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[76854] 2010年 11月 23日(火)11:20:31【1】Issie さん
東海東山地方
[76852] 伊豆之国 さん
岐阜県(美濃・飛騨)は東山道、三重県の紀伊の部分は南海道なのですが‥。逆に山梨県(甲斐)はなぜ東海道なのか、今思うと不思議なのですが‥。きっと昔は富士川の水運で駿河と深くつながっていたのでしょうか?)。

たとえば飛騨の北端の白川郷や神岡鉱山(カドミウムは日本海側へ流れて行ってしまった)で考えると,何でここが「東海」なのか不思議に思ってしまうのですが,やはり岐阜・名古屋間地域の濃密な関係から,こちらに引っ張られるのでしょうね。
鉄道網も,結局は美濃(関ヶ原)~上野(碓氷峠)間で中山道(旧東山道)とは別のルートになってしまいましたから,近代以降「東山地方」としての括りは成立しにくくなったのでしょう。東海道本線も東海道新幹線も高速道路(名神高速)も関ヶ原を通過する今,国道1号線だけが鈴鹿峠を越えることの方が不思議なのかもしれません。
私たちは,東海道と東山道(中山道)を比べて前者がメインで後者が迂回路,のような感覚を持っているのですが,古代では東山道の方がメインで,東海道はワンランク下のローカル線という位置づけだったようです。陸奥があるのは“東山道の果て”ですね。東海道が浮上するのは,海沿いルートの上に位置する鎌倉が東国の中心として勃興し,次いで小田原,江戸が関東の中心として繁栄してからのことだと思います。

さて,ここ に掲載されている「全国七道駅路図」を見ると,甲斐国府(現在の石和町,…ぢゃなくて,笛吹市)が思っているよりも東海道本道に近いことわかります。
古代の東山道は伊那谷廻りで善知鳥(うとう)峠を越えて信濃国府のある松本平へ入っていたようですが,このルートだと伊那谷から諏訪盆地を抜けて富士見高原を越え…,と意外に面倒だし遠い。となれば,甲斐国は東海道に所属する方が自然かな。
※この地図をよく見ると,甲斐国府へのアプローチは富士川沿いではなくて,富士山の東側から甲斐に入っていますね。足柄経由であった東海道の御殿場付近から籠坂峠と御坂峠を越えて甲府盆地へ入るルート。ほぼ同じルートを現在も富士急バスが走っています(富士吉田で分断されていますが)。

なお,この地図は平安時代のものであるようで(延喜式によるのでしょうか),相模国余綾郡(よろぎ。現在の大磯町付近)以東が内陸経由になっていて,武蔵国府(現府中市)へは東海道からアプローチするようになっています(だから武蔵国は東海道に所属)。けれども既にご案内のように,東海道は当初,湘南海岸沿いに横須賀の走水に向かい,浦賀水道を渡って 安房→上総→下総→常陸 の順に進み,武蔵国府へは上州の高崎付近から後の鎌倉街道と同じようなルートで北からアプローチしていたのですよね。だから,武蔵国は初めのうちは東山道。
[76831] 2010年 11月 21日(日)02:01:27Issie さん
粟島とは?
[76821] YT さん
沖縄島 / 計羅摩島 / 戸無島 / 久米島 / 粟島 / 伊恵島 / 伊是那島 / 恵平屋島
喜界島 / 大島 / 徳之島 / 永良部島 / 与論島
宮古島 / 八重山島
(スペースの都合で島名だけ抽出して改行を省略しました。)

私が興味深く感じたのは,薩摩藩が直接支配下に置いた奄美と首里王府支配下の沖縄および先島をまとめて一括りにしていることでした。もちろん以前に話題になったように,奄美(大島郡)が「大隅国」に編入されたのは明治になってからですから,「琉球(国)」の中に括らざるを得ないのでしょうが。

一部の島の名前の表記が現在と違いますが,

 計羅摩島=慶良間諸島,戸無島=渡名喜島,伊恵島=伊江島,伊是那島=伊是名島,恵平屋島=伊平屋島

ということでしょうかね。「粟島」は 粟国島?
「イヘヤ島」の表記,「エ」と「イ」が混同されていますね。それ以前に「ゑ(恵)」と「え」の区別がありません。もっとも,ウチナーグチの「標準語」であろうところの首里・那覇方言では本来,wi(ヰ)と i (イ),wee(ヱー)と ee(エー)はそれぞれ区別されるようです。ただし,よく知られているようにヤマト(本土)の言葉の“短いエ”はウチナーグチでは“短いイ”に合流して,だから「恵平屋/伊平屋」という表記の混同が起きるのですね。
首里・那覇方言には,さらに ア行・ヤ行・ワ行 について音節のはじめで“喉をつめる/つめない”というヤマトの言葉にはない区別があって,これはカナで表記することが(そのままでは)できません。ウチナーグチではなく,実際に通用している「ウチナーヤマトグチ」で区別されているかどうか,ヤマト人の私には聞き分けられませんが。

それはともかく,

[76816] YT さん
郷帳の方では完全に日本に組み込まれており、琉球が日本に組み込まれた時期について考えさせられます。

ここは少し慎重にとらえた方がいいように思います。
少なくとも,“ヨーロッパ標準”で彼らが勝手に構築した(でも近代以降の世界では誰もが従わなければならない)「国際法」に基づく“近代国家”の概念としての「領域(領土)」という感覚で「組み込まれた」と捉えるのであれば。
[76830] 2010年 11月 21日(日)01:20:06【1】Issie さん
水高もあるでよ…
[76829] おがちゃん さん
旧制高校とオフ会の関係
は完全に無くなってしまいましたね。こじつけるのも難しそうですし・・・。

大丈夫。
「ナンバースクール」(一高~八高)というシバりをはずせば,茨城県には「(旧制)水戸高等学校」がありました。そこの代打ということで。

ちなみに,「九高」所在地となるはずだったのが 松本 か 新潟。お互いの熾烈な誘致合戦が加熱しすぎて絞り切れず,結局,両校同時開校。どちらかを「九高」とすることもできず,ナンバースクールの時代は終わってしまいました。
松本の不倶戴天のライバルは長野だけではなかったのですね。
その悔しさをまぎらすためか,旧制松本高等学校の校章には放射状の線が「9本」あしらわれています。

というわけで,「九高」所在地の 松本 or 新潟 はいかが?
[76727] 2010年 11月 10日(水)00:57:43【2】Issie さん
弟の橘姫
[76725] hmt さん
妹背

親族呼称というのは,どの言語でも体系立っているように見えて結構複雑ですね。日本語の場合もそうで,本来列島内でできあがった“ピュアなやまとことば”の体系らしきものの上に,全く違った体系を持った中国語由来の漢字語が入って来て,それらが混じりあった上で改めて親族呼称の体系が再構築(中には見当違いの思い込みによる類推も含む)されたもので,やっぱり複雑です。

男から見て女のきょうだいを意味する「妹」の訓は、「いも」が本来の形で

辞書を見ると、「妹(いも)」←→「兄(せ)」とあります。

ここも年長/年少を区別する現代語の あに/おとうと,あね/いもうと とは違って,「せ」(男きょうだい)も「いも」(女きょうだい)も長幼の区別はなかったようです。必要に応じて elder/younger で区別しなくてはならない英語の brother, sisiter と似ているかもしれません。そして,これは hmt さんのご説明にある通り,異性のきょうだいに対する呼び方。「いも」は男から女のきょうだい(現代語の姉または妹),「せ」というのは,女から男のきょうだい(現代語の兄または弟)を呼ぶときの名前です。
同性のきょうだいの間では,年長者(elder)つまり 妹から見た姉,弟から見た兄 は「え」,年少者(younger)つまり 姉から見た妹,兄から見た弟 を「おと」と呼びます。
「え」という呼称は,たとえば 中大兄皇子 の「大兄:おほえ」という呼び名に見ることができます。あるいは干支(えと)の「え」(きのえ:甲,ひのえ:丙,つちのえ:戊,かのえ:庚,みづのえ:壬)。
「おと」には男女の区別なく「弟」という字が充てられました。だから,女性なのに「弟橘媛(おとたちばなひめ)」という名前が成立するのです。「おと」には「乙」という字も当てられました。「乙姫(おとひめ)」とは本来,年長の「大姫(おほひめ)」に対する“年少の娘”という意味です。そして,干支の「と」もこれに由来。
現代語の「いもうと」が「いもひと(妹人)」の転訛であるように,「おとうと」は「おとひと(弟人)」の転訛であると考えることができそうですが,この「いも」と「おと」は元は別の系列の呼称だったのですね。

さらに,「あに」「あね」は別の系列から,この体系に加わったようです。そしてこれらが混じりあい,再構築されて現代語の あに(兄)/おとうと(弟)・あね(姉)/いもうと(妹) という体系ができあがりました。その間に中国語由来の「きょうだい(兄弟)」という語が,“男用”の漢字しか使っていないのに,(日本語では)“男だけ”でなく,“女どうし”あるいは“男女混合”の場合にも使われるようになりました。その場合,「兄弟」という表記が何となくしっくりこないので,「きょうだい」と かな書き するしかない…。

そして古代に立ち戻って,お互いの間を“契(ちぎ)り合った”男女間で互いに「いも(妻)」,「せ(夫)」と呼ぶのは,このきょうだい間の呼称から派生したものなのでしょうね。で,現代の地名に現れる「妹背(いもせ)」というのは,語源である「きょうだい」ではなくて,もっぱら「夫婦」という派生的意味で使われているものだと思います。

「妹尾」の場合は「せのお」

ここで「妹」を「せ」と読ませるのも,このあたりの“複雑な事情”に由来するものなのかもしれませんね。
[76721] 2010年 11月 9日(火)19:39:10【1】Issie さん
讃美歌430番
[76711] おがちゃん さん
「兄弟姉妹」コレクション

大龍エクスプレス さんからのお知らせ([76720])にある「妹背橋」ほかの「妹背」地名ですが,具体的に「いもうとせ」と読む証拠があるのでしょうか。
というのも,普通この字は「いもせ」と読むからです。
プロテスタント系の教会で結婚式をやると必ず歌われる 讃美歌430番 がこの言葉で始まります。
「妹背(いもせ)をちぎる家のうち…」

「いもせ(妹背)」というのは万葉時代の古い言葉で「夫婦」(いも=妻,せ=夫 だから正しくは「婦夫」)という意味。古事記の“黄泉の国”のくだりでも,お互いの絶縁と対立が明らかになったイザナキ(夫)とイザナミ(妻)が,それでも互いに「愛(うつく)しき我(あ)が汝背(なせ)の命(みこと)」(イザナミがイザナキを),「愛しき我が汝妹(なにも)の命」(イザナキがイザナミを)と呼び合っています(読みと表記は岩波文庫版『古事記』倉野憲司校注による)。
これを「いもせ」と読むから,「妹背牛」を「もせうし」と読めるのですね。

だから,普通は「いもせ橋」だったり,「いもせ山」だったり,「いもせ滝」などと読むのではないかと思うのですが。
[76618] 2010年 11月 3日(水)10:26:13Issie さん
「せ」の方が“訛って”いた
今日は「憲法公布記念日」です。昔は天皇誕生日でありましたが。

[76614] 白桃 さん
夕刊紙

そのうちの1つはグループ内の朝刊紙も含めてもともと「勇まし」くて,最近はその勇ましさが結構人気あるみたいですからね。しかも,ウチだけでなく,まわりみんなが勇ましいので困ったものです。太平洋の向こうの“ねずみの親玉”も…。今日の午後には大勢が判明するようですが。

[76610] oki さん
少なくとも徳島では、「くゎ」の発音は残っていません。

チャーザァ村でも「くゎ」を発音し,しかも「か」と区別していたのは ばあちゃん だけでした。伯父・伯母の世代(大正生まれ)では,もう怪しかったと思います。
方言関係の本で,越後方言には「“開合”の区別」がある,とよく書いてあります。/アウ/由来の/オー/(開)と,/オウ/由来の/オー/(合)とを区別するもので,16世紀後半のキリシタン文献のローマ字表記でも区別して表記されている,というもの。越後方言では,前者について口を開いた“広いオー”で発音して,普通の「オー」で発音する後者と区別する,ということになっています。実際,ウチのいとこは,この“広いオー”で「なごーか(長岡)」などと発音しています(チャーザァ村は,今や「長岡市」です)。
でも,いとこや,その子どもたちはもっぱら“広いオー”ばかり使っていて,逆に“狭いオー”は使っていないように感じます。つまり,共通語の“標準的発音”と違う母音を使っているだけで,“開合の区別”はもはや行われていない,…らしい。で,さらにその“広いオー”も,“標準的なオー”に吸収されつつある。

「しぇんしぇい(先生)」

/se/ という音節については,たとえばキリシタン文書などの時代には「シェ」と発音するのが“標準的”で,「セ」と発音するのは“関東訛り”とされていたようですね。日本の中心が西の方にあった時代ですから。
いつでも「シェ」と発音している,あるいは「シェ」と「セ」が(時と気分によって)入り混じって区別が行われていない,というのなら“違う文字”で書き分ける必要はなく,「せ」と書いて俺ん所ではそう発音するんだ,と強弁してしまえばそれで済みますね。
でも,単語によってきちんと「シェ」と「セ」を使い分けているのなら,それを書き分けなければなりません。昔,ウチのばあちゃんが「クヮ」と「カ」を使い分けていたように。

ところで,

[76579] oki さん
東京都江戸川区堀江町/千葉県浦安市堀江(1~5丁目)

これは私も紹介しようと思って,思いとどまったことがあります。
江戸川区側が全部「南葛西」になってしまった,と思ったからです。改めて地図を見ると,旧江戸川の堤外に「堀江町」が残っていたのですね。
[76605] 2010年 11月 2日(火)23:07:58【1】Issie さん
まっと くゎし くえ
「清」
気になって確認してみたら,「シン」は清朝よりも早く“唐音”で入って来ているのですね。
「唐」の時代ではなく,「宋」の時代以降の発音ですが。これも仏教,というより禅宗臭い。

さらに正式には「くゎんせい」

もう四半世紀前に亡くなってしまいましたが,うちのチャーザァ村のばあちゃんは,一緒にお茶を飲んでいると,よく「まっと くゎし くえ(もっと菓子食え)」と言っていました。語頭の イ と エ の区別がなかったり,ユ と ヨ の区別のない中越方言ですが,「クヮ (kwa)」という音が残っていたのです。
私は子供過ぎて気が付かなかったのですが,三木武夫首相も「国会」を「こっくゎい」と発音するので有名だったとか。この人は徳島の方ですが,ちょっと前までは「くゎ」という音がまだ聞けたのですね。
でも今はどのくらい残っているんでしょうね。

そのような発音が行われていないとすると,これは表記上の問題ということになります。すでに現代仮名遣いでは認められていない表記ですね。でも,固有名詞だから許されるのかな。
現代仮名遣いのルールに従えば“普通名詞”では許されない「あづま」「あづみの」も固有名詞だから許されるわけで。

※…でも,本当は「個々人の(名前の)表記」について許されているのであって(「現代仮名遣い」前書き3),公的機関による公式名称,つまり地方自治体による公式地名には許されないと思うのですよ。だって「法令,公用文書」(同前書き1)に正しく準ずるものなんだから。本当は「あづみの」を「正しい」とするなど,“お役所”としては許されないはず…,なんじゃないかなぁ。
でもまぁ,現行の「現代仮名遣い」はあくまでも「よりどころ」(同前書き2)だから…。
[76598] 2010年 11月 2日(火)21:31:37【2】Issie さん
冬の元気なご挨拶
[76597] ぺとぺと さん
「せいしん」が一般的な呼び名なのだと認識を改めていたからです。

「清」を「シン」と読むのは伝統的な日本語の“音”にはないイレギュラーな読み方ですから,奈良時代以来の“漢音読みを公式の読みとする”という原則からすれば「せいせい」であるべきなのでしょうけどね。でも,この「原則」には数えきれないほどの例外があって,そもそも「平城京:へいじょうきょう」というのが漢音ではありません。ただし,「平城時代」(奈良時代)に「へいじょうきょう」ないしは「へいじやうきやう」と読んだかどうかは,わからないのですが。
「シン」という読み方は,やはりお隣にあった「清国」「清朝」でなじんだおかげなのでしょう。学校で教わる戦争の名前から,油屋さんやラーメン屋さんの名前でも親しんでいますから。それでわざわざ「せいしん」を選んだのか,いつの間にかそうなっちゃったのか,どちらなんでしょう。

洛西(「らくせい」と「らくさい」)

清朝がらみで,私は永らく「西大后」を「さいたいごう」と読むのか「せいたいごう」と読むのか悩んでいました。
「西:セイ(漢音)/サイ(呉音)」では,「関西大学」と「関西学院」のペアーが有名です。どちらが「かんさい」で,どちらが「かんせい」か,“東夷”(あずまえびす)には区別できません。
[76361] 2010年 10月 22日(金)00:00:29【3】Issie さん
がんばれ,がんばれ,スワローズ!
今日は,土曜日の部活の振り替えで午後お休み。そこで横浜駅ビルでお昼を食べた後,京急の「空港急行」(←正式名称忘れた)に乗って羽田に行ってみました。ところが,肝心の京急蒲田の前後で寝てしまって…。せっかく快特をやりすごして急行に乗り,蒲田の折り返しを体験しようと思ったのに。気を取り直して,本日開業の新駅で下車。本日オープンの施設へ。
電車から降りてエスカレーターに乗り,施設の3階(出発フロアー)に行くまでは人少なめ,と思ったのですが,3階にあがったらやっぱり人がたくさんいました。平日とは言え,初日だからでしょうかね。
4階のレストラン・売店フロアーは「江戸風」の街並み。日本料理のメニューに併記されている説明的な英語が面白いですね。ここは人でいっぱい。でも,高い。超円高の昨今,安いドルを持って日本に来たあちらの方,手が出せるのかしら。
…なんて思いつつ歩いていたら,カメラを従えた着物・おしろい姿の若い女性が…。でも,どうもよく見ると舞妓さんみたいなんですよね。江戸だったら,「おいらん」か,せめて「ゲイシャ」の方が,欧米人のステレオタイプなエキゾチシズムにアピールすると思うんですけどね。今日はまだ,欧米方面からの便は乗り入れていませんが。

というわけで,12チャンネルの番組も東京モノレール([76357] k-ace さん)。

[76357] k-ace さん
多くの鉄道ファンも同じように感じているはず

私は別に感じないんですけどねぇ。
「つばめ」が東海道の看板列車から九州南端の特急列車になって久しい今さら,「さくら」の“格”を語られてもねえ。「みずほ」だって,それなりに重みのある名前だと思いますよ。「はやぶさ」が“北”にとられてしまったこともあるのでしょうが。
「さくら < みずほ」を問題にするなら,何で「つばめ < さくら」状態に文句を言わないのか。ただの「特別急行」に過ぎない「桜」(←どんどん“現代表記”に改めましょう。同じ漢字です)に比べて,「燕」は「超特急」ですよ。どっちの方が“格”が上だか。
地元の異論は尊重しても,「おたく連中」の訳知り顔な“雑音”は放っといていいよ…なんて,私はこの「異論」の方に反発を覚えます。
[76355] 2010年 10月 21日(木)00:52:32【1】Issie さん
エロイムエッサイム まわれ地獄の魔法瓶
[76354] 伊豆之国 さん
Day Dream Believer

何か言い訳めくのですが,私はリアルタイムでは知らないのですよ。後から聴いて知ったのです。
ちょうど我が家にテレビがなかった(であろう)頃に放送された「宇宙少年ソラン」や「レインボー戦隊ロビン」を再放送で知っているように。先ごろNHKで話題になった「悪魔くん」も…。
それにしても,"Day Dream Believer" はどうも何年か周期で町に聞こえてくるようですね。最近もCMで流れていたような。

ご当地グルメ

私はSAを全く考慮しないで,「ローメン」の伊那市を連想しました。食べたことはありません。ザザ虫なら食べましたが。ソースカツ丼は,駒ケ根市ならぬ望月町(現佐久市)で食べました。蛇足ながら,みそカツは「県副都」の学食の定番メニューでした。一応,名古屋圏でもあるのですね。某大学の“第n公用語”は名古屋弁でした(当時)。

島崎藤村の故郷・中津川市

これ,違和感ありますね,思い切り。
そもそも第1回目の越県合併(1958年)で旧神坂村が中津川市に編入されたとき,馬籠地区が長野県に残って山口村に編入されたのは,藤村の故郷(馬籠)を岐阜県に渡したくない,という声が強かったから,なんて言われています。藤村は「信州人」。時代が新しすぎて「信濃の国」の5番で歌ってもらえませんでしたが(←当たり前!)。
その山口村が,今回まるごと中津川市に編入されてしまったので,いかんともし難いのですよね。でも,同じ文学者でも一応はあった(?)当時の知事は,まだこだわっていましたっけ。
[76353] 2010年 10月 20日(水)19:38:32【1】Issie さん
[76349] 白桃 さん
F市

市長選や合併話には関心がないので私にはヒントにならないのですが,後の説明文を読むと,きっと「ねずみの町」だと思いますよ。
位置関係上,「隣市」というのは1つしかありませんね。遥かな昔から合併話はあったはずで,それでも独立を保ってきて,あんな姿になっちゃったんですけどね。
「隣市」も文豪や文化人に人気で,一瞬「G市」かと思ったんですが,市長さんはもっと月給をもらってそうです。

ところで,ねずみの町。大阪の類似施設にも行ったことがありますが,私はどちらも好きになれません。アトラクションに余計な情報が大杉。何で物語の中に入らなければならないのか。もっとのどかに遊んでいたいのに。
これは,ねずみの町と引き換えに,なじみの遊園地が閉園されたことへの恨みでもあります。
[76344] 2010年 10月 19日(火)01:57:20【2】Issie さん
181
何でも,京葉線にはまだ201系が残っているようですね。「水色の電車」として。
やはり,あのニュースは「中央線から一時代を築いた赤い電車が引退する」というものなのでしょう。…でも,101系でも103系でもない,“次の世代”の電車だから。

[76343] 星野彼方 さん
11月6日にはNHKで盛大に取り上げていただけると信じています。なんてったってこっちは全国で最後ですから。

これは「おたく度」が高すぎて,無理なんじゃないでしょうか。
「はまかぜ」がなくなってしまうならともかく,新型車両(※)になってそのまま走っているのだから,“カタギの方々”には区別がつかないのでは…。

実は私も正直,ディーゼルカーの181系には思い入れがありません。これが電車の181系なら,思いっきり思い入れがあるのですが。ディーゼル特急なら,やっぱり80系(キハ81形か82形)。所詮,181系は80系の亜流,なんて思っちゃったりしてますから。

同じころ,電車化された「はつかり」が1日だけ復活した,なんてニュースもありました。これが81系ディーゼルカーならね…。
やっぱり,新青森行きの(超)特急は「はつかり」の方がよかったな,なんて思うのでした。

※後で調べてみたら,「はまかぜ」に投入されるのは本当に新しい形式なのですね。でも,やっぱり普通の人には大した違いではないと思います。山陰線からディーゼル特急が姿を消す,という話なら普通の人にもアピールすると思いますが。
[76337] 2010年 10月 17日(日)20:14:48【2】Issie さん
「赤い国電」ラストラン?
鉄ネタ。

数日前に朝日新聞(東京本社版)に掲載されて,むしろ「まだ走っていたのか」という感想の方が強かったのですが,中央線を走っていた「赤い電車」(201系)がいよいよ引退するという話。今日がその日だったのですね。豊田から松本まで臨時列車として走るのだけど,実はこれは回送兼用。そのまま長野工場(←今は何と呼ぶのか?)まで走って解体されるのだとか。
で,それをNHKの7時のニュースで伝えていました。
なぜか泣いている若者は置いておいて,毎日通勤で乗っていたという年配の方は感慨深げでしたね。また「時代」が1つ回った…,というわけ。

でもねえ,大阪に行ったら201系どころか,環状線を103系が走ってますよね。たかだか30年前に登場したばかりの新参者の201系よりも年季の入った正真正銘の「赤い国電」。オリジナルからだいぶ姿が変わっていて,関東人としては非常に違和感があるのですが。
6時45分の関東ローカルニュースならともかく,7時の全国ニュースでとは,今に始まったことではないけれど,相変わらず東京の価値観による東京中心の情報発信です。
まあ,「モハ90系」として登場した後の101系が“赤く”塗装されて最初に中央線に投入されてから50年余り。その中央線から引退,というのはそれなりにニュースバリューのあることではあるのでしょうが。
[76325] 2010年 10月 12日(火)21:37:11【1】Issie さん
経済とは反対に,サッカーの実力では日本の方が「新興国」のような気がするのですが(歴史はともかく),「頂上」なんでしょうかねぇ。まあ,工業力では今やあちらも「互角」ですから,こちら側のサッカーもそうなのかしら。

[76324] 伊豆之国 さん
Day Dream Believer

「湖」のまわりで行われる大イベント。前回は甲子園の某球団に関連する年(実は今年)。次回はこのタイトルに関連する年ですね。
[76309] 2010年 10月 9日(土)23:20:39【4】Issie さん
厩戸皇子 ナザレのヨシュア(イエス)
[76308] hmt さん
「ルカによる福音書」

聖書はユダヤ教とキリスト教,さらにイスラム教でも教義の根本とされる経典ですが,同時に“歴史書”としての性格も持ちます(特に旧約は)。もちろん,わが国の「正史」である日本書紀の記述をそのまま“歴史的事実”として読むことができないのと同じく,あるいはそれ以上に“事実”との照合が必要なのですが。

わが国の国勢調査のマスコットは センサスくん。今年で20歳の成人だとか。この名前は国勢調査の英語名 census (センサス)に由来するわけですが,その語源はラテン語の「ケンスス」(綴り同じ)です。わが国の世界史界では「戸口調査」と訳されることの多いこの名詞,さらにさかのぼると censeo という動詞に至り,手許の "Pocket Oxford Latin Dictionary" には count という英語の訳語が真っ先に載っています。要するに「数えた」のですね。このケンススの実施を担当したローマの行政官が cencor(ケンソル)。現代英語では同じ綴りで「検閲官」という意味になっています。

では,ケンソルが何を“数えた”かと言うと,ローマの市民権保持者の数を数えて,元老院議員や騎士の名簿を改訂していたのだとか。市民の身分や地位の付与・剥奪にかかわる権限を持っていたことから,共和制ローマにおいてはコンスル(執政官)経験者が任命されるものであったそうです。で,その選出が5年ごと。

イエスが生まれたとされる頃のパレスチナは紀元前1世紀末にローマの支配下に入り,ローマの宗主権の下,ヘロデ王が統治をしていました。カエサル暗殺後の権力闘争に勝ち残ったオクタヴィアヌスが「アウグストゥス」(←八月 August の語源)として初代ローマ皇帝となって(ただし彼を「皇帝」と呼ぶのは後の時代からの解釈であり,彼の称号である Principatus(プリンキパトゥス)は「ローマ市民の首位者」というほどの意味です。後から「元首」という意味が肥大化したのですね )下した勅令により,ヘロデ統治下のパレスチナでも戸口調査が行われたのですね。
このページ (pdfファイル)の p.23 によれば,この時の戸口調査は「土地税と人頭税からなる統一的な財政組織」を設定するためのものだったようです。どちらかというと徴税目的であったらしい。ローマ市民権を持たない植民地人は徴兵の対象ではなかったかもしれません。
ただ,戸口調査に当たって「本籍地」に戻らなければならないというのは,ローマによる征服以前から,エジプトやシリア(パレスチナを含む)で(当時から数えて)2000年,あるいはそれ以上前から行われていたものだそうです(弓削達『世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教』河出書房新社,p.16)。

ところで,キリスト教的には イエス・キリスト の「誕生日」(←これ,本当は正しくありません。詳しくは後述)は西暦紀元1年の12月25日(パレスチナをはじめとする西アジアの習慣では暦の1日は前日の日没後から始まる。だから,キリストの降誕ミサ=クリスマスは12月24日の日没後から始まる)ですが,現在では一般にイエスの生年は 紀元前4年 とされています(念のために,「紀元0年」はありません。紀元1年の前年は紀元前1年です)。根拠の1つは「ルカ伝」にある戸口調査が紀元前4年に行われたとされていることにあるのですが,実はこれには歴史的な裏付けはないようです。ただ,その他の情報も突き合わせると,どうも「紀元前4年」でああるらしい,ということ。ヘロデ王の没年とイエスの生年が同じ年で,その没年が紀元前4年であるとされていることも,根拠とされています。
しかし,「紀元前7年」説もあります。要するに,たかだか植民地人の「大工の息子」の正確な「戸籍」が残されるはずもないので,“歴史的事実”がわかるはずもないのでしょう。
ちなみに 12月25日 という日付にも根拠はありません。キリスト教以前の冬至の祭りとの関連が多く指摘されています。そして,1月1日は12月25日の1週間後(8日め)。これはユダヤ教の決まりで生まれたばかりの男の子が割礼を行う「8日め」に相当します(イエス自身,そしてそれ以上にイエスの両親(ヨセフ,マリア)は「ユダヤ教徒」として行動しています。イエスはやがて「異端」に走るのですが)。
1年が「January 1st」から始まるのは,December 25 がクリスマスとして確定したからですね。8世紀のこととされています。もともと,ローマの暦では December が「10番目の月」という意味であるように2ヵ月遅く March 1st を年初としていたのは,よく知られていますよね。
そして,キリスト教では「クリスマス」は「キリストの降誕を祝う日」であって,「誕生日」と認定しているわけではない,というのが“公式見解”なのだとか。別にこの日に誕生したわけでなくてもよくて,とにかく(いつだか別に詮索はしないけれども)この世界に降誕したことを祝うのが12月25日,ということみたいです。
[76305] 2010年 10月 7日(木)23:57:59【1】Issie さん
長作町飛地
[76301] 伊豆之国 さん
千葉市花見川区長作町の飛地

1970年代までにあらかた整理されたと思っていたのですが,まだ残っていたのでしょうかね。

Mapionでは「千葉長作局」の文字が邪魔でわかりにくい箇所があるのですが、YAHOO地図でははっきり飛地と判断できます。

国土地理院の 数値地図2500(空間データ基盤) ではこの「飛地」は無視されています。どうも,この数値地図の行政区分に関するデータの詳細さは市町村によってバラつきがあるようで,やたら細かい「飛地」を拾っているところがある一方で,結構大雑把に処理しているように思われるところもあります。

見たところ,問題の飛地は畑なんでしょうかね。市境となっている道路は元々千葉市に(次いで習志野市に)編入される前の幕張町(村)内の大字実籾と長作の境,さらにさかのぼって明治の大合併以前の実籾村と長作村の境で,おそらくかなり以前からあった道なのではないかと思うのですが,道を越えた村の領域の出入りというものもあったのでしょうか。まさか,道幅半分だけ実籾村,などという芸の細かいことは明治時代に行われたとは思わないのですけど。

小学校に上がったばかりの1970年ごろ,初めて習志野市の市街図(昭文社の都市地図シリーズ)を買ってもらったのですが,当時の地図には習志野市の屋敷町と花咲 対 千葉市幕張町の市境のあたりで相互に飛地が幾らか残されていました。旧幕張町が千葉市と習志野市に分割されたときに,元は1つの大字(明治の大合併以前の1つの村)であった 馬加 を無理やりに分割したからですね。以前に紹介したことのある,農地の所有関係で 千葉・習志野 のいずれの市に帰属するかを決定する,という“但し書き”の主たる対象はこの区域だったと思います。
元は1つだった村(大字)を2つに分ける,というのは難しいのですよね。座間市の 座間・座間入谷,鎌倉市の 腰越・津 のように相互の領域が極端に錯綜しているのには,このようなパターンが多いようです。
話題の 実籾村(幕張町大字実籾) 対 長作村(同大字長作) の場合は,元々別の村でしたから,もう少しスッキリしていると思うのですが。

さて,改めて地図を見ながら現地の様子を想像してみるに,私が自転車で走り回っていた35年前とずいぶん変わってしまっているようですね。当たり前のことではありますが。
一方で,私の住んでいた埋立地の辺りはあまり大きく変わっていないようです(我が家の前の海が陸地になった,という大変化がありますが,それは私が住んでいた時にすでに始まっていたことでした)。
…先頃話題になった 阿武松部屋 なんてものもありませんでしたが,それは蛇足。

今度,久しぶりに見に行って見ましょうか。
[76298] 2010年 10月 4日(月)01:18:54【1】Issie さん
緊急地震速報
最近,福島,新潟と,関東の周辺で(関東自体ではない)やや大きめの地震が続いています。
某ポータルサイトのコメント欄なんかでは,最近の「異常気象」とあわせて(ついでに政治状況も)何か天変地異の前触れではないか,なんて不安が語られたりしていますが,そこはどうだかわからない。ただ,たかだか120年しか生きられない私たちと,誕生以来46億年の地球とでは時間のスケールが違うのではないか,と…。

さて,9月29日17時頃の福島県の地震では,私の携帯電話も「緊急地震速報」を受信しました。何か電話が鳴ってるな,と思ったら…。久しぶりのことなので,呼び出し音を忘れていました。
「久しぶり」…ってのは,前に2度ほど受信していて,これが確か3度目だから。
初めて受信したときは直後に本当に地震が来て,携帯電話の有用性を初めて実感した,なんてことをここにも書かせていただきました。2度目は悪評高い“打ち間違い”。地震は来ませんでした。

今回の速報でも,受信後しばらくたっても職場(横浜市)では揺れが来ず,気象庁のページを見たら最大震度は「4」。これは,今回も打ち間違いか,と思っていたら,後から現地調査をしてみたら,実は震源の近くでは「震度5弱相当」の揺れだったらしい,というニュースが流れてきました。「天栄村」の震度は「3」と発表されているのですが,これは村役場のある辺りでの揺れ。震源に近い 湯本地区 が地震計の空白地域であるために,それが記録に現れなかった。で,公式発表で最も揺れたのが,郡山市や須賀川市などの(市役所ではなく)合併された旧町村役場付近で記録した「4」,ということになるらしい。

ところでこの地震,最初に「福島」と聞いたとき,私は震源を福島県沖と考えたのですが(緊急地震速報が出されるくらいだから,プレート境界型の大地震と思いました),震源は内陸部でした。その日のお昼にも前触れの地震があって,翌日(30日)も余震があったらしい。…と思ったら,30日の夜には,今度は「福島県沖」で地震が発生しているのですね。しかし,29日の地震は“直下型”。本当に揺れのひどかった場所には間に合ったのでしょうか(理論上,直下型地震の震央付近では間に合わないような気もするのですが,これはやむを得ない限界だと思います)。

昨日(10月3日)は新潟県上越地方で地震がありました。今回は,こちら(相模原市)には緊急地震速報は届きませんでしたが,最大震度が「5弱」と気象庁の発表にも記録されてNHKの番組が中断しました。今回は“地震計の網”に引っかかったのですね。5弱を記録したのは,上越市牧区柳島と清里区荒牧でした。元の牧村と清里村の役場の位置です。
ところがNHKが映像を映していたのは 直江津港 と思しき風景でした。そして,「各地の震度」画面の地図で「5弱」の赤丸が打ってあったのは,たぶん 春日山 の市役所のあたり。
確かに,最大震度を記録したのが上越市であるのは確かで,それを市役所の位置で代表させるのも「あり」だと思うし,短時間で旧牧村や清里村まで入るのは無理だから,直江津や高田の風景を使うのも「あり」だと思うのですが,でも何となく釈然としない気持ちがあるのも事実です。何か,どこかに齟齬があるような。
ちなみに,気象庁発表の上越市中心部(高田大手町)の震度は「4」でした。
[76272] 2010年 9月 30日(木)01:15:01Issie さん
いはくにまりふ
[76265] 白桃 さん
岩国(対:麻里布)

[76270] にまん さん
稼ぎ(人口)はあっても所詮は息子

私も にまん さんに同意見です。

1897年に山陽本線(山陽鉄道)が開業した時,海岸沿いを走る鉄道を河口の上流にある岩国市街まで引き込むことができなかったので,やむなく 麻里布 に駅を設置したのですが,駅名は「岩国」としました。現に駅が所在する場所の名前でなく,近隣の大邑の名前を称してその玄関口となるのは,“川向う”の厚木駅,新潟駅,そして三田駅と,きわめてありふれた話です。

ところが岩国の場合は,大正・昭和期に山を越えて徳山への短絡線が建設されることとなり,第一弾として岩国市街の最寄までの路線が1929年に開業しました。こちらが本線になることが予想されていたから,市街地最寄りの新線の方に「岩国」の名を譲り,従来の岩国駅はその所在地から「麻里布駅」に改称しました。短絡線は1934年に徳山まで全通し,こちらが 山陽本線,従来の海岸経由が 柳井線 と改称されました。

それなのに,山陽線の特急・急行列車は山越えを嫌ってせっかくの短絡線(山陽本線)を通過せず,従来のまま海岸(柳井線)経由で運転され,「岩国駅」には停車せず(通らないのだから),「麻里布駅」にばかり停車していました。
列車運行上は,完全に 麻里布 にお株を奪われていたのですね。
結局,1942年に 麻里布駅 が再び「岩国駅」を名乗ることとなり,短絡線上のそれまでの 岩国駅 は「西岩国駅」と改称しました。さらに,1944年には「山陽本線」自体が元通りに海岸(柳井)経由となり,短絡線は「岩徳線」と改称されました。

「麻里布駅」が「岩国駅」に戻れた背景の1つに,1940年に 麻里布町 と 岩国町 が合併して「岩国市」が発足したこともあるようです。
この合併で「麻里布市」が選ばれることは,…まず選択肢にはなかったでしょう。要は人口(稼ぎ)だけで物事が決まるのではなく,言ってみれば“格”の面で明らかな開きがあっただろうと思います。「麻里布駅」を,わざわざ「岩国駅」に戻したくなるほどの…。
[76264] 2010年 9月 28日(火)22:35:16【1】Issie さん
館山
[76262] 白桃 さん
しかし、安房のもとは阿波だったとは・・・アワワ・・・

馬琴さんもそう言っているし,古代にこの地を支配した「阿波国造」の由来もそのようになっている,とても古い時代からの言い伝えなのですが,それが歴史上の「事実」かどうかは必ずしも定かではありません。
もちろん,過去に hmt さんが何度も紹介されているように,たとえば紀州と房総の間に密接なつながりがあったであろうことは多く指摘されていることですから,さらに足を延ばして四国の阿波とのつながりがあっても不思議ではないのですが。

[76253]
「市制施行前に館山北条町を名乗っており、しかも当時は旧北条町の人口が多かったのに、どうして館山市と言う名前になったの?」

館山駅も当初は「安房北条駅」という名前でした。北条にありますからね。1946年に「館山駅」と改称されたようです。「館山北条町」が「館山市」になるのが1939年だから,戦争をはさんで7年(正確には6年半)のタイムラグがありますね。

なぜに「北条」ではなく「館山」が選ばれたか,という問いに対する館山市の公式の答えがあればいいのですが,私はそれを知らないので勝手な憶測をすると,たぶん,「北条」よりも「館山」の方が知られた地名だったのではないか,と考えます。

まず,館山は戦国時代の里見氏の城下町でした。「里見」などというローカルな戦国大名,普通はみんな知らないはずですが,それを馬琴さんが空前のベストセラーで世間にあまねく知らしめてくれました。ただし,「南総里見八犬伝」はあくまでもフィクションであって,史実とはだいぶかけ離れているようです。でも,史実をフィクションが凌駕することはよくある話で,少なくとも「八犬伝ゆかりの地」として「館山」はそれなりに知られていたのではないか,と思います。あくまで,南房総ローカルな中心地である「北条」よりも。
ちなみに,戦国末期に房総の覇者であった里見氏は豊臣・徳川の両者から支配圏を狭められて安房一国に押し込められ,江戸時代最初の年号(慶長)が変わらないうちに改易されてしまったので,館山が近世城下町であった期間は最初期のごく短い間だけでした。田沼時代の天明年間に「館山藩」が復活しますが,それは1万石ほどの極小藩(里見氏の時代は安房一国で12万石)。これが廃藩置県まで続くけど,“城下町館山”とは言い難いものがあります。

もう1つ。「館山」は海軍航空隊の基地として知られていました。時代が時代ですから,こちらの要素の方が大きかったかもしれません。
航空隊が設けられたのが1930年。その後も館山には海軍の施設の集積が進んでいきました。北条ではなく,もっぱら館山に。
そんなわけで,むしろこちらとの関連で「館山」の地名が広く知られていたものと思います。

「館山市」の誕生は,実は中国で苦戦していた陸軍に比べて,まだ海軍は無傷で元気だった1939年。「名」という点では,館山の方が北条よりもずっと上を行っていたのではないか,と推測しています。
[76256] 2010年 9月 27日(月)22:27:58【1】Issie さん
太田裕美 または 大瀧詠一
[76255] ニジェガロージェッツ さん
この鉄道,以前[76254]Issieさんが行かれた頃とは違うルートで走っており,近年はうちの街を通っています。

そうでしたか。確かに私が乗った時には首都の終着駅と同じ名前の町を通過しました。
世界地図上ではやたらと目立つけど,実際に越えてみるとそれほどでもない山脈(話題の町から湖の近くの町までの区間で越える山の方がはるかに険しい)のあたりから西でルートがいくつかあるみたいですね。

実は私はこの鉄道を利用した時,どこを通過するのかよくわからないままに乗車していました。
事典などではよく,この鉄道の西側の起点を山脈東麓の町としていて,それならば今は「別の国」になっているところを通過するのかな,と期待していたのですが(この掲示板的には「連邦構成共和国の“経県値”」が1ポイント増える?),残念なことに地理の教科書に昔はよく出てきた石油の町を通って,結局は同じ共和国内を通過しただけに終わりました。
もっとも,こちら側を通過しても車内で寝ているか,せいぜい駅のホームに降り立って,ヒマワリの種か,ギョーザみたいな肉饅頭などを買うぐらいで,“▲”としても怪しいものではあったでしょうが。
[76254] 2010年 9月 27日(月)21:00:40Issie さん
近江俊郎 または 三波春夫
[76251] 淡水魚 さん
逃亡先

前にも話題にしたことがあるかも知れませんが,私も行ったことがあります。国の名前が今のようになる前に。8月の初めでしたが,気温は30度くらいありました。全然涼しくない。首都に行って初めて気温9度という寒さを経験しました。天気の回復した翌日は首都も暑かったですが。私が首都に滞在したちょうど1年後(同じ日付)に,世界史的な大事件が発生しました。

川の下をくぐるトンネル

調べてみるまで,トンネルがあるなんて知りませんでした。有名な独裁者が掘らせたんですね。私がこの河を渡った時には単線の鉄橋を両方向で共用していたように記憶しています。この町を出たばかりの列車が鉄橋の手前で停まってしまい,しばらく待たされたんじゃなかったかしら。これは大きなボトルネックだな,と思っていたのですが。

緯度のためか夏時間のためなのか

この国はもともと年中“夏時間”で,まわりの国より時計の針が1時間進んでいます。その上,夏には“本当の夏時間”を実施しているので,都合,夏時間を実施していない国と同じ経度帯で2時間の時差が生じます。さらに緯度が高いので…,というわけですね。
この町から新潟または成田空港への飛行機の出発時刻と到着時刻を見ると,ビックリしますね。
[76242] 2010年 9月 25日(土)10:38:15Issie さん
津久井郡
[76240] を書いていて改めて思っこと。

ご案内の通り,4月の相模原市政令指定都市移行・区制実施で旧津久井郡4町の区域は旧市域北部の橋本・大沢地区といっしょに「緑区」となりました。住居表示から旧町名が省かれ,行政上は緑区の下位区分として 城山・津久井・相模湖・藤野 という単位は残るものの,日常生活の上で意識される場面は減るでしょう。特に新住民にとっては。
緑区役所の所在地は橋本。明治以来,津久井郡役所→地方事務所→…→県政総合センター所在地として郡の中心であった 中野 は,旧津久井町の中心としては機能し続けるでしょうが,郡全体の中心としての地位を取り戻すことはないでしょう。
市郡の境界がなくなった今,旧城山町は橋本との一体化を一層深めていくものと思われます。もっとも,相模川を越えた上に地形上開発の余地がほとんどない「湘南」地区は微妙ですが。旧相模湖・藤野2町の区域は元々八王子方面,さらに中央線・中央道を介して東京方面への指向が強いし,相模原市編入で旧市域へのつながりが従来より少しは強まったとしても,中野は素通りしてしまうだろうと思います。

こうして考えると,「旧津久井町」という単位は今後も残るでしょうが,旧4町全体の総称としての「津久井(郡)」という地理的な単位は急速に薄れて消えていく,今がちょうどその始まりの時点なのではないかと,ふと思い立ったのでした。
[76240] 2010年 9月 25日(土)01:24:06【3】Issie さん
立川駅前
[76238] k-ace さん
立川駅前

駅前の景観という点では,やはりモノレールという巨大な構造物の有無が大きな決め手になるのかもしれませんね。
北口側はモノレールの開業以前と以後で,目の前をふさぐモノレールそのもの(と,旧立川基地跡地南東隅の再開発地区)を除けば実はそれほど大きな景観の変化はないのですが,南口側は激変しました。元は「裏口」然として,ロクな大きさの広場もなかったこちら側に,バスターミナルを備えた駅前広場が整備され,広場をめぐって大きなビルが林立するようになったのですから。

※本来,立川の古くからの中心は駅の南側にあるのですが,駅の出口は永らく北口側がメインでした。何より,旧陸軍施設,次いで米軍基地を抱えた“基地の町”として,戦前・戦後を通じた「昭和」の時代,立川の実際の中心は駅の北側だったのでしょう。

実は,南口の駅前広場はモノレールの開業時点ではまだ整備が完了していませんでした。JRの南口とモノレールの立川南駅との間の区画の用地買収が完了しておらず,まだ立ち退きが済まずに営業を続けている店舗がある区画のそばをすり抜けるように両駅間のペデストリアンデッキを先に作ってしまうなんて,けっこう乱暴なやり方をしたりもしていました。今ではきれいに撤去されて,そこに建物が建っていたことが想像しにくくなってしまいましたが。

立川駅前だけみるととても17~18万人都市とは思えません。30~50万人都市に見えます。

唯一の例外を除いて“昭和の大合併”以来全く合併の行われていない…どころか,昭和の大合併でもあまり合併の進んでいない北多摩地域のことですから,個々の市の規模は小さいですよね。立川駅前の景観も,やはり“立川市単独”のものではないでしょう。日野市の北部(浅川以北)や武蔵村山市,何より青梅線を介した昭島・福生・羽村市,さらに青梅市やあきる野市まで“引力”は及んでいるでしょうか。それらを後背地とした上での“あの景観”なのだろうと思います。

対する八王子の場合,同じ市内の由木(堀之内・南大沢)地区は,編入当時はともかく現在では多摩市(多摩センター,聖蹟桜ヶ丘)の勢力圏に組み込まれているように感じます。さらに,かつては都県境を越えて力を及ぼしていた相模原市北部(橋本地区)や津久井南部(城山・津久井)も八王子から離れて,橋本が独自の商業中心として成長してきました。今,八王子駅前の引力が働いているのは八王子市の,それも分水嶺を越えた(どちらも多摩川水系なのだけど)由木地区を除いた区域のみ,という印象があります。かつてのような「多摩地方の中心」(もっと以前は「神奈川県北部の中心」)ではなく,八王子市のローカルな中心,という感覚。
昔は勢力圏内にあった立川,橋本,町田(原町田)などが次々と“独立”していった今,南口再開発でどれだけ盛り返すことができるか…。

ところで,モノレール。
客観的なデータに基づくものではなくて,あくまでも私の感覚による独断によるものなのですが,立川駅の北側はいいとして,南側の日野市南部(浅川以南)や多摩市の住民を立川に呼び込むことに成功しているかというと,どうなんだろう? という疑問があります。
元多摩市民であった感覚でいうと,山を1つと川を2つも越えたところにある立川,モノレールが結んでくれても,やはり「遠い」という感覚は消えません。それにあのモノレール,遅い(ように感じる)し…。

おまけ。

経県値の「宿泊」の定義

睡眠をとろうがとるまいが,そこに“滞在”して一夜を過ごせば,私は「宿泊」と数えます。ただし,交通機関で移動しつつ一夜を過ごしたら,それは「宿泊」とは数えない。
こんな感じです。
[76215] 2010年 9月 21日(火)00:03:12【3】Issie さん
しか
[76214] いっちゃん さん
う~ん、わたしゃ高架駅だと思うのですが・・・。

そういえば,牛のお寺ではなく,鹿のお寺かも知れませんね。
だったら,高架だ(あたしゃ,地平駅時代しか知らないけど)。
「北端」でもあるし。

※なぜか,タイトルが「鹿」という漢字を受け付けない。
[76213] 2010年 9月 20日(月)23:05:32Issie さん
[76212] ペーロケ さん
JRは高架駅となっており

間違っていなければ,ホームは地平にあって駅舎がそれをまたいでいる「橋上駅」ではないかしら。
[76190] 2010年 9月 14日(火)22:28:20Issie さん
山静神
[76189] inakanomozart さん
山静大会

「山静神」というのも,あるにはあります。「さんせいしん」と読むらしい。

神奈川県の松沢知事が積極的で,他の2県の知事との間で「山静神サミット」という会合を2006年からやっています。始めた頃は盛んに宣伝していたのが最近はあまり聞かなくなったなと思ったけれども,ひっそりとやっているみたいですね(去年の記事)。今年もやるんでしょうか。
もっと地道な実務レベルでは,3県の防災担当部局で「災害対策山静神連絡会議」なんてのが組織されて継続的な取り組みが行われているようです。
でも,お役所の中だけ,…でしょうかね。

「山静神」でググってみると,どうも神奈川県のページ(と,松沢さんのページ)ばかりが良くヒットします。この間に山梨県の知事も静岡県の知事も替わっているし,一番積極的そうな神奈川県の松沢さんも替わってしまったら「山静神」という呼称も自然に廃れていくのかな,なんて予感もします。

松沢さん,「知事多選禁止条例」なんてものを作ったから,私はてっきり“三選禁止”と思って来年の知事選挙に立候補しないんだろうと思い込んでいましたが(現在2期目),よく見たら「三選まではOK」という条例でした。なら,来年も立候補するのかな。
※そもそも,当選回数で立候補の権利を制限するのは憲法上疑義がある,なんて意見がついて,地方自治法の改正を待って施行,ということになっていたはずだけど,その後どうなったんだっけ?
[76118] 2010年 8月 29日(日)23:10:15【2】Issie さん
小説・琉球処分
本当は別の本を探すつもりで講談社文庫の棚を見ていたら,たまたま新刊本で表題の本が目に留まったので買って読みました。

 大城立裕 『小説 琉球処分』

講談社文庫としては新刊なのですが,もともとは1959~60年に「琉球新報」に連載された古い作品なのですね。まだ米軍統治下にあった時代の。で,1968年に講談社で単行本化される際に末尾を書き足したとのこと。それがこの時期に文庫化されたというのも,だいぶ意味深なものであるようです。文庫本解説を 佐藤優 さんが書いていることも含めて。

お話は,廃藩置県後の明治5(1872)年5月,「鹿児島県」から派遣された役人が首里近郊の村を視察しているところから始まります。

[76048] hmt さん
翌明治5年正月に 鹿児島県が琉球に派遣した 伊地知貞馨らが 明治維新の変革を説明した

この 伊地知 がこのお話の最初の登場人物の1人です。そして,

伊江王子朝直を正使とする一行は、明治5年9月14日に参朝して上表文を奉呈。これを嘉納した明治天皇から賜った 詔勅 には、「琉球藩王と為し華族に列す」という文字がありました。

ここから,琉球王府の王族・士族たちと日本政府から派遣されてくる役人(伊地知貞馨→松田道之→鍋島直彬)との“堂々巡り”(いくら繰り返しても前に進まない)の攻防の果てに1879(明治12)年の(第2次)琉球処分に至る過程が描かれています。あとがきによれば,新聞連載当時は首里城明け渡し前夜までで連載打ち切りとなり,単行本化の際に前藩王・尚泰が東京に向かうまでの(またも繰り返される全く同じ構図の)攻防から日清戦争直前までの部分が書き足されているとのこと。

当事者たる琉球の王府は、明治4年7月の廃藩置県で鹿児島藩から(理論的には)開放された(かもしれない)ことを知らず、また 11月の第一次府県統合布告により、(新)鹿児島県の管轄下になったことが明文で規定されたことも知らずに 過ごしていたと思われます。

全くこうした状態から,

国王尚泰は、「薩摩の附庸」であった地位から、「琉球藩王」として「藩屏」つまり直轄の地位になった。
従来から将軍の代替わりの時に江戸に赴いてきた慶賀使節のつもりで上京したのに、少し様子が違う。
でも、元々「ノーと言える琉球」ではないし、格が上がったと受け止めて、単純に喜んだのかもしれません。

「格が上がった」というよりも「薩摩の重し」が取れたと思って,やはり単純に喜んでいたものが,だんだん様子が違うことに気がついて戸惑いを深め,日本政府からつきつけられる要求に何も決められずに最後は警察力を伴った松田「琉球処分官」に押し切られる琉球藩高官の姿は,読んでいて実にじれったく思いました。
最初に紹介したとおり,この作品の作者は沖縄の人であり,最初に発表されたのは米軍統治下の沖縄の新聞でした。沖縄の人の側から見た琉球処分と言えるかもしれません。恐らくは,松田道之が帰任後にこの間の公文書等をまとめた「琉球処分」に多くをよっているのでしょうが。
沖縄県にようやく町村制が施行されるのが1908(明治41)年。ここまで引っ張ることに立ち至った背景がわかる気がします。

ところで,

[76048] hmt さん
結局は 外務省の漸進案 が採用され、琉球に居た伊地知を通じて、琉球王府に対して、新政府への使節派遣を 求めました(6月24日)。

とあります。このお話の中で日本側の在現地機関は 鹿児島県(旧鹿児島藩)在番奉行所 → 外務省琉球出張所 → 内務省琉球出張所 → 沖縄仮県庁 と名前を変えてゆきます。1872年に使節派遣を求める達し文を発したのは 鹿児島県参事 の大山綱良,東京で使節の応対をしたのは 外務卿 の副島種臣,そして藩王冊封後の「琉球藩」を当初管轄したのは「外務省」だったのですね。
1872年段階では「内務省」はまだありませんでした。地方行政を含めた民政一般は 大蔵省 の管轄で大蔵卿は大久保利通。ただし,大久保たちは岩倉使節団の一員として外遊中だったので,留守政府で実際に大蔵省を切り盛りしていたのは大蔵大輔の井上馨だったと思われます。この政府が1871年11月の(第1次)府県統合を進めたのですね(作業が10月末に始まってますから,路線自体は大久保大蔵卿が敷いたのかもしれませんが)。
外務省管轄だから「外国」だとは単純には言えませんが,大蔵省管轄の大隅(または鹿児島県)以北と違う扱いであったことは確かでしょう。ちなみに,北海道および(当時は日本領で“も”あった)樺太を管轄する「開拓使」は他の“省”と同格という位置づけでした。
副島外務卿と交渉をして琉球藩の「国体」についてそれなりの“言質”を得て喜んでいた琉球側は,「明治6年の政変」で副島が失脚(辞職)したことで最初の不安を抱きます。そして,大久保が内務省を創設すると琉球藩も外務省から移管されて,以後,大久保内務卿と最後には「処分官」となる松田が一方の主役となることになります。最後にコマを進めたのは大久保暗殺後に内務卿となった伊藤博文でした。

もう1つところで,このお話に登場する琉球側の人物のほとんどは,「王子」「按司」「親方(うぇーかた)」「親雲上(ぺーちん)」,「里之子(さとぬし)」,「筑登之(ちくどん)」という“位階”を持っています。極めて困窮して行商人や薩摩系寄留商人の雇用人となっている若者も含めてほとんど全員。つまり,農民などの庶民はほぼ全く登場しない。要するに,一連の過程で日本政府の方針に強く抵抗したのは,琉球人口のうちのごく一部である士族階級の者(さむれー)だけだった,という描き方をしているのですね。実際,そうだったのかもしれません。
このあたり,士族階級をどのように評価するかというのも結構重要な問題かもしれません。

琉球(沖縄)の日本への「併合」の歩みについて,これもたまたまか,意識してか,NHK教育テレビの「歴史は眠らない」シリーズ(火曜夜10:25~10:50)が7月のテーマとして取り上げていました(小森陽一「沖縄・日本400年」)。放送はもう終わってしまいましたが,テキストは今でも本屋さんで売っています。ざっと通し読みするのにちょうど良い本だと思います。
(6月のテーマ:ひろさちや「智慧の結晶 お経巡礼」と一緒の冊子。こちらも面白い。)
[76115] 2010年 8月 29日(日)21:26:22【1】Issie さん
Re:県庁所在地経県値のギャップ対策
乗ってみましょうか。

都道府県県庁所在地ギャップ対策
北海道札幌市0
青森県青森市0
岩手県盛岡市0
宮城県仙台市0
秋田県秋田市0
福島県福島市3猪苗代町
茨城県水戸市2鹿嶋市
栃木県宇都宮市2日光市,那須塩原市
群馬県前橋市2渋川市
埼玉県さいたま市0
千葉県千葉市2習志野市,市川市
東京都新宿区2多摩市
神奈川県横浜市1相模原市
新潟県新潟市0
富山県富山市0
石川県金沢市0
福井県福井市0
山梨県甲府市1鳴沢村
長野県長野市0
岐阜県岐阜市1高山市,白川村
静岡県静岡市0
愛知県名古屋市0
三重県津市0
滋賀県大津市0
京都府京都市0
大阪府大阪市0
兵庫県神戸市0
奈良県奈良市0
和歌山県和歌山市1田辺市
鳥取県鳥取市0
島根県松江市0
岡山県岡山市0
広島県広島市0
山口県山口市0
徳島県徳島市0
香川県高松市0
愛媛県松山市0
高知県高知市0
福岡県福岡市0
佐賀県佐賀市2有田町
長崎県長崎市0
熊本県熊本市0
大分県大分市0
宮崎県宮崎市0
鹿児島県鹿児島市0
沖縄県那覇市0

私,ネットで予約をするようになるまでは駅の旅行センターで宿を確保することが多かったので,県庁所在地に泊まることが多かったのですね。だから,両者であまり差がない結果になるかと思ったのですが,思い起こしてみると意外に差がつきました。
生後数ヵ月も「居住」としてカウントするなら(合併後の)長岡市も ◎ で新潟県が1ランクアップするのですけどね。でも私は「地震」は経験していないはずです。

[76108] ぺとぺと さん
落書き帳メンバーの中でも珍しいと思われる熊野市

熊野市は私も ○ です。上の田辺市(当時は本宮町)の ● もその時のもの。この時は,鳥羽市と熊野市と五條市が ○,伊勢市と志摩市と田辺市(本宮町)と十津川村ほかが ●。学生の時の“巡検”によるもの。その前の年には 土庄町:○ という実績があります。

※伊香保はいつの間にか渋川市でしたね。まるっきり失念。
[76102] 2010年 8月 27日(金)01:51:15Issie さん
サイバラ曰く「ツッツー」
[76101] suzutai さん
○姫川

私も去年この辺りに行ってきました。

中央構造線

この区間では「糸魚川・静岡構造線」(糸静線)ですね。
中央構造線は,諏訪湖から伊那谷の1本東の谷を通って伊勢湾を渡り,雲出川-紀ノ川から淡路島の南岸をかすめ,四国の吉野川をさかのぼって九州まで続いています。
厳密には 姫川の谷=糸静線 ではなくて,すこし東または西にずれています。さらに,松本盆地の西縁(北アルプス側)ではなくて,東縁(パッとしない犀川丘陵側)を通って諏訪湖から,静岡方面へのびています。

プリンスショッピングセンターへ行きましたが、こちらも凄い人。滋賀県にもアウトレットができましたが

最近できた滋賀県のアウトレットモールはたぶん関係ないと思いますが,もともと軽井沢を開発した「プリンス関係」の創業者は滋賀県ととっても関係が深いですよね。
[76099] 2010年 8月 26日(木)11:44:39Issie さん
準急
[76098] N-H さん
これ、千葉駅の配線が今の構造になる前の話ですよね?

そうですね。ところが,千葉駅が現在地に移転したのは1963年。当時,房総を走っていたのは「急行」ではなく「準急」でした。国鉄が準急を廃止して全部「急行」に格上げした時には千葉でのスイッチバックはなくなっていたけど,大網でのスイッチバックがあったので一周運転には問題がなかった,という次第。
実は私が“房総東線”改め“外房線”に初めて乗ったのは電化・改称直後の1972年夏で,土気‐大網間の旧線跡と“千葉駅にそっくり”な新・大網駅がとても印象的でした。
もちろん,私も旧・千葉駅の時代なんて知りません。

東京地下線内でのATSだかなんだかの装置の関係

「国鉄で初めての地下鉄」にはいろいろ制約があったようで,最初に房総特急用として設計された183系が,当時の特急電車では当たり前のスタイルであったボンネットを持たない理由の1つが地下乗入れにあったとか。その後の国鉄特急電車では“ボンネットなし”が標準になりましたけどね。

習志野高校が夏を全国制覇

私,優勝パレードを見に行きました。朝日新聞の紙旗を持って。
でも,今考えると少し複雑です。
あのイベントは,本質的には「運動部の全国大会」に過ぎない。それが「紙旗」が象徴するような新聞の販促活動と一体化していることが問題なのですが。とりあえず,彼らは「学校の代表」ではあっても,「郷土」を代表させる必要はないと思って,だから“少し距離を置いて見よう”と思っているのでした。
[76097] 2010年 8月 26日(木)02:06:19【1】Issie さん
ナショナル洗濯機
「うずしお」というと,私は“せんたっき”を連想します。

[76095] 白桃 さん
超有名駅から某政令指定都市までの特急、進行方向が2回も変わるんですよ!

ここんところが引っかかっていたんですが,時刻表を引っ張り出してみたら,今の「うずしお」は宇多津を経由するんですね。

[76096] 白桃 さん
ところで、岡山行きの「うずしお」は前から宇多津を経由してましたっけ?

元は岡山方面から坂出へ(どちらが短絡線?)直行していて,私もそれで記憶していたのですが,「南風」とドッキングするために宇多津を経由することになったようですね。
短時間で2度進行方向が変わるなんて,昔の“房総東線”のDC急行のようです。

ところで「某市」。私は “▲” です。ただし,「市」になる前のお話。

※おまけ
甲子園の春と夏のイベントには,私は「熱く」ならないように少し距離を置いて見ているのですが,それでも,まあ,やっぱり…。で,意外なことに神奈川県よりも千葉県の方に今でも帰属意識を持っていることを再確認してしまいました。だから,今年の「夏」は準決勝でおしまい。
[76031] 2010年 8月 16日(月)01:01:52Issie さん
相模湖町
[76028] futsunoおじ さん
間違い、訂正等ありましたら16日の23時までにお知らせいただければ訂正書込で対応します。

では,

東京都特別区と熊本市の点数は集計の対象外です。

なのですが,[76024] の県庁所在地の方で申告した通り,熊本市も ○ です。初宿泊は高校の修学旅行。この時,同時に福岡市も○になりました。ほかの宿泊地は 平戸市 と 長崎市。モスクワオリンピックの翌年の春でした。

ちなみに,いずれの市についても「平成の大合併」で膨れ上がった区域はほとんど関係ありません。どれも膨張前の旧市域について。唯一の例外は,「旧相模湖町の○」なのですが,こちらはその後,旧市域で◎となったので帳消し。
[76024] 2010年 8月 15日(日)21:52:34【1】Issie さん
旧国別経県値
関西方面に行きました。
今回のメインは,いつの間にか「近鉄」でなくなっていた 伊賀線 に乗りに行くこと。
ついでに,京都で中学校の修学旅行以来行っていない 大徳寺・金閣寺・銀閣寺 というベタな観光地に32年ぶりに訪れました。

[75933] で政令指定都市だけにしておいたのは,今回の旅行で値の変動が予定さている「国」が1つあったからです。おかげで,伊賀 が「▲:通過→●:訪問」と2ポイント上昇しました。…ちゃんと上野の町を歩き回りましたからね。

というわけで,

【畿内】
山城○ 大和○ 摂津○ 河内▲ 和泉○
【東海道】
伊賀● 伊勢○ 志摩○ 尾張○ 三河△ 遠江○ 駿河○ 伊豆○ 甲斐○ 相模◎ 武蔵◎ 下総◎ 上総○ 安房○ 常陸○
【東山道】
近江● 美濃● 飛騨○ 信濃◎ 上野○ 下野○ 磐城▲ 岩代○ 陸前○ 陸中○ 陸奥○ 羽前○ 羽後○
【北陸道】
若狭× 越前● 加賀○ 能登○ 越中○ 越後○ 佐渡○
【山陰道】
丹波△ 丹後× 但馬▲ 因幡● 伯耆△ 出雲○ 石見△ 隠岐×
【山陽道】
播磨● 備前○ 備中● 美作△ 備後○ 安芸○ 周防○ 長門○
【南海道】
紀伊● 淡路● 阿波○ 讃岐○ 伊予○ 土佐○
【西海道】
筑前○ 筑後▲ 豊前● 豊後△ 肥前○ 壱岐× 対馬× 肥後○ 日向○ 薩摩○ 大隅△
【北海道】
渡島○ 後志○ 石狩○ 胆振○ 日高● 天塩● 北見○ 十勝○ 釧路○ 根室● 千島×
【琉球】
琉球○

◎居住:4,○宿泊:51,●訪問:13,△接地:7,▲通過:4,未踏:6 --計:281点

離島の 隠岐・壱岐・対馬,もちろん 千島 は別として,若丹2州は,そう言えばまだ足を踏み入れず,もう1つの「丹」も通過しただけでした(もとい,福知山での乗り換え経験あり。この時,駅前のデパートに便所を借りに行ったけど,●に数えないでおきましょう)。トロッコ列車に乗ってくれば良かったかな。
ちなみにほかの主な「島」(国に包含されるものも含む)では,

 七島:×,小笠原:×,宮古・八重山:×
 天草:●

そもそも,沖縄県は 本島 しか行ったことがありません。

ついでに県庁所在地では

◎:長野市
○:札幌市,青森市,盛岡市,仙台市,秋田市,山形市,(東京都区部),横浜市,新潟市,富山市,金沢市,静岡市,名古屋市,津市,京都市,大阪市,神戸市,奈良市,松江市,岡山市,広島市,山口市,徳島市,高松市,松山市,高知市,福岡市,長崎市,熊本市,宮崎市,鹿児島市,那覇市
●:さいたま市,千葉市,福井市,甲府市,岐阜市,大津市,鳥取市
△:水戸市,宇都宮市,前橋市,和歌山市,大分市
▲:福島市,佐賀市
×:なし

というわけで,◎:1,○:31,●:7,△:5,▲:2,×:0 --計:162点 となりました。都区部の○を入れると 166点。

さらに,都区部について

◎:なし
○:文京,目黒,世田谷,葛飾
●:上記以外19区
△:以下なし

となるので,「都庁所在地=新宿区」とするなら,上の 162点 は 165点 となります。
[76021] 2010年 8月 15日(日)20:08:26Issie さん
琉球国
[75974] hmt さん
この記事から私が疑問に思ったのは、日本の本土で行われた「廃藩置県」が、当時まだ存在していた「琉球王国」の領域に“旧国としての琉球国を設置”することにつながるのだろうか? ということです。

[75957] で私が 沖縄 について

国設置郡設置市町村設置備考
沖縄1871年?1896年1908年島嶼町村制

と書いて,1871年に疑問符をつけたのは,全く同じ疑問を感じたからです。
何より「廃藩置県」というタイミングがいかにも変。「廃藩置県」とは文字通り「藩」と「県」に関する改革ですが,この当時の「府藩県」は国・郡とは全く別の理屈で編成された区画であって,「藩ヲ廃シテ県ヲ置」いても「国」や「郡」に関する改革ではないはずだからです。「府県」という区画と「国郡」という区画がリンクするのはこの年の10~11月に実施された府県統合からです。
で,もしかしたらこのとこを言っているのでは? と思い当たるのが,これ。

-------------------------------------------------------------------------------------
十一月十四日 (布告)
今般西海道従来ノ諸県ヲ廃シ左ノ県々被置候事
 但廃県従前管轄ノ地所当未年ヨリ物成郷村等新置ノ県々ヘ可引渡事

(中略)

鹿児島県
 大隅国
  熊毛郡 駆謨郡
 薩摩国一円
  外琉球国

(以下略)

明治4年11月14日 (太陽暦:1871年12月25日)
「法令全書」通番 明治4年太政官布告 第595
-------------------------------------------------------------------------------------

手前味噌ですが 自分のページ からコピーしました。

ここにある「外琉球国」というのが,それでしょうかね。
でも,これは「廃藩置県」ではありません。「廃藩置県後の整理」ではありますが。そこまで拡大解釈して「廃藩置県で琉球国を設置」と考えますか?
けれども「外(ほか)」という書き方は,これがたとえば「薩摩国」と同列と捉えることはできないように思います。“半外国”の「琉球(王)国」がこれまで「鹿児島藩」(通称:薩摩藩)の“付庸国”とされてきたものを,そのまま(国郡単位の)「新・鹿児島県」に引き継いだ,と読むべきものではないかと考えます。
日本が正式に琉球を“自国の一部”と対外的(特に対・中国)に表明したのは1872(明治5)年の「琉球藩」の設置ですね。中国(清朝)の皇帝から「琉球国王」に封ぜられるのではなく,日本の天皇が「琉球藩王」に任命する。でも,ここで設置されたのは「藩」であって,「国」ではありません。これを「琉球国設置」と読めるだろうか。
[75967] で YT さんが紹介されている『日本地誌提要 』。目次での扱いはご紹介の通りなのですが,p.8 には

-------------------------------------------------------------------------------------
凡(およ)ソ五畿、七道、七十三国、二京、三府、六鎮、六十県。皇居ヲ東京ニ定メ、開拓使ヲ置テ、北海道十一国ヲ経理シ、琉球ヲ封ジテ藩属王国トス。
--------------------------------------------------------------------------------------

とあります(句読点は現代表記,漢字は常用漢字体,合略仮名は個別の仮名に改めました)。
そのあとに続く「建置」の節に列挙された国名によれば,“73国”とは 畿内(5)・東海道(15)・東山道(13)・北陸道(7)・山陰道(8)・山陽道(8)・南海道(6)・西海道(9)・二島(壱岐・対馬:2) と,ここまでの合計です。さらに「琉球壱国」と「北海道拾壱国」を加えて全部で“85国”としています。
ここでは「琉球国」を他の「国」と同列に扱っているようですが,説明文によれば,そのようになったのは「琉球藩王」が封ぜられた1872(明治5)年と捉えるべきでしょう。「廃藩置県」ではなく「第1次琉球処分」です。

そこに今さら「令制国」という呼称を持ってくるのもどうだか。「律令」(“現行法”として生きてきたのは「養老律令」(757年施行)ですね)が“正式な文書”で廃止されていないことは確かとしても,すでに「王政復古」「政体書」を経て律令とは全く違う根拠の上に明治政府の支配体制が構築されつつあることは明らかです。今さら「律令が根拠」などとは言えないでしょう。“適切な呼称”が見当たらないために,とりあえず何らかの呼び方をしなければならないのも,もっともなのですけどね。
 
ついでに上の「新・鹿児島県」設置の布達,「大島郡」もありません。

[75967] YT さん
どうやら明治12年の第二次琉球処分をきっかけに明治12年4月8日[48993]に大島郡が設定され、帰属が大隅になったことが決定したようです。

州南諸島、つまり奄美群島が「薩摩」の付属物として扱われていることです。

…からですね(話の都合上,順番を逆にして引用します)。
では,「大島」が属しているのは「薩摩国」? それとも「琉球国」?
[75957] 2010年 8月 12日(木)02:47:37【2】Issie さん
小笠原にも行かれなかった
今週,NHKのBSで「銀河鉄道999」の特集をやっています。で,PCに録画したものを視ていたら(我が家のテレビはすべてアナログのブラウン管なので,デジタルチューナーを入れたデジタル液晶画面のPCが最も画質が良い),こんな時間になってしまいました。ま,今週は私自身が夏休みなので大丈夫なのですが。
1980年ごろの作品ですね。リアルタイムで視ていたけど,オープニングの画面が記憶とちょっと違っていて…,まあ,そんなものではあります。今視ると,いろいろ考えるところがあって…。今,こういう内容の作品を作って電波に乗せることができるか(商業的に)とか。
1980年までの30年間で日本は大きく変わったというけれど,いつの間にか経ってしまったこの30年間も,私たちが感じている以上に変わってしまっているのでしょうね。

[75952] ペーロケ さん
小笠原は行こうと思えばいつでも行けます。

その小笠原にも行かれない時期がありました。1945年から1968年まで米軍による占領・統治下にあったためです。この間,「普通の日本人」は小笠原に行くどころか,住むことさえできませんでした。連合国軍総司令部(そして米国)が居住を許したのは,欧米系の旧島民とその家族だけ。調べてみると,旧島民の墓参が初めて実現したのは1965年。敗戦・占領開始から20年,島民が強制的に疎開させられたのが1944年だから,それから数えて21年目。
日本人が排除されたという点では,樺太や千島(南千島=北方領土も含む)と同じといえるかもしれません。米軍統治下に置かれたのは沖縄よりも4年短いだけです。
小笠原の「返還」が日米間で合意されたのは1967年。この時点では沖縄が「還ってくる」かどうかは全くわかっていませんでした。その合意前は小笠原もそうだったでしょう。「北方」だけでなく,「南方」だって本当に日本に戻ってくるかどうかわからなかったのです。
…といっても,沖縄が「還ってきた」のが私が小学校3年のとき。こちらはおぼろげな記憶があるけど(南沙織もフィンガーファイブもそんなところから来たんだ,なんて思ってました),米軍統治下の小笠原について私は全く記憶がありません。

かなり以前に似たことをやった記憶があるのですが,こんなまとめをしてみました。

国設置郡設置市町村設置備考
本州・四国・九州7~8世紀7~11世紀1889年市制・町村制
北海道・南千島1869年1869年1900年,1902年一級町村制,二級町村制
中千島・北千島1875年1875年(設置せず)(各種)町村制未施行
(南)樺太(設置せず)1915年1929年樺太町村制
伊豆諸島7世紀?(設置せず)1923年島嶼町村制
小笠原(設置せず)(設置せず)(設置せず)1968年に地方自治法施行
奄美1879年1879年1908年島嶼町村制。1879年大隅国編入
沖縄1871年?1896年1908年島嶼町村制
台湾・朝鮮(設置せず)(設置せず)(設置せず)旧所属国の制度を一部改編して適用

そろそろ面倒くさくなってきたので,とりあえず表だけ(面倒くさいので,細かいところは無視しています)。
要は,「辺境」(←という呼び方には少なからず問題があるのだけど)についての制度は一律ではないし,中心(本土)から“遠く”なるにしたがってある項目から順番に抜け落ちていく(同心円状に“本土性”が薄れていく)というわけでも必ずしもない。結局は,それぞれの地域について,そのときどきで最も適当であると思われる制度が適宜採用されていることが“示唆される”ようにも思われる,というところでしょうか。

小笠原に国も郡も設置されていないことについての考察の一助になれば幸いです。
[75933] 2010年 8月 9日(月)23:05:17【1】Issie さん
名勝の名称を改める件
文部科学省告示第130号 (PDF)

…何か面白かったので。

ついでに政令指定都市に関して:

◎:相模原市
○:札幌市,仙台市,横浜市,新潟市,静岡市,浜松市,名古屋市,京都市,大阪市,神戸市,岡山市,広島市,福岡市
●:さいたま市,千葉市,川崎市,堺市,北九州市
(以下なし)

泊まる理由がまず生じない さいたま市 はともかく,そう言えば千葉市に泊まったことはなかったなぁ。小学生の頃から行動圏に入っていたし,中学校の友達が千葉市にいっぱいいて家へ遊びに行ったりしてるんだけどねぇ。
堺市。阪堺電車の終点で降りて近くの施設に泊まったことがあるのだけど,そこは高石市でした。だから,必然的に堺市は「歩いたことがある」のですね。
[75523] 2010年 7月 24日(土)12:24:46Issie さん
幕張町一丁目地先埋立地
[75522] グリグリ さん
ちょっと分り難かったかもしれませんが

ああ,これは見落としていました。
なら,安心して…

参考「政令指定都市の区境を越える地名」

 幕張:千葉市 花見川区幕張町,幕張本郷/美浜区幕張西

幕張西一~三丁目の部分は埋め立てが完了して入居が始まった1974年に千葉市に編入されて,幕張一丁目の一部になりました(現在の四丁目の部分も一緒に編入されたように書いてあるものもあるのですが,1974年時点でこの部分はようやく埋め立てが始まったところでした)。
これが1979年に「幕張西」として独立し,1992年の区制実施で 花見川区 になった幕張・本体とは別に 美浜区 の一部となったのでした。
この辺りは千葉市に編入される前から私たちの遊び場でした。

都道府県内の自治体境を越える地名

 古市場:千葉市緑区古市場町/市原市古市場

千葉市側は元・千葉郡古市場村,市原市側は元・市原郡古市場村で,千葉郡は下総,市原郡は上総ですから,「国境を越える地名」でもあります。

で,千葉県の地図帳を引っ張り出して眺めているのですが,何ぶん古いものなので(1992年版。「区制記念版」なんて書いてある),「宮野木町」が稲毛区と花見川区,「南生実町」が中央区と緑区に分断されて描かれています。その後,花見川区宮野木町とい緑区南生実町では住居表示の際に新しい町名がつくられて“同一町名の分断”は解消していますが,
でも,これも対象になるのかな。

 千葉市 稲毛区宮野木町/花見川区宮野木台
 千葉市 中央区生実町,南生実町/緑区おゆみ野○○

相模原市で分断されている 田名 の場合,緑区部分はほとんどが畑で,しかも農地として区画整理が行われたので当分市街地化される可能性はなく,住居表示が実施される可能性もとても低いので,分断の解消はまずないでしょう。下九沢は中央区部分がすでに市街化していますから,こちらは将来の住居表示による分断の解消はあるだろうと思います。大野台三丁目はどうでしょうねえ。こここそ整理した方がいいと思うのですが。
[75517] 2010年 7月 22日(木)22:21:52【2】Issie さん
北軽井沢
もう少し「『自治体越えの地名』コレクション」ネタ。

よく見ると,これがありませんね。

 軽井沢:長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢/群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢

これはまあ,よく知られているように「軽井沢」が分割されたのではなくて,本来は「軽井沢」でも何でもなかった群馬県側が避暑地で有名な長野県側にあやかって名乗ったものであるというわけで,したがってリストアップされていないのでしょうが,実はあのリストの中にはこのパターンが結構含まれているのではないかと思われます。

たとえば

 中山 なかやま 市境隣接 市川市中山…/船橋市本中山…

[75283] 伊豆之国 さん
船橋市本中山・東中山・二子町・本郷町/市川市中山・二子飛地・本郷飛地‥市の境界線も入り組んでいるのに、町名まで複雑に交錯してますますややこしい~。二つの「飛地」町名が‥

これは「中山」が市川市と船橋市とに分割された例ではありません。
船橋市本中山の住居表示前の町名は「小栗原町」。「本中山」というのは1967年の住居表示で新設された町名です。「東中山」も同様に,(今,手許では確認できないですが)元は二子町,本郷町であった所に住居表示が実施されて新設されたもの。これは恐らく京成電鉄の「東中山駅」に由来するものではないかと思います。「東中山駅」は元々「中山競馬場」へのアクセス駅として開設されたもので,つまりは競馬場に由来するのでしょうね。しかし,中山競馬場は「中山」にはありません(旧東葛飾郡葛飾町古作)。

※調べてみたら,中山競馬場は当初は今よりも中山寄りにあって,「中山村大字若宮」を所在地としていたようですね。その後,やや北東に動いて,葛飾村(現船橋市)の所在となった…。

この辺りは元々「栗原(郷)」と呼ばれていたようです。近くの「本郷」という地名はこれと関係するのでしょうね。「小栗原(おぐりはら)」というのもこれから派生したものでしょう。徳川家康が江戸に入封したときに家臣の成瀬正成が葛飾郡内に領地をあてがわれ,栗原(小栗原)に陣屋を置き,さらにあちらこちらで領地をもらって1万石を越えたので,これを「栗原藩」と呼びます。後に正成が尾張藩の徳川義直の附家老となって犬山へ移ったので,栗原は次男の之成が継承しました。犬山の成瀬家の方はずーっと続いて最近まで「城主様」であったのですが,栗原の成瀬家は間もなく断絶して取り潰されてしまいました。中世には千葉氏の支配下で「小栗原城」というお城もあったらしいのですが,もちろん「石垣とお濠と天守閣」に象徴される近世城郭の遥かに前のものですから,遺構自体がほとんど残っていないようです。
いずれにせよ,こんなに歴史のある「小栗原」という地名を船橋市はあっさり捨ててしまいました。「中山」の方がメジャーだからなのでしょうかね。何しろ,総武線の「下総中山駅」も,京成電車の「京成中山駅」も,あるのは「中山」ではなく「小栗原」,さらに千葉街道(国道14号線)沿いの商店街も。「中山で賑やかなところ」というのは,今や市川市ではなく,船橋市の小栗原ですから。
「東中山」も「中山競馬場」も「中山」にないことは先述の通りです。

「中山」というのは,そこにある法華経寺と関係のある地名であるようです。逆に,法華経寺のある辺りが近世以来の「中山村」でした。明治の大合併で周辺の村と合併して「東葛飾郡中山村」となりましたが,村役場は木下街道沿いに置かれました。街道をはさんだ北方(←「ぼっけ」と読みます)と合わせて,この辺りが中山村の中心であったのでしょう。現在も市川市立中山小学校があります。

「中山」が明治の大合併で北方(ぼっけ)などと合併して 中山村 の一部となったのに対して,小栗原 は東側の千葉街道沿いの村と合併して 葛飾村 の一部となりました。一方,南側の 田尻 や 高谷(こうや),原木(ばらき),二俣 などは 行徳町 に合併されました。当時は江戸川(放水路)などありませんから,行徳は“川向う”ではなく陸続きです。
で,中山町 が 市川市 の一部になり,葛飾町 が 船橋市 の一部となり,さらに 行徳町 も市川市に編入された結果,あのように 小栗原(本中山) が市川市に食い込んでいるような形になったのです。

あ,久しぶりなもので,つい長々書いてしまいましたが,要するに「本中山」は「北軽井沢」と同じようなケースであるように思います。だから,「北軽井沢」を可とするか否かによって,「本中山」の扱いも決まるのではないかと思うのです。そして,そういうケースが,あのリストの中にほかにももっとあるように思われます。
[75513] 2010年 7月 20日(火)23:55:57Issie さん
郡を分ける
私がお休みしていた間の少し古い話題で,もしかしたらもう収束しているのかもしれませんが,少し蒸し返して…

[75355] mul-sa さん
ところで、一つの郡を複数に分けて「東」「西」等つけるのは、近代になってからの動きではないでしょうか。

[75357] hmt さん
中世に入間川を境に東西に分けて入東郡・入西郡と呼んだことがあったようです。

郡が一番激しく分割されたのは中世です。
とりあえず思いつくものを列挙してみましょう。

 下総国印旛郡 → 印西郡,印東郡
 下総国葛飾郡 → 葛西郡,葛東郡 ※「東葛」「葛南」は近代の呼称
 上総国夷隅郡(伊甚郡) → 伊北郡,伊南郡
 上総国市原郡 → 市西郡,市東郡
 上総国海上郡 → 海北郡  ※海南郡はあまり見られず。上総海上郡は近世に市原郡に統合。
 上総国周淮郡 → 周西郡,周東郡
 安房国安房郡 → 安西郡,安東郡  ※むしろ「安房国」を分割したとも
 武蔵国入間郡 → 入西郡,入東郡
 武蔵国多摩郡 → 多西郡,多東郡
 尾張国海部郡 → 海西郡,海東郡
 大和国曽布郡 → 添上郡,添下郡
 大和国磯城郡 → 式上郡,式下郡
 大和国葛城郡 → 葛上郡,葛下郡
 河内国丹比郡 → 丹北郡,丹南郡
 摂津国三島郡 → 島上郡,島下郡
 摂津国難波大郡 → 西生郡(西成郡),東生郡(東成郡)
 因幡国八上郡 → 八上郡,八東郡
 播磨国賀茂郡 → 加西郡,加東郡
 播磨国飾磨郡 → 飾西郡,飾東郡
 播磨国神崎郡 → 神西郡,神東郡
 播磨国揖保郡 → 揖西郡,揖東郡
 美作国勝田(かつまた)郡 → 勝北郡,勝南郡
 美作国苫田郡 → 苫東郡(→東南条郡,東北条郡),苫西郡(→西北条郡,西西条郡)
 美作国久米郡 → 久米北条郡,久米南条郡
 阿波国名方郡 → 名西郡,名東郡
 讃岐国香川郡 → 香西郡,香東郡
 筑前国朝倉郡 → 上座(かみつあさくら→かみくら→じょうざ)郡,下座(しもつあさくら→しもくら→げざ)郡
 筑後国八女郡 → 上妻(かみつやめ→かみつま)郡,下妻(しもつやめ→しもつま)郡
 豊前国三毛郡 → 上毛郡,下毛郡

ほかにももっとあると思います。
これらの中には,すでに律令制下の奈良時代末期の段階で分割されていたものもあります。しかしこれらのうち,あるものは近世初期の段階で「古の状態に戻す」という精神から元の形に統合されています。下総国印旛郡がその例。上総国市原郡は勢い余って海上郡(海北郡)まで統合してしまいました。
次に「古の姿に戻す」機会となったのが明治半ばの郡制施行です。このときに,たとえば 播磨国神崎郡 や 揖保郡 が“復活”しています。
一方で,1878(明治11)年の郡区町村編制法では中世とは別の理屈で分割された郡も多数あるわけで,下総国・武蔵国葛飾郡 が中世の 葛西郡・葛東郡 ではなく 東葛飾郡・西葛飾郡・中葛飾郡・北葛飾郡・南葛飾郡,武蔵国多摩郡 が 多西郡・多東郡 ではなく 東多摩郡・西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡 と分割されるわけです。葛飾5郡の場合は,郡制施行の際に統合されて3郡になるのですね。

中世に郡が細分化されたのには深い背景があって,話すと長くなるのでここでは控えます。
ただ,このときに国府経由の支配単位である「郡」と荘園経由の支配単位である「荘(庄)」をさらに細分する単位として多用されたのが「条」でした。上に挙げた美作国苫田郡に極端な例が見られますが,「上条・中条・下条・北条・南条・西条・東条」という地域呼称の多くがこれに由来することを申し添えておきます。
ただし,地名などというものは読み方も表記も私たちが思い込んでいるよりも遥かに「いい加減」で「適当」で「融通無碍」なものです。読みが同じならいくらでも違う漢字で表記され得るし,同じ漢字で書いてあっても読み方はいくらでもあります。そもそも「2文字の漢字」で表記することを基本とする地名は,奈良時代の有名な「縁起の良い文字2文字で書け」という命令で無理に無理を重ねた当て字に始まったものですから。

ま,そんなわけで,郡を分割するのは明治に始まったことではない,ということを再確認しておきましょう。
 
[75508] 2010年 7月 20日(火)00:55:02【1】Issie さん
何か久しぶり
前回は2ヵ月前なんですねぇ。
何か忙しくて,自分ところも桜の季節から放ったらかし。今さらながら,相模原市の政令指定都市移行とか,気象予報区関連(5月27日付の気象庁告示第7号で告示)なんて大ネタも放置していて,とりあえずは最近の参院選ネタから取りかかりましょうか。
今日1日お仕事すれば,“お客様方”は夏休みだし(あたしたちは休みじゃないんですよ。当然,通常勤務です。念のため)。

「自治体越えの地名」コレクション

参考「政令指定都市の区境を越える地名」

せっかくなので,相模原市の例,仲間に入れてやってくださいませ。

 緑区下九沢/中央区下九沢
 緑区田名/中央区田名
 中央区大野台三丁目/南区大野台三丁目

いずれも元は1つの大字(下九沢,田名)または町名(大野台三丁目)が2つの区に分断された例です(ただし,区制実施以前に別個の市役所出張所管内に分かれていました)。

少しややこしいし,だんだん元の枠から離れていくので,参考の参考程度にしていただければと思いますが,

・元は1つだったが,複数の自治体に分割されて,それが合併してまた1つの自治体内に戻ったが,町(大字)としては別扱い

 新潟県長岡市 千谷沢(旧越路町)/小国町千谷沢(旧小国町) ---例の「チャーザァ村」

古い例だと

 横浜市 西区 戸部町/西戸部町,平沼/西平沼町
 横浜市 中区吉田町/南区南吉田町

それぞれ元は 久良岐郡戸部町,平沼新田,吉田新田。それぞれ前の方が1878(明治11)年に「横浜区」の一部になり,1889(明治22)年の市制当初の横浜市域で,後ろの方は久良岐郡の町村として残り,1889年に 戸太(とだ)村 の大字戸部,平沼新田,吉田新田,1901(明治34年)に横浜市に編入されたら,先行編入区域内に 戸部町・平沼町・吉田町 があったので,しかたなく 西戸部町・西平沼町・南吉田町 となりました。西戸部町も西平沼町も南吉田町も,編入したての頃はずっと大きかったのだけど,たくさんの新町が分離して今は元のほんの一部分だけになっています。「平沼町」は住居表示で隣接町(平沼新田または西平沼町から分離した)と合併して「平沼一丁目・二丁目」。

ま,これは最初に書いた通り,趣旨から外れると思いますので,あくまでもおまけの話として…。

[75482]ペーロケさん
本当に、関東の人って「離合」という言葉を使わないのでしょうか?

[75483] BANDALGOM さん
むーん、少なくとも教習所では習わなかったですし、日常的にも聞いたことがないですねぇ・・・。
離合という言葉自体、鉄道サイトで初めて目にしたくらいです。

まさしくその通りで,「鉄」なおたくはともかく,プロの方は“その通りの意味”で使っているのではないでしょうか。でもたぶん,プロの世界では「全国的な専門用語」だと思いますから,「新方言」という感覚は私にはないかな。
[75148] 2010年 5月 19日(水)22:32:29【1】Issie さん
三角点
[75146] hmt さん
その所在地を調べると指扇小学校付近で、地形図から読み取れる標高は10m程度です。塔の上に存在?

そうかもしれません。
たとえば,江戸川区の平井7丁目の(旧)中川の近くにある三等三角点(点名:中平井)の標高は 40.03メートル。三角点の記号の下には「海抜0メートル」の等高線が走っていて,ここの地面が標高40メートルもあるはずがありません。
どうも都営住宅の屋上にあるようで,そこの高さのようですね。

そもそも「三角点」は“位置の基準点”であって,“高さの基準点”ではありません。地図上において三角点が表しているのは三角形の記号の中にある“点の位置”であり,標高は三角点が表すべきデータではありません。言い換えると,三角点が表す 緯度・経度・標高 の3つのデータのうち,地図の上で意味があるのは 緯度・経度 の2つだけであり,そこに記載されている標高の値はその点が“現にある場所”の高さを表しているにすぎません。
多くの場合,三角点は地面に置かれているので,そこに記載されている値を地面の高さとみなしてよいのですが,たとえば「中平井」のようにビルの屋上にあることもままあります。

三角点は,かつて目視で三角測量(位置を測量する)を行っていた時代から設置されているものであって,大事なことはその場所の“高さ”を示すことではなく,位置を測量するために“目立つ”ことにあります。三角鎖を構成するほかの三角点からよく見えること。

※補足
あるいは,昔は地面の上に三角点があったのだけれども,そこに建物がたてられたために三角点の“位置”(緯度・経度)は変えることなく,そのまま屋上へ移転,なんてこともあるかもしれません。ふじみ野市役所は,この例?
もちろん,三角点そのものがほかの地点に移設されることもよくあります。たとえば,厚木市北部の丘陵にある「鳶尾山」という三角点は極めて重要な一等三角点の1つなのですが,一時期,この山を離れて中津川をはさんだ愛川町の中津小学校の校庭に置かれていました。12年ほど前に訪れたときにはまだその小学校にあったのですが,いつの間にか鳶尾山に帰ったようです。

三角点が山頂にあるとは限らないのも同じ理由です。山の高さを表すことが三角点の使命ではないからです。
したがって,“地面の高さ”を知るために三角点の標高値を用いるのはあまり適当ではありません。そこに記載されているのは地面の高さではなく,三角点のある位置の高さだからです。
「多角点」が第一義的に表すべき値も,“高さ”ではなく“位置”なのでしょう。

“高さ”についての測量は水準測量によって行われてきました。
理屈の上では,最初に東京湾の海岸で「東京湾の平均海面」の高さを確定してこれを「標高0メートル」とし,海岸から一足ずつ“高さの差”を厳密に計測してその地点の標高を厳密に求めます。そうして求められた“高さの基準点”が「水準点」です。水準点が多くの場合,明治以来の古い街道沿いにあるのは,その街道を通って一足ずつ高さを測ってきたからです。

まあ,そんなわけですから,標高に関しては三角点の数字はたぶん「参考値」としてしか使えません。
[75132] 2010年 5月 17日(月)21:59:33【1】Issie さん
相模原市の四至(しいし)
[75119] k-ace さん
皆さんは出身・居住等ゆかりの市区町村の最高低点、最東西南北端に行かれた経験ってありますか?

私が子どもの頃に住んでいたのは習志野市の埋立地。私たちの小学校の学区はその埋立地の南東半で,放課後の行動圏はもっぱら同じ市内の津田沼や鷺沼地区ではなく,市の境界を越えた千葉市の幕張地区(の埋立地)。その境界線が海岸線と交わる地点が“習志野市の南端”となりますから,ここに立つことは日常茶飯のことでした。
一方,同じ海岸線を北西へたどって,船橋市との境界線と交わる場所が“習志野市の西端”。京葉道路の花輪インターの南西方,方形の谷津干潟の北隅がそれに相当します。ここも割とよく行きました。
しかし,北端と東端は八千代市との境になる東習志野地区。こちらは行くことなく終わってしまいました。
また南端と西端についても1977年に“第2期埋立地”を編入した結果,一気に沖合に遠ざかってしまいました。こちらも結局は到達する前に習志野市を離れてしまったので,未踏。
ほかに住んだ 市川市,多摩市,松本市,長野市 のいずれの端点も未到達です。実は,乗鞍山頂の駐車場には行ったことがあって,ここは市域拡大後の松本市の現・西端に近いのですが,当時はまだ安曇村。そして,駐車場が所在するのは岐阜県の丹生川村(現・高山市)です。

現在居住の相模原市。合併以前の四端は,

 東:上鶴間本町8・9丁目の旧鶴金橋
 南:新戸の相模線・相武台下駅南西方
 西:大島の諏訪森下中州西方の相模川
 北:相原3丁目22番北側の境川

東端は境川の改修で川の左岸(東側)となってしまった地点で,町田市(東京都)との“領土交換”の対象地の1つ。しかし,ここが住居表示以前の地番表示による「上鶴間1番地」なのですね。かなりまとまった人口のある区画で,町田市への移管が難航しているようです。
南端は相武台下駅南西方の水田地帯の中にある畦道の交点。この2ヵ所へは容易に行くことができます。
西端は相模川の河道の中。北端も境川の河谷の中,というわけでその地点上に立つことは難しそうです。北端の場合,そのすぐ南側は個人宅の敷地になるようですから,これも無理。ただし,どちらも至近の位置まで行ったことがあります。

ところが,津久井郡を合併してしまった今では,東端は変わらないものの,残りは

 北:緑区佐野川・三国峠東北東方,標高約990メートル
 西:緑区青根・大室山西南西方,標高約1570メートル
 南:緑区鳥屋・丹沢山,標高1567メートル(三角点)

…本気で登山をしないと到達できません。
ちなみに3点とも 緑区 ですね。なお,東端の上鶴間本町は 南区。

※蛇足ながら「子ども」について。
私は,「子供」という表記が“差別的”であるという感覚は持ち合わせていません。特に何の主張もなく,今のところ“標準的”とされているものに合わせて「子ども」と表記しているだけです。
たとえば,「少しづつ」の「…づつ」という表記は“明らかな間違い”で,「…ずつ」と表記しなければならないというのが現代仮名遣いの規則なのですが(逆に旧仮名遣い[歴史的仮名遣い]では「…づつ」と表記すべきものです),「子供/子ども/こども」については特にきまりはありません。日本語の正書法の不完全な部分の1つです。「子ども」というのは,いわゆる“交ぜ書き”で,大新聞の中にはこれに批判的なところもありますが,とりあえずは“大勢”に従うことにします。
一応,そういうお仕事だしね。

「思う」について,私は一種の“婉曲表現”だと思いますよ(←これは婉曲でなく,そう思料または推量しています)。それが“適切”であるかどうかは,別の問題ですが。
言葉というのはお互いのキャッチボールで成り立つものであり,そうした行為が積み重ねられた総体として存在するものだと思います。中には自分の感覚と違うものが横行して,もどかしく感じることもあるのですが,私たち一人ひとりは言語に関して「全能の神」ではありません。結局は,全体の流れるところに行き着くものでしょう。
それは「人工語」であるエスペラントも例外ではなく,現在,現実に行われているエスペラント語は,百二十年ほど前にザメンホフという人が考案して発表したものとはさまざまな点で違っています。それは,この百年の間に多くの人がこの言語を使用していく中でできあがった“慣用”の積み重ねです。
これまでにとてもたくさんの「人工語」が考案され発表されてきましたが,そのほとんどはほかに広がることなく消えてゆきました。その原因は多くの場合,考案者が「全能の神」の座を捨てなかったことにあるようです。文法も単語も考案者の考えた通りに,それ以外は認めない…。
エスペラントが百年を経ても生きているのは,早い段階でザメンホフがその「神」の地位を捨て,現実に行われるままに任せたことにある,とされています。もちろん,根本原則は変えられません。そこが変わったら,エスペラントではなくなってしまいますから。

で,これは日本語のような“自然言語”でも同じ。
「規範」は規範として存在するべきですが,そこから先は何を言っても“現実に行われている”ことが「現実」。
「より良い姿」,「あるべき形」というものは当然,追及されるべきだと思いますが,大事なことはそれがどれだけの支持を集めて,現実に行われるかにあるのだと思います。

「蛇足」の追加が思いのほか長大になってしまいました。
ごめんなさい。
[75105] 2010年 5月 13日(木)01:00:25【1】Issie さん
はやぶさ
[75100] ペーロケ さん
先日、惜しまれながら引退したはやぶさが、なんと青森で復活するようですね。

私は「はつかり」がいいと思ったんですけどね。だって東北本線,だけでなく何より上野より北を走った栄光ある“最初の特急”ですから(岩沼以南は常磐線廻りでしたけど)。同じことを考える人は多くて,これが1位だったそうですが。
かつて在来線を走っていた「つばさ」「とき」「あさま」,そしてこれは新幹線ではないけれど「はくたか」と,昔親しまれた列車名の,しかもそれぞれに縁のある路線での復活が続いていたことを考えると(「つばさ」は本来,秋田行きで,山形止まりは「やまばと」だったのだけど),少し残念。

「はやぶさ」はブルートレインの代表として一時代を築いた歴史があるし,たぶん「隼人」を意識した命名であるような気もして,九州方面のイメージが強いのだけど,そもそもハヤブサは南の鳥というわけでは別にないのだから,それはそれで悪くはないのでしょう。
私は「つばめ」 や「はと」が京阪神以西の山陽本線(の在来線)を走っていた時代しか知らないけれど,元々は東海道線の特急だったわけで,新幹線の西延にともなって“棲み家”を西へ移していき,今では「つばめ」が九州に定着していますよね。
「ひかり」や「のぞみ」だって,最初は大陸や半島を走っていたんだから。
今度は1日1往復ではなく,兄弟がどっと増えて北の空にハヤブサが住み着くことになるのでしょう。

さて,そうすると心配なのが,「長野“行”新幹線」改め北陸新幹線なのですが,私個人としては「はくたか」か「白山」を推したいところ。けれども「は」で始まる名前は,もう打ち止めかもしれません。確か,「あさひ」が廃止されて「とき」が復活した理由の1つに,同じく「あ」で始まる「あさま」との混同を避ける,というものがあったような気がするし,実際,今回も「は」で始まる「はやて」がなくなるわけだから。
とすると,どんな名前になるのやら。

※それにしても,「はつね」にならなくて本当にようござんした。いや,「はつね」という名前自体には問題はないんだけど,理由が理由だから…。
[75104] 2010年 5月 13日(木)00:34:12Issie さん
旧川里町の直近人口統計
[75103] 大龍エクスプレス さん
突然ですが、鴻巣市の旧川里町の最新の人口データを教えてください。

鴻巣市のHP の中の 鴻巣市の人口 というページに 直近の人口統計(2010年5月1日現在;pdf ファイル)が掲載されています。

それによれば,「川里地域」の人口は 8,400人 と出ています(もしかしたら,この「川里地域」と旧川里町の区域とが完全に一致しないこともあり得ますけれども)。
「赤城台」という地区の人口は 0 なのですね。
[75101] 2010年 5月 12日(水)01:12:46Issie さん
チャーザァ村の雪
最近,少し忙しくてこちらでの発言が極端に少なくなっているのですが,取り急ぎ。

[75082] 星野彼方 さん
・十日町市近辺はこの時期でもちょっと山の方に行くと普通に雪が残っている。

[75083] グリグリ さん
私は十日町市は通過していませんが、関越トンネルを抜けた湯沢町や魚沼市あたりでは路肩に雪が沢山残っていました。やはり4月に降った雪ではないでしょうか。

4月に降った雪の分もあるかもしれませんが,少し多めに雪が降ったシーズンであればこの辺りは連休あたりまで雪が残っているのはやはり普通であるように思います。
チャーザァ村…,今は「長岡市」になってしまった小国町でも,5月連休にまだしっかり雪が積もっていた(道端に残っていた,ではない)ことがありました。
だから,そのつもりで4月の初めに青森方面へ行ったときに,雪が全く消えてしまっているのを見てとても意外に思ったことがあります。

ところで,ロバのパン屋と紙芝居。
どちらも本来は「都会」のものだったと思うのですが,イメージとしては高度成長期以前のものである気がします。それが1970年代前半の幕張にあって,一時代前のものを見たような気が,子どもながらにしたのでした。
ところが,“本来の幕張”(埋立地は余所の町。区だって違うし…)は今でもほとんど光景が変わっていないんですよね,40年くらい前と。
[74991] 2010年 4月 18日(日)23:25:32【1】Issie さん
あ行だけの市区町村
[74989] k-ace さん

【あ行】
相生市、葵区(静岡市)、伊江村、大井町、おおい町、大江町

それにしても、あ行以外3文字以上の市区町村は見つかりませんね。

これは現代語の発音と表記によるものですね。
これを旧仮名遣いでやってみたらどうなるか,興味を持ちました。
もっとも,発音上の区別が失われた後に生まれた地名の場合だと,書き分けようのないものを漢字の音訓の仮名表記に合わせて“復元”することになるので,本当はこのようなことを詮索してもあまり意味はないのですが,無理やりやってしまいましょう。

 あひおひ →あいおい(相生)
 あふひ →あおい(葵)
 いえ →いえ(伊江)
 おほゐ →おおい(大井)
 おほひ →おおい(大飯) ※和名抄による平安中期の「大飯郡」の読み仮名は「おほひた」。
 おほえ →おおえ(大江)

…というわけで,“あ行だけ”という条件で生き残ったのは「伊江(いえ)」だけになりました。
ところが,現在は“あ行のエ”(e)を表すカタカナの「エ」の元になった「江」は元は“や行のエ”(ye)であったと考えられています。したがって,「大江:おほえ」の発音は ofoye (f は唇を噛まない)。ちなみに,ひらがなの「え」の元になった「衣」の発音は“あ行のエ”であったと考えられています。つまり,「え」と「エ」は本来は“別の音”を表していたことになりますが,e と ye の区別は平安中期までに失われたようで,その後に成立した かな ではこの2つの「エ」を区別しないし,区別できないのですね。だから,「え」と「エ」は“おなじ音”に対する かな。なお,2つの「エ」の区別が失われたときは ye の方に統合されたようで,現在のように母音だけの e で発音するのが基本になったのは割と最近のことであるそうです。
だから,「伊江」も iye ということになると,“あ行だけ”は1つもなくなってしまいます。
もともと古い時代の日本語は母音の連続を極端に嫌っていました。現代のように母音が連続することを気にしなくなったのも,そう古いことではありません。本来的に“あ行だけ”の地名や単語は成立しづらいのです。

とはいえ,冒頭で述べたように,発音上の区別が失われた後に生まれたであろう地名について,それよりも前の時代の発音の区別を問題にしても意味はありません。だから,「伊江」を iye と言ってみても意味はないし,まして,発音に対する漢字の当て字のしかたや かな の使い方に本土とは違う独自の体系を発達させた沖縄(琉球)の地名ですから,なおさらです。

逆に,[74260] で k-ace さんがまとめられているように,“子音をはさんで同じ母音を繰り返す”ことは大昔から日本語は大好きで,特に a の繰り返しは地名に限らず一般の単語でもありふれた現象です。ただし,e の繰り返しはあまり好きではないようで,幼児語(てて:父)や俗語(ぜぜ:銭)以外にはあまり多くありません。「膳所(ぜぜ)」という地名はありますけどね。
地名ではありませんが,「法の下の平等」の母音は o だけです。旧仮名遣いだと「はふ(ほふ)のもとのびやうどう」なのですけど。
 
[74907] 2010年 4月 13日(火)10:27:02Issie さん
岡山県の長野知事
昔,長野県民だった頃,初めて岡山へ行って「長野知事」と書いてある横断幕を見たときにどこの知事のことかとても混乱したことを思い出しました。ちなみに当時の長野県知事は「ゴローちゃん」。

[74897] 白桃 さん
○なんとなくいそう・・・福島、千葉、金沢、福井、長野、岡山、広島、佐賀

民謡歌手に「金沢明子」さんという人がいましたね。いや,今でもいますが,露出は大変に減ってしまいました。

○全く思いつかない・・・札幌、青森、盛岡、仙台、前橋、さいたま、新潟、富山、甲府、岐阜、静岡、津、京都、和歌山、
鳥取、松江、徳島、福岡、熊本、大分、鹿児島、那覇

小選挙区制の導入が話題になる少し前から「福岡」さんという政治学者がタレント並みの活動をしていましたけど,この人も最近はおとなしめですね。
京都ならぬ「京唄子」さんならいるんですけど,「京都」はハードルが高いか。

“普通の人”の戸籍上の苗字なら,かなの「さいたま」は無理として「埼玉」も含めて,苗字の出所は多くの場合,郡名か,もう少し小さいレベルの地名ですからないことはないのでしょうけれど(「浦和」もある?),「札幌」「甲府」「岐阜」「静岡」のように近世(戦国末も含む)以降に“創作”された地名だとあまりなさそうですね。
逆に芸能人の芸名なら,「さいた・まんぞう」のようにもっと積極的にあってもいいような気がしますが,意外にいないものです。やはり,“普通の名前らしい芸名”としては何かしっくりこないものがあるのでしょうか。

ところで「那覇」。「小那覇」さんとか「与那覇」さんとか「我那覇」さんとかという形でなら割と沖縄ではポピュラーな姓ですけれど,そういえば素の「那覇」さんというのはあまり聞かないような気もしますね。
[74706] 2010年 4月 4日(日)23:27:43Issie さん
支庁改め…
というわけで新年度に入り,身の回りでも「中央区」だとか「緑区」という文字がチラチラと見え始めました(「南区」は生活圏外なので未見)。

[74515] 紅葉橋律乃介 さん
気象庁の予報区分では、「網走~」はそのままの模様。それはともかく、今日からは「オホーツク地方」と呼ぶべきか…。

3月30日付の 官報号外 に北海道の組織再編に関連した気象予報区分の名称変更に関する気象庁告示(「気象庁予報警報規程の一部を改正する告示」平成22年告示第4号)が掲載されています。施行は3月31日(予報区分の名称を「支庁→地方」に改める)および4月1日(担当区域の名称を「支庁→(総合)振興局」に改める)の2段階。3月31日施行分が実際に適用されるのは13時発表分からなので,天気予報の方が北海道の組織よりも11時間早く「支庁」から切り替わったことになります。
なお,「オホーツク総合振興局」管内については,天気予報では「網走・北見・紋別地方」。「オホーツク」は避けたみたいですね。

ところで,以前に話題に上っていた3月2日付の二次細分区域の調整(合併後の市町村の区域に合わせる)に関しては気象庁告示には上がってきていないようです。各地方気象台で処理してしまったのでしょうか。梅雨入り前には市区町村単位で警報・注意報を発表するということに関しても気象庁告示は出されないかもしれませんね。
ま,これも「平成の大合併」で市町村の区画が恐ろしく大雑把になってしまったおかげ,ではあるのかも。

ともかく,年度切り替えで何かとあわただしく(3月の記憶が全くありません),当HPで3月後半以降の変更に対応するのはもう少し後ということで,ご容赦を。
[74506] 2010年 4月 1日(木)00:24:53Issie さん
「下ノ関市」で全然OK(オッケー)!
[74498] hmt さん
それはさておき、リンク資料の前後のコマを眺めていたら、「下ノ関市」 を発見しました。

なるほど。そういうものがありましたか。
ここまで来れば,「ノ」の有無は全く問題にならないと思います。十分,「誤差の範囲」に収まるのではないかと。

[74499] hmt さん
昔の人はおおらかですから、「ノ」の有無を気にして、注意する人もなく放置された可能性があります。

もう少し前の時代の漢文訓読に基づく表記法であれば,この場合の「ノ」は行の隅に小さく書かれるべきものであって“正規の文字”であるかどうかは甚だ曖昧。漢文の感覚が残っていれば,むしろ「ノ」がない方が“より正式”なのかもしれませんが,それほど気にすることではなかったような気がします。“かな”の形だって,ようやく学校教育の現場で統一されたばかりの時代で,日本語の「正書法」はまだ確立していません。周りを見渡せば“表記の揺れ”など,いくらでもあったであろうし,それを“揺れ”とも思わない時代であったでしょうから。
「ケ」の大小でさえ「正しい」か「正しくない」かを問題にする“潔癖症”的な現代とは感覚が違うと思います。

※そんなわけで日付が変わり,迷惑なことに我が家の住所が3文字分長くなってしまいました。さっそく,本日付で行われる公立学校教員人事を伝える昨日付けの新聞の折込特集では,相模原市の小中学校が「一般市町村」から離れて横浜市や川崎市と同じ扱いになっていました(←政令指定都市になると威張っていながら,横須賀市にはある「市立高校」さえ自前で持たずに,高校教育は県に全面的におんぶ)。もう,人事権が県を離れたということなのでしょうね。
まだ,新しい郵便番号をおぼえていません。
[74475] 2010年 3月 28日(日)10:32:37Issie さん
雨の御堂筋
[74472] 白桃 さん
本町

そう。これも難読地名ですね。
日本書紀の記述に由来する「六合(くに)」は,「そう読むものだ」と知ってしまえばもはや難読でも何でもないのですが,「本町」はそこらじゅうにあって,しかも読み方がまちまちだからとても難しい。自治体名にまで上がって来たものは必ずしも多くないけれど,新しい町で新しい「本町」に出会うたび,何と読むのか考えてしまいます。
東京(江戸)をはじめ,南関東では「ほんちょう」が優勢。…と思いきや,「府中本町(ほんまち)」があります。
大阪は「ほんまち」。これは欧陽菲菲のおかげだけど,やっぱり一瞬考えてしまう。

「上町」というのも難読です。
「上本町」はこの2つの合わせ技で,よそ者にはとても難しい。「うえほんまち」とは,ね。
だから,大坂の地形で登場する「上町台地」も読めません。
スカ(横須賀)では「うわまち」。
水戸では,何と読んだっけ?
[74467] 2010年 3月 28日(日)00:31:58【1】Issie さん
丈治と文治
[74465] 右左府 さん
微妙な例ですが、私の周りでは「武蔵村山」はまず「ムサムラ」と略されてますね。

元からそこに住んでいる地元の人は,たぶんそんな略し方をしないのではないかな。「武蔵小杉」や「下総中山」と同じ理由で。
[74416] で述べたとおり,恐らくそこに住民にとっては「むらやま」がデフォルトの形。初めから「武蔵村山」という長い名前で認知している“よその人”には略したくなるけれど,「むらやま」がデフォルトの人たちには略す必要はないのではないか,と思ったりもします。
それに対して,元々そこにない地名で初めから長い形で与えられた「小田急相模原」の場合は,ほかに手頃な呼び名もなかったせいで「オダサガ」が定着したのかもしれません。もっとも,これが定着したのは割と最近のことであるようです。

伊勢市の旧称「宇治山田」はどうだったんでしょう。

そもそも「宇治」と「山田」は別の町で,“2つの町”を並列して称するから「宇治・山田」となるわけで,わざわざ略すことはなかったのではないでしょうか。「宇治」は「宇治」,「山田」は「山田」。昔の「チェコスロバキア」のようなものです。
町としては内宮門前の「宇治」よりも外宮門前の「山田」の方が大きいから,全体を代表するときは江戸時代以来「山田」の方が主であったようです。「山田奉行」のように。
その意味では「伊勢市」という名前になったのは地元にとっても適切なことであったのかもしれません。

※蛇足
「チェコスロバキア」も長いので昔,日本ではこの国を普通「チェコ」と呼んでいました。「宇治・山田」全体を「山田」で代表するように。
一旦「チェコ・スロバキア」と,間に「・」が入った後,「チェコ」と「スロバキア」に完全に分離したわけだけど,本当はこの「チェコ」という呼び名は間違い。
「チェコスロバキア」Czechoslovakia というのは czech と slovak が一緒になったもので,この2つの要素を o という音で結んだもの。後半の slovak(スロバキア人)は良しとして,前半の要素は czecho ではなく czech。「チェコ(人)」ではなく「チェック(人)」が正しいのですね。でも日本では長い名前のチェコスロバキアの略称として用いられたことから,“接着剤の o ”の必要がなくなっても「チェコ」と呼ぶ習慣なのですね。むしろ,チェコスロバキアであった時代に,専門家の間では「チェック人」とか「チェック語」という言い方が行われていました。
[74466] 2010年 3月 28日(日)00:06:01Issie さん
ありあけのハーバー
[74463] ニジェガロージェッツ さん
ソヴィエツカヤ・ガヴァニの「ガヴァニ」は港湾を意味し

のどで発音する h の音を持たないロシア語では г(g) がしばしば h に対応しますから,“港”を意味する гавань は havan (通常の転字法では gavan' だけど)。デンマーク語の havn (コペンハーゲン=ケーベンハウン Koebenhavn の havn),ドイツ語の Hafen,そして英語の harbor に通じるのでしょうね。
「ハーバー」と言えば,東京ローカルでテレビを見ていた人たちには有名なコマーシャル,「♪ありあけーのぉハ~バー」。横浜を代表するお菓子だそうで,一旦製造元が倒産して消えてしまったことを多くの人が惜しんで復活したものです。

と,無理やり話を横浜に戻して…,
[74459] で言い忘れたのですが,数日前の新聞に掲載されていた記事によると,横浜市では紋章の「ハマ」マークとは別に新しいシンボルマークを検討中なのだとか。
東京都が東京府ではなく東京市から引き継いだ“亀の子”マークの紋章(一部では“安産のお守り”)とは別に“イチョウの葉っぱ”のシンボルマーク(本当は必ずしもイチョウではないのだけど)を制定したのと同じようなものであるようです。今では伝統の亀の子よりももっぱらイチョウを見る機会の方が多い印象があるけど,横浜でもこの動きに賛否があるとか。
「ハマ」のマークを惜しむ声が多いようです(別にハママークを廃止する,という話ではないのですが)。
[74459] 2010年 3月 27日(土)21:10:32【1】Issie さん
わが日の本は島国よ
[74457] 白桃 さん
辞書にも「横浜の略」と書かれており、市民権?を得ているようです。

何しろ市の紋章が「ハマ」ですからね。私は初めのうち“そろばん珠”だと思っていたのですが。
セットで「スカ」(横須賀)はいかが? 「ザキ」というのは残念ながら群馬の 伊勢崎 ではなく,横浜の中の 伊勢佐木町 のことですね。

外国の都市

Vladivostok を「浦塩」と呼んで,割と最近まで気象通報でも使っていましたね。Nikolaevsk na Amure は「尼港」。昔は「ドンバス」(Donbas ← Donetskii kamennougol'nyi bassein =ドネツ炭田),「クズバス」(Kuzbas ← Kuznetskii ugol'nyi bassein =クズネツク炭田)なんていうのが地理の教科書に載っていました。ソ連時代以来のモスクワの映画撮影スタジオを「モスフィルム」 Mosfil'm と呼ぶように,ソ連(ロシア)の人は略称を使うのが好きかも知れません。
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※ロシア語はもともと長い単語が多いせいか,略語が多いですね。地名ではありませんが,地名のパーツとして良く使われた「コムソモール」も Vsesoyuznyi Leninskii Kommunisticheskii Soyuz Molodezhi =全連邦レーニン共産主義青年同盟 の略語,地理の教科書に必ず載っていた「ソフホーズ」「コルホーズ」も,それぞれ sovetskoe khozyaistvo (ソビエト農場),kollektivnoe khozyaistvo(集団農場) の略語です。
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そして,中国や韓国でも漢字2文字の地名を1文字で表して組み合わせて使う,というのはポピュラーな手法ですね。

Los AngelesをLAあるいはロスと言ったりします。また、Kuala Lumpurのように長い名前の場合、クアラってよく耳にします。

でも,「浦塩」は日本限定。「ウラジオ」と言っても,恐らくロシア語では何の意味もなさないでしょう。そもそもロシア語では vladivo-stok と切るのではなくて vladi(支配せよ)-vostok(東方を)と切るのだから。
「ロス」もスペイン語では単なる定冠詞であって,これだけでは意味をなさない。英語で The とだけ言ったって,何のことか,どこのことか…。日本人が勝手に Rosu などと略して呼んでいるだけで,LA(エル・エー) が英語での略称ですよね。
「クアラ」もやっぱり,日本人の勝手な略称なんでしょうか。
[74449] 2010年 3月 26日(金)23:58:36Issie さん
さっさか大阪
[74441] ニジェガロージェッツ さん
大阪には「天六」(天神橋筋六丁目)や「上六」(上本町六丁目),「谷四」(谷町四丁目)など一般に広く使われている略称は多くあります。

昔,NHKの みんなのうた でそんな歌をやってましたね。
何でも略して「さっさか大阪 ええ町や」って。

[74444] JOUTOU さん
ちなみに京成の車内アナウンスでは、八幡に限らず(例えば高砂や船橋といったように)“京成”は省略されてアナウンスしているようです。

昔の京成電車が前面に掲げていた“めくり式”の行先表示板に「上野」とか「千葉」とか「成田」としか書いていなかったように,公式の駅名が「京成○○」という形でも,車内の案内放送も含めて旅客に対する案内は一貫して「京成」は付けないというのが京成の基本的なフォーマットであったように思います。例外が各駅に建てられた駅名表示板の表示だったのですが(車内掲示の停車駅案内もだったかな),10年ほど前にその駅名表示板からも「京成」が省かれた,というのが話題になりました。
唯一の例外は「京成津田沼」。新京成の「新津田沼」との混同を防ぐためか,この駅だけ「京成」を省かないままになっています。ただし,行先表示板をはじめとした京成側のアナウンスは昔から「津田沼」でした。もちろん,新京成側は「京成津田沼行」と表示しています。
[74440] 2010年 3月 25日(木)23:51:22Issie さん
はちまん様鳥居前
[74435] JOUTOU さん
「しもきた」といっても

前に書いたことがあるかもしれませんが,父方の祖母の家がここの南口商店街であるお店をやっていたので,子どもの頃はよく行ったものです。あの頃は今ほどはケバくなく,まあ,普通の商店街でした。お兄さんたちの間では“アングラ文化”が花開きつつあったようですが,子どもには関係ありませんから。
そして「しもきた」なんて言っている大人はいませんでした。元の(住居表示以前の)地名が「北沢」ですから,「きたざわ」という呼称はよく使われていましたけどね(うちの“お店”も「きたざわ」にお目出度い漢字を当てて名前にしていました)。もっとも,伯母などは私が大学生の頃でも渋谷に行くのに「帝都線」なんて呼んでいました。

某知事の意向

たとえ「知事の意向」が働いたとしても,それは最近の“作家二代”ではないですね。だって間に合わないもの。
淀橋浄水場跡地(都庁前)で分岐することは,都庁がここにやってくることが決まった,あるいは少なくともそれが具体化した頃には決まっていたのではないでしょうか。あのあたりの都市計画はそれら全部を織り込み済みの上で(少しずつ手直ししながら)行われているはずです。今はどこへ消えてしまったか,上越(あるいは東北)新幹線の新宿ターミナル用のスペースとともに。
確か当初は,放射部(光が丘方面)からの列車を環状部との接点(「新宿」)で外回り(東新宿方面)と内回り(代々木方面)に振り分ける計画ではなかったかと記憶しています。とするなら,国電の新宿駅のそばに分岐駅を設けるのは無理で,一歩下がった「都庁前」で左右に線路を振り分ける現在の形が最も合理的です。
今の作家知事が大声を上げたのは,同じところをグルグル回るわけでもないのに(当初案でも,光が丘から来て都心をグルッと一周し,また光が丘に帰ってしまう)「環状線」を名乗るなんてとんでもない,ということだったかと。

[74437] 桜通り十文字 さん
おそらく、近所にある京成八幡の影響が強いと思われます。

京成の駅なんて関係なく,地元住民にとってあそこの地名は「やわた」だから「やわた」なのです。
先に開通した総武線(総武鉄道)は両隣の 市川 と 中山 に駅を作ったけど,八幡 は素通りしちゃいました。先に「八幡駅」を作ったのは京成です。後から総武線が 八幡 にも駅を作る段になって,すでにあるよその「八幡駅」と区別するために,わざわざ「本八幡」なんて駅名を作りだしました。別に「下総八幡」でも良かったんだけどね。
ちなみに,同じ千葉県の市原郡にある 八幡 に駅を作る時,こちらは「上総八幡」とせずに「八幡宿」としています。
ところで,京成の「八幡駅」は初め,現在の位置ではなく少し船橋寄りの葛飾八幡宮前(現市川市役所の近く)にありました。現在の京成八幡駅の位置にあったのは「新八幡駅」。さすがに余りにも近過ぎるので,戦時中に統合されて 新八幡駅 が「京成八幡駅」となりました。現在,京成は「八幡駅」として一般には案内していますが,公式には現在でも「京成八幡駅」なのだそうです。「京成」を落として案内するのは,京成電鉄の企業戦略の一環なのでしょうね。

で,なぜここが「やわた」かと言えば,ここに 葛飾八幡宮(かつしか・はちまんぐう) があるからです。

※30年くらい前の京成電車はワンマンバスのようにテープで駅名の案内放送をしていたけど(その都度,車掌がスイッチを操作するので“自動放送”では全くない),駅名表示とは関係なく,「次は“やわた”です」という案内放送をしていました(この後に宣伝広告が入る)。
[74432] 2010年 3月 24日(水)23:38:16Issie さん
やぶしらず
[74430] oki さん
わが家では日常的に「もとはち」と呼んでいますが、首都圏全体で知名度があるかどうかはいささか疑問。

漢字から入ったんでしょうかねえ。
実はこの駅,私が3年間通った高校の最寄り駅で,2年間はこの駅で下車していたのですが(3年の時は隣駅の近くに引っ越したので自転車で通学した),僕らは「やわた」と呼ぶことはあっても,「もとはち」とは…。「やわた」という地名から「はち」という読み方は連想されないし。
[74401] (みかちゅう さん)で私も同じ駅を連想したのですが,でも私たちはそう呼んだことはないよ,というお話。30年前のことですが。

[74416] で述べたとおり,「下総中山」も変な略し方はせずに「なかやま」。きっと,近くへ“動物”を見に来る人にとっても(60~70年代には「にしふな」が,80年代以降は「ほーでん」が玄関口ですが)「中山」なんじゃないですかね。
「原木中山」は略したくなるほどメジャーな地名ではないし,長い駅名の宝庫の京葉線は開通していないどころか,陸とも海ともつかない状態だったりしますから…。
[74422] 2010年 3月 24日(水)01:29:44【1】Issie さん
略称
[74419] ヌオ さん
のくち

ああ,これは聞いたことがある(実は「むさこ」なんて,川崎でも城南でも多摩でも全く聞いたことがない)。
もう20年ほど前ですが,職場が田園都市線沿線にあった頃は「にこたま」「たまプラ」なんてのもよく使っていました。

ところで

[74416]
「東習志野」を「とーなら」と呼んでいました

相模原市南区(予定)の「東林間」。
同じ市内でも私は生活圏が全く違うので住民が略して呼んでいるのかどうか知らないのですが,堂々と「とうりん」と略して呼んでいる団体がありました。それは,相模原市自身。
行政上,相模大野駅の南側,小田急小田原線と江ノ島線にはさまれた区域の大部分を「東林地区」と呼び,市の東林出張所・公民館や市立東林小学校があります。
でも,民間のマンションなんかはもっぱら「東林間(ひがしりんかん)」を称する方が主流であるようです。
なお,住居表示による町名は省略しない「東林間(ひがしりんかん)」です。
[74416] 2010年 3月 23日(火)23:15:18Issie さん
「中山」と言えば?
[74415] JOUTOU さん
何せ都営地下鉄の駅名に「新宿西口」ってのがあるくらいですから。(さすがの私も他に適当な名称は無かったんかなぁとは思ってますけど)

まあ,なかったんでしょう。「東新宿」はもう少し工夫できたのでは,と思いますが,「西口」は私も思いつきません。「大ガード」って言ってもねえ。

[74400] かぱぷう さん
私はこの表記に違和感を感じます

「首都圏に住んでいる」からなのか,正直,どのような「違和感」か,ということ自体がわかりません。ごめんなさい。
無理して解釈する必要もないのですが,「西口」も「東口」もどちらも「駅前」に変りはありませんから,「新宿(駅)西口」(←駅を省略する)の「駅前」で「新宿西口・駅前」でさほどおかしくは感じないのですけれど。別に「新宿西口駅・前」という意味ではなかろうと。
「駅前」と「駅裏」がはっきりしている場合とは違って,どちら側も等しく「駅前」であるなら,こういう言い方も「あり」とは思います。もちろん,「新宿駅西口前店」でも全然変ではないですよ。

むさこ(武蔵小杉)

私は「こすぎ」かな。
もともとそこに住んでいる人にとってみれば「小杉」以外の何物でもないわけで,そこに「武蔵」その他の冠称を添えるのはあくまでも同名回避のための措置ですから,地元の人には関係ない。「こがねい」と聞いて,多摩の人が中央線の「武蔵小金井」を連想し,栃木の人が東北線の「小金井」を連想するのは,それぞれに至極当然なことでしょう。私はどちらにもなじみがないので,多摩の方は「武蔵小金井」とフルに言います。栃木の方は「下野小金井」(または「野州小金井」)…,とは言わないな。
わたしにとって「中山」とは,現住所に近い横浜線の「中山」(横浜市緑区)ではなく,子どもの頃の住所に近い総武線の「下総中山」(市川市・船橋市)のことです。

にしふな

私が習志野市民だった頃,市内の「東習志野」を「とーなら」と呼んでいました。だって,「ひがしならしの」って長いんだもん。船橋市の「北習志野」は…,関係ないので略しません。
「西船橋」は40年前から「にしふな」と呼んでいたけど,昔はなかった「東船橋」はどうなのかしら。

ところで「ブクロ」(池袋)は,「にしふな」のような“今出来”の呼び名とはちょっと位置づけが違うような。「ハマ」(横浜)とか「ノガミ」(上野)とか,“夜のお仕事”系の“その筋”の隠語,のようなものの系譜に連なるもののようにも感じます。
[74396] 2010年 3月 21日(日)22:44:52【1】Issie さん
武蔵小杉第二駅
[74395] じゃごたろ さん
黄砂

浅間山の火山灰が話題になっても黄砂が話題になることはあまりない南関東でも,今日は黄砂で景色が霞んでいました。浅間山の噴火よりも,黄砂が飛来する機会の方がずっと多いのですけどね,例年,西日本ほどひどくないから話題にならないのでしょう。
それでも太陽が直に見られるほどに霞みはしませんでしたけれど。

その黄砂降る中,先週開業した品鶴線(横須賀線・湘南新宿ライン)の武蔵小杉駅に行ってみました。一言,遠い!!!!!
東急東横線から南武線のホームを経由して横須賀線ホームに行ったのですが,実に遠い。いくら連絡通路を歩いても到達しません。新幹線をくぐってようやく品鶴線のガード下に到達してもまだ通路は続き…,つまり南武線との交点にホームがあるのではなく,さらに新川崎方向に行ったところにあるのですね。
これって,昔の横浜線・原町田駅と小田急・新原町田駅との乗り換えよりも遠いように思います(今の町田駅ではない)。
公式には「乗り換えに8分を要する」という案内があるようなのですが,これでよく「同じ駅」だと強弁できるものだ。もっとも,JRには既に「京葉線東京駅」という悪しき先例があります。
ラッチ(改札)内でつながっているから運賃計算上は利用者に都合がよいのだけど,やっぱり「別の駅」だよなぁ…。
[74373] 2010年 3月 18日(木)09:57:12Issie さん
サノヨイヨイ
[74372] MasAka さん
青函トンネル

青函トンネルは何回か通過したことがあるのだけど(もちろん列車で),夜行列車(「はまなす」)の場合はもちろん,昼間の列車でも眠ってしまうんですよね。だから,あんまり記憶がない。
少し前に話題になった宇高航路は国鉄の連絡船も国道フェリーも何度か利用したことがあるけれど,青函連絡船は間に合いませんでした。返す返すも残念。

昔の鉱山とかでもっと深いのがありそうな気もするので、実際どんなもんなんでしょう

炭鉱(炭坑)などでは深さ500メートル超というのも結構あるようですね。
たとえば ここ に紹介されている福岡の志免(しめ)炭鉱は最深600メートルだそうです。
三池炭鉱でも最も深いところは500メートルを超えるようですね。有明海の下。かつて三池闘争をテーマにした「地底(じぞこ)の歌」という合唱組曲が(どちらかというと共産党の影響の強いところで)よく歌われていましたが,「海底」の方が正しいかもしれません。
ともかく,海面高度を「0メートル」とするのか,坑口の標高を基準とするのかわかりませんが,志免にしても三池にしても低地であることには変わりありませんから,やはり海抜-500メートルは超えているのでしょう。
どちらも,もはや現役ではないし,今そこまで到達でできるのかわからないのですが。
[74370] 2010年 3月 17日(水)21:18:12Issie さん
RE~2:浜名湖境界確定?
[74367] 小松原ラガー さん
なぜか神戸新聞にこんな記事が出ていたのですが

------------------
官報で告示された
------------------
(当該記事より引用)

問題の官報自体(昨日付け号外)と総務省告示(平成22年第82号)がこちらのページに掲載されています(目次までは html ファイル,紙面は pdf ファイル)。
昨年度までは1週間で“流れて”しまっていたのですが,昨年4月から1ヵ月間閲覧できるようになりました。
[74355] 2010年 3月 14日(日)23:24:42【1】Issie さん
Re:樺太の市町村
[74318] namo さん
いわゆる終戦から沖縄返還までの間の、沖縄県、鹿児島県奄美地方、樺太などにあった市について、詳しく記録してほしい。

私のHPですが,以前にこんなページを作ったことがあります。
 ・樺太市町村変遷表

[74352] 紅葉橋律乃介 さん
どこを起点にするかは議論がありそうですが

“行政区画”としての郡町村は,「樺太町村制」の施行(1929((昭和4)年7月1日)より前,「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」(大正4年勅令第101号)が施行された1915(大正4)年8月1日までさかのぼれそうです。

沖縄と奄美の市については,このページ の下の方(鹿児島県,沖縄県)に米軍統治期も含めてまとめてあります。
ただし,[74330] で グリグリ さんが紹介されているアーカイブ記事の中の議論でも申し述べたように,占領最初期に避難民収容所内の自治組織として編成された 漢那市・福山市・惣慶市 等については,「通常(平時)の自治体」ではないと判断して,その対象には含めていません。その中で「石川市」だけは,通常の自治体に移行してそのまま存続した特別な例です。

ついでに,このページ の一番下に 樺太・豊原市 も一応載っけてあります。

ご参考までに。
[74338] 2010年 3月 14日(日)03:44:58【2】Issie さん
レコード屋が区役所に?
[74337] 右左府 さん
旧役場の機能廃止や解体のニュースがあちこちで聞かれるようになりましたね。

[67595][74309] で触れたとおり,これはかつて相模原市が通って来た道です。
相模原市(町)の場合は,1941年の合併から市役所に行政機構のほとんどが集約された1956年まで15年。これでようやく,旧町村役場がそのまま「支所」に衣替えして旧町村内の行政事務のほとんどを担当していた「連邦国家」状態から「単一国家」状態への移行が完了したわけです。恐らくは合併した自治体の多くがやがては通る道なのでしょう。
でなければ,何のために合併したのか,わからない。

その相模原市は,間もなく政令指定都市に移行してしまって,今度は逆に部分的な分権化の方向に進みます。「区制」が実施されて,区役所が設置される。
うち,中央区役所は市役所本庁に同居。南区役所は,かなり以前に独立の庁舎が建てられた大野南出張所を利用することになっています(ちなみに,旧大野村の役場があった位置にはこの建物を建て替えて大野中出張所が設けられています)。
緑区役所は,昔の国鉄工場跡地の再開発区域内に設けられることになっていますが,まだ完成していない(そもそも建てられていない)ので,当分の間は暫定的に現在の橋本出張所を区役所とすることになっています。
橋本出張所の直接の前身は合併前の旧相原村役場。1941年の合併以来,大山街道(国道16号線旧道)沿いの橋本旧集落(宿場跡)にあった旧村役場の建物がそのまま 支所→分室→出張所 として利用されてきました。上述の通り,役場機能の多くが市役所本庁に引き上げられた後も。木造建物が老朽化して鉄筋コンクリートの建物に変ってもそのまま。
それが大きく変わったのは,橋本駅前の再開発第1弾として建てられた再開発ビルの上階に出張所が移転したこと(下の方の階はビブレ…,だったのがいつの間にかサティに)。移転後,村役場以来の位置に建っていた出張所の建物は解体されてしまいました。

で,先日,所用があってその橋本出張所に行ってびっくり。
以前の記憶では,出張所はサティの建物の6階(シティプラザはしもと)と思っていたのに,行ってみたら5階になっている。ここは確か,本屋と飲食店とゲームセンターが入居している階のはずなのだが,以前レコード屋とゲームセンターであった区画が出張所になっていたのですね。市のHP によると,今年の正月明けに5階に下りてきたらしい。
この日は急いでいたので6階の様子を見てこなかったのですが,もしかしたらそのまま飲み屋の隣が区役所,ということになるのか。それとも,6階を“区役所らしく”するための改装でもやっていて,それで出張所が下りて来たのか。
まあ,後者だとは思うのですが。

そんなわけで,あと半月で相模原市は政令指定都市になってしまうのでした。

※追加
そう言えば,相模原市に合併された津久井町に合併された青根村の役場の建物は今でも現役だったと思いますよ。4月からは緑区津久井総合事務所青根出張所。津久井地域の旧役場は割と生存率が高そうですが,旧市域の旧役場(相原・大沢・田名・上溝・麻溝・新磯・大野)は“世代交代”していて建物自体は全滅です。相原と新磯を除いてほぼ同じ位置に建つ出張所は,4月から「まちづくりセンター」。
[74309] 2010年 3月 9日(火)22:48:32Issie さん
「相模市」だったかもしれない
最近,某ネット百科への投稿のために『相模原市史』を改めて読んでいます。ちょっと面白い記述があったので,少し長いのですが引用しますね。

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話がはずむにつれて,はや合併新都市の名称問題に及び,次のような話合いもあった。
 久保田新磯村長 甚だ畏いことだが「相武台」というご名称は,一般に用いてよろしいか。
 井田少佐(士官学校) 「相武台」の名称は士官学校に賜ったので,他に使うことは許されない。
 岩本同盟会長 「相武」だけなら差支えないか。
 野坂課長 「相武」なら「相武○○会社」というのもあることだし,いいのではないか。
 中島麻溝村助役 相模原が一躍市に変るのだから「相模市」はどうか。
 井上相原村長 私は当たりさわりのない「相模原市」が一番よいと思う。
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『相模原市史』第四巻 p.611

いろいろ突っ込みどころ満載のやりとりですが,これは「軍都計画」に関連して高座郡北部の町村の大合併が話題に上るようになった 1939年5月12日 に東京日日新聞社主催で開かれた「相模原軍都建設座談会」の記録です。出席したのは,この頃に相模原に相次いで進出した士官学校その他の陸軍関係者,県の地方行政および都市計画の担当者(軍都建設のための区画整理事業は神奈川県が主体となって進められました),合併対象となる町村幹部,その他地元有力者など22名。文中に登場する 新磯村・麻溝村・相原村 は後に「相模原町」(現相模原市)に合流する合併対象の村。「野坂課長」というのは,県の都市計画課長。「岩本同盟会長」というのは,地元側の建設推進団体である 相模原開発同盟会長 の 岩本信行 ですが,彼は地元の高座郡選出の県会議員で,当時は県会議長を務めていました(後で述べるように,後に国会議員になります)。

この後,合併は現実の問題として具体化し,1941年4月29日(天長節)の「高座郡相模原町」発足に結実するわけですが,大きな壁が2つありました。
1つは,合併の枠組みの問題。当初合併協議に加わっていたのは高座郡北部の 上溝・座間 の2町および 相原・大沢・田名・麻溝・新磯・大野・大和 の7村。しかし,「軍都」区域からはずれる 座間町 と 大和村 は合併に消極的で,結局 大和村 は合併から離脱してしまいました(大和村は1943年に単独で「町」となり,1956年に 渋谷村(元の 渋谷町 の北半分) とが合併して,1959年に 大和市 となりました)。
もう1つが,合併後の自治体名。実は上のやり取り以来,関係町村の間で人気があったのは「相模市(町)」というものであったようです。合併の最終段階になってもこの問題はくすぶっていて,田名村や上溝町,座間町は「相模原町」への不満を表明し,「相模町」への支持が強かったようなのです。特に座間町が「相模町」に強く固執していたらしい(単に合併したくない口実だったかもしれません)。
ちなみに,上のやりとりで「相武台市」を提案した新磯村。現在の相模原市の南端に位置していて,もともと旧集落がお互いに連続しているように 座間 との結びつきの強い村でした(明治の大合併の際にも「座間村」への合併が構想されていたのですが,“諸般の事情”で「新磯村」として座間村から独立しました)。実は,1938年の士官学校移転を受けて,当時の座間村からともにその敷地を抱え込むことになる新磯村へ合併の呼びかけがありました。しかし,“座間への吸収”を嫌ったのか,初めのうち新磯村の反応は鈍く,かなり遅れて「相武台町」という名前にするならいいよ,と座間村へ返事をしました。けれども既に座間村は単独で「町」になっていて,合併の話は立ち消えとなりました。その「相武台」を,新磯村はまた持ち出していたのですね。もっとも,陸軍の士官学校関係者に“瞬殺”されてしまいましたが。
というように,不満は多くあったわけですが,「県に一任」したとのことで,結果として「相模原町」という名前になりました。
この過程で活躍した人の一人が県会議長で大物議員であった先述の 岩本信行。彼は1946年,戦後第1回の総選挙(大選挙区制)で衆議院議員に転身し,自由党(民主自由党)の議員として1947年の衆議院議員選挙法改正(中選挙区制復活)に活躍し,第2次吉田内閣で国務大臣を務めました。担当は「地方財政委員会委員長」。解体された内務省の流れをくむ行政委員会で,後に 自治庁→自治省→総務省 と続くことになる官庁の長官です。つまり彼は「県会出身者」でありながら(あったからこそ),「地方行政のエキスパート」として遇され,活動したのですね。その基礎になったのは,一貫して取り組んできた「新都市・相模原の建設」によるものなのでしょう。

合併の枠組みの問題,新自治体名の問題,[67595] で触れた合併後の役場(庁舎)の統合の問題,等々…。こうして見てみると,今回の「平成の大合併」で問題となった諸々の事柄はみんな,既に相模原の合併の過程で現れてきているように思います。さらに,北海道の都市と同様に「何もない」土地に全くの新都市を建設した,という点でも先駆的(何度も主張しているように,相模原市は「上溝町が大きくなった都市」ではありません。相模原市と上溝町は全く別の存在です)。
10年後の「昭和の大合併」に先立つ“画期的”な体験だったのだろうと思います。70年前のことだし,70万市民のほとんどは(私も含めて)“よそ者”ですから,みんな忘れちゃっているかもしれませんが。

さて,「相模原」という地名については以前に hmt さんが詳しく解説されています([67608])。付け加えるならば,初出がいつかはあいかわらず不詳なのですが,頻繁に用いられるようになるのは大正から昭和初期にかけてであるようです。はじめは相模野台地(相模原台地)上の開墾に関わる「相模原開田計画」などという形で(前述の 岩本信行 の“同盟”は初め,「相模原開田開発期成同盟会」というものでした)。その後,ここに移転してきた陸軍施設が「相模原」の呼称を使い始め,「軍都計画」につながる。
先のやり取りで 相原村(現在は,予定される「緑区」のうちの橋本地区と,「中央区」の小山・清新地区)の村長が「当たりさわりのない『相模原市』」と発言していますが,何が「当たりさわりのない」のかよくわかりません。
実際はこの時のやり取りやその後の展開にあるように,初めから「相模原市(町)」が約束されていたわけではない。むしろ,「相模市(町)」となっていた可能性の方が大きかたかもしれない。
それを見越したのかどうか,当時,現在の相模線を営業していた相模鉄道は,軍都計画区域の西の玄関とされた 大河原駅 を「相模町」と改称しています。1944年に国有化されたときに現在の「南橋本」にさらに改称してしまいましたが。
この計画に基づいて,駅の東側には駅前広場と,相模原駅前や田園調布駅前のような放射状の街路網が部分的に整備されています。しかし,敗戦による軍都建設の挫折で区画整理の完了後も長く畑地のまま放置され,幕末以来の新田集落に近い西側にのみ駅舎が設けられていました。その上,東側にはあろうことかセメント会社の荷扱い施設が設けられ,「相模原の西の玄関」となることもなく60年が過ぎました。セメント会社が撤退し,橋上駅舎化された2006年,ようやく「東口広場」が60余年めにして初めて“駅前広場”として機能するようになったのですが,そんなことではなく,…

もしかしたら,「相模市」だったかもしれない。
このような地名を,ある評論家(研究家?)は「僭称地名」と呼ぶらしい。「何様」のつもりで?

[74290] あっちゃん さん
そこに住んでいる人はホントにこんな地名で恥ずかしくないのか?

私自身もここで何度か表明しているように,「???」と思う新地名がないわけではありません。むしろ多いくらい。
でも,そのような名前になるにあたっては,いろいろな曲折があったのだろうと思います。できたら,その辺りに思いをはせていただけたらいいな,なんて思ったりもします。「昔」と違って,学生さんなのだから。

※ちなみに「さいたま市」。私的には「全然オッケー」です。
[74253] 2010年 3月 4日(木)00:06:00Issie さん
[74252] 小松原ラガー さん
町B、県C

隣の自治体との境にまたがって,スケート選手で有名な遊園地がありましょうか。
なぜか最近,県Cの県庁所在地の中心を系列のバスが走っています。
[74247] 2010年 3月 2日(火)23:03:39【2】Issie さん
日本海中部地震
ずっと以前,「湖南市」が話題に上った頃にも書いた記憶があるのですが,
「コナン」というと私が連想するのは「名探偵…」ではなくて1978年にNHKが放送した「未来少年…」の方です(「名探偵…」は視たことがない)。あ,シュワルツェネッガーの映画も,あったっけ。
それはともかく,この「未来少年…」の後半,“転”から“結”への節目に当たるところで大津波のエピソードがありました。
2008年7月(←もう過ぎている…)の戦争で使用された“超磁力兵器”によって「世界の半分が一瞬にして消滅」させられ,大地殻変動に襲われた地球の「地軸はねじ曲がり,五つの大陸はことごとく海に沈んでしまっ」てから20年,地球は青くよみがえったけれども,まだ地殻変動は繰り返されていて,物語の冒頭は“絶海の孤島”であった島が物語の終わりには“大陸の一部”になったりしています(←この間,恐らくはわずか1年足らず。通常の地球活動では起こりえないことですが,ま,お話ですから)。
で,大津波。はるかかなたで起きた地殻変動による津波が主人公たちが暮らしている島を襲う,という場面です。舞台となっている島では地震は発生しておらず,突然津波が襲う,というのは「チリ地震津波」と全く同じタイプのものと言えるでしょう。全く情報がない,という点では,今回の「平成度」よりも1960年の「昭和度」の方により近いかも。
いつの間にか潮がずっと沖まで退いていて,気がつくと沖から立ち上がった波の壁が押し寄せてくる。波が島を洗い,干上がった湾に(爆破されて)沈没していた大型船が波に乗って島を取り巻く丘の中腹まで打ち上げられる。5mか10mくらいの大津波でしょうか。
描かれる津波は,この「第一波」のみ。この後つづいて「第二波」「第三波」…があったのかどうかは語られないのですが,ストーリー展開からすると「第一波」だけで終わったのでしょう。
(実は,物語の中ではもう1つ別の津波が登場します。そしてこの2つの大津波は主要登場人物の1人の心理描写の上で極めて重要な働きをしています。)

ここに登場する津波の描写,何か私たちが一般的に持っている津波のイメージがそのまま投影されているように思います。
ところが,1960年のチリ地震津波,そして1964年の新潟地震による津波以後,1983年の日本海中部地震で津波が発生して犠牲者が出るまで,“現実の津波”を目にすることは多くの日本人にはなかったのではないか。少なくとも私自身は日本海中部地震で初めて“本物の津波”の話題を耳にしました(ただ,当時の私はテレビのない環境にいたので,これを映像で見ることはありませんでした)。そのような中で醸成されていった私たちの“津波のイメージ”が現実のものとは離れてしまったのではないか,という気がしています。
というのも,今回の「チリ地震津波」,そして2004年のインド洋大津波の映像を見て,津波に対するイメージを大幅に改めなければならないのではないか,と感じているからです。
今回,「未来少年コナン」に描かれたような“波の壁”が押し寄せるような場面はなかったようです。いや,震源に近く高い津波が押し寄せたチリではそのような場面があったかもしれませんが。少なくとも画面に見えたのは高い波の壁ではなく,ジワジワと海面が上がって,やがって岸壁を乗り越えて街に流れ込む,というもの。ザッバーン!と一発で打ち砕けるものではなく,“長い周期”で何度も何度も押し寄せる。
今朝(2日)の朝日新聞の「天声人語」が,昭和のチリ地震津波を題材にした吉村昭の『海の壁』から,津波を目撃した漁師の「海が膨れ上がって,のっこ,のっことやって来た」という言葉を引用しています。「のっこ,のっこ」…,じっくり考えると怖い表現だなあ,と思いました。

[74243] hmt さん
なぜ「日本海中部地震」なのでしょうね?

お茶の水女子大学のサイトに掲載されている紀要「お茶の水地理」(そういえば,ここも地理学の研究では定評のあるところでした…)に 「地震の命名」という記事 (pdfファイル)がありました(諏訪彰,第26号,1985年)。こんなことが書いてあります。

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地震名は,震源地ないしは震災地の名にちなんで付けられるのが常であるが,その命名は当事者達の頭を悩ますことが多い.地震名が災害復旧費の獲得などに影響しがちだからである.「北美濃地震」と命名されたのは,震央が岐阜県北西端部で,当初は同県だけの被害が東京へ速報されたためであった.しかし,後日,福井・石川両県でも,同等以上の被害を生じたことが判明し,両県から大いに恨まれたのである.一昨年5月26日の「昭和58年(1983年)日本海中部地震」は,震源地からみて,「秋田県沖地震」などの方が妥当ではないかとの批判が強かった.しかし,北海道-島根県の日本海岸全域に津波予報が出され,地震や浄波の害は8道府県と韓国におよんだので,上記の公式名称もうなずけよう.
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[74244] 右左府 さん
地元では「青森県側への配慮」という話をよく聞きます。青森県にも被害があったのに「秋田県沖地震」では、秋田県だけ被害があったような印象を受けるから……

と同じような趣旨ですね。
[74231] 2010年 2月 28日(日)13:25:46Issie さん
Re:大津波警報
今,南鳥島で10センチの津波を観測した,という第一報が流れています。

神奈川県内ではJR東海道線・伊東線の藤沢-伊東間,横須賀線の逗子-久里浜間,根岸線の桜木町-大船間,そして南武線浜川崎支線と鶴見線の全線が運転を見合わせています。
正直,「鶴見線」というテロップを見て驚いてしまったのですが,確かに「海に一番近い駅」,ホーム下の海面との高さの差もあまりなかったような。
でも,京急は動いているような(もっとも,海に近いところは高台を走っています)。

「平成のチリ地震津波」となるのでしょうか。
前回,1960年の「昭和のチリ地震津波」のときは不意打ちに近い状態だったようだけど,事前にある程度の情報が流されている今回,被害が少なくて済むとよいのですが。
日本近海で発生した地震による津波と違って,昔マゼラン一行が航海したように太平洋を「斜めに“横断”」して1昼夜かけて到達する津波は,実に半世紀ぶり。JRの運転見合わせ措置には「?」という気もしないではないのですが,実際どのような状況になるのかわからないところもあるのでしかたないこともあるのでしょう。
ちょうどチリ沖から何も遮るものがないまま動いてきた太平洋の水が全部集まる位置に日本列島があるのだから,途中の島々で波の高さが低くても安心はできないわけで。

[74229] ペーロケ さん
何故か岡山県のみ津波警報。鳴門海峡から押し寄せてくることは容易に想像つきますが、じゃあ山口県南岸も豊後水道から来そうな気がします

両方から入ってきた水(表層だけの波ではありません。台風の高潮とは本質的に違います)が集まってくる,ということが想定されているのではないかと思います。そこがちょうど岡山県沿岸なのかしら?
[74224] 2010年 2月 27日(土)10:18:59【2】Issie さん
ルテニア:蛇足
[74220] YT さん
ルテニア (「ロシア」のラテン語名

ちなみに「現代ラテン語」では現代のロシアを Russia と呼ぶようです。そして,「Ruthenia ともいう」。
「ルテニア」をロシアの意味で用いる場合は,私たちの言葉の「をろしや」に近い呼び名になるのかもしれません。

※でも,元素名は「現代ラテン語」である必要はありませんから,「化石」でも十分。実際,そんな地名のオンパレードだし。
[74221] 2010年 2月 27日(土)00:42:20【1】Issie さん
ルシン人
[74220] YT さん
ルテニアといえば、自分の中ではロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語と並ぶ、東スラヴ語の系統に属する第4の言語(方言)としてルテニア語がウクライナ西部の国境地域で話されているという認識でした。

「ルシン人」と呼ばれる人々がいます。彼らの言葉では Русины(ルシーヌィ),ウクライナ語では Русини(ルスィーヌィ)。ガリツィアをはじめとするハプスブルク帝国支配下の地域で東スラブ語を話す人々のうちでロシアおよびウクライナとは違うアイデンティティを持つ人々が自称したことに始まります。
さらに彼らの多くは,正教徒でありながらポーランドの支配下でローマ教皇の指導を受け入れカトリック教会との合同を宣言した「合同派」(ユニエート教会,東方典礼カトリック教会)を支持しました。この点でも正教会にとどまっているウクライナ人と違うアイデンティティを主張しています。
ハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー)の中では自国領内に住む彼らをロシア人ないしはウクライナ人とは別のグループである,という捉え方も広く支持されていたようです。で,実は「ルテニア人」とは,ハプスブルク帝国内でこの「ルシン人」をラテン語風に呼ぶ呼び方でもありました。だから少し古めの資料ではこの地域の少数民族について「ルテニア人」と呼んでいるものも少なからず存在します。そもそもラテン語形の Ruthenia の直接の原形は「ルシン」である,という説明も見られます(ルシン Русины の語源はもちろん「ルーシ」Русь です)。

第2次大戦後,東ヨーロッパが社会主義化しソ連圏に組み込まれる中で,この「ルシン人」に対する扱いは各国で微妙に違ったようです。少なくとも,旧ハプスブルク帝国領の「ルテニア」を併合したソ連(ウクライナ)としては「ルシン人」の独自性は認めたくない。実際,ルシン語とウクライナ語の間の差は“方言としての差”に過ぎないとも言われます。どれくらいの差異なのかはわかりません。が,そもそもロシア語とウクライナ語の差異も,お互いに自分の言葉で話しても相手の言葉に「ひどく訛りがある」と感じるだけで意思疎通は可能と言われていますから,「琉球語」と「日本語」の差よりは小さいのかもしれません。関東方言と関西方言ほどの違いか?… まして,ウクライナ語とルシン語の違いならば…。
この「ルシン人」と「ルシン語」の“独立”を認めたのが当時のユーゴスラビア。チトーとスターリンの対立から“ソ連グループ”を追い出された結果でしょうか。現在でもセルビア北部のボイボディナ自治州の公用語の1つだそうです。ちなみにボイボディナの人口の過半数はセルビア人で“少数民族”の最大多数派がマジャール人。その他,多様な民族が混在するために,チトーのユーゴスラビア時代から「自治州」とされ,セルビア語・ハンガリー語・スロバキア語・ルーマニア語・ルシン語・クロアチア語がいずれも公用語に指定されているそうな。

だから,「ルシン人」「ルシン語」を独立の民族・言語と認めるならば,YT さんのご認識は必ずしも間違いではないのです。
[74219] 2010年 2月 26日(金)22:24:24【1】Issie さん
ルテニア
[74215] YT さん
44 ルテニウム ruthenium ルテニア (ウクライナの地名)

現在では使われない地名かもしれません。少なくとも,現在のウクライナの公式行政区画には用いられていないようです。

ルテニアとは,現在のウクライナ南西部あたり,広い意味ではウクライナからベラルーシにかけての地域を指す名前です。その範囲は必ずしも明確ではありません。
9世紀後半から10世紀にかけて,スラブ人の東方グループ(東スラブ人)がキエフ(ウクライナ語ではキーイウ)を都とする国家を形成しました。これを彼らは「ルーシ」Русь と自称しました。現在の「ロシア」Россия,Russia の語源ですが,元はスウェーデン人の一派の名前だったと言われています(フィンランド語で「ルス」とはロシアではなくスウェーデンを意味するそうです)。この「ルーシ」のラテン語形が「ルテニア」Ruthenia です。
キエフ・ルーシは12世紀に入ると分裂・衰退し,モンゴルの侵攻により崩壊してしまいました。その結果としてモンゴルの支配下に入った地域の中から成長したのがモスクワ,後のロシア帝国です。そのために,ルーシの中では北東の辺境が「ルーシ(ロシア)」の本家筋を奪う形になりました(「ロシア」はルーシのギリシア語形 Ρωσια を再輸入したものとされています)。モスクワの優位は初めから約束されたものではありません。特に,モスクワの北西方のトベリとの競争は熾烈であったようです。

さて,解体したキエフ・ルーシのうち北西部は13世紀までに“異教徒”であったリトアニアの支配下に入ります。これが現在のベラルーシ(白ロシア)。支配層であるリトアニア人は,しかし文化的には“素朴”な人たちで,国家運営に関しては“征服”されたはずの東スラブ人(ベラルーシ人)の方が優勢で,行政用語は当時のベラルーシ語でした(ちょうど清朝における満洲族と漢民族の関係に似ているかもしれません)。このリトアニア大公国の“公用語”となった中世官庁ベラルーシ語を「ルテニア語」と呼ぶこともあります。この時点では「ロシア語」はまだ確立していませんでした。こののち,モスクワが成長していく過程で「ロシア語」も形成され,19世紀初めの文豪プーシキンによって現代ロシア語が確立することになります。
14世紀末,リトアニア大公国はポーランドと合体します。これ以降,リトアニア,そしてベラルーシはポーランドの強い影響下におかれます。支配階級の公用語はポーランド語となりました。現在のベラルーシ語は同じ“東スラブ語”であるロシア語と文法上は“方言的”な違いしかないけれど,随所に“西スラブ語”のポーランド語の影響が見られるのだそうです。

現在のウクライナも同様にポーランド・リトアニアの支配下に組み込まれました。「ウクライナ」とはこの時の併合地域に対する呼称としても用いられるようになったものであるようです。特に西部はポーランドの強い影響下におかれます。文化面,特に言語と宗教についてのポーランドの影響はとても強いものでした。キエフ・ルーシは10世紀にキリスト教のうちの「正教」を受け入れました。同時にキリル文字と教会スラブ語も。これが現在の「ロシア」の文化の基盤となります。ところが,ポーランドの影響の強かったウクライナ西部ではポーランドと同様にカトリックが優勢となります。
一方,ポーランド・リトアニアから見て南東の辺境に当たるウクライナ東部には17世紀,コサックの首領たちによる自治国家が成立します。次いでこの自治国家をロシアが保護下に置き,やがて上手に併合してしまいました。その結果,ウクライナはドニエプル川(ウクライナ語でドニプロ川)を境にロシアが支配する東部とポーランドの支配する西部に分割されました。東に行くほどロシアと正教の,西に行くほどポーランドとカトリックの影響が強くなります。
そうして見ると,「ルテニア」とはポーランド支配下のウクライナ西部からベラルーシにかけての地域を意味するようになりました。

そのポーランドは18世紀,3次にわたってロシア,プロイセン(ドイツ),オーストリアにより分割され,消滅します。ウクライナ北西部からベラルーシ,リトアニア,そしてポーランド北東部はロシアの,ポーランド南部とウクライナ西部がオーストリアの支配下に入ります。このオーストリア支配下のウクライナ西部(ガリツィア,ウクライナ語でハリチナ)を特に「ルテニア」と呼ぶこともあります。

第1次世界大戦とロシア革命によってロシアとオーストリア・ハンガリーの両帝国が解体されると(ここには関係ないけれどドイツとオスマンの両帝国も),リトアニアが独立し,ベラルーシとウクライナの西部はポーランドの領土となりました。ただし,ウクライナ南西部の一部である下カルパチア(主都はウジゴロド,ウクライナ語でウジホロド)はチェコスロバキア,北プゴビナ(主都はチェルノフツィ,ウクライナ語でチェルニウツィ)はルーマニアの領土。
これらは第2次世界大戦中にソ連に併合されます。戦後,ソ連・ポーランド国境が西へ移動し,ほぼ同じだけポーランド・ドイツ国境も西へ移動したためにポーランドの領土がゴッソリ西へ移動したことはよく知られていますが,ソ連はチェコスロバキアとルーマニアからも領土を奪っているのですね。そしてソ連邦構成共和国の1つである白ロシア(ベラルーシ)とウクライナがそれぞれ西へ領土を拡大しました。
(これに比べればずっと規模の小さい話ですが,リトアニアも南東に領土を拡大しています。現在,リトアニアの首都となっているビリニュスは,それまでポーランド領でした。第2次大戦中にリトアニアとソ連の“協力”で占領,リトアニアに併合したものです。それまでのリトアニアの首都はカウナスでした。ユダヤ人の脱出に協力したことで突然有名になった外交官 杉原千畝 が勤務していたのはここの領事館です。)

ウクライナの東部には大規模な炭田があったこともあってロシア,そしてソ連の支配下で多くのロシア人が流入しました。ブレジネフの民族籍はロシア人ですが,東ウクライナの出身です。一方,ウクライナの西部は60年余り前までポーランドの領土でした。カトリックという点でも“西”とのつながりが強い。
東のロシアへと西のヨーロッパという全く逆方向の引力が働く中でどうやって「統一」と「自己のアイデンティティ」を確立するかがウクライナにとって最大の課題であると言われています。この“東西の断絶”は先日の大統領選挙にも大きく影響したようですね。一応決着がついて,前大統領のユシチェンコ氏は何とか退任したようですが。

で,こうして見た時,「ルテニア」という西の世界からこの地域を呼んだ名前が現代の地理の中で登場する舞台は,もはやなくなっているようです。
[74208] 2010年 2月 23日(火)17:57:23Issie さん
五大市の並び順
[74207] hmt さん
京都市 大阪市 横浜市 神戸市 名古屋市

五大都市の序列は、戦前の公式配列とされた三府五港…順でしょうか。

も,そうなのですが,「市」ということであれば,1889(明治22)年4月1日以降に「市制」(明治21年法律第1号)を施行するにあたって,その対象となる“最初の市”を一挙36市指定した内務省告示(明治22年第1号,1889年2月2日付)の登載順とした方が良いかもしれません。以下,括弧内が登載順位。

 京都市 (2),大阪市 (3),横浜市 (5),神戸市 (6),名古屋市 (12)

じゃあ,何でこの順番に並んでいるの? と言えば,それは結局,上位区画の府県が“三府五港…”の順に並んでいるからです。
この告示において筆頭の位置にあるのはもちろん 東京市。しかし,東京市の市制施行は 5月1日 であり,4月1日,最初に市になったのは 京都市 でした。

参考までに,この告示における市の配列は以下の通り。

 東京市 京都市 大阪市 堺市 横浜市 神戸市 姫路市 長崎市 新潟市 水戸市 津市 名古屋市
 静岡市 仙台市 盛岡市 弘前市 山形市 米沢市 秋田市 福井市 金沢市 富山市 高岡市
 松江市 岡山市 広島市 赤間関市 和歌山市 徳島市 高松市 松山市 高知市 福岡市 久留米市
 熊本市 鹿児島市

この後,3月18日付の 告示第10号 で 佐賀市 が指定され,4月1日に市制施行。東京市は佐賀市にも追い越されてしまいます。

最初に指定されたのが五大都市であることは、初代と変りないのですが、順序が異なっています。名古屋市が二位に躍進。
大阪市 名古屋市 京都市 横浜市 神戸市

これは何の順番なんでしょうね。
[74200] 2010年 2月 22日(月)02:00:32Issie さん
油津のこと:補足
[74167] 千本桜 さん
現在、誰もが油津そのものだと思っている市街(油津駅・山形屋・油津小学校などのエリア)は、かつての吾田村大字平野に形成されたことになります。

飫肥と油津について,もう少しいろいろと眺めていたら,1つ重大な(かもしれない)ことがわかりました。

現在,JRが「日南線」と呼んでいる路線にはかなり複雑な歴史があります。ここでその全体について述べることは避けますが,今話題にしている 油津・飫肥付近 の区間は元は宮崎県が敷設した軌間762ミリの軽便鉄道(宮崎県営鉄道)でした。これを1935年に国有化し,孤立していた路線を油津で志布志から延長した路線につなぎ,志布志線経由で日豊本線に接続したものです。
なお,(南)宮崎側からの路線は1963年に開通し,これで初めて宮崎から飫肥・油津まで他県(志布志)を通過せずに鉄道で来ることができるようになりました。JR移行後に志布志から都城や鹿屋・国分方面の路線が廃止されたため,現在では1963年以前とは逆に日南線経由で宮崎方面にしか鉄道がつながっていません。
さて,前述の通り,元・宮崎県営鉄道飫肥線であった 油津-飫肥 間は762ミリゲージの軽便鉄道でした。これが国有化と同時に省線(国鉄)標準の1067ミリゲージに改軌されるわけもなく,しばらくは孤立した状態が続きました。1937年に志布志から1067ミリゲージの路線が油津まで延長されますが,このとき 油津駅 は軽便鉄道以来の 油津駅 とは別に,やや西の位置に設置されました。これが現在の 油津駅。同時に従来の油津駅は 元油津駅 と改称されました。油津-飫肥 間の改軌も含めて 北郷 まで1067ミリゲージでの路線が開業するのが1941年。このときに油津や飫肥周辺では大きな路線変更が行われ,元油津駅 は 油津駅 に統合されました。ただし,その際に 旧・元油津駅 は 油津駅 の貨物扱い所に転用され,油津駅との間に連絡線が新設されました(もちろん,1067ミリゲージで)。

つまり,当初の油津駅は現在の油津駅とは別の位置にあったのです。
油津駅周辺の地図をよく見てみると,油津駅から北側の堀川公園に向けて“それらしい曲線”が見られます。恐らくはこれが油津駅から元油津駅への貨物側線の跡でしょう。そうすると,元油津駅(軽便鉄道の油津駅)は現在の山形屋の近くにあったと思われます。
今よりも油津の港町に近いですね。それでも“旧吾田村”の領域ではあったでしょうが。

大幅な路線変更は 飫肥駅 周辺でも行われています。
現在の路線は西側から飫肥駅に入り東へ抜けて北郷・宮崎方面に向かいますが,軽便鉄道時代は酒谷川に沿って東側から飫肥駅にアプローチしていました。現在の国道222号線と同じルートです。
で,実は現在 飫肥駅 と呼んでいる駅は,改軌による路線変更の直前までは 東飫肥駅 と呼んでいました。元々,1913年の開業時点では現在と同様に 飫肥駅 だったものが国有化前の1931年に400メートルほど延長されてこちらに 飫肥駅 の名を譲り,東飫肥駅 と改称していたものです。
改軌・路線変更と同時に 東飫肥-飫肥 間が廃止されて,東飫肥駅 が元の 飫肥駅 に戻ったのですね。
ただし,これは当時の地図を見ないままでの考察なので,現在の 飫肥駅 と軽便鉄道開業時の 飫肥駅(のちの東飫肥駅) が全く同じ位置であるのかどうかはわかりません。
現在の 飫肥駅 は酒谷川をはさんで本来の飫肥とは対岸の星倉,つまり旧飫肥町ではなく旧吾田村の領域にあります。でも,これは 新潟,小千谷,厚木,津山 などなど,全国いたるところに幾らでもある例で珍しくも何ともありません。
気になるのは県営鉄道時代の 東飫肥-飫肥 間400メートルの延伸です。今の地図を見ても,この“2代目飫肥駅”がどこにあったのか,よくわかりません。開業20年後の延長とは,もしかしたら酒谷川を渡って飫肥町の領域に乗り入れていたのかもしれません。ただ,今町も本町(飫肥1~10丁目)も川のそばから市街地が密集していそうで,それならどこに突っ込めたのか。
当時の地図による確認が必要ですね。
[74197] 2010年 2月 21日(日)20:39:19【4】Issie さん
油津のこと
[74136] 白桃 さん
日南市の中心は?

少し時間が取れたので「飫肥・油津周辺」について調べてみました。

【飫肥】
平安時代中期の「和名抄」に 日向国宮崎郡 管下の“郷”の1つ「飫肥郷」として現れます。
もちろん,近世以降現在まで続く 飫肥市街 に直結するものではなく,ずっと広い範囲を領域とする地名と考えるべきでしょう。そもそも「郷」(律令制初期は「里」)という区画は自然の村落ではなく,律令国家が口分田を支給し徴税と徴兵を行うための“戸籍”を編纂するために編成された“人工的な”区画です。
 ※律令制において「里(郷)」は50戸を単位に編成されました。だから「五十戸」と書いて「さと」と読みます。でも1郡内の戸数が50の倍数であることはまずないので,端数の戸で「余戸」を編成しました。のちに「余部」という表記も行われ,「あまるべ」「よべ」などと読まれます。中には,わざわざ旧字体の「餘」で表記するところもあります。

平安末期から鎌倉時代にかけて,飫肥は「北郷」と「南郷」に分けられ,日・隅・薩3ヵ国にまたがる広大な「島津荘」の“寄郡”とされました。“寄郡”というのがどういうものか,今一つわからないのですが,本来は荘園の領域内ではなく“国衙領”であるのだけれれども,実際は「島津荘」の支配下に置かれた区域,というほどの意味なのかな,と感じました。
ともかく,この 島津荘 の荘官・地頭(=現地管理人)として源頼朝に任命されたのが 惟宗(これむね)忠久。以後,彼の子孫は「島津」の名字を名乗り,南九州で繁栄します。したがって,飫肥南・北郷も島津氏の支配下に入りました。
 ※惟宗氏は渡来系 秦氏 の子孫で,平安朝廷では明法家(みょうぼうか:律令法の専門家)の実務官僚。平安時代後期,各国の在庁官人や荘官で「惟宗氏」を名乗る者が現れますが,都の惟宗氏との関係は怪しげ。幕末・廃藩置県まで続く対馬の 宗氏 も惟宗氏を名乗っています。一方,惟宗忠久の子孫は 島津氏 を名乗った後,忠久が頼朝の落胤だとか何だとか言って「源氏」に乗り換えてしまいます。

飫肥城を最初に築いたのは南北朝時代の地元武士団とされていますが,島津氏と戦国時代に日向国内で勢力を伸ばした 伊東氏 との抗争が激化すると,島津側の最前線となり,双方の争奪の場となりました。戦国最末期に一旦は島津氏に追い落とされた伊東氏が豊臣秀吉の九州征伐後の処分で領地を回復し,那珂郡と宮崎郡に合わせて5万石ほどの所領をあてがわれました。これが「飫肥藩」の始まり。
城下町の建設は戦国末期の島津氏支配下で始まったようですが,本格化するのは伊東氏の支配が安定してから。ほぼ完全に“近世の産物”です。
1889(明治22)年,城下町以来の市街地である 本町・今町 と 板敷村・吉野方村・楠原村 が合併して「飫肥村」,1900(明治33)年の単独町制施行で「飫肥町」となりました。
なお,伊東氏が支配した 飫肥藩 の領域は,ほぼ現在の日南市(北郷・南郷の両町編入後)と清武町を合わせた範囲に相当します。だから行政機構としては,飫肥藩と現在の日南市役所がほぼ等価値なのですね。日南市長が5万石のお殿様。

【油津・平野】
[74167] 千本桜 さん
江戸時代、油津は平野村の一部だった。

「油津」という港町は古く「油之津」と呼ばれ,古代以来,対外貿易拠点として栄えました。ただ,地名としては広域に用いられることはなく,例えば「飫肥郷」内の“地点名”として用いられたようです。
これは近世の伊東氏(飫肥藩)の支配下でも同じで,検地を通じて近世村が編成されたとき,油津の港町部分と広渡川左岸の農村部とを合わせて「平野村」としたのでしょうね。幕府から伊東家への領地宛行(あてがい)の際にも那珂郡39ヵ村の1つに「平野村」が現れます(「油津」は登場しません)。
伊東家(飫肥藩)は油津に「油津地頭」を置きましたが,その職掌が今一つわかりません。村方支配の責任者である 郡奉行(郡代) の配下にあるのですが,平野村の農村部と一体に管轄したのか,それとも港町部分だけを別個に管掌したのか。また,民衆の側も油津の商人独自の自治組織があったのか,それとも農村部の「百姓」と一体で「平野村」の自治を担ったのか,調べきれませんでした(これは史料に基づかない勝手な憶測ですが,城下町の建設に際して油津の商人たちも移転を命じられているかもしれません。すると,“本店機能”とともに町自治の担い手であるべき“旦那様”たちも飫肥城下に移ってしまい,油津の港町にあるのは船積みに必要な機能と人員だけだったかもしれません)。
ともかく,1882(明治15)年の「油津村」の分立は,農村を主体とする平野村の中から港町部分が独立した,と見ることができるのではないかと思います。そして,1908(明治41)年の境界変更は,この時点までに港町の隣接区域として市街化した部分を 油津町 に取り込んだもの。
小学校や鉄道駅などのようにある程度の広さの土地を必要とするものを(当時の)ビルトアップエリア(既存市街地)内に設けるのは困難ですから,行政上の町域が既存市街地に限定されるなら隣接する町村に設けられるのはよくあることです(ただし,小学校の系譜には注意が必要です。1872(明治5)年の学制発布を受けて設けられた最初期の学校は既存市街地内のお寺などを利用しているかもしれません。そして以後,現在の呼称と位置に落ち着くまでにさまざまな学校が合流しているかもしれません)。

【吾田】
平野村は明治22年に星倉村などと合併して吾田村になりました

実はこの「吾田(あがた)」こそ,この地域の地名の中で最も古いと言えるかもしれません。何しろ,「日本書紀」の 神武天皇即位前紀(巻第三) に登場するのですから。
アマテラス(天照大神)の孫として高天原から高千穂峰に降り立った(天孫降臨)ニニギ(天饒石国鐃石天津日高彦火瓊瓊杵尊)のさらに曽孫であるイワレヒコ(神日本磐余彦尊=神武天皇)が妃を娶(めと)る段にある

「長而娶日向国吾田邑吾平津媛為妃」
(長(ひととな)りたまひて日向国の吾田邑(むら)の吾平津媛を娶(ま)きて妃(みめ)としたまふ。)

の「吾田邑」がそれ。
ここに出てくるお姫様の名前にある「吾平津」を「あびらつ」と読んで「油津」の古い形という解釈があります。恐らくはこれが下敷きとなって,明治の大合併で平野村その他が合併して発足する新自治体の名前を決めるにあたって日本書紀に由来を求めたのでしょう。何しろ,神武天皇の最初のお妃の出身地ですから。
油津には 吾平津(あひらつ)神社 があり,祭神の1人が 吾平津昆売命(あひらつめのみこと)=吾平津媛 です。この神社の創建は元明天皇代の和銅2(709)年だとか。ちょうど日本書紀の編纂たけなわの頃ですね。

ただし,この「吾田」や「吾平津」を本当はどう読んだのか,実はわかりません。中には原典本文の割注に万葉仮名で読み方を明示しているものもあるのですが(その万葉仮名をどう読むかがまたわからないのだけど),「吾田」「吾平津」にはそれがありません。そこで,「吾田」を「あた」と読み薩摩の「阿多」(南さつま市)に,「吾平」を「あひら →あいら」と読んで大隅の「姶良」(姶良市)または「吾平」(鹿屋市)に比定する解釈もあります。
伝説上の“皇室揺籃の地”とは言っても,ヤマトから見れば“辺境”の地。古事記・日本書紀の地名記載は畿内・近国については詳細ですが,遠方についての地理感覚はとても大雑把です。「高千穂峰」は霧島火山であるという“通説”がある一方で,(西)臼杵郡にも堂々と「高千穂」があるくらい。
だからみんな自分に都合のよいように解釈するのでしょうね。
[74179] 2010年 2月 18日(木)21:03:14Issie さん
八ヶ岳火山群
そう言えば,前回,申歳の御柱の時,観覧ポイントまで茅野駅から歩いて行ける上社の木落としを見に行ったのですが雪でした。中央線のガードをくぐった御柱は同じ日のうちに宮川を渡る“川越し”に移るのですが,雪の中,大変だったでしょうねえ。
今年はどうなるか。

[74178] じゃごたろ さん
某百科事典サイトに蓼科山を八ケ岳の一部に含まれるような記述がありましたが、、、、

「たてしな山」の名前の由来はともかく,地形的には蓼科山は 八ヶ岳火山群 の北端ととらえられています。南端の 編笠山 から北端の 蓼科山 まで全体で1つの“複合成層火山”を形成しているのですね。
「八ヶ岳」の名前で呼ばれる赤岳など“8つの峰”の部分は複合火山の中では「南八ヶ岳」と呼ばれます。夏沢峠を境にした天狗岳以北の「北八ヶ岳」の部分も火山。その一番北の部分が蓼科山です。
それぞれ少しずつ活動時期を違えながら全体で大きな火山が形成されました。それらの中では,高くて目立つ南八ヶ岳よりも,地味な北八ヶ岳の方が新しい時期まで活動が続き,火山の姿をとどめています。最も新しく形成されたのは,蓼科山の隣の横岳だとか。
南八ヶ岳は高く成長したけれども早い時期に活動を停止してしまったので侵食を受けて崩されてしまい,だから険しいのだ,と説明されています。
以上,町田洋ほか編『日本の地形5 中部』東京大学出版会,2006年 による。

ま,あそこの記述もあながち間違いではないのです。
[74174] 2010年 2月 18日(木)00:35:14【1】Issie さん
かみゆき降らず
[74173] じゃごたろ さん
暖冬?

すでに今日ですが,うちの職場は年に1回の大イベントがあるのだけど朝方雪が降るらしいですね(まだ降っていませんが)。私自身の通勤の足も心配なのですが,何より,「年に1回のイベント」に来ていただける“お客さま方”の足が乱れないか心配です。もちろん,そのような場合には“上つ方”(県)から開始時間を遅らせる命令が来るはずですが,お客さま方に少なからず動揺を与えてしまいますから。

というわけで,今年の2月は多いですね,雪。「舞った」のも含めて,何回目だろう。
元々,「暖冬で雪が多い」というのが当初の気象庁の見立てだったわけで,2月になってそれが当たり始めました。そう,今年の2月は暖かいです。
予報に反して1月は寒かった。自宅の最寄り駅前に温度計があるので毎朝出勤時に温度をチェックしていくのですが,朝の7時,1月は“氷点下”の日が続きました。そして“水”はほとんど全く降らない。「正しい冬」です。
2月になり雪が降るようになって,朝の気温はほぼ0度。“暖かく”なりました…。

諏訪地方では山には積雪が多いいものの、里に積もることは少なく、本格的積雪は一度きり。

今年は「かみゆき」が降っていないんですね。
折に触れて気象庁のアメダスのページで積雪深をチェックしているのですが,松本はずっと0センチですね。一応は「日本海側」に入る長野も長く0センチの日が続いて,今シーズンの信州,大部分は本当に雪が少ないんじゃないでしょうか。もちろん,ドカ雪が降っている新潟県との県境近くは除いて。
私が松本市民であったシーズンは東京でもたびたび積雪があった年で,それに合わせて「かみゆき」もたびたび。諏訪も松本も年末から年明けに結構降って,春先まで積雪が解けることがありませんでした(そうそう,初めて投票に行った年末の総選挙の朝にドカッと降ったのでした)。
私の学生時代はほぼ「暖冬」だったけど,それが普通だったような気がします。

※補足
「かみゆき」:厳密には“春先限定”のものであるようだけど,私たちは冬の初めも含めて県内の南部の方で降る雪,というような意味で使っていました。
[74172] 2010年 2月 17日(水)21:13:57【2】Issie さん
スイヘイリーベ
最近,「イベント」が終了すると途端に静かになってしまいますね。
そこで,というわけでもないのですが,まあ,無駄話を1つ。

話はお正月にさかのぼるのですが,視る番組が何もなくてたまたまチャンネルを合わせた教育テレビ。まとめて再放送していたアニメーション番組が意外に面白くてハマってしまい,その総集編を放送するというので土曜日の夕方に教育テレビを視るようになりました。そうすると必然的に前の番組の末尾も視ることになるのですが,そこで流れてきたのがその番組(別のアニメ番組)のエンディングテーマ。
最初,タイトルと同じ歌い出しが耳に入って(昔,化学の時間に教わったなぁ…),「もしや?」と思い続きを聞いていたら,やっぱり… ひたすら元素名を並べている歌でした。
番組では時間の制約もあって 原子番号1の水素 から 38番・ストロンチウム までなのですが,フルバージョン(ようつべ)では 111番・レントゲニウム まで“今のところ名前の付いている”元素全部が出てきます(途中,聞いたことがない元素が出てくると思ったら,私が高校生の頃は 103番・ローレンシウム までしか正式な名前が付いていなかったのでした)。

まあ,この手の歌は昔からありますよね。
10年ほど前の子どもたちはポケモンの歌を歌っていたし,「コーヒールンバ」でお薬の名前を並べて歌っている人もいました。小林旭もこの手の歌が多いですよね。そもそも「きらきら星」のメロディでアルファベットを(日本語訛りで)並べた歌はたいていの人が知っています。
だから別に珍しいものではないのですが,これが子ども向けアニメ番組のエンディングに出てきてビックリしたのでした。もっともこの番組,「元素」がテーマのお話ですから,このエンディングは十分必然性があるのです。
それにNHKには,もともとこういう歌が好きであるようなフシがあります。「みんなのうた」には伝統的に“変な歌”枠があるみたいだし(最近では「おしりかじり虫」),だいぶ古い話ですが“算数”の域をはるかに超えた「算数チャチャチャ」という歌を当時最先端の映像技術を用いた解説画面付きで流したこともあります(驚いたことにこの歌は,当時放送していた公募番組で入賞したアマチュアの作品なのですね)。

さて,間もなく「平成の大合併」も終了し,市の数と名前もある程度落ち着くことでしょう。
そこでどなたか,市の名前を全部歌いこんだ歌を作ってみませんか?
うまく企画が合えば,NHKが放送してくれるかもしれません。
残念ながら,私にはその才能がありませんが。

※追加
YouTube にアップされた「スヘイリーベ」の動画がバックに使用しているのは 科学技術広報財団 が文部科学省のサイトにアップしている「一家に1枚シリーズ」ポスターの1枚なのですが,このシリーズ,面白いです。お役所のサイトにも意外にセンスの良いものがあるのですね。
[74164] 2010年 2月 15日(月)16:46:35【1】Issie さん
沙市
[74163] hmt さん
1885年にカナダ初の大陸横断鉄道が開通し、その西側終着駅が大陸にある町のグランビルに作られました。
このカナダ太平洋鉄道(CPR)の駅がバンクーバー駅。バンクーバー市になったのはその翌年ですから、交通由来?

海峡もしくは川の向こう岸の地名を奪ってしまったという類似例を日本で探してみたら,一応思い当るものがありました。広島の「宇品」。本来は広島湾に浮かぶ島(宇品島)の名前で,1880年代に始まった築港工事で生まれた埋立地が奪ってしまったもの。本来の島の部分は1904年に広島市に編入された後に「元宇品町」という名前にさせられました。現在,「宇品町」という町名は造船所(元の陸軍施設)に呑み込まれた別の島(金輪島)が名乗っています。
のち,もちろん築港部分に「宇品駅」が開業しています(現在は廃止)。
バンクーバーよりはスケールが小さいかな。

横浜-沙市、晩香坡

「沙市」という地名は日本史の教科書に登場します。ただし,中国の長江中流域で,「沙港」とも言う。日清戦争後の 下関条約 で開かせた開港場です。なもんで,一瞬「おやっ?」と思ったのですが,シアトルのことだったのですね。
もっとも,敗戦後の占領が終わるか終らないかの頃,しかも中国に共産党政権が成立して間もない時期に,日本と中国本土の間の直接往来はまず不可能でしょうから,中国の「沙市」と混同されることはまずなかったでしょう。
ちなみに中国語でシアトルは「西雅図」。「沙市」とは日本独自の表記なんでしょうかね。では,いつ頃から行われていたものなのか。中国の本家・沙市と混同されることはなかったのか。
あるいは,中国で使う必要がなくなって,安心して“使いまわして”きたものなのか。
まあ,“日本が開港させた”(最恵国待遇によって他の条約締結国にも効力が及ぶ)とはいっても,上海や南京に比べてマイナーな存在だったのかもしれませんが(ただし,日中戦争の際に日本軍が占領しています)。

晩香坡

「香」は中国語(普通話)では「シァン」と読みますから,これも「バンクーバー」とは読めませんね。「ばんこうば」とは“日本語訛り”モロ出しです。中国語では「温哥華」と表記するらしい。日本語の“音読み”からは連想だにできません。
[74162] 2010年 2月 15日(月)01:51:52【5】Issie さん
ヴェトナム
[74159] ペーロケ さん
同じVでもベトナムはベトナムのままだし、どういう法則なのやら。。。

恐らく 外務省の公式表記 に準拠しているのだと思います。 現在の外務省は国名等について一貫して V を“ヴ”とする表記を採用していません。だから Latvia も「ラトビア」だし,Venezuela は「ベネズエラ」(もっとも,スペイン語ではVを [b] と発音するのでした)。ただし,これはたぶん戦後のことで,敗戦前には「ソヴイエト」などの表記が採用されています(例:大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和国聯邦間中立条約=日ソ中立条約)。

※余談:外務省のこのページには以前話題になった「中東」が一括りになっていますね。文部科学省所管の初等・中等教育では「西アジア」と呼ぶ区域ですが,何しろ外務省には「中東アフリカ局」という部局がありますから。

ヴァンクーヴァー

実は地理教科書界で最大手の帝国書院は“検定教科書”である高校用の地図帳で数年前からこの表記を採用しています。ご覧の地図帳の発行元である昭文社は学校教育用の地図帳は手掛けていませんが,基本的に足並みをそろえているのでしょう。ただし,個々の都市名等の表記については,それがマイナーなものであるほどバラつきがあるようです。まあ,「ニジニノブゴロド」も十分にマイナーですから。で,「ニージニーノヴゴロド」が“現地の発音に忠実”かというとどうかなぁ。
※ちなみに別件ですが,ウクライナの大統領の Ющенко さん。日本のマスコミではある時期から一律に「ユーシェンコ」と表記するようになりましたが,これはロシア語での読み方に近づけたものであって,ウクライナ語に忠実ではありません。むしろ朝日新聞等が最初のうち採用していた「ユシチェンコ」の方が近かったのにね(現代ロシア語の標準的な発音では ще は「シシェ」に近いような遠いような音になるのですが,ウクライナ語ではずっとはっきりと「シチェ」と聞こえるように発音するのです )。

そんなわけで,検定教科書にも採用されている表記なのですが,ずっと以前にも書いたことがある通り,私個人はこの表記を支持しません。日本語で(何よりも共通語≒標準語で)区別されない(できない)音を書き分ける必要を全く認めないからです。
これも以前に例示したことですが,しばしば目にする「デヴュー」などという見苦しい誤表記(元は debut というフランス語の単語なのだから「デビュー」でなければならない)は当人が b と v を区別できていない証拠です。
「原音に忠実」という原則は良いとしても,それが共通語で区別し書き分けることのできる範囲を超えてしまえば無意味だと考えます。
できもしない書き分けをすることを「公式」として強制されるなら,それはいやだな。まだ,それは個々の判断に任されているからいいのですが。

インドの「カルカッタ」と私は習った記憶がある都市は「コルカタ」

これはインドにおいて“英語の公式表記”が現地語に近い形に変更されたからです。同様に ボンベイ→ムンバイ,マドラス→チェンナイ。インドでの変更は1996年前後のことですが,日本ではそれよりやや遅れてこの“新しい表記”が定着しました。

ローマ字(ラテン文字)を使用する言語同士の場合は現地語の綴りをそのまま自分たちの言語に取り入れて,どう読むかを明示せずに知らんぷりしてしまう(たとえば,英語の文章に突然フランス語の debut がそのまま出てくる)こともできますが,残念ながら全く別の文字体系を採用している日本語では,いちいちそれをカナに転写しなければならない。その時にそれをどのように日本語の音の中に取り込むかというのは思っている以上に大変なことなのでしょう。たとえば,“長い音”と言ったって,それが「ー」で表すほど長いのかどうか判断することは難しい。当たり前のことですが,みんながみんなそれぞれの地域の言語の発音について熟知しているはずもない。
結局はたくさんの人が試行錯誤を重ねていった結果として,日本語の中で“あまり違和感を感じない”ものに落ち着いていくのだろうと思います。
[74155] 2010年 2月 14日(日)00:46:42【1】Issie さん
サインはV!
NHKのオリンピック中継番組のオープニングを視ていて今さら気づいたこと。
オープニングの最後に“V”の字が画面に現れます。初めはスポーツ番組にありがちな victory のVかと思ったのですが,そういえば バンクーバー は Vancouver と綴るのでした。バンクーバーのVでもあるのですね。
だからと言って,「ヴァンクーヴァー」なんて衒学的な表記は見たくありませんが。

[74153] hmt さん
新旧適当に覗いてみましたが、時刻表でも「日本海縦貫線」という言葉は発見できませんでした。

そうですね。私がおぼえているのは本文の路線名ではなくて,1972年に羽越本線の電化(新津‐秋田間の全区間を一気に電化しているのですね。同時に白新線も)で「日本海縦貫線の電化完成」を報じる交通公社の時刻表のニュースのページ(表紙にもあったかも)です。
私はここで「日本海縦貫線」なる言葉を知りましたから。

「こちら側」と「向こう側」

海の場合は「こちらの岸」(此岸)と「向こうの岸」(彼岸)。
地中海の場合はヨーロッパからアフリカへ南北方向に「横断」し,東シナ海は長崎から上海へ東西方向に「横断」する。
“海の向こう”へ「横断」してみたら南北に長かった大西洋は,もちろん「旧大陸 対 新大陸」の東西方向がやっぱり「横断」ですが,インド洋はどの方向が「横断」でしょう?
太平洋では,支倉常長もペリーも咸臨丸も東西方向に「横断」しています。でも,最初に横断した“マゼラン様御一行”は南アメリカ大陸の南端からフィリピンへ“斜め”に渡っているのだけど,これも大きな目で見れば“東西方向”?
キャプテン・クックは第3回航海でタヒチから途中でハワイを「発見」しつつアラスカまで,太平洋の真ん中を経線に沿って北上しているけど,これは「横断」?

「此岸」と「彼岸」と言えば,三途の川の渡し船はあっても「横断」とはあまり言いません。どれくらいの川幅なんでしょうね。
[74152] 2010年 2月 13日(土)12:24:15【1】Issie さん
船では行けない石垣島
[74148] みかちゅう さん
宇高航路の廃止

離島の生活航路と違って「税金を投入してでも存続させる必要がある」と判断されるかは分かりません。

[74151] hiroroじゃけぇ さん
共同運航で、便数半減でもよいので、補助金を投入してでも維持すべき航路だと思っています。

ご存知かもしれませんが,実は今,沖縄本島から宮古島・石垣島へ一般旅客が船で行くことはできません。
この航路で旅客船を運航していた2社のうち,まず琉球海運が2006年に博多航路も含めた全旅客航路の運航を休止し,次いで1999年の経営破綻後,県財界の支援で再建を図っていた有村産業も原油価格高騰が打撃となって2008年6月に無期限運航休止となり,結局有村産業は破産してしまいました。
結果,この2008年6月をもって沖縄本島-宮古・八重山間の定期旅客航路は事実上消滅しました。自動車そのものについては琉球海運が RO-RO船 という形態で輸送を続けているのですが,これはあくまでも貨物船。お客として乗船できるのは原則としてドライバーだけなようです。

もちろん大多数の旅客は航空機を利用するわけで,その意味では「生活路線」とは言い難いかもしれません。しかし,島々を領域とする沖縄県にとって拠点都市間を結ぶ幹線航路なわけで,これの存続がかなわないというのは,かなり危機的なことであるように思います。
だから当然,航路の存続がかなり危ぶまれるようになった2008年の5月以降,沖縄県当局も県議会も国などに対して盛んに支援を要請したりもしているのですが,あまり状況は芳しくなく,したがって現在に至るまで,時刻表の索引図から航路を示す赤い線が消えたままです。

宮古・石垣航路と同様,たとえわずかな人数の利用者しか想定できなくても住民にとってなくなっては困るから絶対になくせない小さな島への航路よりも,宇高航路クラスの航路の方がかえって存続は難しいかもしれません。それが地域経済にとって大打撃でも。

私はかねてからこの国に総合的な交通政策などというものがあるのか甚だ疑問に思っています。かつての官庁名でいえば,鉄道と航空と海運は運輸省(しかし担当は別),自動車は通産省,道路と港湾は建設省,環境問題は環境庁。最近は環境問題ともリンクした話をするけれども,交通と環境と産業全体をトータルした政策や取り組みがなされているとは到底思えない。官庁の統合が行われても,政権交代が起きても,あの人たちの発想と行動は変わらない。
ただ,そのような総合的な政策を打ち立てるとして,さしあたり,そもそも経営が成り立たなくてだから撤退した路線の存続のための支援をするにあたって,この不況下,“先立つもの”をだれがどれだけ負担するのか,という話に結局はなってしまうのでしょうね。
[74150] 2010年 2月 13日(土)01:27:17【1】Issie さん
着いた所が新開地
子どもの頃に聞いた歌の中には,これといった理由もないのに記憶に強くインプットされて消去されることなく,何かのきっかけでふと甦って頭の中から離れなくなる歌があるものです。

私がまだ小学校の低学年だった頃,というのはそろそろ40年ほど前になりますが,朝,登校する前に点けていたテレビ(某民放。NET=現テレビ朝日,だったかな)から,こんな歌詞の歌が流れてきました。

一番電車に乗り遅れ
二番電車が満員で
三番電車が車庫入りで
四番電車に飛び乗って
着いた所が新開地
……

この部分だけ鮮明に憶えていて,あとは全く不明。
男性4人のコーラスグループが駅員の格好で一番電車から四番電車まで順に1人ずつ歌い,着いた所が… でコーラスになる。
男性4人のコーラスグループと言えば,デュークエイセスか,ダークダックスか…。どうもボニージャックスではないような雰囲気。

何の歌なのかなぁ…,と思いつつ,はや40年近く。ふと思い立って,ダメ元で検索をかけてみました。そしたらヒットするんですね。
ここには未成年も出入りしているからあまり詳しい話は避けますが,どうやら兵隊さん関係の“その手の歌”らしい。あの時代,兵隊さんの歌と学生さんの歌はお隣同士ですから,いくつかの大学にも少し歌詞を変えて伝わっているようです。(昔の)若い男の子が好きそうな歌なんですね。

この手の歌の特性として,少しずつ歌詞を変えながらそれぞれの土地に合った地名が盛り込まれるものですが,初めて聴いた子どもの頃から気になっていたのが「新開地」。
後で「新開地」という地名が神戸にあるということを知って,しかも,新開地が神鉄の終点だから,この歌は神戸の歌なのかな,と長い間漠然と思っていました。
でも“その手の歌”だとすると,“あの手の施設”は得てして“新しく開けた地”に設置されることが多いから,この「新開地」は具体的な地名を表した固有名詞なのではなくて,“あの手の施設”を婉曲的に表した一般名詞なのかな,とも思ったのですが,
もう少し調べると,神戸の新開地のすぐそばに“あの手の施設”があって,そもそもその施設に隣接していることが新開地が栄えた理由である,ということもわかって,
そうすると,やっぱり神戸の歌なんでしょうかね。

1970年前後って,ドリフターズがまだ歌手活動をやっていて(もうバンドではなかったなぁ),さかんに兵隊さんソングや“その手の歌”を現代風に,そして放送できる程度までアレンジして歌っていました(スコットランド民謡の「麦畑」なんて,小学唱歌よりもドリフの方がはるかに原歌詞に近いですよね)。「のらくろ」もアニメになっていたよなぁ(のらくろの声はドラえもん)。デュークかダークかわからないけれど,これもそういう風潮の中で出されたものなんでしょうね。テレビ電波に乗るくらいだから,当然“安全”な歌詞にして歌っていたのでしょう。

あの頃の民放の朝の番組やCMって,今と比べてずっと「粗放的」で手間のかかっていなさそうなのが多かったですよね。NETか,12チャンネルか,5分か10分くらい延々と公営ギャンブルの開催予定を流している時間がありました。画面は動かず。子どものことですから何のことかは全然わからないのだけど,「戸田」とか「平和島」とか「花月園」とか,たくさんの地名を憶えるきっかけにはなりました。
そして,「新開地の歌」がふと思い浮かぶたびに,あの頃の朝の雰囲気が何となく思い出されてくるのでした。

※冬季オリンピックですね。そのたびに思い出すのは,札幌オリンピックと佐良直美が歌うSSKのCMソング。
[74143] 2010年 2月 11日(木)18:26:19Issie さん
二海郡
[74140] EMM さん
このジャンルでは「地形的な軸」よりも「方向的な軸」の方で捉えられている、と言うことなんでしょうか…???

これは「海から海へ」という意味ではないかなぁ。
オーストラリアの「インディアン・パシフィック」というのがわかりやすそうです。インド洋 対 太平洋。「表・裏」という表現は嫌われそうですが,オーストラリア大陸にとっては片やニューギニア,こなた南極大陸と,陸に面している南北方向よりも2つの大洋に面した東西方向の方が「横断」にはふさわしいのかも。
アメリカ大陸についても,東西方向に長い合衆国だけでなく,南北アメリカ両大陸全体で南北に長くなるけれど,そこまで広げなくても,「大西洋と太平洋とを結ぶ」ということで十分「横断」の意味は成立するのでしょう。
ロシア(ソ連)は東西方向に長い国で,しばしばその国土の広がりを「バルト海から太平洋まで」,あるいはそれと同義の「クロンシュタットからウラジオストクまで」などと表現しますが,バルト海と太平洋を結ぶという意味でシベリア鉄道についてもユーラシア大陸を「横断」していることになるのでしょう。私,まだ“ソ連”だった1990年に横浜からの船を下りて上陸したナホトカでシベリア鉄道支線の列車に乗り込んだ駅は「太平洋(チハオケアン)」という名前でした。

“陸のシルクロード”の東の終点は長安(西安)ですが,これを日本まで延長すれば「地中海から東シナ海・太平洋まで」。その意味では,やはりユーラシア大陸を「横断」しているのでしょう。
[74137] 2010年 2月 11日(木)13:05:11Issie さん
Re:日南市の中心は?
[74136] 白桃 さん
油津の港も飫肥の外港として発展した

両地区間の主従関係は単純ではなくて,歴史的には遣唐使の時代からその中継基地として知られる 油津 の方がずっと古いようです。飫肥 に最初にお城が築かれたのは南北朝時代なのだそうですが,城下町が成立するのは島津・伊東両氏による争奪戦を経て豊臣秀吉の裁定で伊東領として確定する,たかだか戦国末期以降のことで,これは対外貿易港である油津を扼する位置にあることもその立地条件の1つなのでしょう。とすれば,ここでは 油津 が主で,飫肥 が従。
もちろん藩政時代,藩行政の上では 飫肥 が主で 油津 が従であったことでしょうが,藩経済の上では御城下と外港のどちらに主導権があったか。

というわけで,両者に優劣はつけられず,恐らくは妥協の結果 吾田 に市役所が置かれ,「飫肥市」でも「油津市」でもない“中立的”な名前である「日南市」となったのでしょう。
[74135] 2010年 2月 11日(木)12:02:38Issie さん
圏央道神奈川ローカル線
[74134] じゃごたろ さん
いまでは「祭日」という言葉はなくなったのですね。

神道に基づく皇室祭祀に由来する「祭日」という言葉は,現行憲法20条の政教分離規定に抵触するからでしょうね。だから「国民の“祝日”」(国民の祝日に関する法律;昭和23年法律第178号)。でも今日が「祝日」になったのは,この法律ができてから18年も経ってからのことでした。

はい、もちろんその点は承知の上での書き込みです。

ああ,あれはもしかしたら“クイズ”だったのかしら。だったら,あたら野暮なことを…。

でも,話はあそこで述べたほど簡単ではないようで,
[74116] で話題になった圏央道。これの神奈川県区間の呼称は「さがみ縦貫道路」です。
県の中央を貫く相模川に沿い県土を南北に…,しかしこれは県域を“短軸”方向に突き通すものです。
一方,[74130] に出てきた「第二東名」。いつできるのか,本当に完成するのか,全くわかりませんが(私は全く期待していない),県土を東西に…,“長軸”方向に貫くこのルートを,多くの神奈川県民は「横断道路」と理解することでしょう。別に「第二」を持ち出すまでもなく,東名高速も246も新幹線も東海道線も,みんな県土を「横断」しているのでした。こちらを「縦貫」という人はあまりいなさそう。

ここでは列島全体の軸に合わせた“縦・横”とも,県の輪郭の長軸・短軸に合わせた“縦・横”とも違う方向認識が現れています。
この場合は,北を上にした地図が頭の中にイメージされているのでしょうか。
もともと神奈川県の輪郭では長軸・短軸の違いがあまり明確ではありません。陸地部分だけでなく,南に突き出た真鶴半島と三浦半島の先端を結んだ線で相模湾を丸ごと入れてしまえば,なおさらです。
その中で さがみ縦貫道路 が通過する相模平野だけを取り出せば,これを南北に貫く相模川の線が強く意識されて“縦”のラインと感じられるのかもしれません。
あるいは,全域が“太平洋斜面”である神奈川県にとっては,北部県境の山から南の相模湾へ斜面を一方的に下るだけ(というイメージ)では「横断」という感覚が生まれないのかもしれません。
これが,東西方向の長軸性がずっと顕著な東京都の多摩地域では,武蔵野を南北に横切る南北ルートが「横断」であると容易に理解できるように思います。

物事は,そうそう単純化して話ができるものではないのかもしれませんね。
[74131] 2010年 2月 10日(水)22:22:06【3】Issie さん
縦か横か
[74130] じゃごたろ さん
さてこの「中部横断道」ですが、南北に建設されているのに「縦貫」ではなく「横断」という名称はなぜでしょうか?

視点の違いでしょうね。
太平洋側と日本海側を結び,本州の脊梁山脈を“横切る”のだから,私はごく当たり前に「横断」だと思っていました。むしろ,「縦貫」と呼ぶ方が違和感ありまくり。

「縦貫」と言えば,国鉄(JR)で「日本海縦貫線」という呼称が用いられることがありますね。神戸・大阪を起点に 東海道→湖西・北陸→信越→羽越→奥羽 とつないで青森まで結ぶ運転系統に対する呼称。これがすんなり理解できるのは,列島の長い軸に沿って延びるラインを呼ぶからだと思います。これを「横断」と呼ぶのは,ちょっと変(この方向を「列島横断」と呼んでいる例に遭遇することもままありますが)。

「地図は北が上」が当然なわけでは決してありませんから,南北軸が“縦”であるとは限りません。まずは,この図式から離れることが必要です。
ネギやナマコを見たとき,どちらの方向を「縦」「横」と認識しますか。たぶん,多くの人は“身体の軸に沿った長い方”を「縦」と認識し,それに直交して分断する方を「横」と認識するだろうと思います。
この感覚をそのまま日本列島のように細長い国土に投影すれば,択捉島から北海道→本州→四国→九州→南西諸島 と延びる軸の方を「縦」と認識するのが自然であるように思われます。「日本海縦貫線」という呼称は,まさにこの感覚によるもの。
その視点から見れば,太平洋側と日本海側を結ぶ線はおのずから「横断」ということになるのではなかろうかと思います。

それに対して,たとえば“南北に長い”長野県だけを取り出した場合,今度は北信の栄村から千曲川・犀川をさかのぼり,善知鳥峠を越えて伊那谷を突き抜け南信南端の根羽村へ至るルートの方が「縦貫」で,飛騨高山から安房峠を越えて信州に入り,松本→上田→軽井沢を経て碓氷峠を越えて上州に抜けるルートの方を「横断」と呼ぶ方が感覚的には自然に思われます。

結局のところ,川の左岸・右岸と同様,どこに視点を置くかによって変わってくることであり,地図の“上”を北に固定して考えるものではないように思います。

※追加の補足
「合従連衡」という故事成語があります。
中国の戦国時代末期,戦国七雄と呼ばれた主要国の中で,強大化し他を圧倒している 秦 に対して残り6国がどうすべきかという問いへの答えに由来します。
1つは残り6国が連携して西の秦に対抗しようというもの。秦に対して東に位置する6国が“縦”(従)に手を結ぶので「合従(がっしょう)」。
もう1つは,6国がそれぞれ別個に秦と手を結び,他に対して有利な立場に立とうというもの。西の秦と東の各国がそれぞれ横(衡)に手を結ぶので「連衡」。
で,これを盛んに説いて回った思想家(?)たちが諸子百家のうちの「縦横家」。

実際には6国が南北に並んでいるわけではないけれど,イメージとしては 南北=縦,東西=横 という図の上に成り立つ言葉ですね。
視点によっては,そのような空間認識もある,ということです。
[74118] 2010年 2月 9日(火)20:06:19Issie さん
川の左右
[74116] アルバトロス さん
この開通で、今まで厚木ICを使用していた相模川右岸(海老名市近辺)の利用者は便利になります。海老名市役所から厚木インターまでの所要時間が約40分から、海老名IC利用で10分に短縮され、相模大橋や周辺の渋滞が緩和される

ああ,そうでしょうねぇ(←しみじみと…)。
厚木市内のどうしようもない渋滞も少しはマシになるでしょうか。
圏央道って,ちょうど相模川と相模線の間に割り込むように通っていて,車窓から,たとえば倉見付近からの富士山の眺望がだいぶ失われてしまうことになってとても残念ではあるのですが,ま,いたしかたないというところ。
しかし,2012年とは再来年ですが,果たして実現するのかどうか。
地図の上では谷間であるはずのところが不法投棄で逆に山になっている城山IC南方の旧湘南村区間とか,何より高尾山のドテっ腹に穴を開ける話はどうなったのか…。

そう言えば並行区間の国道16号の八王子バイパスが無料化されるのでしたね。

ところで,

相模川右岸(海老名市近辺)

「左岸」ですね。
[74109] 2010年 2月 7日(日)12:05:44【2】Issie さん
Re:仙道七郡
[74108] 白桃 さん
松本清張は「奥羽の二人」の中で、
「(伊達政宗は)会津四郡と白川、石川、岩瀬、安積、信夫、伊達の仙道七郡をへ併領し、」
と書いておりますが、これでは六郡しかありません。

清張さん,大雑把ですねえ。

私がもともと「郡」の領域に関心を持つきっかけになったのは,このあたりを舞台とした大河ドラマ「独眼竜政宗」で,たびたび「郡」を単位に伊達領の拡大・縮小を語っていたことにありました。

とりあえず,「仙道七郡」という語を調べてみると,政宗が芦名氏などを制圧して南奥州を併呑した事柄について述べる文章でよく使われているようですね。
そこで,清張さん の6郡と 白桃 さん引用の7郡を比べると

清張:白川石川岩瀬安積×信夫伊達×
白桃:白川石川岩瀬安積安達信夫×田村

というわけで,清張さんには 安達郡 と 田村郡 がなく,白桃さん引用には 伊達郡 がありません。
ちなみに,白河の関以北,海道筋と合流する 名取郡 までで仙道筋にある“明治以降の郡”(消滅したものも含めて)は,

 (西)白河,(東)白川,石川,岩瀬,安積,田村,安達,信夫,伊達,刈田,伊具,柴田

の12郡。12郡のうち,最後の3郡は現在,宮城県の所属です。南部の 白河・白川・石川 3郡は元は「白河/白川郡」1郡だったものが近世までに分割されたもののようで,「白河/白川」の併存とともに,やや錯綜した事柄があるようです。その他,中世の時期には郡の領域や呼称の変動はかなりあったものと思われます。
「独眼竜政宗」には「塩松(四本松)郡」というのが登場していましたが,これは 安達郡 のこと。出羽国の領域になりますが,政宗が生まれた頃,戦国後期の伊達氏の本拠であった 置賜郡 は「長井郡」ですね。ライバルの 羽州斯波氏 が山形盆地(村山地方)を本拠にするのに「最上氏」なのは,戦国時代までは最上川中流において 最上郡 が上流(南)側で 村山郡 が下流(北)側であったものが,近世になって入れ替わったからです。山形は 村山郡 ではなく,最上郡 であったのですね。

さて,南奥州攻略で会津とともに新たに併呑した七郡,という意味であれば,清張さんの「伊達郡」は変です。そもそも伊達氏の“名字の地”。出自の怪しげな国人領主出身の伊達氏にとって(由緒正しい足利一族で羽州探題の最上氏とはエラい違い)本来の領地ですから。
では,引用の七郡でいいかというと,米沢のある 長井郡 と 伊達郡 との間の往来には 信夫郡 もあった方がいいわけで,ここも元からの伊達領であったはず。とすると,この数え方にも少し難があるかもしれません。

よく調べてみると,ここ にあるように,「北仙道七郡」という括りもあるようです。この場合は,信夫・伊達・亘理・黒川・名取・宮城・刈田 の7郡。遅れて豊臣秀吉に臣従した政宗が“本来の領地”として安堵された9郡のうちの奥州分(残りは羽州分の長井2郡)。侵略で得た新領地を放出させられて,本来の領地に封じ込められたとは,まるで敗戦後の日本のよう。この場合の豊臣秀吉役は連合国で,サンフランシスコ条約が「奥州仕置」。
ともかく,ここでは現在の仙台よりも北の黒川郡や,海道筋の亘理郡まで「北仙道」に含まれています。

このほか,上杉景勝が会津転封で得た新領地について「会津4郡+仙道7郡」という表現もあるようです。実際の支配領域とは別に,結局のところ「七郡」には伊達郡が入ったり,田村郡が入ったりするようです。

何となく漠然としたイメージとして「あの辺」というものはあるようですが,具体的にどの郡か,というと意外に曖昧なものなのかもしれませんね。

※後から思いついて,清張さんが6郡なのは 安達郡 がなくなったからかも…,と書きかけたのだけど,1965年に消滅したのは「安積郡」でした。ちなみに,信夫郡が消滅したのが1968年。安達郡は今もまだ残っていますね。
結局,何で清張さんが「安達郡」を落としたのか,謎。
[74105] 2010年 2月 6日(土)10:49:17【2】Issie さん
ぶらり途中下車の旅:東西線の巻
毎週土曜日の午前中に放送している日本テレビの「ぶらり途中下車の旅」。先週はお仕事で出勤したため([74074] は職場からの投稿だったのでした。だからあさってが代休)視られなかったのですが,今週は東京メトロの東西線。
毎度のことですが,荒川以東の地上区間,沿線風景の変貌に感慨無量です。
開通したころは,西船橋を出てすぐのカーブから,ひたすら人気(ひとけ)のない田んぼの真ん中を風を切って突っ走る。人家があるのは市街地の真上を通過する浦安と,街路に沿った葛西と原木(ばらき)の農村だけ。快速が東陽町までノンストップだったのは当然です。以前にも書いた記憶がありますが,荒川の鉄橋の辺り,荒川と中川の仕切り堤防が海に消え入るさまなど,荒涼とした「地の果て」の趣でした。
今は全区間,普通の市街地ですねぇ。最後まで泥田(稲ではなく蓮の)しかなかった 妙典信号場 のまわりも街になって…。
まあ,私の東西線の沿線風景は30年前で止まってますから。

来週,東西線の次は南北線だそうです。
でも,これって,きっと関東ローカルなんでしょうね。
[74097] 2010年 2月 3日(水)23:01:47【1】Issie さん
とめはねっ!
NHKで木曜夜8時から放送されているドラマ「とめはねっ!鈴里高校書道部」が思いのほか好評なようです(この枠,青少年向けを標榜しているようですが,昔夕方6時台に放送していた「少年ドラマシリーズ」を彷彿とさせます)。
タイトルの通り,高校の書道部が舞台の“文化系スポ根ラブコメ”。原作はビッグコミックスピリッツに連載中(途中まではヤングサンデー)の漫画です。ドラマは原作から離れてオリジナルのストーリーに向かいつつありますが,原作漫画では書道初心者の主人公(1年生)たちが,楷書から行書,そして“かな”に取り組むところまで進んでいます。
で,最初に主人公たちが“楷書のお手本”として学んだのが,欧陽詢の「九成宮醴泉銘」とチョ遂良(チョは“衣へん”に“者”の旧字体)の「雁塔聖教序」。どちらも唐の時代の書家で,2つあわせて「楷書の2大傑作」「楷法の極則」なのだとか。
私たちが学校で教わるのは基本的に楷書です。ところが,この「楷法の極則」たるこれらの作品の文字,私たちが学校で教わる楷書の文字と微妙に形が違います。作品中では語ることがないし,ドラマでも一切スルーしているのですが,書道の世界ではこのような文字の形に微妙な違いがあるのは当然であるのかもしれません。
当然,活字と形が違っていても何の問題もない。一般に「正字」とされる 康煕字典体,あの“正”というのは本来的に「活字のデザイン上のお手本」という意味であって,「唯一絶対正統の字体」という意味ではないはずです(もちろん,日本語の「歴史的仮名遣い」と同様,それまでの字形の用例や起源にさかのぼる詳細な研究の上に選ばれたものであって,その意味で圧倒的な規範性を持っているのは確かです)。

本題。

[74094] KK さん
開業当初から「四条畷」だったのか、それとも開業当初は「四條畷」だったのが

国鉄(鉄道省)自身の用例ではなくその周辺になりますが,ジャパン・ツーリスト・ビューローの「鉄道省編纂 汽車時間表 附汽船自動車発着表 昭和九年十二月号」のp.98 片町線 における表記は「四條畷」。巻頭の索引図は恐らく手描き文字だと思われますが,こちらも「四條畷」です。まあ,一応「鉄道省編纂」でありますから…。
さらにさかのぼって,こちらは“民間”の 庚寅新誌社 発行の「汽車汽舩旅行案内 明治三十九年四月号」のp.49 関西鉄道 の表でも「四條畷」。民間とはいえ「鉄道作業局 各鉄道会社 各汽船会社 検閲」を謳っています。もっとも,時刻の“検閲”は当然したでしょうが,駅名の表記(字形の違い)まで目を光らせたかどうか…。

正式な字とされていないものを

そもそも「正式な字」などというものがあったのかどうか。
たとえば,上に紹介した庚寅新誌社の時刻表,表紙の中に“明朝体(活字)の「船」”(各汽船会社)と“隷書体(手描き)の「舩」”(汽車汽舩旅行案内)とが隣り合って同居しています。今,このディスプレー上にどちらも表示できるように,それぞれ違う文字コードが割り振られています。けれども,どちらも「同じ文字」。どちらが「正しい」か,などという議論は恐らくナンセンスです。
1色刷りの時代の地形図では図の中の文字はすべて手描きですが,郡名や欄外に記載する図名は隷書体。すると,しばしば楷書体や明朝体の文字とは形の違う文字が現れる。たとえば,「野」の隷書体はパーツの組み合わせがかなり違っていますね。「埜」という字形もここから派生したもので,本来は「野」と“全く同じ文字”。
今ではまず見ることがなくなったガリ版刷りの出版物。私が教育実習をしたときにはリソグラフを使わせてもらえず,ガリ切りをさせられたし,そもそも学生寮の自治会には謄写版しかなかったので,当時使っていた鉄筆を今でも大事に持っているのですが,それはともかく,昔はれっきとした公文書がガリ版刷りであることも珍しくなかったことでしょう。ところでガリ版出版物には,やすりの上でロウ原紙を削って製版するという特性から,プロの人たちの間には“ガリ版特有の字形”というものが行われていました。手書きの楷書体とも明朝活字体とも少し形が違う。それでも,それが公文書に使われていれば,これが“文字の形の根拠”になるのでしょうかね。

このような世界に「正式な字」「正しい文字の形」などというものがあったのでしょうか。
お互い暗黙裡に“規範となる字形のイメージ”のようなものは共有されていたかもしれません。けれども現実に行われる文字の形にはかなりの幅があってもそれはおかしなことではない。活字であったって,康煕字典体を規範としながら個々のデザインは活字セットによって違うこともあるかもしれません。「法令全書」は時期によって楷書風の活字を使ったり,典型的な明朝体の活字を使ったりしていますが,そこに同じ漢字について微妙な形の違いが入り込むことがあるかもしれない。
「どの文字が使われているか」について,当時の印刷物にあたってそれを根拠とする,というのも1つの態度ではありますが,その印刷物の活字にどこまで「絶対的な根拠」を求めることができるか。本来ならば「原典」の公文書そのものにあたるべきなのかもしれませんが,この時代,公的で規範性の高いものであるほど原典は手書きの筆文字です。「大日本帝国憲法」がそうであるように。そうすると,手書きの文字と活字の間にまた字形の違いが入り込む。でも,そもそも筆文字と活字で字形が違うのは,ある意味当たり前です。では,どれを「正しい」とするか。

公的に定められた「正式な字」があるとするならば,hmt さんのお話の通り,1949年の「当用漢字字体表」(昭和24年4月28日内閣告示)が“最初”であろうと思われます。
漢字の字数制限や字体の整理については,仮名遣いと同様に明治末から“革新”(改革)と“保守”(復古)の間の激しい振幅を伴いながら議論が繰り返されてきました。それが“革新”の側で一応の到達点に達したのが「当用漢字表」であり「当用漢字字体表」でした。これは社会全般に対してある程度以上の強制力を持つものであり,官公署は当然,というよりは民間以上に従うべきもの。
「常用漢字」になって社会への強制力は弱められたけれども,「官」や「公」はやはりこれに従うべきではないかなぁ,というのが私個人の考えではあります。個人や企業のような「私」のアイデンティティは最大限尊重されなければならないけれど,「公」の場合は個々のアイデンティティよりも社会全体の慣用や約束事(つまりは法令など)の方が優先されるべきではないか。
という立場からは,「公」の存在である自治体が“民間企業”に対してわざわざ“逆行的”な表記をお願い(要求)する,というのはいかがなものか。
この話題の発端となった情報媒体のスタンスからは,「JRは何をぐずぐずしてるんだ」と言いたいのかもしれませんけどね。
[74074] 2010年 1月 30日(土)10:10:59Issie さん
民さんは野菊のような人だ
[74073] 右左府 さん
松戸市は のぎく・つつじ・あじさい を市の花
市の木についても、 ユーカリ・なし・しい・さくら

「野菊の墓」ですねぇ…。私,恥ずかしながら未読。
二十世紀梨もあわせて,矢切界隈がらみ。いや,そもそも東部の北総台地上は梨の産地として有名なのですが。
“街の木の桜”で連想するのは,最初期の公団住宅の1つである常盤平団地かしら。

[74072] 白桃 さん
三大都市圏への人口集中にブレーキ

私は,こちらの記述に興味をひかれました。
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大阪圏で転出超過数が1万人を下回ったのは23年ぶりとなる。(当該記事末尾)
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大阪圏の人口減少にもブレーキ?
[74059] 2010年 1月 27日(水)11:26:20【1】Issie さん
北五津軽
[74057] まかいの さん
二次細分区域が無くなる??

年末に東北に行ったことは以前の書き込みの通りなのですが,そこで知ったこと。
青森県の注意報・警報の発表区分(二次細分区域)の1つである「北五津軽」(←北津軽+五所川原)は「きたごつがる」と読むのですね。隣の「東青津軽」(東津軽+青森)が「とうせいつがる」と読むからこちらも「ほくごつがる」と読むのだと思っていたら,そうではない。しばしばここでも話題に上がるように,茨城県の「鹿行」(鹿島+行方)も知らなければ「ろっこう」とは読めません。二次細分区域は区割もさることながら,読み方も面白いですね。これがなくなるのは少し残念ですが,これはプラスの方の改善でしょう。
まあ,いくつかの県のように極端な合併の結果市町村と従来の細分区域とが重なるようになった結果でもあるわけで,この10年間の“暴力的な合併”をあまりプラスには評価しない立場から言えば「怪我の功名」というところ。

地震速報の第一報とともに,気象庁の天気予報は従来通り 一次細分区域 単位で発表されますから,「津軽/下北/三八上北」という区分は今後も残るはずです。ま,こちらで我慢しましょう。
そもそも,注意報・警報の発表単位が全国的に 一次/二次 の2段階構成になったのは1997年のことです。それまでは都道府県が1つの単位で,その中で“特筆する区域”が別個に取り立てられて「地区予報区」「特区予報区」とされていたもので,「気象庁予報警報規程」の中で公式の呼称が定められていたわけではありません。もちろん,「04702の177」(当時)に電話すれば「千葉県南部地方」の気象台の天気予報が聞けたわけで,それなりの呼称は決まっていたのでしょうが。
二次細分区域自体には,それほど歴史はないのですね。

[74058] かぱぷう さん
どちらが本当なのかさっぱり判断が付きません(^^;

どちらも「本当」なのでしょう,きっと。
どちらか1つだけが「本当」であるべきだというのは,たぶん私たちの思い込みであり,幻想なのだと思います。
[74045] 2010年 1月 25日(月)00:15:51Issie さん
とまとまと
[74037] 播磨坂 さん
津山の属した苫田郡は、かつて、西西条郡・西北条郡・東南条郡・東北条郡とに分割されていましたけど、これってどういう法則なんでしょうか。

旧4郡の位置関係を見ると,
初めに
 「A:西条」と「B:東条」に分かれて,
それがさらに
 「西条」が「a:西条」と「b:北条」に,
 「東条」が「c:北条」と「d:南条」に分かれ,
都合,
 Aa:西西条郡
 Ab:西北条郡
 Bc:東北条郡
 Bd:東南条郡
となったように見えます。

実際,調べてみると「延喜式」(925(延長5)年完成)の時点ですでに「苫西郡」と「苫東郡」とに分かれていたようです。それがそのまま 苫西→西条,苫東→東条 となったのか,それとも4分割する際に改めて領域の変更をしたのかわかりませんが,1900(明治33)年4月1日の「郡制」施行(北海道と沖縄県を除く45府県で最も遅い)で大昔の姿を復活させたかのような「苫田郡」に統合されるまで,つまりは“武士の時代”を4分割された姿で過ごしたのでした。

近世~明治前期の区画では4郡のうち 東南条郡 が最も狭く,津山城下町の東部から東郊外を占めていました。このうち,旧城下町の一部を構成する7ヵ町が1889(明治22)年6月1日の町村制施行で「東南条郡津山東町」となりました。一方,津山城下町の大部分(36ヵ町)はお城も含めて西北条郡に属していて,これが町村制施行で「西北条郡津山町」となりました。
これに先立ち,明治4(1871)年の廃藩置県後,同年11月の府県再編で美作国一円を管轄区域とし津山に県庁を置いた県が「北条県」を称したのは,県庁の所在地が津山城下町の中でも西北条郡側であったからなのでしょうね。もしも東南条郡側にあったら「南条県」あるいは「東条県」だった?…
さて前述の通り,1900年に苫田4郡が統合されたのと同日,津山東町が津山町に編入されました。城下町内の郡境の消滅と同時に津山の自治体も統合されたのです。元は東南条郡に属した 苫田郡林田(はいだ)村 が単独で町制施行して「津山東町」と改称したのが1923(大正12)年。先行したのが「東南条郡津山東町」ですから,「苫田郡津山東町」としてはこちらが“初代”なのですね。

さらにややこしいことを1つ。
1889年に 東南条郡津山東町 となった城下町7ヵ町の1つに「林田町」がありました。これは1923年に 苫田郡津山東町 となった「林田村」,そして1889年にこの 東南条郡林田村 に合流した 旧・林田村 とは別物です。
つまり,1889年以前は城下町を構成する「林田町」と城下町外の「林田村」とが併存していたのですね。お互いの位置関係を見ると,元々は「林田村」であった領域のうち,お城に近い南西隅の区域が町場として独立して城下町に含まれ,そのうちの1ヵ町が「林田町」となったように思われます。
で,現在の津山市の中でも,城下町内の「林田町」と郊外の「林田」とが併存しています。
[74021] 2010年 1月 23日(土)11:17:12Issie さん
粘菌がつくる鉄道網
昨日の夕刊の1面に表題のような記事が掲載されていました。こんな記事(うちは朝日新聞を購読しているのですが,段階別写真付きの記事が読売新聞のサイトにアップされているのでこちらを。いつまで見られるかわかりませんが)。

曰く,
「胞子から小さなアメーバが生まれ、アメーバ同士が融合して、変幻自在に伸びるネバネバの集合に育つ」(←記事本文より)性質を持つ粘菌(変形菌)。関東地方の平面形をした容器の中で,現実の主要駅の地点に相当する位置にエサを置き,東京都心に相当する位置で“変形体”の粘菌を“放し”たら,粘菌はエサを求めて身体を伸ばし,結果,現実の鉄道網そっくりの姿になった,
というお話。

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粘菌が変形した「鉄道網」を分析すると、輸送効率やアクシデント時の迂回(うかい)路の確保といった点で、実際のJR鉄道網より優れたところがあるという。手老さんは「数億年を生き抜いてきた能力が巧妙な『鉄道網』を構築した」とみる。
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というのがこの記事の結論ですが,もちろんここでは垂直方向の地形や大河川が考慮されていません。技術的な限界や経済的な問題から,さらには政治的な思惑など,現実の鉄道網の形成にはもっと多くの要素が絡んできますから粘菌のようにはいかないのですが,裏返してみれば,現実にはたくさんの撹乱要素があるにもかかわらず結果的には“粘菌の理想”とほぼ同じ姿になる,ということも言えそうです。A.スミスが言うところの「(神の)見えざる手」?
昨日来の神鉄関連の話題とも無縁ではなさそうです。

「粘菌」と言えば 南方熊楠 か,「風の谷のナウシカ」(アニメーション映画版ではなく原作漫画)か,というところですが,本物の粘菌はナウシカの漫画のように“目に見える速さ”で動くことはできません。記事の写真を見ればわかるように,あの実験で鉄道網が完成するまでに26時間かかっています。
実は粘菌(変形菌)は意外に身近なところに多く生息しているそうなのですが,残念ながら“野生の粘菌”をそれとわかって目にしたことは私にはありません。
[74019] 2010年 1月 23日(土)09:55:57Issie さん
ゆううつないかるが
[74018] 白桃 さん
「斑鳩」は書けなくても、読める人は60%はいるだろう

まあ,知らなきゃ読めない地名ではあるでしょうね。「日本人の常識」かどうかはともかく,地理ではなく,むしろ日本史のお勉強。
読めても,まず書けない地名でもあるでしょう。専門家でなければ地名おたくか歴史おたく,それから住民でなければ。

「いかるが」には「鵤」という表記もあって,こちらの表記は播州揖保郡で使用されていますが,大和の厩戸皇子(聖徳太子)ネタと関連があるとか。
「斑鳩」も「鵤」も,鳥の名前としては イカル と読むんですね。ウトウ(善知鳥)と同様,鳥に不案内な私にはどんな鳥かわかりませんが,地名になるほど身近な鳥なんでしょうかね。

…ぢゃ,「-が」って何?
[73805] 2010年 1月 10日(日)18:36:21Issie さん
堺から兵庫へ
[73770] moritat さん
「開港場・神戸」を生み出したのは「流刑地・須磨」?

[73804] YT さん
当時の堺港は大型船が入れなかったから

中世の堺の繁栄を最終的に終わらせたのは1704(元禄17/宝永元)年の大和川の付け替えだったと言われています。密接な関係を持つ住吉との間を分断した新・大和川が直接運び込む土砂によって港周辺が埋め立てられて大型船が入れなくなったことがトドメとなった。とは言っても,それは中世の突出した地位から後退しただけで,商業・港湾都市としての重要性は大坂・兵庫・堺でお互いに同等であったのではないかと思います。
さて,条約交渉において開港場を指定するにあたって,米国が要求した大坂に替えて幕府が当初提案したのは堺でした。しかし,堺は至近距離に陵墓群があることから尊攘派の反発が強く,兵庫に変更された,という経緯があったようです([神戸市文書館のページ])。

とすると,「大型船が入れない」というのはそれほど大きな理由ではなかったかもしれませんね。別に堺でもよかった。海外渡航が禁止されて200年。国内海運で使用された「大型船」はタカが知れてましょうから,太平洋を横断するような大型船を出入りさせるには大坂(大阪)にしろ兵庫(神戸)にしろ堺にしろ新たな築港工事が必要という点では違いがないように思います。
やはり時代柄,そして京都や陵墓群に近い「近畿」という土地柄,薩長の活動家の一部のようなポーズではなく,本気で尊王攘夷に燃えている人たちの動向は無視できなかったのでしょうね。
[73714] 2010年 1月 6日(水)19:44:36Issie さん
苗字街道
[73713] リトル さん
私は農村部を担当しているのですが、集落内で同じ苗字が多いですね。

私が学生の頃,当時の更埴市(現千曲市)の旧街道沿いのある集落を自転車で通ったら,街道に沿って見事に同じ苗字の家がずーーっと続いていました。地元出身の学生に聞いたら,その辺りを「○○街道」(○○は長野県では珍しくない苗字)と呼ぶのだとか。
…って,これはガセ?
[73622] 2010年 1月 4日(月)02:45:37【1】Issie さん
小姓/小性
[73615] 88 さん
現福岡市の「小姓」「小性」について

[73511] は,あの中で触れた“歴史関係の本”とは別に,福岡について「小性町」と表記したものを割と最近に見た記憶があったこともあって書いたものなのですが,思い出しました。
1956年の第24国会に“当時の「鳩山内閣」”が提出した「公職選挙法改正法案」の別表。世に「ハトマンダー」と揶揄された小選挙区案の区割表の中に「小性町」の表記があったのでした。ちょうど,国立国会図書館国会会議録検索システム から当該のページ(衆議院会議録追録:官報号外)の画像が検索できます。追録・附録・目次・索引の検索ページ を開いて,「追録」にチェックを入れ,「会議指定」の国会回次で「24回」を指定し,「衆議院」を選んで「検索」をクリックすると,4件がヒットします。「検索結果一覧表示」のボタンを押し,現れた4件のうちで「頁数が56頁」のものを選んで「頁選択」ボタンを押して現れるページ指定画面で 32~54ページ を指定して「表示」ボタンを押すと,問題の「別表」の画像が現れます。その中の 51~52ページにかけて掲載されている「福岡県第一区(案)」に列挙されている町名の中に「小性町」があるのです。
ただしこの別表,以前に紹介したように現行の「公職選挙法」 の別表の岡山市部分に誤字と思われるものがそのまま記載されているように,必ずしも当てにはなりません。実際,鳩山内閣案の区割表の52ページにある「福岡県第二区」の中に明らかに「日佐出張所管内」と記載している部分がありますが,これは「曰佐(おさ)」の間違いです。
…だから,これが「小性町」の根拠というには無理がありますね(あるいは,国のお役所(この場合は当時の自治庁)からして,この辺りは結構いい加減であるとも言えるかもしれません。良く言えば「大雑把」←全然良く言ってないか…)。

そこで,もう少しマトモなものはないかと,ネット上で古地図を探してみました。
すると,九州大学のデジタルアーカイブス に「福岡・博多の絵図」というページがありました。
この中に収録されている「文化9年写 福岡城下町・博多・近隣古図」を拡大してみると現在の大名町1丁目に当たる場所に「西小姓町」と,“女へん”で記載しているのが見えます。
 ※このページ内に記載されているように ZOOMA というソフトをインストールすると鮮明な画像のまま拡大することができます。このページの地図上にマウスポインタを置いてクリックすると,指示に従うことでソフト(IEのアドオン)がインストールされます。現れた地図画面の右側のスケールで拡大・縮小ができます。さらに地図上で右クリックをしながらマウスを移動させると,地図上の移動ができます。…なお,これは Windows の IE で閲覧している場合の話。ほかのブラウザや,MacOS などではダメかもしれません。悪しからず。

ところが,「安永6年 福岡御城下絵図」 を拡大してみると,こちらは“りっしんべん”で「西小性町」と書いてあるように見えます。「元禄12年 福岡御城下之絵図」では上下が逆になっているせいもあってあまりよく読みとれないのですが,“りっしんべん”であるようにも見えます。
もしかしたら,元々福岡城下町の中で既に「小姓/小性」の表記の揺れがあったのかも知れません。
九大アーカイブスの同じページの下の方には明治以降の福岡市街図も収録されているのですが,こちらは十分に拡大し切れず「こしょう町」がどちらで表記されているかは確認できません。そこで,私が所有している 塔文社 の「レトロマップシリーズ5」の 昭和23(1948)年 と 昭和36(1961)年 の福岡市街図 ではどちらも“女へん”で「小姓町」と表記しています。ただ,ほかの町名を見ると今一つ信用が置けない気もします。

というわけで,本当のところはどちらが「正しい」のかよくわからない,ということに…。近代の町名としては恐らく“公式表記”というものが決められていて,そこでは「小姓町」の表記が「正しそう」ですが,江戸時代までさかのぼると(あるいは明治初期でも)やっぱり「小姓町」“だけ”が「唯一正しい」とまでは言いきれないような気もします。どちらもOK,にしちゃってもいいような気が…。
[73599] 2010年 1月 3日(日)11:44:59【2】Issie さん
外浪逆浦の干拓地
[73428] k-ace さん
このあたりの県境ってどうしてこんな線になってるんでしょう?

[73582] グリグリ さん
埋め立て(干拓)の事業計画で線引きされた

手許に百年ほど前の地図(明治36(1903)年改測5万分の1地形図「鹿島」)がありますが,これを見ると問題の県境の辺りはすでに「陸地」になっていて,現在とほぼ同じ位置に県境が引かれています。
茨城県(常陸)側の台地と千葉県(下総)側の台地に挟まれたこの辺りの低地は主に干拓によって作られたものですが,それは秋田県の大潟村のように一時(いちどき)に作られたものではなく,何百年もかけて波状的な干拓工事が行われて形成されたものです。そしてだいたいこの地図の頃(明治・大正期)までは自然に陸地化しつつあった湿地を土手で囲って外側の水面から切り離して水田化する,というものでした。あるいはもう少し積極的に,排水のための水路を開削することもありました。現在「常陸利根川」と呼ばれている霞ヶ浦と外浪逆浦の間の水路(この地図では「北利根川」と呼んでいる)も,その直線的な形状からすると人の手が加わったものかもしれません。
「水田化」と言っても,その田んぼは地図上では通常の田んぼよりも“水気の多い”記号で記載されています(しばしば戦前の地形図では田んぼを「乾田」(冬に水を抜いて裏作に麦栽培などの二毛作が可能),「水田」(冬に水を抜かない一毛作田),「沼田」(非常に水が深く農作業さえもが困難)に区別していて,それは歩兵部隊の行動が可能か否かという“軍事的”な必要による,と説明されますが(地形図を作成するのは“陸軍の参謀本部”の下部機関である),日本地図センターの『地図記号のうつりかわり』(建設省国土地理院監修,1994年)によれば5万図でこのような3区分が導入されるのは「大正6年図式」からのようです。今参照している1903年の地図(1906年製版)は「明治33年図式」によるはずなのですが,この図式では田んぼは「田」として前記のような区別はされていません。しかし,参照している「鹿島」図幅では明らかに“別の記号”で記載されています)。恐らく,実際はほとんど「湿地」と変わらない状態であり,農地として耕作されているか否かが「水田」か「湿地」の違いであったのだろうと思われます。
で,実は1903年の段階ではすでにほとんどの部分が「水田化」されていて,現在とあまり変わりがありません。水面として残っていたのは,「内浪逆浦」という水面であった現・潮来市の 日の出地区(今では丸ごと宅地化されてるんですね),同じ潮来市の現・前川地区,佐原市側の 市和田地区(市和田浦),そして現在よりも大きかった 与田浦 などです。
問題の県境は北利根川(現・常陸利根川)の右岸(南岸)からそのまま 附洲(新田) へ延びる土手道の外浪逆浦側に引かれています。前に北利根川が人工っぽいと書きましたが,外浪逆浦への河口部分だけは自然の水路っぽくて土手から離れてやや北に向かい外浪逆浦に入っています。その,土手の上流側から見た左手側が陸地(水田)化している部分が“茨城県領”となっています。現在の 潮来市潮来(字十四番)。
その後さらに外浪逆浦の周縁部の干拓が行われて現在の形になります。それが [73582] で グリグリ さんが紹介されているページにある干拓の記事です。

ところで,1903年当時は利根川本流の流路自体も現在とはやや違っていました。佐原から香取神宮門前の 津宮 を経てそのまま東へ流れて外浪逆浦の南端に入り,現在の常陸利根川を南に流れて湿地帯を横切り,現在の黒部川の流路が本流となっていました。ただし,現在の 息栖大橋 の辺りで分かれる水路もあり,これが現在の常陸利根川になっています。さらにこの2つの流路の間にもう1本,県境上に幅の広めな流路があり両側に堤防が築かれつつあります。これが現在の利根川本流。この“真ん中の流路”が自然のものか人工かわからないのですが,つまりこの頃に堤防の設置が行われて本流が現在の位置に“封じ込められた”のですね。同時に霞ヶ浦や北浦から外浪逆浦を経る排水路が「常陸利根川」として分離され,同様に下総側の谷津からの排水路が「黒部川」として分離されたのです。

さらに昭和以降(戦前も含む)の干拓・排水事業の過程で水田の区画も整理され,現在のような“美田”が形成されました。そして恐らく,その際に県境だけでなく市町村や大字の境界も従前ものを基本としながら水田の区画に合わせて整理されたのでしょう。与田浦からの排水路に近いところで県境が“コの字”状に屈曲しているのもそのせいだと思われます。
[73512] 2010年 1月 1日(金)08:37:47Issie さん
たらりら
[73459] で書いたとおり,年末に東北方面へ行ったのですが,盛岡に泊った早朝,テレビをつけたら素朴な絵のアニメーションと歌が流れてきました。何だろうと思って後で調べてみたら,NHK盛岡放送局のローカル枠で「いわてみんなのうた」という番組があって,たまたま耳にしたのはその中の「たらりら」という歌,とのこと。こちらの新聞記事 に詳しいことが書いてあるのですが,盛岡の街巡りの歌なんですね。
「ようつべ (You Tube)」に 動画 がアップされています。この動画,画面の右の方が切れていたり,途中でリモコンのボリュームアップ表示が出たり,周囲の音が入っていたりと,きっとテレビ画面に直接カメラを向けマイクで音を拾うという昔懐かしい方法で録画したものだと思われますが,今のところネットで完全な動画をタダで見られるのはこのファイルだけみたい。盛岡放送局のページできれいなものが見られるのですが,こちらは長さの関係か,前半だけです。

これは思わぬ拾いもの。好評だったのか,年末年始に東北ローカル枠で再放送となって,偶然それが目に入ったのですね。だから,翌朝の秋田でも視ることができました。別の歌でしたがこちらも素朴で良い。
これは東北ローカルだけではもったいない。昔の「みんなのうた」なら,ローカル局発の歌も結構よく拾い上げて流したものですが,最近のコンセプトでは無理かな。
[73511] 2010年 1月 1日(金)08:00:57【2】Issie さん
La unuan matenon de 2010
Felichan novjaron! (謹賀新年)

20年ほど前に「小市民」という歌がはやったのですが,その歌詞のおしまいの方のとおり,つい紅白を見てしまいました。あー小市民…(なお,この歌を歌った2人(嘉門達夫・小倉久寛)は自分の歌では紅白に出ていないようです)。
いきものがかり が私には珍しい収穫。"Someday" というと 佐野元春 と反応してしまうんですよね。

[73495] 88 さん
「小姓」は「小性」と書かれることもあるようですが、やはり「姓」と書くほうが自然でしょう。

現代の一般用語としては「小姓」という表記が普通ですが,これは元々両方の表記があって,女へんの方(姓)が一方的に正当であるわけではないようです。書名を失念してしまって思い出せないのですが,歴史関係の本の中で筆者(専門家)が一貫して「小性」という表記を用いているものがありました。恐らくは意識的にそう表記したものと思われます。
たぶん大名家中(藩)の中には「小性」という表記を用いたところもあったと思われ,その場合,その城下町では「小性町」の方が元から“正し”かったのかもしれません。黒田家中(福岡藩)や越前松平家(津山藩)がこれにあたるかどうかは,わかりませんが。

[73471] 白桃 さん
最近、区名まで書かないといけない宛先が増え

そんなわけで,この春から我が家の住所にも“余分な要素”が加わるわけですが(津久井の方はプラマイゼロですけどね),郵便番号も変わることだし当分無視していましょうか。別に区名なんか書かなくても,“郵便番号が正しければ”届くのですから。
これから恐らく“うちの市”だけ増税ということになりかねないお話,やっぱり決して歓迎できません。なっちゃうものは,しかたありませんが。


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