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落書き帳

県民の日

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[4850] 2002年 11月 13日(水)12:39:42日和[松戸] さん
色々!
今日は、学校が茨城県民の日で休みなので、お昼にきてしまいました。(私は千葉県民ですけど)

いなさん、YSKさん、理想都市のレスありがとうございます!
いなさんの>なんらかの事情(駆け落ち・サラ金)で身を隠す必要があった場合には「土佐清水市」
はおもしろかったです。(^^)参考にさせていただきま~~す。(え!?)

YSKさんの理想都市TOP10にはオドロキです!日本各地、色んな所をまわってらっしゃるんですね!私も将来、是非チャレンジしてみたいです。
これからも「理想都市」探索、頑張って欲しいです☆

夜景について・・・
雑魚さん、黒髪さん、情報ありがとうございました。「夜景が綺麗」となるとやっぱり栄えた市街地っていうのが基盤になっちゃいますよね。そうなると私から見たら、大都市って言われてる所は全て夜景の綺麗な場所になってしまうかも(^^;)
この前、北九州市のHPに載っていた夜景の写真もすごく綺麗でした。北九州ってすごく五つの都市すべてにしっかりとした歴史があるみたいだし、なかなかすごい所ですよね。
YSKさんのTOP10にもあったように、私の理想都市にも加わっちゃうかもです。

[4827]ごろごろさん
千葉市の区名って全て公募一位になったものだったんですか。知りませんでした。でもさいたま市の場合、三つの全て違った形で成長してきた都市が合併したものですしね、公募一位のものを全て採用すると、北九州市以上に味気のない区名になっちゃう気がします。(北九州市の場合、五つの都市でしたから、まださいたま市の案よりは区名にばらつきがあるし)
やっぱり四文字の市名だから、区名はだらだらとしないように一文字を多くしたんでしょうかね。
私としては、「埼玉市指扇区」や「埼玉市秋ヶ瀬区」みたいな方がちゃんと歴史を意識した、(埼玉市はちょっと違うか)威厳のある大都市って感じ取れるんですけどね。
いっそのこと、政令指定都市にするのは、もうちょっと元三市民の意識がまとまってからにした方がよかったんじゃないかな・・・と思います。
もう後の祭ですけど。
私の頭の中も、未だに「埼玉の県庁所在地は浦和市」ってのが抜けきらないし。う~~むむむ。
どうする!?さいたま市!
[4879] 2002年 11月 14日(木)12:27:57kentan さん
存在していましたか!!
[4836]くは さん
>廃線となった高速道路は存在します。その名も名神高速道路といいます:-)
なんとまあ、メジャーな路線が廃線に・・・って違うか :-p
この後に

[4840]f さん
拝見頂きました!なるほど魔のカーブと言われてるだけあって再工事したんですね。
予算が無かったから遠回りしたのね。でも、似たような状況(廃線ではないが)は
他の路線がいっぱいありますよね?最近の高速道路はカーブ率が緩くなってますが
中央道(下りの甲府を過ぎた先)・東北道の山間部かな?首都高もあり得るがノロノロ
だから大丈夫でしょうね。近年老朽化になってるので新しく更新してもらいたいもんだ。
追伸:高速廃線以外に他のコンテンツも楽しめましたよ(笑)

それから、11/13は県民の日だったんだ・・・(今、気付いた・・・汗)
根っから県民なのにその日だけいつまたっても覚えられない僕って非県民でしょうか(苦笑)
[21976] 2003年 11月 14日(金)08:39:56【1】hmt さん
(埼玉)県民の日
明治4年11月14日に埼玉県ができたのを記念して、100年後の1971年に「県民の日」が制定されました。県内各地で施設公開等のイベントや鉄道の県内一日フリー乗車券発売があります。
関心のある方は http://www.pref.saitama.jp/A01/BQ00/vivi/ の右上にあるリーフレットをご覧下さい。

それはさておき、明治4年11月14日は旧暦(天保暦法)の日付です。明治6年から採用された現行太陽暦(グレゴリオ暦法)による日付に換算すると1871年12月25日になります。学校を休日にして人々をイベントに誘い出す日としては、気候の良い11月14日の方が適していることは明らかなので、県民の日は太陽暦換算をしない旧暦の日付を使ったのでしょう。

これに対して、国の関係した記念日には太陽暦換算の日付が用いられているようです。
明治天皇の誕生日に由来する文化の日(旧天長節、明治節)、官設鉄道の正式開業日に由来する鉄道の日(旧鉄道記念日)のように明治改暦の少し前のものだけでなく、神武天皇由来の建国記念の日(旧紀元節)、天智天皇由来の時の記念日のような古いものまで現行太陽暦法を遡及して換算した日付を用いています。これはあくまでも遡及換算するというルールなので、当時西洋でグレゴリオ暦が存在したか否かとは無関係なことです。
このような太陽暦換算ルールは、明治改暦に際して皇室の祭祀をする日を決める必要から定められたとのことです。該当者の有無は別として、太陽暦換算ならば命日が旧暦2月30日の場合にも困ることはありません。ずっと昔のことですが綏靖天皇2500年祭の新聞記事を見た記憶があります。こんな古い先祖までわかっていると大変です。
ロシアの(ユリウス暦)十月革命記念日もグレゴリオ暦換算の11月7日でした。

最後に古い日付をそのまま用い、太陽暦換算しない民間行事の例。
赤穂浪士討入の元禄15年は普通の年号西暦対応表によると1702年ですが、旧暦(当時は貞享暦法)の12月14日は西暦では新年を過ぎており1703年1月30日です。しかも討入時刻・寅の上刻は今流に言えば日付が改まって新暦1月31日の事件となります。もちろん義士祭は12月14日でないと気分が出ません。

一応は埼玉県の話から始めたのですが、すっかり空間軸から離れて時間軸の話題になりました。
このくらいの脱線まではお許しください。
[36047] 2004年 12月 25日(土)13:48:18hmt さん
埼玉県の生まれた頃(1)―今般関八州(中略)府県被置候事
133年前1871年12月25日、関東地方各県(の前身)が発足しました。
この年、明治4年7月の廃藩置県で生まれた飛地だらけの3府302県を、おおむね郡単位にまとめて、3府72県の新しい行政区画を作る作業は、10月28日の群馬県から始まり、約1ヶ月かけて全国に及びました。
このうち、関東地方の分が11月14日に布告されています。約1年後の1873年から採用された新暦にあてはめると冒頭の日付になりますが、埼玉県の「県民の日」は旧暦表示の11月14日になっています[21976]

この太政官布告により、関八州プラス伊豆の9ヶ国に 東京府・足柄県・神奈川県・入間県・埼玉県・木更津県・印旛県・新治県・茨城県・栃木県・宇都宮県が設置されました。
一足先に発足した(第1次)群馬県を加えた1府11県が、現在の県につながる行政区画として成立したわけです。

さて、「目でみる埼玉百年」(埼玉県1971)という本を見ていたら、p.14にこの太政官布告などの写真(部分)が出ていました。
そこで、布告文を読みながら、埼玉県の生まれた頃(1871~1876年)の関東地方を振り返ってみました。

なお、関東地方の県域や県名に触れた過去記事は、Issieさんの[1644][18896][19025][24127]、両毛人さんの[16764]、hmt[20917]などがあります。[10577]には統合分割の歴史が県の順番に影響を及ぼした事例が示されています。

太政官日誌明治四年第九十三號(1871年)
〇辛未十一月十四日
御布告書寫
今般関八州群馬縣ヲ除クノ外并ニ伊豆國従来ノ府縣被廃更ニ左之通府縣被置候事
〇埼玉縣(注:サイタマと振り仮名。古墳群のサキタマと読み方が違うためでしょう。) 縣廳 岩槻
武蔵國 埼玉郡 葛飾郡ノ内 足立郡ノ内

この県を構成する3郡のうち、葛飾郡は印旛県を主体として3府県にまたがる大きな郡のほんの一部にすぎず、南隅の足立郡も東京府とまたがる地域であり、当時の県の中心地域は埼玉郡でした。この時点では「埼玉縣」の名称も、「県廳岩槻」も妥当です。

発足当初の県庁組織は、庶務・聴訟(裁判も県の仕事でした)・租税・出納の4課で、定員は50人程度というから、人口(43万人)1万人あたり 1.2人となります。現在、埼玉県知事の事務を補助する一般職員の定数は8016人となっていますから、人口1万人あたり 11.4人。約10倍になっています。

なお、岩槻には県庁舎として適当な建物がなかったので、旧浦和県庁舎を仮に使いました。
1876年には荒川西側の旧入間県の領域を併合するなど、埼玉県の中心地域が移動したこともあり、埼玉県発足から19年も経過した後の1890/9/23、足立郡の浦和がそのまま正式の県庁所在地になってしまいました[22470][20917]

当時の埼玉県は、およそ現在の埼玉県の東部3分の1で、荒川の西側は入間県でした。入間県の西部は秩父の山地で、面積では勝るものの、人口(41万人)や石高(約40万石)では埼玉県と同程度の県でした。

〇入間縣(注:振り仮名なし) 縣庁 川越
 武蔵國 横見郡 入間郡 秩父郡 男衾郡* 大里郡* 榛澤郡* 賀美郡# 幡羅郡* 比企郡 新座郡 那賀郡# 児玉郡# 高麗郡 多摩郡ノ内

1896年の郡制により大里郡*や児玉郡#に統合されて消滅した北部の小さな郡の名が見えます。(横見郡は比企郡に、高麗郡は入間郡に統合)。
[4864] 2002年 11月 13日(水)23:10:37日和[松戸] さん
茨城県民の日も終わり・・・
また明日から学校だぁ・・・。
そういえば、埼玉に住む友達からメールが着たんですが、驚いたことに、明日は埼玉県民の日らしいです。
一日違いだったんですね。

[4855]雑魚さん
そうです。私立なんです。親は「金が消える~~」と泣いております。(悲)
そういえば、東京ディズニーランドは千葉県民の日と茨城県民の日(事実的に埼玉県民の日も)のある週には、パスポートが安くなるんですよね。去年はそれで東京ディズニーランドの方に行ってしまいました~~。あははは・・・は。

なんか最近、都市部にばかり人口が集中しすぎてるみたいですね。
そうやって、過疎化ばかり進んでしまう地域があるのを思うと、もうちょっと人口分布にばらつきがあってもいいのにな、と思います。
千葉でも、銚子市や館山市なんかが人口減少が著しい感じです。

これじゃ、合併しないと新しい市もできませんし。
私は「平成の大合併」。ちょっと反対ですので。。。

なんかいつにも増して文章にまとまりが・・・(・・;)
[55149] 2006年 11月 14日(火)12:00:39【1】eiji_t さん
県内のバスが千円で2日間乗り放題
昨日11月13日は茨城県民の日でした。今日は埼玉県民の日ですね。
<『茨城県民の日』記念フリー乗車券>が発売されていました。1000円で12,13日の二日間有効、県内の12社の路線バスが自由に乗り降りできました。去年から実施で、全国的に見ても独特の試みだそうです。
私がこれを知ったのは2日前の事で、去年は知りませんでした。急遽乗車券を購入して、計画も余り立てられずミニ路線バスの旅をしてきました。

11月12日
日立駅―東河内(日立電鉄交通サービス)運賃往復1420円分
前から気になっていた日立市内の小さな水力発電所を見学してきました。
里川発電所、中里発電所
茨城県北には水力発電所が13箇所あって、ほとんどは小さな規模の発電所です。
東京電力
歴史の古い発電所も多く、6箇所が国の有形文化財に登録されています。乗換えを事前に調べられれば里川水系の他の発電所にも行けたでしょうに……来年への課題です。

11月13日
常陸多賀駅―常陸太田駅―水戸駅―県歴史博物館 運賃往復3420円分
(日立電鉄交通サービス、茨城交通、茨城オート)
日立、水戸間の直通の路線バスが何年も前に廃止しになった為に、JRでは30分位のところ、乗換えもふくめ2時間以上、運賃も2.6倍。こういう機会でなければ試みられないルートです。県歴史博物館は県民の日のため無料で見学できました。また明治期の市町村合併の疑問点を博物館にしかない資料で調べ物をしてきました。その結果は別に報告します。

路線バスの旅は、事前に調べていかなければ効率的に回れません。来年はしっかり計画を立てて行こうと思います。

鉄道も11月26日まで土・日・祝日に県内のJR線と、接続する私鉄が1日間2000円で自由に乗降りできる「ときわ路パス」を発売しています。これを利用して、廃止が計画されている鹿島鉄道や茨城交通湊線に乗りに行こうかなと思っています。
[55178] 2006年 11月 15日(水)21:56:29hmt さん
日付が1日違う「県民の日」
[55149] eiji_t さん
昨日11月13日は茨城県民の日でした。今日(11月14日)は埼玉県民の日ですね。

[4864] 日和[松戸] さん
茨城県民の日も終わり・・・ 驚いたことに、明日は埼玉県民の日らしいです。一日違いだったんですね。

茨城県のプレスリリース2005/11/2 には、県民の日の由来につき次のように記されています。
1871年(明治4年)7月に廃藩置県,同年11月13日に県の統廃合が行なわれ,新治県,印旛県,茨城県の三県が置かれました。
このとき,初めて「茨城県」という県名が用いられたことにちなみ,1968年(昭和43年)に「県民の日を定める条例」 により11月13日が茨城県民の日と定められました。

埼玉県HP による由来は次の通りです。
明治4年11月14日(旧暦)、太政官布告によって、「埼玉県」の名称が生まれた。
それからちょうど100年目に当たる昭和46年に、これを記念して、11月14日を「県民の日」とした。

そのまま読めば、「茨城県」と「埼玉県」(いずれも現在の県域の一部)が生まれたのは1日違いということになります。
しかし、両県の発足は実は同日ではないかと思われ、1日違いとなった原因が気になります。

なお、明治4年11月13日にせよ14日にせよ、当時の日本で行なわれていた天保暦法(いわゆる旧暦)による日付です。1年余り後の明治6年から採用された現行太陽暦(グレゴリオ暦法)による日付に換算すると1871年12月24日と25日になります。[21976]参照

「茨城県」や「埼玉県」が発足した日は、現実には(今で言う)年末寒波の季節でした。
しかし、人々をイベントに誘い出す「県民の日」としては、気候の良い日付を選ぶことが必要です。どっちみち、現在の県域とは違うのですから、「県」が発足した日と言ってもこじつけにすぎません。だから、あえて旧暦の日付をそのまま用いたことは納得できます。

以下、旧暦の日付で話を進めます。
明治4年7月にとりあえず藩を県に置き換えた後、主として明治4年11月に第1次府県統合が全国的に実施されました。
このうち関東伊豆ブロックでは、先行した群馬県以外の1府10県すべてが同じ日付の11月14日に設けられたと心得ていたので、茨城県と埼玉県の「県民の日」が1日違うことに疑問を感じたのです。

“関東伊豆ブロック”という言葉に釣られて脱線しますが、伊豆出身の北条氏による鎌倉政権以来、この明治初年までの長い間(♪歴史は長し七百年)、関八州と伊豆とは同じ地域ブロックを形成していました。江戸時代には伊豆韮山の江川代官所の支配する天領が関東にあり、明治初期には「韮山県」になりました。現在でも観光地としての「伊豆箱根」や、東京電力管内であることに見られるように、伊豆は関東との深い関係が続いています。
しかし、明治9年(1876)に足柄県が分割され、伊豆は行政的には関東から切り離されて静岡県に属することになりました。
[24127] Issie さん
伊豆にとっては,これが「運命の分かれ道」だったかもしれません。
道州制の区割り案を見ていると、甲州は関東ブロックに復帰しそうですが、伊豆が関東に戻る可能性は小さいようです。

本題の明治4年、「茨城県」や「埼玉県」が発足した日付に戻ります。
Isssieさんの頁(第1次府県統合にかかわる太政官布告) も、「埼玉県の生まれた頃(1)―今般関八州(中略)府県被置候事」[36047]で参照した「目でみる埼玉百年」(埼玉県1971)掲載の太政官布告も、いずれも「十一月十四日」と記されています。

ところが、「茨城県民の日」をきっかけにして、11月13日とする説が存在することを知りました。
そこで改めて Isssieさんの府県の変遷 を見たら、こちらの表では、茨城県も埼玉県も11月13日となっています。
出所はよくわかりませんが、「11月13日」と記された文書もどこかにあるのでしょうね。
オヤ? 群馬県も11月13日になっています。

135年も前の「日付が1日違う」ことを詮索しても、あまり実益はないと思いますが、ちょっと気になったので…

と書いたら、TDL date-navi の “できれば避けたい混雑する特定日一覧”の中に、6/15(千葉県民の日)、6/15(栃木県民の日)、10/1(都民の日)、10/28(群馬県民の日)、11/13(茨城県民の日)、11/14(埼玉県民の日)、11/20(山梨県民の日)が並んでいました。いずれも公立校が休み&入園料割引。

茨城県民の日と埼玉県民の日の「日付が1日違う」ことは、思わぬところで混雑分散効果を及ぼしていることを知りました。

ここに列挙された「県民の日」の日付を見ると、千葉県民の日([28604]猫使いさん)は、明治6年(1873)6月15日に印旛県と木更津県との統合によって「千葉県」の名ができた日付です[1644]
栃木県民の日も同じ日付に由来します。こちらは「杤木県」が宇都宮県を統合した日です[36081]。現在の県域プラス東毛3郡。
群馬県[54618] [54919]と山梨県は、茨城県・埼玉県と同様に明治4年の第1次統合により、それぞれの県名が生まれた日にちなんでいます。

「都民の日」[33692]だけは、「三市特例法廃止」によって「東京市」が自治を獲得し[53890]、新発足した明治31年(1898年)10月1日を記念しています。東京市時代は自治記念日と呼んでいたようです。

参考までに、多くの県が採用したように「東京都」という名の生まれた時を求めると、それは1943年7月1日です。しかし、これは大戦中の国家統制が強まった時であり、「都民の日」にふさわしいものではありませんでした。参考までに、初代の「東京都長官」大達茂雄の前職は、昭南特別市(シンガポール)市長でした。

神奈川県だけは「県民の日」が制定されていないようです [28601] N-H さん。
TDL date-naviには、6/1~6/12“神奈川県民週間”とありましたが、これは公式の存在なのでしょうか? それともTDL独自の割引期間?
[55181] 2006年 11月 15日(水)23:34:38【2】Issie さん
Re:日付が1日違う「県民の日」
[55178] hmt さん
出所はよくわかりませんが、「11月13日」と記された文書もどこかにあるのでしょうね。

あのページのデータは,HTML化してHPに掲載する以前に元の表を作った非常に古いものなのですが,このときデータ元としたのは『角川日本史辞典 第二版』(1966年初版,1974年第二版初版,1983年第二版第15刷)の付表でした。とても古いですね。…よく見たら,この付表に出典の表記がありません。

オヤ? 群馬県も11月13日になっています。

で,今気づいたのですが,これは全く私のミスです。これは 明治4年10月28日(旧暦)←某所の影響でこんな添え書きをする習慣がついてしまいました。

が,関東諸県については

 11月13日:足柄県,神奈川県,埼玉県,入間県,栃木県,宇都宮県,茨城県,新治県,印旛県,木更津県

…あらら,東京府と群馬県を除いた関東全部だ。東京府は11月3日。

角川書店はその後,日本史辞典の全面改訂を行って,『角川 新版 日本史辞典』の初版を1996年に発行しています。
付表に出典の表記がないのは,あいかわらずですねえ。
で,日付はやっぱり全部 11月13日 です。

ところが,山川出版社が1997年に刊行した『日本史広辞典』巻末の「日本史便覧」部分を独立させて2000年に刊行した『日本史便覧』の付表では以下のようになっています。

 11月13日:入間県
 11月14日:茨城県,新治県,印旛県,木更津県,宇都宮県,埼玉県,東京府,神奈川県,足柄県

こちらには“参照資料”が列記されていて
遠山茂樹・安達淑子編「近代日本政治史必携」(岩波書店,1961),松尾正人「廃藩置県」(中公新書,1986),内閣統計局編「府県及北海道境域沿革一覧」(1910初版,象山社より1979復刻),「内務省図書局蔵地方沿革略譜」(1882初版,柏書房より1966復刻),「法令全書」,「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社,1978),「藩史大事典」全8巻(雄山閣,1988~90)

このうちの「法令全書」は,ウチのこのページもその冒頭に書いたとおりに出典にしているのですが(…というより,このページの目的は「法令全書」の当該布告自体を掲載すること),入間県 については別の資料に依拠したのでしょうかね。

ただし,「法令全書」に収録されている布告が“唯一絶対”かというと,決してそうでもないわけで,たとえば一連の府県統合が終了した後,12月27日付けで布達された 府県の配列を定めた布告 の末尾についている以下の注釈:

--------------------------------------------------------------------------------------
明治史要ハ十二月十日ニ作ル。別紙中、十二月十三日及び二十日ニ既ニ改称シタル一関県・福井県ノ旧称アルニ依レハ、十二月十日ヲ是ナリトス。今姑ク布告ニ従フ。
--------------------------------------------------------------------------------------

の通り(句読点は引用者が付した),すでにこの段階で原資料による齟齬があるのですね。

[55174] で触れた「柏崎県」関連で写しを取ってきた『新潟県史 通史編6 近代一』(1987年)の p.113 は,以下の文章で始まります。

--------------------------------------------------------------------------------------
明治元(1868)年五月二十九日(「公文録」では二十三日),新潟裁判所が廃止され,新政府の越後直轄支配機構として越後府が設置された。…
--------------------------------------------------------------------------------------

ここでは 越後府(第1次) の設置期日について,資料によって 5月29日説 と 5月23日説 とがあることを述べています。
余談ながら,ここでいう 新潟裁判所 の「裁判所」とは,現在の司法機関としてのそれではなくて,主に旧幕府奉行所を継承するつもりで主要地域の民政一般を掌るべく設置された統治機関です。越後府がそうであるように,閏4月の「政体書」に基づいて順次「府」に改められました。
もっとも,当時の越後国内は新政府が統治できるような状態ではありませんでしたから,「新潟裁判所」と言っても“名前だけ”の存在であったようです。

[55174] でも言ったとおり,原資料にとても近い段階,あるいは原資料そのものの段階ですでに複数の日付があり得ることも少なくないような気がします。

※そうそう,書こうと思って忘れていたのですが,
要するに,廃藩置県および第1次府県統合にかかわる太政官布告府県の変遷 とでデータの同期はとっていないのです。
[55199] 2006年 11月 16日(木)18:38:20hmt さん
明治初年の日付
[55181] Issie さん
関東各県で第1次府県統合がなされた日付の出所につき、早速お知らせいただき、ありがとうございます。

すべて原資料にあたることには実際上の困難があり、引用を重ねている間に齟齬が生じることはやむをえないことと思います。

アナログ時代の元技術屋としては、誤差はその程度を認識していれば良いものであり、すべて否定できる存在ではないという認識です。
例えば円周率は、円周と直径の比で一定の値という概念こそが重要であり、近似値として「3」を使うか「3.14」を使うか(その機会は殆んどないでしょうが)「3.14159」を使うかはケースバイケース。
# 小学校教育の場でも、画一的な近似値を唯一の値として教え込むことは問題です。

同じような考え方からすると、一般的には「現在の県の母体が発足したのは1871年」という程度の精度でよいと思いますが、「県民の日」の由来ということで、「げんみつ姫」のように日付を詮索することになってしまいました。

「法令全書」に収録されている布告が“唯一絶対”かというと,決してそうでもない

なるほど。
[36047]で引用した「太政官日誌」にしても、“御布告書寫”と書いてあるので「写し間違い」の可能性はゼロではないし、“辛未十一月十四日”という「日誌の日付」が「布告の日付」と同一であるかどうかもわかりません。

それでも、布告文の柱書が
今般関八州群馬縣ヲ除クノ外并ニ伊豆國従来ノ府縣被廃更ニ左之通府縣被置候事
となっていることから、群馬県以外の1府10県すべてが共通の布告に基づくものであることは間違いなく、県民の日の「日付が1日違う」のは、やはり奇異に感じられます。

もっとも、“今般…左之通府縣被置候事”という文章は、「布告の日に府県を置く」という意味ではなく、「最近の府県設置を人民に知らせる」というように解釈することもできそうです。
それならば、「設置の日付が1日違う」茨城県と埼玉県とを、共通の布告で処理することもあり得るということでしょうか。
山川の便覧では、入間県だけが1日早くなっているのですか。文献によりまちまちですね。

東京府は11月3日。
1868年“慶応四年戊辰秋八月十七日幸橋御門内元柳沢邸ヲ以テ東京府トス”[51072]として設けられた「東京府」が、明治4年にリセットされた日付でしょうが、これは角川日本史辞典の付表が11月13日を誤記した可能性が大きそうですね。

明治4年10月28日(旧暦)←某所の影響でこんな添え書きをする習慣がついてしまいました。

Issieさんの日付表記に関する方針[2112]は、承知しております。
「明治4年」と書けば、それに続く日付は旧暦であるのが原則ですが、添え書きは付けた方が親切でしょうね。
老婆心ながら申し上げておくと、府県の変遷表の日付。これは、冒頭部に断り書きが書いてあるものの、“71.11.13”というような「西暦(1800年代)と旧暦の混用表示」は、やはり奇異に感じられます。[2112]に記された方針通りにされた方が良いと思います。
[54618] 2006年 10月 28日(土)09:00:15YSK さん
群馬県民の日
本日は群馬県民の日です。今年は土曜日になりましたのであまり関係ないですが、学校は休みになります。明治4年10月28日にはじめて「群馬県」が登場したことにちなむものです。なお、このときの群馬県はいわゆる「第一次群馬県」でして、現在の桐生市やみどり市、太田市、館林市、邑楽郡の区域は含まれていませんでしたが、イベント等を実施するには気候もよいなどの理由からこの日を群馬県民の日としたとのことです。さらに行ってしまうと明治4年当時は太陰暦を使っていたので現在の暦とは違うようですが、そのあたりは厳密には考えないことにしたそうです。

札幌対名古屋のお話で盛り上がっているようですね。春先のWBCにしろ、今回の日本シリーズにしろ、チームを引っ張るカリスマがいて、チームに一体感が生まれると強いなあと感じましたね。それに地域ぐるみの応援のすごさも目立ちました。類似点についてのお話は、両市とも地域ブロック単位の拠点都市ですから、似ている点が多いのは一定の必然性があるようにも感じます。逆に「海に面している/いない」、「市名と同じ郡があった/なかった」、「市域は平地が卓越する/山間部をも広く含む」、「城下町起源である/ではない」など、相違点もまた多いということを念頭に置いていただきますと、いっそう地域への理解が深められるのではないかと思いますね。
[54888] 2006年 11月 1日(水)23:30:12hmt さん
“現在の県の直接の母体”第1号となった群馬県(1)「群馬」の名と県庁所在地
[54618] YSK さん
群馬県民の日(中略)明治4年10月28日にはじめて「群馬県」が登場したことにちなむものです。

明治4年旧暦11月(1871年ですが、最後の11月22日は太陽暦では1872年)に行なわれたいわゆる「第1次府県統合」のうちで、10月に実施された唯一のケースが群馬県ですね。
他に先んじて第1号に選ばれたのは、たまたまなのか?それなりの理由があったのか? よくわかりません。

振り返ると、慶応4年(1868)、府藩県三治体制ということで新政府の直轄地に府県が設置され、更に明治4年7月には、全国の藩を廃して県が置かれました。
しかし、これらの302県は、江戸時代に形成された支配地の集合に過ぎませんでした。 [54430]で「飛び地の集合」状態と表現したモザイク模様の 第1次兵庫県 がその実例です。

廃藩置県から4ヶ月後の明治4年11月には、この混乱状態が3府72県に整理統合され、現在の県域の一部( 実例として第2次兵庫県 )又は全部の領域を備えた県が続々と誕生しますが、このような“現在の県の直接の母体”第1号が「群馬県」でした。

Issieさんのページ には、太政官の布告文が収録されています。
今般上野国諸藩被廃更ニ群馬県被置候事
おやおや、7月に廃藩置県は済んでいる筈なのに、“今般上野国諸藩被廃”と書いてあります。

上野国の主要な郡としては、古くは国府のあった甘楽郡が首位であったようですが、東山道が整備され、国府も群馬郡に移って、こちらが上野国の中心になったようです。
「群馬」の名は、古い時代の「車」郡が、“凡諸国部内郡里等、並用二字、必取嘉名”(延喜式)に従って二文字の表記に改められたもので、近世でも「くるま」と「ぐんま」とが両方用いられていたようです。
表記と言えば、[36047]で引用した明治4年11月の太政官布告文でも「群馬県」の「群」という字に、音符の「君」が「羊」の左に置かれた常用漢字の字体(もともと俗字)でなく、「君」が「羊」の上に置かれた本来の漢字が使われていました[36083]

但高崎ニ県庁ヲ被置候事
徴兵令布告に先立ち、高崎城には鎮台分営が置かれる方針が出され、県庁は高崎を追われて前橋に移りました(明治5年6月)。
更に明治6年6月には知事が兼務した入間県と合併したので熊谷に県庁が移り[36081]、「群馬県」の名も一旦消えました(熊谷県)。
明治9年8月の第2次府県統合で「群馬県」が復活した際にも、再び高崎に県庁が置かれましたが、その際も満足な庁舎が得られず、生糸貿易による経済力に勝っていた前橋の仮県庁誘致が成功しました。
明治14年(1881)には正式に群馬県庁所在地が前橋ということになり、現在に至っています。
県庁と言っても現在のように大所帯ではなく、定員50人程度だった埼玉県庁[36047]と同規模の役所でしょう。従って引越しも身軽にできた時代ですが、転々と移動した履歴をもっています。
[54919] 2006年 11月 2日(木)17:50:00hmt さん
“現在の県の直接の母体”第1号となった群馬県(2)最初はなかった「鶴の首」
明治4年(1871)10月28日(1985年制定の群馬県民の日の由来)に登場した「群馬県」、[54888]の続編です。

Issieさんのページ には、群馬県設置の布告文に続き、新旧各県宛の達が収録されています。
         群馬県
今般上野国小幡伊勢崎前橋岩鼻高崎沼田安中七日市ノ八県ヲ廃シ更ニ其県ヲ被置

     各通  小幡県 伊勢崎県 前橋県 岩鼻県 沼田県 安中県 高崎県 七日市県
今般其県被廃候ニ付テ管轄地並当未歳物成等群馬県ヘ可引渡事
 但元県ノ官員追テ 御沙汰候迄従前県庁ニ於テ事務可取扱事
  但高崎県ハ元県ノ官員追テ御沙汰迄従前ノ通可相心得事ニ作ル

上野国には、旧幕府領から明治政府の手に渡った岩鼻県の他に、旧藩領から転換した8県がありました。合せて9県のうち、明治4年には館林県(東毛3郡)だけが栃木県に入り、残る8県が群馬県として統合されたわけです。

[54618] YSKさんの「群馬県民の日」に関する記事中の次の箇所も、このことを指しています。
このときの群馬県はいわゆる「第一次群馬県」でして、現在の桐生市やみどり市、太田市、館林市、邑楽郡の区域は含まれていませんでしたが

「鶴舞う形の群馬県」 ですが、この時代にはまだ「鶴の首」がなかったわけです。
…と書いたら、「鶴の首」のない地図が現存していました。
[54483] みやこ♂ さん
「東京12チャンネル」の天気予報の地図(関東地方)に,群馬県の「鶴首」がないのがあるんですよ

それはさておき
「第1次府県統合」は現在の県の母体を作ったとはいえ、3府72県という数からも明らかなように、県域が現在の県よりも狭い場合が多数ありました。
1971年は「第1次府県統合」の100周年でしたが、この年に「県民の日」が制定されたお隣の埼玉県を、その例として挙げます。
すなわち、明治4年の第1次埼玉県には、荒川の西、川越から秩父までが含まれておらず、面積的には現在の約3分の1に過ぎません。現在の県域との相違は、群馬県よりもはるかに顕著でした。

[54618] YSKさん
イベント等を実施するには気候もよいなどの理由からこの日を群馬県民の日としたとのことです。明治4年当時は太陰暦を使っていたので現在の暦とは違うようですが、そのあたりは厳密には考えないことにしたそうです。

「県民の日」を太陽暦換算の年末とせずに、旧暦の日付を用いることにより、気候のよい秋に持ってきた点も、群馬県・埼玉県[21976]に共通しています。
横浜開港記念日 は、外国関連なので太陽暦日付が適しているように思われるのですが、何故か太陽暦による7月1日から、わざわざ旧暦による6月2日に変更されたのですね[54351]

“現在の県の直接の母体”第1号として誕生した群馬県ですが、入間県と合併していた「熊谷県」時代の3年間は、一時的にその名が消えます[36081]
この明治6年の合併は、現代流に言えば「新設合併」です。
入間県・群馬県
其県被廃熊谷県被置候条地所物成等同県ヘ引渡可申事

東毛3郡(新田、山田、邑楽)を加えて上野国全域に及ぶ第2次「群馬県」として復活したのは明治9年(1876)でした。
明治9年の布告文から、この時には「熊谷県」が管轄区域と県庁所在地を変更して「群馬県」と改称したものであることがわかります。[36111]
熊谷県管轄武蔵国ノ内ヲ埼玉県ヘ合シ橡木県管轄上野国山田新田邑楽ノ三郡ヲ熊谷県ヘ合シ熊谷県庁ヲ上野国高崎ニ移シ群馬県ト改称
[28604] 2004年 5月 25日(火)12:11:02猫使い さん
県民の日
[28601]N-H さん

千葉県の「県民の日」は、昭和58年に県人口が500万人を突破したことを記念して、6月15日を「県民が郷土を知り、ふるさとを愛する心を育み共に次代に誇り得るより豊かな千葉県を築くことを期する日」(県民の日を定める条例第1条・2条)として昭和59年に制定された。

そうです。

純系千葉県人を自負する私ですが、
昭和59年はすでに大学生だったので県民の日の休日の恩恵に浴することはできませんでした。

自分色、登録できました。ありがとうございます。(三毛猫のイメージです)
[36081] 2004年 12月 26日(日)18:55:07hmt さん
埼玉県の生まれた頃(2)―試行錯誤の県組替えパズル
関東地方の県の改廃に関する太政官布告[36047]の続きです。
明治6年に群馬県令の長州人・河瀬秀治が現埼玉県西部の入間県令を兼任し、両県は統合されて熊谷県になりました。
同じ時に、宇都宮県は栃木県に統合され、印旛県と木更津県とが統合して、千葉県になりました。こうして、明治4年(1871)の第1次府県統合で関東地方に生まれた1府11県は、3県減少して1府8県になりました。

太政官日誌明治六年第九十號 六月十五日(1873年)
〇各通 入間縣・群馬縣
其縣被廢熊谷縣被置候條地所物成等同縣ヘ引渡可申事
〇熊谷縣
今般其縣被置候條武蔵國大里郡熊谷驛ヘ廳ヲ設ケ舊入間群馬両縣地所物成等請取可申事
但受取條ノ上大蔵省ヘ可届出事
〇杤木縣
今般宇都宮縣被廢其縣ヘ管轄被仰付候條地所物成等同縣ヨリ請取可申事
但受取條ノ上大蔵省ヘ可届出事
〇各通 印旛縣・木更津縣
其縣被廢千葉縣被置候條地所物成等同縣ヘ引渡可申事
〇千葉縣
今般其縣被置候條下総國千葉郡千葉町ヘ廳ヲ設ケ舊印旛木更津両縣地所物成等請取可申事
但受取條ノ上大蔵省ヘ可届出事

ここで千葉県が誕生しましたが、利根川より北の下総国(結城・古河・取手など)を含む一方、利根川より南でも 佐原・銚子などは新治県というわけで、現在よりも細長い千葉県でした。千葉県もこの誕生日が「県民の日」になっているとのこと[28605]
千葉県と、新治県を併せた茨城県とが領地を交換し、利根川が県境という現在の形になったのは、2年後の1875年です。
[1644] 2002年 5月 27日(月)20:15:32Issie さん
千葉県の成立
現在の千葉県の領域(ついでに茨城県も)がほぼ確定したのは1875年5月のことです。

廃藩置県が行われた明治4(1871)年7月の直後は,それまでの「藩」がそのまま「県」になっただけで,そこらじゅうに飛び地が散在する状況でした。それが4ヵ月後に国郡単位に再編されて,現在の都道府県に直接つながる区画(75府県)が成立しました。

このとき下総は東西に分割され,西部の千葉・印旛・埴生(はぶ)・葛飾・相馬・猿島・岡田・豊田・結城の9郡が「印旛県」(県庁予定地は印旛郡佐倉。しかし実際には暫定的に葛飾郡本行徳(市川市)を経て流山),東部の海上・匝瑳・香取の3郡は常陸南部の鹿島・行方・信太・河内・新治・筑波の6郡とともに「新治(にいはり)県」(県庁所在地は新治郡土浦)に所属することになりました。
同時に上総・安房の両国は「木更津県」(県庁所在地は望陀郡木更津),真壁・茨城郡以北の常陸は「茨城県」(県庁所在地は茨城郡水戸)となっています。
翌々年の1873年6月,印旛県と木更津県とが合併されて新たに千葉郡千葉に県庁を置く「千葉県」が発足します。このときの千葉県はまだ下総の西半だけを領域としていて,下総最北部の結城が千葉県に属する一方,東部の佐原や銚子は新治県の所属でした。
それが1875年になって利根川が県境とされることになり,新治県は解体されて利根川以南の下総3郡が千葉県に編入される一方,以北の結城・豊田・岡田・猿島4郡および葛飾郡と相馬郡の利根川以北部分が新治県の残りとともに茨城県に編入されます。
分割された「下総国葛飾郡」のうち千葉県に残った区域が「東葛飾郡」,茨城県に編入された区域は「西葛飾郡」となり,同様に「相馬郡」も「南相馬郡」と「北相馬郡」となりました。後に西葛飾郡は猿島郡に,南相馬郡は東葛飾郡に編入されています。

くわしくは,こちらをご覧になってください。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/k-kanto.htm
[33692] 2004年 10月 2日(土)13:49:04hmt さん
106年前の10月1日に発足した自治体
一日遅れになってしまいましたが、10月1日は「都民の日」。

「東京市」は、市制町村制が施行された明治22年(1889)に市制ということになっていますが、市制特例法により、東京市長は東京府知事の兼任、事務吏員さんもいないという有様で、形式的な存在にすぎませんでした。
10年にわたる運動の末、ようやく特例法が撤廃されて、自治体としての「東京市」が発足したのが、明治31年(1898年)10月1日。
「都民の日」は、これを記念して1952年に東京都が制定したものです。
# 昨年秋には、[21976](埼玉)県民の日 を投稿しています。

本日のオフ会会場で、
東京市役所東京市史編纂係「東京市十五区全図」(明治40年4月発行 裳華房)をご披露するつもりですが、
この歴史を背景に、そのタイトルを見ると、9年前に「東京府十五区」から「東京市十五区」に変ったのだということを実感します。
「東京府十五区」は、明治11年(1878年)の郡区町村編成法によるもので、その十五区は、おおまかに言えば名称と共に自治体東京市の15の区にほぼ引き継がれていますが、細かく見ると出入があることは、Issieさんが[14798]で例示されている通りです。

この十五区と6郡(荏原、南豊島、北豊島、東多摩、南足立、南葛飾)があった東京府に、神奈川県管下だった三多摩(北多摩、南多摩、西多摩)が編入されたのが、まだ「東京市」が形式的な存在だった1893年。玉川上水の水源管理がねらいでした。三多摩の人々は東京府編入に猛反対したようですが、帝国議会は編入を決定しました。
ところが、3年後の1896年になると、政府は東京市と郡部の武蔵県に分けることを考えたが、市と郡部町村共に反対されて撤回。しかし、翌1897年になると、一般市になることを目論む東京は、郡部を抱え込むことが 財政負担から不利であると考えて、郡部を千代田県として分離しようと、態度を豹変。これも郡部の反対で実現しませんでした。
このようなゴタゴタを経て誕生した自治体「東京市」でした。

その後は、関東大震災を経て、昭和になってから35区に拡大、北多摩郡だった千歳と砧を編入、東京都制、戦災、22区に再編成、板橋区を2分割、地方自治法による特別区へと変化してきましたが、自治体としての東京都の基礎は、1898年10月1日にあるという考えから「都民の日」になっているのでしょう。

「東京市」の件からは外れますが、上で書いた“十五区と6郡があった東京府”の「区は郡と重複して存在していたのではないか」という疑問をIssieさんの掲示板で質問したことがあります【No.269】。
これについては、Issieさん【No.270】の他に、tkshさん(この落書き帳から姿を消されたのは残念)からのご教示【No.278】をいただきました。
これらの記事は近日中に消失する運命にあると思われますので、【No.307】にhmtが要約したことを、この場を借りて記録させていただきます。
(三新法の)“施行順序”達によると、制度上は「郡と重複して区は存在する」が、
これに拘り便宜を妨げざる様心得た結果であるところの
明治11年11月2日の「東京府布達」による区域割りでは
南豊島郡の区域は後の淀橋区、渋谷区から東は原宿・千駄ヶ谷・早稲田各村までとされ、
麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区とは重複していなかった。
すなわち、制度上の重複はともかくとして、実質的にはフレキシブルな運用である「東京府布達」により、郡と区の分離が行なわれたと理解しました。


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