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[99869] 2020年 5月 31日(日)14:02:41hmt さん
Re:岐阜県「明治大合併」と「郡の再編成」
[99867] MI さん
フォロー記事に感謝します。

「郡の再編成」と「明治大合併」の順序を入れ替えました。

岐阜県において同日に施行された「郡の再編成」と「明治大合併」。
#36 「編入/郡変更」 という形で まとめられている 変遷情報は、「/」により順序付けされていたのですね。

「郡の再編成」は 1年近く前の「法律」で公布されていたのに、羽島郡に関する言及は
岐阜県美濃国羽栗郡及中島郡を廃し 其の区域を以て羽島郡を置く
だけでした。

新しい羽島郡の姿は、何時になったら知ることができたのか? それは、

法律施行日の前日 M30/3/31 に至り ようやく発せられた 岐阜県告示第58号 を待たなければならない

という状態でした。

そして注意しなければならないのは、この告示による廃置分合は「従前の郡」で行われているということなのです。

この告示を収録した岐阜県令達全書_明治30年 を見ると、羽栗郡と中島郡とに関する記載は 約1頁分ありますが、八神村に関する部分は その区域の増減に関する2ヶ所だけであることを確認しました。
中島郡大須村の一部(字平太島)の区域を八神村に合併す
中島郡小藪村及び午南新田を合し(中略)と八神村の一部(字名列挙)との区域とを以て小藪村を置く

記載がないということで 中島郡八神村の 法人格は維持され、郡変更法律の対象に残った と理解します。

ところで、M30/3/31の 明治大合併告示は、どのようにして岐阜県民に伝えられたのでしょうか?
当時の通信事情からすると、役場の掲示板が精一杯?

[99867]に紹介されたように、官報附録「庁府県公報欄」にも掲載されました。
しかし、それは 明治大合併の施行から 2ヶ月も経過した 明治30年6月になってからでした。

町村廃置分合
町村制第四条に依り各郡町村中 本年4月1日より左記の通 廃置分合す
明治30年6月 岐阜県
細かい文字で2頁4段余。1件毎の改行は省略され、「、」で繋げて記載。
[99866] 2020年 5月 30日(土)14:49:30hmt さん
明治30年 岐阜県羽島郡設置に伴い「新設?された」 15村
[99836]で 岐阜県市町村合併等経過一覧表【岐阜県合併一覧図 又は単に 一覧図 と略称】 を思い出しました。
一覧図 23-24コマの羽島市を眺めながら、当サイトの変遷情報と比較してみました。

その結果、一覧図と年代表と2つの資料につき、それぞれの特徴が見えたような気がしました。
参考までに ご報告しておきます。
関連して、変遷情報岐阜県の #28 と #192 について、軽微な修正意見も記してあります。

具体的には、一覧図 24コマ末尾付近に掲載されている 八神村と小藪村とに関する情報に関するものです。
一覧図の単位段に使われている「旧村単位」で数えると 2+3=5村の関係になります。

岐阜県合併一覧図から明らかなように、町村制施行の初日【1889/7/1】に 八神村は2村が合併して新発足しました。
他県と違い、岐阜県では 町村制初日の合併は例外的で、小藪村側の3村は 旧村規模のまま約8年を経過し、1897/4/1に 岐阜県特有の「郡の再編成と同時の明治大合併」を迎えました。

この地域が所属していた中島郡が、羽栗郡と合併して羽島郡になったことが 無視されていること[99836]はさておき、一覧図の特徴は、明治から昭和に至る合併の大勢を把握することができる点です。

旧区分の 2+3=5村は 【ほぼ】その区分のままで 八神村と小藪村に移行し、1927年(昭和2年)に至り合併。
その桑原村は、戦後 1954年の 10町村合体で、羽島市になった。これが明治から昭和への合併履歴概要です。

しかし、当サイトの変遷情報を調べてみると、明治30年の組換は、もっと複雑であったことが解ります。

岐阜県変遷情報 #28【新設/郡変更】 の詳細の記載。【便宜的な記号を括弧内に補って引用】
【#28-1】中島郡【b1】小藪村,【c1】午南新田,【d1】大須村及び【a1】八神村を廃し【#28-2】【b2】小藪村,【c2】午南新田, 【d2】大須村の内 字平太島を除く区域並びに【a2】八神村の内 字前野,字法六,字尾崎及び字外ニ等の区域 をもって 【b3】小藪村を置く
【#28-3】郡廃置により羽島郡小藪村とする

同じく #36【編入/郡変更】 の詳細の記載。
【#36-1】中島郡【d3】大須村を廃しその内【a3】字平太島の区域を八神村に編入する
【#36-2】郡廃置により羽島郡八神村とする

村単位で整理すると、最も単純な午南新田は、【c1】で廃止、【c2】【b3】で小藪村新設。
大須村は分村消滅。【d1】で廃止。【d3】により一部は八神村に編入。残りは【d2】で小藪村新設。
その小藪村は、中島郡の村が【b1】での廃止を受け、【#28-2】で4村の区域を集めて、【b3】で新設。
【#28-3】羽島郡小藪村として新発足しました。

最も複雑怪奇なのは、八神村の変遷です。中島郡八神村が【a1】で廃止された後、最終的には【#36-2】で羽島郡八神村になるのですが、変遷情報の変遷種別は「編入/郡変更」となっています。

変遷情報によると、#28 の【a2】で 八神村の一部は 新しい小藪村の一部になり縮小しました。
しかし、八神村には 分村消滅した大須村から 【a3】字平太島の区域を編入することによる 区域の拡大もあり、これが「編入」と記されています。

変遷情報には、勿論同日付の「八神村新設」記録はなく、【a1】の 八神村廃止 は 誤解と思われます。
この記事の冒頭に記した 変遷情報岐阜県の #28 の軽微な修正意見がこれです。

羽栗郡・中島郡→羽島郡の郡変更について、岐阜県変遷情報 #192 には、次の記載があります。
羽栗郡, 中島郡 の区域をもって 羽島郡 を設置することに伴い 羽栗郡 川島村, 笠松町, 竹ヶ鼻町, 柳津村, 中島郡 堀津村 と 新設された 15村を 羽島郡 所属とする【1897/4/1】

この中に中島郡八神村の名が見当たりません。では「新設された 15村」に含まれているのか?

Issieさんの 市町村の変遷で調べようと思ったが、多数の県のデータへのリンクが消失しており、愕然としました。

気を取り直して、Wikipedia 羽島郡 を見たら、M30/4/1 郡制施行に備える 羽島郡発足の記事中に「新設された 15村」と覚しき村々が列挙されていました。
しかし、最後に記された八神村は、記号←を用いた 14村と異なり、文章で「編入」と説明しています。
中島郡八神村の残部が大須村の残部(字平太島)を編入して羽島郡八神村となる。

つまり、「新設された 15村」という表現に使われた「新設」は「新設合併」に限定されたものでなく、広く「編入」を含む領域変更を意味するものと理解されます。

変遷情報岐阜県 #192 の表記も、同様の問題点を含んでいると思われるので、例えば次のような注記を加えたら如何でしょうか。
注【15村の内訳】:新設合併 14村と 八神村【編入】

これが、この記事の冒頭に記した 変遷情報岐阜県の #192 の軽微な修正意見です。
[99836] 2020年 5月 24日(日)14:59:18【1】hmt さん
岐阜県市町村合併等経過一覧表(PDF)
[99832] MI さん
フォロー記事をいただき、ありがとうございます。
ウェイバックマシンへの収録を紹介していただいた 「岐阜県市町村合併等経過一覧表(PDF)」について。

この資料については、私も[81240]で言及したことがあります。少し長いですが引用します。
-----------------
【白桃さんの】[81239]でご紹介いただいた資料は、岐阜県全域にわたる明治以来の行政区域変遷を表形式で集大成したものです。
[81236]で例示された個別情報とは毛色が違う集積情報ですが、「変遷情報図書室」には、このような資料もぜひ 収録していただきたい と思います。
この『岐阜県の市町村変遷』は、以前に【平成合併最中】むっくんさんから紹介していただいた資料 『岐阜県市町村合併等経過一覧表』 と同じものではなかろうか というのが、私の推測です。
[66845][66846]において言及されたコマ数が、今回のファイルと一致しているのが 推測の根拠ですが、記事が岐阜県HPに付けたリンクは現在では切れており、個人的な保存もしていなかったので、ファイルの比較ができません。
このように、Webから消えていなくても、ホームページの組替などにより、資料の行方が不明になることはしばしばあります。
変遷情報図書室に保存されていれば安心して利用できます。
-----------------

今回のご指摘に基づき、改めて 旧・川小牧村が掲載されている 64コマを閲覧してみました。

武儀郡と加茂郡の境界【津保川】に接する地域であること。明治28年~大正2年には、東岸【表では下の加茂郡側】が西岸【表では上の武儀郡側】に突出していることが読み取れます。
明治30年の4村合体以後に名乗った「富岡村」の村名表示について。
合併を示す明治30年の縦線の近くには表示なし。遥か左方の富岡村末期(昭和30年近く)のみに記載。
この表示方式は、長期間存続した町村にとっては分かり難い。スペースが許せば始期と末期との重複記載が望ましい。
…と今更望んでみても、編成合併当時 この表を作った担当者に届くわけがない無理注文。

【追記】
図中の誤表示に気付きました。大正2年の境界変更を示す縦線【加茂郡大平賀村突出の左端】の位置です。

富岡村の郡名が加茂郡であったことは、右上のタイトルからも明白ですが、更に 17コマ関市【元は武儀郡】には 「昭和24.10.1 旧大平賀村は富田村へ編入」との記載があり、郡の境界に位置する村の遍歴は、戦後も続いていました。
現在も津保川東岸の仲間共に、加茂郡富加町所属となっています。マピオン

最後に、
大平賀村から離れますが、この大きな表は 市町村合併を対象としたものであり、明治30年4月1日 稲葉郡設置など 「郡の変遷」に関する情報は無視されています。
[99831] 2020年 5月 23日(土)15:15:55【1】hmt さん
大正2年には消滅していた 岐阜県加茂郡大平賀村
岐阜県の明治30年は、郡の再編成を伴う 「明治の大合併」 があったことで知られています。(1897/4/1)

その一環として、加茂郡でも 肥田瀬村, 鋳物師屋村, 市平賀村, 大平賀村の新設合併による 富岡村 ができ、合併した4村は廃止されました。

ところが、大正2年(1913/7/1)になってから、「大平賀村の一部」の 境界変更記録 #219 がありました。
その詳細を見ると、境界変更対象区域は 町村制施行前の「旧・川小牧村」の区域でした。

では、大正2年境界変更の対象にならなかった「大平賀村の残部」の存否。それはどうなったのか?

変遷情報岐阜県には その後の記録がなく、もちろん現存も していません。
大平賀村は、明治30年大合併の2年前に加治田村の一部との境界変更をした過去がありましたが、これは無関係。

疑問が残るのは、明治30年に富岡町になって消滅したと思われる「旧・川小牧村」区域が、大正2年境界変更の記録で「大平賀村の一部」と記されていた点です。

そこで、改めて変遷情報源の調査を試みました。
大正2年という時代から、NDLの官報・広告欄【[80444]参照】に記載されている可能性があると判断。

先ず、NDLの検索画面に 施行日1913/7/1前後の日付 10日澗を入力してみました。
「岐阜県」や「境界変更」での絞り込みはできず、この後は 力尽く の調査になりました。

たどり着いた 大正2/6/27の官報第273号本文には、「国の直轄事項」関係が多数掲載されています。
彙報【雑報】の後、21/25から広告欄になります。

地方自治体である 岐阜県の「村境界変更」が掲載されているのは、広告欄の 22/25 左頁でした。

加茂郡富岡村大字大平賀の内 黒ケ谷、小竹原、南坂、山下、川ノ上、下南坂、坂本、南大水、北大水、川平の十字を同郡同郡加治田村に編入し来る7月1日より施行す

順番は違いますが変遷情報詳細に (旧川小牧村) と記されていた 10字(あざ)との同一を確認できます。
そして、境界変更の対象が「大平賀村の一部」でなく、「富岡村大字大平賀の内」であることが明らかでした。
現在の変遷情報は、二次資料に基づく誤記を引き継いだものと推察されます。

NDL官報に基づく変遷情報の修正は、現在では 多数の事例について 利用されているようです。
最近の一例を挙げると、[99336]むっくんさん ご指摘による埼玉県 #27 の事例等の修正 [99387]

上記調査も、これに倣ったものですが、膨大な NDL官報からの検索が不手際と思われます。
変遷施行日はわかるが、必ずしも施行日付とは一致しない官報発行日を絞り込めない。
可能ならば、地名や変遷種別をキーワードとする検索が望ましいが、広告欄は検索対象になっていないようだ。
適切な手段をご存知の方があれば、ぜひご教示をお願いします。
[99799] 2020年 5月 19日(火)13:47:29【1】hmt さん
日本の西端・与那国町トゥイシ
今回の十番勝負・問六の出題は「都道府県の中で東端西端の経度差が一番大きい市」でした。[99768]
問六との直接の関係はないのですが、十番勝負終了の機会をとらえ、日本最西端の自治体として知られる沖縄県八重山郡与那国町の西端についての情報を記しておきます。

2年前の平成30年(2018)3月のことになりますが、当時の天皇・皇后ご夫妻は 与那国島を初訪問され、「日本国最西端之地」という碑石もご覧になりました。

ところが、その翌年、つまり令和元年になった直後の 2019/6/1 に、国土地理院は 与那国島にある岩礁「トゥイシ」の名を「二万五千分の一地形図」に新たに記載しました。
もっとも、岩礁か島かを決める権限は国土地理院にもないとのこと。
その結果 日本の最西端は 僅か 260mほどですが 北北西へ動いてしまったとのことです。

国土地理院の報道発表資料では、該当する資料を発見することができなかったのですが、調べてみると マスコミには多数の報道があり、その視点も多様なものでした。
その中から NHK東京新聞日経八重山毎日デイリー新潮 などのネタを利用して、下記のようにまとめてみました。

トゥイシは、もともと潮が引いた干潮時には岩が水面上に現れることがわかっており、五千分の一図では海岸線の一部。海図にも記載されており、日本の排他的経済水域(EEZ)面積への影響はないとのこと。名前の由来には「とがった石」「砥石」などの説。

二万五千分の一地形図では、原則として、満潮時に 7.5m四方以上あることを基準に 島や岩などを記載している。

従来の地形図でのトゥイシの扱い:満潮時に海面下に隠れてしまう「隠顕岩」の存在範囲を記載。名称は記載なし。
しかし、干潮時も水面上に出ている可能性があり、国土地理院のドローンチーム「ランドバード」が「陸地に該当するのか否か」を調査し、2017年7月の調査結果で、大潮の満潮時も海面上に出ていることを確認。

2019年3月、与那国町の申請により地形図に追加記載することになり、2019/6/1から国土地理院HPで公開。
与那国島の地形図については、自衛隊駐屯地の整備など更新事項が種々あり、これらを含む全面的見直しを行った結果のようです。今回追加された地名は8カ所。

国土地理院>日本の東西南北点の経度緯度から、沖縄県 ★ の 西端 をクリックすると、「トゥイシ」という地名のある地理院地図が現れます。

# 上記★を付けた東西南北端ページのurlは、「県データ/沖縄へそ」と読めます。「県のへそ」を収録する予定で名付けてあるのでしょうか? 参考[11132][11313][48636]

地名コレクション:東西南北端も修正しておきました。

日本の民間人にとり、東端・南鳥島、南端・沖ノ鳥島、北端・択捉島は訪問不可能。
唯一 民間人訪問が可能だった最西端が 与那国町西崎(いりざき)から無人のトゥイシになった現在、アクセスできる可能性はあるのか? 

デイリー新潮に掲載された回答を引用して、この記事を終ります。
「うーん、容易にアクセスはできませんよ。地図だと近いように見えるでしょうが、西崎は岬ですから、海側は断崖。ここに降りることはできません。大潮の時にでも、大きく迂回して行けば……いや、やめた方がいいですね」
「観光面では、これまで通り、最西端は西崎でいきますよ。最西端の碑も変えません。」(与那国町総務課)
[99494] 2020年 5月 3日(日)17:59:10hmt さん
hmtマガジン更新
hmtマガジンに テーマ「変遷情報」を新設し、下記の5特集を収納しました。
既存の特集 町と村の違い と同類ですが、別のテーマにしました。

変遷情報源          :情報との付き合い方です。
地方自治制度と自治体の呼び名   :主に総論的な内容です。
「宿」「駅」その他を名乗った町村 :町の変種など。
事例集1:下阪本 高畠    :古い記事と最近の記事です。
事例集2:桜沢 下関 日野宿 :誤記関連事例です。
[99415] 2020年 5月 2日(土)12:22:38hmt さん
「下ノ関市」は存在しなかったらしい
[81567] hmt などへの自己レスです。
長門国 赤間関 23527人:1889年市制施行で赤間関区から赤間関市へ。1902年下関市に改称。下ノ関?

末尾のリンクにまとめられている 改称に関する過去記事の要点を記します。

[123] Issieさん 戦前の制度:町村の廃置分合や市の改称(町村も)について、内務省告示は不掲載。
[882] Issieさん はじめ「赤間関市」、一般には「下関」、やがて 下関に統一。
[27855] Issieさん 旧憲法および市制・町村制下 赤間関市 →下関市 の“改称”に関わる告示 見出だせず。

[74498] hmt 
「山口県管下長門国豊浦郡赤間関市を下ノ関市と改称し同年6月1日より実施(同上)」
出典:「府県及北海道境域沿革一覧」(内閣統計局編、明治43年東京統計協会)第三編
その原典とされた統計局の 郡市町村廃置分合一覧表でも赤間関市→下ノ関市 M35/6/1実施を確認。

この資料を信じると、「下ノ関市」を経た2段階改称説 が生まれます。2段階説は正しいのか?

[74499] hmt 下ノ関市への改称告示は市条例? 短期間で下関市になったと推測 統計局は知らなかった?
[74506] Issieさん 漢文の感覚では「ノ」がない方が正式なのかも。“潔癖症”的な現代とは感覚が違う。
[74509] oki さん 税務署以外の役所は「ノ」の有無にこだわらなかった?
【この記事も 改称を受け止める側の感覚に注目。その上で 2段階改称に否定的。】
[74715] hmt 新聞記事:下之関市を含めた三転、「下関」を 市名として取り戻したい地元の要望

最後に、最近の調査で知った レファレンス事例を紹介
これによると、下関市史 市制施行-終戦 P58 に記載があるとのこと。

「下ノ関市」への言及はなく、下関市の公式見解は、赤間関市→下関市 の直接改称と理解されます。
下関市史の該当箇所は閲覧していませんが、改称当事者の下関市の公式見解が明らかになったと思われます。

[74498]で引用した統計局資料の「下ノ関市」。
いかにも告示らしき口調の文ですが、原典を発見できず、何故誤った情報になったかは、謎のまま残ります。

[74498][74499]から 10年を経過しましたが、これで 2段階改称説の幕を引くことにします。
[99400] 2020年 4月 28日(火)16:06:08【1】hmt さん
1952/4/28 平和条約発効に伴う市町村の変遷 戦前の小笠原5村廃止
4月28日 今日は何の日でしょうか?
1952年というと昭和27年ですから、メンバーの中で当時の記憶があるのは hmt くらいのものと思いますが、日本にとって新時代の始まる年でした。
個人的には大学生になった年であり、直接の関係はないものの メーデー騒擾事件 も記憶に残ります。
東京の市街地道路には、至る処に 英文の標識が立っていました。Occupied Japan のシンボルです。

その前年 1951年9月に 連合国51ヶ国による 対日講和会議 がサンフランシスコで開かれました。
もっとも、事前に来日した米国のダレス国務長官顧問が 吉田茂首相との間で実務的な合意を成立させており、会議の実態は「平和条約」に署名する調印式に近いものでした。
とはいうものの、会議ではソ連のグロムイコ外相が反対論を展開、ソ連、ポーランド、チェコの3国は署名せず。
当時は朝鮮戦争中で、中華人民共和国は米国と対立していました。会議主催者の米国は、東西対立を考慮し、中華人民共和国と中華民国(台湾)との両国 いずれも講和会議に招聘しませんでした。

会議において吉田全権が読み上げた受諾演説は、30m近い巻紙に毛筆で記されたもの。裏話1 裏話2 

講和会議では、後に首相になった池田勇人など全権5人全員が署名しました。
しかし、同日に調印された 日米安全保障条約の署名者は、吉田首相1人でした。

講和条約は1952/4/28寄託により発効し、日本国との平和条約(昭和27年条約第5号) として公布されました。

この落書き帳の中で多用している「Occupied Japan」という用語が過去の存在になったのは、この日でした。
そこで、都道府県市区町村 履歴情報1952年 を開いてみたのですが、4月28日の記載がありません。

実は、昨年の4月28日に[97663]を記した際に、 沖縄「屈辱の日」と書いたのですが、今日は 小笠原への影響について記します。

1952年の平和条約発効時点での小笠原。
潜在主権の存在は認められたものの、日本復帰が実現していなかった点では、沖縄と共通の事情にあります。

違うのは、「地域住民共同体を構成する市町村」が【戦後の混乱期を含めて、曲りなりにも】存在し続けていた 沖縄・奄美に対して、小笠原では 消滅に近い状態 になっていたことでした。

戦前の小笠原5村については、市制町村制施行時の状況東京都の下の方に 1940/4/1 設置が記録されていますが、その後の変遷が記録されない状態になっています。

[79760] 中島悟さん の末尾
小笠原諸島の【中略】これらの5村が消滅していることを書き加えたほうが良いと思います。
[83624] むっくんさん
(16)小笠原5村(大村、扇村袋沢村、北村、硫黄島村、沖村)の廃止の記載をすること
に対する [85063] グリグリさん の意見
こちらの変更種別については「廃止」が妥当でしょうか。
に続いて、[85081][85082] hmt も意見を記しています。
[85081]に記した 「[79266]でリンクした小笠原村沿革」の代りに、現在閲覧できる同名のページ をリンクします。

その中の 1952年(昭和27年)の記載
対日平和条約の発効により、小笠原はアメリカの施政権下になる。小笠原支庁及び各村役場が廃止される。父島に米海軍施設(U.S. Naval Facility, ChiChi Jima)が設立される。

言葉が少し増えていますが、わざわざ「各村役場が廃止」と書かれた表現は変りません。
やはり【事実上の村の廃止はもっと前だが、“村の廃止”が(1952年に)手続上でも完了した】と理解します。

事実上の廃止日は、硫黄島地上戦と父島などへの空襲とは 条件が異なり、村により相違するでしょう。
変遷情報としては、手続的に旧村の廃止が完了した 1952年【日付を入れるならば、平和条約発効に伴い、戦前の行政機構から《自動的に縁が切れた》4月28日です。】を記録するのがよいと思います。
[99374] 2020年 4月 18日(土)13:48:08hmt さん
明治22年4月1日 「町村制」施行により 長野県北安曇郡に設置された自治体 「大町」
[99372] MI さん
数年前に県立長野図書館で確認していただいた調査の詳細報告をいただき、ありがとうございます。

從來ノ町村ヲ分合シ其區域別册之通來ル四月一日ヨリ編制ス
【別冊】【新町村区域の郡名】北安曇郡、【新町村名】大町、【舊町村名】大町
朱書による訂正なし。さらに【同年】4月10日 - 町制施行 の記載もなし。

これにより、明治22年(1889年) 4月1日 長野県 町村制施行 16町375村設置の #252 に記されている情報は、正しい裏付けを得たと判断します。

詳細ではピンク地で示されている 旧・大町 が、Wikipediaに記載されているように
1882年(明治15年)3月20日 - 大町村が村格のまま、「大町」に改称
された状態を継続していたのか 否かは 未確認のままですが、新制度とは無関係のことでしょう。


いずれにせよ、明治22年当時に使われていた制度用語は「町村制」「町村名」で、町と村とを区別するのは、個別の名称だけです。
従って、「変更種別」も「町制」ではなく、「町村制」と記録するのが正しいように思われます。

制度としては「町村制」であり、村から町への呼称変更は 別の制度による「町制」を施行したのではなく、「町村制」の制度内での「改称」に過ぎない。
「24年告示第27号を以て上諏訪村を上諏訪町と改称」[91956]

このような慣行から、「町制施行」という言葉が使われる慣行に移行したのは、何時のことか?
戦後の地方自治法? いや、もっと根が深いのではないか?

その答を持っていない私としては、根拠不詳ながらも 変遷情報 上諏訪町 における「変更種別:町制」を受け入れざるを得ない、中途半端な状態なのです。
[99370] 2020年 4月 16日(木)17:09:51【1】hmt さん
hmtマガジン「町と村の違い」更新
2016年11月、グリグリさんの疑問 [91951]「大町は村?」を発端に、[91971]種別名 に至る一連の記事9本がありました。

大町・谷村の同類。つまり語幹部が漢字1字である自治体名。
このタイプの「もとの地名」を論じた最初の記事は[34776]の「中村」でした。
しかし、[91969]に引用してあるので 省略し、特集 町と村の違い の末尾には 2016年の9本の記事を 追加しました。

[91951]で引用された Wikipediaには、現在でも次の記載があり、町村制施行当初「大町は村だったのか?」という疑問が生じたのでした。
1882年(明治15年)3月20日 - 大町村が村格のまま、「大町」に改称する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大町として単独で村制を施行。
【同年】4月10日 - 町制施行。町制に基づく「大町」となる。

この疑問に答えようとしたのが[91956]ですが、明治22年4月10日 大町の町制施行 を裏付けることができそうな県令・告示などの一次資料を発見するには至りませんでした。

[76874] むっくんさん に引用された『長野県現行令達類聚』に掲載された 明治22年長野県令 第18号(3月19日)には、「新町村名:大町」が明記されているのですが、明治25年12月迄の改正が盛り込まれており、「明治22年の原文そのままではない」という問題点がありました。
此書専ら専ら簡約を主とす 故に…改正増補の文字に改め旧文を存せず 欄外に於て其沿革のみを記載す

結局、[91956]の結論は グリグリさんの問に対する返事としては物足りないが、次の通りでした。 
現状では、「大町は 1889/4/1に村制を施行した」と信ずるに足る証拠が 具体的に示されていない。
従って、大町は 1889/4/1に町制を施行した生まれながらの町である」とする趣旨の変遷情報を 改める必要はない。

[91956]の末尾、余談:村と町との区別について より抜粋
便宜的に 村制・町制・生まれながらの町・後発の町 などという表現を使いましたが、これは私の本意ではありません。
施行当時の考え方としては 制度は「町村制」一つであり、「町制」「村制」を区別する「いわれ」はなかったと思います。
現行の「町になる要件」【地方自治法第8条第2項】は、ずっと後に生じた慣行が制度化されたものです。

「生まれながらの町」論争はさておき、グリグリさんは [91965]で、「町村名」に「まち・ちょう・むら・そん」なども含めるべきかどうかというテーマに舵を切りました。

例示された山口県阿武郡椿郷東分村。
私も 椿郷/東/分村 だろうと思っていましたが、にまんさん[91970]から 椿郷/東分/村 という指摘がありました。
大きな村の「西半分」「東半分」といった意味合いが強いと思われます。

椿郷西分村→1910年椿村、椿郷東分村→1921年椿東村、1923年両村他1村萩町に編入、1932年萩市

現在は統合された市町村名で単純化されましたが、履歴を遡ると「町村名」からも複雑な過去が現れるのでした。


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