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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

奥、陰、裏のつく地名について

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記事数=33件/更新日:2005年8月18日/編集者:YSK

奥、陰、裏のつく地名があります。意識していなくても、どこかマイナーなイメージが付きまとう地名ですが、そこには日本の近代化の光と影も関係した、構造的な問題があるようです。私たちは、地名の持つ本来の意味を理解し、その地域の本質を見ることを大切にしたいものですね。

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★推奨します★(元祖いいね) グリグリ 今川焼 BANDALGOM hmt EMM

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[5344]2002年11月24日
蘭丸
[5354]2002年11月24日
YSK
[5477]2002年11月27日
蘭丸
[5482]2002年11月27日
白桃
[5490]2002年11月27日
般若堂そんぴん
[5504]2002年11月27日
YSK
[5508]2002年11月27日
YSK
[5510]2002年11月27日
般若堂そんぴん
[5516]2002年11月28日
深海魚
[5517]2002年11月28日
グリグリ
[5531]2002年11月28日
桃象
[5539]2002年11月28日
まがみ
[5573]2002年11月29日
ken
[5574]2002年11月29日
Firo
[5576]2002年11月29日
般若堂そんぴん
[5582]2002年11月29日
桃象
[5583]2002年11月29日
TN
[5622]2002年11月30日
ゆう
[5653]2002年11月30日
らるふ
[5608]2002年11月29日
YSK
[6060]2002年12月7日
グリグリ
[27531]2004年4月19日
湾岸太陽族
[27535]2004年4月19日
Issie
[27553]2004年4月20日
inakanomozart
[31212]2004年7月31日
まがみ
[31214]2004年7月31日
inakanomozart
[31215]2004年7月31日
らるふ
[42196]2005年6月10日
今川焼
[42396]2005年6月15日
らるふ
[42421]2005年6月16日
らるふ
[42425]2005年6月16日
EMM
[44006]2005年8月9日
hmt
[44042]2005年8月10日
hmt

[5344] 2002年 11月 24日(日)21:08:29蘭丸 さん
Re:「奥丹後市」「下魚沼市」
[5324]YSK さん

 「奥丹後市」とは地勢を考慮していて、単に「丹後市」よりもこの地域にふさわしいと思います。この地域の合併は、3郡にまたがっていて、郡名をとるわけにもいかないという事情があります。それらを包括する意味で、「奥丹後」とするのはむしろ自然と言えるでしょう。
 それに、なんだか旅情を誘う、好感の持てる言葉ですね。

 しかし、「丹後市」だと、すでにある丹後町に編入されたような感情をもつ人もいるかもしれません(主に合併協議会の他の構成町で)ので、「丹後市」案が選考過程で生き残るかは微妙だと私は思っています。

 ですから、この案、私は「いい線いくのでは?」と思います。

 「下魚沼市」も、地勢を考慮した、周辺市町村との軋轢を回避できるいい案だと思います。「北魚沼市」だと、小千谷市や川口町も北魚沼地域に属すこととの兼ね合いが問題になりそうですから。ただ、上・下(かみ・しも)という区分は、当事者が受け入る可能性が低いのではなかろうかと思われます(個人的見解)。

 そこで、私が考えたところで「魚沼薮神市」というのがあります。これは、この地域にあった荘園の名前「薮神荘」からとりました。実際、公募で集まった案に「薮神市」「魚沼薮神市」もあったようですが、かつて薮神村という村が存在したことを考慮してか先般発表の10案には入っていませんでしたね。
(情報ソースは、北魚沼六か町村合併協議会のホームページ http://www7.ocn.ne.jp/~kitauo/
 あと「魚沼只見市」なんかもいいかなと思っています。しかし、私がいちばん推したいのは「美雪野市」です。その独創性を私は評価したいです。(拙文[4707]参照)この案は10候補にも含まれているみたいですし。

 「魚沼」は「飛騨」と同様、とても広いので、いろいろと難しいです。
[5354] 2002年 11月 24日(日)22:51:47【1】YSK さん
奥丹後市
[5344]蘭丸さん
奥丹後市、下魚沼市について考察を頂き、ありがとうございます。

奥丹後の方は、現地の企業や各種団体の支所名や支部名として「奥丹後支部」などの名前が散見されるようなので、現地でも比較的一般的に用いられている様子であったことも、この案を提案した理由でした。
それに、「奥多摩」とか、秋保温泉を指して「仙台の奥座敷」と称するとかいった用例に代表されるように、現在ではどこか旅情を誘う奥ゆかしさを伴う語感ですよね。この点も、私が「奥丹後市」を推奨した理由です。

下魚沼に関しては、一定の妥当性はあるものの、やはり馴染みのない造語との感は否めないようですね。
[5477] 2002年 11月 27日(水)13:01:26蘭丸 さん
「京丹後市」「北京都市」
[5433],[5454]YSK さん、[5444]あんどれ さん

 公募結果を見ると、予想通りというか、やはり「丹後」という言葉が相当数使われていましたね。この合併では、郡名は使えませんから必然的にこのような結果になったとも言えます。

 私が気になるのは「京」あるいは「京都」の用法についてです。YSK さんのおっしゃるように、「京丹後市」は、おそらく京田辺市になぞらえたものでしょう。語呂は悪くはありませんが、この地に「京」を冠するのは、率直に言って違和感大です。
 京田辺市の場合、京都市と同じ山城国であり、和歌山県田辺市との同名回避の必要性からまだうなずけますが、当地域の場合、単に京都府下であるということ意外、「京」が付く必然性がほとんどないと思われます。 あんどれ さんのおっしゃるように、意味のない接頭辞(冠称)になってしまいます。
「京都」というブランド地名への憧れはわかりますが、もっとその地域独自の風土やそれからくる魅力に着目したほうがいいと思います。

 「丹後市」も違和感を覚えます。そもそも「丹後」とは旧国名であり、その領域は、現行の行政区画では、舞鶴市、宮津市、加佐郡、与謝郡、中郡、熊野郡、竹野郡にわたる地域に相当します。現在、宮津市と与謝郡での合併協議も進行中です。丹後地域が1市に収斂されるというのなら「丹後市」もふさわしいでしょうが、このような状況で一部地域のみ「丹後」を僭称するのは妥当性を欠くと言えます。
 「丹後半島」に位置するといっても、その由来は「丹後国」であるわけですから、丹後半島の「丹後」と丹後国の「丹後」は、この場合、同義ととらえるべきだと思います。

 以上のようことを勘案して、私は「奥丹後市」あるいは「北丹後市」(「北丹市」ではなく)がいちばんふさわしいような気がします。
[5482] 2002年 11月 27日(水)17:42:14白桃 さん
奥さまは マジヨ?(「奥」に関する私見)
 過去ログをみておりますと、「裏日本」という呼称についてのIssieさんやYSKさんの簡潔かつ的確なご指摘を伺うことが出来ますが、山陰地方の陰についてはどうでしょうか。私はなるべく、山陰と呼ばないようにしております。参院選いや山陰線は仕方ありませんが。山陽に対する山陰は、なんとなく暗いイメージを伴うもので、旅情こそさそうでしょうけど、地域に住む方はどうなんでしょうか。(案外、そういうことに関心ないかもしれませんが)「山陰を北陽にしようではないか」という話が一時持ち上がったような憶えがあります……。
 前置きはこれぐらいにして、[5324]YSKさんや[5344]蘭丸さんが、京都府峰山町他が合併してできる新市名に「奥丹後」を押してらっしゃいます。正直なところ白桃も「奥丹後」がピターとはまっていて良いのではないかと感じております。が、しかし、「奥」は、山(川)奥とかはずれ(辺境)の地の意味ですよネ。たしかに、東京都には奥多摩町が存在しますし、「奥飛騨慕情」や「みちのく(陸奥)一人旅」は大ヒットしました。話が脱線しそう!奥多摩の奥は川の上流で良いかもしれませんが、奥丹後の奥は丹のくにの後ろ(丹後)のなかでもまたまたその遠い地域というイメージです。そもそもどこから遠隔の地なのでしょうか?(京都からなんでしょうけど)。田舎育ちの私には,義母(東京のかた)から、「おクニではどうでしたか。」と聞かれる度に心のなかでは、「江戸の田舎者が何言うか、讃岐の正月の雑煮のアンコ入りの丸餅食べてみるか!」と馬鹿にしておりました。どうも、地方蔑視につながるような言葉が気になります。そこで暮らしている人たちが納得する市名ならば良いのではないかと感じております。
[5490] 2002年 11月 27日(水)19:50:10般若堂そんぴん さん
「裏日本」を「日本海側」と言い換えても……
[5482]白桃さんの文を読んで,そういえば,いつの間にか「裏日本」という表現を聞かなくなったと気づきました.一応山形県も「裏日本」ですが,少なくとも私自身はあまり気にしていません.ただ,「日本海側」という表現も次第に差別的ニュアンスを持ちつつあるのではないかと思います.「みちのく」だって考えてみれば差別を内包していますね.「東北地方」も,語源は中立的なのに,結局は差別の対象です(1994~1995年頃だったと思いますが,ダウンタウンが司会する番組に出た山形市の小学生の平板な言葉を彼らは思いきり嘲笑していました.きっと自分の姿が見えていないのでしょう).
日本海側では福岡市,北九州市に続く主要都市としての新潟市,金沢市に大いに期待するところがあります.
[5504] 2002年 11月 27日(水)22:25:38YSK さん
「裏」と「陰」と「奥」
[5490]般若堂そんぴんさん
[5482]白桃さん

ううん、難しいですね。私は、本州の脊梁山脈にやや近い地域(群馬県)に住んでいるとはいえ、冬の日本海側の天気を肌で感じたことがほとんどないため、当地で育まれた地域性をいっぱいに吸い込んだ方々の気持ちになって、このことについてお話しすることはできないです。

以上のことを十分に認識しつつも、やはり同じ島に住む人間の1人として避けて通ることはできない問題ですので、つたない経験と知識しか持ち合わせてはいないのですが、私なりに今の考えを整理してみたいと思います。

(1)裏日本(表日本)
[3295]で、ご紹介しましたように、「裏日本」は明治期に生まれた言葉で、日本国内の地理を教科書の中で、太平洋側と日本海側の気候の違いに着眼して両者を区分する言葉としてつくられた、純粋に地理的な用語でした。
この言葉が、太平洋側と日本海側の経済的な較差を内包する意味合いをも含むようになってしまったのは、ひとえに地方の均衡的な発展でなく、あくまで効率的な資本投下による富国強兵・殖産興業を優先させる政策によるものが多いと考えられます。戦後の「所得倍増計画」を受けた「全国総合開発計画」においても、その基本的な構想は変わらなかったのです。
私の引用した、古厩忠夫(1997)『裏日本-近代日本を問い直す-』岩波新書 では、裏日本を新潟を含む北陸地域から、京都府北部・兵庫県北部を経て山口県北部にかけての山陰地域にかけての地域としているようです。この本では、著者が「新潟県史」の編纂に関わるなど、新潟県の視点に立った考察が主になされています。北陸線や山陰線の全通は、明治時代に全通した東北線より遅れ、昭和期であったと思います。このあたりの微妙な差異が地域感情に現れているような気がします。

(2)山陰(山陽)
「月の影(翳、陰)」というと、「月の光」という意味になります。光は、周囲の暗さがあってこそ、その輝きが引き立つもの。日本が持つ伝統的なものの美しさの見方の中に、このつつましやかな陰を尊ぶ視点があるように思います。つまり、陰あっての陽、陽あっての陰ということで、瀬戸内の差し込む燦燦とした「山陽」も、落ち着いた空の中静まる情景の中の「山陰」があってこそ引き立つものだし、山陽の猛々しさを緩和する意味において、「山陰」の情景は最上の美として昇華できると考えております。私は山陰と山陽にこのような魅力を感じます。もともとの語意にも、「陰」に較差を案じさせるようなものはありません。やはり、近代化の過程で山陽地域を中心に産業基盤が整備されていったことの悪影響が、伝統的な慎ましさを内包した「山陰」という言葉を汚してしまっているようで、残念でなりません。

(3)奥
みちのく(陸奥)。これは、京から見て遥か彼方といった相対的な意味ですね。政権の基盤強化を狙った大和の中央政権は、そういった「奥」を夷狄とみなすことにより自らの地位を高めようとしました。そういった語法の延長にあって、「中央」に対する「縁辺」といった意味合いが生まれてしまったのかもしれません。とはいえ、もともとは相対的な位置関係を示すだけの言葉です。また、「物事の中心部分、尊ぶべきもの」という語意もあります。
近年は、奥多摩、奥秩父、奥鬼怒、奥松島、奥能登、奥飛騨など、その地域の持つ情緒のようなものを含む、旅情に溢れた用法で用いられはじめていますね。

とはいえ、ものの考え方、地域の捉え方は人それぞれ、地域それぞれです。これらの言葉は、元々その言葉が較差的な意味を持っていなかったにもかかわらず、歴史の過程の中で、図らずもそういった意味合いを付与されてしまった言葉たちです。
「奥丹後」という地名をとるか、とらないか。それはあくまで地域がそれを選ぶか、選ばないか、地域の裁量の中での問題であり、その「地域の選択」を私は尊重したいと思います。
[5508] 2002年 11月 27日(水)23:25:39YSK さん
奥で、思い出しました。 ~沖縄県国頭村奥~
「奥」といえば、沖縄県国頭村に、その名も「奥」という集落があります。
国道58号線をひたすらに北に進み、辺戸岬を回ってさらに進むと、その集落はあります。国道58号線の沖縄本島での起点となっている、小ぢんまりとした集落です。ここから先、道は県道70号線となって、“やんばる”の東岸を、東村へ進んでいきます。

この「奥」集落、実に奥ゆかしく、温かみに満ちた、すてきな場所だったんですよ。
さとうきび畑と、“やんばる”の森を背負い、沖縄特有のオレンジの瓦の屋根が転々と広がっていて、白く輝く日差しに溢れた、どこまでも青い空の似合う、そんな場所でした。

中ほどに、村立奥小中学校があるのですが、集落の中でも一際目立つ、2階建て・6部屋のコンクリート造りの建物でした。
この学校も、付近の溢れんばかりに輝く景観の中にすっぽりと収まって、残暑の中をわたる風を受けていました。

沖縄本島、辺戸岬に行くことがありましたら、そこからほんのちょっと足を伸ばしてみてください。きっとすてきな情景にめぐり逢うことができると思いますよ。
[5510] 2002年 11月 27日(水)23:32:05般若堂そんぴん さん
「裏日本」は美しい(「表日本」も!)
[5504]YSKさん
丁寧に教えていただきましてありがとうございます.
これらの地名,言葉を差別的なものではなく美しいものにしたいですね.
日本海側が太平洋側のような発展をすることが必ずしも良いわけではありませんが,経済や社会の激変の中で未だに新しい道が見えてこない,というところでしょうか.
あ,今思い出したのですが,長井市周辺では(おそらく,現在のフラワー長井線羽前成田駅付近)お手洗いのことを「うら」と言っていたそうです.
「ちょっと,ウラさ行ってくっからな」と言う具合.
[5516] 2002年 11月 28日(木)01:12:36【1】深海魚[雑魚] さん
ギャンブラー自己憎悪派
[5504] YSKさん
>奥
茨城県の奥久慈も挙げたいと思います。私はこの言葉を、久慈川水系の山間部と解しており、
久慈郡全域や那珂郡山方町が該当すると思います。福島県東白川郡内の水郡線沿線域も
該当しますが、県境を隔てて谷底平野が展開している為か、同地域で 「奥久慈」 の呼称は、
余り聞かないですね。

[5512] YSKさん
>「ト」の字に道が合流する一角にあるセブンイレブンではなかったでしょうか?
惜しい。その数百m手前の二本松団地入口にある 「セーブオン」 です。ここは確か、群馬県
ゆかりの資本が絡んだチェーンですよね。 「ベイシア」 共々、あちこちで見掛けました。

>それとも、大胡から渋川に向かうルートだったでしょうか?
はい。大胡バイパスの西端で上毛電鉄を潜った先を、富士見村小暮の 「一の鳥居」 方面に
直進するルートです。山麓ゆえ、屈曲個所が多かったですけどね。

[5514] いなさん
数年前、水戸市と常北町の境界付近にできた競輪場外券売場 「サテライト」 は相応に活況を
呈している様です。水戸 ICと 「ツインリンク茂木」 を結ぶ経路が輻輳する為、休日の夕方は
結構な渋滞となります。(私自身は、ギャンブル、麻雀、宝くじの習慣は皆無ですが。)

[5515] 管理人様
何とまあ、あの程度の出題をアーカイブズに採用して頂いたとは、有り難くも恐縮の極みです。
[5517] 2002年 11月 28日(木)01:20:22【3】オーナー グリグリ
奥能登・口能登
「奥」の話題がしきりですが、[2522] で「口能登」について書きました。奥能登、口能登は、対になっていますが(あまり聞かないが中能登もある)、入口という意味での「口」を使った地名は他にもあるでしょうか。ちょっと思いつかなかったもので。

ところで、「奥丹後市」ですが、例えば「奥能登市」という市名が果たして好まれるかという例で置き換えて考えると、やはり、ネガティブな印象になると思います。第三者的には、とくに観光客の視点からは、神秘的というか秘境というポジティブなイメージになるかもしれませんが、自分たちの市の名前としては使いたくないと思います。

奥知床、奥津軽、奥塩原、奥日光、奥志賀、奥三河、奥熊野、奥大山、などもありますね。きりがない。
[5531] 2002年 11月 28日(木)09:47:48桃象[桃象@国仲涼子ファン] さん
裏,奥
「裏」「奥」の話が盛り上がっていますね。常連さんたちの書き込みを大変興味深く拝見致しました。やはり,拠点性の高い街や地域から見た感覚というものがあるのは確かでしょうね。茨城県南地方では,「裏筑波」という地域呼称もありました。今はあまり聞かれないようですが,八郷町,真壁郡一帯を指す呼称だったようです。もちろん,対語として「表筑波」という呼称もありました。こういう呼称はやはり県南地域随一の拠点性を持っていた土浦から見たものなんでしょうね。

==
[5539] 2002年 11月 28日(木)12:47:37まがみ さん
「口」の付く地名
[5517]グリグリさん
> 入口という意味での「口」を使った地名は他にもあるでしょうか

一般的かどうかはわかりませんが、京都府亀岡市付近を「口丹波」と呼ぶことがあります。NTTの電話帳(タウンページ)も、この付近を収録しているものは「亀岡・口丹波」という名前が付いています。

対する「奥丹波」は、京都府ではなく兵庫県氷上郡付近を指し、タウンページでは三田市などと一括して「丹波」にまとめられています。

その兵庫県、三木市には「口吉川」(くちよかわ)という町名があります。町内を流れる美嚢川の上流には、兵庫県美嚢郡吉川町があり、吉川に対しての入り口という意味での「口吉川」だと思いますが、詳しくはわかりません。ちなみに、ここはもともと美嚢郡口吉川村(1954年6月1日に三木町などと合併して三木市に)だったところです。ただ、「口吉川」に対する「奥吉川」という地名・町名は見当たりません。

大阪府最北の町、豊能郡能勢町には「口山内」(くちやまうち)なるバス停があります。「山内」という地名があり、その南端に位置しています。「口山内」バス停の北隣のバス停は「奥山内」、これも「口」「奥」で対になっています。
[5573] 2002年 11月 29日(金)00:01:11ken さん
裏日本雑感
そもそも、なぜ、日本海側が「裏」で、太平洋側が「表」なのか?

「裏」を差別的表現として、日本海側に言い換えるより先に、このことに疑問を持ってもいいですよね。

そもそも、古くは渤海からの使節などは、若狭などから上陸し都に入ってました。
大陸の人たちから見れば、日本列島の「表」は、日本海側でしょう。
紀伊半島なんてのは、裏側の最果て。

グレートブリテン島に表と裏の概念があるかどうか知りませんが、あえて、クイズ100人に聞きました。
敢えて言うなら、ヨークシャー側とランカシャー側、どっちが表、どっちが裏?
多分、ヨークシャー側が「表」という答えの方が多いのではないでしょうか?
フランス人100人に聞いたらもっと比率は高いでしょう。

普通に考えたら、大陸に向いている方が「表」で、その反対側が「裏」じゃないですかね。

山陰、山陽のように、山の北側、南側(日が当たる・日陰)という概念とか、気候の問題とか、大坂、江戸などの大都市が、たまたま太平洋側だった、という事情があるにせよ。
なぜ大陸に向いた側を「表」とは考えなかったのか、日本人の地政感の深層を垣間見る、深い問題かもしれません。
[5574] 2002年 11月 29日(金)00:14:18Firo さん
グリグリ様/口、奥のつく地名
グリグリ様、皆様、私の場合、時間が限られているので、毎回どうしても亀レスぎみになって
しまいますが、どうか、ご了承ください。
[5511]グリグリ様
どうも、見落としていたようです。ご忠告どうもありがとうございました。
[5517]グリグリ様[5539]まがみさん[5546]般若堂そんぴんさん
「口」の付く地名は、入り口を意味してたんですね・・・・
正直、今までちょっと疑問に思っていました。少し考えれば分かりそうなものですけど。
あと、出ていないところでは、
  福井県小浜市    口名田、口田縄
  京都府綾部市    口上林
  兵庫県美方郡村岡町 口大谷
それから、鹿児島に口永良部島、沖永良部島なんてところもありましたね。
ちなみに、小浜市、綾部市の地名は、それぞれ、中名田、奥名田、奥田縄、奥上林があるようです。
そして、先に上がっている、口能登、口田沢と合わせて考えると、口と奥の組み合わせの地名は、
日本海側に集中してますね。何でだかわからないですけど。
[5482]白桃さん
>奥多摩の奥は川の上流で良いかもしれませんが・・・奥丹後の奥は丹のくにの後ろ(丹後)のなかでも
>またまたその遠い地域というイメージです。
ほんと、そうですね。グリグリさんも書かれていたようですが、私も「奥丹後」「北丹後」は
どうかという気がします。地元の方々がよいというならそれでいいと思いますが、
「奥」とか「北」という字はどうしても、マイナスイメージがあって避けられる傾向がありますよね。
[5576] 2002年 11月 29日(金)00:46:35般若堂そんぴん さん
「奥」座敷
地名ではありませんが,「奥座敷」という表現を使うことはありませんか? 「小野川温泉は米沢の奥座敷」というふうに(別に郷土愛に燃えているわけではありません.他の例を知らないものですから).「どうぞ,ゆったりとおくつろぎください」という心を込めた表現だと思います.皆様のお近くの「奥座敷」自慢を教えていただければ楽しいと思います.
[5582] 2002年 11月 29日(金)09:48:58桃象[桃象@国仲涼子ファン] さん
表と裏
[5573]
>普通に考えたら、大陸に向いている方が「表」で、その反対側が「裏」じゃないですかね。

確かにそれは言えているかもしれませんね。ロンドンの西方にLand's endという地名があります。文字通り大西洋に突き出た半島の最先端にあるところなのですが,ロンドンから見た地理感覚以上に,大陸から見た地理感覚と言うものがあるのかもしれませんね。この辺り,何となく与那国島の西崎という地名と相通ずるところがあるようにも思います。

>グレートブリテン島に表と裏の概念があるかどうか知りませんが、
>あえて、クイズ100人に聞きました。
>敢えて言うなら、ヨークシャー側とランカシャー側、どっちが表、どっちが裏?
>多分、ヨークシャー側が「表」という答えの方が多いのではないでしょうか?
>フランス人100人に聞いたらもっと比率は高いでしょう。

ご存じのようにイングランド地方は山らしい山がほとんどありません。ロンドン市街地から車で20分も走ると,もう北海道です(笑)。そのような地勢のもとでは地勢の影響も多分にある「表」とか「裏」というような思考形式は形成されにくいのではないでしょうか。確かにロンドンとスコットランドの首都でもあるエジンバラをつなぐ鉄道は,日本人の感覚から見れば,いわゆる「表」にあたる地域を通っています。でも,イングランド地方第2の都市バーミンハムやスコットランド地方最大の都市グラスゴーはいわゆる「裏」にありますし…。ただ,イングランド地方の人たちから見れば,ウェールズ地方やスコットランド地方は「奥」という概念はあることはあるでしょうね。

==
[5583] 2002年 11月 29日(金)11:13:27TN さん
裏日本雑感の雑感、地政学的
私には難しすぎる・・・。ですが、面白い素材が故に恥を忍んで書きます。

>なぜ大陸に向いた側を「表」とは考えなかったのか、日本人の地政感の深層を垣間見る、深い問題かもしれません。

大切な物は奥に大切にしまっておきますね。大切な物がその当時の大きな都市だとして、大陸から様々な文化を取り入れつつ、常に侵攻の恐怖が潜在意識の中にあったとしたら・・・。
「京」とか「大坂」というのはどちらかというと、奥まったところにありますね。「江戸」は、幕末に台場を急ごしらえで築造したところをみると、その時になってはじめて・・・という感じがしますが、大陸からは一番奥まった所にありますね。
ですが、太平洋のかなたのあのような「恐ろしい国」を認知していない時代のことです。
建て前では日本海側をおもてなしとしての「表」としつつ、太平洋側を「ほんとは表なんだけど裏」のように考えていたのか?
なんとなくで本当に申し訳ありませんが、「表、裏」はやはり江戸・東京の発想のような気が致します。
[5622] 2002年 11月 30日(土)00:58:57ゆう さん
産院は生命の誕生するところ
[5482]白桃さん
>山陰地方の陰についてはどうでしょうか。
>地域に住む方はどうなんでしょうか。
山陽地方に生まれ、山陰地方で生活したこともある私ですが、「山陰」に対して負の印象を持ったことはありません。
この言葉の由来は五畿七道の山陰道・山陽道だと思いますが、陰・陽は単に山の北・南という以上の意味はないと思います。
地名に対して抱く印象というのは人それぞれいろいろあるとは思いますが、山陰や裏日本と呼ばれることと経済的成長度と関係づけるのは残念なことです。

>私はなるべく、山陰と呼ばないようにしております。
願わくば積極的に使って山陰地方を広く紹介して頂きたいと思いますが、いかがでしょうか。

関東に来て、山陰地方があまり知られていないということを感じます。
中国地方と一括され、山陰と山陽との気候・風土の違いを話すと驚かれることもしばしば。
東北地方と一括される陸奥・出羽の違いにも通じるのかもしれません。
[5653] 2002年 11月 30日(土)14:01:10らるふ さん
日本海と大陸
「大陸に向いているのに裏日本」という話題がちらほら出ていますね。
その件については、日本海に面した大陸側にも原因があると考えられます。
まず朝鮮半島を見ると東海岸は険しい地形で大きな都市はあまり見受けられません。ロシアの日本海沿岸もほとんど山地で、都市があるのはウラジオストクのあたりくらいでしょうか。
要するに、大陸の日本海沿岸は山地が並びアムール川のような大河もオホーツク海によけるような地形で、気候も厳しく、豊かな地域になりえなかったようです。だから、盛んな交易が行われるようになりようがなかったのだと思います。
もし、大陸の日本海沿岸に大河が注ぎ、肥沃な平地が広がっていて、大きな文化圏があったとしたら、そこからの交流の窓口として富山・金沢・福井あたりが(京阪神のような)大都市圏を形成して日本の中心になっていたかも知れません。
その点、東シナ海・黄海の沿岸には東アジアを代表する都市が並びますので、そちらから見れば「表日本」は九州ということになりそうです。
ただ、平安時代あたりまでは大陸の文化を取り入れてきた日本は、その後、大陸の近隣国との関係が良くなかった時代が多かったので、そのことも日本が太平洋向きになってしまった一因でしょう。

グリグリさん
アーカイブズの雑魚さんの問題解答編で、私の書いた[5119]の内容に見落としがありまして、[5269]で白状しております。お手数ですが追加しておいていただけませんでしょうか。
[5608] 2002年 11月 29日(金)21:59:52YSK さん
裏日本はなぜ「裏」なのか
裏日本、表日本という用語が初めて使用されるようになるのは、明治中期、現在で言うところの地理の教科書の中で、気候的な違いによって日本を日本海側と太平洋側に分けた時のそれぞれの呼称として使われたものです。つまり、現在の両地域の較差を前提として作られた言葉ではなかったのです。純粋に地理学的な概念の1つとして作られた言葉です。「表」は成長地域、「裏」は発展途上地域といった意味合いなどは、当初は全く介在しない言葉であったと言われています。このことは、強調しておきたいと思います。

その証拠として、[5573] kenさんが指摘されているように、日本海側は古くから大陸からの文化の流入する入口であったこともありますし、また[3295]の拙稿にありますように、明治期の人口上位30都市の中に、金沢をはじめとした多くの日本海側の都市が見えます。江戸期の日本海側は、加賀百万石の栄華や、北前船による盛んな交流などにより、多くの豊かな文化・産業が栄える地域でした。決して、日本海側は「裏」ではなかったのです。明治中期にあっても、富国強兵・殖産興業の動きが次第に加速する時期であったとはいえ、日本海側における、こういった江戸期の栄華を受け継いだ産業基盤は健在でありました。

その後の太平洋側偏重の国家政策等により、両地域の較差が次第に顕在化することになり、やがてこの2つの用語は較差を内在させた言葉としての側面を強く持つようになりました。

では、なぜ太平洋側を「表」とし、日本海側を「裏」とする地理用語が、明治期に作られたのか。実は、ここにも純粋な地質学的な日本列島の構造が影響しています。日本列島は、太平洋プレート、北米プレート、ユーラシアプレート、フィリピン海プレートという4つのプレートがひしめき合う場所に形成された弧状列島、つまり弓なりの形をした列島です。その形は、太平洋側を外側に、日本海側を内側に弓がしなうような格好になっていますよね。このため、地質学上の用語として、太平洋側の地質構造を「外帯(がいたい)」、日本海側のそれを「内帯(ないたい)」とする言葉が作られました。この「外帯」と「内帯」が、自然地理学的な地域分類を意味する言葉として応用され、また「外=表」、「内=裏」という自然な対応関係から、「表日本」、「裏日本」という言葉が作られたというのが真相なのですね。

言葉が形成された過程は至ってシンプルなのですが、「表日本」と「裏日本」という言葉がその後に付与されてしまった意味合いを考え合わせる時、複雑な心境になりますね。さまざまな事情があるにしても、「奥」や「陰」のつく地名も、よくよく考えれば、ただ相対的な位置関係を示しているだけなのに、日本の近代化の過程で、別な意味を抱えることになってしまった。そんな地域がほとんどなのではないでしょうか。裏にしろ、奥にしろ、陰にしろ、あくまで、「相対的」な概念なのです。このことは、私たちが地域と向き合う時、決して忘れてはいけないことであると言えましょう。私が、以上の文章で「格差」と言う言葉を使わず、「較差」としているのもこういった理由からです。

私は、いろいろな地域呼称に接する時、それらの持つ既成概念から、可能な限り自由になって、自分の目の前に映るままの地域の姿を感じるように努めています。
[6060] 2002年 12月 7日(土)17:57:40【1】オーナー グリグリ
「奥」「北」ではじまる市区町村
[5574] Firoさん
> 「奥」とか「北」という字はどうしても、マイナスイメージがあって避けられる傾向がありますよね。
奥はそういう傾向があるように思いますが、北はどうでしょうか。これも一覧にしてみますね。

■地名の前に「奥」が付く市町村と由来
奥尻町北海道奥尻郡アイヌ語イクシュンシリ(向こうの島)から転訛
奥多摩町東京都西多摩郡多摩の奥(1955.4.1 氷川町、古里村、小河内村の合併時)
奥津町 岡山県 苫田郡津山藩の高瀬舟の河港から

「奥」については忌避されているのかどうかは定かではありませんが、市町村名としては非常に少ないですね。
なお、過去には、愛知県一宮市に1955.4.1に編入された中島郡奥町がありました。

■先頭に「北」が付く市町村と由来
北海道北の海の彼方+道(五畿七道)、海(カイ)はアイヌ語から
北広島市北海道広島市との同名回避(元々北広島の地名あり)
北檜山町北海道瀬棚郡檜山の北部に位置する
北村北海道空知郡開拓者北村雄治から
北竜町北海道雨竜郡雨竜村の北に位置する
北見市北海道北見地方の中心(野付牛町から市制施行時に改称)
北上市岩手県北上川から(日高見からの変化)
北上町宮城県桃生郡北上川から(同上)
北会津村福島県北会津郡郡名から(会津の北)
北塩原村福島県耶麻郡北山村、大塩村、檜原村の合成地名
北茨城市茨城県茨城県最北部に位置する
北浦町茨城県行方郡北浦沿岸に位置する(霞ヶ浦=西浦に対する北浦)
北橘村群馬県勢多郡橘山の北に位置する
北本市埼玉県中山道の宿場名(本鴻巣から変化)
北川辺町埼玉県北埼玉郡埼玉県最北部の意(利島村と川辺村合併時)

えっと、「北」はまだ沢山あるのですが(残り25市町村)、とりあえずここまで。由来を調べてみると結構面白いことが出てきますね。なお、この表を見る限り「北」を忌避する感じはあまりなさそうに思います。以下、由来を調べていて面白かったことをいくつか上げてみます。

■北海道の北村は町に昇格すると北村町になるのでしょうか。

■北見市の北見という地名は、宗谷、斜里、利尻、礼文、枝幸、紋別、常呂、網走の八郡をもって「北見国」とし、現在の網走市の中心部を北見町としていましたが、網走町に取り込まれて字名も無くなったため、野付牛町が市制施行時に北見市を採用しました。この時、網走の住民から強い反対があったそうです。

■北広島市は広島県民の入植地としての広島町が市制施行時に広島県の広島市との同名回避で命名されたというのが一般的ですが、もともと北広島という地名もありました。これは、北広島と呼ばれていた入植地の北部が中心部となったためで、駅名も最初から北広島で「きたひろ」の略称で呼ばれていたそうです。

■福島県の北塩原町は、塩原の北ではなく、北山村、大塩村、檜原村の3村が1954.3.31に合併したときに各村から1字づつ取って合成した地名でした。

■埼玉県の北川辺町は、川辺村と利島村が1955.4.1に合併するときに北川辺村となりましたが、このあたり一帯が中世の川辺領であったことからの命名です。川辺領の北部という意味ではなく、埼玉県の最北部という意味合いと説明されており、一般募集でも北川辺が一番多かったとのこと。つまり、利島村住民が川辺村となるのを嫌がったと言うことでしょう。江田島市、渥美市と同じ問題が過去にもあったのですね。

先頭に「北」が付く市町村の一覧はこちらを参照してください。
http://uub.jp/ctv/srchctv.cgi?CITY=1&TOWN=1&VILL=1&DPRK=1&DPPR=1&DPCO=1&DPFR=1&KW=%96k&MACH=HEAD
[27531] 2004年 4月 19日(月)17:02:26湾岸太陽族 さん
裏町
少し前になりますが、某タウン情報誌に「これからは裏横浜!」というような記事が載っていたと耳にしました。
『裏横浜』ってなんじゃ?!と思ったのですが、どうやら横浜駅東口から、こないだ廃止された東急高島町駅を通り、相鉄平沼橋駅あたりまでの一帯をそのように呼ぶ向きがあるのだそうです。
なんだか裏原宿の二番煎じのようですし、わざとらしい感じがして個人的には好きになれないのですが(笑)、隠れ家・隠れ街的な売り出し方(?)というのはまあ面白いかな、と思ったのも事実。(自分から呼ぶ気にはなりませんが…)

で、他にも「裏」を付けて呼ばれる街のエリアがあるのかな?と思い、ネット上でちょっと調べてみたところ、次のようなものが使われているのが見つかりました。

通称おおよそのエリア備考
裏原宿明治通り~表参道駅界隈今や全国的に有名になりましたね。略称ウラハラ。
裏横浜横浜駅東口~(旧)高島町駅~平沼橋駅
裏渋谷渋谷駅新南口~東口「奥渋谷」とも。また神南エリアを裏渋谷と呼ぶ説もあり
裏恵比寿恵比寿駅東口略称ウラエビ
裏品川北品川1丁目~京急北品川駅
裏赤坂赤坂4,5,6,7丁目2丁目、3丁目が表らしい
裏吉祥寺五日市街道沿い略称ウラキチ
裏浅草言問通りの北側

もちろん、ソースはどれも曖昧なものなので、あまり鵜呑みにはしないでくださいね。^^;
また、他にご存知のものがあればお教えください。

※ちなみに、以下については「裏」を付けて一定のエリアを指すことはほぼなさそうでした。
 新宿 池袋 上野 川崎 銀座 六本木
[27535] 2004年 4月 19日(月)18:53:58Issie さん
演歌チャンチャカチャン (Re:裏町)
[27531] 湾岸太陽族 さん
また、他にご存知のものがあればお教えください。

松本城下町には,ズバリ,「裏町」という地名があります。

お城の東側を南北に通る「東町」通り(国道143号線:旧善光寺街道)の,もう1本東側の通りです。
藩政時代からの「町人町」区域ですが,もちろん街道の本道が通る東町の方が“表町”。

今では何となく「裏町」の名前がふさわしい飲み屋街になっていたような…,松本市民であったちょうど20年前の記憶。

なお,松本城下町の町人町のメインは,お城の南側,外堀の役割を果たす女鳥羽(めとば)川にかかる千歳橋から南に伸びる「本町」通りです。やっぱ…。

 暗い浮世のこの裏町に…,チャーンカチャカチャカ…。

どうも「裏」はネガティブなイメージだなぁ。
[27553] 2004年 4月 20日(火)06:49:58inakanomozart[inakanomozart] さん
裏町指向
[27535] 4 月 19 日 (月) Issie さん
松本城下町には,ズバリ,「裏町」という地名があります。

駿府城下町にも、かつて「本通裏町(現幸町)」「裏一番町(現住吉町)」「安西一丁目南裏町(現八千代町)」等の裏がつく町名がありました。

これらの町名は、いずれも町名変更(住居表示制度の実施による町名変更ではないのですが、新しくつけられた町名はいずれもと当たりさわりのない町名であるところがおもしろいところです。)で現存しないのですが、城下町においてはこのような町名のつけ方は普通だったのでしょうか?

また、表指向が強い現代人と違って、昔の日本人には「裏」に対してあまりマイナーなイメージがなかったのでしょうか。
[31212] 2004年 7月 31日(土)16:53:38まがみ さん
口田儀、奥田儀
[6050]グリグリさん
「口」の付く地名
さきほど偶然見つけたのですが、島根県簸川郡多伎町に「口田儀(くちたぎ)」「奥田儀(おくたぎ)」がありました。1956年の合併以前は、田儀村に属していたところです。

[5574]Firoさん
口と奥の組み合わせの地名は、日本海側に集中してますね。何でだかわからないですけど
多伎町も、まさに日本海側ですね。
[31214] 2004年 7月 31日(土)17:29:39inakanomozart さん
「口」と「奥」
[31212] 2004 年 7 月 31 日 (土) 16:53:38 まがみ さん
島根県簸川郡多伎町に「口田儀(くちたぎ)」「奥田儀(おくたぎ)」がありました。
静岡市の町名で、口と奥の組み合わせとなっているものに、
「口仙俣(くちせんまた)」「奥仙俣(おくせんまた)」、
「足久保口組(あしくぼくちぐみ)」「足久保奥組(あしくぼおくぐみ)」があります。
[31215] 2004年 7月 31日(土)17:58:49らるふ さん
山陰の「口&奥」地名
鳥取県と島根県の「口&奥」地名を調べてみました。

口山ノ上 (くちやまのうえ) 奥山ノ上 (おくやまのうえ) 鳥取市
口細見 (くちほそみ) 奥細見 (おくほそみ) 鳥取市
口絹屋 (くちきぬや) 奥絹屋 (おくきぬや) 西伯町
口陰田 (くちいんだ) 奥陰田 (おくいんだ) 米子市
口日野(くちひの)奥日野(おくひの)日野町
口宇賀町 (くちうかちょう) 奥宇賀町 (おくうかちょう) 平田市
口真木 (くちまき) 奥真木 (おくまき) 赤来町

[31212] まがみ さん
島根県簸川郡多伎町に「口田儀(くちたぎ)」「奥田儀(おくたぎ)」がありました。
も含めて、[18464]今川焼さんがリストアップされている北近畿地方とつながりが感じられます。
[42196] 2005年 6月 10日(金)18:28:44【1】今川焼 さん
表大山・裏大山
[42162] 打吹 さん
お察しの通り、大抵は蒜山を経由しますね。
今年の2月ごろに、他県経由での県内移動が話題になっていたときに、鳥取県の奥日野地方(というんですね)もそうですよと書き込もうと思いながらも、いまいち確信がもてなかったので書き込めませんでした。おかげさまですっきりしました。(笑)
ルートは、江府町からR482か、米子道かと考えていましたが、俣野川ダム([36932]今川焼・[36954] hmt さん)横を通る抜け道あったのですね。また最近できた県境の犬鋏トンネルも県内連絡の目的もあったというわけですか。

ところでふと思いついて検索してみると、大山は山陰側(北側)を表大山、山陽側(南側)を裏大山と言うようですね。
[42396] 2005年 6月 15日(水)23:58:59らるふ さん
奥日野・口日野
[42242] 打吹 さん
そういえば私が何気なく使った『奥日野(日野町・日南町の辺り)』の対義語って何だろ?
遅いレスになって失礼します。
コンサイス日本地名事典によりますと、
くちひの 口日野
鳥取県日野郡北部、江府・溝口2町の地域。生活全面に米子市との関係が深い。奥日野に対する。
となっています。
溝口町は岸本町と合併し「伯耆町」となり日野郡ではなくなりましたが、日野川流域の口と奥と考えればいいかな。
でも、ネット検索しても「口日野」ではあまりヒットしてきません。現存する地名事典はどれも初版が古く、改訂はされていても現在にはフィットしていないことが多いのでしょうか。(もちろん古い情報も捨てがたいと本当に思います。)
[42421] 2005年 6月 16日(木)19:11:33らるふ さん
口日野・奥日野のつづき
[42418] 打吹 さん
この『口日野』があまり使われないのは、ここを特別に総称する必然が無いからかなぁ、と思います。
やっぱり、口日野はあまり使われませんか。
昨夜、口日野・奥日野について書いたら、今川焼さんが「口・奥コレクション」を暫定リリースされたとの書き込みと偶然にも隣り合ってしまいました。(私も口奥地名に興味があるので、今川焼さんに感謝!)
それで、今日のお昼は中之島の図書館にちょこっと寄って「口日野について何かないかな」と「平凡社日本歴史地名大系・鳥取県」の日野郡のところを見るとだいたい次のような記述がありました。

1858年、口日野・奥日野の二構と変化し、二部宿に口日野郡役所、霞村に奥日野郡役所を設置。
1869年に口日野と奥日野は統合され、黒坂陣屋に日野郡役所を設置。

この「口・奥」が郡役所の名前としてできたのなら、「口○○」の方は地名として残るのは難しいなと思います。一般的に「奥○○」の方は観光地や名産品とともに共存する可能性が高いと思えるのですが。(だからこそ「口」地名が貴重なのでしょう)

奥日野郡役所が置かれていた「霞村」は現日南町役場の住所が日南町霞・・・となっているので、この辺かな(と地図を検索する)。近くに石霞渓があって、そこを流れる石見川・・・上・中・下石見なんて地名もある、伯耆なのに何で石見?・・・ん?石見と霞を合成して「石霞渓」なのかも。(何だか奥日野は、かすみさんと縁があるかも?)
#念のため石霞渓近辺の地図
[42425] 2005年 6月 16日(木)21:42:23【1】EMM さん
口・奥コレクション情報提供
>今川焼さん

身の回りで思いだしたものを情報提供いたします。
もし拾った後でしたらご容赦ください。

口三方岳(くちさんぽうだけ)金沢市・白山市-中三方岳(なかさんぽうだけ)金沢市・白山市
  -奥三方山(おくさんぽうやま)白山市
奥三方岳だと思ったら違った…

○口鍋谷(くちなべたに)-中鍋谷(なかなべたに)-鍋谷(なべたに)-奥鍋谷(おくなべたに)
能美市鍋谷町の旧小字名。
現在、住所としては使用されていないが、小松バスのバス停名として残っています。
そのちょっと西にある能美市和気町は和気-中和気-上和気、さらに西に行き小松市に入ると小松市上八里町-(中八里)-下八里町。
どっちも惜しい………??

○口乃湯(くちのゆ)-中乃湯(なかのゆ)-元湯(もとゆ)
金沢市北部にある深谷温泉の3つの泉源の名…だが、それぞれに旅館が1軒ずつしかなく、ほぼ旅館の名とイコールとなっているのでとりあえず参考情報と言うことで。
JRバスのバス停(深谷口の湯、深谷中の湯、深谷元湯)もあります。
西日本ジェイアールバスのHPに行っても情報がなかったので、代わりにこちらのサイトの中の「ローカルバス探検隊」→「金沢地区」→「西日本JRバス・中尾線」を参照してください。
[44006] 2005年 8月 9日(火)18:30:42【1】hmt さん
新宿には 通りに面していない場所に 「裏」地名 があった
[43993] matsu さん
新宿の日清食品ビルのある辺り、…ここは以前(15~16年前は間違いなく)「新田裏」という停留所名でした。
私が不思議に思っているのは「裏」です。何に対しての「新田裏」なのか?

そうか、「新田裏」は既に過去の地名になっていたのか。[38354]では、何の疑いもなく使っていました。

それはさておき、現在の地図ではわかりませんが、昔は、新宿歌舞伎町一丁目と二丁目の境から 東へ流れる 蟹川 という流れがあり、新田裏を過ぎてから北へ向きを変えて、現在の戸山ハイツ、早稲田大学を経て 神田上水(神田川)に合流していました。
神田川に近い早稲田には、名の示すように 田園がありましたが、戸山ハイツ付近には 江戸時代に 広大な尾張徳川家下屋敷[34120]があり、その上流も 右岸には武家地、左岸には給地手作場が多く、「新田」がどこなのか、よくわかりません。

「新田裏」という地名は、そんなに古くまで遡るべき地名ではないのかもしれません。明治の2万分の1迅速図には見えない「新田裏」が、大正時代の1万分の1や5万分の1に登場しています。これを見ると、豊多摩郡大久保村西大久保の中には、新田裏・南裏・北裏と「裏」地名が並んでいます。そう言えば、新宿追分の街道に面したところは「内藤新宿三丁目」でしたが、その北隣は「字三丁目裏」(明治21年5千万分の1)というように、通りに面していない場所には、「裏」地名を使う土地柄でした。

matsuさんの記憶にある「新田裏」交差点やバス停は 明治通りにありましたが、明治通りが貫通していなかった戦前には、「角筈」ターミナル(紀伊国屋の西側)を出て、現在は遊歩道公園になっている専用軌道を通って万世橋に向かっていた東京市電13番系統の新田裏停留所は、100m余り西(新宿区役所第二分庁舎北西隅)にありました。
[44042] 2005年 8月 10日(水)22:01:25hmt さん
「裏海」(りかい)は「内海」という意味
[44011] matsu さん
新宿追分から西へのびる青梅街道のどこからかと、大久保村を結ぶ通りがあり、その通りに面していない場所なので「新田裏」となったのでしょうかね?

大正14年(1925)部分修正の1万分の1で調べたのですが、それらしき道は見当たりませんでした。
この地図によると、現在の大久保一丁目が「仲通」で、その北の大久保二丁目が「北裏」、職安通りより南の歌舞伎町二丁目の北東部が「南裏」、その西側 このへんが「新田裏」のようです。以上は東京府豊多摩郡大久保町西大久保に属する小字であると思われます。

参考までに、蟹川の南側・現在の歌舞伎町一丁目は、当時は豊多摩郡淀橋町角筈[38354]のうち、五十人町や十人町でした。
また、現在の新宿五丁目(かつては内藤新宿北裏町だったと思われる)花園神社付近は、大東京発足(1932)よりも一足早く1920年に街道沿いの内藤新宿の町々と共に東京市に編入されており、この地図では四谷区三光町になっています。

現在の青梅街道にも「北裏」という交差点がありますが(練馬区関町南四丁目の辺り)、…

大正~昭和前期の地形図を見ると、青梅街道よりも南側にあります。武蔵野町(当時)の領域ですから、青梅街道でなく 五日市街道の「北裏」という位置づけなのでしょうか。地名本来の意味が失われて、一人歩きした結果、現在は青梅街道の交差点名になっているのですね。
ついでに、昔の地図の青梅街道の北側には、地蔵裏という地名もありました。

突然、外国の地名になりますが、カスピ海は「裏海」(りかい)と呼ばれていました。
これは、「内海」という意味なのですね。はやいち@大内裏さんの「裏」という字。奥まった内側ということです。
「新田裏」が、このような場所と言えるかどうかは不明。

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