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[91959] 2016年 11月 18日(金)19:18:20【2】hmt さん
市制町村制施行当時の自治体名称
[91958] 白桃さん
それはさておき、とりあえず基本的な質問をさせていただきたいのですが、

最初は 真面目に答えず、「2件のご質問にお答えすべき当事者の立場にない。」…と交わそうかと考えました。
Q1は 「わかりきったこと」であり、Q2は 私にとっては関心外で、基本的とは考えていない質問だからでした。
でも心を改め、私の知る限りを 真面目にお答えすることにしました(笑)。

Q1 明治の市制町村制度においては、ドコが当該地を市あるいは町村と決定したのか

白桃さんはご存知の上で質問されているのだと思いますが、[34434] Issieさんの記事にあるように「内務省」です。
1889年2月2日付の 明治22年内務省告示第1号で,最初に「市制」が施行される 36市が指定されました。
これに遅れて 佐賀・岐阜・甲府・鳥取の4市が指定されているので、この制度で「最初の市制施行地」と決められた地は 合計40 になります。
その結果、市制施行地を除く3府42県【北海道・沖縄県・島嶼など法律・市制町村制の対象外とされた地域を除外】は、自動的に「町村制施行地」になりました。

内務省の中で「どのように」決めたのか? 
ずっと後ですが、[86139]むっくんさん の記事に、S18.4.17 内務省発地第三六號「市制施行詮議内規」という資料が登場しています。
その前身というか これに類する内規は、おそらく明治時代から 存在したものと推察しますが、情報公開が不十分な時代ですから、調査するのは困難と思います。

Q2 さらに言えば、町と村の名称上の区別を下したのかドコなのか

マガジン 町と村の違いの冒頭に記したことの繰り返しになりますが、「町と村の違い」 はずっと不明確です。

「市制町村制理由」に記録されている当時の考え方の要点は、[63912] okiさんの記事に引用されています。
この記事は、町村制第3条の規定「凡町村ハ従来ノ区域ヲ存シテ之ヲ変更セズ」の存在も指摘しています。
町と村とは、「従来の区域に応じて、その名称も継続された」と考えるのが自然なようです。

実際には「区域ヲ存」せずに合併した町村の方が多いですし、従来町であったところが町村制の適用後に村になった場合【注】もありますが、農村の数に比べて町は非常に少なかったのが実態ですから(おおむね、村が約60000に対し旧城下町内を除いた町は600くらい)、旧来の町の多くがその名称を保存したでしょう。
【注】
合併に伴う例ですが、近くの埼玉県入間郡大井町他3ヶ村→大井村[78812]を挙げておきます。

okiさんの記事に示されている 大阪府西成郡難波村 明治24年の人口 26405人。これは、姫路市の 24608人より多い。
「元来町ト村トハ人民生計ノ情態ニ於テ其趣ヲ同ジクセザルモノアリテ、細カニ之ヲ論ズレバ均一ノ準率ニ依リ難キモノナキニ非ズト雖モ」という建前論や人口の多寡には目もくれていません。

「町村制」という同一制度の中なのだから、実体は町場化していた難波村についても、旧名称の継続で良いではないか。
このような安易な区別が使われた実例のように思われます。
[91957] 2016年 11月 16日(水)18:04:08hmt さん
名所地名を利用した自治体名 (1)妙高
[91948]に続き、過去に存在した長い読みの市町村から題材を得た記事です。
異彩を放っているのが、リストの中で3行を占めている「みょうこうこうげん」の「妙高」です。
1955/4/10 新潟県中頸城郡妙高々原村→1956/9/30 妙高々原町→1969/10/1 妙高高原町→2005/4/1 妙高市

言うまでもなく、長野から直江津に向かう車窓の左側に特異な山容を示す成層火山・妙高山に由来する自治体名です。
妙高山は 北信五岳の筆頭に挙げられていますが、信濃ではなく越後の山ですね。
赤倉・池の平などの温泉やスキーで知られた名所・行楽地です。

この「妙高」という名を利用した自治体名称が 町村制施行の1889年に 南の長野県境近くで誕生し、100年以上かけ、その範囲を北へと拡大してきた歴史をまとめてみます。

最初は、変遷情報検索により「妙高」を調べた結果です。

異なる漢字を使った「名香山(なかやま)村」を含めて7件の自治体名が抽出されました。
何れも新潟県・越後国中頸城郡の領域にありますが、2つの妙高村は時代も場所も異なるので、以下の文では便宜上 妙高村1と妙高村2に書き分けます。

年代を追ってみると、3期に分けると理解しやすいようです。

第1期は、町村制施行の1889年から 昭和合併の1955年までの 66年間です。
妙高を使った自治体は、妙高山のお膝元である長野県境付近【旧・妙高高原町】に限られていました。

検索結果の1番:妙高村1は 明治合併で旧5村の合併により成立。存続期間約12年半。
検索結果の2番:名香山村は 妙高村1の南側・関川村との合併により成立。存続期間約53年半。通算66年。
語源的には妙高山の古名である「越の中山」が、地名二字化[84087][37482]の影響で「名香山」と表記されるようになり、これが「みょうこう」と音読され、「妙高」の字を当てる現在の名になったと考えられます。
# 妙高から北に流れる頸城の関川は濁音ですが、同じ新潟県内の岩船郡に現存する関川村は清音です。

第2期は昭和合併の1955年から平成合併の2005年までの50年間です。
妙高を名乗る自治体の範囲は北に拡大し、「妙高高原町」と「妙高村2」との二本立てになりました。

戦後の経済復興を背景にした観光産業が盛んになり、田切川より北側の自治体もブランド力のある「妙高」を名乗るようになりました。時代も場所も違うので、妙高村2と表示して区別することにします。

検索結果の3番:妙高村2は 関山駅【信越本線がスイッチバック停車】のある関山村などの 昭和合併で成立。
平成合併までの50年間存続しました。
検索結果の4番:妙高々原村は 名香山村からの改称。こちらが 本家・妙高村を名乗りたかったのだと思いますが ブランド自治体名争い に遅れをとった結果でしょう。妙高々原村の存続期間は約1年半。
検索結果の5番:妙高々原町は 関川の上流・杉野沢村との合併を機会に町になった結果です。13年存続。
検索結果の6番:妙高高原町は踊り字「々」を廃して「高」を連ねた結果です。信越本線の駅名も「田口」から「妙高高原」に改められました。
「妙高高原町」は平成合併まで35年半存続したので、昭和合併と平成合併の間の通算50年が「みょうこうこうげん」時代ということになります。

そして第3期が 10年を越えた平成合併以後の期間です。山岳ブランド「妙高」を名乗る自治体の領域は、合併により高田平野の一角にまで拡大しました。

検索結果の7番:平成合併は妙高高原町・妙高村2を新井市に編入する形になりましたが、名前はブランド力のある「妙高」を使うことになり、全国的にも珍しい「編入/改称」となりました。

妙高山のお膝元の「妙高村1」から始まった「妙高名自治体」の領域は、116年の間に 上越市と境を接する平野部にまで拡大し、更に 10年後の北陸新幹線延伸(2015)では 自治体範囲を越えた「上越妙高駅」も実現しました。
[91956] 2016年 11月 16日(水)12:18:58hmt さん
Re:大町は村?
[91951] グリグリさん
Wikiのこちらのページに、長野県の大町に関して次のような記述があります。
>1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大町として単独で村制を施行。
>4月10日 - 町制施行。町制に基づく「大町」となる。
(中略)
この情報の根拠を確かめることはできないでしょうか。

長野県における公文書館機能を担っているのは 長野県立歴史館です。町村制施行時の県令等の原本は、ここに保管されているものと推測します。
収蔵資料検索から『本県令達目録(明治3年~大正15年)』などの存在を確認しましたが、明治22年4月10日 大町の町制施行 を裏付けることができそうな県令・告示などの原資料名を発見するには至りませんでした。

原資料の代用となる二次資料について。
[76874] むっくんさん の労作「市制町村制施行時の府令県令(ver.5)」に引用されているように、『長野県現行令達類聚』(明治26年)という本の 上巻741コマ以下に 明治22年長野県令第18号 町村区域名称が収録されています。
問題の北安曇郡大町は 760コマであり、中段の新町村名には「大町」と明記されています。

これで問題解決か?
…そう簡単には問屋が卸しません。『長野県現行令達類聚』の凡例をご覧ください。
此書は明治4年11月置県以来明治25年12月迄の発布に係る本県諸令達中現行のものを類聚…
此書専ら専ら簡約を主とす 故に…改正増補の文字に改め旧文を存せず 欄外に於て其沿革のみを記載す

この『長野県現行令達類聚』は、発行時の現行実務に供することを目的とするものであり、そこに収録された「明治22年県令18号」は発令当時の内容ではなく、明治25年12月迄の改正が盛り込まれているのでした。

例えば 町村制施行 約2年後に町になった 諏訪郡上諏訪町は、明治26年発行の『長野県現行令達類聚』では 当然のように 上諏訪町として掲載されています。

但し 凡例に記されていたように、上部の欄外に「24年告示第27号を以て上諏訪村を上諏訪町と改称」との記載があり、「後発の町」であることが注記されています。

そこで、もう一度 760コマの 北安曇郡大町に戻ります。こちらには、上諏訪町に記されていたような上部欄外の記載が見当たりません。

私の調べた上記の状況から判断した結論。【グリグリさんの問に対する直接の返事にはなっていません。】

現状では、「大町は 1889/4/1に村制を施行した」と信ずるに足る証拠が証拠が 具体的に示されていない。
従って、大町は 1889/4/1に町制を施行した生まれながらの町である」とする趣旨の変遷情報を 改める必要はない。

余談:村と町との区別について

上記の本文では、便宜的に 村制・町制・生まれながらの町・後発の町 などという表現を使いました。
しかし、実はこれは私の本意ではありません。
施行当時の考え方としては 制度は「町村制」一つであり、「町制」「村制」を区別する「いわれ」はなかったと思います。
上に引用したように、「上諏訪村を上諏訪町と改称」と記されており、「町制の施行」とは表現されていません。
現行の「町になる要件」などという区別は、ずっと後に生じた慣行が制度化されたものです。
町村制施行当初、呼び名としては 宿・駅・町・村・新田・浦などを適当に使い分けていました。
しかし これは「便宜的な呼び分け」に過ぎず、制度的な区別は 本来無意味なことであると思っています。
[91948] 2016年 11月 14日(月)18:46:58hmt さん
四日市次郎丸村 過去記事紹介
11月に入ってから休眠状態だった hmt ですが、落書き帳のトップに掲げられた新規メニュー 短い読み・長い読みの市区町村を拝見して、少し眠りから覚めたので書き始めました。

最初は ウォーミングアップとして、四日市次郎丸村の過去記事紹介から。

この村の名は、読みの長さもさることながら、連称自治体名として記憶に残っています。
大網白里市誕生が期待された5年前にシリーズ記事を書いたことがあり、そこから手繰ったところ[79392]に 更に3年以上前に むっくんさん と okiさん による先行記事を引用していました。

今回の「長い読み」と合わせた記事集に仕立てましたので、関心のある方はどうぞ。

記事集 四日市次郎丸村

記事集 連称自治体名

蛇足ですが、新規メニュー:長い読みの市区町村 の中に、「1989(M22)」という誤記が多数あるようです。修正をお願いします。>グリグリさん
[91887] 2016年 10月 30日(日)22:57:21hmt さん
了解:中土佐/四万十
[91885]白桃さん
[91886]グリグリさん
(異動人口は)今回の確定地で7人に訂正されたと言うことでよろしいと思います。

私は[91872]の最後の文章を正しく理解することができなかったために、余計な記事[91883]を書いてしまったようです。
シロウトにとっては「ひねった表現」でなく、[91886]のように ストレートに書いていただいた方が有り難いのでした。
[91883] 2016年 10月 30日(日)15:02:45hmt さん
四万十川上流の町での境界修正・境界変更 これに伴う人口異動の不思議
[91872] 白桃さん
[90443]hmtさんの次の記事があります。【記事番号を修正、引用部分を省略】
[90077]【人口異動を伴う境界変更データ2011/5/18】と確報値の組替人口差は14人。これが、hmtさんの記事と関係有るのか無いのか考えているうちに頭が痛くなってきました。(笑)

書いた当人もすっかり忘れていました。改めて過去記事により経過を再録してみると、高知県高岡郡中土佐町大野見野老野(ところの)と同郡四万十町上秋丸との境界に関する問題であり、地籍簿【明治初年?】の記載と、自治体・住民を含めた地元の認識との間にズレが存在したことに起因するようです。

[76944][76945]の伝えるYomiuri Online 2010/12/2を要約
【A】中土佐町は1990年と2008年とに町境を調査。測量や公図などを基にした本来の境界線は、一般の地図に示された境界線よりも、最大で約200m東側【西側の誤記と推察】(中土佐町側)だったことが判明。これに従うと、大野見野老野地区4世帯7人の住所は上秋丸地区となる。中土佐町は2010年5月、7人に対して四万十町への住民登録変更を勧めた。

[90443]の伝える東京新聞 2010/12/16を要約
【B】7人は長らく中土佐町民として暮らし、住民税も中土佐町に納めていたが、2010年5月までに全員が四万十町に住民登録をし直した。
【C】だが「これまでの地域生活を変えたくない」などと町側に要望。両町議会は以前考えられていた通り【4世帯の東側】に境界を変更する議案を9月に可決、県議会も12月下旬に可決する運びだ。来年夏には国が新しい境界とし認める見通し。→2011/5/18総務省告示により境界変更 下記【D】(1)

【D】 平成23年面積調 p.102, 103
39401中土佐町 -0.05境界修正(2), +0.02境界変更(1)
39412四万十町 +0.05境界修正(2), -0.02境界変更(1)
境界修正(2) H23.3.18 高岡郡中土佐町長と同郡四万十町長の申請
境界変更(1)(H23.5.18総務省告示188号)高岡郡四万十町の一部を同郡中土佐町に編入

境界変更(1)の対象である2haは、Yomiuri Onlineの伝える「最大で200m」という境界線のズレと矛盾しない面積と思います。そして両町長の申請に基いて行なわれた境界修正(2)の区域5haはマスコミ報道には全く登場していない無人地帯であろうと推察します。
マスコミ報道【A】【B】が一致して伝える「7人」が正しいとすると、2011/5/18の境界変更の結果四万十町から中土佐町に異動した人口は7人のはず。
ところが、既に[90077]グリグリさんにより紹介されているように異動人口21人。
更に白桃さんの14人説[91872]も登場。
7人の住民票が中土佐町→四万十町→中土佐町と動いている間に増殖する筈もないのに…謎ですね。
[91804] 2016年 10月 22日(土)15:01:55hmt さん
道路標識の謎
[91798] じゃごたろさん
[91800] グリグリさん

茅野市中河原交差点。国道20号から県道16号へと入った先に設置されている106系標識に記された3つの行先地名。
解説と関連画像を示していただき、ありがとうございます。

今回の問題により私が認識した最も重要な知識は、「交差点に設置されている108系標識」と「交差点を過ぎた先に設置されている106系標識」との役割分担でした。
[91800]のリンク画像を借りると、国道20号中河原交差点南側案内標識には、問題の地点への左折路が案内されており、「国道152号・高遠」と記されています。
この標識は古いままで、「県道16号・岡谷」という新しい表記に変更するのが遅れているようです。

左折した先には問題の答えとなる「大鹿・長谷・高遠」という106系標識が設置されています。
中河原交差点で108系標識に従い左折した「進路が誤っていないことを確認する標識」としては、まさに「高遠」という地名が記されていなければなりません。

「交差点の後の106系標識は、交差点(手前)の108系標識の進路を確認する従属的な存在である。」

このように理解すれば、交差点前後の行先地名が高遠方面で統一されているという現実に 納得することができます。

しかし、後者の画像を見ると、進路を示す矢印に示された路線番号だけは 岡谷に至る「県道16号」に改められています。
左側の矢印に示された県道路線番号16は岡谷方面を意味し、右側の3つの行先地名は国道152号 高遠方面を意味する。
全く別の情報を共存させた標識は、利用者を惑わせるものではないか? いささか疑問を感じました。

ところで、大鹿・長谷・高遠という3地名、何れも一覧表に掲載されていない地名、つまり「一般地」です。
長野県の南部で中央構造線破砕帯を通り、通行止め箇所のある国道152号
原則として用いる重要地・主要地を選ぼうととしても思うに任せない。
その事情はよくわかるのですが、道路標識のルール3に示された原則が、空虚に感じられてしまうのでした。
[91784] 2016年 10月 19日(水)18:28:37hmt さん
Re:行き先はどこ?
[91760]じゃごたろ さん
先の地図リンクの場所に、岡谷市方面に向かう向きに106系の案内標識が設置されています。この案内標識の行き先には三つの地名が記載されているのですが、その地名とはどこでしょうか?

道路標識には疎い身でありながら、昨年のスレッドにも参加しているhmtです。

「106系の案内標識」と言われてもピンと来ないので、先ず 道の相談室・四国に掲載されていた案内標識LESSON で予習しました。
その結果理解したのは、交差点の手前や交差点部で見る108系案内標識とは、設置目的が違うことでした。
「106系の案内標識」は交差点を約150m過ぎた先に設置されており、進路が誤っていないことを確認する目的の標識(lesson02)であるようです。
表示される地名は、重要地・主要地・一般地にランク分けして限定(lesson03)。106系においては、上段より距離の遠い地名順。通常は市役所や町村役場正面地点までの距離(lesson04)。

出題された標識は、交差点を過ぎた後の進路確認が目的だから、直進方向の行先だけを考えればよい。
交差する道路の行先(例えば高遠[91772])を考慮する必要はない。
lesson04の例示には国道11号の表示があったが、今回の場合、長野県道16号が表示されているとは限らず、その起点「岡谷」までの地名に限定されることはないと思われる。

経路案内に用いる地名の表示方法によると、幹線道路に用いる地名は、重要地・主要地・一般地【ルール3「道路の分類と用いる地名」の表】であるが、106系標識には これに加え「基準地が最上段に表示される」とある。

一覧表から選ぶと、最も近い基準地「松本」が最上段。最も近い重要地「塩尻」が中段ということになる。諏訪市役所は直進経路上にないので、最も近い重要地は「諏訪」でない。
残る一つは、ルール3で第一ランクとされている主要地の「岡谷」を選ぶのが順当であろう。
「岡谷市街」や「諏訪大社(上社)」のような地名は、リストに示されていない「一般地」で、幹線道路に用いる地名としては第二ランクになるので、登場する余地がないように思われる。

ルールを正しく解釈しているか自信がありませんが、県道16号で「岡谷」、その先は国道20号で「塩尻」、更に国道19号で「松本」という「基準地まで直進するルート」を想定し、遠い方から「松本・塩尻・岡谷」と答えておきます。
[91563] 2016年 10月 4日(火)19:09:04hmt さん
杖立オフ会(3)佐賀・吉野ヶ里
日田彦山線が分れる夜明から先になると、熊本県で杖立川>大分県で大山川>三隈川と名を変えてきた川も福岡県に入って いよいよ「筑紫次郎」の本名の「筑後川」を名乗ることになり、車窓から少し北に離れます。久留米で乗り換えた後、再会した筑後川を渡ると佐賀県。9月19日は佐賀泊りです。

佐賀では 大浴場のあるホテルを選んで 予約しておきました。浴場で声をかけてきた 70代のオジサンは 運転好きで、全国を走っており、もう少し若い時には 九州から北方領土の見える地までドライブした と自慢していました。私が明日の飛行機で帰ると話したら、やはり「板付」という地名[91561]を口にしていました。

翌20日朝。ホテルのPCで空路の運行状況を確認し、無事に帰路途中であることを落書き帳に書き込み[91442]
外に出ると風は強いが、降雨なし。予定通り 吉野ヶ里歴史公園に向かうことにします。
19日に吉野ヶ里を訪れたスナフキんさんは、運悪く本降りの雨に見舞われたのですね。ML[off:00282]

体力と時間に余裕があれば、広い園内を巡りたいところですが、クニの首長を埋葬したと思われる 北墳丘墓 など限られた対象以外は バス車窓からの遠望だけで済ませ、後は想像の翼に任せることにしました。

おまけ:「ヶ里」地名について

地名コレクションの対象にはならないと思いますが、「ヶ里」地名の変遷情報検索結果です。

1889/4/1市制町村制施行時の旧村【合計17ヶ里村】の内訳:
佐賀県神埼郡神埼村の旧村:神埼郡田道ヶ里【1ヶ里】現・神埼市
佐賀県小城郡三日月村の旧村:小城郡 三ヶ島ヶ里, 長神田ヶ里, 織島ヶ里, 道辺ヶ里, 金田ヶ里, 樋口ヶ里, 久米ヶ里, 石木ヶ里, 甲柳原ヶ里【9ヶ里】現・小城市
佐賀県小城郡牛津村の旧村:小城郡 勝ヶ里, 乙柳ヶ里【2ヶ里】現・小城市
佐賀県小城郡三里村の旧村:小城郡 池上ヶ里, 栗原ヶ里, 船田ヶ里【3ヶ里】現・小城市
佐賀県小城郡晴田村の旧村:小城郡 畑田ヶ里【1ヶ里】現・小城市
佐賀県杵島郡錦江村の旧村:杵島郡 戸ヶ里村【1ヶ村】現・白石町

最後の杵島郡「戸ヶ里村」を例外として、「ヶ里」の後には「村」が付いていません。
旧村の「ヶ里」は地名の一部というよりも、「村」「町」「宿」などと同様に「集落の性格?」を示す接尾語であるように思われます。

村名ではありませんが、白石町・廻里江川(めぐりえがわ)付近の 戸ヶ里の他にも 現役の「戸ヶ里」を見付けました。それは 筑後川の河口近く、佐賀市の早津江川[91405]沿いの 戸ヶ里港で、佐賀県道313号 飯盛(いさがい【難読】)戸ヶ里港線が通じています。

また、神埼警察署の所在地は神埼市神埼町枝ヶ里です。
探せば、まだまだ「ヶ里」地名がありそうです。
[91562] 2016年 10月 4日(火)18:56:29hmt さん
杖立オフ会(2)ひぜんや・杖立から日田へ
「ひぜんや」の館内案内に、杖立川右岸に立ち並ぶホテルの写真があります。このページの一番下にある立面図と対比すると、写真左中程の玄関のある階が5階で、立面図は山を背にした道路側からの図【川沿いの写真と左右逆】であることがわかります。
写真の最も右側に見える建物が私達の泊った熊本館であり、高いエレベーターとその左の大分館【屋上に機械室】との隙間に、記念撮影をした両国橋があるものと推察します。両国橋の下を流れて杖立川に合流する小川が県境でしょうが、合流点の存在を推察させるものは、護岸の僅かな隙間だけです。地理院地図

この写真を見ると、入口・フロントを含む「ひぜんや」の大部分は大分県側であるように見えるのですが、ホームページに記された住所は、「〒869-2503 熊本県阿蘇郡小国町大字下城4223番地」となっています。この番地で住所検索(mapion、いつもNAVI)して地図上に示される位置に存在するのは、「ひぜんや」の上流側にある和風別館「大自然」でした。温泉街全体としては「熊本県の杖立温泉」で通用しているようであり、このことが住所表記にも反映しているのでしょう。

多忙なお仕事の中からぎりぎりの時間を作って参加された中島悟さんを含め 17人全員が揃い、大分県で宴会。
熊本県宿泊は学生時代の1954年以来62年ぶり【大分県は45年ぶり】。後に公害病で有名になった化学会社のクラブで、水俣湾の魚料理を御馳走になったことなど、近況でない報告をしたようです。

その後、熊本県に移っての二次会。デスクトップ鉄さんからJR駅三番勝負[91443]の賞品【原田勝正著:駅の社会史(中公新書)他】をいただきました。

最初に答えたのが問二の三鷹[91474]であったのは、出題駅・国分寺から出ていた東京競馬場前への支線【砂利鉄道[41599]由来】を思い出し、その近くにあり、戦後の短期間だけ存在した武蔵野競技場前への支線[75152]をすぐに連想した結果です。
もちろん、他の出題駅に関係する広島-宇品間[61378]などの条件も考慮した解答です。
…というわけで、単に鉄道路線に関する知識というよりも、その社会的背景も考察した上での 落書き帳記事に裏付けされた解答 でした。この機会に関連記事をリンクしておきました。
共通項に含まれていた「戦後廃止」とか「盲腸線」とかいう条件は、意識外のままセーフでした。

宿泊した熊本館2階からは、杖立川を間近に見ることができました。と言っても、それを実感したのは翌朝。

大分館6階の朝食の席で、ソーナンスさんに声を掛け、途中までの同乗をお願いしました。
ソーナンスさんは、個人的には阿蘇から熊本市内方面へ抜けて帰ろうかなとも思っておられたようでしたが、結局のところ hmt・デスクトップ鉄・EMMの3人が日田まで送っていただくことになりました。

前日は通過しただけの天領日田の街。町並み保存が行われている 日田市豆田町伝統的建造物群保存地区に行くには、市内循環バス(ひたはしり号)が運賃100円の実験運行中。これを使って駅前から豆田上町通りに出て、北へと歩きました。小雨気味ながら、傘を使うほどでもなし。花月川まで行き、一つ下流の御幸橋から豆田御幸通りを南下。

何気なく 日田醤油の 天領ひな御殿 に入ってみましたが、三千体以上という その量に圧倒されました。
醤油屋さんが無料で公開していた展示物から、天領日田に蓄積された財力と文化を感じた次第です。但し、チラシでは有料300円となっていたので、入場無料は期間限定だったようです。

いずれにせよ、じっくり探せば いろいろな宝を見ることができる街という印象を抱いた日田です。
平成の大修理中の重要文化財 草野家住宅も、公開スケジュールと合えば見たいところでしたが、これはダメ。
バスの時刻に合わせて 天領日田資料館を出て駅に戻ります。久留米行きのDCに乗ると、YASUさんに出会いました。


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