地元ネタにて恐縮です。
土木の日(11月18日)を記念し、その直近の日曜日である昨日は、湊川隧道が10時から15時まで特別に一般公開され、ここを通り抜けることができ、去年につづいて今年も行ってきました。あまりにもローカルな話題にて、まず「湊川隧道とは何ぞや?」からご説明しなければならないでしょうか。詳しくは
湊川隧道保存友の会のサイトや、兵庫県の
関連ページをご覧ください、と言ってしまえば身も蓋もないので、ここでは明治30年代の神戸の街との湊川との関係を主に述べてみます。
湊川といえば、楠木正成が大往生を遂げた古戦場(湊川の合戦)としても有名で、兵庫の市街地を流れ、明治期にはその西側を湊西区、東側を湊東区として兵庫の市街地を二分していました。しかし、20世紀以降の神戸には「湊川」という河川はもはや存在せず、現在流れているのは「新湊川」と呼ばれています。
日清日露の両戦間期の神戸市に於いては、急速な市街地の発展が見られ、神戸区、湊東区はすでに発展の余地はなく、早々に狭い市内は飽和状態となることは明白でした。明治29(1896)年には西隣の湊村4か村全村(平野、石井、烏原、夢野)、林田村8か村全村(今和田新田、吉田新田、御崎、東尻池、西尻池、長田、駒ヶ林、野田)、須磨村10か村のうち1村(池田)を編入し、旧市内の4区会(葺合区、神戸区、湊東区、湊西区)に湊区、林田区を加えて6区会が設けられました。
この新市域を加えた神戸市では、湊西区出在家町の新川運河より林田区東尻池村の浜辺に至る兵庫運河の開削(明治32年完成)以外に、「3大土木工事」と呼ばれるプロジェクトが行われ、東から葺合区葺合町の山間部に五本松堰堤を築堤し布引貯水池の建設(明治33年完成)、湊区烏原村に立ヶ畑堰堤を築堤し烏原貯水池の建設(明治38年完成)、そして湊西区兵庫港地方から林田区長田村に至る湊川の付け替え工事(明治34年竣工)で、いずれも水利工事でした。
従来の湊川は湊区湊川町1丁目と湊西区東山町1丁目(湊川町、東山町ともに当時はなく大正期に起立した町名で、正しくは湊区石井村、湊西区兵庫港地方と書くべきですが、現況と照らしてわかりやすいので、ご容赦のほど)に架かる洗心橋より下流は、今の東山商店街、から新開地本通り,川崎本通りを流れ神戸港に注いでおり、当時の神戸市都心部を貫き、今ある湊川公園があたかも橋上公園に見える(下を通る道路は歴とした「湊川トンネル」)ことからも分かるように、天井川を形成し大雨の度に洪水を引き起こす暴れ川で、市街地への被害だけでなく、この土砂の流入による神戸港の埋没が問題視されていました。
多くの河川がそうであるように、上流より運ばれる土砂は河口沖合いへ堆積され、海岸線は沖へ突き出た形になります。湊川河口も兵庫津の沖合いへと成長し、江戸時代初期には「川崎町」の町名が付けられています。その後はさらに東に突き出し、河口右岸は兵庫津の出町となり、こちらは「東出町」「西出町」、左岸は「東川崎町」と名づけられました。いずれも江戸時代に出現した町名で、現在に至っています。
明治のはじめには河口の東出町や東川崎町にアメリカ人が製鉄所を建造したり、加賀藩が造船所を造ったりしたものの後に官営の兵庫造船所となり、それを薩摩出身の川崎正蔵氏が明治19年に払い下げを受けて開業したのが川崎造船所です。地名の湊川川崎と創業者の川崎姓が偶然の一致を見たものです。
新開地本通りに続く現在の国道2号線以南の旧湊川跡地は「川崎本通り」と呼ばれていますが、こちらは川崎重工業正門に向かう道であることから、東川崎町からの地名由来というよりも、企業名のにおいがプンプンします。
なお、河口の湊川川崎は明治時代の地図上では「湊岬」と表記されています。
さて、付け替えられることになった湊川は洗心橋からは西へ向かい、林田区長田村を流れる苅藻川に合流させるのですが、途中に標高85mの会下山が立ちはだかります。同じく明治4年に付け替えとなり、紀州人の加納宗七が請け負った新生田川の付け替え工事(旧生田川は現在の加納町)では、葺合村の開削工事でことが足りましたが、時を経ること30年の土木技術の進歩もあり、会下山にトンネルを打ち抜くことになりました。これが湊川隧道です。しかし、それでも人力掘りにレンガ積みですから、相当な難工事であったことは想像に難くありません。全長600mにおよぶ湊川隧道は、当時では河川トンネルとしては世界最大規模のものだったそうで、明治中期の土木技術を窺い知る、貴重な歴史土木遺産です。
一方、付け替えられて新たに市街地「新開地」と命名された旧湊川については、洗心橋から下流へは金比羅橋(現在の湊川公園辺り)、新橋(現在の新開地駅辺り)、湊橋(湊町1丁目辺り)、土橋(東出郵便局辺りか?)の4つの橋が架かり、総じて天井川で、湊橋の少し下流を通った山陽本線(現在のJR線)の線路も川底をトンネルで抜いて敷かれていました。
現在の新開地商店街を歩くと、神戸高速新開地駅を出て北側(新開地1・2丁目)は結構勾配のある坂道となり湊川公園に至ります。この勾配は、この坂道を境に、下流の土手は兵庫神戸の市街地と同じレベルにまで削剥し平坦にしたことを物語っています。
最後に話は湊川隧道に戻りますが、この隧道は永らく「会下山トンネル」または「会下山隧道」と呼ばれており、地図にもそのように表記されていました。角川書店昭和63年発刊の「兵庫県地名大辞典」にも「会下山トンネル」の項目で出ています。
しかし、平成7年の大震災に隧道が被災した際、その修復工事で構内より「湊川隧道」と書かれた建設当時の銘板が発見されたことにより、現在ではこれが正式名称として認められることとなりました。「会下山・・」としたのは、前出の湊川公園の下を走る道路を「湊川トンネル」と呼ぶことから、これとの混同を避けたのかと推測します。
平成12年12月には、北側に新たに倍の断面積をもつ「新湊川トンネル」が竣工、通水し、明治時代から100年に渡って流れた湊川隧道は河川トンネルとしての役目を終えることとなりました。
【2】川崎本通りに関する記述を追加
【3】訂正(誤)夢野村→(正)石井村 湊川町1丁目の明治時代の大字名