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[97038] 2018年 11月 26日(月)20:05:38hmt さん
宝塚に関する情報3題
1 初代市長

[97035] グリグリさん
なお、宝塚市の初代市長は田中九右衛門(S29.5.8就任)です。

初代宝塚市長の就任日は リンクされた水道事業資料の 3/17コマにもありますが、宝塚市>選挙の統計情報の中に、候補者別得票数や投票状況の記録がありました。
それによると、昭和29年5月8日執行の宝塚市長選挙は、立候補者4人で、65%と高い投票率。
当選者と次点者とはかなりの接戦でした。

[97002]で引用した『近代宝塚歴史紀行』(ウイルキンソン・タンサン)にも「合併問題の渦」という言葉が使われており、市長選挙が 1954/4/1の合併期日に間に合わず、宝塚市発足当初は、旧・良元村女性村長の岡田さんが「市長職務代理者」を務めたことなどが記されています。
このことから、合併そのものは成立したが、市長の選定問題は難航したことが窺えます。

なお、初代宝塚市長は4年の任期を全うすることなく、2年後に第2回の市長選挙が行われました。

2 行政地名:兵庫県武庫郡良元村宝塚町

[97013] ekinenpyouさん
武庫郡良元村大字伊孑志村の一部を分離してT4.11.10より(大字)宝塚町を設置とありました。

1954年に発足した「宝塚市」は武庫川の両岸に跨っているが、自治体名になったのは左岸の「川辺郡宝塚町」で、1951年のことでした。そのことから派生した疑問「"宝塚"が地名になったのは何時からか?」[97002]に答える調査結果をいただき、ありがとうございます。

今回、1915年まで遡った行政地名「宝塚」のルーツ。それは「宝塚旧温泉」の所在地・武庫川右岸の「武庫郡良元村宝塚町」でした。
1915年(大正4年)11月13日の官報広告欄に記された兵庫県の通知 大字区域変更 并(ならびに)大字新設
武庫郡良元村大字伊孑志(イソシ)の内 左の区域を分離し 来月十日より(大字)宝塚(タカラヅカ)を設置せり  大正4年11月  兵庫県  塚原など7字の全部と3字の一部

宝塚が加わり5大字になった大正7年市町村名鑑
「孑」というのは、珍しい字ですね。漢和辞典では「子部」に「ゲツ」という音で収録されていました。
使用例:「孔」の左側。ぼうふら「孑孑」。

3 近代的な「新」温泉と 伝統的な「旧」温泉

[97013]にリンクしていただいた「宝塚温泉物語第2章」も興味深く拝見しました。
後に炭酸泉に溶食【溶蝕】された新温泉大理石浴室[97002]の写真もありました。
向かい合う武庫川の両岸は 共栄を願いながらも、新・旧温泉で発展への競争。
1915年の「武庫郡良元村宝塚町」と 1951年の「川辺郡宝塚町」という地名争い?も、両岸の温泉が関係。
[97012] 2018年 11月 20日(火)14:47:17【1】hmt さん
女性首長
[97010] グリグリさん
女性首長一覧の更新漏れ:兵庫県良元村の岡田幾村長(1951年就任1954年廃村)[97002]

参考文献:「レジーム再編と女性首長」という論文です。その 6コマに女性町村長の経歴一覧表がありました。
しかし、岡田幾さんの年齢は記載は見当たらず。

なお、この表では 千葉県安房郡神戸村早川村長の初当選が 1947年となっていますが、これはグリグリさんの 女性首長の一覧・冒頭説明にあるように、1948年が正しいようです。[91257]参照

余談ですが、第1回統一地方選挙で当選した前任の村長は、強権発動による米の強制的供出割当がらみにより、僅か1年で失脚辞任。
食料不足時代ならではの事件でしたが、これが5人目の女性首長誕生につながったようです。[91257]の資料(1)参照

上記参考文献(選挙研究29巻 2013年)には、女性町村長だけでなく、女性知事や女性市長の一覧表もあります。
[97006] 2018年 11月 18日(日)17:35:02hmt さん
五重塔
五重塔コレクションのリリース[97001]を知り、真っ先に記憶に甦ったのが、「女人高野」と呼ばれた室生寺の五重塔でした。

大戦後間もない 1949(昭和24年)/1/26の法隆寺金堂火災をきっかけに、作家の山本有三らによる参議院議員立法による文化財保護法が、翌1950年に制定されました。毎日新聞

この法律に基づく基準により 第一次の国宝指定(1951/6/9日)を受けた 181件の中で、法隆寺金堂などの建造物は 37件ありました。

このうち、屋外にある五重塔は、コレクションに収録されているように、法隆寺・室生寺・醍醐寺の3件です。
海龍王寺五重小塔は 屋内にある建造物ですが、これも第一次指定。

「五重塔」ではないので、今回のコレクション対象外ですが、国宝の第一次として指定された「塔」を拾い出してみると、フェノロサが「凍れる音楽」と讃えた西の京の薬師寺東塔(三重塔)、法隆寺と同じく斑鳩の里にある法起寺三重塔、石山寺多宝塔と有名な塔が並びます。

・三重塔や十三重塔はどうするか?多宝塔(事実上の二重塔)は?
というコメント [96947] EMM さん もあります。対象拡張を検討していただければ有り難い と思いますが、「石造」の五重塔までを含んでいる現在の対象のまま 十三重塔に拡張すると、多くなりすぎる?

私としては、「木造」限定でよいのですが、多武峰(とうのみね)の談山神社[13109][76112]にある、世界唯一の木造十三重塔は、この種のコレクション対象としては、是非加えておきたい珍品であると思っています。

室生寺の五重塔に戻ります。
私がこの 小ぶりながら 魅力的な美しさで 人を惹きつける天女 の姿を見たのは 何十年も前ですが、台風で倒れた巨木の下敷きになって大破した というニュースを記憶しています。

その後を気にしながらも そのまま年月が過ぎましたが、今回のコレクション収録で健在を知り、調べました。
被害をもたらしたのは 平成10年(1998)台風7号。なぎ倒された巨木が小さな塔に倒れかかり、初層から五層までが損壊した無残な姿。宮大工たちも言葉を失うような惨状だったとのこと。
重さ6トンもの塔をジャッキで持ち上げ、桧皮葺の屋根の修理には、室生山のヒノキ500本の樹皮7.5トンを使用。修理の際の調査により、塔の建立年代を 800年頃とする従来の定説が裏づけられた。

室生寺の五重塔は、無事に再生できてよかったのですが、幸田露伴の名作『五重塔』のモデルになった東京・谷中・天王寺の五重塔は、1957年焼失したままで、コレクションの対象になりません。

文学作品だけに残る「谷中の五重塔」を作った大工の名は のっそり十兵衛
[97002] 2018年 11月 16日(金)18:54:02【1】hmt さん
地名ではなく、温泉名だった「宝塚」
「宝塚」を話題にした機会に、この名が「地名になった」のは意外に新しいことを記しておきます。

[96956]で紹介されたFAQの回答には、「その近くで物を拾った人には幸運が舞い込むと信じられていた古墳」があり、これが市名の由来という説が記されています。

自治体名としての「宝塚」が出現したのは、宝塚市成立の約3年前、1951/3/15の町制/改称でした。
兵庫県川辺郡小浜村→宝塚町。
変遷情報を明治合併の 1889年まで遡っても、「宝塚」という旧村名は見当たりません。
「宝塚」が地名になったのは何時からか?

古墳の呼び名から地名になる間を繋ぐ名前としては、「宝塚駅」が思い浮かびます。
阪鶴鉄道宝塚駅(国鉄>JRの前身)は 1897年12月開業。阪急の前身・箕面有馬電気軌道の開業は 1910年。

駅名より更に古いのが温泉名でした。阪急の創業者・小林一三が、宝塚音楽学校創設【1913年】の頃を回顧した『宝塚生い立ちの記』を 青空文庫で読んでみると、「四十年前の宝塚風景」として次のように記されていました。
宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった。その温泉の位置はやはり現在の旧温泉のある附近…武庫川の岸にささやかな湯小屋…。その湧出する鉱泉を引いて、初めて浴場らしい形を見せたのは、明治二十五年のこと…。
その後、阪鶴鉄道の開通とともに、宝塚温泉は急速な発達を遂げたが、1910/3/10 【阪急の】電車開通当時は、武庫川の東岸【左岸】すなわち現在の宝塚新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林のつづく河原に過ぎなかった。

その宝塚温泉も、明治時代に栄えたのは武庫川西岸の旧温泉側【武庫郡良元村】であったようです。
駅側の 新温泉は、阪急が乗客誘致のために明治末の 1911年に開業したものです。
私は 1950年代末期頃 大理石を使った豪華な大浴場を利用した経験がありますが、炭酸泉に溶食されていました。
炭酸カルシウムの大理石が炭酸水に溶けるのは、ケミストならずとも常識でしょう。
小林一三さんは偉大な事業経営者ですが、材質選定が不適切と実感したのでした(笑)。

それはさておき、宝塚温泉としては、広く事業を展開した新温泉が栄えました。
小林さん本人は「無理にこしらえた新都会」と記していました。
蒸気加熱設備のない室内プールで失敗しても、これを温泉客寄せの 少女歌劇場に転用し、花嫁学校につなげるなど、事業展開の才能には舌を巻きます。

「タカラヅカ」の名は温泉から脱皮し、新しい舞台芸術として 広く知られる名前になりました。
新温泉のある東岸側・川辺郡小浜村が 1951年に「川辺郡宝塚町」を名乗ることになったのも当然でしょう。

変遷情報を見ると、昭和合併時代の 1954/4/1に 宝塚市が誕生しています。
1950年国勢調査人口では、武庫川右岸の武庫郡良元村 21687人、左岸の川辺郡小浜村 15090人で、居住者は良元村の方が多いのですが、新市名は、一足先に小浜村から改名していた 全国区の「宝塚」になりました。

突然ですが、ここで女性首長の情報です。

宝塚市になって消滅した兵庫県武庫郡良元村の 最後の村長は女性でした。
岡田幾(おかだ いく) 1951/7/5当選 1954/4/1良元村消滅 

岡田指月(しげつ)の名で俳誌「白扇」を共宰する女性俳人でした。
合併問題の渦中にあった村長就任時の句:身をすててゆくや茨の夏の道
宝塚市誕生を喜ぶ句:春光に産声高し宝塚
安堵して村長職を辞任する時の句:戦ひは終りて安き日永かな
出典 近代宝塚歴史紀行

【追記】
この記事は小林一三『宝塚生い立ちの記』の冒頭文「宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく」に基づいて書いたものです。
その後、1672年の検地記録に「川面村の小字として宝塚東・宝塚南・宝塚北が記されている。」という異説が記されていることを、Wikipediaで発見しました。しかし、この点については 未修正です。ご承知ください。
[97000] 2018年 11月 16日(金)18:02:09【1】hmt さん
「塚」という字の来歴
「塚」という字の来歴
hmtマガジンに 特集 地名漢字(1)塚 を作りました。
[96956]で 雑学 市区町村名の画数 がリリースされ、賑っている地名漢字記事へのフォローです。

現存する市町村名の中で「塚」が使われているのは4市1村、横浜市戸塚区を加えても僅か6件[65927]ですが、話題になった地名漢字の代表として「塚」を選びました。

「塚」を選んだ理由は、常用漢字に採用されている 12画の「塚」[65972]の他に 13画の旧字体、いわゆる「ひげ塚」が存在するということだけでなく、平塚市など多くの自治体が 常用漢字使用に移行している中で、宝塚市が強い愛着を持って旧字体を使用しているように思われる点に注目したためです。

今回の特集に収録された記事から「塚」という字の来歴を要約しておきます。

[65948] 土偏と「丶」のある「塚」【13画の旧字体】:中国では「冢」zhong という字の“異体字
[65962] 漢字の本筋としては、「つちへん」がなく「丶」がある「冢」という字A が“正字”
[65964] 「冢」は、土を盛り上げた大きな墓 を意味する
 足を縛られた【丶】 いけにえ【豕】を埋め、土【俗字の土偏】で覆う【ワ冠】
[65962] 土偏のある「塚」という字B【13画の旧字体】を(日本では)普通に使用
 平塚市(1932)や宝塚市(1954)が誕生した時代には、当然この字を使用
[65903][65972] 1946年当用漢字1850字制定 塚は慣用正字13画Bも「丶」なし俗字12画C 共に「表外字」
[65972] 1977/1/21「新漢字表試案」1900字の中に「丶」がない「塚」Cが登場【12画の新字体】
[65962] 「常用漢字表」制定(1945字 1981/10/1)で公式に認められた C【12画の新字体】
[96995] (引用記事)宝塚市は1985年に市名に「丶」を入れることで見解統一【現在も13画を徹底】
参考: 宝塚市トップページの冒頭画像B 【1】誤記訂正

更に、平成合併によって自治体名ではなくなったが 市内の地名として存在する 藪塚本町の「塚」。
これについても、現在の大田市HPに正式表記は旧字体Bであることが記されています。【1】誤記訂正

「ひげ塚」のような字体問題は、宝塚市のような 現存市町村名 に留まる問題ではないようです。
[96951] 2018年 10月 22日(月)19:08:53hmt さん
明治150年
今年 2018年は、「明治」という言葉が登場した 1868年から 150年になります。

政府は、明日 10月23日に 憲政記念館で 記念式典を開催します。
明治150年記念の銀貨も既に発行されているようです。裏面は、明治初期の20円金貨の紋様。
額面千円ですが、財務省の販売価格は 9000円とのこと。日経2018/5/25

50年前・明治百年の時の大蔵省は、こんな「商売」をしなかったように思うのですが…

それはさておき、「一世一元制度」と共に「明治」という新元号を定めた 明治改元の詔書が 第726号として行政官から布告されたのは、九月八日でした。
10月23日は、この旧暦【天保暦】日付を、グレゴリオ暦【明治6年採用の太陽暦】に換算[21976][49122]した日付なのです。

上からは 明治だ などというけれど、「治明」【おさまるめい】と下からは読む

新しい政治体制を引き継いでいる政府としては、150年の成果を誇らしげに宣伝したいところですが、この狂歌[75516]に示されているように、庶民からは 横暴な田舎侍(おはぎ・おいも)への反発があったようです。

戊辰戦争で負けた側にとっては、「明治150年」というよりも「戊辰(ぼしん)150年」なのかもしれません。
でも、干支(えと)は 60年周期なので、150年は2周期半。今年は「戊辰」でなく「戊戌(ぼじゅつ)」です。

既に[75457]で書いたことですが、改元の遡及効果について。
慶応四年を改め明治元年と為す
明治改元までは、このように 年初に遡って歴史に記録する のが正式でした。

しかし、当時使っていた日付を そのまま使う現在方式の方が解り易く、落書き帳の記載には、便宜上、新方式の表記を多用しています。ご了承ください。

明治150年というニュースに接し、取り留めのない記事を書いてしまいました。
私としては、「都道府県市区町村」というサイトなので、約150年前の「府県」を再認識する機会と捉えています。

150年前というと、まさに「府県」が誕生しつつある時代でした。
詳しくは、hmtマガジン 「府県」の誕生から廃藩置県までをご覧ください。
[96938] 2018年 10月 18日(木)18:16:37hmt さん
MIさんにお礼
[96936]の御教示、有難うございます。
例示により、urlの「&extent=」以下の記述による 経緯度指定を知りました。
[96934] 2018年 10月 16日(火)19:25:21【2】hmt さん
五千分一東京図測量原図
[96933] MI さん
これ【永田町の富士見坂】については url が変わっており、千代田区内の坂の14.に説明があります。

御指摘を受けて、[96931]【追記2】で対応した際に 記事番号を誤記し 失礼しました。こちらが正しい番号でした。

今回の本題は、同じ[96933]で教えていただいた「五千分一東京図測量原図」を使ってみた報告です。

1884(明治17)年に作成された「五千分一東京図測量原図」は復刻版もありますが、農研機構の所蔵するものが公開されており、閲覧することが出来ます。「マップビューアーで開く」をクリックすると地図が開きますので…

デフォルト地図は、皇居を中心とした都心部の縮小地図でした。
ズームとスクロールによって、皇居の西側に移り、右に桜田濠【内濠】、左に弁慶堀【外濠】という配置にします。

明治の地図では弁慶堀の岸に赤坂区役所があり、少し東の赤坂門【赤坂見附、明治の地図の表記は南坂門?】まで伸びている濠(現存)と共に、よい目印になっています。

地図の右(東)方を見ると、桜田濠に沿った広大な敷地に陸軍の施設があります。
その中でも東京市麹町区永田町一丁目一番地。
三宅坂交差点に面するこの地については、地図の元締め 陸地測量部の住所に関する記事[94784]を書いたことがありますが、それよりも前の五千分一図には、陸軍省、その南に参謀本部と記されていました。

【追記1】
五千分一図が作られたのは東京市発足以前ですから、[94784]記載のまま書いた上記の番地は少し不適切でした。

それはさておき、この東京五千分一測量は、先進的な技術・機器を持つ内務省地理局の測量部門を併合した 参謀本部測量局による 本格的な地図作りの始まりでした[44653]
地図がフランス式彩色図から、ドイツ式一色図に変ったのも同じ時代ですが、明治17年に測量が完了した参謀本部の五千分一東京図も、フランス式彩色図で作られた原図があり、そのWEB公開が 今回落書き帳に登場したのでした。

なお、参謀本部と同じ測量結果を共有して作成された 内務省地理局の五千分一「東京実測図」15面(明治19-21刊行)についても、[44653]で言及しました。カラー印刷ではありませんが、参謀本部の地図よりも 範囲が少し広く、およそ東京府15区の範囲をカバーしているようです。柏書房の復刻地図集だけでなく、人文社の「明治の東京」(1996)に記された溜池の話[33199]も、この地図の説明でした。【追記1終】

話を永田町の富士見坂に戻すと、この坂は 赤坂見附と三宅坂との間に位置するわけですが、明治16-17年の五千分一図には、まだ姿を見せていません。

以上が、ご紹介いただいた「五千分一東京図測量原図」を眺めた結果です。

MIさん[96933]が記載してくれた情報。
これを個人的に確認するだけならば、マップビューアー上の前記操作の報告だけでよかったのです。
しかし、多くの読者に伝えるには、作業結果を地図で示したい。そのように思いました。

2万分の1の歴史的農業環境閲覧システムのように「Permalink」が付いていれば有り難いのですが、今回の五千分一図では、この状態の地図を示す方法がわかりません。

そこで、農業土地利用変遷マップを使い、東京5千分の1を表示してみました。

このマップのデフォルト地図は 新常盤橋付近の zoom=17図でした。
これをスクロールして永田町の富士見坂の位置にして、 永続リンクを表示させたた結果 です。

ここで得た地図は、「参謀本部の五千分一東京図」に現代の基盤地図情報/地名【青字】を重ねたものです。
だから、後者のレイヤーを透明にすることで、国道246号【現代の富士見坂】などを消去すれば、明治前期の地図に戻ります。

赤坂区役所。赤坂門【南坂門?】。坂名の記載がないこと。三宅坂までの道路はまだつながっていないこと。
そして、汐留川上流になる小川の周囲に 湿地状態で残る「溜池」[33199]

地図の扱いをよく理解できていませんが、ご紹介いただいた「五千分一東京図測量原図」。
どうやら、有用な資料として使いこなす手がかりを得たような気がします。

【追記2】
五千分の一東京図の礼賛記事 がありました。
残念ながら東京の中心部しかカバーしていないこの地図は 上記の基準【正確さ、使いやすさ、美しさ、歴史的価値】を全て満点で満たす最高の地図である.

この地図を自由にWEB閲覧できる時代が到来。農研機構だけでなく、教えてくれた[96933]にも感謝。【追記2終】
[96931] 2018年 10月 13日(土)18:08:09【2】hmt さん
永田町の富士見坂
きっかけは、WEBを眺めているうちに AERAdotで偶々見つけた 55年前の「永田町」 という写真です。
鉄道写真家の 諸河久さんの名は雑誌で存じ上げていたのですが、「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」を連載中であることは知りませんでした。

これだけなら、こちら都道府県市区町村落書き帳への投稿に繫がることはないのですが、次ページの記載が気になりました。
この界隈。学生時代から疑問だったのだが、赤坂見附から平河町に続く坂道の名称が不明だった。(中略)
現地踏査しても不明だったので、赤坂見附の交番にお邪魔して、お巡りさんに質問
したが、解決せず。
ご存知の方からのご教示をお待ちしたい。
とのことでした。

東京の坂道について 特に詳しいわけではありませんが、問題の坂が「富士見坂」であることは知っていました。
埼玉県ですが「富士見市ふじみ野」の住民でもあり、そのまま放置しておくことが できなくなり、教えてあげたい。
ツイッターを使えば連絡できそうです。でも 私は使ったことがなく、手を出せません。

慣れ親しんでいる こちらのページを利用すれば、何らかの情報仲介も期待できのではないか? 
というのが、この記事を書き込んだ趣旨です。

落書き帳過去記事で「富士見坂」を検索すると、[71914] 江戸の坂道 と題する記事がありました。
これによると、江戸に富士見坂が多数あったことは書いているが、永田町の富士見坂には触れておらず。
[22911] KMKZさん では http://www.t3.rim.or.jp/~kuri/fujimi/ 東京の富士見坂 が紹介されており、そのサイトの千代田区には、永田町・富士見坂 を紹介したページへのリンクもありました。

千代田区の坂(3)~平河町・麹町方面 には 地図リンク もつけられていますが、説明文を見ると【標識なし】と記されています。

【追記2】[96033] MI さん の御指摘に基づき、【追記1】を再修正しました。
この説明文には千代田区ウェブサイト【url変更】からの引用文がありました。

首都高速道路の下になって、現実の景観と外れてしまった「富士見坂」という名称の取り扱いについて。

ウェブサイトの説明文や標識が見当たらなかったことから、千代田区としては「富士見坂」の地名を放棄したいのかと疑ってしまいましたが、説明文urlの変更でした。
富士山の眺望が失われて久しい「永田町の富士見坂」ですが、地名ファンとしては「過去の景観を伝える文化遺産である地名自体は残したい」と考えます。
諸河さんやお巡りさん、そして多くの地名ファンの隠れた希望も考えていただきたい。
「富士見坂」の地名消滅に通じるようなことはせず、標識も建てていただけないものでしょうか。

余談ですが、三宅坂[94784]交差点から西に進む青山通りには、富士見坂の坂上付近の南側に 全国町村会館があります(千代田区永田町1-11-35)。
富士見坂を西に下った青山通り北側には、都道府県会館があります(千代田区平河町2-6-3)。
富士見坂を離れ、都道府県会館から右(北)に進めば、都市センターホテルの先が 全国都市会館です(千代田区平河町2-4-2)。【追記終】
[96927] 2018年 10月 11日(木)19:42:41【1】hmt さん
東京臨海部の陸地化2 (1)東京都中央卸売市場 「ターレ」の行列
我が国最大の規模を持つ生鮮食品市場が、再出発しました。
豊洲市場が開場 2年遅れ、築地継承の中核市場始動 日経2018/10/11

「東京のローカルニュース」と言えば それまで なのですが、大きな胃袋を抱えた大都市の台所。
産地直送、インターネット販売など、従来と異なる商品流通システムが稼働しつつある中で、これまで流通の中心になっていた市場の役割も見直されつつあるようです。
巨額の投資を伴った豊洲の新設備の将来が注目されます。

築地市場から豊洲市場へ。落書き帳の初期。‎[5229]蘭丸さんの「中央区」と題する記事がありました。
この区は銀座や日本橋といった日本を代表する商都を抱えており、東京都中央卸売市場築地市場も預かっています。
戦後、日本橋区と京橋区が統合されて誕生した中央区ですが、銀座・日本橋の賑わいは今や新宿や渋谷に押され気味、築地市場も、都は地元の反対を振り切って江東区豊洲へ移転計画を進行中です。

「中央」と言えば卸売市場法に「中央卸売市場」という制度があり、特に重要な都市地域における生鮮食料品等の卸売の中核的拠点と位置づけられています。

3都府県と37市とが 64市場を開設しており、Wikipediaに一覧表がありました。
これによると、東京都には 11市場が存在し、2010年度取扱金額は、青果5296、水産4571、食肉978、花卉856、合計11701億円で、東京の総額は1兆円を越えていました。

10月6日に廃止された 築地市場のデータを見ると、2014年1日当りの取扱金額(百万円)が、水産: 1611、青果:323となっていました。合計金額 1934百万円/日を260倍すると 約5000億円になります。【11市場で45億/日、260日計算で2010年度の金額とほぼ一致】

築地は、東京にある 11の中央市場の中でもダントツの知名度を持つ市場ですが、取扱金額を見ても、全体の 半分近くを占める日本一の巨大市場だったのでした。
この大市場が 中央区から江東区の豊洲に引越したわけです。

参考までに、11市場の中で築地に次ぐ大田市場【大井埠頭】は青果の他に花卉と水産の扱いもあり、合計1196百万円/日。
取扱規模の3番目は、品川駅港南口【芝浦】にある食肉市場で 495百万円/日。
以下、淀橋【大久保】、北足立【舎人】、葛西【臨海】、板橋【高島平】という順で、豊島【巣鴨】、世田谷【砧】、足立(水産)【千住】、多摩ニュータウン【永山】はその下位。【括弧内は参考までに記した地名】

江戸から東京へ 主な市場の歴史:
水産物市場(魚河岸)は、江戸以来の日本橋から 築地の83年を経て 今回 豊洲移転が実現。
開国による肉食の普及により 市内各地に作られた屠場。1938年 芝浦の施設ができ、これに統合。
最も長い歴史を重ねたのは 青物市場で、巣鴨とげぬき地蔵に近い 豊島市場の起源は 16世紀頃に遡るとか。
江戸時代以来、江戸の青物市場としては [51822]神田多町(たちょう)の名が有名で、関東大震災で焼失後も、神田の秋葉原駅北口で復興。戦後の 1989年 大井埠頭埋立地の大田市場が開場し、移転。


築地から豊洲への引越作業も大仕事だったようです。
冒頭の日経にもありましたが、朝日2018/10/7の記事を引用します。
7日は早朝から、市場で使われる小型運搬車「ターレット」(ターレ)やフォークリフト300台以上が、使用開始前の環状2号線を走って豊洲へ移った。

「Turret」という言葉は、欧州の城郭に由来する円筒形砲塔が起源で、戦車や軍用機の砲塔・銃座、更には消防車・旋盤・顕微鏡のメカなどにも使用。ここに登場するのは、市場の狭い構内を走り回る運搬用車両。円柱状の動力部と、荷台とが合体した立ち乗物で、動力部自体がハンドルの役目をしています。
昔は内燃機駆動でしたが、その後登場した電動車に置き換えられているようです。築地市場を走りまわる「ターレ」の謎に迫る

今回の 東京都中央卸売市場引越 に際しては、築地から豊洲の区間について、公道化する直前の環状2号線[85227]をターレット・トラックの行列が走り、とても珍しい光景が動画に収められていました。


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