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[76683] 2010年 11月 6日(土)21:00:38【1】hmt さん
筑波山オフ会2010協賛:渡良瀬遊水地
[76676] オーナー グリグリさん
今回の筑波山オフ会の翌日、この渡良瀬遊水地へのツアーが計画されています。

…というわけで、hmtマガジンに、特集「渡良瀬遊水地-4県が集まる境界地域」 をアップしました。

むじながいりさんが[46855]で貼ってくださった写真がリンク切れになっているのは残念。
渡良瀬遊水地マラソンのコース[46877]も切れています。
[69997]で引用した「谷中村 記録からよみがえる姿」も、合併により藤岡町HPがなくなり、栃木市HP内を探しても見つかりません。

3県境について
sutekinaおじさん【現futsunoおじさん】がまとめてくださった[31626][31627]三県境に示されているように、3県境の大部分は山岳地帯にあります。木曽三川合流点に次いで標高が低い平野部は、関東の4地点。この内3地点は渡良瀬川と江戸川の水面です。

埼玉県への編入問題が浮上している下宮地区がらみの栃木・埼玉・群馬3県境も、昔は渡良瀬川と支流との合流点でした。
しかし、渡良瀬遊水地の工事ですっかり姿が変り、陸上になった現在は、全国唯一の平地3県境であると思われます。

下宮地区について、もう一つの特異点を挙げておくと、内水面がらみの準飛び地であること。
葛籠尾半島[19049] の高月町・湖北町準飛び地が長浜市への合併で消滅した現在、これも唯一の存在になったのでしょうか。
[76876] 2010年 11月 24日(水)16:39:59【1】hmt さん
鶴の嘴の先端
「鶴舞う形の群馬県」
アーカイブズ にもなっている「上毛かるた」です。

その「鶴」の嘴の先端・邑楽郡板倉町海老瀬は、渡良瀬遊水地の南部(西寄り)で、群馬県・埼玉県・栃木県の3県境になっています。
そこから2~3km離れた渡良瀬貯水池南東には 埼玉県・栃木県・茨城県の3県境があり、古河の三国橋から県道9号(最初は国道354号と共用)を走れば、茨城県>埼玉県>栃木県>群馬県>埼玉県>群馬県>栃木県と目まぐるしく変ります[35717]

このような県境錯綜地帯になった理由は、県境(遡れば上野・武蔵・下野・下総国境)が作られた当時の渡良瀬川や その支流が 蛇行していたためですが、この付近の水系は、約100年前からの渡良瀬遊水地造成によって一変しました。hmtマガジンの特集記事をご参照ください。

この落書き帳では、筑波山オフ会明けの日曜日(11月21日)、同好の士が誘い合い、日本唯一の存在である 田園地帯の3県境を訪れました。オフ会で集まった 26名の内 なんと 17名が参加するという大人気。

古河の三国橋を渡った先は埼玉県で 旧北川辺町。3月に加須市になったばかりです。すぐ右手は「三国」の由来である武蔵・下総・下野三国境で、ここも3県境ですが、渡良瀬川の中なので現場に立つことができません。
少し進むと 渡良瀬遊水地の大部分を占める栃木県の 突出部になって、旧藤岡町下宮(したみや)。ここも3月に栃木市に編入したばかりです。左手の土手下に目的地を見ながら進むと、すぐに群馬県板倉町を経て、あっという間に道の駅・きたかわべ到着。ここは再び埼玉県です。

道の駅に駐車して階段を降りれば群馬県の先端部。谷中湖(渡瀬貯水池)の一部を介して板倉町海老瀬の本体と繋がってはいますが、事実上の飛び地です。栃木市下宮のように本体から遠く離れた存在ではありませんが、ここも内水面がらみの準飛び地でした。

田畑の中を少し歩いて、いよいよ「鶴の嘴の先端」である 3県境とおぼしき地点に出ます。MasAkaさんが Google Mapから見つけてくれた立て札があります(アルバムIMG_0862)。
この立て札によると、小さな水路が県境で、その合流点が3県境となっています。
落書き帳のグループも、その情報に基づいて、そこで記念写真を撮ったりしたものですが、合流点の水たまりが本当に3県境だったのでしょうか?

MasAkaさんの写真説明(IMG_0848)にも、“この水路が埼玉県(右)と群馬県(左)の県境?”と疑問符が付けられているのですが、現地で得た情報から、私も「現在の水路=県境」説に、いささか疑問を抱いています。

その根拠は、水路の合流点よりも僅かに北東側(栃木県側)にある「基点」と記された境界標石で、IMG_0877に撮されています。

私も、この石だけでは何の基点かわからなかったのですが、水路に沿って北に進むと、同じく栃木県側の岸に「群馬県」と記された標石(IMG_0888)があることを知りました。
標石は、群馬県が「鶴の嘴」に沿って建てた県境標石で、「基点」は鶴の嘴の先端にあたる群馬県の基点だったのですね。

そこで改めて立て札の写真を見ると、合流点の右上にある「基点」標石を境に、右端部(東側)と水路側とは植生が異なっています。現地の観察でも、昔の渡良瀬川の跡とおぼしき東側は荒地状態で、現在の水路周辺の土手を挟んで西の群馬県側は田んぼ。
どうやら地表の姿が変わっているこの線が、栃木県との境である渡良瀬川旧河道の右岸で、「群馬県」の建てた標石は、その延長上にあるようです。

MasAkaさんがML00195で紹介してくれた 1974年の空中写真 は、渡良瀬川の真ん中に境界線が引かれた 明治17年の迅速測図 と現状とを結びつける 良い資料になっていると思います。

渡良瀬川の真ん中が県境だったのならば、右岸に設置された「基点」標石よりも川幅(現在の荒地幅)の半分だけ東寄りが、真の3県境なのではないかと考えています。

群馬・埼玉県境とされた水路の北側にある地表の色の変った線も、同様に県境と思われますが、この線の延長上にあると推定される県境標石は、確認するに至りませんでした。1974年空中写真でも、谷田川旧河道跡の合流点付近は、既に認められなくなっています。

以上、3県境ツアーから生まれた 鶴の嘴の先端に関する疑惑 を提示しておきます。
[76912] 2010年 11月 28日(日)15:07:33hmt さん
3県境近辺の今昔
オフ会企画の記録です。
11月21の3県境ツアーに先立ち、20日の二次会の席で、遊水地になる前後の 渡良瀬川水系が描かれた 明治と現代との地図、合計4枚を示しながら説明しました。

明治17年(1884)迅速測図
正式の三角測量による全国の地形図整備に先立ち、一部の地方については、迅速測図というものが作られました。特に関東平野の原図にはフランス式彩色が使われました。
2008年に、農業環境技術研究所が その原図を結合して位置情報を与え、現代の道路や川を赤線・青線で加えた「歴史的農業環境閲覧システム」を作成しました。
落書き帳では、[65091] oki さんにより紹介され、[65097]hmtがレスを書いています。
今回の探訪地・3県境地帯について言うと、まさに渡良瀬遊水地により水系が激変する前の姿を詳細に教えてくれる貴重な資料というわけです。
既に[69978]でリンクしているのですが、説明用に谷中湖の輪郭、現在「谷中村跡」とされている位置、それに3県境の位置(渡良瀬川旧河道と 谷田川旧河道との合流点)などを書き込みました。

mapion
現代の大縮尺図として利用しました。迅速測図より少し狭い範囲ですが、全国唯一4県にまたがる県道9号佐野古河線[70030]や、最近変化のあった市町村名などを書き込みました。
明治の地図と対比すると、県境が旧河道の跡であることが一目瞭然です。
内水面がらみの準飛び地になっている栃木市下宮地区の加須市への越県編入[76271][76676] に関する新聞記事も添付。

明治20年輯製図
20万分の一宇都宮を2倍に拡大コピーし、県境と川とを着色したものです。右下には、江戸川右岸の埼玉県でありながら、当時は下総国だった地域の一部が見えていたので、これも着色してあります。
当時の利根川は、埼玉茨城県境の権現堂川にもかなり流れていたので、この部分も青く着色すべきでしたが、塗り忘れています。

20万分の一地勢図宇都宮(1998年)
年代に特別の意味はありません。たまたま手元にあった地勢図を白黒で拡大コピーして、同様に着色しました。
群馬・埼玉県境を見ると、県道9号を跨いでいませんね。これが間違いであることは、現地で見聞した通りです。
[76913] 2010年 11月 28日(日)15:30:02hmt さん
第7回落書き帳公式オフ会(筑波山オフ会2010)(1)鹿島神宮ルートで筑波山へ
昨年の 岡山オフ会2009 に続いて、今年の参加報告。

[76106] で筑波山開催のアナウンスがあったのが 8月28日。
悠々日[52173]を楽しませてもらっているご隠居のこと、早速アンケートに「◎(99%参加)」と書き込みました。
とはいうものの、つくばエクスプレスが利用できる近県での開催。キップの手配は不必要と考え、前後の具体的な計画は全く立てずに過ごしていました。

この頃、筑波山オフ会2010の前景気を盛り上げる目的と称して、落語の解説文 をリンクした [76175]ガマの油 を書いています。
手前持ちいだしたるは、これにある蟇蝉噪四六の蝦蟇の膏だ。…四六、五六はどこでわかる。前足の指が四本、後足の指が六本、これを名づけて四六のガマ。このガマの棲める所は、これよりはる~か北にあたる、筑波山の麓にて、おんばこという露草を食らう。

蛇足:ニホンヒキガエルも基本は5本指ですが、前足は親指が痕跡的な骨だけになり、一見すると4本。繁殖期になったオスの後足には、内部に骨のある婚姻瘤ができ、6本指に見える。指まがいの突起は、パンダが竹をつかむ「偽の親指」も有名ですね。
四六のガマは筑波山に限らず。[76197] 油天神山 さんによると、上方落語の「蝦蟇の油」では、江州伊吹山の麓とか。

11月になると、県境めぐりツアーが具体化してきたので、参加を希望し、hmtマガジンにも 渡良瀬遊水地-4県が集まる境界地域 という特集をアップして前景気を煽りました[76683]

特集の前書きと この記事とで、栃木・群馬・埼玉3県境が、(川の合流点でなく)現場に立つことのできる全国唯一の平地3県境であることを指摘しました。
実は、県境の交通路コレクション には、三重・京都・奈良の3府県境も“平坦地”と記されているのですが、“標高約280m・山間”であり、ウオッちず が示すように、ゴルフ場周辺の山林内ということで、関東平野の田園と大きく異なります。

あと1週間という段階で往路の予定を変更し、グリグリさんの 鹿島神宮駅集合ルートに参加することになりました。

当日、東京駅からのバスで着いた鹿島神宮駅前で待っていると、思いがけず88さんが現われ、電車に乗車。
グリグリさんの車には、鹿島神宮参拝を済ませたYASUさん・かすみさんと同乗。国道とはいうものの、幅の狭い鹿行大橋は架け替え工事中とのことでもあり、県道の北浦大橋経由で鹿嶋市から行方市へ。淡水湖の橋としては、琵琶湖大橋に次ぐ長さとか。中央部は5連のトラス。少し深いのでしょう。

北浦に架かる橋と言えば、最初に渡った経験は 1962年頃に 佐原からのバスで渡った 初代の神宮橋。当時は北浦唯一の橋で、川と違って全部が水面の湖上に、多数のスパンを連ねた姿が 印象に残っています。

行方市では、常陸秋そばの店「美蕎」(びきょう)へ。茨城県久慈郡金砂郷町(かなさごうまち)【常陸太田市】の在来種から育成されたご当地ものとか。知りませんでした。

霞ヶ浦に架けられた唯一の橋である霞ヶ浦大橋の手前で休憩。石岡方面に続く入江(高浜入)には、帆曳船の姿も見えました。

なかなか筑波山に着きませんが、このあたりで区切ります。
[76914] 2010年 11月 28日(日)15:32:41hmt さん
第7回落書き帳公式オフ会(筑波山オフ会2010)(2)霞ヶ浦から筑波山、そして3県境へ
前の記事では、なんとなく「霞ヶ浦」と書きましたが、詮索するとこの地名はなかなか複雑なようです。

Wikipediaでは、“西浦・北浦・外浪逆浦・北利根川・鰐川・常陸川の各水域の総体”と記され、最初に出てくる湖沼水質保全特別措置法の施行令第二条の二にも、“霞ケ浦(北浦及び常陸利根川を含む。)”とあります。
時代により、法律によりその定義や書き方がまちまちになっており、答えは一つではないようですが、私としては、管理者である国土交通省の 霞ヶ浦河川事務所管理河川図 に従って、狭義の霞ヶ浦(西浦)を指すものと理解しておきます。“面積220km2でわが国第2位”などと記されている場合も多く、この場合には北浦などを含む広義の「霞ヶ浦」を指しているので、ご注意ください。【狭義でも第2位は変りません。】

先の水質関係の法律には「霞ケ浦」と記され、茨城県霞ケ浦水質保全条例 も大文字の「ケ」です。
国土交通省が 霞ヶ浦河川事務所 において小文字を使っていることは、先の管理河川図で例示された通りです。
国土地理院はどうかというと、昔発行した標準地名集では大文字を使ったようですが、現在の地形図や 地理に関する情報 では、小文字になっています。面積を見ると、これも狭義の霞ヶ浦を指していることがわかります。

茨城県新治郡出島村が 1997年に「霞ヶ浦町」になった時は小文字を使いましたが、2005年には「かすみがうら市」。
旧千代田町の領域から筑波山へのドライブだったと思いますが、どのあたりで未舗装路を通ったのかよくわかりません。

青木屋到着。眺望はよかったが、スカイツリーは認識できず。
一次会の集合写真撮影。今回は事なきを得ました。
中締めでは、1962年に埼玉県に転勤してきた時に、富士山のちょうど反対側に望む位置関係で、筑波山を認識したことを語りました。
二次会での3県境地図今昔と三本松の時刻表は、オフ会記録ページ参照。
武揚堂[73205]マグカップ 「日本の県章」をいただきました。
都道府県市区町村落書き帳のオフ会関連として、何よりの記念品と思っています。ありがとうございます。

翌朝の露天風呂。「雲上の湯」という名に恥じない見事な雲海。
カメラを持参していなかったのですが、数人の方と一緒に入浴しているうちに陽がさしてきました。
雲が消えないうちに撮影しないといけないと、カメラを取りに部屋まで往復。その間に皆さんは湯から出てしまいましたが、一応「雲上の湯」らしき入浴姿を撮ることはできました。

朝食後ロビーで解散。いっちゃんさんの車に同乗させてもらい、山を下り一路3県境へ。
3県境探訪記の中には、[76876] 鶴の嘴の先端 で、立て札に記された「現在の水路=県境」説に対する疑惑を提示しております。
[76929] 2010年 11月 29日(月)14:06:35【1】hmt さん
渡良瀬川旧河道の3県境
[76901] MasAka さん
[76925] 88 さん
[76927] oki さん

鶴の嘴の先端[76876]である群馬県邑楽郡板倉町大字海老瀬が、栃木県栃木市藤岡町下宮及び埼玉県加須市【旧北川辺町】小野袋と接する3県境について、立て札に記されていた「現在の水路=県境」説に対する疑惑を記したところ、いろいろと考察をいただき有難うございます。

これらのご意見を拝聴した結果、渡良瀬川旧河道については、半月状の下宮飛び地の外周をなす 現在の荒地 は、渡良瀬川旧河道左岸側の半分の痕跡であるとする、[76927] oki さんの考察に納得しました。
そこで改めて [76901] MasAka さんリンクの 1974年空中写真を見ると、右岸側の群馬県にも 河道の跡とおぼしき耕地の区画が認められ、3県境に続く埼玉県では欠けていますが、その東側の一部には 栃木県側と同じ幅の 細長い区画が再び現れます。

…というわけで、“「基点」標石よりも川幅(現在の荒地幅)の半分だけ東寄りが、真の3県境なのではないか”[76876]という推測は誤りを認めて撤回します。

こうして、巨視的には 川の中心の県境に沿って 現在の水路が作られた(残された?)わけですが、現在の水路の左岸にある 標石の問題が残ります。

[76925] 88 さんの発言は、より微視的なこの問題に答えており、西側に水田地帯を抱える群馬県が、この水路の管理者であり、三尺幅の水路敷地の中心でなく、その東端までが群馬県で、そこに標石が建てられたとしています。
つまり、「基点」という標石は、3県境そのものを示していたわけですね。
いずれにせよ、水路の中心線が、本当の県境ではなく、境界柱までが群馬県であろうと推測します。

以上で、私にとっては3県境疑惑がほぼ解決したと考えます。

【追記】
[76925] 88 さんには自治体の変遷が紹介されていますが、昔の地図・航空写真などを見ながら、3県の人たちの暮らしをに思いを馳せてみました。

小野袋
迅速測図(1884)の時代からそこそこの集落があった埼玉県北埼玉郡小野袋村は、1889年の町村制で、渡良瀬川下手の柏戸村・向古河村などと共に川辺村になりました。1932年には、茨城県の飛び地になっていた伊賀袋も編入。
西に隣接する柳生村は、南側の村々と共に1889年麦倉村。1929年には東武日光線開通で柳生駅。
1941年と1974年の2枚の航空写真を比べると、やはり柳生駅周辺が にぎやかになっているようです。
昭和の大合併で、埼玉県でありながら利根川の北にある 川辺村と麦倉村の2村は 合併して、北川辺村になりました(1955)。

海老瀬
群馬県邑楽郡海老瀬村は、町村制でも単独村制。但し海老瀬村の本体は 北西にあります。渡良瀬遊水地で飛び地状態になった群馬県の県境地帯は、無人に近い状態でしたが、土地開発には積極的だったと見受けられます。
[76927] oki さん
海老瀬村側では、土地改良工事でも行われたようで、境界のすぐ西側に南北方向の直線道路が伸び

下宮
栃木県下都賀郡下宮村は、1889年の町村制で3村合併して谷中村。
渡良瀬遊水地の設置で、小野袋や海老瀬も一部の農地を失いましたが、何と言っても甚大な影響を受けたのはこの村です。現在は奇麗に整備されているこの地帯ですが、1974年航空写真の遊水地内は、廃墟になった無残な姿をうかがわせます。
半月状の飛び地の住民たちは、この遊水地内にあった集落から移住した人々でしょうが、下宮自体は極めて狭く、耕地は群馬県や埼玉県に求めたものでしょうか?
[76950] 2010年 12月 2日(木)23:27:22【1】hmt さん
Re:第7回落書き帳公式オフ会「3県境近辺の今昔」
[76947] オーナー グリグリ さん
とても見やすい形にまとめていただき、ありがとうございます。

蛇足ですが、この機会に [76912]に基づく説明文に書いてなかった県境の変化を、補足コメントしておきます。

探訪した 3県境 の少し下流(南東)、向古河の先で 渡良瀬川の流路は直線化され、埼玉・茨城県境も変っていることがわかります。
すなわち、明治20年輯製図で 東岸の茨城県西葛飾郡伊賀袋村であった地は、現代の地勢図では 西岸の埼玉県北埼玉郡北川辺町【2010年加須市】伊賀袋になっています。

1932年7月1日に、県に関わる境界変更があり、当時の 茨城県猿島郡新郷村伊賀袋と立崎の一部が、埼玉県北埼玉郡川辺村に編入されました。
伊賀袋付近で 渡良瀬川の流路改修工事が行なわれた 年代は知りませんが、[76929]の追記で言及した この越県編入が、河川工事によって 西岸に飛び地状態になってしまった地域の所属を 修正したものであることは明らかです。

市区町村変遷情報では、境界変更についていろいろ苦悩しておられますが[63569]、今回の分も未収録です。
大字単位・実質的な分割・県境関与などの事情から、収録対象として検討に値すると思われます。>88さん

茨城埼玉県境は変っても、下総武蔵国境は不変ですから、地勢図で「県界変更史跡」めぐり[46981]の対象になるはずですが、地勢図の国境は新県境に移ってしまっています。下野上野国境の事例 [17073] と同様のミスでしょう。

埼玉・茨城県境を更に約 10km下った権現堂川[65910]
[76912]では、“青く着色すべきでしたが、塗り忘れ”と書きましたが、記録ページの掲載 は 後で送り直した画像で 修正済みです。
[77005] 2010年 12月 10日(金)16:03:19hmt さん
利根川と国境・県境との関係(7)渡良瀬遊水地
栃木群馬埼玉 「3県境近辺の今昔」 に添付した明治17年迅速測図の上部欄外には、渡良瀬川の河道について、次のように書き加えました。
現河道はずっと北から貯水池の東に回り込む

渡良瀬川河川事務所HPの 渡良瀬川の歴史 には、次のように記されています。
渡良瀬川は、かつて太日川(ふといかわ)と呼ばれ、1000年前は、現在のルートとは違うところを流れていました。太日川は、足利市の対岸から矢場川を通り、古河市の西部で合ノ川という川に連なり、現在の江戸川の川筋を通って、東京湾に直接注いでいたのです。

[4618] G[わたらせG]さんも、下野国と上野国との境界をなす矢場川が、渡良瀬川の旧流路であったことを記しています。

上記HPには、足利・太田付近の図はありませんが、渡良瀬遊水地付近については、2番目の図(昭和初年)で説明されています。
赤く着色されているのが 藤岡放水路で、栃木県下都賀郡藤岡町の台地(図の上部橙色)を横切る開削工事(1910~1926年)によって作られました。[76925] 88 さん

(藤岡放水路)によって、渡良瀬川は、直接、赤麻沼に落ちることになったのです
というHPの記述から、昭和前期の渡良瀬遊水地において、北部にある赤麻沼が果した役割を理解することができます。

MLの [off7:00086] における、いっちゃんさんの下記発言も、渡良瀬遊水地を、その中の天然貯水池=赤麻沼で代表させたものだったのでしょう。
実は小学生の頃、地元民は赤麻遊水池と社会科で習ったのですよ

「遊水」目的の「土地」の周囲を土手で囲み、「池」にする工事の着工は 1963年でした。渡良瀬川(藤岡放水路)南西側の第1調節池は 1970年、北東側・巴波川と思川との間の第2調節池は 1972年、巴波川右岸の第3調節池は1997年に ほぼ でき上がりました。

第1調節池内は、更に掘削して貯水容量を増加し、水道水確保にも役立てることになりました。
鉱毒と完全に遮断するために 池の底までコンクリート張りにした ハート形の 渡良瀬貯水池(4.5km2) が 1990年に完成し、「谷中湖」と名付けられています。

振興財団HP[43138]遊水地の生い立ち には、3つの調節池からなる渡良瀬遊水地の航空写真と明治17年迅速図とが対比されており、赤麻沼との位置関係もよくわかります。鳥瞰写真

昭和という年号と共に流れが藤岡放水路に移る前は、蛇行する渡良瀬川がほぼ栃木県境でした。
“ほぼ”と言ったのは、県境が東武日光線と交わるあたりでは、明治の河道も少し県境から外れているからです。この付近、川が台地の先端を横断する形になっており、更に古い流路変遷の存在を思わせます。

それはさておき、その南東約4kmの3県境。迅速測図を見るとわかるように、この地点は 川の合流点でした。
同じく迅速測図に基く資料ですが、近世初頭の利根川改修を扱った論文の図3(URBAN KUBOTA PDF版 No.19 の4/4)「明治10年代…利根川流路と流路跡」をご覧ください。
地形図から読み取れる流路跡が記入されており、江戸時代の流路がよくわかります。

問題の 3県境は 図3の上部で、タイトル文字「利根川流路」の真下です。
蛇行しながら北西から南東へと流れるのが、栃木県境になっている渡良瀬川の旧流路であることは明らかですが、西から来て大きく蛇行してから渡良瀬川に合流する川の正体は何でしょうか?

谷田川と記された西からの流れに、南から大きな旧河道が合流しており、県境線は明示されていませんが、群馬埼玉県境はこちらです。
この河道を辿ると「合の川跡」と加筆されており、利根川接続部の堤防に、「天保9年締切」の注記があります。締切年代については、[76938] まかいの さんがリンクしてくれた 板倉町と水辺 16/36 記載のように 天保12年説もありますが、この河道が上野国と武蔵国との国境になっているということは、かつては利根川の本流と言ってもよいほどの大きな流れであったを語っています。

実は、この付近の利根川水系には、網の目のように多数の流路があり、時代により、また平水時と洪水時により流路は移り変わっていたので、どれが本流であるかということは、簡単に言えません。

3県境探訪からこの複雑地域に言及することになった以上、長らく中断していた 「利根川と国境・県境との関係」 シリーズを再発進しましょう。


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