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落書き帳


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[67099] 2008 年 10 月 23 日 (木) 16:40:42 鳴子こけし さん
 比喩

[67055]ぺとぺとさん

…仰る通り大きな誤解をしていたようです。ぺとぺとさんの言いたいことは大方理解いたしました。比喩表現の偉大さを改めて認識。
しかし、少し反論おば。

単なる「自惚れ」ととられてもおかしくないですよ。
最近流行のドラマとは何だか知りませんが、自分自身を偉人に例えているわけではなく、自分の現在の立場を譬えているのです。「同じじゃないか」と思われるかもしれませんが。

映画館で騒いで追い出されるのと同じレベル
映画館で騒いでいる人たちは、悪質な荒らしをしている人たちと同じレベル。トラブルメーカーの方たちだって、それなりに熱意があって書き込みをしているはずです。例えるなら、映画館で興奮のあまり立ってしまう人(そんな人いないでしょうが)。それが邪魔であれば、館員の人が「座ってください」と注意を促すか、それでも立ってしまうようであれば最後列に移動するかすればよいのです。それだけで「映画を見るな」と言っているようなもの。それでは困ります。

[67039]かぱぷうさん
“基本的人権の尊重”
この言葉は決して軽はずみに使用しているわけではいません。
事実、僕がこうして反論しているように、重みのあるこの言葉を何故撤回なぞしなければならないのでしょうか。
この言葉は撤回はしません。する必要がないからです。撤回しない、すなわち『現状維持』です。

法律が守れない恐れがあっても、憲法はちゃんと守ります。憲法と法律は似て非なるものです。
しかし、実際には法律の上に憲法がある訳で、憲法を守れなていない可能性がある人が“法律”を声高に叫んだところで、それこそ耳を貸す人は少ないのではないでしょうか?

[67038]日本人さんによると
グリグリさんの絶対的な指示
とのこと。グリグリさんを非難するつもりはありませんが、『座ってくれないから追い出す』人の言うことに逐一従っていたら、操り人形になってしまいます。自分の都合のいいようにだけ事を進めて、悪気のない人間まで居なくしてしまう。これではまるで時代劇の悪代官ではありませんか。

[67098] 2008 年 10 月 22 日 (水) 23:09:49 Issie さん
 高架の効果
hmt 市街地乗り入れに成功した鉄道

[67094] hmt さん
東京の場合は、 1925年には南北の鉄道が、そして1932年には東西の鉄道が、いずれも市街地貫通を果たしています。

大阪では,開通当時は市街地を遠巻きにして敷設された 西成線(1898年開業)と貨物線(大阪臨港線;1928年開業)に挟まれた既存市街地の間を高架でまたいで結びつけて「大阪環状線」とする(1961年)という“荒業”が行われていますね。

日本で最初の“本格的な高架鉄道”は,1904(明治37)年に 総武鉄道 がそれまでターミナルとしていた 本所駅(現錦糸町駅) から1歩都心に近い新ターミナル 両国橋駅(現両国駅) へ入り込むために,本所の住宅密集地上に建設された高架線だとされています。
東京の省線電車の“大高架鉄道”と同じ時期の大正後期から昭和初期にかけて,東京や大阪・神戸などでは私鉄が盛んに高架線で都心に乗り入れようとしていますが,その中で比較的に距離が長いのは,1931(昭和6)年に開業した京成上野線の 日暮里〜隅田川橋梁 間。ほかは都心側ターミナルに近い短距離区間を高架で乗り入れている例が多いですね。

既存市街地の中に“全く新しいルート”で入り込んできた高架鉄道としては,名古屋市南部の住宅密集地に入り込んできた東海道新幹線の 笠寺〜名古屋 間があります。新大阪東方も現在では市街地の中に埋もれていますが,当時はまだ“街外れ”…だったかな?
逆の西方に山陽新幹線として延伸された1972年には,もう市街地化は完了していましたかね。とすれば,既存市街地をまたぐ高架鉄道の面目躍如ということになるでしょうか。
東北・上越新幹線および埼京線(1985年)もそうですが,最近の高架鉄道は「既存市街地への突入」というよりも「連続立体化による道路交通との分離」という方に重点が置かれているのでしょうね。

そう。日本の場合,高架鉄道の多くは元々地面の上を走っていた“既存の鉄道路線”をほぼ同じ場所で高架化するものがほとんどですね。
既存市街地へ入り込む,というよりも,都市が膨張したために,本来は“街外れ”を走っていたはずの鉄道が市街地に呑み込まれ,結果として線路の両側の交通を遮断するに至ってしまい,それを解消するために高架化する,というのが一般的なパターンです。

アメリカ合衆国では19世紀後半から20世紀初めにかけて,いくつかの大都市で鉄道が都心に入り込む手段として盛んに高架鉄道が建設されました。典型的なのは,ニューヨークの都心で何本もの道路の上に建設された高架鉄道。しかし,これも路面電車同様,20世紀半ばに急速に廃れ,ニューヨークでは1950年代までに撤去されてしまいました。シカゴには今でも残っていますが。

道路や川の上に高架線を建設するというと,日本でも首都高などのように道路では常套手段なのに,鉄道ではあまり採用されていませんね。…というより,思いつくのは運河の上に高架線を設けることで横浜の都心部を突き抜けた根岸線(1964年;[67094] hmt さん)くらい。あとは,[67097] の 玉野市営電鉄 か…。
もちろん,モノレールや新交通システムではこちらが当たり前ですけどね。

[67097] 2008 年 10 月 22 日 (水) 21:37:08【3】 Issie さん
 高架ではないけれど

[67088] hiroroじゃけぇ さん
「玉遊園地前」までの路線だったのですが、延伸部分は不可思議な線形になっていますね。

[67001] で参考にした本には,備南電鉄の当初の計画路線図(宇野〜児島〜水島;p.7)と玉野市による 渋川 までの路線延長計画図(p.9)が掲載されています。

当初,備南電鉄の計画では,流用した造船所の引き込み線(第1期開業区間)が終わる 玉(のち 三井造船所前 と改称) から先は,ほぼ現在の国道430号線と同じようなルートで渋川方面へ延びる予定でした。
開業後の備南電鉄の業績は芳しくなく,せめて造船所の門前に形成された繁華街に近づけようと,1955年10月には200mほど延長して 玉駅 を設置しました(つまり,時期を違えて違う場所に「玉」という駅があったのです)。それも焼け石に水で,結局,1956年3月に会社は解散し,玉野市に移管されてしまいました。
路線を引き受けた玉野市では,起債申請が認められたこともあって,夏の海水浴客輸送による増収を当て込んで,渋川まで延長することにしました。問題は,玉 と 渋川 の間の丘陵をどうやってすり抜けるか,ということ。
この件について,その「本」では以下のように記しています。

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丘陵地帯を抜けるには4案を立て検討,市営なので市民の利用を重点に,将来企業団地,宅地開発などが期待される玉原地区を通る奥玉線が有力となった。(p.9)
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ルートは 玉 から 奥玉 方面へ白砂川をさかのぼり,志池 から南に向きを変えて 和田 から 日比 へ向かう,というものでした。玉 と 和田 の間にそびえる 臥竜山 を北から西にグルッと廻る,というものですね。
もしかしたら,海岸沿いに進んだらたぶん現在の国道と同じように必要となったであろうトンネルを避ける意味もあったかもしれません。
そうして1960年8月に,とりあえず 玉遊園地前 まで延びたのですが,それ以上線路を延ばすことはとうとうできませんでした。

ところで,玉 から延伸するにあたって用地として選ばれたのは“白砂川の上”でした。つまり,通常のように川を横断するのではなく,川の流れる方向に“長い橋”を架けてその上を走る,というもの。家屋の密集している 玉地区 の中に入り込むにあたって,用地買収の困難を避けたのでしょうね。
要するに,「高架鉄道」とよく似た発想です。

※ところで,私は学生時代,ある集まりのために毎年夏に 渋川 へ行っていました。宇野駅から渋川の海水浴場までバスを利用していたのですが,初めて訪れた時には,ずいぶんと意外な所に造船所や精錬所があるものだと,妙に思ったものでした。今から四半世紀ほど前のこと。
さて,渋川まで路線が延びていたとして,あるいはもう少し備南電鉄に「体力」があって,せめて児島まで延びていたとしても,多くの地方私鉄が姿を消した“1970年代の峠”を越えて無事に21世紀を迎えることができたかどうか…。

[67096] 2008 年 10 月 22 日 (水) 20:47:04 山下稔 さん
 大阪のギヤンブル場はどこにあったか

大阪に競馬場、競輪場は多数あったと聞きましたが何年頃どこにあったのですか

服部緑地、住吉公園、長居公園あったと聞いたことがありますが私はギヤンブルに興味が無か

ったので分かりません、

もし年月日で開設日、閉鎖日分かれば嬉しいのですが。教えてください

[67095] 2008 年 10 月 22 日 (水) 15:03:07【1】 山野[揖斐の山] さん
 長野市/松本市

長野市・信州新町・中条村の3市町村で構成する合併協議会に於いて名称等が決められ、結果は長野市へ編入となりました。
*月曜日の記事です。
(追加:18時54分)
松本市と合併を検討している波田町に於いて住民アンケートを12月にも行われる予定。

[67094] 2008 年 10 月 22 日 (水) 14:15:08 hmt さん
 「鉄道が通るのは街外れ」という“原則”を破って市街地に入った鉄道
hmt 市街地乗り入れに成功した鉄道

[67076] Issie さん
「鉄道」は,(日本では)法律上,道路の上に敷設することができないので(中略),市街地の中に入り込むことができません。
「鉄道」が都市内部に潜入することを可能にしたのは地下鉄です。

それでも東京の場合は、なんとか市街地に入り込んでいますね。
既に Issieさん ご本人が[15527]で書いておられることですが、
東海道線は,品川(実は高輪)から海岸から少し沖合いに土手を築いて,ようやく新橋まで入ることができました。
甲武鉄道(中央線)は四ツ谷から外濠の中を通ることで飯田町へ,さらに万世橋まで忍び込むことができました。
日本鉄道(東北線)は,戊辰戦争後縮小された寛永寺の上野山下の用地を転用することで,何とか上野駅まで到達することができました。

その後は「高架鉄道」の時代になります。
[67076]には“その効果は限定的でした”と書いてありますが、東京の場合は、 1925年には南北の鉄道が、そして1932年には東西の鉄道が、いずれも市街地貫通を果たしています。

1910年に烏森から呉服橋[35062]への電車線が先行して開業した後、1914年には本線の新橋−東京間も開通。この東京駅開業に合わせて運転を開始した「京浜線電車」は、本格的な高速電車時代の幕開けでした[39140]
1919年、中央線も万世橋から東京駅へと乗り入れ、当時の東京市の区域を、西から南へと鉄道路線が貫通することになりました。電車は京浜線・山手線に乗り入れて、中野〜東京〜品川〜池袋〜上野と「の」の字を描く経路で運転されました[38388]

そして 1925年になると、関東大震災の影響で工事が遅れていた東京−上野間の高架鉄道がようやく開通し、南北の鉄道が結ばれました。「『の』の字運転」だった山手線も、現在のような「環状運転」に変りました[34120]
総武線の本所からは1904年に両国橋までが開通。
1932年になると御茶ノ水までの高架線が完成し、「高架の上を高架が越える」都市景観[47265]が出現しました。

書いているうちに気がつきましたが、上野−秋葉原間には、日本鉄道時代の明治23年に貨物線が開業していました。
高架線に先立つこと35年、神田川舟運との結節点まで鉄道が入り込んでいたわけです。

このようなわけで、東京は例外的な存在なのかもしれませんが、「鉄道が通るのは街外れ」という“原則”を破って、東西南北四方面からの鉄道が市街地に入り込んだ町でした。

ここで昭和40(〜50)年代に行なわれた国鉄の「五方面作戦」という言葉を思い出しました。
常磐線はこの「五方面」の一つですが、隅田川を渡った後、南千住から南進するルートが東京の市街地に阻まれています。
西に進んで三河島と日暮里の間で異常な急カーブを形成、上野に至る不自然な線形。

歴史的な経過をたどれば、南千住−三河島間は上記のような迂回ルートがその趣旨ではなく、日本鉄道が水陸の結節点として作った「隅田川貨物駅」(1896)と田端とを直結する線であったことがわかります。土浦線(1896-1901年の名称)は隅田川=南千住から北へ進みますが、旅客列車は上野起点のため、とりあえず田端でスイッチバック。

日本鉄道としては、当然上野から日光街道沿いに入谷・三ノ輪を経由して南千住に至る旅客列車線の建設を考えたことと思います。しかし、まだ田園が広がっていた 明治10年代 と違い、既に用地買収は困難になっていました。
土浦線開業の9年後、1905年に海岸線と呼ばれていた日暮里−三河島間に急カーブの短絡線が作られました。これは、鉄道は容易なことでは市街地に入れないという現実を、ようやく受け入れた結果であると考えられます。その翌年には日本鉄道国有化。

時代は移り、地下鉄直通により郊外からの路線が東京市街地に入るようになると、南千住からも日比谷線が上野に通じました。しかし、直通した電車は東武鉄道。常磐線から直通する千代田線は、上野を通らない別ルートになりました。

横浜の場合も、原則の通り“町はずれの地”に設けられた初代横浜駅(現・桜木町駅)。
そしてその先、市内交通の主役は市電(軌道)である状態が、長い間続いていました。
もともと、東西両京を結ぶ中山道幹線鉄道とは別の支線のつもりだった新橋−横浜間が、西に伸びる幹線鉄道としての役割を負わされることになり、スイッチバック→神奈川−程ヶ谷間短絡線→高島町の2代目横浜駅→震災復興後の3代目横浜駅と変遷したことは[49808]で記しました。
横浜市街地を貫通する高架鉄道・根岸線の開通は、はるかに後の1964年です。

[67093] 2008 年 10 月 22 日 (水) 12:16:38【1】 はやいち@大内裏 さん
 仙南

柴田町・村田町・大河原町合併協議会のページが出来ました。

加須市など1市3町は10/27に臨時議会を召集し11月の法定協設置を目指します。

昨日、富士宮市・芝川町の合併協議事務連絡会、釜石市・大槌町の合併協議会設立準備会がそれぞれ発足しました。

[66910]熊虎さん
やはり溝は埋まらず協議会休止という結果になりました。

[67092] 2008 年 10 月 22 日 (水) 07:41:58 白桃 さん
 四国八十八箇所総奥の院

国営放送のマワシ者ではありませんが、四元奈生美さんの街道てくてく旅〜四国八十八か所〜編は、いよいよ今日から旧大川郡に入ります。今日が志度寺、明日が長尾寺、そして最終日の明後日が結願の大窪寺。
現在のさぬき市には霊場が3つもあるのに、東かがわ市にはかわいそうに、1つもありません。そのかわりといってはなんですが、四国八十八箇所総奥の院と呼ばれる與田寺があります。なんだか「大奥」の総元締みたいですね。

そこで、いきなり記念のクイズ

問題:次の記述のうち正しいのはどれか

a.観音寺のある観音寺市の琴ヶ浜公園には和同開珎とかかれた砂の銭形がある。
b.屋島寺のある屋島の名物「カワラケ投げ」は通常、壇ノ浦方面にオーバースローで投げる。
c.大窪寺は現在さぬき市であるが、白桃が生まれた1962年には造田村に属していた。
d.與田寺には白桃の同級生がいましたが、今、どこに住んでいるのだろう?

ヒント:a.b.c.は2つ以上怪しい箇所があります。

[67091] 2008 年 10 月 22 日 (水) 03:09:45 YT さん
 名古屋と金沢の人口の比較

改めて名古屋と金沢の人口の比較をしました。

非常に古い書き込みですが

[39658] ふぁいんさん
名古屋が金沢の人口を抜くのは、明治8(1875)〜明治10(1877)年頃だと思われます。

『日本地誌提要』が示すように、すでに明治6年の段階で金沢は名古屋の人口を下回っております。

[10652] だんなさん
一時県庁が金沢から美川町に移ったため急激に人口が減り、再び戻ってきたあとなかなか回復しなかったのが影響しているといわれてます。
統計を見ると、明治4年8月に12万3453人の人口が、明治5年12月31日または明治6年1月1日には10万9685人に減っており、1年と4ヶ月の間に1万3千人も減少しています。ただし一部ネット上にあるように、10万人を切るという事態にはなっておりません。以降緩やかに明治30年まで人口が減少し続けます。

明治6年よりも前に関しては名古屋城下に住む武家人口の統計が残っておりません。一方金沢に関しては明治4年3月(『金沢名数』では明治4年12月調となっているが、土屋氏の論文で引用されている『稿本金沢市史』に従う)に関して金沢町内の身分別人口が判明しております。

明治初期において金沢藩は総人口108万6164人の内華族11人、士族2万8683人、卒族2万7038人で、華士卒族の総計は合計5万5732人です。『金沢名数』によると金沢町の人口12万3363人に対して平民6万8810人、華士卒族5万2916人、僧侶等1637人という身分構成であり、江戸時代の統計の除外人口が金沢の総人口の約45%を占めており、また金沢藩の華士卒族の95%が金沢城下町で暮らしていたことになります。

一方名古屋藩は総人口91万8143人に対して華族13人、士族1万6911人、卒族3万4604人。華士卒族は合計5万1528人。明治4年の段階での名古屋の人口に関しては、町方人口6万9618人と僧侶等860人の合計7万1698人の記載しか残っておらず、城下に住む華士卒族人口は不明です。仮に華士卒族が全員城下に住んでいたと仮定すると、12万3226人で、金沢の人口を137人下回ります。華士卒族の5%(約2600人)が城下に住んでいなかったとすると、大体名古屋の人口は12万人を少し超える程度となります。これだけみると「明治4年前半の段階では金沢が辛うじて名古屋よりも人口が多かったが、廃藩置県直後に金沢の人口が減少し、明治5年頭頃に金沢と名古屋の人口が逆転した」と結論を出したくなります。

ただしここで注意しなければならないのは、「武家地に住む町方人口」の統計が抜けている点です。[67090]金沢の場合、明治2年の町方人口6万0789人と明治4年の平民人口6万8810人の間に8千人以上の差がありますが、これは武家地に住む町方人口に相当します。金沢にせよ名古屋にせよ、幕末は町奉行支配地と寺社奉行支配地内に住む町方人口の合計が町方人口として取り扱われるようになりますが、武家地に住む町方人口は相変わらず除外されたままです。名古屋の武家地に住む町人人口は不明ですが、金沢と同程度であったと仮定するのなら明治4年の名古屋の総人口は12万8千人以上となり、金沢を上回ります。名古屋の人口は『日本地誌提要』記載の明治6年1月1日調の12万5193人に比べ、『日本全国郡区分人口表』記載の明治12年1月1日調の11万1783人と明らかに減少しており、名古屋も廃藩置県の煽りで金沢と同様にしばらく人口の減少を蒙ったと考えられます。

よって私としましては、結局明治初期の段階でも名古屋の人口は金沢の人口を数千人程度上回っていたと推定します。

それでは江戸時代の人口はどうだったでしょうか?[67059][67090]を比較して判るように18世紀前半までは町方人口で金沢が上回っていましたが、1750年以降名古屋の町方人口は7万人を超え、金沢の町方人口を1万人以上上回っています。名古屋藩と金沢藩で武家人口に大きな差がないことから、江戸時代後半は名古屋の方が人口が多かったと考えられます。ただし名古屋の場合は江戸時代後半において「町続」と呼ばれる郊外に広がった市街地の人口を含みます。いずれにせよ、名古屋と金沢が江戸時代総人口において10万人を超え、4位、5位を競う位置にいたことは間違いないと思われます。

[67090] 2008 年 10 月 22 日 (水) 01:48:49 YT さん
 江戸時代から明治時代までの金沢の人口(修正版)

以下の二つの論文を入手できましたので、[67046]を修正します。

土屋敦夫「金沢の人口変遷-1-藩政期町人戸数と人口」
金沢工業大学研究紀要A,11号,pp.125〜155(1979)
土屋敦夫「金沢の人口変遷-3-戸籍簿による人口戸数統計(明治5年〜大正8年)」
金沢工業大学研究紀要A,18号,pp.99〜148(1982)

「金沢の人口変遷-2-藩政期武士戸数と人口」という論文も構想されているようですが、CiNii等での検索では引っかかりませんので、詳細は判りません。

まず江戸時代から廃藩置県までの金沢の人口ですが、安政4年の人口を除きほぼ土屋氏の論文で網羅されておりましたので、元文献は省略します。

年号(西暦)町方戸数町方人口註・出典等
寛文4年(1664年)9,86855,106町方人口は本町2,532戸19,845人と地子町7,336戸35,261人の合計。
寛文5年(1665年)7,350町方戸数は地子町のみ。
寛文7年(1667年)6月8,66759,101町方人口は本町1,332戸9,840人と地子町7,335戸39,261人の合計。
延宝年中(1680年頃)9,927町方戸数は本町2,186戸と地子町7,081戸の合計(660戸は不明)。
貞享2年(1685年)8,448町方戸数は地子町のみ。
貞享3年(1686年)8,326町方戸数は地子町のみ。
元禄3年(1690年)13,610町方戸数は町其外遊民13,209戸、寺社243戸、山伏65戸、
百姓85戸、その他8戸の合計。
元禄9年(1696年)11,927町方戸数は本町2,536戸と地子町9,391戸の合計。
元禄10年(1697年)春15,68268,636 町方人口は本町2,285戸18,949人、旧門前町等354戸2,630人、
地子町9,446戸47,057人の合計。
寛永7年(1710年)6月21日12,58864,987
寛暦5年(1755年)13,443侍屋敷は1,365戸。諸士及び足軽・小者等を合わせて7,553人。
文化7年(1810年)8月14,90956,355町奉行支配地は本町2,540戸、旧門前地等384戸、
地子町10,754戸、大工肝煎等114戸の合計13,792戸。
寺社奉行支配地は1,117戸。町方人口は寺社奉行支配地を含まない。
天保9年(1838年)閏4月15,27335,841町方人口は15歳以上のみ
文久3年(1863年)5月以降15,720町方戸数は本町・旧門前地等3,049戸、地子町11,342戸、
大工肝煎等127戸、門前地1,202戸の合計。
安政4年(1857年)2月58,506『金沢市史』資料編6巻650〜651頁
明治2年(1869年)8月16,19660,789支配違は2,634戸。
明治3年(1870年)閏10月10日17,20256,295町方人口は東郷3,253戸12,093人、西郷2,263戸7,943人、
南郷6,600戸18,960人、北郷5,106戸56,295人の合計。

続いて明治4年から明治16年1月まで。残念ながら土屋氏は金沢市統計書、石川県史料、石川県統計書などの石川・金沢の統計書はチェックしていても、日本地誌提要などの国側の史料との比較を行っておりません。国側の統計は[67046]から持ってきます。また明らかに2系統の本籍戸数が統計書ごとに記載されておりますが、これらは家としての戸数(便宜上「家数」と書きます。)と戸籍上の戸数の違いのようです。

年号(西暦)本籍家数本籍戸数本籍人口文献・史料
明治4年(1871年)3月24,744123,363(1)『稿本金沢市史』、『金沢名数』
明治4年(1871年)8月24,146123,453『石川県史料』
明治5年(1871年)1月29日37,880『石川県史料』
明治5年(1871年)12月31日35,788109,685『金沢市統計書』
明治6年(1873年)1月1日34,580109,685『日本地誌提要』
明治8年(1875年)以前34,883109,685(2)『明治八年共武政表』
明治9年11月1日23,995108,758『石川県史料』
明治11年12月9日23,937108,263『石川県史料』
明治12年(1879年))1月1日23,915107,878(3)『明治十一年共武政表』
明治12年(1879年))1月1日107,876『日本全国郡区分人口表』
明治13年(1880年)1月1日24,53133,483107,979『石川県史料』
明治13年(1880年)1月1日24,531107,979(4)『明治十二年共武政表』
明治13年(1880年)1月1日107,979『日本全国人口表』
明治13年(1882年)12月31日33,636108,328『石川県統計書』
明治14年(1881年)1月1日24,105108,328『明治十三年共武政表』
明治14年(1881年)1月1日108,328『日本全国人口表』
明治14年(1882年)12月31日24,778107,624『石川県統計書』
明治15年(1882年)1月1日24,778107,624『日本全国戸口表』
明治15年(1882年)12月31日33,079107,193『石川県統計書』
明治16年(1883年)1月1日23,012107,193『日本全国戸口表』
(1)士族4,932戸26,028人、卒4,607戸26,888人、平民14,907戸68,810人、元神官39戸139人、寺院259戸1,032人、御預人466人。
(2)本籍人口は明治6年の値と一致する。
(3)男女別人口を合計すると107,876人で『日本全国郡区分人口表』の値と一致する。
(4)本籍人口は棄児1人を含む。

明治17年1月1日(明治16年12月31日)以降は戸数を書くと煩雑になるので、本籍人口と現住人口のみ抜き出します。土屋氏は石川県統計書から数字を持ってきていますが、多分国の統計書の方が信頼性が高いと思います。明治22年以降は自分が集めた統計だけを示します。
年号(西暦)本籍人口現住人口文献・史料
明治16年(1883年)12月31日106,659103,331『石川県統計書』
明治17年(1884年)1月1日106,659『日本全国戸口表』
明治17年(1884年)1月1日106,659104,320『都府名邑戸口表』
明治18年(1885年)1月1日106,412『日本全国戸口表』
明治18年(1885年)12月31日104,56098,567『石川県統計書』
明治19年(1886年)1月1日104,56098,567(5)『日本全国戸口表』
明治19年(1886年)12月31日102,290100,173(6)『石川県統計書』
明治19年(1886年)12月31日102,28196,727(6)『日本帝国民籍戸口表』
明治19年(1886年)12月31日102,28197,653(6)『日本帝国民籍戸口表』
明治19年(1886年)12月31日102,28197,653『市街各邑及町村二百戸以上戸口表』
明治20年(1887年)12月31日101,90095,047(7)『石川県統計書』
明治20年(1887年)12月31日101,90095,047(7)『石川県戸口表』
明治20年(1887年)12月31日101,90196,639(7)『日本帝国民籍戸口表』
明治21年(1888年)12月31日101,56295,202(8)石川県統計書
明治21年(1888年)12月31日101,56295,462(8)『石川県戸口表』
明治21年(1888年)12月31日101,56296,752(8)『日本帝国民籍戸口表』
明治22年(1889年)12月31日100,72994,257『日本帝国民籍戸口表』
明治23年(1890年)12月31日99,95494,666『日本帝国民籍戸口表』
明治24年(1891年)12月31日99,47193,531『日本帝国民籍戸口表』
明治25年(1892年)12月31日99,16192,239『日本帝国民籍戸口表』
明治26年(1893年)12月31日98,77291,531『日本帝国民籍戸口表』
明治27年(1894年)12月31日98,51589,975『日本帝国民籍戸口表』
明治28年(1895年)12月31日97,70988,877『日本帝国民籍戸口表』
明治29年(1896年)12月31日97,09485,916『日本帝国民籍戸口表』
明治30年(1897年)12月31日97,48182,378『日本帝国民籍戸口表』
明治31年(1898年)12月31日98,38383,662『日本帝国人口統計』
明治36年(1903年)12月31日103,11499,657『日本帝国人口静態統計』
明治41年(1908年)12月31日110,122110,994『日本帝国人口静態統計』
(5)本籍人口は棄児2人を含む。
(6)同じ統計書なのに異なる現住人口が記載されている。後世の統計書では97,653人の方が採用されている。
(7)後世の統計書では現住人口として96,639人の方が採用されている。
(8)後世の統計書では現住人口として96,752人の方が採用されている。

[67089] 2008 年 10 月 22 日 (水) 00:52:12 笠津前浜 さん
 国道54号松江方面

[67065] 2008 年 10 月 19 日 (日) 22:05:04 ペーロケ さん
たとえば国道54号では「松江・宍道」が何故か「松江・出雲」と、何故か国道54号を通らない出雲が登場したりしてました。
(略)
そのあたりは笠津前浜さんあたりの方が詳しいのではないかと。。。
54号はさんざん通ったのですが…。合併が本格化する前…出雲の表記があったかどうかあやふやです。松江・木次併記の標識はあったのですが。2年前、三次市布野を通った時は松江・出雲・木次が表記してある標識を写真におさめていますが、54号上に出雲の案内をしてある理由、結局のところわかりません…

[67088] 2008 年 10 月 22 日 (水) 00:00:08 hiroroじゃけぇ さん
 玉野市営鉄道の線形について

[67001]Issie さん
今日、「玉野市営鉄道」の路線図を見てまいりました。[60960]で伊豆之国さんが書かれているように、「玉遊園地前」までの路線だったのですが、延伸部分は不可思議な線形になっていますね。ひょっとしたら「玉遊園地前」から延伸ではなく、「玉」から分岐して延伸するように変更するつもりだったのかもしれません。もしも、そのまま延伸すると、玉野市長尾・荘内などを通り、秀天橋(しゅうてんばし)に至り、国道30号線とぶつかり宇野線の常山駅に辿り着きます。これでは、「備南環状線」ではなく「玉野環状線」になってしまいますね(笑)このルートは、現在大部分が「シーバス」の運行ルートとなっており、辿ることが容易にできますよ。

[67029]アルバトロス さん
岡山市の時と同様に、自分も考えているのですが、なかなか思いつきません。これも、岡山市の前例があるからかもしれませんが。現時点で検討しているのは次の通り。

A区:西相区(さいそうく)
B区:相央区(そうおうく)
C区:相東区(そうとうく)

って、やっぱり方角名がいるような気もしちゃうんですよね。ホント、どうしようかなぁ。そのままズバリかなぁ。相模原市は南北に長い気がするのに、実際は東西方向なんですよね。だから、あえてこんな感じで。

[67087] 2008 年 10 月 21 日 (火) 23:20:09【2】 k-ace さん
 倉敷・岡山&日本一短い川(法定河川)

こんばんは、k-aceです。

19日の日曜日、倉敷市、岡山市に行ってきました。
姫路駅でえきそば大盛り(きつね)400円を食べて、ひかりレールスターで岡山へ。岡山の街を歩いていると、学生服を着たゴリラのマネキンに偶然会い、その後、岡山県知事選に立候補している「ちくわ笛奏者」の方([66973] k-ace、[66976] hiroroじゃけぇ さん参照)に偶然会って記念撮影や握手をしました(私が兵庫県民であることは伝えましたが)。
倉敷に着いて、水島臨海鉄道に乗車しました。

[66975] N-H さん
いや、まあ、なんというか、どうしてああもとろとろと走るんでしょうか、立派な高架でカーブも少ない専用軌道の上を。
この書き込みを見ていたので、どれくらいの速度で走っているのか気になって、三菱自工前行きの列車で、速度計をかなりの区間端から見ておりましたが、私の見ていた中で最高速度50km/h! ほとんどの区間で40km/h以下でした。私もとても遅く感じました。[66976] hiroroじゃけぇ さんの書き込みを見ていると、当面このままのようですが…。
水島臨海鉄道往復乗車後は倉敷駅近くの某所に行った後、倉敷駅周辺を散策。

[67075] 星野彼方 さん
11日高徳線の列車から三本松で祭りをやっているのが見えました。駅前に子供みこし(?)がきてました。
三本松ではありませんが、倉敷駅南のペデストリアンデッキを歩いていたら、南の交差点に「ワッショイ」の声が聞こえ、神輿が見えました。急いで近くに行ってみると、阿智神社の秋祭りの神輿でした。
でも、地名は「阿知」(倉敷市阿知)なのに神社名は「阿智」(阿智神社)なのね。
倉敷駅へ戻ると、快速サンライナーが踏切支障の影響で4分遅れで発車。でもなぜか岡山駅には定刻通り到着しました。8分後のひかりレールスターで岡山駅を出発し、帰宅しました。


13.5メートルの日本一短い川 那智勝浦町の「ぶつぶつ川」
和歌山県東牟婁郡那智勝浦町粉白の「ぶつぶつ川」(13.5m)が21日、県から二級河川に指定され、法定河川としては「日本一短い川」になりました。これまでの二級河川の最短は北海道島牧郡島牧村の「ホンベツ川」(30m)で、和歌山県内には二級河川の中で日本一長い川・日高川(114.745km)があり、二級河川の最長短を和歌山県が占めることとなりました。
なお、川の名は、川底から水が湧き出す様子からその名がつき、この川の水は飲用水といしても利用できるようです。

#誤字を訂正。

[67086] 2008 年 10 月 21 日 (火) 22:56:53 今川焼 さん
 担当地名コレクションレス

[67062]MasAkaさん
『東臨トンネル』(延長8,748m)
当初は、トンネルの名称や長さくらい簡単にわかるだろうと高をくくっていましたが、意外と公開資料だけでは判明しないものが多く、こういう情報提供をいただくとありがたいです。
また
この貨物線建設当時の名称は『台場トンネル』で、今の車両基地分岐側が本線の扱いでした(大崎側が後付け)。
ご指摘のように、備考記事の表現では大崎方向のトンネルが後付けであることがわかりにくかったので修正しておきます。該当記事へもリンクを貼っておくこととしましょう。

それと、もう一件すっかりレスを失念していた件です。
[66630]みやこ♂さん
東西半島
記事を拝見したとき、「東西半島」で検索してみて何もヒットしなかったためそのまま保留にしていたのですが、今日ふとしたきっかけから、改めて検索してみるといくつかヒットするではありませんか。しかも大山観光協会のトレッキングコース図を見ると同じ有峰湖に「砥谷半島」というものも。見逃した原因は、どうやら元記事の後段にあった五十里岬と混同し「五十里湖 東西半島」で検索していたようです。申し訳ありませんでした。
ちなみに今日の「ふとしたきっかけ」というのは、琵琶湖の伊崎半島(地図)の国有林が増えすぎた川鵜の糞で立ち枯れしているというNHKの関西ローカルニュースでした。「伊崎半島?半島コレクションにはなかったぞ〜」ということで、こちらも検索すると多数ヒット。
この「湖の半島3件」ものちほど収録いたします。

[67085] 2008 年 10 月 21 日 (火) 22:06:34 おがちゃん[日本人] さん
 誤解

[67084] じゃごたろ さん
まったくその通りです。大きな誤解をしてしまいました。中身まできっちり読むべきでしたね。すみません。

[67082]は、恥さらしなのですが、残しておきます。

[67084] 2008 年 10 月 21 日 (火) 21:57:44 じゃごたろ さん
 とりあえず

こんばんは、じゃごたろです。

[67082] 日本人 さん
国道508号

もしかしたら誤解があるかもしれませんので、とりあえずレスします。

「地方分権」という文言もありますし、この記事から読み取れることは、国の直轄国道(一般国道の指定区間)の管理を都道府県に移管することを目的として、直轄国道の中から「人口30万人未満の中小都市を結ぶ路線」をピックアップして、その73路線を明らかにしただけだと思います。これは既存の一般国道の範囲内の話であり、新規の国道指定がされるというものではないと思います。


さて、先週私の書きこんだ案内標識ネタにいくつかレスをいただきましたが、これに関しましてはもう少し時間的余裕がある時にあらためてレスしたいと思います。

[67083] 2008 年 10 月 21 日 (火) 21:46:30 hmt さん
 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

[67081] 白桃 さん
アララ。これには気がつきませんでした。
タイトルの歌は、宮前文化遺跡を守る会のページ からコピペし、本文は更にそれから写したものでしたが、コピー元を調べ直してみたら、「熟田津」と「熱田津」とが入り乱れていました。

もちろん、「熱田津」は「熟田津」の誤記だと思います。

[67082] 2008 年 10 月 21 日 (火) 21:11:38 おがちゃん[日本人] さん
 国道508号

こんばんは。日本人です。
今日、道路好きにはたまらない(少なくても僕には)ニュースがありました。
地方移管、73路線協議へ=「小都市間の国道」提示−国交省です。
期限がすぎて内容が分からなくなってしまっては困るため一部の文章を引用すると、
 国土交通省は21日開かれた政府の地方分権改革推進委員会(委員長・丹羽宇一郎伊藤忠商事会長)で、同委の要請に応じ、国が整備・管理する直轄国道のうち30万人未満の中小都市を結ぶ73路線を明らかにした。
とのことです。現在は国道の番号の中で一番高い番号は沖縄県糸満市から沖縄県那覇市までを結ぶ「国道507号」ですが、その番号を上回る「国道508号」が誕生することとなるのでしょうか。少しわくわくしています。

[67081] 2008 年 10 月 21 日 (火) 17:57:31 白桃 さん
 熟か熱か?

[67080]hmt さん
熱田津に船乗りせんと月待てば…
ところで、[65881]Issie さんが
モニタの画面上では字がツブれてしまうので同じ字のように見えますが,「熱田津」という表記は行われているのでしょうか。
は、結論が出ましたでしょうか?

他力本願な問いかけでスミマセン。

[67080] 2008 年 10 月 21 日 (火) 16:18:32【1】 hmt さん
 熱田津【熟田津の誤記】に船乗りせんと月待てば…

[67019] [67076] Issie さん
[67068] ペーロケ さん
「鉄道が通るのは街外れ」という“原則”の通りに街外れを通った伊予鉄道(明治21年開業)と道後鉄道(明治28年開業、伊予鉄道が明治33年に買収)。
762mm軌間の「坊っちゃん列車」でしたが、法規上は立派な「鉄道」でした。
その後で、明治44年に開業して道後温泉への客を奪い合った松山電気軌道。
こちらは、三津浜町江ノ口から松山城南の市街地を経由して道後に至る「軌道」、つまり路面電車。

「鉄道」と「軌道」と建前上は別々の存在ですが、三津−松山間は並行線だし、目的地も同じです。
このような競合線ができた原因として、伊予鉄道に対する三津浜港の反発があったようです。

伊予鉄道の最初の開業区間は“街外れ”であったことを的確に示している「外側駅」(現・松山市)から三津浜までの間でした。

この三津浜。万葉集の「熱田津【熟田津の誤記】」であるか否かはさておき、歴史のある港です。
明治28年に松山中学に赴任した夏目漱石が汽船から降りて、“マッチ箱のような汽車”に乗った[61378]地も三津浜でした。
その伊予鉄道は、既に明治25年に高浜まで延長していましたが、まだ港湾施設が整っていなかった状態。

やがて伊予鉄道は高浜港に桟橋を建設し、宇品航路の誘致に成功します。その後も兵員輸送をふまえて、港湾施設を充実。
三津浜港にとって強力なライバルの出現。これを推進する伊予鉄道の行為は、三津浜にとり到底許せるではない。
…というわけで、三津浜港の関係者は、競合線を作り上げて伊予鉄道に対抗したわけです。

松山電気軌道の設立には、日本各地の電力事業に手を伸ばしていた 福沢桃介 も一枚噛んでいるようです。市街地を通る路面電車だから、松山市民にとっても便利。

伊予鉄道も、明治44年には旧道後鉄道の路線を1067mmの電車に変えて対抗。
結局のところ大正10年(1921)に至って伊予鉄道電気(社名変更[61349])が松山電気軌道を合併しました。

三津浜港と高浜港との競合の歴史はよく知りませんが、現状では、三津浜港からは周防大島へのフェリー[66738]や忽那諸島への航路がある程度でしょうか。松山港の中で最もにぎわっているのは、高浜港の系譜を引く松山観光港。

[67079] 2008 年 10 月 21 日 (火) 09:19:22 inakanomozart さん
 南伊豆地区新市の名称

[67033] 2008 年 10 月 15 日 (水) 23:46:44 揖斐の山 さん
下田地区の新市名の公募結果が出ました。
1位:伊豆下田市
2位:下田市
3位:南伊豆市
という思っていた通りの結果になりました。

20日の合併協議会の小委員会で2次審査が行われ、25点の候補の絞り込みが行われたということです。
選ばれたのは「伊豆下田」「南伊豆」「伊豆南」「下田」「伊豆海(いずみ)」の5点で、12月の全体会で、このなかから全会一致で1点に絞るそうです。(決まらない場合は委員の投票)

[67078] 2008 年 10 月 21 日 (火) 00:57:45 にまん さん
 既出でしたか

あのロータリーは既出でしたか(しかも3回目)
やはり、私はノーマルなロータリーを提案してはいけないらしい(笑)

[67066] ぺとぺと さん
軽井沢ですか。いいですね。そろそろ紅葉が見頃の時期でしょうか。
ええ、紅葉はかなり見頃に近い感じでした。その分人出も多いようで、長野県軽井沢の宿が取れずに群馬県軽井沢まで足を伸ばす羽目になりました。軽井沢駅からホテルまでと大宮から軽井沢までがほぼ同じ時間というのもどうかとは思いましたが。。。

[67077] 2008 年 10 月 21 日 (火) 00:26:24 伊豆之国 さん
 函館市伝駒馬車狛江(旧式ワープロの誤変換)

「鉄道マニアの端くれ」の立場として、横から失礼させていただきます。

[67076]Issieさん
東京市内の路面電車と同じ1372mmゲージ
を使っている路線は、首都圏以外では函館市電が唯一です(→[9568]まがみさん)。函館市電には、かつて都電7000型車両が10両ほど移籍し、荒川線に残った車両が更新されたのに対して、都電時代の面影をよく残していましたが、老朽化のため大半が引退し、現在残っているのは1両のみのようです。私は函館には3度も足を踏み入れ、市電にもいずれも乗っている([60730])のに、その元都電にはまだ一度も乗れないままに終わりそうです‥。

[67076] 2008 年 10 月 20 日 (月) 22:01:56【3】 Issie さん
 「都市内交通」は軌道の役目
hmt 市街地乗り入れに成功した鉄道

[67068] ペーロケ さん
松山電気軌道

松山周辺は,三津(浜)〜松山市内〜道後温泉 間でかつて複数の路線が競合関係にあり,それを伊予鉄道が統合する過程でいくつかの路線が整理されたり経路変更をしたりして,その痕跡が現在でもあちらこちらに見られること,そして「昭和」になって初めて省線鉄道(国鉄)が乗り入れて(1927:昭和2年),つまりは歴史的に国鉄の影がとても薄かったことから,“歴史派”の「鉄」にはとても興味深い話題の多いところです。

さて,「松山電気軌道」は,その名前の通り,ある立場から分類した場合の「鉄道」ではなく「軌道」であって,だから“あの原則”に当てはまるか否かを論ずる以前に“対象外”の存在です。
むしろ「軌道」であればこそ,「街の真ん中を走るもの」という“逆の原則”の典型例というべきものかもしれません。

この“分類”の基本的な発想は,「鉄道」が自前の線路敷を確保してその上にレールを敷設することを大前提とするのに対して,「軌道」とは“道路の上”にレールを敷設することを原則とする,というものです。
法律上で「鉄道」と「軌道」が区別される理由は,もともと道路の上を走る「軌道」の敷設と運営が,その道路を管轄する 内務省(のち 建設省) の所管行政と深く関わる部分があることにあるのでしょう。ただし,当初は 内務省 が監督官庁であった「軌道」は,1908年の 内閣鉄道院 設置後はこれとの共轄となり,以後,鉄道省→運輸通信省→運輸省 と道路側の 内務省→建設省 がともに管轄していました。運輸省と建設省が合併して初めて,国土交通省の単独管轄となったのですね。

そんなことは措いておいて…,
要するに,すでに家屋が密集している既存市街地の中にレールを敷こうとした場合,それができるのはまず道路上に限られます。「鉄道」は,(日本では)法律上,道路の上に敷設することができないので(よく使われるたとえですが,鉄道の道路との併用区間は「長ーーーい踏切」として“大目に見てもらって”いるのです),市街地の中に入り込むことができません。
それに代えて,道路上に敷設されて既存市街地内の交通を担当したのが「軌道」だったのです。
日本では「鉄道」よりも早く,東京の市街地内に「馬車鉄道」が現れ(←「鉄道」と呼ばれますが,上記の分類では「軌道」です),やがてそれが電化されて「路面電車」となりました(もちろん,初めから路面電車であった都市の方が多いのですが)。
こうして,街外れに駅を設置してその都市の外との交通を担当する「鉄道」と,駅と都市の中心部を結ぶ,あるいは都市内の交通を担当する「路面電車(軌道)」という,1960年代末までは多くの地方都市でおなじみの構造ができあがりました。現在でも,広島や熊本,鹿児島などが典型例として残っていますね。JR松山駅と松山市中心部との関係も,そう。
ただし,都市そのものは当時よりも遥かに拡大していて,今ではそれらの都市でも「鉄道」が近郊輸送を担う部分が増えています。

ただ,東京や京阪神のような大都市周辺では特に大正〜昭和初期にかけて,当時の法律上の規定が制約となって「鉄道」と「軌道」の境の曖昧な路線が多く建設されています。これらの多くは,戦後,社名も法律上の位置づけも「軌道」から「鉄道」に変更されています。
東京では,京成,京王,京浜(京急)がこれに当たるのですが,これらは当初,「軌道」として建設され,東京市内の路面電車と同じ1372mmゲージを採用しました(京王線は現在も)。しかし,「鉄道」と同じく多くの区間は道路とは別の新設軌道(専用軌道)で,当時の東京市街地の縁辺部にそれぞれターミナルを置いていました(押上,四谷新宿,高輪[品川])。そして,そこから路面電車に乗り入れて都心へ入ることを考えていたようです(京浜は,横浜側でも 神奈川ターミナル を介して市内=関内方面へ入ろうとした)。結局この3社では実現はしませんでしたが,この形態は,ロサンゼルスを筆頭に当時のアメリカ合衆国で大いに流行っていたものでした。彼の国では,その後,急速に廃れましたが。

「鉄道」が都市内部に潜入することを可能にしたのは地下鉄です(その前に「高架鉄道」という手段も試みられたのですが,既存市街地内への潜入という点では,その効果は限定的でした)。
当初は「路面電車が地下に潜った」だけに過ぎなかった地下鉄が大きく変貌する第1歩となったのが,1960年に開通した都営1号線(浅草線)が京成電鉄と相互乗り入れを始めたこと。以後,多くの路線で当たり前の姿になります。さらに,1972年には国鉄自身が“地下鉄”(総武快速線)を開通させて,新しいルートで都心に潜り込むようになりました。後の大阪で開業した JR東西線 もこのパターンですね。
こうして,今では「鉄道」が“地下鉄”という形で大都市の既存市街地の真ん真ん中に潜り込んでいるのは,日本ではおなじみの姿になっています。昨日もまた,そのような路線が新たに1つできた,というわけです。

で,話を戻って…
現在の 松山市内線(路面電車) の(城北線を除く)前身が 松山電気軌道 ですね。もっとも,多くの区間でルートが変更されていて,そのまま現在につながっているわけではないのですが。
後発の 松山電気軌道 がライバルの 伊予鉄道 に対抗する上で選択したのが,既存道路上を走る「軌道」という形で市街地の中心部を通り抜ける,というルート設定であったのはないか,と思います。

[67075] 2008 年 10 月 20 日 (月) 21:28:51 星野彼方 さん
 地名コレ連絡&人身事故&中之島

[67066] ぺとぺと さん
落書き帳で連絡していませんでしたが、しばらく前に追加していました。そして今日は東根市さくらんぼ駅前を追加しました。ああ、ぺとぺとさんの今回の記事追加するのを忘れたのでまた明日更新します。

さて、ここしばらく週末は鉄道の日記念切符で遠出していたのですが、ちょっと人身事故の遭遇率が大きいのです。11日は朝に岡山県内の人身事故で上郡駅で足止め、帰りも広島県内の人身事故で岡山で足止め。18日は朝に愛知県内の人身事故で米原駅で足止め。昼過ぎでもJRのダイヤがめろめろなので名鉄で、と思ったら名鉄も人身事故でストップ。予定がずたずたで帰りも遅くなるしたまりません。来月はこういうことがないよう祈るばかりです。

で、昨日、19日は早速中之島線に乗ってきました。昼過ぎに行ったのでそんなに混雑していませんでした。阪神福島駅から中之島駅まで歩いて10分足らずでつきました。思った以上に近いです。もともと天満橋〜淀屋橋の複々線化のかわりのようなものなのでいいのですが、ちょっと存在価値に疑問が…。

追記:11日高徳線の列車から三本松で祭りをやっているのが見えました。駅前に子供みこし(?)がきてました。

[67074] 2008 年 10 月 20 日 (月) 21:07:23 クハ221−1 さん
 米原市西円寺交差点(国道8・21分岐)

[67051] 千本桜さん
ところで、国道21号が国道8号に接続する地点の案内板には、どのような行先地名が書いてあるのでしょうか。左折「←大津 彦根」、右折「福井 長浜→」でしょうか。


左折は正解です。右折は「敦賀 長浜→」です。滋賀県内では、国道8号の北方向はほとんど「↑敦賀 ○○」となっています。長浜以北でようやく「↑福井 敦賀」となります。

[67073] 2008 年 10 月 20 日 (月) 19:50:52 hmt さん
 国土面積統計の変遷(6) 昭和24年に復刊した日本統計年鑑 戦争で失った地域
hmt 国土の面積

(承前)
昭和24年当時、北海道の「未確定地域」には、更に以下の3郡がありました。

得撫島など得撫郡1468.6
新知島など新知郡540.7
占守島など占守郡3310.1
千島列島合計5319.6

これは、明治8年の千島樺太両島交換条約によって得た地域で、条約 には「千島群島 クリールアイランズ」と書いてあります。
そして、翌明治9年 千島国に編入 されています。
開拓使管下クリル諸島自今千島国に併せ得撫新知占守の三郡を被置候條此旨布告候事

ところで、日本統計年鑑が復刊した昭和24年から3年後の1952年、サンフランシスコ平和条約第2条で、日本は「千島列島」の領有権を放棄しました。
この「千島列島」は、「千島国」や「千島31島」全体ではなく、明治8年に得た「クリル諸島」、つまり“得撫・新知・占守の三郡”を指すものと解釈されています。

北方領土のことはこのくらいにして、
昭和24年の国土面積 36万9860 km2は、戦前の昭和10年の値に比べて 1万2686 km2減少しています。
最も大口の減少は上記の北海道 1万0214 km2ですが、それに次ぐものは、面積リストから県の名ごと丸々消えてしまった沖縄県で 2386km2。そして小笠原諸島を失った東京都の 103 m2減少。

昭和24年というと、1953年のクリスマスプレゼントだった奄美復帰より前(更に言えばトカラ復帰1952よりも前)ですから、鹿児島県大島郡にはごく一部(上三島)を除いて日本の施政権が及んでいませんでした。しかし、昭和24年統計年鑑註A)c)に記されているように、鹿児島県大島郡(1289km2)は、上記の国土面積に含まれています。この取扱はちょっと不統一。

日本統計年鑑昭和24年版を出典とする都道府県別面積は、帝国書院「中学校社会科地図帳」1950年版[25914] にも出ていました。この地図帳では、沖縄・小笠原・奄美の範囲をカバーする地図はなく、完全に無視。北海道を見ると、真っ白なクナシリと水晶島の手前に国境線。

日本統計年鑑昭和24年版の「周囲及面積」には、「旧領土及未確定地域」もありました。参考までに、その面積(昭和13年末調)を掲げます。

合計   305,546.27(km2)
千島   10,213.77
樺太   36,090.30
小笠原  102.94
朝鮮   220,791.81
琉球    2,386.24
台湾本島 35,834.35
澎湖島   126.86
関東州   3,462.45
南洋群島 2,148.80

[67072] 2008 年 10 月 20 日 (月) 19:37:32 hmt さん
 国土面積統計の変遷(5) 昭和24年に復刊した日本統計年鑑 そのデータはまだ戦前
hmt 国土の面積

明治15年に始まった「日本帝国統計年鑑」は、大東亜戦争中に第59回で中断しました。
総理庁統計局により復刊したのは、OCCUPIED JAPAN時代の昭和24年(1949)です。

再出発した第1回「日本統計年鑑」ですが、「周囲及面積」は(昭和15年)とあるように、まだ戦前のデータを使って編修したものです。[66993] [66996]と同様に、面積の部分を引用。
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参謀本部陸地測量部の5万分の1の地形図上における昭和15年1月26日の調査を基礎として算出した。陸地の外満干両潮界間の面積1/2及び湖水・潟湖の面積も含む。…
地名属島数面積(方粁)千分比
全国3340369859.511000.00
北海道8678561.27212.41
本州1364230448.30623.07
四国47118771.4550.75
九州141942078.49113.77
註A)次の未確定地域(11719.1)を含む。(面積 方粁)【簡略化した地名で記載し、面積省略】
 a)国後郡……占守郡(千島)と歯舞諸島 b)竹島 c)鹿児島県大島郡
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この昭和24年日本統計年鑑に記載された北海道の面積 7万8561km2 については疑問があります。
上記の数値は、昭和10年統計年鑑の8万8775 km2から1万0214 km2少なくなっています。
これは北海道のうち、敗戦によって施政権を失った地域の面積約10300 km2とほぼ対応しています。

その地域とは、まさに上記の註A)a)に記された“未確定地域”である、国後、色丹、紗那、択捉、蕊取、得撫、新知、占守の8郡と歯舞諸島なのですが、註には“次の未確定地域を含む”と記されています。これはおかしい。

参考までに、上記地域を面積と共に列挙しておきます。
島名1935面積1992面積
歯舞群島花咲郡歯舞村101.6099.94
色丹島色丹郡色丹村255.12253.33
国後島国後郡泊村・留夜別村1500.041498.83
択捉島3139.003184.04
紗那郡紗那村959.5
択捉郡留別村1429.7
蕊取郡蕊取村749.7
北方四島合計4995.765036.14

「歯舞群島」は、根室半島の先端部にあった根室国花咲郡歯舞村(現・根室市)の飛び地。主な島は5つあり、合計面積は旧歯舞村の面積165 km2のうち100km2を占めます。
従来は「歯舞諸島」の名が知られていましたが、今年の3月から「歯舞群島」を公式名とすることになりました。発表
…と、島群コレクションのコメントを入れようかと思いましたが、集録対象外でした。

色丹島は、元は同じく根室国花咲郡に属していましたが、明治19年に千島国に所属変更。[66996]で千島三十島となっていたのが、[66993]になると千島31島になっていたのは、このためでした。
その「千島国」は、明治2年 に国後・択捉・振別(1923年択捉郡に編入)・紗那・蕊取の5郡で設置。

北海道の未確定地域の途中ですが、長くなったので記事を分けます。

[67071] 2008 年 10 月 20 日 (月) 18:48:40 MACHO筋トレ さん
 ロータリー

初めまして、MACHO筋トレといいます。

地名コレクションの「ロータリー」に関してですが、大阪府吹田市にもう一箇所あります。
(山田東というところですが)

4差路の交差点です。

[67070] 2008 年 10 月 20 日 (月) 18:37:30 maki さん
 あれ?

つっこみ失礼します。

[67067]般若堂そんぴんさん

今日の朝日新聞(朝刊)にも小さく掲載されていました。ところで…

(2008年6月22日,目黒線の延伸部として営業開始)

これは目黒線の日吉延伸では?そうでしたら訂正お願いします。

私も鉄道好きなもので、ついつい反応してしまいました。

[67069] 2008 年 10 月 20 日 (月) 07:46:57 ヌオ さん
 京阪

[67067]般若堂そんぴんさん
丸太町→神宮丸太町
四条→祇園四条
五条→清水五条
結構いいな,と思いますが,いかがでしょうか?

僕は、都合上よく京阪の急行に乗っていたんですが、電車接近の案内で「……丹波橋、伏見稲荷、七条、五条、四条、三条、丸太町……」と、条のつく駅がリズムよくポンポンと出てくるのが、個人的に好きだったので少し残念です。確かに、烏丸通と川端通というそれなりに離れた位置に同名の駅があるのは、土地に不慣れな人には紛らわしいかとは思いますが・・・

[67068] 2008 年 10 月 20 日 (月) 00:57:45【1】 ペーロケ さん
 鉄道が通るのは街外れ?

[67019][67034]Issieさん
[67023]YSKさん
 仙台駅の立地について詳しい解説、ありがとうございます。土地勘がない故に、具体的な地名を言われてもピンと来なかったのですが、地図を片手に楽しく読ませていただきました。鉄道忌諱説の例外というか好条件が揃ったために市街地近傍に駅を設置することができた、珍しい例ということでしょうね。
 ま、そもそも鉄道忌諱説というのも、単に用地確保の結果、郊外に駅が設けられただけの場所も多々あると思っています。最近できたTXだって、鉄道網から外れて都市化が遅れ、たまたま田畑が残っていた場所を選んで路線選定されていますし、都市部では実際、地下に潜る以外に用地確保は難しいのでしょうか。

※蛇足ながら,伊予鉄の 松山市駅 や 古町駅 のロケーション,あるいは法規上「鉄道」である 城北線 のルート(一部で変更がありますが)のいずれの点でも,「鉄道が通るのは街外れ」という“原則”に照らして,松山はその典型的な例の1つです。
 確かに伊予鉄高浜線が開業した当初、松山市駅はズバリ「外側駅」と呼ばれていましたっけ?城北線は道後鉄道の名残で、道後樋又を直進するルートと、一番町から持田町を通ってきたルートが道後の手前で合流していましたが、あのあたりはともに昭和30年代まで田んぼが広がっていたという話はよく年配者から聞いています。
 ところで、今は路線としてはほとんど残っていませんが、もう一つの鉄道会社である「松山電気軌道」のルートは、三津浜から来て高浜線と並走し、大胆にも萱町〜本町を横断し、堀端を廻って大街道から斜めに北進、上一万の東で道後鉄道と立体交差後、道後温泉に至るというルート。ルートの一部は
「鉄道が通るのは街外れ」という“原則”
に当てはまらないのではないか?とも思うのですが。
法律上「鉄道」
じゃなかったのかな?

参考:愛媛県における鉄道の変遷 藤本雅之(pdf)

[67038]日本人さん
「○万コレクション」立ち上げ当初はEMM編集長や他のメンバーによる、きつめのアドバイス(愛のムチ)の洗礼もありましたが、素直に聞かれたり自らも努力もされたことでしょう。1年前に比べると、だいぶ成長しましたね。今改めて見ると、当初に比べてだいぶ進歩しており驚いています。
 ところで、地名のみが対象かと思いきや、バス停や橋の名前まで掲載されていますね。ということは、是非仲間に入れてほしいものがあります。それは、さきほども出てきましたが、松山市の「上一万」町名、字名ではありませんが、交差点名、伊予鉄の電停名として残っています。いや、それだけではなく、松山市民は周辺の東一万などを総称して上一万と呼んでいますし、下手すると東一万などという「町名」より知名度があるかもしれません。それだけ重要な結節点である「上一万」、是非掲載を検討していただけたら有り難いです。

【1】[67067]そんぴんさんとかぶったため、中之島線の記載を削除

[67067] 2008 年 10 月 19 日 (日) 23:19:37 般若堂そんぴん さん
 Metro's Happy Birthday 10月19日

京阪電気鉄道中之島線:中之島〜天満橋,開業!(2008年6月22日,目黒線の延伸部として営業開始)
中之島高速鉄道が第三種鉄道事業者として鉄道施設を保有し,京阪電気鉄道が第二種鉄道事業者として営業する中之島線が開業しました.

同時に,京阪線京都市内の3駅名が変更されたとの事(こちら).
丸太町→神宮丸太町
四条→祇園四条
五条→清水五条
結構いいな,と思いますが,いかがでしょうか?

地下鉄(メトロ)の定義がまた難しくなってしまった……

[67066] 2008 年 10 月 19 日 (日) 22:27:14【1】 ぺとぺと さん
 しんみなと&ロータリー

>星野彼方さん
拙稿[66886]でご紹介した、射水市西新湊及び同市中新湊の「交通由来町名コレクション」への集録ありがとうございました。
後付になり恐縮ですが、両町名の成立年月日について確認いたしましたのでご報告いたします。

○射水市西新湊 : 昭和49年11月1日、大字長徳寺、三日曽根の各一部を町名変更し成立
○射水市中新湊 : 昭和43年10月1日、大字放生津、四日曽根の各一部を町名変更し成立

[67064]にまんさん
軽井沢ですか。いいですね。そろそろ紅葉が見頃の時期でしょうか。
さて、今回ご紹介いただいたロータリーの一つ目ですが、既に桜トンネルさんが[57227]で書き込まれていらっしゃいます。
かくいう私にも、そうとは知らずに[59161]を書き込み、後日[59207]EMMさんの書き込みで気がついたという前歴がございました。
EMMさんもコメントされていますが、別荘地にはまだ隠れたロータリーがありそうですね。

#収録→集録に訂正。

[67065] 2008 年 10 月 19 日 (日) 22:05:04 ペーロケ さん
 標識など

[67025]じゃごたろさん
 同時期に同じ道路族として尊敬しているじゃごたろさんが近くにいらっしゃったとは。。。私は道路の仕事を離れて久しいのですが、([47028]からもう3年にもなりますか)、中国地方では市町村合併による旧自治体の表記は「消される」という傾向が強かったように記憶しています。たとえば国道54号では「松江・宍道」が何故か「松江・出雲」と、何故か国道54号を通らない出雲が登場したりしてました。もっとも、最終決定する前に退職したこともあり、私自身あまり通る機会もありませんし(下道を通ることに対し、鬼嫁がうるさいもんで)、それまでも役所の指示で変更も何度かありましたので、実際に現在どういう形で表記されているのか不明ですが。そのあたりは笠津前浜さんあたりの方が詳しいのではないかと。。。

 それに比べて、四国の道路標識は自治体名に囚われず旧来の地名も大事にしているなあと、私も感じるところです。

 ほかにも四国は中国よりも利用者の立場に立った標識設計をしていると感じる点は、国の直轄区間には1kmおきにキロポスト標識があったかと思いますが、中国はあくまで上り、下りにかかわらず起点からの距離表示、四国は(起点、終点にかかわらず)先にある基準値までの距離表示という違いがあります。利用者にとっては、出発地から何キロ走ったかということより、目的地までどれくらいかということの方が重要な情報ですので、青い距離標識の出現を待たずとも、常に目的地までの距離を把握できるというメリットがあります。おかげで、中国に移住したとき、道路が使いにくいな〜と感じました。

[67027]笠津前浜さん
広島駅から紙屋町は、実際の距離以上に遠く感じるんですね。
 広電の迂回、的場町の交差点で毎回のように信号待ちしますし、結構時間がかかりますね。広電に乗っているとJRの時間ギリギリになって、稲荷町で降りて走って駅に向かったという経験をされた人も多いと思います(私も含め)。
 広島駅から紙屋町や八丁堀に行くには、実はバスの方が有効だったりします。広島駅発の8割くらいは紙屋町を通りますので、便数がものすごく多いですし、値段も同じ150円、途中で停まるバス停はわずかに2つなので、よっぽど混んでない限り、広電よりはるかに早く到着できます。まあ少なくとも平日の夕方程度の混雑であれば、バスの方が早いですね。

[67064] 2008 年 10 月 19 日 (日) 20:09:37 にまん さん
 ロータリー

先日群馬県軽井沢に旅行に行った際に、周辺の地図を見ていたらロータリーを見つけました。

群馬県吾妻郡嬬恋村大字大前字細原です。
私にしては珍しく真っ当そうなロータリーです。別荘地の中のようです。

ちなみに、近くではここここもロータリーっぽいです。また、ここは終点ロータリーっぽいです。
うまくリンクが貼れなかったのでマピオンにしていますが、グーグルではもっとはっきり見えます。

[67063] 2008 年 10 月 19 日 (日) 19:55:50 YT さん
 江戸時代から明治時代までの名古屋の人口の一部訂正

[67059]
明治18年(1885年)1月1日の名古屋の本籍人口は123,879人ではなくて123,873人に訂正します。

[67062] 2008 年 10 月 19 日 (日) 18:32:09 MasAka さん
 水底トンネルコレ・補足情報

今川焼さん担当の水底トンネルコレクションで、名称がカッコ書きで『(りんかい線の海底トンネル)』となっているトンネルの正式名称が判明しました。

『東臨トンネル』(延長8,748m)

という名前でした。部外者向けに作ったりんかい線パンフレットの部分コピーが入手できたので、こちらに情報提供させていただきます。なお、上に示したトンネル延長は本線部の延長のみで、分岐して車両基地(東臨運輸区)に向かう側の正確な延長は不明でした(分岐部〜車両基地側坑口間は約2500mで、本線部との合計は約11.2〜11.3kmくらいになるようです)。

ちなみにコレクションにおいて当該トンネルの備考には
東京貨物ターミナルと蘇我を結ぶ京葉貨物線として建設されたトンネルの転用
とありますが、この貨物線建設当時の名称は『台場トンネル』で、今の車両基地分岐側が本線の扱いでした(大崎側が後付け)。また、当時は有明西運河の東側そばに新木場側の坑口が設けられていましたが、旅客線転用にあたり国際展示場駅を追加するため、坑口がさらに1.8kmほど東に移動したようです。というわけで、今ある手持ちの資料だけでは旧・台場トンネルと現・東臨トンネルの位置関係を正確にリンクさせることができず(新旧坑口が何メートル移動したかがわかる資料が必要)、これが車両基地分岐側の正確な延長が出せなかった理由です。

[67061] 2008 年 10 月 19 日 (日) 17:08:16【1】 アルバトロス さん
 相模原市新区名案

[67060] Issie さん
投票してみました。 どういう区名にしたかは,秘密。[67035] の末尾で漏らした通りではありません。

もう投票されましたか、自分はまだまとまっていません。相模原市民として一票は投票したいとおもっていますが。
一応、思いついたところで、

A区:津久井と橋本とを合わせて、「津久本区」 あんまりピンときませんが。
B区:市の中心なので、 「中央区」 あまりにも単純かな。
C区:市の南にあるので、「相南区」 遭難を連想するのでお勧めできないけど、相南という町名があるから。

もう少し、検討して投票したいと思います。

[67060] 2008 年 10 月 19 日 (日) 12:04:35 Issie さん
 続・相模原市新区名案募集

…というわけで,投票してみました。
どういう区名にしたかは,秘密。[67035] の末尾で漏らした通りではありません。
でも投票したものとは別に,やはり“落とし所”は 末尾 のそれに近いものではないかな,と思ってます。

使って恥ずかしいものは,嫌だな。
まあ,どうなるものか。

[67059] 2008 年 10 月 19 日 (日) 04:50:19 YT さん
 江戸時代から明治時代までの名古屋の人口

金沢との比較で名古屋の江戸時代から明治時代までの人口をまとめました。江戸時代の元文献載せても自分を含めチェックできる人はそう多くないと思われるので、人口をまとめた後代の本の頁を掲載します。

年号町家戸数町家人口文献・史料
承応3年(1654年)54,932(1)『名古屋史要』
万治2年(1659年)55,127(2)『名古屋史要』
寛文4年(1664年)5,57254,998『名古屋史要』
寛文9年(1669年)5,82155,849(3)高橋梵仙『日本人口史之研究』271〜273頁
延宝2年(1674年)5,83056,636高橋梵仙『日本人口史之研究』271〜273頁
貞亭元年(1684年)54,118『新修名古屋市史』第4巻66頁
元禄2年(1689年)57,843『名古屋史要』
元禄5年(1692年)6,06163,734高橋梵仙『日本人口史之研究』271〜273頁
元禄7年(1694年)55,665『名古屋史要』
享保6年(1721年)42,135高橋梵仙『日本人口史之研究』271〜273頁
享保11年(1726年)50,375高橋梵仙『日本人口史之研究』271〜273頁
寛延3年(1750年)72,583『新修名古屋市史』第4巻66頁
天保11年(1840年)75,779『新修名古屋市史』第4巻66頁
慶応元年(1865年)12,19673,963(4)高橋梵仙『日本人口史之研究』271〜273頁等
明治4年(1871年)71,698(5)『新修名古屋市史』第4巻66頁
(1)『新修名古屋市史』では154,932人と記載されているが、ここは『名古屋市要』に従った。大元の文献は『塵点録』。
(2)『新修名古屋市史』では55,129人と記載されているが、ここは『名古屋市要』に従った。大元の文献は『塵点録』。
(3)内505軒は寺社門前
(4)町中34,300人、寺社門前6,743人、町続之分32,060人、医師等757人、浪人103人。
(5)町中・寺社門前・町続69,618人、医師・僧尼・祢宜860人。

年号(西暦)本籍戸数本籍人口文献・史料
明治6年(1873年)1月1日30,623125,193『日本地誌提要』
明治6年(1873年)37,953126,808(6)『名古屋史要』
明治8年(1875年)以前32,435109,982(7)『明治八年共武政表』
明治11年(1878年)35,717115,284『名古屋史要』
明治12年(1879年))1月1日35,562113,562(7)『明治十一年共武政表』
明治12年(1879年))1月1日111,783『日本全国郡区分人口表』
明治13年(1880年)1月1日36,065114,898(7)『明治十二年共武政表』
明治13年(1880年)1月1日114,898『日本全国人口表』
明治14年(1881年)1月1日36,969117,421(7)『明治十三年共武政表』
明治14年(1881年)1月1日117,419『日本全国戸口表』
明治15年(1882年)1月1日36,527119,009『日本全国戸口表』
明治16年(1883年)37,430125,275『名古屋史要』
明治16年(1883年)1月1日36,556121,297(8)『日本全国戸口表』
(6)『新修名古屋市史』によると『日本帝国人口静態統計』の記述によるとされるが、『日本帝国人口静態統計』にそのようなデータを確認できていない。実際は『名古屋史要』の記述を引用したと思われる。
(7)Network 2010では明治8年、明治11年、明治12年、明治13年の統計として紹介されているが、『共武政表』のデータをその統計年度のまま内容を引用していると思われる。
(8)本籍人口に無籍在監47人を加えた人口は121,344人。

年号(西暦)本籍戸数本籍人口現住戸数現住人口文献・史料
明治17年(1884年)1月1日37,090123,021(9)『日本全国戸口表』
明治17年(1884年)1月1日34,141121,19336,961126,898『都府名邑戸口表』
明治18年(1885年)1月1日37,117123,879(10)『日本全国戸口表』
明治19年(1886年)1月1日124,78437,744130,557(11)『日本全国戸口表』
明治19年(1886年)12月31日126,77937,383143,569(12)『日本帝国民籍戸口表』
明治19年(1886年)12月31日126,77937,383131,492(12)『日本帝国民籍戸口表』
明治19年(1886年)12月31日43,351126,77937,383131,492『市街各邑及町村二百戸以上戸口表』
明治20年(1887年)12月31日130,12343,724149,756『日本帝国民籍戸口表』
明治21年(1888年)12月31日133,07146,150154,981『日本帝国民籍戸口表』
明治22年(1889年)12月31日135,12648,049162,767『日本帝国民籍戸口表』
明治23年(1890年)12月31日136,11843,873170,433『日本帝国民籍戸口表』
明治24年(1891年)12月31日137,70044,453179,174『日本帝国民籍戸口表』
明治25年(1892年)12月31日139,92245,863185,776『日本帝国民籍戸口表』
明治26年(1893年)12月31日143,30447,891194,796『日本帝国民籍戸口表』
明治27年(1894年)12月31日147,74250,316206,742『日本帝国民籍戸口表』
明治28年(1895年)12月31日150,55552,464215,083『日本帝国民籍戸口表』
明治29年(1896年)12月31日153,62055,073242,085『日本帝国民籍戸口表』
明治30年(1897年)12月31日157,06656,404252,699『日本帝国民籍戸口表』
明治31年(1898年)12月31日166,75656,680244,145『日本帝国人口統計』
明治36年(1903年)12月31日186,76167,956288,639『日本帝国人口静態統計』
明治41年(1908年)12月31日248,02684,438378,231『日本帝国人口静態統計』
(9)本籍人口に無籍在監35人を加えた人口は123,056人。
(10)本籍人口に無籍在監30人を加えた人口は123,903人。
(11)本籍人口に無籍在監44人を加えた人口は124,828。
(12)本籍人口に無籍在監人11人を加えた人口は126,790人。同じ統計書なのに異なる現住人口が記載されている。後世の統計書では131,492人の方が採用されている。

『名古屋史要』Network 2010では明治17年以降も『日本帝国民籍戸口表』や『日本帝国人口静態統計』とは異なる数字が列挙されているが、その典拠が何かは把握できていません。

金沢の人口[67046]も一部間違いがありましたが、これに関しては土屋敦夫氏の論文を入手出来次第修正します。その上で金沢と名古屋の人口を比較してみたいと思います。

[67058] 2008 年 10 月 19 日 (日) 01:35:08【2】 Issie さん
 大正九年国勢調査報告

[67057] hmt さん
国勢調査報告書を機会に、上記の区分を「8地方区分」ごとに修正して、現在の順番になったのでしょうか。

私の手許にあるのは,かなり以前にご紹介したとおり,野毛山の 横浜市立中央図書館 で公開されている『大正九年 国勢調査報告 全国の部 第一巻』の“復刻版”をコピーしたものです。
もちろん,これは 1920(大正9)年10月1日午前0時 をもって実施されたものなのですが,この「報告書」が 内閣統計局 から刊行されたのは 1928(昭和3)年10月14日 の日付となっています。実に,8年も経過しているのですね。この間のタイムラグは,もしかしたら考慮しておく必要があるかもしれません。

さて,この報告書には実際の統計表に入る前に「注意」として以下の通り“凡例”に相当するものが掲載されています(3については,こちらで改行および空白を加えました)。

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1 第一回国勢調査ノ統計ハ大正九年十月一日午前零時ニ於テ調査シタル現在人口ニ関スルモノナリ、調査ノ時期前ニ帝国ノ港湾ヲ発シ、途中寄港セズシテ調査ノ時期後四日以内ニ内地港湾ニ入リタル船舶ニ在リタル者ハ、始メテ到着シタル地域ノ現在人口トシテ之ヲ包含ス
2 各表ニ引用シタル面積ハ陸地、干潮界上ニ於ケル海部面積ノ二分ノ一、河川、湖沼ヲ含ム総面積ニシテ、陸地測量部ヨリ供給ヲ受ケタルモノナリ
3 地方別ハ、官庁統計慣用ノ地方区画ニ依ル、即チ下ノ如シ
 北海道
 東北(青森 岩手 宮城 秋田 山形 福島)
 関東(茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川)
 北陸(新潟 富山 石川 福井)
 東山(山梨 長野 岐阜)
 東海(静岡 愛知 三重)
 近畿(滋賀 京都 大阪 兵庫 奈良 和歌山)
 中国(鳥取 島根 岡山 広島 山口)
 四国(徳島 香川 愛媛 高知)
 九州(福岡 佐賀 長崎 熊本 大分 宮崎 鹿児島)
 沖縄
4 北海道及沖縄県ノ区ハ市部、郡部ヲ区分スル場合ニ於テ市ニ之ヲ含ム
5 年齢ハ一年ニ達セザル場合ヲ零歳、二年未満ヲ一歳、三年未満ヲ二歳トス、他ハ之ニ準ズ
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3にあるように,「官庁統計慣用」の地方区画,配列は現在のコードと同じなのですが,実は「8地方区分」ではなく,沖縄も独立した「11地方」に区分しているのですね。
歴史的には 甲斐国 は東海道に属していたのだから,山梨県 は大正中期の区分のように「東海」に属するべきなのですが,これを「東山」に含めたのが,現在の配列に続く第1歩というわけでしょうか。
代わりに,「東山道近江国」の 滋賀県 は「近畿」に仲間入り。ならば,同じく近畿に編入されてもよさそうな 三重県 は「東海」に据え置き,…なんですね。
それより問題は,「官庁統計慣用」の“慣用”がいつごろ成立して,どれほど行われていたのか,というところなのですけれども…。

見た目は今と変わらなくても,結構“奥の深い”ものです。

[67057] 2008 年 10 月 18 日 (土) 21:28:48 hmt さん
 国土面積統計の変遷(4) 道府県面積など
hmt 国土の面積

明治15年(1882)の第一統計年鑑には「面積国別」はあっても、府県別面積がなかったのですが、その翌年の「第二統計年鑑」になると、「府県及開拓使 郡区町村(数) 並 面積」(明治14年12月調)が掲載されています([66996] YTさん)。

東京府から沖縄県までの3府38県に続いて開拓使札幌本庁・函館支庁・根室支庁まで総計 37区 796郡 11870町 58260村で、総面積 24794.51方里。

この総面積は、当然のことながら[66996]掲載と同じ形式の「周囲及面積」の表の総計面積と一致します。
[66998] YT さんで
それにしても属島の数が[66993][66996]でなんでこんなに違うんでしょう?
と指摘された件に関連し、この第二統計年鑑の「周囲及面積」表を見ると、属島の数を含めて大正元年年鑑[66993]の値とほぼ一致しています(千島・小笠原と北海道属島の面積は[66996]の値)。

ついでに、大正時代の統計年鑑の府県別面積に使われた府県の順番を記しておきます。

大正元年(1912)と2年に使われた順番は、5区 + 沖縄県・北海道。
本州中区(東京 神奈川 埼玉 千葉 茨城 栃木 群馬 長野 山梨 静岡 愛知 三重 岐阜 滋賀 福井 石川 富山)
本州北区(新潟 福島 宮城 山形 秋田 岩手 青森)
本州西区(京都 大阪 奈良 和歌山 兵庫 岡山 広島 山口 島根 鳥取)
四国区(徳島 香川 愛媛 高知)
九州区(長崎 佐賀 福岡 熊本 大分 宮崎 鹿児島)
沖縄県 北海道

大正3年から、第1回国勢調査が行なわれた大正9年(1920)までの統計年鑑では、北海道 + 9区 + 沖縄県という北から南への区分による配列が使われました。
北海道
東北区(青森 岩手 秋田 山形 宮城 福島)
関東区(茨城 栃木 群馬 埼玉 千葉 東京 神奈川)
北陸区(新潟 富山 石川 福井)
東山区(長野 岐阜 滋賀)
東海区(山梨 静岡 愛知 三重)
近畿区(京都 兵庫 大阪 奈良 和歌山)
中国区(鳥取 島根 岡山 広島 山口)
四国区(徳島 香川 愛媛 高知)
九州区(大分 福岡 佐賀 長崎 熊本 宮崎 鹿児島)
沖縄県

現在の都道府県コード順に近いものになっていますが、東山区・東海区は現在の配列と異なります。
近畿区では、大阪府と兵庫県とが逆転。兵庫県の方が大阪府よりも北にあるから?
九州区は、四国区に最も近い大分県から始まっており、これも現在と相違。

[34038] Issie さん
現在「公共団体コード」で行われている都道府県の配列は,少なくとも1920年の第1回国勢調査以来,その報告書で用いられているものです。

国勢調査報告書を機会に、上記の区分を「8地方区分」ごとに修正して、現在の順番になったのでしょうか。
なお、統計年鑑における面積データの配列は、大正10年(1921)刊行のものから面積順に変っています。

それはさておき
第32〜第35統計年鑑(大正2〜5年)には「郡面積」の表があります。
当然、「市面積」も欲しいところですが、
市は本調査以後其の境域に変更あるのみならず其の後新設の市も亦少なからずして共に前述の事情に依り其の面積を知り難きにより市の面積は総て之を省略せり
と、お手上げ気味です(大正5年統計年鑑)。

それでも、陸地測量部は 5万分1地形図に基づいて測定したデータを、「昭和10年全国市町村別面積調」として発表。
これが、“20世紀前半以前における唯一の市町村面積に関する資料”とのことです(統計局HPの 資料解説 による)。

[67056] 2008 年 10 月 18 日 (土) 21:23:00 hmt さん
 国土面積統計の変遷(3) 陸地測量部の時代
hmt 国土の面積

明治8年の統計寮時代[67042][67048]の面積は国土全体でなかったようなので、また明治10年代に戻り、[66993]の続きを記します。
この時代に 内務省地理局の仕事は、参謀本部陸地測量部に引き継がれ、全国測量と基本図の作成が行なわれ、その成果に基づいて道府県面積・市町村面積も求められました。

最初に 組織のこと。
近代国家の歩みを始めた明治政府には、測地・地図つくりの仕事をする部門が、前回記した内務省地理局のほかに、もう一つありました。
それは、軍事作戦を遂行する土地の情報を知る必要のある陸軍でした。
現実に西南戦争を経験し、その後も内乱の危険に直面していた陸軍が、短期間に作り上げた迅速測図[44237][65097]のことは、これまでに何回も話題にしました。人口がらみで話題になった共武政表や徴発物件表[63483]も、同じく作戦目的の資料でした。

民政と軍事作戦と目的は違うものの、地図作りに使う測地技術は共通です。
地理局と参謀本部は技術や成果を共有していたようですが、明治17年(1884)6月の太政官達により、測量事業は陸軍に一本化されることになりました[44653]内務省所属大三角測量事務ヲ参謀本部ニ引渡

参謀本部測量局は 明治21年(1888)に陸地測量部になり、1945年まではこの組織による日本の地図作りが進められます。
1885年に2万分の1で作成が開始された正式測図ですが、1890年には5万分の1が基本図になり、1924年に内地全域の測量が完成しました。
参謀本部陸地測量部の所管になった面積データの調製も、当然これに歩調を合わせて進められました。

[66993]で 大正元年(1912)の統計年鑑に掲載された国土面積表を引用しました。
リンクを開いた方はお気づきでしょうが、日本全体の「周囲及面積」に続いて「道府県面積」の表があります。
そして道府県面積データは、「周囲及面積」で説明された内務省地理局による面積と併記して、“参謀本部に於て調製したる面積”が記されています。
後者の説明文を読むと、明治31年に参謀本部で実測図と輯製20万分1図を本として調製したものを最初として、それ以後逐次実測結果を盛り込んでいったことがわかります。

大正10年(1921)12月刊行の「日本帝国第四十統計年鑑」になると、北海道・鹿児島・沖縄の3地域を除く全国測量ができあがり、府県別面積データは、ようやく伊能忠敬から脱却した参謀本部の値を単独で表示できる段階になりました。

そして、全国5万分1地形図完成後の大正15年(1926)に刊行された 第四十五回日本帝国統計年鑑 に至り、上記3地域の面積も参謀本部実測地に改められ、47道府県面積合計は 24718.849方里= 38万1250.45km2という値(大正14年10月1日現在)が得られました。

大正2年統計年鑑の値に比べて 1165km2の減少。道府県別に見ると数百km2以上の増減も数県あり、特に北海道面積の減少 5733km2が目立ちます。面積の測定はなかなか難しいようです。

[67055] 2008 年 10 月 18 日 (土) 18:49:03【1】 ぺとぺと さん
 自分自身のことを棚にあげるのは勇気が必要ですね

>鳴子こけしさん
私は、多少覚悟が足りないと思われる部分があったにせよ、鳴子こけしさんがいい加減な気持ちで「地名コレクション」の編集子に名乗りをあげられたとは思っていません。
ですが、いくつか大きな誤解をなさっているようなので、その点については考えを改められたほうが良いと思います。時すでに遅しかもしれませんが、今後落書き帳においてコミュニケーションを図っていく上で重要なことだと思いますので、意見させていただきます。

(1)なぜ編集を任せてもらえないのでしょうか
以下は新入社員のAさんと上司であるBさんの会話です。Aさんはまだ実績もなく、日頃から曖昧な返答が多いため、BさんはAさんに仕事を任せてよいか不安に思っています。

Aさん「次回の美術展覧会の企画を僕にやらせてください。」
Bさん「そうか。それでどのような展覧会にするか、具体的なイメージはあるのかい。」
Aさん「フランスをテーマにしようと思います。」
Bさん「一口にフランスといってもなぁ。年代とか、彫刻とか、ある程度テーマを絞らないと、どんなものになるかイメージができないな。」
Aさん「詳細はまだ何も考えていません。」
Bさん「うーん…。それから、美術品の調達のルートとかは考えているのかい。」
Aさん「いくつかの調達ルートがあるのは知っていますが、まだ決めていません。」
Bさん「ルートによって調達できるものとできないものがあるのだが、各ルートの特徴は理解しているのかい。先輩たちが手がけている展覧会の記録を見ればわかるはずなのだが。」
Aさん「…。」

いかがでしょう。鳴子こけしさんがBさんだったら、Aさんに展覧会の企画を信頼して任せられるでしょうか。話を単純化するため多少アレンジしていますが、私には鳴子こけしさんとEMM編集長のこれまでのやりとりがこのように映っています。
編集長は、「過去ログ」を読んでいないといった特定の事象を問題視しているのではなく、さまざまな問いかけに対する鳴子こけしさんの返答から、総合的に判断して「下調べ」の足りなさに対して不安をお感じになっているのだと思います。このことは、[66895]をもう一度客観的に読み返せばご理解いただけるのではないでしょうか。

(2)なぜ下調べが足りないことを問題視されているのでしょうか
おそらく、鳴子こけしさんは、
・なぜ事前に「線引き」や「どこまで掘り下げるか」を考えておかなければいけないのか
・なぜ、愛宕という地名をある程度集めてみてから検討してはいけないのか
という点が腑に落ちていないのだと思います。
これは私自身が苦い思いをしているので、具体例を挙げて説明します。 [58365] [59718] [61195] [62414]をご覧いただきたいのですが、四季コレクションの編集子を引き継いだ際に、線引きや町名や大字の分類方法を十分に検討していなかったために、コレクションへの収録候補を提案くださった方に気を揉ませたり、収録内容についてご指摘をいただくような結果となっています。このようなことが繰り返されると、提案者の方に不快な思いをさせますし、自分自身の作業負担を増やし、ひいては自身の編集に対するモチベーションを低下させかねません。
たとえば、 盛岡市玉山区渋民字愛宕ようにMapionにもウォッちずには地名表記がないが、YAHOO地図にはある(MapionウォッちずYAHOO地図)ようなものや、こういうものの扱いをどうするのか、といったことくらいはある程度事前にイメージしておかないと、途中で軌道修正を何度も余儀なくされ、編集作業がおそろしく面倒なことになってしまいます。
このことは、各地名コレクションの説明文を読めば容易に想像できると思います。一例として「町名の○○ヶ丘」コレクションの注釈の一部を引用します。
(2)「町名の」としながら実際には大字・小字名も収録対象としています。字名と通称の線引きには非常に難しいものがありますが、地図検索等でヒットしないものは通称と判断し、収録対象外としました。
もちろん、事前にいろいろ考えていたとしても、新たな発見があったり、思わぬ支障が出てくるなど「作りながら手直しをする」ケースはあるので、完璧な設計図が必要かと言われると、そうではないでしょう。
ただ、上記のような事情を知った上である程度構想を固めてから進めるのか、何も考えずに集め始めるのかでは、その後の作業効率やコレクションの出来ばえが大きく異なると思います。
それから、[66953]かぱぷうさんのアドバイスももう一度注意深く読んでみてください。
ある程度頭の中でイメージが固まっていないと地名コレクションの編集はできない
かぱぷうさんは、明確に「ある程度」とおっしゃっています。決して「完璧にイメージを固めろ」とはおっしゃっていません。

(3)EMM編集長は鳴子こけしさんに意地悪をしているのでしょうか
編集長の対応にいろいろ不満を漏らされていますが、相当お忙しいであろうEMM編集長が、鳴子こけしさんのために一体どれだけの時間を費やしているか考えたことがありますか。あれだけの長文を書き込むには大変な労力を要するのは想像に難くありませんよね。私のように気が短い人間なら、早々に却下してもおかしくないところ、実に粘り強く説明されています。そのことを好意的に受け取れないものでしょうか。
「過去ログの読破」については、EMM編集長は「あえて途方もなく高いハードルを課す」と表現されていますが、最初から「過去ログの読破」を指示されたわけではないですよね。打撃練習できる技量がない、あるいは本気でやる気があるかわからない、と判断されたからこそ、素振り1万回のような指示を出されてしまったという事実を、まずは受け止めるべきでしょう。
批判めいた言い方になり申し訳ありませんが、私には鳴子こけしさんが「練習もろくすっぽしないで監督が試合で使ってくれないとボヤいてばかりいる選手」のように見えてしまいます。

以上、つらつらと書きましたが、発言者の真意や立場を慮って誠実に対応すれば、現状を打開することは可能だと思います。もちろん、鳴子こけしさんに「その気があれば」ですが。
それから先の書き込みで「ガリレオ」を引き合いに出したのはあまり感心しませんね。最近流行のドラマのタイトルにかけたのかもしれませんが、自分自身を偉人に譬えるのは、単なる「自惚れ」ととられてもおかしくないですよ。

(蛇足)
トラブルメーカーの方が出入り禁止になったのは、守るべき最低限のルールやマナーが守れなかった、ただそれだけのことです。映画館で騒いで追い出されるのと同じレベルのことであって、基本的人権云々とはまったく次元が異なります。

#AさんとBさんの表記が逆になっていた一文を削除しました。

[67054] 2008 年 10 月 18 日 (土) 18:33:52 山野[揖斐の山] さん
 大平町

昨日、大平町は栃木市と周辺4町との「5市町」の枠組みで合併協議を推進する意向を示した。
今後は30日に予定されている1市4町の首長懇談会にて合併協議に参加する意向を表明するという。
一方で西方町は5市町での合併手続き入りに向けた協議への協力を議会に求めたものの結論が出ず審議は保留となりました。

[67053] 2008 年 10 月 18 日 (土) 18:01:41【2】 むっくん さん
 北海道一級・二級町村制&指定町村制(補足2)

[67007][67008][67022]拙稿で北海道一級町村制、北海道二級町村制、指定町村制の施行地指定の紹介をしました。

以前[66971]拙稿で、北海道一級・二級町村制の根拠を見つけた経緯を、法令全書をパラパラと閲覧していて見つけた、と書きました。
このようなイレギュラーな形で見つけたので、おそらく何箇所か見落としがあるのではないか、とつかんぼやんと北海道年表と比較したところ、案の定、数点見落としがありました(大汗)。

そこで見落とし分を官報で調べてきましたので、以下に追記します。


(10’)内務省告示第51号(T10.3.31)で8町村が北海道一級町村制施行地として指定されました。8町村には北海道一級町村制がT10.4.1より施行されました。
内務省告示第五十一號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ大正十年四月一日ヨリ施行ス
大正十年三月三十一日 内務大臣 床次竹二郎
札幌郡 廣島村
忍路郡 鹽谷村
高島郡 高島村
雨龍郡 一已村
上川郡 永山村
上川郡 比布村
空知郡 富良野町
紋別郡 紋別町

(10’’)内務省告示第52号(T10.3.31)で音更村が北海道一級町村制施行地として指定されました。音更村には北海道一級町村制がT10.4.1より施行されました。
内務省告示第五十二號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ大正十年四月一日ヨリ施行ス
大正十年三月三十一日 内務大臣 床次竹二郎
河東郡 音更村

(13’)内務省告示第49号(S4.3.4)で6村が北海道一級町村制施行地として指定されました。6村には北海道一級町村制がS4.4.1より施行されました。
内務省告示第四十九號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ昭和四年四月一日ヨリ施行ス
昭和四年三月四日 内務大臣 望月圭介
瀬棚郡 利別村
空知郡 赤平村
上川郡 神樂村
常呂郡 相内村
常呂郡 端野村
沙流郡 門別村

(19’)内務省告示第106号(S14.3.14)で5村が北海道一級町村制施行地として指定されました。5村には北海道一級町村制がS14.4.1より施行されました。
内務省告示第百六號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ昭和十四年四月一日ヨリ施行ス
昭和十四年三月十四日 内務大臣 候爵木戸幸一
千歳郡 千歳村
雨龍郡 沼田村
網走郡 女満別村
有珠郡 壮瞥村
河西郡 大正村

(19’’)内務省告示第118号(S15.3.15)で3村が北海道一級町村制施行地として指定されました。3村には北海道一級町村制がS15.4.1より施行されました。
内務省告示第百十八號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ昭和十五年四月一日ヨリ施行ス
昭和十五年三月十五日 内務大臣 伯爵兒玉秀雄
阿寒郡 阿寒村
紋別郡 下湧別村
磯谷郡 南尻別村

(19’’’)内務省告示第176号(S18.3.30)で3村が北海道一級町村制施行地として指定されました。3村には北海道一級町村制がS18.4.1より施行されました。
内務省告示第百七十六號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ昭和十八年四月一日ヨリ施行ス
昭和十八年三月三十日 内務大臣 湯澤三千男
網走郡 津別村
常呂郡 佐呂間村
川上郡 弟子屈村


ふーっ。これで漏れはないとは思いますが。。。
#なお、つかんぼやんと北海道年表では、1946年9月に指定町村の広尾村が町制を施行して広尾町となった時、広尾町の指定町村の指定は廃止された、と記載されていましたが、広尾町の指定町村の廃止をする旨の内務省告示(もしくは内務省令)は見つかりませんでした。

[67052] 2008 年 10 月 18 日 (土) 09:34:22 Issie さん
 之

[67049] geo さん
そういえば,湖北地方各地にある「木之本」という表示の標識,なぜか『之』の字だけフォントが小さい。なんでやろか・・・。

勝手な憶測ですけれども,手書きをしていた時代に“小さめ”に書いていた習慣が持ち込まれているのではないでしょうかね。

紀州の「きのもと」(三重県熊野市)は,「木本」と書くことになっていますね。「之」がなくとも,「きのもと」とは読めるのです。
「之」というのはもちろん,れっきとした漢字で,古典中国語(漢文)でも「日本語の助詞の“の”」(現代中国語の「的」)にあたる意味がある(ハンコの定型である「○○之印」という形でおなじみ)ので,そのまま日本語の「の」に用いられるようになりました。なお,この漢字は元々,“あしあと”の絵から出発していて,「ゆく」というのが大本の意味であるようです。こちらは,日本語ではもっぱら人名の読みに使われていますね。

というわけで,「之」自体は“完全な漢字”なのですが,「助詞の“の”」として使われるときには,たとえば「鎌ヶ谷」の「ケ」や「四ッ谷」の「ツ」,「沖ノ鳥島」の「ノ」(←現在のフォントでは「ヶ」や「ッ」のような小さいものがないので“同じ大きさ”で表記しますが,古い表記では小書きしたものをよく見ます)と同じように,小さめに書きたくなる気持があったのかもしれないな,と勝手に思っています。

…ちなみに,私は手書きをする場合(板書する場合も),「ヶ」「ッ」「ノ」は“必ず”小さく書きます。その方がバランスがいいと感じるから。「之」は小さく書きませんけどね。

[67051] 2008 年 10 月 18 日 (土) 09:12:38 千本桜 さん
 道路標識、鉄道ルート、小松みどり、大都会米沢

[67041] クハ221−1 さん
岐阜県内では「↑大津」という表示は全く出てきません(滋賀県に入るとようやく「↑大津 米原」となります)。
[67049]geo さん
ふと思いましたが,「↑大津 米原市街」ではないのですね。国道21号を滋賀県内に入ると米原市なので。
現在の道路標識設置基準では、「仙台」は行政上の仙台市を指し、「仙台まで○○キロ」は仙台市役所までの距離を指すことになっています。でも、この基準に私はなじめません。道路案内板はドライバーが「とっさ」に判断するものでしょう。私の場合、「仙台」の文字を見て「とっさ」に思い浮かべるのは仙台市街であり、しかも市街地の首部です。私の感覚と国土交通省の指針には深くて暗い河があるのですね。それはさておき、指針に従えば、国道21号を西に走行して滋賀県に入ると米原市ですから、直進方向に「↑米原」は表示できなくなるはずです。あくまでも指針ですから、実際の運用は担当者次第なのでしょうが・・・。ところで、国道21号が国道8号に接続する地点の案内板には、どのような行先地名が書いてあるのでしょうか。左折「←大津 彦根」、右折「福井 長浜→」でしょうか。

[67045]笠津前浜 さん
滋賀県内の国道21号の管理は彦根維持出張所であることも関係しているのかな。
国道維持出張所の立地が行先地名の表示に影響するかは定かではありませんが、ひとつ思い当たるのは、仙台市内の国道45号における直進「↑宮古」の表示です。気仙沼、大船渡、釜石などをさておいて、「宮古」を表示するのは飛び過ぎだと感じるのですが、45号を管理する三陸国道事務所が宮古に所在するからだろうか?などと考えることもあります。

[67023]YSK さん
名掛丁(ながけちょう)を経て
重箱の隅を突っつくようですが、名掛丁は濁らずに「なかけちょう」ですよね。東北本線のルートと仙台市街の関係はYSKさんの御説の通りだと思います。駅東(駅裏)にも城下町の一角をなした小田原金剛院丁、鉄砲町、連坊小路などの町並みが広がっていますからね。ところで、一般的には既存の市街地を避けて鉄道が敷かれたわけですが、群馬県桐生は見事に既存市街地を分断して両毛線が走っています。両毛線が開通した頃は既に桐生市街の骨格(桐生新町と新宿村の連担市街地)ができあがっていたはずで、目抜き通り(現在の本町商店街)を分断してレールが敷かれた珍しいケースだと思います。両毛線に乗っていて心が一番ときめいたのは、桐生本町通りの踏み切りに差し掛かるときでした。車窓に額を押し付けて本町通の賑わいを見つめたものです。

[67012]白桃 さん
都会は緑のインクで市名を塗りつぶしております。(これは、オーナーだけが知っております。)
なんだか意味は分りませんが、オーナーゆかりの都会は金沢と小松ですから、金沢碧と小松みどり にしておきます。

[67010]般若堂そんぴん さん
吉林市出身の中国人留学生によれば,「米沢はムラです」とのことでした.
チーリンさんの話に悲観しないで。米沢は間違いなくシティです。米沢の市街地って地図(20万分の1程度の)に表わすと、人口から受けるイメージよりも大きく表わされますよね。かれこれ50年近く前のことですが、当時の地図上の市街地表示は福島より米沢の方が大きかったような・・・。二つ三つ年下の友達に地図を見せて、福島と米沢ではどっちの人口が多い?と質問したのを憶えています。いま思えば酷な話ですね。相手は地理に関心があるとは思えない普通の小学生(たぶん2年生くらいだった)。福島と米沢の人口を比較させられたって、ちっとも面白くなかったと思うのですよ。

[67050] 2008 年 10 月 17 日 (金) 21:55:30 クハ221−1 さん
 再び、大津

[67045]笠津前浜さん
国道1号と国道8号の例では、大津市を通過するため標識内に表示されているのでしょう。国道21号は米原で終わりですものね。

そうかもしれませんね。
でも、他に面白い例として、国道9号の亀岡市内は「↑大津 京都」となっており、かなり違和感を覚えます。あと、同じ国道9号の京都市内には、「↑大津 奈良」なんてものも確かありました。

[67049]geoさん

国道8号下りで面白い表示をするのが伊香郡西浅井町内の標識。「↑大津 長浜」と思いきや,よ〜く見ると「↑大垣 長浜」。
 おそらく木之本からの国道365号へ誘導させるための表示かと思います。木之本を過ぎると,やっと「↑大津 長浜」。

いえいえ、西浅井町内でもちゃんと「↑大津 長浜」となっていますよ。敦賀市疋田交差点で国道8号と161号とに分かれますが、大津へは161号の方が距離が短いために161号へ進むように誘導され、8号の方は疋田から「↑大垣 長浜」に変わります(161号は「↑大津 高島」)。8号の「↑大垣 長浜」は、疋田から福井・滋賀県境間でのみ見られ、滋賀県に入ると「↑大津 長浜」になりますよ。

[67049] 2008 年 10 月 17 日 (金) 20:36:53 geo さん
 滋賀県湖北地方の案内標識

 こんばんは。1ヶ月ぶりの書き込みです。
 ちょうどうちの田舎の話題が出ていたので反応します(笑)。

[67041] クハ221−1 さん
国道8号で福井方面から帰ってくると、行き先標識は福井市内では「↑敦賀 越前市」、越前市内では「↑大津 敦賀」、敦賀市内では「↑大津 長浜」というように変わって行きます。
 国道8号下りで面白い表示をするのが伊香郡西浅井町内の標識。「↑大津 長浜」と思いきや,よ〜く見ると「↑大垣 長浜」。
 おそらく木之本からの国道365号へ誘導させるための表示かと思います。木之本を過ぎると,やっと「↑大津 長浜」。
 
 そういえば,湖北地方各地にある「木之本」という表示の標識,なぜか『之』の字だけフォントが小さい。なんでやろか・・・。

滋賀県に入るとようやく「↑大津 米原」となります
 ふと思いましたが,「↑大津 米原市街」ではないのですね。国道21号を滋賀県内に入ると米原市なので。

[67048] 2008 年 10 月 17 日 (金) 13:58:43【1】 hmt さん
 国土面積統計の変遷(2.1) 租税寮の面積調査では「網走番外地」は対象外
hmt 国土の面積

明治8年第1回統計表に記された63府県の面積総計は、僅かに 347万8490町= 3万4497.4 km2でした[67042]

[67044] YT さん
単に統計が揃っていないだけのようです。
大体、耕地345万9978.5706町に対して山野が30万8857.3102町のはずがありませんね。

例えば石川県の面積が僅かに1574町(15.6km2)となっており、山野面積だけでは説明できない統計の不備があるようです。
しかし、この統計の更に根本的な問題は、これが「国土面積」を対象とした調査でなかった点にあるようです。

統計表を読み直しているうちに、次の記載に行き当たりました。
(7/84コマ)第12 戸口反別比較表【説明】戸口反別は明治5年租税寮の調査に原き 人口の数は同年戸籍寮の表に拠る

“租税寮の調査”−−そうか、これは民有地の地租を対象にした調査だったのか。してみると、官有地は対象外かも…

44〜47コマ 第12 戸口反別比較表(明治5年租税寮、明治6年地理寮調査)の一部(合計とkm2換算値を追加)
耕地山野合計(町)(km2)
明治5年開拓使
明治5年総計3250921156698340761933795
明治6年開拓使1407140714
明治6年総計3450079308857375893637279

殆んどが官有地だった北海道は、面積調査の対象外であったことがわかります。
他の府県についても、山野のみならず、耕地を含めた官有地が含まれておらず、「国土面積」ではなかったと思われます。

[66993]の最初に掲げた国土地理院のプレスリリースが、“国土面積の公表は、明治15年(1882)に内閣統計局によって初めて実施され”となっていたことにも納得。

[67042]で「検地方式」と書きましたが、地積の積算によって日本の面積を求めることはできないことは既に言及していました。
[66539]hmt
地積を積算すれば、市区町村の面積、ひいては「日本の面積」が算出できるだろう…と思うのは、誤った考えなのですね。
個々の地積の不正確さもさることながら、「登記のない土地」(「無番地」)が存在するわけです。[48795] 88 さん

今回のような形で実例が登場することは、全く予測していませんでした。

【1】
統計の不備の例示を変更。更に記せば、熊谷県の耕地と山野面積(明治5年、44コマ)を合計すると160206町ですが、48コマでは60206町となっている(新潟県についても同様)など、明らかな誤記もあります。

[67047] 2008 年 10 月 17 日 (金) 03:42:54 YT さん
 訂正

すみません。

『明治「挑発」物件集成』ではなくて『明治徴発物件表集成』です。

さすがに酷い誤字なので・・・

[67046] 2008 年 10 月 17 日 (金) 02:57:07 YT さん
 金沢の江戸〜明治31年までの人口

表題の件をまとめてみました。

というのは、ネット上で検索すると、廃藩置県により金沢の人口が極端に落ち込んだという記述が目立ったからです。

以下近代デジタルライブラリーほか、自分が入手できる範囲で明治31年までの金沢の人口変遷をまとめました。『加賀藩史料』には目を通しておらず、高橋梵仙『日本人口史ノ研究』からの引用です。また『明治十一年共武政表収録』の人口は、男女別人口を合計すると107,876人で、『日本全国郡区分人口表』の人口と一致します。明治2年までは町家のみの人口で、明治4年からは武家・寺社方を含めた総人口の合計です。『金沢名数』によりますと、明治4年の人口は士族2万6028人、卒2万6888人、平民6万8810人、元神官139人、寺院1032人、御預人466人を含むとされており、この比率なら江戸時代中頃にも12万人程度の人口を有していたと思われます。天保9年の数字は不自然に少ないですが、地子町のみの人口かもしれません(寛文4年、寛文7年はそれぞれ本町19,845人+地子町35,261人、本町9,840人+地子町39,261人の合計)。『都府名邑戸口表』や『日本帝国民籍戸口表』は『国勢調査以前日本人口統計集成』に収録されています。
統計年月町家戸数町家人口文献・史料
寛文4年(1664年)9,86855,106『金沢市史』資料編6巻623〜624頁
寛永7年(1667年)6月8,66759,101『金沢市史』資料編6巻623頁
元禄3年(1690年)13,610『加賀藩史料』第4編101頁
元禄10年(1697年)春15,69268,636『加賀藩史料』第4編388頁
寛永7年(1710年)6月21日12,58864,987『金沢市史』資料編6巻624〜625頁
寛政年中(1800年頃)14,90956,355『金沢市紀要』145頁(元文献が明示されていない)
天保9年(1838年)閏4月15,27235,841『金沢市史』資料編6巻637頁
安政4年(1857年)2月58,506『金沢市史』資料編6巻650〜651頁
明治2年(1869年)16,19659,503『金沢市史』資料編6巻657頁

統計年月戸数人口文献・史料
明治4年(1871年)12月123,363『金沢名数』
明治6年(1873年)1月1日34,580109,685『日本地誌提要』
明治8年(1875年)以前34,883109,685『明治八年共武政表』
明治12年(1879年))1月1日107,876『日本全国郡区分人口表』
明治12年(1879年))1月1日23,915107,878『明治十一年共武政表』 (『明治挑発物件表集成』4巻収録)
明治13年(1880年)1月1日107,979『日本全国人口表』
明治13年(1880年)1月1日24,531107,979『明治十二年共武政表』 (『明治挑発物件表集成』6巻収録)
明治14年(1881年)1月1日108,328『日本全国人口表』
明治14年(1881年)1月1日24,105108,328『明治十三年共武政表』 (『明治挑発物件表集成』8巻収録)
明治15年(1882年)1月1日24,778107,624『日本全国戸口表』
明治16年(1883年)1月1日23,012107,193『日本全国戸口表』

統計年月日本籍戸数本籍人口現住戸数現住人口文献・史料
明治17年(1884年)1月1日22,802106,65932,031104,320『都府名邑戸口表』
明治18年(1885年)1月1日21,947106,412『日本全国戸口表』
明治19年(1886年)1月1日104,56021,31798,567『日本全国戸口表』
明治19年(1886年)12月31日27,321102,28129,04197,653『市街各邑及町村二百戸以上戸口表』
明治20年(1887年)12月31日101,90026,52595,047『石川県戸口表』
明治20年(1887年)12月31日96,639『日本帝国人口静態統計』
明治21年(1888年)12月31日101,56227,39195,462『石川県戸口表』
明治21年(1888年)12月31日101,56227,39196,752『日本帝国民籍戸口表』
明治22年(1889年)12月31日100,72922,05994,257『日本帝国民籍戸口表』
明治23年(1890年)12月31日99,95418,96394,666『日本帝国民籍戸口表』
明治24年(1891年)12月31日99,47120,35793,531『日本帝国民籍戸口表』
明治25年(1892年)12月31日99,16117,87192,239『日本帝国民籍戸口表』
明治26年(1893年)12月31日98,77217,54591,531『日本帝国民籍戸口表』
明治27年(1894年)12月31日98,51517,78689,975『日本帝国民籍戸口表』
明治28年(1895年)12月31日97,70920,63988,877『日本帝国民籍戸口表』
明治29年(1896年)12月31日97,09425,04685,916『日本帝国民籍戸口表』
明治30年(1897年)12月31日97,48116,31682,378『日本帝国民籍戸口表』
明治31年(1898年)12月31日98,38328,50783,662『日本帝国人口統計』

これから読み取れるのは、確かに廃藩置県直後金沢の人口は激減したが、現住人口が10万人を切ったのは明治18年以降です。明治30年前後に人口は増加に転じ、明治41年の段階で現住人口も10万人を回復したようです。明治19年から明治41年までの一万人以上の都市の現住人口は、『日本帝国人口静態統計』まとまっています。

なお金沢工業大学研究紀要A18号(1982年)に土屋敦夫氏の『金沢の人口変遷−その3戸籍簿による人口戸数統計(明治5年〜大正8年)』という和文論文が掲載されているようですが、もしかしたら明治5年の統計では10万人を切っているというデータがあるのかも知れません。

[67045] 2008 年 10 月 17 日 (金) 02:40:38 笠津前浜 さん
 大津の表示がない理由

[67041] クハ221−1 さん
ところが、国道21号では、岐阜市内では「↑米原 大垣」、大垣市内では「↑米原 関ヶ原」となり、関ヶ原町に入ると単に「↑米原」だけとなり、岐阜県内では「↑大津」という表示は全く出てきません(滋賀県に入るとようやく「↑大津 米原」となります)。
国道1号と国道8号の例では、大津市を通過するため標識内に表示されているのでしょう。国道21号は米原で終わりですものね。以下は憶測で書きますが、国道21号を岐阜方面から米原まで通行した後は国道8号に接続し大津方面と長浜・福井方面へ分岐するため、例えば大津と長浜を併記しないよう米原しか表示していない、とか。地図で見る限り岐阜から長浜・福井方面へは国道365号などを使うのでしょうから、国道21号で滋賀県にはいると同方面への案内の必要性が薄れ、大津の表示が出てくるのでは。滋賀県内の国道21号の管理は彦根維持出張所であることも関係しているのかな。他区間は岐阜県内の維持出張所ですね。

大津市を通過する他の幹線では、どうなんでしょう。

[67044] 2008 年 10 月 17 日 (金) 01:35:13 YT さん
 山野の面積
hmt 国土の面積

[67042] hmtさん

よく読むと、面積が1万町を越える県は栃木県、千葉県、愛知県、白川県だけですし、その値も86ページから始まる「第十二 戸口反別比較表第二」の耕地と山野を足しただけのようです。開拓使、琉球藩と初めとして、大阪府、奈良県、宮城県、岩手県、秋田県、石川県、鳥取県、島根県、広島県、山口県、鹿児島県などの山野の面積が不明です。

「*ノ表記アルハ山野ナキノ県ナリ 然レドモ其実山野ナキニアラズ即チ第十二表ニ言フガ如シ」だそうですので、単に統計が揃っていないだけのようです。

大体、耕地345万9978.5706町に対して山野が30万8857.3102町のはずがありませんね。山野の面積が確定したのがいつなのかは気になりますが。

[67043] 2008 年 10 月 17 日 (金) 00:30:22 山野[揖斐の山] さん
 湧別の合併期日

でるでるさんへ
両湧別の合併協が今月6日に開かれ、合併予定期日が来年の10月5日となりました。

[67042] 2008 年 10 月 16 日 (木) 23:06:51 hmt さん
 国土面積統計の変遷(2) 明治8年 第1回統計表 の謎
hmt 国土の面積

[66998] YT さん
大隈重信文書を検索してみたところ、明治8年の府県別面積が以下の史料に町反で載っていました(90〜93頁)。

リンク先からView Openすると、84コマの大きなpdf文書が現れました。なんと!左縦書きですね。
(4コマ)明治8年5月 統計寮
総例 昨年中我寮に於て作為せし諸表を蒐輯して1冊とし之を第1回統計表とす

[66993]を書いた時は、統計院(明治18年12月統計局)による「第一統計年鑑」(明治15年)が最初の公表だと思っていましたが、それよりも前に統計寮による資料があったのですね。

(9コマ)第13 庁位置戸口面積表【説明】
戸数人口は明治5年戸籍表に拠ると雖も社寺は原書に従て之を除き庁の位置は6年末の査定に従ふ…
面積は仮に耕地山野の両反別(5年の調査に係る)を以て推算表出す
(48、49コマ)第13 庁位置戸口面積表【本表】
東京府、京都府、大坂府の3府に続いて、茨城県、磐前県、石川県、岩手県、浜松県、…広島県とイロハ順で60県。
総計面積 3,478,490町17087、戸数 6,886,994、人員 31,912,264となっています。

明治15年統計院の面積算出は“伊能忠敬ノ大国三万六千分ノ一ヲ本トシテ算出シ”[66997]と、現在の面積調と同じく地図に基づいて測定する方法でしたが、こちらは“耕地山野の両反別”調査に基づくというから、いわば「検地方式」のようです。

面積には、“(明治)5年の調査”を使っていますが、他の項目では明治6〜7年のデータもあり、府県別は明治8年という発行の時期を反映したものとなっています。
具体的な例で説明すると、明治5年の“耕地山野の両反別”調査の際に存在した(第一次)香川県は消滅しており、讃岐の値は、阿波・淡路と共に名東県に含まれています。

[66998]で指摘されているように、当時は開拓使が管轄していた 北海道 が除外されています。
もちろん、千島も含まれていません(千島樺太交換条約[43845]は第1回統計表の発行と同じ明治8年5月)。
沖縄は、明治5年に琉球王国を廃止して設置した琉球藩の時代。明治12年3月の琉球処分[9303]より前で、これも除外。
そして、もう一つ除外されていたのが小笠原。幕末の回収後に始まった日本統治も、生麦事件の影響で早々と撤退。明治8年は、ようやく明治丸を派遣して再度小笠原領有の動きを始めた時期でした。[26683]

第1回統計表の面積単位に使われた「町」は、1町=10反=100畝(せ)=3000歩です。
1歩(1坪)は1間四方で、メートル法ならば33分の60mの2乗ですから、約3.3058m2。地価について“3.3平方メートルあたり○○円”という表現は今でも使われています。
律令時代には、長さの単位「町」と関連した「1町四方の面積」すなわち3600歩でしたが、中世以後3000歩に変化。

[67006]同様に、事実上現在と同じメートル法換算が通用すると考えると、面積の1町=0.009917355…km2(約1ヘクタール)。
63府県総計 347万8490町17を換算すると 3万4497.4 km2

アレレ!?
北海道などが除外されているにしても、この面積は明らかに小さすぎます。
明治15年統計年鑑面積[66996] から北海道千島琉球小笠原を除いた 18541.14方里、つまり 285968.74km2の 12%しかありません。
区域の変化のなさそうないくつかの県を選んで、県の面積も比較してみましたが、いずれも9〜13%程度であり、何か共通の問題がありそうですが、解決の糸口は見えず謎のまま。

どこかで一桁間違えた? まさかね。

[67041] 2008 年 10 月 16 日 (木) 22:59:38 クハ221−1 さん
 大津を無視する岐阜

道路標識の話題が出ていますので、私がいつも気になっていることを書きます。
自分は滋賀県在住で、国道1,8,21号などはよく通りますが、国道8号で福井方面から帰ってくると、行き先標識は福井市内では「↑敦賀 越前市」、越前市内では「↑大津 敦賀」、敦賀市内では「↑大津 長浜」というように変わって行きます。国道1号でも、桑名市内では「↑大津 四日市」、亀山市内では「↑大津 甲賀」という表示になっています。規則どおりの表示といえます。ところが、国道21号では、岐阜市内では「↑米原 大垣」、大垣市内では「↑米原 関ヶ原」となり、関ヶ原町に入ると単に「↑米原」だけとなり、岐阜県内では「↑大津」という表示は全く出てきません(滋賀県に入るとようやく「↑大津 米原」となります)。岐阜県(国道21号は国直轄なので、岐阜県庁ではなく中部地方整備局ですが)は余程「大津」と書くのが嫌なのか、どの標識も「↑米原」に統一され、岐阜から見ると米原こそ滋賀県のシンボルと主張しているみたいでいつも不思議に思っています。

[67040] 2008 年 10 月 16 日 (木) 22:57:18 とんかち☆ さん
 はじめまして・・・。

なんか議論になってる最中にこんな書き込みしちゃってゴメンナサイ。

最近になってからこの落書き帳の過去ログを読み出しました。
しかも1から全部読破しようと思ってます!!
たくさんあるので何年かかるか分かりませんが(笑)
最初アーカイブだけを読んでみたのですが、やっぱり全部読みたくなって・・・。

みなさま、地理好きでいらっしゃって私の知らないことをたくさん知ってらっしゃいますね。
って、地理好き&地図好きでいらっしゃるんですから当たり前かもしれませんが(笑)

いきなりとんでもない発言してしまうかもしれませんが、これからもよろしくお願いいたします!!


ちなみに「経県地」を計算したら・・・109と言う結果になりました(笑)


あ、そうそう・・・。
だいぶ前に市町村名に「ケ」がつく時に「ケ」か「ヶ」が議論になってしましたが、私はそのうちの一つの鶴ヶ島市民でございます・・・。
何も気にしてなかったんですが、市町村によってはかなりのこだわりがあったりするんですね!!


初めてなのに、こんな長々と書いてしまってスイマセン!!

[67039] 2008 年 10 月 16 日 (木) 22:35:07 かぱぷう さん
 開いた口が塞がらない

あえてレスはつけません。

ここが個人のホームページなら好きに編集していても構わない。
けれど、違うんです。

書き込みに際しては『落書き帳』という看板、地名コレクションの編集者になろうとしている人は『地名コレクション』という看板を背負っていかねばなりません。

看板?
抽象的な表現ですが、落書き帳や地名コレクションがこれまで培ってきた文化であり信頼です。それはすなわちハウスルール、単刀直入にいえば法律です。

先の書き込みで、あるメンバー様に対し誠に僭越ではありますが、私なりに「法律」の遵守についてアドバイスをさせていただきました。ところが、なんだか揚げ足を取るような返答。思わず十数年前に流行った『ああ言えば○○』という戯言を思い出しました。

また、私に対する返答ではなかったにしても、なにやら自分の首を絞めるような問題発言。悪あがきにしか聞こえません。はっきり言います。問題発言です。

“基本的人権の尊重”
このような言葉を軽はずみに使用しないでいただきたい。
事実、私がこうして噛み付いているように、重みのあるこの言葉が勝手に一人歩きしてしまいますよ。
この言葉は撤回していただきたい。削除ではありません。撤回です。撤回する、すなわち『お詫び』です。

法律が守れない恐れがある人が“基本的人権の尊重”を声高に叫んだところで、耳を貸す人は少ないのではないでしょうか?

すっかり気分を害してしまいました。
私はそんなに寛大な人間ではありません。
そう、
あなたとは違うんです

[67038] 2008 年 10 月 16 日 (木) 20:16:59 おがちゃん[日本人] さん
 過去の悪いお手本

こんばんは。日本人です。

この件については完全にスルーしようと思ったわけですが、「過去の悪いお手本」として、僕の名前が挙がってしまい、今までの経験からあっさりとスルー出来なくなったため、横から首を突っ込ませていただきます。
去年の7月ごろに、様々な悪いお手本を見せてしまったことは、すごくよく覚えています。
その時に、ご指摘された事がいくつかありますので、この際、まとめて書き込もうと思います。

(1)作り方がわからない

「○万コレクション」を作り始める時に、「見学者機能」については全く知りませんでした。そのため、地名コレクションの先輩さま達に質問してみました。この件は、質問してあっさりと解決しました。

(2)区切り

これは、どの地名コレクションでも絶対に必要なテーマです。当然、僕が作った「○万コレクション」でもあったわけです。ここで、明確な区切りをつけないと、あとで「いざ、地名を入れてみよう」という場面で、すごく苦労してしまいます。また、見てる人にとっても「こいつはどういう区切りをしてるんだ」と思われてしまいます。いいコレクションを作るためには区切りが重要なわけです。

(3)説明文

これは、コレクションをご覧になっている方にとってはすごく重要なことです。第三者の視点から見て書くのがオススメです。ここでは、コレクションの区切りなども書き込めるため有効活用するのがいいと思われます。

(4)地図サイト

「一部の地図サイトだけを見ると後になって別の地理サイトに大量に情報が載っている」という例もある物です。満遍なく使い方なども注意しながら探すのが一番いいと思われます。

とても短く、合っているのか分からない説明ですが、これから、地名コレクションを作る方は、これを意識して取り掛かるといいのかもしれません。

[67037] 鳴子こけし さん
過去ログの件に関しても、
「検索に関する技能・能力が十分でない」と判定できる
のであれば、能力はまだしも技術を教えてくださってもいいようなところを、
「過去ログを全部読め」
と、暫くの間僕が地名コレの事に関しての発言が出来ないようにしようと企んでいるように思えるのです。
EMMさんはそのようなことを考えて「過去ログを読ませよう」としているわけではないと思います。EMMさんは、過去ログを全て読むことによって、今までの落書き帳の動きを分からせようとしているのではないでしょうか。EMMさんは鳴子こけしさんの考えのように、まるで「口封じ」のようなことをしているとは思いがたいのです。

ついでに過去ログに関してもう一個。
鳴子こけしさんは、記事検索をお使いになられたことがあるのでしょうか。見学者機能のことを今まで知らなかったことを考えると、記事検索をした経験は少ないと思われますがいかがでしょうか。

#因みに、「トラブルメーカー」の方たちが
現在出入り禁止となってい
るのは少しばかし問題ではないかと思うのですが。
知らないですか?“基本的人権の尊重”
本当に「トラブルメーカー」の方たちは、よっぽどのことをしたのです。それについても記事検索をしたり、過去ログを読めばどのような行動をとったのかがわかります。そのことを考えると「人権」と言う言葉を無視しなければいけない現実であることが分かると思います。また、出入り禁止となったのは、グリグリさんの絶対的な指示、もしくは自主的になので、「人権」と言う言葉を無視しなければならない現実です。

途中から落書き帳の趣旨からそれた書き込みとなってしまい申し訳ございません。

[67037] 2008 年 10 月 16 日 (木) 17:46:54 鳴子こけし さん
 ガリレオ

[66953]かぱぷうさん
『見学者機能』
アドバイスありがとうございます。実際に見てみましたが、なるほどこれなら僕にも出来そうです。その上で、
ある程度頭の中でイメージが固まっていないと地名コレクションの編集はできないということ
はないと思います。頭の中でイメージを固めてしまっては、もし編集途中に問題が発生した場合に対応が出来なくなってしまう恐れがあります。臨機応変という言葉もあることですし、作りながら手直しをしていった方がいいと思うのです。
わざわざ舞台裏をアーカイブスにしてまで公開することはないでしょう。
それを言ってしまえば、『EMMの地名コレクション編集メモ』だって立派に舞台裏だとは思いませんか?『「経県値」の見直しにかかる議論』や『公式ホームページ編集長通信』もまた然りです。

[66991]EMMさん
「作り方はまだ把握していないが、とにかくやってみたいので手を挙げた」方も実際にいらっしゃるんです。
日本人さんの件は分かっていましたよ。しかし、EMMさんがそれに触れずに
「初めて手を挙げて頂いた方でも、
(中略)
ある程度理解して頂いている」という前提がある
と書くものですからてっきり日本人さんの件は忘れてしまっているのかと思ってしまったのです。
「ではなぜ指摘しないのか」と問われれば、これは
「この人は何で聞き返してこないんだろう?」
の答えでもあるのですが、「果たして僕が指摘(or質問)をしていいのだろうか。生意気だとか言われて怒られやしないだろうか」と思ったからなのです。もともと僕の性格上、『いらんところまで首突っ込むな』とよく言われてきました(実際他の人たちの喧嘩に首突っ込んで怒られたりもしているのですけれど)。実生活でそうなのですから、ネット上での会話ともなると余計に神経を使ってしまって、結局質問できないでいたのです。無論、通常の状態であれば質問でもなんでもしたのでしょうが、なにせこちらが質問攻めに遭っていたので、とくにビクビクしていました。
「何を分かっていないか、が分かっていないまま事を進める」
と見えたようですが、僕はちゃんと自分が分かっていない事柄は分かっているつもりです。あ、いや、つもりじゃ駄目だと言われてしまうかもしれませんが、少なくとも、『何を分かっていないか、が分かっていないままことを進め』てはいません。
「欠点を指摘されても、それをなかなか認めない」
のは、僕に限らず誰だってそうでしょう。その昔“天動説”が蔓延っていたように、誰もが知らず知らずに『自分(達)が中心』と考えてしまいがちです。そんな至極当然なことを、今になってわざわざ言うというのはどういう了見ですか。“地動説”をうったえたガリレオが邪魔者扱いされたように、EMMさんも僕が邪魔だと思っているのですか。もしそうでないにしろ、そう思えるような振る舞いを僕に対してしているということです。
過去ログの件に関しても、
「検索に関する技能・能力が十分でない」と判定できる
のであれば、能力はまだしも技術を教えてくださってもいいようなところを、
「過去ログを全部読め」
と、暫くの間僕が地名コレの事に関しての発言が出来ないようにしようと企んでいるように思えるのです。
人から教わろうと思うのであれば、それなりの姿勢が必要
なのも分かっていて、『それなりの姿勢』をしてきたつもりなのですが、前述のように質問をする機会を逸してきたのです。そこにきて「過去ログを全部読め」ですよ。こんなひどいことはないと思って[66952]を書いたのです。こうでもしないとEMMさんがちゃんと僕の言いたいことを聴いてくれないと思ったのです。
そうして書いた[66952]が、
「自分で自分を改善する能力がない、またはそう言う気がない」とも読み取れてしま
うのは致し方のないことだと思います。
もちろん、
私が「はい、それなら」と教えてくれると
も思っちゃいません。
しかし、僕が[66952]を書いたのをいいことに
 自分で学ぶ気もない。
 人に聞くでもない、聞く姿勢も十分でない。
 言われたことすらしようとしない。
と駄目出しのオンパレード。僕は[66952]だけを見て話をしてもらいたくはありませんし、そんなことを言われたくて[66952]を書いたわけでもありません。

等と書いてみましたが、結局のところ、“それでも僕は地名コレクションの編集をやりたいでいる”とガリレオのような気持ちでいっぱいな鳴子こけしなのでした。


#因みに、「トラブルメーカー」の方たちが
現在出入り禁止となってい
るのは少しばかし問題ではないかと思うのですが。
知らないですか?“基本的人権の尊重”

[67036] 2008 年 10 月 16 日 (木) 01:22:28 EMM さん
 富山県でも新旧併記

[67025] じゃごたろさん
市町村合併があった後の案内標識の自治体名は、新しい自治体名に置き換わるか、空白になるか、もしくはローカルな路線ではそのまま残るというのがほとんどだと思います。でも四国ではそれとは違った対応が多く見られました。それは、新旧の自治体名を併記させるというもの。
富山県でも案内標識での新旧の自治体名の併記が行われています。
「射水(新湊)」や「南砺(福野)」と言うような書かれ方をしています。
文字の大小は…無かったはず…いや、旧自治体名の方が横幅が狭かったかも…四国のように新旧いずれかが目に見えて小さい、と言うのはなかったはず?
すいません、ちょっと記憶があやふやです…次に富山に向いて車を走らせた時には注意して見ておきます。

[67035] 2008 年 10 月 16 日 (木) 00:17:44 Issie さん
 Re:相模原市新区名案募集

[67029] アルバトロス さん
その3つの区名をを募集しています。

とりあえず,行ってみたのですが…
実は,「橋本」と「津久井」が一緒の「A区」になったことで,“迷い”が生じてしまいました。

「A区」
・津久井区:明らかに「津久井」には含まれない橋本が区役所予定地であれば,やはり難がある。
・橋本区:反対に,区の面積のかなりの部分を占める「津久井」を無視して東端の橋本を名乗らせるのも,難。
・城山区:区の域内全域のシンボルとなりそうな山の名前をとってみたが,旧町の1つの名前に使われてしまっていては,やはり区全体を代表するのは無理か。たとえば,旧町が「城山町」ではなく「川尻町」とか「湘南町」を名乗っていたなら,問題なく使えそうだったのだが。

「B区」
・相模原区:現在,この区を仮に代表する呼称として使用されているし,元々「相模原軍都計画」の事業区域の大部分を占めているわけだから,その意味では適当に思えるが,やはりこの区だけで「相模原」を占有すること自体,無理かな。

「C区」
・大野区:以前にも話題になったように,相模大野だけがこの区の 核 なわけではない。「おださが」もあるし,相武台だって…
・相武台区:かと言って,「相武台」はやはり,相武台地区しか代表できないか。せっかく,「士官学校の呪縛」が消滅して,それなりに“広い地域”を代表する地名に成長しそうな“芽”は持ってる気もするのだが…。

と,考え込んでしまって,投票はせずに帰ってきたのでした。

やっぱり,当初の予定通り,「北区」「中央区」「南区」にしようかなぁ。

[67034] 2008 年 10 月 15 日 (水) 23:49:58 Issie さん
 地図中心

[67023] YSK さん

実は秘かに期待していたのですが,修正を加えていただき,ありがとうございます。

ところで,今日は一日,東京への出張だったので帰りに新宿の某大書店に立ち寄りました。
7Fの地図売り場へ「さいたま市」の市街図を買いに行ったのですが,ふと見ると,「地図中心」という日本地図センターが発行している月刊誌があって,今月号(10月号)の特集は「杜の都 仙台」。
ちょうど,こういう話題だったので,久しぶりに買い求めました(昔,「地図ニュース」と言っていた頃に定期購読していたことがあるのですが)。
冒頭記事の「地図であえる仙台120年の変遷」(中島秀敏:国土地理院東北地方測量部長)。タイトル文字の下に 明治21年測量 2万分1迅速測図「仙臺」 から市街地中心部の切り取って掲載してあります。この地図は,わかりやすい。
鉄道が結構大胆に市街地に入り込み,しかし停車場北方で 名掛丁(?) を横切る所以外は微妙に家屋密集地を避けている(この地図によれば)のが読み取れます。
なお,この記事にも以下のような記述があります。

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…当初の予定では,現在の宮城野貨物線とほぼ同じルートでまっすぐに塩竈に向かう形で建設し,駅は現在の宮城野貨物駅付近に設けられる予定であったという。しかし,強力な駅誘致運動によって駅は市中心部に近い現在地に建設され,それに伴って路線も大きく西に迂回することになった。この地形図からも,その経緯をうかがい知ることができよう。
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なぜ今月号が「仙台特集」かというと,10月23日(木)〜26日(日)に仙台で「地図展 2008 in 仙台」(主催:国土地理院,財団法人日本地図センター ほか)が開催されるからであるようです。

[67033] 2008 年 10 月 15 日 (水) 23:46:44 山野[揖斐の山] さん
 新市名の結果

下田地区の新市名の公募結果が出ました。
1位:伊豆下田市
2位:下田市
3位:南伊豆市
という思っていた通りの結果になりました。
中には「黒船市」というのもあったそうな。
12月の合併協議会で新しい市の名前を決める予定です。

[67032] 2008 年 10 月 15 日 (水) 21:41:19 クハ221−1 さん
 四国の標識

[67025]じゃごたろさん
これは上記の市だけのものではなく、主に指定区間の国道(国土交通省の管轄国道)では多くみられるものでして、徳島県の美波町などでも同様な表記がされていました。しかし香川県は例外なのか、さぬき市とか東かがわ市なんかは同様の措置が採られてもいいと思うのですが、そのような例を見ることができませんでした。

香川県でも、「志度」「長尾」と普通サイズのフォントで記されていて、上に小さなフォントで「さぬき市」と書いてあったりする標識がありますよ。
徳島県では、その逆で、「吉野川市」と普通サイズで記されてあって、下に小さなフォントで「鴨島」と書いてあったりします。

[67031] 2008 年 10 月 15 日 (水) 20:43:16 はやいち@大内裏 さん
 市制施行

「愛知県三好市」の是非については過去ログやアーカイブ三好町の選択などにおいて多く言及されていますが、
一度は市制を見送った三好町に刺激を与えたという、東浦町の市制施行のほうはあんまり注目されていませんね。私はそちらが気になりますけれども。
東浦町役場 今月の人口によると9月末現在で49,876人、順調に増えているようです。

[67030] 2008 年 10 月 15 日 (水) 20:16:34 スカンデルベクの鷲[大龍エクスプレス] さん
 愛知県三好市の実現は厳しい?

[67017]の続きですが、このような記事が有りました。
三好市長の同意必要 市名問題で総務省見解(中日新聞)
記事を見ると、愛知県『三好市』の実現は、厳しいと思います…。

[67029] 2008 年 10 月 15 日 (水) 12:08:40【2】 アルバトロス さん
 相模原市新区名案募集

こんにちわ、アルバトロスです。

相模原市は、2010年4月に政令指定都市移行を予定して、7月に区割りを3区制に決めましたが、その3つの区名をを募集しています。募集期間は10月15日から11月14日まで、応募は無記名で市内外、誰でもできます。
くわしくは相模原市へ。ホームページ左側に新区名案募集のバナーがありますので、そこをクリックすると特設サイトへ。

訂正(2):特設サイトへ行くのを一本にしました。

[67028] 2008 年 10 月 15 日 (水) 11:12:26 はやいち@大内裏 さん
 三陸

岩手県大船渡市と陸前高田市は住民発議による法定協議会設置議案をともに10/27に採決する予定です。

[67027] 2008 年 10 月 15 日 (水) 03:18:08 笠津前浜 さん
 はしにきをつけろ/四国の道

[66984] 2008 年 10 月 11 日 (土) 15:34:32 伊那谷 さん
また、同じ中国地方の指定市の先達である広島市も商業の中心・紙屋町が広島駅からかなり離れていたという印象があります。
どうもこれらを見ていると残念でならないのですが、そもそもは鉄道駅が町外れにつくられたことにより生じたことで仕方がないのかなあ、とも思います。

広島駅から紙屋町は、実際の距離以上に遠く感じるんですね。(※個人的な感想です)川を二つも越さないとならない、というのが心理的な壁になっているのだと思っています。それから駅前を含め胡町あたりまでは賑やかな箇所がなく、ただ広い道を淡々と歩くようになるためもありましょう。広電も乗車距離のわりには時間がかかりますし。

[67025] 2008 年 10 月 15 日 (水) 01:41:24 じゃごたろ さん
高知県の場合、もともと「中村」となっていた(であろう)標識は、通常のフォントサイズで「四万十市」となり、その下に小さなフォントサイズで「(旧中村)」という旧自治体目を併記させています。
この夏、寒風山トンネルを走りに行ったばかりです。(旧中村)という表記を見て、軽く驚くと同時に、旧自治体名を併記してあるのは各方面への配慮かな、と思ったものです。国道32号上には小さい文字で「三好市」その下に比較的大きく「池田」とある標識もありました。(通られました?)

高知県ではどうかというと、その案内標識の「↑」「→」「←」の交点の場所にアルファベットが表示されています。そして主要な交差点にはアルファベットの交差点名が付されているのです。
これには戸惑いました。はじめは、このアルファベットはいったい何のことだろう…と考えてしまいました。慣れると便利なのでしょうか…。

しかし、交差点名が単なる「A」とか「Z」と表示されるのは味気ないものですね。
まったくです。

[67026] 2008 年 10 月 15 日 (水) 02:29:17 YT さん
 明治6年の都市人口

[67006] hmtさん

面積単位の換算の考察ありがとうございます。度量衡法制定前の里が短かったための補正かと思いましたが、メートル法採用の際に伊能忠敬の道具を採用したということは、度量衡法制定前と後でも長さの単位はほぼ同一だったのですね。

[66954] 『日本地誌提要』に基づき明治6年1月1日調の都市人口を追加しました。あらためて明治8年の「共武政表」の人口と比較すると、「共武政表」の統計の大部分が明治6年1月1日調のものを流用していることがわかります。こうしてみると4度まとめられた「共武政表」の人口統計は、都市人口の統計として妥当なのか怪しく感じられますね。

一部の都市で『日本地誌提要』と「共武政表」に大きな差が見られますが、「共武政表」側がDID的な都市圏人口を算出したことによる違いと思われます。鹿児島などの都市は隣接する地区を合計して膨れ上がっていますが(でも江戸時代の鹿児島の人口統計はこれらを含んでいたと思われます)、一方で名古屋は「共武政表」側の数字の方が低なっています。熱田の人口が明治6年のものが採用されているので、名古屋の人口も明治6年のもののようですが、確か名古屋は行政上は当初一部田畑地区を含んでいたとどこかで読んだ記憶がありますので、名古屋の場合は逆の結果になったのでしょう。もっとも富山やら島原やら、結局何を基準に行政区を算出しているのか訳が判りませんが。

ちょっと気になった点は、よく「明治初年の段階で金沢の方が名古屋よりも人口が多かった」と言われておりますが、
(1) 明治6年の段階で金沢の人口は名古屋よりも1万5千人ほど少ない。
(2) 明治12年の段階で金沢の人口は減っているが、名古屋はもっと減っており、その差は6千人にまで縮まっている。
(3) 明治13年以降名古屋の人口は増加に転じており、その差は広がる一方。
という感じて、少なくとも自分が集めた統計では明治以降金沢が4位都市であった時期は確認できませんでした。

まあ明治4年までは日本中の使府藩県の中で金沢藩が一番人口の多い行政区域ということになっていたのは事実ですが。

[67025] 2008 年 10 月 15 日 (水) 01:41:24 じゃごたろ さん
 (旧中村)

こんばんは、じゃごたろです。
三連休+αで四国一周の活動をして帰還しました。しかし復路では、東名高速の集中工事なんぞが始まってしまい、その渋滞を避けるため通行が中央道へ集中し、前後ほとんどトラックだらけでした。何しろ、小牧JCTでは一台も名古屋方面へ向かう車がなく、すべての車が中央道へ流入する始末でしたから。もちろん、経県値もアップップーです。

さて、またまた案内標識のネタです。

市町村合併があった後の案内標識の自治体名は、新しい自治体名に置き換わるか、空白になるか、もしくはローカルな路線ではそのまま残るというのがほとんどだと思います。でも四国ではそれとは違った対応が多く見られました。それは、新旧の自治体名を併記させるというもの。

高知県の場合、もともと「中村」となっていた(であろう)標識は、通常のフォントサイズで「四万十市」となり、その下に小さなフォントサイズで「(旧中村)」という旧自治体目を併記させています。愛媛県の場合はまた異なり、もともと「伊予三島」となっていた(であろう)標識は、通常のフォントサイズで「三島」となり、その上に小さなフォントサイズで「四国中央市」と併記させています。

これは上記の市だけのものではなく、主に指定区間の国道(国土交通省の管轄国道)では多くみられるものでして、徳島県の美波町などでも同様な表記がされていました。しかし香川県は例外なのか、さぬき市とか東かがわ市なんかは同様の措置が採られてもいいと思うのですが、そのような例を見ることができませんでした。


上とはまったく別のものですが、高知県、特に高知市でみられた案内標識にも特徴がみられました。案内標識の「↑」「→」「←」の方向がどの交差点で右左折すればいいのか迷うことがたまにあります。そのため事前に「○○m」という標識を設置して、判断しやすいようにしていますが、中心市街地では短い間隔で交差点が連続するため、やはりわかりにくい場合もあります。

高知県ではどうかというと、その案内標識の「↑」「→」「←」の交点の場所にアルファベットが表示されています。そして主要な交差点にはアルファベットの交差点名が付されているのです。通常の交差点名は長い名称のものもあり、それを案内標識に長々と表示するわけにもいかないでしょうし、一文字の方が瞬時の判断が可能です。また外国人運転手でも理解できるメリットがあるのでしょう。

しかし、交差点名が単なる「A」とか「Z」と表示されるのは味気ないものですね。


余談ですが、国道11号で東かがわ市を通過した際に駅を見つけて、「ここが、かの有名な三本松か」と思ったのでした。おしまい。

[67024] 2008 年 10 月 15 日 (水) 01:00:55 牛山牛太郎 さん
 スペース

みなさま、おばんです。

[67019] 2008 年 10 月 14 日 (火) 21:39:29【2】 Issie さん。

ところで,仙台付近で“不自然なカーブ”といえば,東北線から分かれて東へ大きく迂回している仙山線。これが「仙山東線」として開通するのが1929年のことなのですが,早い話,これが当時の仙台市街地の北東〜北方面の輪郭に相当するのですね。

それと仙台駅の西側には、市街地化が進んでいたために、新たに線路を敷設する場所がなかったこともあげられます。
それで、西へ向かう線路を仙台駅の東側から分岐させて、さらに東北本線をオーバークロスするという手段をとるために
(西へ分岐する路線は、当然ながら駅の西側から分岐するのが望ましいです)、あのような強引な線形が作られました
………らしいです。

[67023] 2008 年 10 月 14 日 (火) 23:59:07 YSK さん
 仙台駅

現在の仙台市街地における繁華街の核はJR仙台駅西口を中心としたエリアと、一番町通と中央通とによって構成されるアーケード街を中心としたエリア(中心は広瀬通一番町付近)とです。双方は約1キロメートルほど離れておりますが、アーケード街で有機的に繋がっているため、人々の動線が確保され、ほぼ一体的な市街地を構成しています。

[67019]Issieさん
お話を拝見いたしましたが、仙台経験が相対的に長い私の意見は少し違います。

まず、明らかな誤りは、「芭蕉の辻」は大町と東一番丁の交点ではなく、大町と奥州街道筋(現在の国分町通)の交点です。ちなみに、「一番丁通」「大町通」という表現も厳密に言えば誤りで、それぞれ「東一番丁」「大町」とするのが正しいです。仙台的な語感では、「○○通」というのは「○○」へ通じる道及びその道沿いの町という意味です。芭蕉の辻以南の奥州街道筋は「南町」と呼ばれていましたが、その南町へ通じる東西の通りが「南町通」と呼ばれました。この通りは市電通りとなったため戦前から拡幅されまして、現在でも仙台市街地における重要な通りとなっています。一見市街地の南側を貫通する通りだからその名があると錯覚しますが、本来は当時一大繁華街であった南町へと通じる通りであるという意味でして、市電開通前は本当に細い路地であったようです。

仙台城下町建設にあたって、ベースラインとなったものが、南北の奥州街道筋と東西の大町で、大町は仙台城大手門から広瀬川の大橋を経て、まっすぐ城下を東西に貫通する目抜き通りでした。その交点が「芭蕉の辻」と呼ばれ、高札場ともなった、仙台城下町の一大結節点でした。現在では相対的に市街地の中心部から外れ、多く集積してきた卸売業等の店舗も郊外の卸町等に移転し、やや寂れた印象のエリアとなっていますが、日銀仙台支店をはじめとした金融機関は現在でも集積していまして、町の中心たる面影もまた残すエリアです。

大町は東に向かって新伝馬町(しんてんまち)、名掛丁(ながけちょう)を経て二十人町、原町へと至り、陸前浜街道筋へと連接しました。城下町時代から近代にかけても多くの商店が集まる中心市街地として繁栄していました。この大町〜新伝馬町〜名掛丁のうち、一番町通以東が現在「中央通」と呼ばれるアーケード街となっています。

一方で、現在の仙台駅のあるエリアは、北東に祀られる東照宮から南へ、宮町、東六番丁、清水小路を経て、藩政期は大寺であった大年寺へと一直線に繋がる堂々たる門前町通が形成されていまして、この周辺を中心市街地内に組み込む都市軸として機能していました。宮町は現在でも東照宮に向かって直線的な道路としてあり、清水小路は、東五番丁と一体となり、現在の「愛宕上杉通」となっています。東六番丁はといいますと、実はこの通りこそ、現在の仙台駅のある場所にあたります。仙台駅舎及び鉄路は東六番丁筋をまるまるつぶす形で完成しております。結果として上述の門前町を連接する南北の通りは遮断され、また当時繁華街であった名掛丁も東西に分断され、仙台市街地の都市構造は大きな影響を受けることとなります。特に名掛丁東部以東の陸前浜街道筋はさびれていくこととなります。

以上のような認識から、仙台駅のある場所は必ずしも「町外れ」ではなく、当時栄えていた町場の一部をまさしく“縦断”し、当時の人々の感覚では中心市街地の一部を横切ったように映ったことと思います。まあ、中心市街地の本当に中心という意味ではやや東にずれた位置ではありますが・・・。せめて宮町〜東六番丁〜清水小路の幹線を壊すことなく、その東に隣接して駅ができればまた違っていたのでしょうが、既存の住宅地域をなるべく壊さないように鉄路を通すため、当時直線的に繋がっていて土地を確保しやすかった東六番丁が駅舎の適地とされたのでしょう。

なお、

当初は長町方面からほぼ直線に現在の 宮城野貨物駅 付近を通過してそこに駅を設置する計画であったものを,住民の運動によって市街地に“できるだけ近いところ”まで線路を引き込んで,現在の位置に駅が設置されることとなった,という話が伝えられています。

というご説明は、仙台関連の多くの書籍で散見される内容ですね。

なお、仙台駅東口は「東○番丁」などの町場が割り出された足軽などの居住地及び市街地から移転された寺院が集積する寺町(新寺地区や連坊地区)でして、戦災が少なかったことから高度経済成長期も低層の住宅地域や寺院、近隣商業エリアが交錯するエリアでしたが、1970年代半ば頃から順次土地区画整理事業が進められ、「宮城野通」を中心とした現代的な都市地域へと生まれ変わりました。現在は、旧仙石線の鉄路が通ったエリアより北、二十人町から鉄砲町にかけてのエリアで土地区画整理事業が進行中で、完成の暁には、西口の広瀬通と繋がった一大幹線道路がエリアを貫通する予定となっています。

[67022] 2008 年 10 月 14 日 (火) 22:57:49 むっくん さん
 北海道一級・二級町村制&指定町村制(補足)

[67007][67008]拙稿で北海道一級町村制、北海道二級町村制、指定町村制の施行地指定の紹介をしましたが、一点見落としがありましたので追記します。


(6’)内務省令第7号(M42.3.17)で19村が北海道二級町村制施行地として指定されました。19村にはM42.4.1より北海道二級町村制が施行されました。

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次は市区町村変遷情報との比較です。[67008]拙稿で市区町村変遷情報と内務省令&内務省告示の比較をしましたが、見落としていた点がありましたので追記します。

内務省令第19号(M33.5.19)では
27 1900.07.01 新設/町制 檜山郡江差町 檜山郡 東新町, 北新町, 中新町, 川原新町, 片原町, 詰木石町, 豊部内町, 九艘川町, 中歌町, 姥神町, 津花町, 浜茂尻町, 酒田町, 新地裏町, 新地町, 法華寺町, 上野町, 佐平治町, 弥陀堂町, 切石町, 影ノ町, 沢茂尻町, 中茂尻町, 小平沢町, 碇町, 寺小屋町, 五勝手村
と五勝手“村”となっていますが、市区町村変遷情報では
27 1900.07.01 新設/町制 檜山郡江差町 檜山郡 東新町, 北新町, 中新町, 川原新町, 片原町, 詰木石町, 豊部内町, 九艘川町, 中歌町, 姥神町, 津花町, 浜茂尻町, 酒田町, 新地裏町, 新地町, 法華寺町, 上野町, 佐平治町, 弥陀堂町, 切石町, 影ノ町, 沢茂尻町, 中茂尻町, 小平沢町, 碇町, 寺小屋町, 五勝手町
と五勝手“町”となっています。

内務省令第7号(M35.3.13)では
76 1902.04.01 新設/町制 美国郡美国町 美国郡 小泊村, 船澗村, 厚苫村, 幌武意村, 婦美村
99 1902.04.01 新設/町制 浦河郡浦河町 浦河郡 浦河村, 向別村, 後鞆村, 井寒台村
103 1902.04.01 新設/町制 河西郡帯広町 河西郡 下帯広村, 荊苞村
と成立したのは町となっていますが、市区町村変遷情報では
76 1902.04.01 新設/村制 美国郡美国村 美国郡 小泊村, 船澗村, 厚苫村, 幌武意村, 婦美村
99 1902.04.01 新設/村制 浦河郡浦河村 浦河郡 浦河村, 向別村, 後鞆村, 井寒台村
103 1902.04.01 新設/村制 河西郡帯広村 河西郡 下帯広村, 荊苞村
と、成立したのは村となっています。

内務省令第1号(M39.2.22)では
138 1906.04.01 新設/村制 岩内郡前田村 岩内郡 前田村, 老古美村, 梨野舞納村, 幌似村の一部
139 1906.04.01 新設/村制 岩内郡発足村 岩内郡 発足村, 幌似村の一部
と幌似村は前田村及び発足村に編入されますが、市区町村変遷情報では
138 1906.04.01 新設/村制 岩内郡前田村 岩内郡 前田村, 老古美村, 梨野舞納村, 幌似村
139 1906.04.01 村制 岩内郡発足村 岩内郡 発足村
と幌似村は前田村のみに編入されることになっています。

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[67009]紅葉橋律乃介さん
原文が「川今村」だとすれば、「川合村」の誤記ではないでしょうか
フォロー有難うございます。おそらく「川合村」の誤記で間違いないと思います。

「蒼瑁」(あおしまい)と「珸瑤瑁」(ごようまい)である
どうやらA(A:おうへんに冐)という記載がそもそも正確性を欠く記述でした(汗)。正確にはA(A:おうへんに胃、ただし胃の田を日に換える)という漢字のようです。

私は漢字の旧字体・異字体の知識をほとんど有していませんので、現在の表記でどの漢字で記載するのが適切なのかと問われても、判りかねますが。。。

[67021] 2008 年 10 月 14 日 (火) 22:55:37 hiroroじゃけぇ さん
 核の分散は大小ではない。

[67014]ペーロケ さん
12日の日曜日にアンパンマン列車に乗られたのでしょうか?もし、午後(夕方の便)に乗られたのであれば、同じ時に瀬戸大橋線ホームに居たことになりますね。

核が大きいことって、そんなに重要なことでしょうか?私は別に、地方都市が小さな政府を目指しても、小回りが利く面もあり、それなりにメリットがあるように思います。
確かにその通りで、自治体の責任として、最も重要なのが「住民が住みやすい街づくりをすること」にありますよね。それを実現しようとすると、政策の大小こそあれ、財源の確保は必要不可欠です。ですから、当然小さい核よりも大きい核の方が財源が豊富になり、街づくりがしやすいと考えてもいいでしょう。それの一つの形が「政令指定都市」ですよね。勿論、「政令指定都市」でも財源が厳しいのは周知の事実。でも、それは小さな核、小さな自治体よりも破綻のリスクは低い。だからこそ、思い切った政策が採れ、一極集中を招くのだと思います。

長浜市のように元気な地方都市も存在します。
児島もそうなれるでしょうか?中心商店街であった「味野商店街」はアーケードを撤去し、明るく開放感のある商店街を目指しています。しかし、駅からの距離などから、未だにその政策が実っていません。要は、交通の利便性にもよるのですね。とにかく、元気都市「児島」を目指しましょう。

[67018]伊豆之国 さん
「西身延妙本寺」
・・・、すみません知りませんでした。岡山で日蓮宗といえば「最上稲荷」でして、それ以外の寺院は有名ではないのが現実です。「稲荷」なのに仏教?と思われるかもしれませんが、これは明治時代の「神仏分離」によるものだそうです(お年寄り談)とまぁ、話が横道にそれましたが、そのような寺院があったとは驚きです。元々、岡山県は宗教家が多いのも特徴の一つなので、その関係かもしれませんね。

[67020] 2008 年 10 月 14 日 (火) 22:00:04 おがちゃん[日本人] さん
 あれから136年・・・

こんばんは。日本人です。
1872年10月14日に日本初の鉄道が開業してから136年目の記念日の今日です。
それまでの間に、蒸気機関車から新幹線、リニアモーターカーまでさまざまな鉄道が開発されていました。136年の間にこれだけ進歩するというのは、人間の科学的な能力のすごさを実感します。

さて、三好町についてですが、僕も[67017]大龍エクスプレスさんのように、三好市となるのは賛成できません。しかし、何が何でも賛成できないのかといったらそうではなく、似たようなことが[24600]周辺の多数の記事に書かれていますが、(その時は佐倉市とさくら市についてです。)その2つの市町に関係が無い限りあまり困ることも無いかと思います。ただ、三好町の市制が実現して「三好市」となった場合には、「みよしし」と言うだけで3つの市のどれだか分からなくなってしまいます。

#個人的に言ってしまうと、三好町の市制時の名前問題より町村人口順位第一位の座が滝沢村になるほうが大ニュースのような気がします。

#ところで、「クイ図」はいつ出題されるのでしょうか。まあ、まだ早いでしょう。

[67019] 2008 年 10 月 14 日 (火) 21:39:29【2】 Issie さん
 仙台駅も街外れ

[67015] ペーロケ さん
市の中心部に駅を作ることができた珍しい街といえば仙台が挙げられますね。

現在の仙台駅を見れば,確かに“市の中心部”に建設されたように見えますが,仙台駅が開設された1887(明治20)年の段階では,やはり仙台市街地の縁辺部にありました。

東北本線がわざわざ市の中心部に向けて迂回しており

仙台駅の場合,当初は長町方面からほぼ直線に現在の 宮城野貨物駅 付近を通過してそこに駅を設置する計画であったものを,住民の運動によって市街地に“できるだけ近いところ”まで線路を引き込んで,現在の位置に駅が設置されることとなった,という話が伝えられています。
あの“不自然な曲線”は,できるだけ直進したい鉄道側と,できるだけ市街地に引き付けたい地元側との均衡点なのでしょうね。
結局,仙台駅が設けられたのは,南北方向の 一番丁通 と東西方向の 大町通(? …私,仙台城下町の都市構造に詳しくはないので,当時と現在の地図から,ある程度“当て推量”で書いています。まちがっていたらごめんなさい)という2本のメインルートが交差する 芭蕉ノ辻 を中心とする中心市街地(元の町人町地区)からやや離れた元の武家地区(どちらかというと中級以下か?)でした。
無理やり市街地に近い所に引っ張り込んだせいで,ほかの都市よりも既存の宅地を潰す率は高かったようにも思いますが(裏返して言えば,仙台が“それだけの規模”を持った大城下町だったということでしょう。さすがは,家康に丸め込まれて百万石になり損ねた 伊達60万石 の城下町!),それでも大町通から東へ 二十人町 から 原町 へ伸びる街路沿いの住宅密集地を横切る手前で仙台駅の構内は終わっています(現在も!)。やはり,既存市街地に入り込むことをできるだけ避けようとはしているように見えます。ただ,このロケーションのおかげで,1905(明治38)年段階で 仙台駅前(西口) がようやく密集市街地の東隅に仲間入りしています。“駅裏”の東側には密度の低い宅地しかなく,後にこちら側は鉄道用地として大々的に買収されて機関庫や操車場が設置されることになります。
ちなみに,現在の 宮城野貨物駅 のある辺りは1905(明治38)年当時,陸軍の「宮城野原練兵場」となっており,周囲は畑または水田。ついでに,行政上は 仙台市 に含まれず,宮城郡原町 に所属しています。

一言で言えば,“不自然なカーブ”を描く仙台付近の線形は,同じようにできるだけ既存市街地に近づこうと不自然なほど南に迂回している「大阪梅田停車場」と似たパターンなのかもしれません。

ところで,仙台付近で“不自然なカーブ”といえば,東北線から分かれて東へ大きく迂回している仙山線。これが「仙山東線」として開通するのが1929年のことなのですが,早い話,これが当時の仙台市街地の北東〜北方面の輪郭に相当するのですね。

…というわけで,「鉄道駅は街外れ」説から見て,仙台もまた 例外 ではないのですね。

※蛇足ながら,伊予鉄の 松山市駅 や 古町駅 のロケーション,あるいは法規上「鉄道」である 城北線 のルート(一部で変更がありますが)のいずれの点でも,「鉄道が通るのは街外れ」という“原則”に照らして,松山はその典型的な例の1つです。

[67018] 2008 年 10 月 14 日 (火) 20:41:04【1】 伊豆之国 さん
 鉄道博物館開業一周年

鉄道博物館が開業してから、今日でちょうど丸一年。そこで、まず「鉄ネタ」から。
[66880]に書いた「You Tube」の「鉄」系映像、いまだ病みつきになっています‥

[67011]hiroroじゃけぇさん
[67001]Issieさん
「備南電鉄」についての詳細
が書かれているHPがありましたのでここに紹介します。玉野市電保存会

さて私ですが、一昨日の夜、池上本門寺の「お会式」を見てきました。「お会式」を見に行ったのは20数年ぶり、まだ池上線が緑の旧式電車ばかりだった頃以来です。池上線の車両は入れ替わり、最新鋭の新車も入ってきましたが、池上駅のたたずまいは昔のまま。そして華やかな「万燈行列」を眺めながら参詣してきました。ところでその「万燈」を奉納している寺院、近在のものが多いのですが、中には遠方の寺院もいくつかありました。その中から気になったものを‥
・「藻原寺」‥「お題目初唱の地」と書いてあり、「茂原」の字も見えたのでネットで調べてみると、やはりN-Hさんの故郷・茂原市にある寺院でした。茂原市HPを見ると、
日蓮お題目初唱の霊場として、日蓮宗の中でも最も古い歴史をもつお寺の一つです。身延山に対して「東身延」と称されています
とあります。
「西身延」もありました。
・「西身延妙本寺」‥「備中 野山 西身延」と書かれていたので、「岡山からはるばる来たのか‥」と感心。こちらもネットで調べたところ、どうやら岡山県吉備中央町にあるこの寺院のようです‥。寺のHPによると
日蓮聖人に帰依(信者)された鎌倉の武士伊達弾正朝義公が当地に地頭として赴任し、弘安4年(1284)にその館の北東の丘に創建されたことに始まります
伊達公は弘安3年9月、日蓮聖人へ是非来ていただきたく身延山に赴きます。しかしながら当時、山梨は身延山に身を寄せていた日蓮聖人は、「身延隠棲は訳あっての事」と断られます。変わりに12歳だった経一丸(後の日像上人)を遣わすお約束を交わし、大曼荼羅ご本尊を一幅と、山号寺号を賜ります。当山の山号の「具足山」、寺号の「妙本寺」は宗祖日蓮聖人から賜った名前です
とあります。hiroroじゃけぇさん、ご存知でしたか?

[67017] 2008 年 10 月 14 日 (火) 20:20:01 スカンデルベクの鷲[大龍エクスプレス] さん
 お久しぶりです/三好市(徳島)VS三好町(愛知)

お久しぶりです。ちょうど1か月ぶりです。
それでは、早速話題に反応していきたいと思います。

[67016]やまびこ打線さん
僕は、同じ市名はつけない方がいいと思います。なぜなら、市区町村雑学 高田市ってどこにあるの?のような、市の同名回避の例がたくさんあるのは、同名の市をつくらないために、旧国名をつけたりするなど、対策をとっているのだと思うので、同名の市はつくらないほうがいいと思います。
#しかし、人口的には、三好町(愛知)の方が『市』な気がする…。

[67016] 2008 年 10 月 14 日 (火) 14:15:48 やまびこ打線 さん
 三好

「三好市」名乗れるか三好町 先行する徳島県の市長が反対 (中日新聞)
http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20081013/CK2008101302000041.html

「池田」を支持する関係者が三好町関係者に入れ知恵したかも知れないと思うのは勘ぐりすぎでしょうか。

[67015] 2008 年 10 月 14 日 (火) 02:28:58【1】 ペーロケ さん
 仙台駅

[66984]伊那谷さん
そもそもは鉄道駅が町外れにつくられたことにより生じたことで仕方がないのかなあ、とも思います。
 ある程度の都市は地価や住民立ち退きの手間の関係で、郊外に作られることが多いのですが、政令指定都市の規模を持ちながら、市の中心部に駅を作ることができた珍しい街といえば仙台が挙げられますね。まず東北本線がわざわざ市の中心部に向けて迂回しており、さらに後でできた東北新幹線までもが新幹線としてはかなり不自然なカーブを用いてまで、仙台駅に乗り入れています。あのカーブは(メンテナンス用の車両も含めて)おそらく仙台駅を高速で通過する車両はないということが前提なんでしょう。よく見ると東側に貨物線があり、これ沿いに行けば新幹線らしい線形になりますが、当初の計画はこの線形であり、新大阪みたいに仙台駅の隣に「新仙台」という駅の新設といった計画でもあったのかもしれません。しかし、市の中心部にわざわざ「迂回する」現在の線形になったが故に、仙台市の発展に貢献しているような気もします。

[67014] 2008 年 10 月 14 日 (火) 01:58:06 ペーロケ さん
 伊予うどん他

 ワタクシ、[66958]にて、くるりんを「圧倒的に高い建造物」と書きましたが、実は、城山の東側に巨大なテレビ塔が建っていることをうっかり忘れてました。標高が高いところにあることもあり、頂上の高さは松山城よりも確実に高いはず。昔から邪魔くさいなあと思っていましたが、地デジ化を契機に、御幸寺山らへんに移転しないかなあ。。。

 2連休を使って、伊予路に行きました。[66974]でも書きましたが、新幹線で岡山乗り換え、アンパンマン列車で瀬戸大橋というルートでした。岡山駅では乗り換えの時間もあったので、少し散策しました。新しくなってからは初めてでしたが、ずいぶん変わりましたね。なんかコンパクトになったというか、四国方面のホームが一つに集約されていて、分かりやすかったですね。坊ちゃん列車も、実は初めて乗りました。子供は大興奮。以前閉園前のチボリ公園に行きましたが、完成度が比較になりません。街全体をテーマパークにしてしまった伊予鉄、次は何を作ってくれるのか楽しみです。
 ところで、子供がいると行きたい所へ行きづらいのなんの。湯めぐりパスポートも結局1か所しか行けませんでしたし。しかし、「元祖伊予うどん」を称する店を発見、こんな店聞いたことないなあと思いつつ入ってみると、メニューは「釜揚げうどん」のみ。で、15分ほど待って出てきたのが、大きな釜揚げ麺のタライ。ここからみんなでつついて食べるというスタイルなんですけど、麺は讃岐うどんというよりは、[64781]かぱぷうさんの博多うどんの固さに近いかも?だから何とも取りづらい。。。新鮮っちゃあ新鮮ですが、私は讃岐のシコシコの方が好みですね。で、勘定の際、奥さんに「いつからお店出しているんですか?」と聞いてみたところ、「実は2年前からなんですよ」との返答。なるほど、どうりで知らないわけだ。というか、元祖っていったい??しかし、結構並んでいるお客さんがいて、人気店のようですね。実は伊予うどんブームだったりして。。。

[66962]中島悟さん
[66884]じゃごたろさん
ややこしい郡名と言えば、過去に北宇和郡の北に東宇和郡が、さらにその北西に西宇和郡がありました。もっとややこしいことに、東宇和郡は現在、(旧西宇和郡三瓶町も含めて)西予市となっています。ここは一体、東?西?どっちなんだろう。
 駅名でややこしい例は、JR向日町駅の西に阪急京都線の東向日駅があり、さらに南に西向日駅があるあたりがまっ先に思い浮かびます。[11630]まがみさん参照。

[66980]N-Hさん
[66976]hiroroじゃけぇさん
 ものは考え様、別の言い方をすれば、倉敷市は4つの10万都市(倉敷、玉島、水島、児島)からなる合衆国なので、必然的に小さな政府になってしまい、逆に岡山市は有力地方都市が西大寺くらいしかない中央集権的な都市ですね。どっちが良いかは別問題ですが、核が大きいことって、そんなに重要なことでしょうか?私は別に、地方都市が小さな政府を目指しても、小回りが利く面もあり、それなりにメリットがあるように思います。巨大都市東京にもシャッター商店街やら、高齢化が著しく進んだ団地があるようですし、その逆に長浜市のように元気な地方都市も存在します。要はアイデア次第です。
 ただ、イオン倉敷はあまりに巨大ですね。広島最大のイオンモール広島府中ソレイユよりも大きい、中四国最大のマンモスイオンは倉敷の商店街にとってはとてつもなく脅威でしょう。倉敷にはほかにイオン水島なんてのもありますしね。

[67013] 2008 年 10 月 13 日 (月) 22:59:31 小松原ラガー さん
 勿論正解です。

小松原ラガーです。

海外からの初書き込みです。場所は・・・おっと、ネタは残しておきます。^^;

[66989] YASU さん

勿論、問一、問二共に正解です。

どちらの方向に進んでも「いわゆるボトルネックの区間」があるので、何ともいえないのですが・・。

そうなんですが、この「ボトルネック」ですが、その両側が交通の便がよいのに、その区間だけがイマイチという状態になるかと思います。とすると、問題文中のA市から南に行っても北(正確には北西)に行っても列車の本数は先細りするばかりで、明確なボトルネックとはなかなかなりえないのです。あり得るとしたら東西方向ですが、西の場合も一見該当しそうですが、在来線でB市からC市までが30分というところで「ほんまか?」となります。一方、東方面では2つのルートが考えられますが、これも「新幹線と並走」というところで、非電化区間のあるK本線ではなく、オーソドックスにT本線となります。特に、K本線では考えられるB市、C市の間がやはり30分程度では到達できなかったりします。

ということで、オーソドックスに考えて頂ければ自ずと正解が出てくるかと思います。尚、D市からF市ですが、確かにE市のある県を通らないルートもあるでしょうが、なかなかメジャーなルートとはなっていないのが実情ではないかと思います。和歌山県橋本市が和歌山市よりも大阪市・堺市方面と結びつきが強いというのと同じ理由で、やはりE市の「引力」の影響を受けているということだと思います。ということで、今回の小松原ラガーも素直にE市を経由して行きました、とさ。

以上、お付き合い頂き、有難うございました。

[67012] 2008 年 10 月 13 日 (月) 22:36:23【1】 白桃 さん
 ♪シティとタウンの間には深くて暗い川は・・・ない

[67005]千本桜 さん
やっぱりシティだそうです
私、こういう書き込みを見るとすぐ飯能市、富田林になってしまいます。三好市です。(意味不明)
私、残念ながらカナダには行ったことがありません。(埼玉県富士見市の「かなだ」には乗り過ごしのためフィールドワーク?を兼ねて一人で宿泊したことがございます・・・)
けど想像ですが、カナダは北海道以上に国土に密と疎があることでしょう。そして、北海道以上に都市への人口集中はおきていると推測します。そういう地において極論すれば、シティはあってもタウンは無いのじゃないでしょうか???。カルガルしくは申せませんが、そのカナダの方にとって、仙台はカルガリー、大河原はビクトリアぐらいに映ったのじゃ有馬温泉?。ここまで書くと、45年以上前の人口しか覚えてない地図帳ファンの方は「あらっ?」と思うでしょう。たしかに、当時のカルガリーは人口順位において、バンクーバー、エドモントン、ウィニペグ、ケベックあたりよりも下の下、であったのですが、南砺、今のカルガリーは、トロント、モントリオールに続いて、いや、モントリオールを追い抜きそうな勢いにあり、日本でいえば、北九州市ぐらいの人口規模にあるようです。
だいぶ脱線いたしましたが、とにもかくにも大河原は「カナダ人もビックリ」のシティであることは間違いないでしょう。でも、村田町に着いたカナダ人は、村田のことを「シティ」と感じるかも、いやいやひょっとすると、金ヶ瀬もシティと感じる加茂市。
白桃都市人口研究所は、現在、人口8万以上を「都会」としており、梓みちよではありませんが、都会は緑のインクで市名を塗りつぶしております。(これは、オーナーだけが知っております。)でも、これは米沢市をタウンに格下げしないための苦肉の策であり(人口減の米沢にあっても、いくらなんでも2010年国勢調査で8万は切らないと思います)ますが、最近、つくづく人口だけで都会を定義するのはおかしい、と思うようになりました。私も大人になったの鹿島市娘。つい最近訪れた和歌山県高野町は、4千人ちょっとの街だけど、ありや都会だわ。

そこで、関係ないけど一句。
岡山市 ウレしハズかし 政令市

と、今日の某国家試験出題に関する個人的ウヤムヤを押し殺し書いてしまいました。

訂正箇所:30年以上前の人口→45年以上前の人口(私しゃ、まだ41歳だと思ってた)

[67011] 2008 年 10 月 13 日 (月) 20:14:40 hiroroじゃけぇ さん
 広島でも岡山でもいいじゃない。

67000のキリ番を踏んじゃったhiroroじゃけぇです。同い年のk-aceさんにコメントされて気づきました。ラッキー。

[67001]Issie さん
「備南電鉄」についての詳細を解説していただきありがとうございます。地元でありながら玉野市営の歴史についてはよく知りませんでした。資料もさほどなく、図書館や本屋で少し見かける程度です。ただ、その遺構は玉野市内に残っています。歩道になったトンネル?などがありますよ。

[67004]ペーロケ さん
自分は「広島市」の町並みは好きですよ。あの落ち着いた感じは、大都市でありながら雰囲気がいい。だから、自分は広島に対抗意識はない(はず)です。

広島をこよなく愛するmikiさんでしょう。
なるほど、mikiさんの方が適任ですね(笑)中国支部長宜しくお願いします。

[67010] 2008 年 10 月 13 日 (月) 20:04:01 般若堂そんぴん さん
 こちらは村だそうです

[67005] 千本桜さん
「大河原って、シティそれともタウン?」と質問すると、「シティ。シティ。オーガワラはシティね」と即座に返してきました。やっぱりね・・・。

以前,友人の経営する店でアルバイトをしていた吉林市出身の中国人留学生によれば,「米沢はムラです」とのことでした.う〜ん,否定できない……

[67009] 2008 年 10 月 13 日 (月) 19:59:03 紅葉橋律乃介 さん
 補

[67008] 18:54:03【1】 むっくんさん
内務省告示第14号(T8.4.1)の中川郡川今村とは果たしてどこなのでしょうか、私には全く分かりません。

 原文が「川今村」だとすれば、「川合村」の誤記ではないでしょうか(M39.4.1凋寒[しぼさむ]村で二級村、T2.4.1川合村に改称。T15.7.1に池田と改めて町制)。


 本筋ではありませんが、
蒼A(A:おうへんに冐)村
珸瑤A(A:おうへんに冐)村

 辞書では「王+冒」のように、はっきりと下の部分が「目」になっていますから、これらは「蒼瑁」(あおしまい)と「珸瑤瑁」(ごようまい)であると思われ、通常表記は可能なようです。

[67008] 2008 年 10 月 13 日 (月) 18:54:03【4】 むっくん さん
 北海道一級・二級町村制&指定町村制(後編)

[67007]の続きです。

(13)次に、内務省告示第149号(T13.3.24)で6村が北海道一級町村制施行地として指定されました。6村にはT13.4.1より北海道一級町村制が施行されました。
内務省告示第百四十九號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ大正十三年四月一日ヨリ施行ス
大正十三年三月二十四日 内務大臣 水野練太郎
札幌郡 札幌村
積丹郡 余別村
上川郡 多寄村
天鹽郡 天鹽村
利尻郡 沓形村
静内郡 静内村


◎この後北海道一級町村制及び北海道二級町村制が全面改正されS2.10.1より施行されました。(公民権及び議員選挙に関する規定は次の総選挙より施行されました)。

北海道一級町村制(勅令第269号)(S2.8.27)
(中略)
第十六条 初メテ一級町村ト為ス地ハ内務大臣之ヲ指定ス
附則
(略)其ノ他ノ規定ハ昭和二年十月一日ヨリ之ヲ施行ス

北海道二級町村制(勅令第270号)(S2.8.27)
(中略)
第百五十六条 初メテ二級町村ト為ス地ハ内務大臣之ヲ指定ス
附則
(略)其ノ他ノ規定ハ昭和二年十月一日ヨリ之ヲ施行ス


(14)次に、内務省告示第51号(S6.3.18)で2村が北海道一級町村制施行地として指定されました。2村にはS6.4.1より北海道一級町村制が施行されました。
内務省告示第五十一號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ昭和六年四月一日ヨリ施行ス
昭和六年三月十八日 内務大臣 安達謙蔵
札幌郡 藻岩村
上川郡 神居村

(15)次に、内務省告示第96号(S7.5.12)で白石村が北海道一級町村制施行地として指定されました。白石村にはS7.6.1より北海道一級町村制が施行されました。
内務省告示第九十六號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ昭和七年六月一日ヨリ施行ス
昭和七年五月十二日 内務大臣 鈴木喜三郎
札幌郡 白石村

(16)次に、内務省告示第219号(S8.4.28)で鳥取村が北海道一級町村制施行地として指定されました。鳥取村にはS8.5.1より北海道一級町村制が施行されました。
内務省告示第二百十九號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ昭和八年五月一日ヨリ施行ス
昭和八年四月二十八日 内務大臣 山本達雄
釧路郡 鳥取村

(17)次に、内務省告示第101号(S9.3.3)で遠軽村が北海道一級町村制施行地として指定されました。遠軽村にはS9.4.1より北海道一級町村制が施行されました。
内務省告示第百一號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ昭和九年四月一日ヨリ施行ス
昭和九年三月三日 内務大臣 山本達雄
紋別郡 遠軽村

(18)次に、内務省告示第125号(S12.3.18)で愛別村が北海道一級町村制施行地として指定されました。愛別村にはS12.4.1より北海道一級町村制が施行されました。
内務省告示第百二十五號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ昭和十二年四月一日ヨリ施行ス
昭和十二年三月十八日 内務大臣 河原田稼吉
上川郡 愛別村

(19)次に、内務省告示第105号(S13.3.22)で6町村が北海道一級町村制施行地として指定されました。6町村にはS13.4.1より北海道一級町村制が施行されました。
内務省告示第百五號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ昭和十三年四月一日ヨリ施行ス
昭和十三年三月二十二日 内務大臣 末次信正
常呂郡 留邊蘂町
紋別郡 上湧別村
斜里郡 斜里村
三石郡 三石村
河西郡 川西村
虻田郡 虻田村


◎この後勅令第443号(S18.5.25)で北海道一級・二級町村制は廃止され、北海道一級町村は本州の町村と同等の町村となりました。勅令第444号(S18.5.25)で北海道二級町村は指定町村になりました。これら2つの勅令はS18.6.1より施行されました。
勅令第四百四十三號
市制町村制施行令中左の通改正す
(中略)
第十章 北海道ニ於ケル町村ニ関スル特例
第七十四條 4 第一項ノ町村ニシテ内務大臣ノ指定スルモノ(以下本章中ハ指定町村ト称ス)ニ付テハ前項ノ規定ニ依ルノ外町村制第七條、第四十七條、第五十七條、第六十條乃至第六十四條、第六十七條、第七十一條、第八十三條、第八十五條及第八十八條ノ規定ニ拘ラズ第八十四條乃至第九十三條ノ規定ニ依ル
(中略)
第百四十九條 2 (略)、其ノ他ノ部分ハ昭和十八年六月一日ヨリ之ヲ施行ス
3 北海道一級町村制、北海道二級町村制、樺太市制施行令及樺太町村制施行令ハ之ヲ廢止ス

勅令第四百四十四號
市制町村制等改正経過規定
(中略)
第二章 北海道ニ於ケル町村ニ関スル規定
第十九條 従前ノ北海道二級町村タリシ町村ニ付テハ市制町村制施行令第七十四條ノ改正規定ニ依ル内務大臣ノ指定アリタルモノト看做ス
(中略)
附則
本令ハ昭和十八年六月一日ヨリ之ヲ施行ス


(20)次に、内務省告示第49号(S21.5.1)で13村が指定町村の指定から外れ、本州の町村と同等の町村となりました。
内務省告示第四十九號
市制町村制施行令の規定による左の村の指定はこれを廢止する
昭和二十一年五月一日 内務大臣 三上正造
石狩支庁管内 手稲村
渡島支庁管内 知内村
檜山支庁管内 上ノ國村
後志支庁管内 喜茂別村 狩太村
空知支庁管内 幌加内村
上川支庁管内 上川村 知寒村 劍淵村
留萌支庁管内 上平蘂村
宗谷支庁管内 中頓別村
網走支庁管内 置戸村 瀧ノ上村


◎この後、勅令第467号(S21.10.4)で市制町村制施行令が改正され、S21.10.5から施行されるました。S21.10.5に指定町村という制度が廃止されてようやく北海道の総ての自治体が本州などの自治体と同一の制度に属することになりました。(勅令第468号(S21.10.4)によれば、公民権及び議員選挙に関する規定は次の総選挙より施行されました)。
勅令第四百六十七號
市制町村制施行令を次のやうに改正する。
(中略)
第七十三條 3 第十章乃至第十二章を削る
附則
(中略)
その他の規定は、昭和二十一年十月五日から、之を施行する。
(略)

----------------------------------------------------------
さて以上を踏まえて市区町村変遷情報との比較などをしてみます。

内務省告示第11号(T4.3.16)では
1915.04.01 村制 上川郡人舞村 上川郡 人舞村
1915.04.01 新設/村制 上川郡屈足村 上川郡 屈足村
1915.04.01 新設/村制 花咲郡歯舞村 花咲郡 歯舞村, 婦羅理村, 沖根辺村, 沖根婦村, 珸瑤A(A:おうへんに冐)村, 友知村
であるが市区町村変遷情報では
246 1915.04.01 村制 上川郡人舞村 上川郡 人舞村の一部
247 1915.04.01 新設/村制 上川郡屈足村 上川郡 屈足村, 人舞村の一部
250 1915.04.01 新設/村制 花咲郡歯舞村 花咲郡 歯舞村, 婦羅理村, 沖根辺村, 沖根婦村, 珸瑤瑁村, 友知村
となっています。

内務省告示第14号(T8.3.24)の中川郡川今村とは果たしてどこなのでしょうか、私には全く分かりません。

内務省告示第80号(T12.3.30)では
1923.04.01 新設/村制 野付郡別海村 野付郡 別海村, 平糸村, 野付村, 根室郡 西別村, 走古潭村, 厚別村
1923.04.01 新設/村制 標津郡標津村 標津郡 標津村, 伊茶仁村, 野付郡 茶志骨村, 目梨郡 忠類村, 薫別村, 崎無異村
1923.04.01 新設/村制 択捉郡留別村 紗那郡 留別村, 振別郡 振別村, 老門村, 択捉郡 内保村, 丹根萌村
であるが市区町村変遷情報では
355 1923.04.01 新設/村制 野付郡別海村 野付郡 別海村, 平糸村, 野付村, 西別村, 走古潭村, 厚別村
356 1923.04.01 新設/村制 標津郡標津村 標津郡 標津村, 伊茶仁村, 茶志骨村, 忠類村, 薫別村, 崎無異村
362 1923.04.01 新設/村制 択捉郡留別村 択捉郡 留別村, 丹根萌村, 内保村, 振別村, 老門村
となっています。
#択捉郡留別村については[63733](右左府さん)[63736](紅葉橋律乃介さん)で既に指摘がなされているようですが、市区町村変遷情報には未だ反映されていないようです。

内務省告示第49号(S21.5.1)の上川支庁管内知寒村とは和寒村の誤記載で、留萌支庁管内上平蘂村とは小平蘂村の誤記載で、網走支庁管内瀧ノ上村とはおそらく滝上村であると推測します。

【2】勅令第467号、勅令第468号、内務省告示第14号の日付を訂正。
【3】勅令第468号の施行日に関する記述を訂正。

[67007] 2008 年 10 月 13 日 (月) 18:53:38【1】 むっくん さん
 北海道一級・二級町村制&指定町村制(前編)

[66994]88さん
期待しています。
声援ありがとうございます。


それでは[66971]拙稿で予告した北海道一級・二級町村制の施行地指定の全文紹介です。

まずはおさらい。

◎まず北海道一級町村制は勅令第159号(M30.5.29)として公布されました。しかし施行される前に、同法は勅令第51号(M33.3.23)で修正されました。
北海道一級町村制を施行される町村は
第百十七條 此ノ勅令ヲ施行スル場合ニ於テ初メテ一級町村ト爲ス地ハ内務大臣之ヲ指定ス
にあるように内務大臣からの指定を受けることになりました。そしてその施行時期は
第百十六條 此ノ勅令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム
とあるように、これも内務大臣からの指定をうけることになります。
#北海道一級町村制の上記2つの条文は勅令第51号(M33.3.23)での改正による変更、即ち条文番号「第百五條」から「第百十六條」への変更、「第百六條」から「第百十七條」への変更、「拓殖務大臣」との文言から「内務大臣」への変更、を反映しています。

◎北海道二級町村制は勅令第160号(M30.5.29)として公布されました。しかし施行される前に、同法は勅令第37号(M35.2.22)で全面改正されました。
北海道二級町村制の施行される町村については
第六十五條 二級町村ト爲ス地ハ内務大臣之ヲ指定ス
にあるように内務大臣からの指定を受けることになりました。そしてその施行時期は
第六十四條 本令施行ノ時期ハ内務大臣之ヲ定ム
とあるように、これも内務大臣からの指定をうけることになります。


(1)最初に内務省令第19号(M33.5.19)で16町村が北海道一級町村制施行地として指定されました。この16町村には明治33年勅令第51号で改正された北海道一級町村制(明治30年勅令第159号)がM33.7.1より施行されました。

(2)次に内務省令第6号(M35.3.5)で旭川町が北海道一級町村制施行地として指定されました。旭川町にはM35.4.1より北海道一級町村制が施行されました。

(3)次に内務省令第7号(M35.3.13)で62町村が北海道二級町村制施行地として指定されました。この62町村には北海道二級町村制(明治35年勅令第37号)がM35.4.1より施行されました。

(4)次に内務省令第1号(M39.2.22)で73村が北海道二級町村制施行地として指定されました。73村にはM39.4.1より北海道二級町村制が施行されました。

(1)(2)(3)(4)の指定地としての施行については[63738](hmtさん)で既出です。さて次からが本題となります。

(5)内務省告示第26号(M40.3.12)で15町村が北海道一級町村制施行地として指定されました。15町村にはM40.4.1より北海道一級町村制が施行されました。

(6)内務省告示第32号(M42.3.17)で9町村が北海道一級町村制施行地として指定されました。9町村にはM42.4.1より北海道一級町村制が施行されました。

(7)次に、内務省告示第11号(T4.3.16)で24村が北海道二級町村制施行地として指定されました。24村にはT4.4.1より北海道二級町村制が施行されました。
内務省告示第十一號
北海道二級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ大正四年四月一日ヨリ施行ス但數村合併ノ分ハ現在ノ村名ヲ大字トシテ之ヲ存ス
大正四年三月十六日 内務大臣 子爵大浦兼武
村名所属郡名区域
新篠津村石狩郡新篠津村
千歳村千歳郡千歳村 蘭越村 島柵舞村 長都村
落部村茅部郡落部村
大島村松前郡江良町村 原口村 清部村
熱郛村歌棄郡熱郛村 作開村
雨龍村雨龍郡雨龍村
北龍村雨龍郡北龍村
美瑛村上川郡美瑛村
下名寄村中川郡下名寄村
下富良野村空知郡下富良野村
天鹽村天鹽郡天鹽村
美幌村網走郡美幌村 杵端邊村 古梅村 活汲村 逢媚村 翻木禽村
斜里村斜里郡斜里村 蒼A(A:おうへんに冐)村 止別村 朱圓村 遠音別村
常呂村常呂郡常呂村 少牛村 太茶苗村 手師學村
鐺沸村常呂郡鐺沸村
興部村紋別郡興部村 瑠橡村 沙留村
雄武村紋別郡雄武村 幌内村 澤木村
壮瞥村有珠郡壮瞥村
鵡川村勇拂郡鵡川村 井目戸村 萌別村 生鼈村
人舞村上川郡人舞村
屈足村上川郡屈足村
本別村中川郡本別村 押帯村 勇足村 幌蓋村 負箙村 嫌侶村
白糠村白糠郡白糠村 庶路村
歯舞村花咲郡友知村 沖根婦村 珸瑤A(A:おうへんに冐)村 沖根邊村 婦羅理村 歯舞村

(8)次に、内務省告示第12号(T4.3.17)で11町村が北海道一級町村制施行地として指定されました。11町村にはT4.4.1より北海道一級町村制が施行されました。
内務省告示第十二號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ大正四年四月一日ヨリ施行ス
大正四年三月十七日 内務大臣 子爵大浦兼武
虻田郡倶知安村
余市郡大江村
空知郡江部乙村
上川郡士別村
上川郡上名寄村
苫前郡苫前村
網走郡網走町
常呂郡野付牛村
勇拂郡厚眞村
浦河郡浦河町
河西郡帯廣町

(9)次に、内務省告示第14号(T8.3.24)で16町村が北海道一級町村制施行地として指定されました。16町村には北海道一級町村制がT8.4.1より施行されました。
内務省告示第十四號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ大正八年四月一日ヨリ施行ス
大正八年三月二十四日 内務大臣 床次竹二郎
龜田郡 龜田村 銭龜澤村 戸井村
上磯郡 木古内村
瀬棚郡 瀬棚村
空知郡 歌志内村 上富良野村
夕張郡 由仁村 夕張町
上川郡 東川村 當麻村
勇拂郡 苫小牧町
河西郡 芽室村
中川郡 川今村 幕別村
厚岸郡 濱中村

(10)次に、内務省告示第15号(T8.3.24)で16村が北海道二級町村制施行地として指定されました。16村にはT8.4.1より北海道二級町村制が施行されました。
内務省告示第十五號
北海道二級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ大正八年四月一日ヨリ施行ス但數村ヲ合併シテ一村ト爲スモノニ付テハ現在ノ村名ヲ大字トシテ之ヲ存ス
大正八年三月二十四日 内務大臣 床次竹二郎
村名所属郡名区域
椴法華村龜田郡椴法華村
北村空知郡北村
上北龍村雨龍郡上北龍村
中川村中川郡手鹽國中川村
常盤村中川郡手鹽國常盤村
山部村空知郡山部村
南富良野村空知郡南富良野村
占冠村勇拂郡占冠村
幌延村天鹽郡幌延村 沙流村
遠別村天鹽郡遠別村
徳舜瞥村有珠郡徳舜瞥村
幌別村幌別郡幌別村 鷲別村 登別村
白老村白老郡白老村 社臺村 敷生村
似灣村勇拂郡似灣村 累標村 穂別村 邊富内村
昆布森村釧路郡昆布森村 跡永賀村 仙鳳趾村
尺別村白糠郡尺別村

(11)次に、内務省告示第75号(T12.3.28)で24村が北海道一級町村制施行地として指定されました。24村にはT12.4.1より北海道一級町村制が施行されました。
内務省告示第七十五號
北海道一級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ大正十二年四月一日ヨリ施行ス
大正十二年三月二十八日 内務大臣 水野練太郎
龜田郡湯川村
山越郡長萬部村
岩内郡前田村
同郡發足村
古宇郡泊村
虻田郡東倶知安村
札幌郡琴似村
千歳郡恵庭村
雨龍郡秩父別村
空知郡三笠山村
同郡蘆別村
同郡中富良野村
枝幸郡枝幸村
禮文郡香深村
利尻郡鬼脇村
同郡鴛泊村
網走郡美幌村
上川郡上士別村
同郡美瑛村
中川郡美深村
勇拂郡安平村
上川郡屈足村
同郡人舞村
中川郡本別村

(12)次に、内務省告示第80号(T12.3.30)で25村が北海道二級町村制施行地として指定されました。25村にはT12.4.1より北海道二級町村制が施行されました。
内務省告示第八十號
北海道二級町村制施行地ヲ左ノ通指定シ大正十二年四月一日ヨリ施行ス但數村ヲ合併シテ一村ト為スモノニ付テハ現在ノ村名ヲ大字トシテ存ス
大正十二年三月三十日 内務大臣 水野練太郎
村名所属郡名区域
大澤村松前郡大澤村、上及部村、荒谷村、炭焼澤村
小島村松前郡根部田村、赤神村、札前村、茂草村、雨垂石村
貝取澗村久遠郡貝取澗村、平田内村、長磯村
政泊村壽都郡政泊村
樽岸村壽都郡樽岸村、湯別村
幌加内村雨龍郡幌加内村
高江村新冠郡高江村、大狩部村、葉朽村、受乞村、元神部村、比宇村、泊津村、去童村、姉去村、萬揃村、滑若村
平取村沙流郡平取村、紫雲古津村、荷菜村、二風谷村、荷負村、長知内村、幌去村、貫氣別村、荷菜摘村
右左府村沙流郡右左府村
鳥取村釧路郡鳥取村
淕別村足寄郡淕別村、利別村
足寄村足寄郡足寄村、螺灣村
舌辛村阿寒郡舌辛村、徹別村、蘇牛村、飽別村
熊牛村川上郡熊牛村、塘路村、虹別村
弟子屈村川上郡弟子屈村、屈斜路村
太田村厚岸郡太田村
別海村野付郡別海村、平糸村、野付村、(根室郡)西別村、(同)走古潭村、(同)厚別村
標津村標津郡標津村、伊茶仁村、(野付郡)茶志骨村、(目梨郡)忠類村、(同)薫別村、(同)崎無異村
植別村目梨郡植別村
泊村國後郡泊村、東沸村、米戸賀村、秩苅別村
留夜別村國後郡留夜別村、大瀧村
斜古丹村色丹郡斜古丹村
紗那村紗那郡紗那村、有萌村、別飛村
留別村擇捉郡(紗那郡)留別村、(振別郡)振別村、(同)老門村、内保村、丹根萌村
蘂取村蘂取郡蘂取村、乙今牛村

次稿に続きます。

【1】明治40年内務省告示第26号と明治42年内務省告示第32号の記載を追加

[67006] 2008 年 10 月 13 日 (月) 14:25:05【1】 hmt さん
 面積単位の換算

[66996] YT さん
明治15年統計年鑑の国土面積未確認と記したら、早速のレスをいただき、ありがとうございます。
明治15年の国土面積総計は 24,796.63方里で、大正元年記載の値から内地分を合計した 24,794.36方里[66993]と大差なかったものの、内訳に違いがありますね。

例えば、30年前の明治15年に 893もあった本州の属島数[66998]が 大正元年には 165.5と減少しているのに、属島面積は 逆に 76.20→ 78.91方里と増加。

[66997] YT さん
1方里が何平方キロメートルなのか悩みますが・・・
メートル法基準なら15.4234711 km2ですが、ここ【注】とかだと15.3664 km2で換算していますし。
【注】熊本県統計調査課のページ(統計年報の引用と思われます)。

1方里が15.3664 km2という値は、1里≒3.92 kmという概略値を二乗した値と思われ、YT さんが記された15.4234711 km2の方が、1方里に近い値です。

「方里」とは、もちろん「平方里」の意味で、1里=36町、1町=60間、1間=6尺という 6進法に近い距離単位の体系から 1里=6の4乗×10尺ということになります。
明治24年(1891)に制定された 度量衡法 の第二条に、
棒【メートル原器】の面に記したる標線間の摂氏0.15度に於ける長さ 33分の10 を尺とし
とあるように 1尺=33分の10メートルですから、1里=6の4乗÷330=3.9272727…km です。
これから、前記のとおり 1方里は 約15.4234711 km2 となります。
私が[66993]で付け加えておいた km2 への換算には、上記の計算式を使っています。

けれども、伊能忠敬が測量した時代はもとより、国土面積24,796.63方里と発表した明治15年も、尺とメートルとの関係が厳密に定義された1891年より前のことです。1尺=33分の10メートルでよいのか?

実は、伊能忠敬が測量器具の長さの検定に使用したと伝えられる「折衷尺」が 伊能忠敬遺品目録 の74番に掲載されています。そして、大辞林の「折衷尺」の説明文には
現在に残る遺品によればその一尺は 30.304センチメートル。明治時代に曲尺(かねじやく)を定めるのに最も有力な根拠となった。
と記されています。
33分の10メートルと比べると10万分の3くらい違いますが、ほぼ同じ。
明治前期の面積単位も、これで換算して大きな誤りはないと思われます。

厳密に考えると、「折衷尺」の材料である木の線膨張係数は金属に比べればずっと小さいが、それでも繊維方向で 100万分の2くらいありますから夏と冬では基準となる「ものさし」の長さが変ります。
湿度の影響もあると思うので、あまり細かい差異を問題にしても無意味でしょう。

更に言えば、面積統計自体、地図上で一部の地域について測定し、それを集計したものですが、古い時代のデータでは、測地の誤差と面積測定の誤差は大きいものと思われます。
どの桁までを信用してよいのか、疑えばきりがないでしょう。

[67005] 2008 年 10 月 13 日 (月) 13:02:15 千本桜 さん
 やっぱりシティだそうです

さきほど、街外れのコンビニで買物をしていたら、ヤングアダルト世代の外人さんが「村田に行くのはどの道か?」と店員に尋ねている場面に遭遇してしまいました。隣町への道順など直ぐに答えられるだろうに、なぜか店員さんはしどろもどろ。普段は控えめなのに、こういう時には瞬間的に「おせっかい」になるのが私の悪い癖。「あの道を真っ直ぐ進むように教えてやって!」と、店員さんに指示を出してしまいました。駐車場で車に乗り込もうとしていると、その外人が「ありがとう」と声をかけてきました。「どちら生まれですか?」と聞くと「カナダです」と返ってきました。バンクーバー郊外の小さな町だそうです。この外人さんには大河原がどのように見えているのだろう。そこですかさず、「大河原って、シティそれともタウン?」と質問すると、「シティ。シティ。オーガワラはシティね」と即座に返してきました。やっぱりね・・・。私は心で大きくうなずいて納得しました。でも、あの外人さんには私がどんな風に映ったのだろう。変なことを質問する変なおじさんに映ったのだろうか。それとも、アカデミックな質問を投げかける素晴らしいおじさんに映ったのだろうか。答えは闇の中です。

[67004] 2008 年 10 月 13 日 (月) 12:47:14 ペーロケ さん
 れすれす

仕事中なので、短めに。。。

[67000]hiroroじゃけぇさん
中国支部支部長は、やはり広島市在住の方がふさわしいですからね。って、ペーロケ さんかな?
あらら、広島に対抗意識を燃やし、あわよくば中国あるいは中四国代表にならんとする野望に燃える岡山県民らしからぬ意見ですね(笑)。最近の私の書き込みは、愛媛の心地よさと対比した広島の傲慢さを強調しています。要するに、広島市民でありながら、愛媛が好きで広島が嫌いなんですよ(あ、言っちゃった)。中国支部長は倉敷市民(というよりは児島市民)であっても、岡山をこよなく愛するhiroroじゃけぇさんが適任と思いますが、どうしても広島市民じゃないといけないのでしたら、広島をこよなく愛するmikiさんでしょう。

[66981]かすみさん
3年前からありましたか。道後のお土産屋には品薄気味だったものの、観光港にフツーに置いてました(しかも山積み)。

[67003] 2008 年 10 月 13 日 (月) 12:22:59【1】 中島悟 さん
 小ネタですが

今日の笑っていいとものゲスト
テロップが「佐賀県女優 中越典子」
こうまで佐賀県を強調した紹介って・・・

そして、100人アンケート
佐賀県でバルーンに乗った人:3/100人
佐賀県人:1/100人
そんなにいるのか!本当か?

[67002] 2008 年 10 月 13 日 (月) 09:35:36 おがちゃん[日本人] さん
 未知の道

おはようございます。日本人です。
[66990]の書込が済んだあと、家族全員で旅行に行ってきました。久々に、問題にはしないで書込たいと思います。

朝飯を食べ、[66990]の書込が済み、父を起こして出発。富岡ICから高速道路に乗り、ゆっくり外の風景を楽しむ。やがて、藤岡JCTで、関越自動車道の上り線(東京方向)に乗り、またしばらく外を見る。三連休の日曜日であったため下り線は渋滞中です。そして、鶴ヶ島JCTで、圏央道に乗り、今年の7月18日にオープンした圏央道初のPAの狭山PAで休憩をしました。日本人家では初めての狭山PAでの休憩になりました。狭山茶関係の売り物が売店で売られていました。そのあと、あきる野ICまで来て、ついに日本人家にとっては「未知の道」である、八王子JCTまでの9,6kmの道に来ました。ただ、トンネルが結構あり、景色はつまらなかったです。そのため、緑色の標識ばかりを見ていました。さて、八王子JCTまで来て、中央自動車道を名古屋方向に乗ると、渋滞が発生していました。日本人家は高速道路上で渋滞に巻き込まれることは、滅多にありません。ついに、DVDを見ることにしました。それは、ロボットアニメでした。適当に見たいところから見始めたため渋滞が終わる前に見終わってしまいました。1時間後に上野原ICにたどり着き、やっとのことで渋滞から脱出しました。そして、10時ごろに大月JCTで、河口湖方向へ向かい、10時30分ごろ、河口湖ICで高速道路から降りました。もうここまでくれば、見当はつくと思いますが、日本人家は富士急ハイランドに到着しました。着いてから半分は混んでいる中で、さまざまなアトラクションに乗り、残りの半分は「ええじゃないか」に並ぶ作業に費やしました。すごく混んでいたため、午後2時50分から並び始めて、約4時間後の7時10分にやっと乗ることができました。とても怖かったです。
そして、富士急ハイランド閉園時間の8時に富士急ハイランドから帰ることにしました。
ここから帰る道には2つの候補がありました。ひとつは、渋滞に直撃しながらも、行きの反対方向に帰るルート。もうひとつは岡谷JCTで長野自動車道に行き、更埴JCTから、上信越自動車道に乗って安中市まで帰ってくるルートです。最終的に前者のルートになりました。しかし、大月JCTから25kmにも及ぶ渋滞で、渋滞を脱出して八王子JCTで圏央道に乗ったときは午後10時30分になっていました。まだ晩飯を食べていないため、鶴ヶ島市の某ハンバーグ店で11時ごろに食事しました。そして、鶴ヶ島市内で日付が変わり、ETC割引が使えるようになり、鶴ヶ島ICから関越自動車道で北上して行き、富岡ICで高速道路を降りて、今日の1時ごろに帰宅しました。

#この旅行により、山梨県に今年の経県値が一点増加しました。

[67001] 2008 年 10 月 13 日 (月) 01:01:03【2】 Issie さん
 備南電鉄

[67000] hiroroじゃけぇ さん
なぜ、玉野から児島そして水島に至る路線にいたかったのかは謎です。

どうも,玉野(宇野)から水島へ,というのは“後付け”であるようですね。

そもそもの始まりは,戦時下で活況を呈していた玉野の三井造船所へ,工員輸送のため1944年に着工された 宇野駅 から造船所への引き込み線。ところが,7〜8割方完成したところで1945年8月の敗戦と相成り,工事はいったん中止されました。

その“引き込み線”が復活するきっかけとなったことが2つ。
1つは,国鉄・私鉄を通じて大量に発生した戦争による被災車両の復旧工事の需要。工場自体が被災したせいもあって従来からの車両工場だけでは需要をさばききれず,玉野の造船所でもその一部を引き受けることとなりました。ところが,宇野駅と造船所を結ぶ鉄路がなく,ここで“作りかけの引き込み線”がクローズアップされます。ただしこの需要は,既存工場の復旧が進んだことと,やはり造船所に鉄道車両は無理があってコスト高となったこともあって,2年ほどで終了しました。
もう1つは,敗戦直後の燃料と物資の不足で市内のバス交通に不便をきたしていることに注目した玉野市が,やはり“作りかけの引き込み線”を有効に利用して市電を走らせる計画を立てたこと。ところがこれも,三井造船所側の事情や激しいインフレなどのせいで結局はとん挫してしまいました(考えようによっては,備南電鉄が後に「玉野市営」となる伏線は,この時からあったと言えるかもしれません)。

そのような流れの中で具体化したのが,「備南電鉄」計画。1950年に設立された株式会社の社長は,地元代議士の 星島二郎 なんですね。この人,私は「日本国憲法」に署名した 第1次吉田内閣 の大臣の1人としてしか知りませんが。
その後のことは,[60960] 伊豆之国さん に詳しいので,そちらに譲りましょう。ただし1つだけ,その「第1期開業区間」の 宇野〜玉(のち三井造船所前)こそが,1944年以来の“作りかけの引き込み線”です。


…てなことを考えると,宇野線の最寄駅から水島へ鉄道を新設する,というよりも,作りかけの引き込み線をいかに有効利用して,さらに児島半島南部の交通機関として“昇華”させるか,というところに発想の出発点があったのでは,と思えてきます。
でも,結局のところ,無理があったんでしょうねぇ…。

以上,橋本正夫『RM LIBRARY 102 玉野市電気鉄道』ネコ・パブリッシング,2008年 を参考に書きました。

[67000] 2008 年 10 月 12 日 (日) 22:26:53 hiroroじゃけぇ さん
 児島〜水島〜倉敷のルート設定

今日、かの白桃大先輩を見習い、児島駅を通り越し、坂出市のフィールドワークに出かけたhiroroじゃけぇです。滞在時間約1分という間に、坂出駅の改札内コンコースとホーム上のうどん店跡を見学するという大プロジェクトを成し遂げました(笑)

さてさて、まずは、[66990]日本人 さん。
最もありふれた区名を持っている政令指定都市にはなりそうです。
何事も、ありふれたものが一番安心感があっていいものです。岡山市の区名だってそう・・・のはず(汗)まぁ、区名や人口規模は2の次です。発展してから考え直せばいいじゃありませんか、ね。

hiroroじゃけぇ岡山大使 さん
落書き帳中国支部岡山事務局局長hiroroじゃけぇに肩書きを改称して下さい(笑)中国支部支部長は、やはり広島市在住の方がふさわしいですからね。って、ペーロケ さんかな?

[66995]伊豆之国 さん
かつて「備南電鉄」が果たせなかった「夢」の路線(→拙稿[60960])の一部が、形を変えて蘇るということになるのでしょうか?!
そう、考えてもいいと思います。しかしながら、この「夢」の路線図を知っている人はほとんどいないでしょうけど・・・。でも、なぜ、玉野から児島そして水島に至る路線にいたかったのかは謎です。水島へは、現宇野線のルートから彦崎付近で分岐、水島I.Cを通り、水島駅の方が自然なんですけど・・・。う〜ん、不思議。

で、考えられる倉敷〜児島ルートを挙げてみましょう。

1.倉敷〜水島〜児島(既出ルート)
水島臨海鉄道線を活かすことができ、さらに、倉敷4地区の内3地区を直結できるメリットがある。しかしながら、倉敷〜玉野という観点からすれば、利用できないルート設定である。

2.倉敷〜茶屋町付近(大浜や小浜地区)〜児島(JR活用ルート)
このルートでは、本四備讃線の利用が可能。また、宇野線と本四備讃線、倉敷〜児島線の分岐点に駅を新設することにより、岡山⇔児島、岡山⇔宇野、倉敷⇔児島、倉敷⇔宇野という列車を組み合わせることができ、県南地域の多く広域ネットワークとして活かせる。また、倉敷駅東側から進入するルートを採ることで、倉敷駅でも、現在の列車の他、宇野⇔福山や児島⇔福山、宇野⇔総社、児島⇔総社といった列車も設定可能。宇野⇔倉敷⇔水島という列車も可能性があります。その反面、倉敷付近では、地下ルートを辿る必要があるというデメリットがあります。

3.倉敷〜水島I.C付近(粒江・福江経由)〜児島(新設路線)
このルートは、最も距離が短い反面、全線新設となり、費用の面からしてムリです。但し、用地として、下津井電鉄跡の「風の道」を利用することが可能です。

まぁ、こんなところでしょうか?地元では1のルートしか検討されていません。というより、他のルートを考えようともしていません。hiroroじゃけぇとしては、2のルートがおススメなんですけどね。


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