3府43県が出揃い(M21=1888)、市制町村制が施行された(M22=1889)「明治中期以降」の県境変更について記しています。
M23に公布された府県制は、郡の再編が進まずに施行が遅れました
[62662]。
地方自治法では“都道府県の境界変更は法律でこれを定める”ことを本則としています
[79537]。
しかし 現実に行なわれた県境変更事例は、この本則によるものではありません。
戦後のすべての県境変更事例は、“都道府県の境界にわたる市町村の境界”の動きに従属して“自ら変更する”ことになった県境です(地方自治法第6条第2項)。
つまり、主役は県境の「市町村」であり、都道府県の境界変更につれて市町村の領域が変化したものではない。
これが、県境変更の現実の姿です。
もっとも、明治後期には 政府や府県が主役となり、県境変更の特別法を制定した事例が いくつかありました
[79538][47106]。
明治26年の
東京府及神奈川県 境域変更に関する法律 による 三多摩移管がその代表例です。しかし、当時の東京府・神奈川県にはまだ府県制が施行されていませんでした。この特別法は、府県制とは一応無関係に制定された法律 であったようです。
余談ですが、北多摩郡が東京府になったことで、武蔵野台地にあった“平地の3府県境”
[75152]は 消滅し、更に埼玉県“新座半島”
[68760] 先端の保谷村が北多摩郡に編入されて(M40)、“元3府県境”は 東京府の中の ありふれた3村境(保谷村・武蔵野村・石神井村)
[68760]になってしまいました。
東京付近で もう一つ目立つトピックスは 県境河川改修にからむ県境変更です。
江戸川(M28)
[79538]・利根川(M32)
[47106]・多摩川(M45)
[79538]は、改修工事の後で それぞれ定められた境界変更法により、新流路が新県境になりました。
もちろん戦前にも 合併や境界変更による 市町村主役の 個別的県境変更事例 がありました
[79541]。
戦前の事例につき この種の記録を全国的に探索するとしたら、県報へのアクセスなどでの困難が予想され、完全なリスト作りは難航するおそれがあります。このことは既に触れました。
引き続き、現行の法体系下、つまり昭和22年5月3日以降に行なわれた 県境変更事例の種類について記します。
下関市の参考資料
[75937]に示された 11件の事例を、廃置分合による越県と、境界変更による越県とに分けてみました。
廃置分合事例 6件
5件は、昭和大合併の際に認められた越県合併
[55505]の仲間です。昭和の 新市町村建設促進中央審議会が 5件(境界変更
[79523]の5番、8番、9番を加えれば8件)を認めたのに比べて、平成大合併では僅かに1件というのは時代の違いでしょうか。
5件のうち、樫田村と菱村とは 村まるごと編入です。 元狭山村・石徹白(いとしろ)村・神坂村の3件は、村内の一部地域を前日に分村(境界変更)して 県内に残留させるという手法を取った点と、越県合併の施行日(S33.10.15)とが共通しています。
S33. 4. 1 京都府桑田郡樫田村が、まるごと大阪府
高槻市に編入
S33.10.15 埼玉県入間郡元狭山村が 東京都西多摩郡
瑞穂町に編入【分村先
武蔵町】
S33.10.15 福井県大野郡石徹白村が岐阜県郡上郡
白鳥町に編入【分村先
和泉村】
S33.10.15 長野県西筑摩郡神坂村が 岐阜県
中津川市に編入【分村先
山口村】
S34. 1. 1 栃木県足利郡菱村が、まるごと群馬県
桐生市に編入
H17.2.13 長野県木曽郡山口村が、まるごと岐阜県
中津川市に編入
昭和大合併では島崎藤村の故郷・馬籠を長野県に残したことで有名な分村事件でしたが、その山口村も、平成大合併では岐阜県になりました。
境界変更事例 5件 リスト番号は、
[79523]88さんによる告示順の番号です。
リスト番号 5 S30.4.1 岐阜県恵那郡三濃村大字浅谷及び野原が
愛知県東加茂郡旭村へ【残る横通は
岐阜県内明智町編入】
リスト番号 8 S33.4.1 京都府亀岡市西別院町牧及び寺田の大半が
大阪府豊能郡東能勢村へ【亀岡市は存続】
リスト番号 9 S35.7.1 群馬県山田郡矢場川村の東部地域が
栃木県足利市へ【西部地域は
群馬県内太田市編入】
リスト番号11 S38.9.1 岡山県和気郡日生町大字福浦の大半が
兵庫県赤穂市へ【日生町は存続】
リスト番号17 S43.4.1 栃木県安蘇郡田沼町入飛駒(いりひこま)地区が群馬県桐生市へ【田沼町は存続】
入飛駒について
ここは、大字飛駒の一部で「大字」単位には該当しない との判断から、変遷情報の境界変更収録対象に不採用なのかもしれません。
しかし、
桐生市の変遷【注】 によると 面積は5.65km2もあり、事実 20万分1地勢図でも充分に県境変更を認識することができます
[46981]。
かつては老越路峠を越えて飛駒の本体と連絡するのに一日がかりだったと伝えられる
事実上の別集落で、小学校もありました。
なお、桐生川ダムの梅田湖ができて一部が水没しました(1983)。
事実上独立した集落であったことに配慮すれば、入飛駒地区の境界変更は、他の 10事例と同様に、変遷情報に記録してもよいのではないでしょうか。>88さん
【注】
この頁の表の部分は
[75906] おがちゃん さん 報告による
桐生市|市域の変遷 と同じです。しかし、二分された状態の市域図が描かれているだけに、より分りやすいと思います。
収集基準
[76001]の (5)からすると、採用は難しいのでしょうか?> オーナー グリグリさん