[28405]TGRSさん
「九州周波数統一史」を調べていただき有難うございます。
私が
[28234]において「九州の東半分が50Hz」と単純化して書いた1950年代は、既にある程度の統合がなされた後で、その前は更に複雑だったことがわかります。
九州の東西不統一は日本の縮図のようであり、電力融通の困難をもたらしていたことはある程度承知していました。しかし「福岡県が九州の縮図、福岡市は又その縮図で東半が50サイクル西半は60サイクル」というのには、改めて驚きました。
ついでに言うと、「サイクル」という呼び方に一昔前の話であることを実感します。
この時点でも旭化成延岡工場、新日本窒素肥料水俣工場の自家用送電系統設備は50サイクルで、これらは熊本宮崎の県境(高千穂の奥付近)で繋がっていました。
当時の「新日本窒素肥料」は戦後に財閥解体から再出発した会社で、1965年に現在の「チッソ」に社名変更しています。逆に戦前に遡ると、水俣も延岡も 電気技術者・野口遵(のぐちしたがう)が創始した「日本窒素肥料」の工場でした。以下、日本窒素と省略します。
余談ですが、野口遵は宮城県の三居沢(現・仙台市青葉区、東北電力の発電所あり)で、水力発電所の余剰電気利用を図った大学同窓の藤山常一と共に、1902年に電気炉を用いるカーバイド工場を作りました。
三居沢は日本の電気化学工業発祥の地というわけです。
野口遵と藤山常一は後に喧嘩別れしますが、二人の創業した工場は、現在も産業界の一翼を担っています。
藤山常一が三井の資金を得て作った青海の電気化学工業
[28234]が新潟県の60Hz、熊本県のチッソと宮崎県の旭化成が九州の50Hzというのも奇妙な逆転です。
宮城県で水力発電の産業への利用に着手した野口遵は、次にこれを鹿児島県大口の金鉱山にも応用して成功(曾木電気)。更に熊本県の水俣からの誘致を受けて 1908年に水力と石灰石の資源を生かしたカーバイド、そしてこれから作られる窒素肥料(石灰窒素や硫安)の工場を作りました。これが日本窒素です。1932年からはカーバイドからのアセチレンを原料とするアセトアルデヒドを生産。このプロセスの触媒として使用した水銀が水俣病を引き起こす原因になりましたが、それは後の話。
野口遵が水俣の次にやった仕事は、宮崎県五ヶ瀬川の電源開発(
[28250]YASUさん) で、そこで得られる電気の用途は、水を電気分解して得られる水素を用いたアンモニア、合成硫安肥料でした。
現在は逆に水素から電気を作る燃料電池の時代に入ろうとしています。これは脱線。
日本窒素延岡工場は1923年操業開始。高圧化学反応の技術をはじめて実用化したカザレー式アンモニア製造装置は、現在は近代化遺産に指定されており、工場内のカザレー記念広場に展示されているそうです。
延岡では、アンモニアの利用から化学繊維事業もスタートし、日本窒素の子会社「旭ベンベルグ絹絲」を経て「旭化成」になりました。
水力発電の惠みを生かした延岡工場は硫安、苛性ソーダ、火薬、化学繊維等の総合的な化学工場として発展しました。
野口遵の事業意欲は“内地”にとどまらず、1927年には朝鮮に進出、鴨緑江で巨大な発電所を建設(水豊ダムなど)、興南を中心とした電気・化学コンビナートを建設しました。
朝鮮窒素の設備は「あの国」の貴重な財産になっている筈です。
ダムと言えば、この言葉が意外な会社名に使われています。
戦後海外から引揚げてきた日本窒素系会社の若手社員たちが、生きて行くために同系会社製品の販売会社を作りました。その名が積水産業。この会社が日本最初のプラスチック射出成形事業を始め、積水化学工業になりました。
「セキスイ」は、グループの創業者・野口遵が、各地で水を積み上げ続けたダムに由来していたのでした。
東京電力管内の常磐地区 60→50(昭和36年5月現在準備中)
これが
[28234]の日立周辺ですね。大口では全国で最後に残った地域でしょうか.
この本が出版された昭和36年5月現在、北九州市は発足前なのですが、すでにこのあたりのことを「北九州」と呼んでいるんですね。
私も「北九州工業地帯」「西鉄北九州線」のように、九州北部全域ではなく「北九州五市」限定の使い方に馴染んでいたように感じています。したがって、「北九州市」が発足した時も違和感はありませんでした。
これに対して布施・枚岡などに代り新たに登場した「東大阪市」の名称には大いに違和感は感じたものです。