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hmtさんの記事が5件見つかりました

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[94082] 2017年 10月 25日(水)17:44:53【1】hmt さん
明治18年 葱畑?に作られた 大阪ミナミの鉄道ターミナル
[94063] ekinenpyou さん
明治39年、帝国議会における鉄道国有法審議に関する詳細な議事録を紹介していただき、ありがとうございます。
そして、同時にご紹介いただいた南海鉄道の『開通五十年』(昭和11年)に記された 阪堺鉄道開業当時の難波界隈も 興味深く読ませていただきました。

難波の名産であった葱【注】の畑に作られたという難波駅。南海線の前身・阪堺鉄道による用地買収は、私鉄でありながらも「公用土地買上規則」による評価で行なわれたことなど、政府の手厚い保護があったことを知りました。
予定地内の人家立退料として記された地名が「六番町」と「難波村」でした。
【注】ねぎ
だから、葱を使った料理のことも「なんば」という。しかし、この説には 疑問もあるようです。

六番町とは、大阪に市制が施行される前の 郡区町村編制法による大阪府4区の一つ「南区」にあった 難波新地六番町を指し、私が[83142]のタイトルとして記した 
「なんば」が まだ「大阪」でなかった頃
が不正確な表記であったことは ご指摘の通りです。
難波新地も元は難波村でしたが、明治初期に大阪の市街地が拡大して難波新地一番町から六番町への再編成となったようです。

なお、難波村の方は大阪府西成郡の4つ目に記されており、明治22年の町村制施行によって新制度の 西成郡難波村 になりました。
# ふりがなに用いられた「ば」という文字が読めますか? 現在では殆ど使われていない変体仮名です。

買収地価や立退料が六番町と難波村とで差が付けられてないところをみると、難波駅建設当時には市街地と郡部の区別がつかないほどになっていたのかもしれません。

西成郡難波村の大阪市編入は明治30年。変遷情報を見ると「西区に編入」となっています。難波新地の南区とは異なる区になったのでしょうか? 
その後 浪速区への編入や境界変更があり、南区だった難波駅の住所も 現在は中央区になっています。

hmtマガジン市街地乗り入れに成功した鉄道の冒頭では、1972年の初代新橋駅を「例外的に市街地に入り込んだ 形」と書きましたが、市制施行よりもずっと前の明治18年に「区部(市街地)の鉄道駅」となっていた難波駅も、市街地駅の先駆として特筆に値する存在なのかもしれません。
難波という地名も、駅施設の所在地も市街地と郡部との境界に跨っていますが、「駅の住所」は確かに大阪市です。

[94063]ekinenpyouさんクイズの答えに付け加える蛇足
この記事で挙げていただいた明治32年の官報附録 全国各鉄道停車場名称及位置並哩程表の時点になると、大阪市の第一次市域拡張後なので、「大阪駅」の所在地であった曽根崎村も 既に北区に編入されています。大阪市域拡張図(1)
[94036] 2017年 10月 19日(木)19:58:35hmt さん
沖縄県島尻郡伊平屋村の分村
[94000] ekinenpyou さん
なお「分割」ですが、新設自治体名に従来と同じものが継続して使用された場合
「分立」と区別し難く混同されるケースがあるので注意を要します、

例示していただいた昭和14年の伊平屋村分村の件を少し調べてみました。

初めに、この村が存在する特異な位置を確認する目的で、北緯27度を中心とする地理院地図を示します。
一口で言えば、鹿児島県南端の奄美群島与論島と同緯度、沖縄県最北の村です。無人の硫黄鳥島[28741]は別。

沖縄本島 本部(もとぶ)半島の北方に見える群島がそれで、南の伊是名島は前地(メーヂ)、北の伊平屋島は後地(クシヂ)と呼ばれます。小さな無人島まで数えると7島ある「伊平屋の七離」です。有人島は野甫島を含めて3島だけ。

琉球王朝第一尚氏発祥の地と伝えられる伊平屋島と伊是名島とは古くから「伊平屋島」と総称される一つの行政地域になっており、琉球王府の番所は伊是名島に置かれていました。
1879年の琉球処分により沖縄県になった後もその状態で、前地・後地にそれぞれ4村がありました。

そして、1908年の沖縄県及島嶼町村制施行で 島尻郡伊平屋村(いへやそん)という自治体が発足しました。
沖縄県でも、本土と同様に これに合わせた明治合併が行なわれました。旧村は後地(伊平屋島)に属する旧4村(我喜屋村, 田名村, 島尻村, 野甫村)と前地(伊是名島)に属する旧4村(伊是名村, 仲田村, 諸見村, 勢理名村)の8村でしたが、沖縄では 旧村は末尾を【ムラ】と読み、新制度による自治体の読み【ソン】と区別されています。

町村制施行時の変遷情報には旧村名が記されていません。
神奈川県などいくつかの県で行なわれたのと同様に、制度変更に先んじて直前の合併を行ない、その後で 新制度を施行するという2段階の処置が行なわれたのでしょうか?
それとも、単なる旧村の記載漏れか? 私には何れが正しい関係を示すものか判断できません。

前置きが長くなりましたが、1908年の新制度から31年後の1939年に実現した 前地と後地との分村 が本題です。

沖縄県が官報広告・村廃置に記載した文面には「島尻郡伊平屋村を廃し」伊是名村・伊平屋村を置く とあり、確かに 旧伊平屋村の法人格を引き継がない「分割」であると判断されます。

伊平屋村の歴史には、伊平屋村分村の動機として「村役場が伊是名島にあったので不便」であることが挙げられていました。
------引用文-------
村役場が伊是名島に設置されていたため、諸会議、役員吏員、一般民衆の不利不便は想像を絶するものがあり、村議会に分村問題を提起も取り上げ採択されず、民衆は苦境になげく状況が続きました。しかし、分村熱はますます高まり、大正5年伊平屋島(後島)有志が伊是名村との分村請願書を沖縄県に提出。伊平屋においては「分村期成会結成会」も結成され、住民の意向をうけた村議会、村当局も国、県に請願したことで、分村が実現の方向に進み県当局、県議会の調査決議を経て、ついに昭和14年5月23日、内務省令により分村許可、百有余年の懸案であった伊平屋島(後島)住民の嘆願が実現のものになりました。
------引用終-------

ここに記されているように 主な分村動機があったのは 後地側であったようです。
もっとも、これは 後地が前地と同じ村になっているのを嫌った とかいうことではなく、一つの行政地域として統治するならば必須である筈の「交通手段が整えられていなかった」ことに根本原因があるのだろうと思います。

当時の経済事情からして、前地と後地とを結ぶ村営渡船を実現することが困難ならば、解決手段は「分村」です。
役場で代表される公共機関から隔絶されており、分村を希望した 後地側を 伊平屋村のまま「分立」とし、残留する前地側は 同名回避を兼ねて 伊是名村への「改称」で処理する。これが妥当な処理であるように思われます。
前地が多数を占める分村後の国勢調査人口も「後地分立」説を支持しているようなのですが、歴史が関係する「名称の維持」が決め手になって、「分割」に落ち着いたのでしょうか。なお、面積は後地>前地でした。

地域村名面積194019501955196019651970197519802000200520102015
前地伊是名村15.42365255745689503743873279228621441897176215891517
後地伊平屋村21.82271039854008363130832254133815011530154713851238
1939分村km21940琉球琉球琉球琉球琉球1972復帰19802000200520102015

それにしても、1908年の沖縄県及島嶼町村制施行で名乗ったのが、何故「伊平屋村」だったのか? など疑問は残ります。歴史的価値から伊平屋が上位だったのでしょうか。

役場支所を作るなど別の解決法もあったように思うのですが、それだけではなく、他の地域格差もあったのでしょう。「百有余年の懸案」との記述は、この分村問題には 役場以外の理由も潜んでいるように思われます。

せっかく手に入れた役場庁舎を分村後間もない 1941年に失火で失うなど、思わぬ災難もありました。
更に大きな災難は、言うまでもなく沖縄県が戦場になったことです。伊平屋島にも 艦砲射撃・空襲・米軍上陸。
住民は捕えられて、米軍に命じられた強制労働に使役されました。
1945/11/22米軍が伊平屋から引き揚げて、収容所から開放され、焼土になった集落に帰ることができました。

話を変えます。
伊平屋村と伊是名村との違いの問題でなくて共通の問題ですが、沖縄県の北部にありながら「島尻郡」に帰属している点があります。
実は、上記人口表で琉球と記した期間は米軍統治下ですが、当時は国頭郡に相当する「北部地区」に含まれ、そのために 1970年に日本で使っているものに準じるコードが採用された際にも316と317が付けられました。
これについては、[27598] Issieさんの記事があります。

最初に示した地図から明らかなように、地理的には沖縄県の最北部にある村なのに、琉球王国時代・戦前の日本・戦後の日本復帰後を通じて「島尻」所属である理由。これを明らかにした資料を紹介したのが、[69111] hmtの記事です。

最後に問題の発端となった分割と分立との区別について。

用語としては法人格を受け継ぎ方により厳密に区別されていると思います。
しかし 分村の実務にあたり処理の対象となるのは 法人格だけでなく、名称・役場・人事・財産など多岐にわたります。
分村手続における分割・分立。これに基づいて、単純に「分村の実態」を推察することはできないようです。
沖縄県北部の事例を調べた結果、このような結論を得たことを この記事の結びとして記しておきます。
[93977] 2017年 10月 10日(火)19:56:02【1】hmt さん
分属・分裂の使用事例 そして トカラのこと など
[93971] ekinenpyou さん
1 若い方向け?のクイズ
 これは、対象者から除外されていると思われるので、パスします。(笑)

2 分属・分裂の使用事例
 明治19年茨城県における「分属」の使用例、同年長崎県における「分裂」の使用例を拝見しました。

 郡区町村編制法の時代なので、普通ならば「長崎県肥前国東彼杵郡大村を分裂し大村町を置かれたり」と書くところが、『駅逓局報』なので わざわざ「…大村郵便区市内大村を分裂…」という表記になっていると解釈しました。

この大村「分裂」が現在の用語では「分割」なのか「分立」なのか?
3年先の明治22年町村制施行時には、(旧)大村から村制で「大村」と「西大村」が生まれ、(旧)大村町から町制で「大村町」が生まれています。
この結果を参照すると、明治19年の旧制度における廃置分合は、農村と市街とを含んでいた(旧々)大村から市街地が大村町として「分立」し、農村部は(旧)大村として存続したと解釈されます。

「地所幾分を裂き」の使用例として示していただいた富山県の事例は、「一部を分けて」という程度の意味で使われており、「分裂」が「分割」を意味することまでは示していないと思われます。

3 戦前の鹿児島県大島郡十島村【じっとうそん】から現在の鹿児島県鹿児島郡十島村【としまむら】と三島村へ

[93971]で提供していただいたこの地域の「格差」を示す羽原論文。指示していただいた 15コマを見たら
太平洋戦争の終結すら、その年の11月になってはじめて知ったという。
離島であることは承知していた筈ですが、この「情報格差」には驚きました。

日付や表記など 問題もあったようですが、トカラにとって大きな転機だった 1952年の日本復帰と分村とを中心とした動きは、変遷情報一覧表によって 一応辿ることができます。
これを肉付けする 主な落書き帳過去記事をまとめておきました。ご参考まで。

【追記】
この記事集を見ていたら、敗戦後間もない頃の占領軍指令により北緯30度以南の施政権が失われた結果、当時の十島村【じっとうそん】の領域が上三島に限定されることになったことを告げる 内務省告示昭和21-22が記されていることに気がつきました[82237]

村の面積が縮小する事例は多数ありますが、主なものは他の自治体への一部編入によるものであり、軽微な場合は境界変更の手続きによります。
1946年の十島村のケースでは、有人島数が10から3に減少し、人口もそれに応じて3分の1になる。
この大きな変動が、廃置分合でも境界変更でもない手続きで行なわれた事例。これは珍しいと思いました。

官報(右上)によりその名目を確認したところ、「(地方事務所の)管轄区域改正」という名で告示されていました。
鹿児島県大島郡十島村の内 黒島、竹島、硫黄島

変遷情報に収録すべきか否かはグリグリさんにお任せするとして、珍しい事例だと思うので紹介しました。
[93949] 2017年 10月 6日(金)17:48:17【1】hmt さん
♪汽笛一声新橋を… 鉄道唱歌(1900年)334番の旅の終着駅はどこでしょうか?
間もなく10月14日。「鉄道の日」です。

10年前の秋の落書き帳で、100年前、国有化の頃の鉄道というシリーズ記事を連載しました。

事の起こりは、Issieさんが「鉄分いっぱい」に書いた[61073]中の1句「なぜかその南海が国有化されなかったにもかかわらず」に反応した単発記事だったのですが、記事を2つ書いているうちに欲が出て、タイトルを変更してシリーズ化してしまったのです。
その対象も 五大私鉄買収を中心とした 1906年から1907年にかけての国有化に留まらず、買収されなかった私鉄や、鉄道とは別物と考えられていた 軌道や電車などにも及び、自分でも予想外の長編になりました。

最終回は「明日、2007年10月14日「鉄道の日」は、新橋横浜間鉄道の正式開業[49808]から135周年になります。
大宮に 鉄道博物館 が開館します。」と結んでいます。

5年前には日本の鉄道創業 140周年を機会に hmtマガジンに 鉄道特集号 を作り、創業期の鉄道と共に 上記シリーズも収録しました。

鉄道創業145周年になる今年は、お馴染み「鉄道唱歌」を取り上げることにします。

この歌は、明治33年 西暦1900年に世に出ました。日清戦争と日露戦争との間です。
東京【駅名は新橋】神戸間の鉄道は既に1889年に開通していますが[61303]【名称の東海道線はM27年[87465]】、山陽鉄道のような幹線でさえ 未だに建設途上という時代でした。

車内放送のチャイム音しか聞いたことがないという方もあるかもしれませんが、1番の歌詞が「♪汽笛一声新橋を…」で始まることは、広く知られています。

作詞者は大和田建樹。七五調4句の歌詞に付けられた 調子の良い ヨナ抜き ピョンコ節のメロディーは 覚えやすく、今も歌われていますが、それは冒頭のごく一部に限られています。

レコードもラジオもなかった時代、歌をビジネスに結びつけたのは、版権を買った大阪の楽器店主・三木佐助です。
楽団を乗せた列車を走らせるなどの 奇抜な広告宣伝が成功・大流行した結果、明治33年内に第五集まで出版された 歌本はベストセラーになり、十数年間に約2000万部を売ったと伝えられています。

歌詞はすべて大和田建樹作詞ですが、各編2種類の曲を用意して 読者の好みに合わせる趣向も用意されました。
しかし ヒットしたのは多梅稚(おおのうめわか)作の曲であり、これが現在に歌い継がれています。

リンクした資料は明治44年発行の訂正版でした。よく見たら明治33年発行の初版から変っている箇所が 気になりました。電車ソング集で使われている歌詞の方が オリジナルに近いので、こちらも付けておきました。

日本各地の名所を含めて巡る汽車の旅を綴った長い歌詞が存在したことは、現在では忘れられています。
第一集 東海道を見ても、【6番】横須賀行は乗り換えと 呼ばれて降るる大船の 次は鎌倉鶴ヶ岡 源氏の古跡や訪ね見ん という具合に10番まで寄り道します。琵琶湖・京都・大阪・神戸と 寄り道を重ねながら 66番で東海道の旅を終えます。

その後、第二集は「♪夏なお寒き布引の 滝の響きを後にして 神戸の里を立ち出ずる 山陽線路の汽車の道」とスタートするのですが、25番の三田尻【防府】で「山陽線路の終にて 馬関【下関】に伸ばす汽車の旅」。
そこで少し戻って「徳山港を船出して 二十里行けば豊前なる 門司の港に着きにけり」となります。
鉄道は未完成ですが、日清戦争後という時代を反映して馬関条約にも言及。
31番から九州の旅。宇佐・箱崎・太宰府・熊本。八代から鳥栖に戻り佐世保・長崎に進み68番で終りますが、「あとは鉄道一筋に 瞬く暇よ青森も」。

…というわけで、第三集の東北・磐城が 64番まで、第四集の(上野から信越を経て)北陸編が 72番まで。
2003年の落書き帳[8880]に、鉄道唱歌第三集 1番と62番 の歌詞が引用されていました。

そして、明治33年の内に第五集(関西・参宮・南海)までが発表されました。これが 64番まであるので、累計334番になります。

全国を巡った鉄道の旅の終着駅こそ、南海鉄道の難波駅だったのでした。
♪治まる御代の天下茶屋 騒がぬ波の難波駅 勇みて出る旅人の 心は跡に残れども

これで、難波駅の昔話[93908][93912]にも関連した記事になりました。

おまけ
1 北海道唱歌・南の巻は明治39年に、北の巻も明治40年に作られました。大和田建樹の作詞で鉄道唱歌334番に40番まである北海道を加えると374番になります。
「千里の林万里の野 四面は海に囲まれて 我が帝国の無尽庫と 世に名ざさるる北海道」
函館から北海道を巡った終着駅は室蘭で、「青森までは海一つ」と歌われています。

2 大和田建樹(宇和島出身)は、明治41年に伊予鉄道創立20周年を記念して作られた 伊予鉄道唱歌も作詞しています。
[93947] 2017年 10月 5日(木)16:20:42【1】hmt さん
ようこそ ekinenpyou さん
ekinenpyou さんのお名前は 2014年11月のグリグリさんの記事[86602]で初めて紹介され、その直後には最初の落書き帳記事[86631]がありました。
2014年に2件、2016年に3件の書き込みがあった後、先日(2017/10/2)メンバー登録が実現しました。

5件でのメンバー登録実現は、2005年の たもっちさん(7件で登録)を上回る快挙だろうと思いますが、これも ekinenpyouさん の調査実績が グリグリさんに買われての結果であろうと 推察しています。
これから、よろしくお願いします。

メンバー登録の翌日に、私がギブアップした明治時代の変遷記録調査について、早速のレスポンスを頂きました。
その御礼を兼ねて、落書き帳への歓迎の辞と共に、明治の分村事例2題に関する記事をまとめてみました。

[93942] ekinenpyou さん

1 明治37年実施 木造町関係の分村手続
1903(M36).10.3青森県告示第308号ですが下記(右下)にて確認できます。

明治44年編纂の青森県例規に掲載されていた青森県告示M36-308を教えていただき ありがとうございました。
西津軽郡木造町を廃し 大字木造の区域を以て 更に木造町を置き
この告示原文前半により「(旧)木造町の廃止」を再確認しました。
後半の部分は、私が[93802]で提案した「縮小再置」という変遷種別を裏付ける記載です。

近隣の4村に引き取られた7大字については、下記のように [93802]記載の復元文では予想していなかった「分」という文字が使われていました。
大字△△を○○村に分属せしめ
しかし、これは 変更種別の「分割」に該当するものではありません。
「分属」とは、実質的に複数の「編入」を意味しているものと理解することができます。

官報は 告示日の10/3でなく 10/8の広告欄に「町廃置分合」として掲載されていました。
告示という言葉が使われず、告示番号や告示日もないのは、「広告」という性格によるものなのでしょうか。

参考までに、明治37年分村の結果生まれた1町4村のうち1町2村は昭和合併の木造町として復縁し、残る2村も平成合併でつがる市に復縁しています。

2 熊本県市町村合併史
2.1 第六章 三新法と地方制度 
44コマ(200頁)に記された「下野村の分村」。郡区町村編制法時代・明治12年の記録は「肥後国阿蘇郡河陽村分裂之儀に付伺」で「カワキタ」のフリガナがあります。
そして、私の関心がそそられたのは、「分裂」という言葉が使われていたことでした。
語感は が汎用的な「分割」に対して「分立」は親子のような関係に限定、「分裂」というと「喧嘩別れ」のような激しい印象です。
結局のところ町村制の時代になれば「長陽村」に統合されるのですが、明治初年にはこのような前史もあったということを知りました。

2.2 第七章 帝国憲法発布後の地方制度と町村大合併
12コマ(p.224)に「新町村名選定の事由」という項目がありました。
しかし、残念ながら阿蘇郡の町村については「記録なし」でした【17コマ】。


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