舟運、特に大消費地である江戸へのルートを考えると、一つの疑問が浮かびます。
常陸川を遡行してきた船は、関宿から逆川を経て江戸川へ入る。これが寛文5年(1665)から明治23年(1890、利根運河通水)までの間の内陸幹川航路です。
それ以前には、赤堀川を栗橋まで遡って、権現堂川経由江戸川に入っていました
[57264]。これでも房総半島を迂回する海路に比べればだいぶ近道かつ安全な航路ですが、なぜ関宿から直接 江戸川(既に寛永18年=1641に開通)に入らなかったのでしょうか?
その理由は、常陸川の航行に必要な水量にあったのではないでしょうか。
既に1629年大木丘陵開削により鬼怒川合流点を移す
[65861]などの常陸川水量確保の措置も講じられていますが、(
長井戸沼など 境町・関宿周辺の沼沢群からの水だけでは、この付近までの航行に必要な水量には不足していました。赤堀川の水でこれを補給しようとしたが、まだ不足。
赤堀川通水以前、逆川の原型となる川の存在は不明ですが、ヘタをするとせっかくの赤堀川の水がここを逆流して(だから逆川?)江戸川に流出してしまうおそれもあります。
江戸川河川事務所HP掲載の図 で赤堀川の右に見える締切堤防は、この逆流を防ぐためのものではないかと推察されます。
ここを締め切ってしまえば、もちろん関宿から直接 江戸川には入れません。
では、寛文5年(1665)にこの締切を撤去して逆川を開削(復活?)することができた理由は何か?
それは、赤堀川の幅と水深を更に大きくして、給水能力を増強する対策を取ったためと思われます。
土木学会企画展pdf によると、元禄11年(1698)赤堀川は、川幅27間(49m)、深さ2丈9尺(9m)に拡張されているようです。しかし、それよりも少し前に、既にある程度の水量増加が実現している可能性があります。そうであるならば、一旦閉じた逆川を開いても舟運に必要な水量を確保できることになります。
これが寛文5年(1665)の逆川開削による銚子-江戸航路ショートカットを可能にした背景であろうと推測します。
舟運ルートの詮索から戻り、利根川水系における赤堀川の位置付けを考えます。
承応3年(1654)の通水により、赤堀川は「利根川の本流」になったでしょうか? そうではないようです。
「1654年赤堀川通水」により、利根川の水の「一部」は確かに赤堀川→常陸川へと流れました。
しかし、赤堀川の幅は狭く、いわば船の航行に必要な最小限の分水だったと思われます。
栗橋で渡良瀬川と合流した利根川の主流は、依然として権現堂川→江戸川を流れたと思われます。
そして、1665年の逆川開削より後の時代になると、利根川主流である権現堂川からの流れは、江戸川と逆川経由常陸川との二手に分かれることになります。
元禄15年(1702)下総国絵図 を見ると、渡良瀬川合流点の下流に「利根川 幅弐町四拾七間(167間)」とあり、そこから東に「赤堀川・川幅三拾弐間」が分れています。
10間幅→27間幅(1698)より更に拡張されていますが、それでも利根川の5分の1の川幅です。
権現堂川筋の川幅は関宿の江戸川流頭で65間(壱町五間)、分れる江戸川が43間、逆川が赤堀川と合流した後の関宿・境町間が161間と、渡良瀬川合流後の川幅とほぼ同じ値になっています。
この数値から判断すると、栗橋で2手に分れた流れのうち、権現堂川→逆川を経由して元の常陸川筋への流れが「利根川本流」になっており、赤堀川はバイパスであったと思われます。
つまり、寛文5年(1665)の逆川開削
[65862]によって東へ向かう太い流路が確保されたわけで、拡幅された赤堀川と合わせて、この時期に「銚子口への利根川東遷」が一応は完成したと見てよさそうです。
利根川が、権現堂川と赤堀川との二本立てで東へ流れる体制は、長く続きました。
文化6年(1809)、明治4年(1871)、明治45~大正6年(1912-1917)など何度もの赤堀川拡幅工事を経て、遂に権現堂川は大正14年(1925)に流頭が、昭和2年(1927)に流末が締め切らました。
現在のように赤堀川が利根川の唯一の本流になったのは、このようにずっと後のことでした。
戦後のカスリーン台風(1947)を経て赤堀川が更に拡幅され、現在は700mほどになっていることは既に記しました。
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利根川東遷 は、徳川家康時代からの大計画などではなく、試行錯誤を繰り返しながら到達した結果のように思われます。