ」の表記は漢字が正しいのだろうと思いますが、入力の便宜上カナにしてしまいます。
十島村HPでさえも カナ表記が見られるので、地元も許してくれるでしょう。
【1】補足
[19907] 般若堂そんぴん さん 、[19914] U+3002 さん に教えていただいた表示法を試る機会だったかもしれませんが。

表記と言えば、[24269]では「奄美諸島復帰」と書いてしまいましたが、上記名瀬市のHPにあるように、当時の用語としては「奄美群島復帰」が正しいですね。訂正しておきます。
[56242] 2007年 1月 15日(月)22:32:21hmt さん
十島村(じっとうそん) と 十島村(としまむら)
日本は、第二次大戦に敗れた 1945年の秋に「進駐軍」に占領されました。
年が明けた1946年になると、マッカーサー司令部から発せられた覚書 SCAPIN-677 によって、日本の施政権が及ぶ範囲は、 “四主要島嶼(北海道、本州、九州、四国)と、対馬、大隅諸島を含む約1千の隣接小島嶼” に限定されることになりました [56190]

実は、この文中で“大隅諸島”と書いた部分は、原文では“北緯30度以北の琉球(南西)諸島”なのですが、種子島・屋久島などのことを“琉球諸島the Ryukyu (Nansei) Islands”扱いにしている原文は誤解しやすく、かつ冗長なので、あえて原文に使われていない“大隅諸島”を用いました。

日本の施政権から外された地域には、沖縄、小笠原、竹島、千島などの他に、東京都の伊豆諸島と、奄美諸島、それにトカラ列島(鹿児島県十島村)の北緯30度以南が含まれていました。

屋久島と奄美大島との間に位置するこのトカラ列島。1889年に「町村制ヲ施行セサル島嶼」として指定された当時は「鹿児島県管下薩摩国川邊郡」であり、「川邊十島」という呼び名もあるのですが、1897年に奄美と同じ「大島郡」に編入されました。同時に「大隅国」に変更されたようです。
戦後の1973年には鹿児島郡に所属変更。この時は国界変更はない筈ですから、大隅国のまま鹿児島郡。

郡の境界付近で、新羅(新座)郡→入間郡→(新座郡統合後の)北足立郡→入間郡 と出入りを繰り返した針ヶ谷[41711]を紹介したことがありますが、同じ土地が 川辺郡→大島郡→鹿児島郡と、全く異なる3郡(2国)を渡り歩いたのは、珍しい事例だと思います。

郡の話はさておき、トカラの島々は、1908年の島嶼町村制による十島村(じっとうそん)を経て1920年に「本土並み」の村になっていたわけですが、前記のように、思いがけず村内の「北緯30度」に境界が引かれることになりました(1946年)。

このために、境界線よりも北の「上三島」(硫黄島、黒島、竹島)は日本に残り、北緯30度以南の「下七島」(口之島、臥蛇島、平島、中之島、悪石島、諏訪ノ瀬島、宝島)は奄美などと共に日本から切り離されました。
村外で起こった政治力学の影響により、十島村は完全に分断されたわけです。

5年余を経た 1951年9月にサンフランシスコ講和条約が調印されましたが、この条約 第3条の信託統治条項により、北緯29度以南はそのまま日本から分離されることになりました。
しかし、北緯29度と北緯30度の間のトカラ列島「下七島」だけは、日本に復帰することができたのです。

「下七島」の日本復帰にあたり、1946年以来、実質的には「上三島」だけになっていた「十島村(じっとうそん)」では、旧十島村を復活させるか、分村するかの議論になり、住民投票の結果、圧倒的多数で分村することになりました。出典

こうして従来の「十島村」と、「下七島」復帰により新たに生まれる「十島村」。
この「2つの十島村」は、どのような経過で現在の「三島村(みしまむら)」と「十島村(としまむら)」になったのか?

実は、この件に関しては、1946年に一時的に日本から切り離された伊豆諸島の復帰を 3年前に話題にした際 に触れたことがあります。
[24269] では、「奄美群島日本復帰50周年」の年表 に基づいて、連合国最高司令官(SCAP)覚書による1951年12月5日の日本復帰で、「2つの十島村(じっとうそん)」ができ、翌年2月10日に現在の「三島村」と「十島村(としまむら)」になり同名が解消されたと書いたのですが、[24278]太白さんから、“十島村HP の年表によれば、下七島の復帰は昭和27年2月4日”とのご指摘がありました。

今回、市区町村変遷情報の「十島村」 を調べてみると、1952/2/4はポツダム政令(昭和27年政令第13号)の官報告示日であり、“変更日 1952年2月10日”となっています。
# 十島村に関する暫定措置に関する政令(昭和26年政令第380号)も存在します。
見ていないのですが、便宜上「南十島村」と呼ばれていたとか。(1951/12/5から正式復帰する1952/2/10までの間?)

確認のために、変遷情報の「三島村」 を見たら、なんと! “従来の大島村の境界”を北緯30度以北とする変更と、「三島村」への名称変更を内容とする総理府告示第132号の日付が“1952/5/14”と、3ヶ月も後になっているではありませんか。

もっとも、“変更日 1952年2月10日”となっているので、告示が遅れただけで、2月10日に正式復帰した「下七島」が「十島村(としまむら)」になると同時に、「上三島」の「十島村(じっとうそん)」は「三島村」に改称し、「2つの十島村」は同時には存在しなかったものと思われます。

# 官報告示には読み仮名が付いていないようですが、この時に「じっとうそん」から「としまむら」に変わったと考えるのが自然でしょう。

# 1952/5/14の告示では、“従来の大島村”と記されていますが、もちろん“従来の十島村”の誤記と思われます。
[53248] 2006年 8月 10日(木)14:41:16hmt さん
小笠原村の「設置」と「村制」の日付
[52770] 88 さん
小笠原村の入力の件も話題にしました

最初に、平成の大合併からスタートした自治体変更情報が、過去へと着実に遡及して、有用なデータの蓄積になっていることに敬意を表します。

さて、「合併以外の自治体変更情報」の中にある、“1968.06.26 小笠原村 村制” との記載に関するコメントを少々。

1968年6月26日は、米国から日本に返還された日であり、この日に「小笠原村」が新たに「設置」されました。[39017]
問題は、これを「村制」と表現して良いかどうかです。

この時に設置された「小笠原村」は、「地方自治法上の通常の地方公共団体」ではなかったのでした。
村長等の執行機関も、村議会も教育委員会もありませんでした。
東京都小笠原支庁長が「村長職務執行者」として村政に当たった行政区画であり、「地方自治体」ではありません。

村長と村議会議員が選出され、「地方自治体としての小笠原村」が実現したのは、1979年4月22日です。
東京都公式HP の中でも、都内島しょ地域の歴史的特性についての項目の中に、
戦後は米国の委任統治下におかれたが、昭和43年(1968年)6月に日本に返還された後、昭和54年(1979年)に実質的な村制が確立された。
と、「返還」と「実質的な村制」とを区別して書かれています。

これらの事実をふまえると、次のように区別して、両方の日付を入力しておくのが良いのではないかと考えます。

変更変月日自治体名変更種別変更対象/変更内容
1968.06.26(小笠原村)(村設置)小笠原諸島復帰に伴う暫定措置
1979.04.22小笠原村村制地方自治体としての発足


なお、村政が実質的に動き出したのは翌4月23日(月)ですが、ここでは選挙で選ばれた村長等の任期の初日を「村制」施行の日付としました。 http://homepage1.nifty.com/Bonin-Islands/sakusaku/3_1.htm 参照

時間的には前後しますが、1968年の「小笠原諸島返還」よりも前の概略は、次の記事に記してあります。
[26683] hmt  「無人島」が日本領になるまで
[53392] 2006年 8月 15日(火)18:25:37hmt さん
小笠原返還・南方諸島
[53386] 88 さん
[53310]で予告した、小笠原村の経緯のまとめです。

詳細な調査、有り難うございます。
1967年11月の佐藤首相訪米で「1年以内に小笠原返還」という日米共同声明が出され、翌1968年4月に通称「小笠原返還協定」が結ばれ、6月に返還実現という歴史は知っていても、「暫定措置」までは、なかなか知りません。

この1968年は、「明治百年」でしたが、学園紛争などで世情はさわがしかった年です。
なお、後に残った大物「沖縄返還」は、小笠原返還の翌年11月の佐藤首相訪米で「日米安保堅持・沖縄1972年返還」の日米共同声明が出されて道がつきました。

ところで、「小笠原返還協定」こと「南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」の第1条第2項に
この協定の適用上,「南方諸島及びその他の諸島」とは,孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島,西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島をいい,これらの諸島の領水を含む。
と記されています。

これよりも22年前の「OCCUPIED JAPAN」時代のこと、1946年3月22日に
連合国最高司令官の布告(SCAPIN第841号)によって日本に対する行政権排除の対象が「修正」されて,「伊豆諸島及び嬬婦岩を含むそれ以北の南方諸島」は日本に含まれることになった
と書かれている[24274] とのことなので、伊豆諸島、嬬婦岩などの「南方四島」[22460]、それに小笠原諸島を総括した「南方諸島」という言葉は、どうやらアメリカ由来の外交用語のように思われます。
地図帳に関しては、小学館「日本列島大地図館」の日本全図の中で見つけたのが唯一の掲載例なのですが、一応は「島群」コレクション にも採用していだいています。

小笠原返還協定の定義によると、沖の鳥島(沖ノ鳥島と字が違う)及び南鳥島は小笠原群島などの南方諸島とは別建てです。

便宜上、行政的には小笠原村に属しており、「島群」コレクションでも南鳥島・沖ノ鳥島を「小笠原諸島」に含めているのですが、地形的には、沖ノ鳥島[26266]は大東諸島の延長線上にあり、「小笠原諸島」に含めることにいささか疑問があります。

小笠原村と無関係ですが、88 さん 宛てのついでに
名古屋市天白区が昭和区から分かれた日付は誤記ではないでしょうか。
[56162] 2007年 1月 11日(木)22:51:27hmt さん
硫黄島からの手紙
沖縄での地上戦の直前、1945年2月~3月に行なわれた激戦で知られる硫黄島が、久しぶりに思い出されています。
読売新聞 によると、硫黄島では、火山活動による隆起により、60年前に米軍が波止場建設のために並べた沈没船が海面上に姿を現しているとのことです。

硫黄島は摺鉢山以外は平坦であり、だからこそ飛行場を確保するために日米の激戦が行なわれたのですが、その南北にある南硫黄島と北硫黄島は、海上に突き出た800~900mの険しい山です。

この硫黄列島は、「火山列島」とも呼ばれますが、特に南硫黄島周辺にある海底火山「福徳岡ノ場」[23901]の84)の火山活動では、1904年、1914年、1986年と再三にわたり新島の形成が確認され、「新硫黄島」と呼ばれました。しかし、いずれも数ヶ月ないし数年の寿命で水没しました。参考:2005年海底噴火の写真

火山噴火による新しい国土の誕生はめったにありませんが、硫黄列島(24~25N)の北への延長線上(27N)にある西之島に隣接した場所で、1973年の海底噴火により新島が誕生し、「西之島新島」と名付けられました。翌年には更に拡がって旧島と接続し、1977年には湾口が閉じるなど、完全に一体化しましたが、波浪による侵食を受けているようです。海洋情報部

火山活動で何度か新島が形成され、自らの爆発や波浪の浸食で消滅する例は、更に北の「明神礁」でも繰り返され、青ヶ島からも遠望できたそうです。1952年の観測船・第五海洋丸の遭難事件は有名で、この後に登場した「ゴジラ」でも、その仕業かと疑われています。
明神礁カルデラ の外輪山・ベヨネース列岩(南方四島[22460])は1846年に発見したフランス軍艦の名に由来するようですが、別名の「ハロース」は外来語ではなく、“波浪の巣”とか。

火山の話はこのくらいにして硫黄島に戻ると、ここには米国と開戦する前年・1940年に町村制が施行されて「硫黄島村」 が生まれていました。
# “島嶼町村制施行”と書いてありますが、この勅令はこの1940年に廃止されているので、“町村制施行”の誤記だと思います。

硫黄島定住の歴史を遡ると、1889年に父島の漁師が入植するも挫折。その後、硫黄採掘も試みられ、1891年小笠原島庁の所管になった後、入植者が定住したのは1904年。硫黄島の人口は1915年679名、1921年1039名、1940年1164名というから、結構にぎわっていたのに驚きます。

第二次大戦では小笠原は軍事基地化され、米軍侵攻の危険が迫った1944年には、一般島民の強制引揚げに伴ない、戦前の村々(父島、母島、硫黄島の合計5村)は現地から姿を消しました。但し、村役場と小笠原支庁は東京に移って存続しました。
小笠原支庁と村役場が廃止されたのは、平和条約の発効により、小笠原が正式に米国の信託統治領になった1952年とのことです。現在の北方領土6村のような形式的に存在する村というよりも、旧島民を対象とする避難状態(先年の三宅村と同様?)が続いていたのかもしれません。

父島・母島も空襲と艦砲射撃を受けましたが、沖縄のような民間人を巻き込む悲劇は回避されました。
余談:父島の爆撃に従事していた(パパ)ブッシュ中尉は、乗機が対空砲火により撃墜され、漂流後に潜水艦に救出された由。Biography


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