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むっくんさんの記事が50件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[72104]2009年10月1日
むっくん
[71982]2009年9月17日
むっくん
[71865]2009年9月4日
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[71817]2009年8月29日
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[71726]2009年8月19日
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[71725]2009年8月19日
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[71724]2009年8月19日
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[71644]2009年8月13日
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[71623]2009年8月12日
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[71511]2009年8月8日
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[71509]2009年8月8日
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[71502]2009年8月8日
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[71478]2009年8月7日
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[71471]2009年8月7日
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[71469]2009年8月7日
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[71452]2009年8月7日
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[71446]2009年8月6日
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[71409]2009年8月5日
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[71408]2009年8月5日
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[71332]2009年8月3日
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[71307]2009年8月2日
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[71298]2009年8月2日
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[71294]2009年8月2日
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[71265]2009年8月2日
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[71106]2009年7月27日
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[70993]2009年7月26日
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[70928]2009年7月24日
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[70905]2009年7月21日
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[70896]2009年7月20日
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[70786]2009年7月11日
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[70768]2009年7月9日
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[70749]2009年7月7日
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[70710]2009年7月4日
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[70709]2009年7月4日
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[70687]2009年7月1日
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[70668]2009年6月30日
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[70574]2009年6月22日
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[70557]2009年6月21日
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[70469]2009年6月12日
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[70299]2009年5月26日
むっくん
[70258]2009年5月22日
むっくん
[70219]2009年5月19日
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[70210]2009年5月18日
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[70115]2009年5月14日
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[69986]2009年5月8日
むっくん
[69931]2009年5月4日
むっくん
[69930]2009年5月4日
むっくん
[69917]2009年5月4日
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[69889]2009年5月3日
むっくん
[69752]2009年4月29日
むっくん

[72104] 2009年 10月 1日(木)12:59:51むっくん さん
名古屋市の区設置の根拠
かつて[63657]拙稿、[63761][65266]88さんにて、名古屋市の区設置の法的根拠について少々議論がありました。[65266]では88さんが
明治41年の名古屋市告示を確認できれば、もう少し詳細がわかると思うのですが
と書かれておられます。

さて、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに先ほど追加されました名古屋市例規類集(著・出版:名古屋市役所,T2.4.30)に名古屋市告示第18号(M41.3.12)が記載されていましたので紹介します。
市制第六十条に依り事務処弁の為め其筋の許可を得たるを以て明治四十一年四月一日より本市を四区に分け各区に区役所を置く其区の名称位置及区域左の如し
(略)

ということで、名古屋市の区設置の根拠は市制町村制(明治21年法律第1号)の市制第六十条となるようです。

参考までに市制町村制(明治21年法律第1号)より市制第六十条を引用しておきます。
第六十条 凡市は処務便宜の為め市参事会の意見を以て之を数区に分け毎区長及其代理者各一名を置くことを得(略)
2(略)
3(略)
[71982] 2009年 9月 17日(木)18:12:00むっくん さん
おいでん
[71981]inakanomozartさん
「じゃん、だら、りん」は、静岡よりも三河弁の特長を指しているのではないでしょうか?
三河地方での方言「じゃん、だら、りん」。
例えば「りん」は「見りん」などと使うわけですが、ただ一つ例外が。「来りん」とは言わず「おいでん」と使います。何故かはよくは知りませんが。
[71865] 2009年 9月 4日(金)22:53:10むっくん さん
ラーメン屋の隣接
[71860]みかちゅうさん
ラーメン屋の隣接もあるかもしれません。
コンビニの隣接の事例は知りませんが、ラーメン屋の隣接ならば京都市左京区のラーメン激戦区『一乗寺』のここにあります。
東側の角が『天天有』でその西隣が『ラーメン荘 夢を語れ』です。
[71817] 2009年 8月 29日(土)22:18:16むっくん さん
Googleマップ
ITmediaニュースによりますと、Googleマップの海外地名がカタカナ表記されることになったとのこと。

Googleマップを利用するにあたり、語学に疎い私にとっては朗報となりそうです。
[71726] 2009年 8月 19日(水)17:49:22むっくん さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時)佐賀県
>88さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時)佐賀県に誤りと思えるところがありましたので報告します。

本論に入る前にこの文章で用いた文献の紹介です。

(1)佐賀県統計書明治22-23年度(著:佐賀県内務部第一課、出版:佐賀県、M26.5.19)
#明治22年調べ。おそらく市制町村制施行時の廃置分合そのままであると考えられる。
(2)新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12(香川・愛媛県の部分はM23.6))
#市制町村制施行時の廃置分合そのまま。
(3)大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、M26.11.9)
#市制町村制施行時の廃置分合に、明治24年2月ごろまでの廃置分合も反映させたもの。
(4)大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、M28.3.5)
#市制町村制施行時の廃置分合に、明治26年末ごろまでの廃置分合も反映させたもの。

(1)から(4)は総てにおいて参照しました。
以下、本文中での参照資料としては各資料が一致しているものについては、原則として簡略化して(1)のみを記載しました。

それでは本論です。

9 新設/村制 杵島郡山口村 杵島郡 山口村の一部, 八町村

9 新設/村制 杵島郡山口村 杵島郡 山口村の一部, 八「丁」村
ではないでしょうか。
参考:佐賀県統計書明治22-23年度(著・出版:佐賀県、M26.5.19)23コマ22コマの小城郡南多久村で、杵島郡山口村の一部の記載があるので、山口村の一部との記載で間違いは無いです。

18 新設/村制 杵島郡東川登村 杵島郡 永野村, 内田村, 袴野村

18 新設/村制 杵島郡東川登村 杵島郡 永野村, 袴野村
ではないでしょうか。
新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、M26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、M28.3.5)では永野村, 袴野村となっています。
ただし佐賀県統計書明治22-23年度(著・出版:佐賀県、M26.5.19)では永埜村, 袴埜村となっていますが。。。

35 新設/村制 佐賀郡春日村 佐賀郡 尼寺村, 北村, 久池井村

35 新設/村制 佐賀郡春日村 佐賀郡 尼寺村, 久池井村
ではないでしょうか。
参考:佐賀県統計書明治22-23年度(著・出版:佐賀県、M26.5.19)

37 新設/村制 佐賀郡松梅村 佐賀郡 松瀬村, 梅野村, 鹿路村の一部

37 新設/村制 佐賀郡松梅村 佐賀郡 松瀬村, 梅野村, 「神埼郡」 鹿路「山」の一部
ではないでしょうか。
佐賀県統計書明治22-23年度(著・出版:佐賀県、M26.5.19)では「神埼村 鹿路山の内字名尾」となっていますが、これはおそらく「神埼郡 鹿路山の内字名尾」と書くべきところの誤りでしょう。
新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、M26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、M28.3.5)では佐賀郡 松瀬村, 梅野村, 神埼郡 鹿路「山」の一部となっています。

46 新設/村制 佐賀郡東与賀村 佐賀郡 下古賀村, 「立野村」, 「実久村」, 飯盛村, 田中村

46 新設/村制 佐賀郡東与賀村 佐賀郡 下古賀村, 飯盛村, 田中村
ではないでしょうか。
参考:佐賀県統計書明治22-23年度(著・出版:佐賀県、M26.5.19)

71 新設/村制 神埼郡三瀬村 神埼郡 三瀬村, 藤原村, 杠村

71 新設/村制 神埼郡三瀬村 神埼郡 三瀬「山」, 藤原「山」, 杠「山」
ではないでしょうか。
参考:佐賀県統計書明治22-23年度(著・出版:佐賀県、M26.5.19)

77 新設/村制 神埼郡脊振村 神埼郡 広滝村, 腹巻村, 鹿路村の一部

77 新設/村制 神埼郡脊振村 神埼郡 広滝「山」, 腹巻「山」, 鹿路「山」の一部
ではないでしょうか。
参考:佐賀県統計書明治22-23年度(著・出版:佐賀県、M26.5.19)21コマ
#上述の#37との関係上、鹿路「山」の一部との記載となります。

100 新設/村制 東松浦郡厳木村 東松浦郡 厳木村, 広瀬村, 浦川内村, 中島村, 牧瀬村, 瀬戸木場村, 波瀬村, 笂木村, 岩屋村, 本山村, 天川村, 広川村, 鳥越村, 平之村, 星領村の一部

100 新設/村制 東松浦郡厳木村 東松浦郡 厳木村, 広瀬村, 浦川内村, 中島村, 牧瀬村, 瀬戸木場村, 波瀬村, 「箞」木村, 岩屋村, 本山村, 天川村, 広川村, 鳥越村, 平之村, 星領村の一部
ではないでしょうか。
参考:佐賀県統計書明治22-23年度(著・出版:佐賀県、M26.5.19)22コマ
読みはうつぼ木で、当地には箞木小学校があります。
#112東松浦郡浜崎村で星領村の一部との記載がある関係上、#100東松浦郡厳木村においても星領村の一部との記載のままとなります(22コマ)。

101 新設/村制 東松浦郡呼子村 東松浦郡 呼子村, 大友村, 小友村, 加部島, 小川島

101 新設/村制 東松浦郡呼子村 東松浦郡 呼子村, 大友村, 小友村, 「殿ノ浦」, 加部島, 小川島
ではないでしょうか。
参考:佐賀県統計書明治22-23年度(著・出版:佐賀県、M26.5.19)

103 新設/村制 東松浦郡七山村 東松浦郡 滝川村, 木浦村, 仁部村, 荒川村, 馬川村, 池原村, 藤川村, 城木村

103 新設/村制 東松浦郡七山村 東松浦郡 滝川村, 木浦村, 仁部村, 荒川村, 馬川村, 池原村, 藤川村, 「白」木村
ではないでしょうか。
参考:佐賀県統計書明治22-23年度(著・出版:佐賀県、M26.5.19)

133 新設/村制 養父郡轟木村 養父郡 轟木村, 藤木村, 真木村, 「今泉村」, 「高田村」, 鳥栖村

133 新設/村制 養父郡轟木村 養父郡 轟木村, 藤木村, 真木村, 鳥栖村
ではないでしょうか。
参考:佐賀県統計書明治22-23年度(著・出版:佐賀県、M26.5.19)
[71725] 2009年 8月 19日(水)17:48:13【1】むっくん さん
市区町村変遷情報・長崎県
>88さん
市区町村変遷情報(長崎県)に誤りと思えるところがありましたので報告します。

○市制町村制施行時
1 新設/市制 長崎市 長崎区, 長崎区 上筑後町, (中略), 古河町

1 編入/新設/市制 長崎市 長崎区, 長崎区 上筑後町, (中略), 古河町, 西彼杵郡 上長崎村の一部, 下長崎村の一部
ではないのでしょうか。長崎県令第18号(M22.3.5)で上長崎村の一部と下長崎村の一部がM22.4.1に長崎区に編入された上で市制が施行されているため、編入/新設/市制という種別にしましたが、これで適切であるかは分かりませんが・・・。
これに伴い、
12 村制 西彼杵郡下長崎村 西彼杵郡 下長崎村
30 村制 西彼杵郡上長崎村 西彼杵郡 上長崎村

12 村制 西彼杵郡下長崎村 西彼杵郡 下長崎村の一部
30 村制 西彼杵郡上長崎村 西彼杵郡 上長崎村の一部
へと変更することになります。

31 新設/村制 西彼杵郡深堀村 西彼杵郡 深堀村, 大籠村, 竿ノ浦村, 土井頸村, 平山村, 蚊焼村, 香焼村

31 新設/村制 西彼杵郡深堀村 西彼杵郡 深堀村, 大籠村, 香焼村
ではないでしょうか。
参考:長崎県令第19号(M22.3.5)

116 新設/村制 南松浦郡魚目村 南松浦郡 北魚目村, 曽根村

116 新設/村制 南松浦郡北魚目村 南松浦郡 北魚目村, 曽根村
ではないでしょうか。
参考:長崎県令第19号(M22.3.5)


--------------
○市制町村制施行時以外
4 1898.10.01 編入 長崎市 長崎市, 西彼杵郡 下長崎村, 戸町村, 上長崎村の一部, 淵村の一部
5 1898.10.01 編入 西彼杵郡浦上山里村 西彼杵郡 浦上山里村, 淵村の一部
2 1898.07.01 分立 西彼杵郡小榊村 西彼杵郡 淵村の一部

4 1898.10.01 編入 長崎市 長崎市, 西彼杵郡 下長崎村, 戸町村, 淵村の一部
5 1898.10.01 編入 西彼杵郡浦上山里村 西彼杵郡 浦上山里村, 淵村の一部
2 1898.10.01 改称 西彼杵郡小榊村 西彼杵郡 淵村
ではないでしょうか。
参考:県告示第129号(M31.7.22)
#長崎市に編入された上長崎村の一部は藩政村単位ではないものと考えられます。
[71724] 2009年 8月 19日(水)17:47:00【1】むっくん さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時)熊本県
>88さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時)熊本県に誤りと思えるところがありましたので報告します。

本論に入る前に資料の紹介です。

(1)熊本県令第9号(M22.3.4)(現行熊本県令達類纂上巻明治26年7月刊(編著:熊本県知事官房、出版:熊本県、M26.11.18)に記載)
#市制町村制施行時の郡変更を記載。
(2)熊本県令第10号(M22.3.4)(現行熊本県令達類纂上巻明治26年7月刊(編著:熊本県知事官房、出版:熊本県、M26.11.18)に記載)
#明治22年4月1日に行われた町村分合の根拠。
(3)新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12.)
#市制町村制施行時の廃置分合そのまま。
(4)大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、M26.11.9)
#市制町村制施行時の廃置分合に、明治24年2月ごろまでの廃置分合も反映させたもの。
(5)大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、M28.3.5)
#市制町村制施行時の廃置分合に、明治26年末ごろまでの廃置分合も反映させたもの。
(6)地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、M20.10)
#明治19年1月現在の町村名を記載。
(7)熊本県郡区便覧(編著:水島貫之、出版:活版舎、M12.12.)
#明治12年現在の町村名を記載。


(1)から(5)は総てにおいて参照し、(6)(7)は適宜参照しました。

以下、本文中での参照資料としては各資料が一致しているものについては、原則として簡略化して(2)のみを記載しました。
なお、「陳」と「陣」の違い、「坂」と「阪」の違いという表記の揺らぎの類は原則として省きました。ただし明治22年当時の資料が一致しているものや(6)(7)でも一致しているものは例外的に記載しました。

それでは紹介です。

28 村制 葦北郡吉尾村 葦北郡 吉尾村

28 新設/村制 葦北郡吉尾村 葦北郡 大岩村, 黒岩村, 上原村, 海路村, 吉尾村, 箙瀬村
ではないでしょうか。
参考:熊本県令第10号(M22.3.4)

38 村制 葦北郡百済来村 葦北郡 百済来村

38 新設/村制 葦北郡百済来村 葦北郡 小川内村, 久多良木村, 田上村, 鶴喰村, 川岳村
ではないでしょうか。
参考:熊本県令第10号(M22.3.4)

60 新設/町制 下益城郡小川町 下益城郡 小川町, 西小川村, 南小川村, 東小川村

60 新設/町制 下益城郡小川町 下益城郡 小川町, 西「北」小川村, 南小川村, 東小川村
ではないでしょうか。
参考:熊本県令第10号(M22.3.4)

71 新設/村制 下益城郡豊田村 下益城郡 塚原村, 鰐瀬村, 沈目村, 陣内村, 藤山村, 阿高村

71 新設/村制 下益城郡豊田村 下益城郡 塚原村, 鰐瀬村, 沈目村, 「東阿高村」, 陣内村, 藤山村, 阿高村
ではないでしょうか。
参考:熊本県令第10号(M22.3.4)

72 新設/村制 下益城郡豊福村 下益城郡 豊福村, 内田村, 「中間村」, 「西仲間村」, 竹崎村, 西下郷村

72 新設/村制 下益城郡豊福村 下益城郡 豊福村, 内田村, 「両仲間村」, 竹崎村, 西下郷村
ではないでしょうか。
まず、熊本県令第10号(M22.3.4)では「中間村」, 「西仲間村」ではなくて「西仲間村」のみとなっています。
しかし新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、M26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、M28.3.5)では「中間村」, 「西仲間村」ではなくて「両仲間村」のみとなっています。
さてどちらが正しいかですが、地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、M20.10)より明治19年1月現在では「両仲間村」、「中間村」の両方がありますが、「中間村」は一つしかなく、これは#73豊野村の一部となった「中間村」ではないかと推測できます。
以上より「中間村」, 「西仲間村」ではなくて、私は「両仲間村」であると推測するのですがいかがでしょうか。

84 新設/村制 菊池郡迫間村 菊池郡 豊間村, 西迫間村, 市野瀬村, 重味村

84 新設/村制 菊池郡迫間村 菊池郡 豊間村, 西迫間村, 市野瀬村, 「大平村」, 重味村
ではないでしょうか。
参考:熊本県令第10号(M22.3.4)

138 新設/村制 玉名郡大野村 玉名郡 中土村, 下前原村, 中土村, 大野下村

138 新設/村制 玉名郡大野村 玉名郡 「野口」村, 下前原村, 中土村, 大野下村
ではないでしょうか。
参考:熊本県令第10号(M22.3.4)

145 新設/村制 玉名郡八嘉村 玉名郡 寺田村, 大倉村, 向津留村, 中阪門田村, 南阪門田村, 北阪門田村, 青野村, 田崎村

145 新設/村制 玉名郡八嘉村 玉名郡 寺田村, 大倉村, 向津留村, 中「坂」門田村, 南「坂」門田村, 北「坂」門田村, 青野村, 田崎村
ではないでしょうか。
まず熊本県令第10号(M22.3.4)では、現在記載されているように中阪門田村, 南阪門田村, 北阪門田村となっています。
しかし、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、M26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、M28.3.5)では中「坂」門田村, 南「坂」門田村, 北「坂」門田村となっています。
過去に遡りますと、旧高旧領取調帳データベースでも中「坂」門田村, 南「坂」門田村, 北「坂」門田村となっており、熊本県郡区便覧(編著:水島貫之、出版:活版舎、M12.12.)では中「坂」門田村, 南「坂」門田村, 北「坂」門田村であり、地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、M20.10)より明治19年1月現在でも中「坂」門田村, 南「坂」門田村, 北「坂」門田村となっています。
現在、玉名市中坂門田、玉名市南坂門田、玉名市北坂門田です。

これは以前88さんが[56275][66349]で書かれたことと関連するのですが、単なる表記の揺らぎの一つではないでしょうか。
「坂」という文字は「首が転げ落ちて(刎ねられ)土にかえる」という不吉な意味合いを持つため武家階級では嫌われ、全国至るところで「坂」の代わりに「阪」という文字が積極的に使用されました。期間としては幕末から昭和初期にかけてで、そのピークは明治10年代後半から明治20年代前半にかけてです。
ここ熊本県玉名郡八嘉村もその一例に過ぎないのではないでしょうか。
私は中「坂」門田村, 南「坂」門田村, 北「坂」門田村とした方が良いと考えますがいかがでしょうか。

169 新設/村制 合志郡北合志村 合志郡 新明村, 井坂村, 小原村, 麓村

169 新設/村制 合志郡北合志村 合志郡 新明村, 「伊」坂村, 小原村, 麓村
ではないでしょうか。
参考:熊本県令第10号(M22.3.4)
また、熊本県郡区便覧(編著:水島貫之、出版:活版舎、M12.12.)より明治12年現在や、地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、M20.10)より明治19年1月現在でも「伊」坂村となっています。

178 新設/村制 山鹿郡千田村 山鹿郡 千田村, 持松村

178 新設/村制 山鹿郡千田村 山鹿郡 千田村, 持松村, 広村
ではないでしょうか。
参考:熊本県令第10号(M22.3.4)

189 新設/村制 山本郡吉松村 山本郡 豊田村, 大井村, 今藤村, 平井村, 船島村, 伊知坊村

189 新設/村制 山本郡吉松村 山本郡 豊田村, 大井村, 「亀甲村」, 今藤村, 平井村, 船島村, 伊知坊村
ではないでしょうか。
参考:熊本県令第10号(M22.3.4)

190 新設/村制 山本郡桜井村 山本郡 舞尾村, 滴水村, 「下滴水村」, 平野村, 荻迫村, 投刀塚村, 鐙田村

190 新設/村制 山本郡桜井村 山本郡 舞尾村, 滴水村, 平野村, 荻迫村, 投刀塚村, 鐙田村
ではないでしょうか。
参考:熊本県令第10号(M22.3.4)

220 新設/村制 上益城郡白糸村 上益城郡 白石村, 津留村, 目丸村, 菅村, 新小村, 犬飼村, 長原村, 田吉村

220 新設/村制 上益城郡白糸村 上益城郡 白「藤」村, 津留村, 目丸村, 菅村, 新小村, 犬飼村, 長原村, 田吉村
ではないでしょうか。
参考:熊本県令第10号(M22.3.4)

234 新設/村制 託麻郡元三村 託麻郡 元三村, 飽田郡 野田村

234 郡変更/新設/村制 託麻郡元三村 託麻郡 元三村, 飽田郡 野田村
ではないでしょうか。
参考:熊本県令第9号(M22.3.4)、熊本県令第10号(M22.3.4)

237 新設/村制 託麻郡春竹村 託麻郡 春竹村, 八王子村

237 新設/村制 託麻郡春竹村 託麻郡 春竹村, 八王「寺」村
ではないでしょうか。
熊本県令第10号(M22.3.4)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12)では八王「寺」村となっています。
また、熊本県郡区便覧(編著:水島貫之、出版:活版舎、M12.12.)より明治12年現在や、地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、M20.10)より明治19年1月現在でも八王「寺」村となっています。現在は熊本市八王寺町です。
後に出版された大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、M26.11.9)や大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、M28.3.5)では八王子村となっていますが。。。。


(おまけ)
#66 中郡村のところにあるスペースを削除した方が見映えが良くなるのではないでしょうか。
[71644] 2009年 8月 13日(木)00:06:56【5】むっくん さん
問十について
問十の合併特例法についてですが、稲沢市の合併協議会HPで上手くまとめられています。

合併特例法第6条第1項、同条第2項、第7条第1項のいずれかに該当するか否かが鍵となります。

ややこしいところは
合併後、最初の一般選挙においても、関係市町村の協議により合併特例法の定数特例(編入合併特例定数)によることができる
というところでしょうか。
飽くまでも「できる」ということに過ぎませんから、合併後の最初の選挙において合併特例法第6条もしくは第7条に該当しなくなることもあります。該当しなくなった市については当然のことながら本問の答の候補からは外れます。

とりあえずご参考まで。
[71623] 2009年 8月 12日(水)00:47:08【3】むっくん さん
第二十三回十番勝負感想
十番勝負の感想を書かせて頂きます。順番は問題順です。

問一:複数の衆議院小選挙区がある市
衆議院解散記念?とあったので衆議院関連のものをIssieさんHPで探したら問一が見事ビンゴでした。未答県の徳島県より美馬市を解答。

問二:JRの鉄道路線名と同名の市(○○線・○○本線)
金メダルの中央市で迷宮に入り込んでしまいました。アナグラム第二ヒントが出て気付く始末。それにしても不覚の一言に尽きます。時刻表を見て最初に目に入った高山線から高山市を解答。

問三:第91回全国高校野球選手権大会出場校の所在市
これは、保留が続出したことから何気なく高校野球かもと思い調べたらビンゴでした。その数日後のことですが、たまたま仮眠後にテレビ(KBS京都)で高校野球の京都府地区大会を見たところ、9回裏に2点を入れ逆転勝ちした龍谷大学付属平安高校の監督インタビューをやっていました。そこであわててPCを立ち上げ、京都市を答えたのでした。朝日新聞や京都新聞のサイト上に京都府の代表校が掲載される数分前のことでした。
この行動が[71136]U-4さんでの一言につながったのだと思われますが。。。

問四:同音異字の都道府県市区町村郡がある市
アナグラム第一ヒントで分かりましたが、未答県(高知県)の市を答えようとするあまり確認を怠って四万十市と先走った解答をしてしまいました。数をしっかり数えないといけないですね。
再度の解答で同じ高知県の市である香南市を解答。

問五:平成の大合併以降、人口が5万人以上増加した市
(同一市名の単純比較:2000年国勢調査人口と2008年10月1日推計人口比較)
2000年国勢調査人口と2005年国勢調査人口の単純比較だと思っていました。なるほど、この共通項だからこそ、誰も鳥取市を答えないわけですね。鳥取市の誤答後、鹿児島市を解答したときには共通項に気付いていませんでした。
問題の市を答えたり既出の市を答えたりはするまい、と考えていましたが、今回も本問で問題の市の横浜市を答えてしまいました。がくっ。

問六:スイカの収穫がある市(農水省H18年出荷統計による)
スイカかもとは思いはしましたが、アナグラム第二ヒントが出るまでは確信出来ませんでした。黒部スイカというスイカがあるので、黒部市と答えて×。
では出荷量かと思いましたが、どうやって調べたらいいのか分かりません。愛知県で数市が正解となっていたので、愛知県で一番の産地であろうと思われる田原市を答えました。共通項が出て初めて線引きが分かり、田原市は愛知県で一番の産地であることも分かりました。

問七:47都道府県の人口密度に各々一番近い市
脱帽の一言につきます。同種の問題で視点を変えるというグリグリさん好みの問題ですね。
第三ヒント直後にたつの市と解答して○となりましたが、誤答の名古屋市は何故選択したのか今では思い出せません。

問八:夜景100選がある市
第二ヒントの「火薬」から花火が頭から離れず、なかなか共通項にたどり着きませんでした。アナグラム第三ヒントが出てようやく気付き、越前市を解答。

問九:複数の村に隣接する市
共通項に気付いたのは実那川蒼さんの伊賀市[71193]にて。この答がなければもう少し苦しんだかもしれません。八代市を解答。

問十:市議会議員定数に合併特例法が適用されている市
かつて、合併協議会のHPよりこれ関連を少々調べたことがあります。
しかし合併協議会のHP及び市の例規集のみを情報源とすると、例えばむつ市の場合、選挙区が地方自治法第91条5項の規定によるのか、市町村の合併の特例に関する法律第7条4項5項の規定によるのかが分かりません。前者ですと市議会議員選挙は地方自治法に基づいて行われるのに対して、後者では市議会議員選挙は市町村の合併の特例に関する法律に基づいて行われることになります。

今回の問十では本問の共通項を一瞥して思いつきはしたものも、確かどちらか(地方自治法or市町村の合併の特例に関する法律)を調査する手段がない市(e.g.むつ市)もあったよな、選挙関連のことが問一でも問題となっているから違うかもと少々迷います。そして稲沢市が翌日の一回目の採点[71004]で○とされたということが決め手となりやはり違う共通項を思いついたものと判断しました。

第四ヒント「市議」が出て、稲沢市が○ではなくなった([71467])ことと相まってようやく当初の共通項で良かったのだと気付きました。
答えるにあたっては、市区町村変遷情報から近時の合併を抽出し、その中よりさらにザ・選挙で市町村の合併の特例に関する法律にからみそうなもの(地方自治法第91条1項の条例による定数を越える市、地方自治法第91条2項の法定数を越える市、若しくは増員選挙を行っている市、若しくは全市一区でなく選挙区ごとに分かれている市)を抽出しました。後の二つは特別法である市町村の合併の特例に関する法律に関わらない可能性があるため、答には安全策として、地方自治法第91条2項の法定数より多い一関市を選びました。

この問題は、全国市議会議長会のHPに行き着かないと答えられません。あと、想定解数は40市ではなくて39市ではないでしょうか。>[71608]グリグリさん。


今回も前回同様何とか全問答えることができました。有難うございました。
[71511] 2009年 8月 8日(土)06:51:56むっくん さん
十番勝負
問七:たつの市
[71509] 2009年 8月 8日(土)06:09:46むっくん さん
十番勝負
問七:名古屋市
[71502] 2009年 8月 8日(土)00:04:07むっくん さん
十番勝負
問十:一関市
[71478] 2009年 8月 7日(金)13:43:08むっくん さん
大島支庁
でるでるさんへ

市区町村変遷情報・東京都
170 1992.04.01 改称 大島支庁新島村 大島支庁 新島本村

170 1992.04.01 改称 新島村 新島本村
と大島支庁を省いた方が良いのではないでしょうか。
大島支庁とはもともとは勅令第94号(M33.3.31)でM33.4.1に設置された大島島庁に由来するもので、勅令第217号(T15.6.24)でT15.7.1より大島島庁は大島支庁となりました。

同様の来歴を持つものとして、島根県隠岐の隠岐支庁、長崎県対馬の対馬支庁(2005年より対馬地方局)、鹿児島県大島郡の大島支庁などがあります。例えば市区町村変遷情報・鹿児島県で、鹿児島県大島郡での廃置分合の記載を見てみますと
216 2006.03.20 新設 奄美市 名瀬市, 大島郡 住用村, 笠利町
と記載されており、「大島支庁」との記載はありません。
[71471] 2009年 8月 7日(金)12:09:43むっくん さん
十番勝負
問六:田原市
[71469] 2009年 8月 7日(金)11:31:36むっくん さん
十番勝負
問五:鹿児島市
[71452] 2009年 8月 7日(金)00:06:07むっくん さん
十番勝負
問五(再答):鳥取市

再答理由:問題を答えたため
[71446] 2009年 8月 6日(木)23:35:05むっくん さん
十番勝負
問五:横浜市
[71409] 2009年 8月 5日(水)22:45:24むっくん さん
十番勝負
問八:越前市
[71408] 2009年 8月 5日(水)22:37:51【1】むっくん さん
富来での資料提供
富来についての議論を楽しく拝見しています。
さて、議論の一助となるべく、私からも資料の提供をします。

まず明治期の石川県の町村名については石川県史第四巻(編・出版:石川県、S6.3.31)に記載があります。

牛下村、生神村、領家七海村、七海村、地頭町村、領家町村、高田村
の7村が合併して明治22年4月1日に成立した富来村の範囲に限定するならば、

明治5年11月の町村名は、牛下、生神、領家七海、七海(以上、能登国第七区(羽咋郡)一番組の一部)、地頭町、領家町、町本江、高田(以上、能登国第七区(羽咋郡)二番組の一部)です。
明治9年末に実施された区画でも、牛下、生神、領家七海、七海、地頭町、領家町、町本江、高田(以上、いずれも能登国第八大区(羽咋郡)小二区の一部)
明治17年6月の改定町村区画でも、牛下、生神、領家七海、七海、地頭町、領家町、町本江、高田(以上、いずれも羽咋郡地頭町村戸長役場所属の村の一部)
明治20年5月に町本江村は地頭町村に編入

となっています。
また明治5年11月の町村名としているのは、M5.11.17に白山麓18ヶ村が足羽県から石川県能美郡へ編入([68512])されたことを反映させるために便宜上その年月での町村名としたかの記載があります。ということは、おそらく廃藩置県当時の町村名は白山麓18ヶ村がないことを除くと明治5年11月の町村名と一致するものと考えられます。
つまりは明治22年に成立した富来村の範囲において、廃藩置県直後から明治22年3月31日までの変化は町本江村の編入の一点だけであるものと考えられます。

その他の資料では
加賀能登越中市村区分一覧表(編著・出版:小島致将、M10.4.)・・・明治9年末の記載に同じです。
石川県下町村名集(編著・出版:小沢重三郎、M10.6.)・・・明治9年末の記載に同じです。
改正石川県下市村名藪・能登国(編著:桜井外次郎、出版:三友堂、明15.11.)M14.1現在・・・牛下、生神、領家七海、七海、地頭町村、領家町、町本江、高田(町本江村は12コマに記載)で明治9年末の記載に同じです。


次に、近代デジタルライブラリー所蔵書物に羽咋郡誌(編・出版:石川県羽咋郡役所、M42.9.5)という書物があります。今回の議論に関係しそうなところのみをピックアップします。
31コマでは、羽咋郡では太閤検地の後、3郷10荘5保3院が村切りによって231村(及び61垣内)に分けられたこと、そして富木院での村名は、
七海 地頭町 高田 小室 廣地 江添 大西 貝田 田中 和田 今田 八幡 八幡座主 給分 中泉 相坂 里本江 草江 稲敷 大鳥居 栢木 大福寺 酒見 相神 中濱 領家町 外ニ無家町本江 飯室
と記載されています。
32コマでは[71198]okiさん御紹介の「能登名跡志」よりとした上で3郷10荘5保3院が4郷(押水郷、邑知郷、志賀郷、富来郷)に再編されたとあります。そして富来郷の項目では
富来郷は旧の富木院・藤懸郷・熊野方郷・釶打郷・稗造荘を併称す
と記載されています。
35コマでは
富来は富来郷唯一の名邑なり市街は富来川を以て地頭町・領家町の二に分たれ元は二者を合せて富来駅と称へ富来町村といへり
と書かれています。


--------------
余談ですが、私は過去に明治の大合併で成立した町村名の由来を、西日本のいくつかの府県で調べたことがあります。

調べた府県に限定すると、明治の大合併で成立した町村名の由来は、
(A)故事来歴が著しいもの
(B)大村の名をとったもの
(C)古昔の郷名(もしくは庄名)をとったもの
(D)河川名等によるもの
(E)旧村名を参互折衷したもの
(F)郡名をとったもの
(G)社寺名をとったもの
(H)地勢その他によるもの
の8つに大まかに分類できました。

そして(A)(B)(C)(D)もしくはその複合形態が由来の多数を占め、最も多いのが何らかの形で郷名(もしくは庄名)が介在する形態です。つまりは(C)、(B)と(C)の折衷、(C)かつ(D)というものでした。

ではでは、今後の議論を楽しみにしています。


【1】富来周辺→石川県 と修正
[71332] 2009年 8月 3日(月)10:33:41むっくん さん
十番勝負
問九:八代市
[71307] 2009年 8月 2日(日)22:55:58むっくん さん
十番勝負
問六:黒部市
[71298] 2009年 8月 2日(日)22:29:45むっくん さん
十番勝負
問二:高山市
[71294] 2009年 8月 2日(日)18:57:12むっくん さん
十番勝負
私も今度こそ・・・。

問四:香南市
[71265] 2009年 8月 2日(日)09:34:25むっくん さん
十番勝負
問四:四万十市
[71106] 2009年 7月 27日(月)14:32:59むっくん さん
十番勝負
問三:京都市
[70993] 2009年 7月 26日(日)02:46:56むっくん さん
十番勝負
問一:美馬市
[70928] 2009年 7月 24日(金)20:07:07【2】むっくん さん
隣接など
[70909]くるりさん
似た様なケースって平塚市以外にもあるのでしょうかねぇ。
最初に思いついたのは文京区立第七中学校と筑波大学附属中学校。Yahoo!地図だといまいち位置関係が分かりにくいので筑波大学附属中学校HPのアクセスマップも。
思いついたはいいものも、前者が公立で後者が国立なので、反則ですね。

京都市内だと朱雀第二小学校と朱雀第六小学校を思いつきます。
これも[70922]ペーロケさんの挙げられた事例と同様に
JRも跨ぐため点隣接と言うには微妙
ということになるのでしょうね。無論、JRの嵯峨野線(正確には前身の京都鉄道)が建設される明治30年以前ならば点隣接と言い切れたのかもしれませんが。

戦前にまで遡ると、京都市のここで、道路を挟んで小学校同士が隣接していたそうです。西側の現在の錦林小学校の建っているところが男子が通う小学校(錦林小学校)で、東側の現在は錦林小学校の運動場となっているところが女子が通う小学校(第二錦林小学校)であったとか。
戦後にこれら2つの小学校が合併して錦林小学校となりました。
そのため錦林小学校、第三錦林小学校第四錦林小学校はあるのに、第二錦林小学校はないということになったようです。
#正確には第二錦林小学校は戦後の合併以前に現在の近衛中学校の敷地へと移転したため、戦後まで2つの小学校が向かい合っていたわけではありません。


あと別件ですが、もう一件。
[70893]hmt さん
1906年の愛知県海東郡(1913海部郡)南陽村(現・名古屋市港区)[51607]は更に先輩。由来は知りません。
名古屋市港区HPによると
明治39年(1906)、福田村・福屋村・茶屋村の三村を合併するに当たり、尾張部の南端に位置し、伊勢湾に臨み比較的暖かさを感じさせるので、「南の陽(ひなた)」の意で「南陽村」と名付けられた。
とのこと。
[70905] 2009年 7月 21日(火)21:55:11【2】むっくん さん
Re:88さん将来構想&M30(1890).4.1付けの町村合併及び郡廃置
[70814][70815]88さん

岐阜県の修正作業お疲れ様です。
#実は[63716]拙稿での真意は大野郡の美濃国と飛騨国の記載を除くと、今回の修正作業の結果を意図したものでした。

さて本題に。
(1)A→B
(2)A・B
(3)A/B
(4)A:A
まず(3)(4)は88さんが市区町村変遷情報の記載にあたりこだわっておられる点なのですが、見る側としては(4)の、
津久井郡藤野町を相模原市に編入する
津久井郡城山町を相模原市に編入する
を分けることにあまり意義を見出せないので、詳細欄での対応にした方が良いのではないかと思いました。
次に(1)と(2)の分離ですが、今まで(1)と(2)の分離がないことをやや不満に思っていたこともあり歓迎です。

さて、こういうことは実際に試みてみないと問題点はあまり見つかりません。というわけで、大阪府で市制町村制施行以降地方自治法施行以前の分(M23~S22)を試みてみました。

その結果ですが、1928.4.1の泉南郡春木町の成立のみが(1)となり、1942.4.1の泉大津市の成立のみが(2)となり、(3)は多数あり、(4)は一つもありませんでした。
そして1915.11.10の西成郡玉出町の成立は、根拠たる府告示が見つからなかったため(1)であるのか(2)であるのか判りませんでした。

これらの変更にあたり問題となるのは、どれだけ根拠たる法令を入手できるのかということになるのではないでしょうか。特に(1)と(2)の分離をするには必要となります。
地方自治法施行後であるならば88さんの場合は情報を入手できるため困難はあまり生じないのでしょうが、地方自治法施行以前の場合、根拠の県告示や県令にどれだけあたれるのかは現状では未知数ですね。。。

個人的には、根拠法令を集めた後に現状から変更するのが現実的対処法かなとも思います。


[70820]hmtさん
郡が単なる地域呼称にすぎない存在になっている現在でさえも、「郡変更」は入力されています。例:安代町、稲武町。
これとのバランスを考えれば、「郡制」が施行されていた時代の町村についての所属郡変更は、「郡設置」との情報の重複など気にせずに、すべて入力しておくのが順当でしょう。
これは確かに正論であり、私も出来たらそのようにすべきなのかなと思います。
しかしながら、この入力を総てするというのには問題もあります。

1897.4.1の岐阜県の郡変更以外の箇所で、郡の変更に伴うところでの町村についての記載がないところは次の通りです。

1893.4.1での神奈川県 西多摩郡, 南多摩郡, 北多摩郡の東京府への移管に伴うもの
1896.4.1での84郡の新設に伴うもの
1897.4.1での31郡の新設に伴うもの
1898.10.1での5郡の新設に伴うもの
1899.4.1での5郡の新設に伴うもの
1900.4.1での10郡の新設に伴うもの
1913.7.1での1郡の新設に伴うもの
1923.4.1での1郡の新設に伴うもの
1956.9.30での1郡の新設に伴うもの
1968.5.1での1郡の新設に伴うもの
1969.4.1での1郡の新設に伴うもの
1972.4.1での1郡の新設に伴うもの

hmtさんの提案に従うならば、上記(ただし郡制が存在した1923年以前に限ることになるのでしょうか)の郡移管・郡新設に伴う総ての町村の記述をも、市区町村変遷情報に記載することになります。

例えば、岡山県では1900.4.1の10郡新設に伴う町村についての記載をすることにすると、1900.4.1には257町村(阿賀郡10、英田郡9、下道郡14、賀陽郡18、吉野郡10、久米南条郡11、久米北条郡13、窪屋郡11、御野郡9、勝南郡10、勝北郡13、真島郡21、西西条郡13、西北条郡5、赤坂郡15、大庭郡10、津高郡22、哲多郡9、都宇郡11、東南条郡4、東北条郡8、磐梨郡11)の追加記載が必要となります。
数が少ないのならば特に問題も無いのでしょうが、ここまで多いと果たして全部記載する必要があるのか甚だ疑問に感じます。少なくとも私には、例えばM22.4.1の他県の市制町村制施行時の情報を新たに入力することよりも優先順位が明らかに劣後するように思えます。
市区町村変遷情報・岡山県(市制町村制施行以降)で記載されているのは345項目に過ぎません。


では記載しないままでよいかと問われると、例えば1896.4.1の福島県での
15 1896.04.01 郡設置 石城郡 石城郡 菊多郡, 磐前郡, 磐城郡, 楢葉郡の一部 の区域をもって石城郡を設置
16 1896.04.01 郡設置 双葉郡 双葉郡 標葉郡, 楢葉郡の一部 の区域をもって双葉郡を設置
で、楢葉郡の各村が1896.4.1に石城郡、双葉郡いずれの郡の所属になったかを記載することに関してはある程度の実益があり、何らかの記載が必要だと思います。


以上の事を解決する選択肢としては、
(A)市制町村制施行時のように別途ページに独立させる
(B)詳細欄において対処をする
(C)重要度が低いことより、M22.4.1の他県の市制町村制施行時の情報入力を優先させる
(D)入力しない(つまりは無視)
の4通りが考えられます。

私見ですが、
「郡設置」との情報の重複など気にせずに、すべて入力しておくのが順当
であるとは言え、139郡(郡制廃止後も含めると144郡)もの「郡設置」に伴う町村についての所属郡変更をすべて記載するのは、多すぎて非現実的であるように思えます。
現実的には(C)もしくは(D)の2択となるのでしょう。


さて現時点で、郡変更からみでとりあえず修正が望まれるのは下記4箇所であると私は考えます。
以下の修正をお願いします。>88さん

兵庫県
12 1896.04.01 編入 神戸市 神戸市, 武庫郡 湊村, 林田村, 須磨村の一部

12 1896.04.01 編入 神戸市 神戸市, 「八部郡」 湊村, 林田村, 須磨村の一部
へ。

和歌山県
2 1896.04.01 町制 海草郡日方町 海草郡 日方村

2 1896.04.01 町制/郡変更 海草郡日方町 「名草郡」 日方村
へ。

岡山県
43 1900.04.01 編入 苫田郡津山町 苫田郡 津山町, 津山東町

43 1900.04.01 編入/郡変更 苫田郡津山町 「西北条郡」 津山町, 「東南条郡」 津山東町
へ。

広島県
32 1898.10.01 町制 比婆郡庄原町 比婆郡 庄原村

32 1898.10.01 町制/郡変更 比婆郡庄原町 「三上郡」 庄原村
へ。
[70896] 2009年 7月 20日(月)16:54:30【2】むっくん さん
「影」もしくは「陰」と付く自治体
[70881]チャッピーさん
[70882]k-aceさん

「影」もしくは「陰」と付く自治体を江戸時代(天保年間以降)まで遡って調べてみました。
ただし、私の作成したデータベース(下記10府県のみ)の範囲のみですが。。。

◎福井県
(1)坂井郡松陰浦・・・藩政村。M22.4.1に同郡鷹巣村の一部となり消滅。
(2)坂井郡国影村・・・藩政村。M22.4.1に同郡蘆原村の一部となり消滅。
(3)敦賀郡御影堂町(当時は敦賀県)・・・江戸期は港町・敦賀を構成する1町。M7に神楽町と改称して消滅。
(4)足羽郡福井松影町・・・M7に福井城下の5町が合併して成立(成立時は松影町)。M17に福井松影町と改称し、M22.4.1に福井市の一部となり消滅。

◎岐阜県
(5)郡上郡陰地村・・・藩政村。M30.4.1に同郡牛道村の一部となり消滅。([70882]k-ace さん)
(6)大野郡(飛騨国)日影村(当時は筑摩県)・・・藩政村。M8.1.__に同郡丹生川村の一部となり消滅。
(7)益田郡日影村(当時は筑摩県)・・・藩政村。M8.6.__に同郡高根村の一部となり消滅。
(8)各務郡影野新田・・・藩政村。M22.7.1に同郡那加村の一部となり消滅。

◎愛知県
(9)額田郡日影村・・・藩政村。M8.10.20に丸塚村を合併。M22.10.1に同郡奥殿村の一部となり消滅。

◎三重県
(10)桑名郡松陰新田・・・藩政村。M22.4.1に同郡伊曽島村の一部となり消滅。
(11)飯野郡陰陽村・・・明治初期に同郡豊原村から分立するが、M7.3.__に再び同郡豊原村の一部となり消滅。

◎滋賀県
「影」もしくは「陰」と付く自治体は幕末以降は存在しない。

◎京都府
(12)下京区御影町
(13)下京区御影堂前町
(14)下京区御影堂町
(15)上京区松陰町
(12)~(14)の下京区の3町は江戸期からの京都・下京の町です。(15)の上京区松陰町は元は御用邸だったところが、M7.5.__に京都・上京に編入されて松陰町と名乗ったところです。(12)~(15)の町は総てM22.4.1に京都市の一部となり消滅。
(16)加佐郡松陰町・・・旧・田邊城下の一部地域を以てM10前半に成立。M22.4.1に同郡舞鶴町の一部となり消滅。
(17)与謝郡島影村・・・天保国絵図では粟田枝郷・島影村と記載されているが、明治2年の旧国旧高取調では単に島影村と記載。M22.4.1に同郡粟田村の一部となり消滅。

◎大阪府
「影」もしくは「陰」と付く自治体は幕末以降は存在しない。

◎兵庫県
(18)兎原郡御影村・・・藩政村。M22.4.1の合併時でも石屋村、郡家村、東明村と合併して同郡御影町として存続(M29.4.1に兎原郡から武庫郡へと郡変更)。S25.4.1に神戸市に編入されて消滅。
(19)美嚢郡神影村・・・M12頃に2村合併で成立。M22.4.1に同郡上淡河村の一部となり消滅。
(20)七美郡日影村・・・藩政村。M22.4.1に同郡兎塚村の一部となり消滅。
(21)明石郡松陰村・・・藩政村。M22.4.1に同郡大久保村の一部となり消滅。
(22)明石郡松陰新田村・・・藩政村。M22.4.1に同郡大久保村の一部となり消滅。
(23)印南郡陰山新村・・・藩政村。M11.12.に同郡磐村の一部となり消滅。
(24)神東郡御陰村・・・M10頃に6村合併で成立。M22.4.1に同郡豊富村の一部となり消滅。
(25)城崎郡上陰村・・・藩政村。M22.4.1に同郡五荘村の一部となり消滅。
(26)城崎郡下陰村・・・藩政村。M22.4.1に同郡五荘村の一部となり消滅。
(27)城崎郡中陰村・・・明治初期に同郡下陰村より分立。M22.4.1に同郡五荘村の一部となり消滅。

◎奈良県
(28)添上郡陰陽町・・・江戸期の奈良205町の1町。M22.4.1に同郡奈良町の一部となり消滅。
(29)宇智郡山陰村・・・藩政村。天保国絵図では山影村と書かれているがM22頃には山陰村と記載されている。M22.4.1に同郡阪合部村の一部となり消滅。
(30)吉野郡陰地村・・・藩政村。M22.4.1に同郡宗檜村の一部となり消滅。

◎和歌山県
(31)和歌山区山陰丁・・・江戸期の和歌山城下町の1町で当時は名草郡に所属(M12.1.20より和歌山区に所属)。M22.4.1に和歌山市の一部となり消滅。
(32)日高郡見影村・・・藩政村。M22.4.1に同郡切目川村の一部となり消滅。

10府県のみですが、結構あるものですね。
[70786] 2009年 7月 11日(土)10:01:12むっくん さん
富来
横からですが。

[70779]千本桜 さん
明治22年に町村制下の富来村が発足したわけですが、そのとき何村と何村が合併して富来村が発足したのか。
県令第23号(M22.3.8)によれば、
牛下村、生神村、領家七海村、七海村、地頭町村、領家町村、高山村
の7村が合併して富来村が発足しました。
参照:[69698]拙稿

そして何という名の大字を設置したのかということです。
こちらの方は資料がないので何とも言えません。
ただ、石川県統計書大正3年(編・出版:石川県、T5.3.30)では大正3年末での富来村の字数が7で、その名称は牛下、生神、領家、七海、地頭町、領家町、高山となっています。
市制町村制施行時の県令での旧町村の順番と、後の府県統計書の町村における字の順番は同じことが大半より、

旧村名字名
牛下村牛下
生神村生神
領家七海村領家
七海村七海
地頭町村地頭町
領家町村領家町
高山村高山

という関係ではないかと推測しましたが、[70778]EMMさんの
富来村ができた後に領家七海が七海に合併されたこと
ということからは違う可能性の方が大でしょうか。。。
[70768] 2009年 7月 9日(木)21:24:11【1】むっくん さん
葛城
[70765]白桃さんの
「いわまはいまはかさま」(岩間は今は笠間)
に対抗して?、奈良県で。

葛城村→葛上村→御所市

ですから葛城(旧・葛城村)は葛城(葛城市)の区域にはない。

このような事例は他にあるのでしょうか。
[70749] 2009年 7月 7日(火)16:18:24むっくん さん
市大と私大
[70748]JOUTOUさん
市立と私立
両者を区別しなければならない時は、前者を「いちりつ」後者を「わたくしりつ」と呼びますが、そうでない時は両者とも「しりつ」と呼びます。ちなみに子供の時は高校野球の影響でしょうか、前者を「いちりつ」、後者を「しりつ」と呼んでいました。


JOUTOUさんのお題「市立と私立」から私もさらに脱線。

さて、私のお題「市大と私大」を皆さんは何と読みますでしょうか。
私は前者は「いちだい」と呼び、後者は「しだい」と読みます。

ところが場所が変わり名古屋ですと、前者も後者も「しだい」。そして名古屋で「しだい」と言うと、一般には「市大」、つまり名古屋市立大学を指す事にかつての私は軽い衝撃を覚えたのでした。「しだい」=「私立大学」ではないのかと。。。
[70710] 2009年 7月 4日(土)08:49:06【1】むっくん さん
今後の市区町村変遷情報の記載にあたって(その2)
[70709]の続きです。

(3)市制町村制施行に伴う合併の日付に関連して
明治22~23年に市制町村制が実施された45府県の内、42府県では市制町村制施行と同時に区町村の廃置分合も行っていますが、そうではないところがあります。

宮城県と千葉県では市制町村制施行の前日のM22.3.31に廃置分合&郡界変更を行っています。そして静岡県では静岡市のみが市制町村制施行当日のM22.4.1に、それ以外の町村はそれより一ヶ月前のM22.3.1に廃置分合&郡界変更を行っています。

市制町村制施行と同日付で全県で廃置分合&郡界変更が行われなかったため、宮城県仙台市と静岡県静岡市では市区町村変遷情報(市制町村制施行時)の記載に困ることになります。

(a)仙台市の場合
宮城県における廃置分合規定は、県令第8号(M22.2.9)、県令第9号(M22.2.9)及び県令第27号(M22.3.31)です。
ここで問題となるのが仙台市です。
1 新設/市制 仙台市 仙台区
と記載できれば何の問題もないのですが、他のところ(名古屋市や福岡市など)との関係上
1 新設/市制 仙台市 仙台区、仙台区○○町、(略)
と記すことになります。以前から仙台区に所属した町の記載は特に問題ないのですが、市制町村制が施行される前日に合併したところ(宮城郡荒巻村の一部、小田原村の一部、南目村の一部、南小泉村の一部)をどのように表記すればよいのか、私には分かりません。

(b)静岡市の場合
静岡県における廃置分合規定は、静岡市に関係するものは県令第18号(M22.2.26)、静岡市以外に関係するものは県令第17号(M22.2.26)及び県令第19号(M22.2.26)です。
このうち、県令第18号に記載されているのは安部郡&有渡郡に所在する静岡124町と、有渡郡川邊村の一部区域ですが、県令第18号での記載内容からすると、有渡郡川邊村の区域はせいぜい数筆程度であり、有渡郡川邊村はM22.3.1の時点でおそらく消滅していると考えるのが自然であると考えられます。
とすると、
1 新設/市制 静岡市 安部郡○○町, (略), □□町, 有渡郡△△町, (略), ××町, 川邊村の一部
とは記載できないでしょう。果たしてどのように記載するのが適当なのかが、私には分かりません。


(4)石川県の市町村の廃置分合の根拠
ここでは以前[68521]拙稿で書いた石川県の市町村の廃置分合の根拠を
誤:県令第23号(M22.3.8)
正:県令第2328号(M22.3.8)
と結論づけた経緯を記します。

まず石川県統計書明治21年(著・出版:石川県、M23.2.15)によりますと、M21.12.31現在の警察区画で、江沼郡大聖寺警察署管轄の町数は60、能美郡小松警察署管轄の町数は31、石川郡松任警察署管轄の町数は23、鳳至郡輪島警察署管轄の町数は4となっています。19コマでは江沼郡役所の所在地が大聖寺八間道、能美郡の所在地が小松小馬出町、石川郡役所の所在地が松任東一番町、鳳至郡の所在地が輪島河合町となっています。

次に石川県統計書明治22年(著・出版:石川県、M24.2.18)によりますと、M22.12.31現在の警察区画で、江沼郡大聖寺警察署管轄の町数は1、能美郡小松警察署管轄の町数は2、石川郡松任警察署管轄の町数は1、鳳至郡輪島警察署管轄の町数は1となっています。177コマでは江沼郡役所の所在地が大聖寺町字八間道、能美郡の所在地が小松町字小馬出町、石川郡役所の所在地が松任町字東一番町、鳳至郡の所在地が輪島町字河合町となっています。

これらを比較すると、石川県の市制町村制施行に伴う廃置分合の根拠規定を県令第23号(M22.3.8)だけであるとすると説明することができません。
県令第23号(M22.3.8)のみならず県令第28号(M22.3.8)も根拠とすることで初めて、明治22年4月1日に成立した「江沼郡大聖寺町」、「能美郡小松町」、「石川郡松任町」、「金沢市」、「鳳至郡輪島町」の1市4町の廃置分合の過程を説明することが出来るようになります。


(5)資料の誤りについて

(a)福井県
福井市の成立に伴う廃置分合規定は県令第18号(M22.2.16)で、[69698]拙稿では福井県現行諸令達(編著:福井県内務部第一課、出版:福井県、M25.5.17)に記載されているものを紹介しています。ここでは福井市を構成することになる町数は87、村数は1となっています。
しかしこれは他の資料と食い違います。例えば内閣が作成した公文類聚には市制町村制施行に伴う市制施行地及び郡界変更の経緯が「市制施行地郡区境界組替ヲ処分ス」(2府42県、東京府は別途まとめている)でまとめられており(注1)、それが国立公文書館にてPDFファイル(15.1MB)として公開されています(前稿[70709]の(2)で紹介済み)。その6コマには福井市を構成することになったのは越前国足羽郡福井86ヶ町、仝國仝郡石場畑方と記載されています。この福井86ヶ町とは地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、M20.10.)に記載されている町数や新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、M22.12.)などの記載と一致します。
この食い違いの1町とは「福井江戸中町」で、福井県現行諸令達以外では一切見ることが出来ません。これは「福井江戸上町」「福井江戸下町」があるから誤って「福井江戸中町」も書いたものであろうと推察します。
(注1):あくまでも市制町村制施行に関連しての市制施行地及び郡界変更の経緯のまとめであり、市制町村制施行と同日付ではないことに注意が必要。例えば宮城県や千葉県や静岡市(前稿[70709]参照)、そして栃木県&大分県の郡変更などは同日付ではありません。

(b)大阪府
大阪府の大阪市・堺市以外の郡部の廃置分合規定は府令第17号(M22.2.20)で[69698]拙稿では大阪府郡部町村名(編著・出版:吉田常三郎、M22.5.)を紹介しています。
しかし、この資料には誤りもあり、大阪府統計書(明治22年)(著:大阪府内務部第一課、出版:大阪府、M23.12.25)と比較して使う方がよいものと考えられます。

今後の参考となることを願い、あらかじめ完全な誤りの箇所を抜粋してみました。ただし「坂」or「阪」、「川」or「河」といった漢字表記の揺らぎについては原則記していません。

まずは大阪府郡部町村名(編著・出版:吉田常三郎、M22.5.)の誤りの箇所です。
・成立したのが西成郡手船村となっていますが、正しくは西成郡千船村です。
・東成郡天王寺村を構成する村の一つが東成郡阿武野村となっていますが、正しくは東成郡阿部野村です。
・島下郡車作村は島下郡石川村の一部となったと記載されていますが、正しくは島下郡見山村の一部となりました。
・島下郡玉櫛村を構成する村の一つとして島下郡水尾と記載されていますが、正しくは島下郡水尾村です。
・島下郡鳥飼村を構成する村の一つとして島下郡鳥飼八防と記載されていますが、正しくは島下郡鳥飼八防村です。
・大鳥郡向井村を構成する村の一つとして大鳥郡西万屋新田村と記載されていますが、正しくは大鳥郡西万屋新田です。

次は大阪府統計書(明治22年)(著:大阪府内務部第一課、出版:大阪府、M23.12.25)の誤りの箇所です。
・錦部郡天野村を構成する村の一つとして錦部郡天野村と記載されていますが、正しくは錦部郡天野山です。

(c)和歌山県
和歌山県に市制町村制が施行された時の廃置分合規定は拙稿[69697][69698]で示したとおりですが、正誤表が完全には反映されていません。
当時のオリジナルの県令が、国立公文書館よりPDFファイル(2.7MB)で公開されています。このPDFファイルの最後のコマに正誤表が記載されています。
#なおこのPDFでは、和歌山県の郡界変更を示した県令第14号(M22.2.22付)([69697]で紹介済み)、和歌山県の廃置分合規定である県令第15号(M22.2.22付)([69698]で紹介済み)、和歌山県に市制町村制が施行されることを示す県令第17号(M22.2.22付)([69698]で紹介済み)、それに伴う市役所町村役場位置を示す県令第20号(M22.2.27付)及び県令第15号の正誤表が記載されています。


以上が今後の市区町村変遷情報の記載にプラスとなることがあれば幸いです。
[70709] 2009年 7月 4日(土)08:48:54【1】むっくん さん
今後の市区町村変遷情報の記載にあたって(その1)
現在、市区町村変遷情報の入力作業は明治の大合併を遡っています。
明治22~23年に市制町村制が施行された45府県のうち、既に19府県の入力作業が完了しており、現在20府県目の入力作業が行われています。

今後、市区町村変遷情報(市制町村制施行時)を記載するにあたって、判断に苦慮させられるところや資料の食い違いで苦慮することがあります。後の記載時になって初めて、「どのように記載するのが適当なのか」と苦慮することは避けた方が良いと思いますので、先に紹介することにします。


(1)自治体名ではない区域が根拠たる県令に書かれている場合
この事例としては三重県飯高郡松阪町、同郡港村、同郡松江村、阿拝郡上野町、同郡小田村が挙げられます。

(a)飯高郡松阪町、同郡港村、同郡松江村の場合
まず県令第13号(M22.3.1)で飯高郡松阪町において記載されている松阪町作地というのは自治体名ではありません。ではこれは何なのかと言えば、おそらく松阪市街地にありながら松阪の各町の区域に含まれない、いわば附属している農地であると考えられます。
#市街地の各町に附属している農地というのはかつて滋賀県の長浜にもありましたが、こちらの方は明治14年に編入合併で消滅。

しかし自治体名ではなくても、「松阪町作地」の区域はおそらく松阪の市街各町の一部とはなっていないから県令では別途記載されているのでしょう。しかしながら「松阪町作地」を記載しないとすると、廃置分合の前後でその区域が異なるというおかしなことになるため、自治体名でなくても市区町村変遷情報に記載する必要があります。

次に港村においては県令第13号(M22.3.1)では「松阪市街地ノ内 字本町ノ内 反別二反三畝拾八歩、松阪市街地ノ内 字西町ノ内 反別五反八畝五歩」とあります。しかしながら松阪市街地は自治体名ではありませんので、松阪本町の一部,松阪西町の一部と書くのが正当なのであろうと考えられます。
同様に松江村においての「松阪市街地ノ内 字川井町ノ内 反別三反歩」も松阪川井町の一部と書くのが正当なのであろうと考えられます。
参考:地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、M20.10.)、三重県統計書(明治21年)(編・出版:三重県庁、M22.12.21)

(b)阿拝郡上野町、同郡小田村の場合
県令第13号(M22.3.1)によると上野町では「上野市街地ノ内 字坂居町 同 字寿町 同 字宮ノ腰 同 字幸町 同 字新地ノ内 反別一町六反六畝十七歩五合四夕 同 字新屋敷ノ内 反別三畝四歩六合二夕」とあり、小田村では「上野市街地ノ内 字上之平 同 字西之平 同 字万町ノ内 反別一町三反九畝七歩二合六夕 同 字新屋敷ノ内 反別一町八反二十三歩四合六夕 同 字新地ノ内 反別四反三畝三歩三合一夕」とあります。

この議論を始める前に上野市街地とされた区域はどこなのかを特定する必要があります。
まず、戦国時代に筒井高次が上野に来る以前からあった集落が上野村です。
そして、江戸時代は地子免除の上野城下町と、上野城下町に近接した上野村にある街道筋の町(農人町)が出来ます。上野城下町と農人町は江戸時代においては別のものとして取り扱われていました。
そして明治になって上野市街地と上野村とを分けたとき、上野村にある街道筋の町も上野市街地に含まれることとなり、上野村の範囲は筒井高次が上野に来る以前からの上野村の範囲に限定されることになります。ここで上野市街地は、上野城下町に加えて、近隣の村の村に点在する町の部分(農人町)を飛地として持つことになりました。無論、上野市街地とは、自治体としての名称ではありません。
#ちなみに明治5年の区制の時の資料では上野市街地との文字はなく上野町と記されています。そして、地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、M20.10.)でも上野市街地との文字はなく上野35町が記載されています。


ところで上野市街地と上野村とを分けるのとほぼ時期を一にした明治3年、上野に大水害が起こりました。
このとき低地に住んでいた人が移住したことで飛地が発生し、この痕跡が県令第13号(M22.3.1)で見て取れます。
さて、県令第13号(M22.3.1)で上野市街地ノ内とされている箇所を見ていきます。
まず「字坂居町」及び「字幸町」とは上野35町の1町である幸坂町の住民が移住したところです。「字坂居町」及び「字幸町」は地籍が「字坂居町」及び「字幸町」ではあるものの、住んでいる人は幸坂町の人々ということになります。
同様に「字寿町」は上野35町の1町である馬苦労町の住民が移住したところ、「字宮ノ腰」は上野35町の1町である万町の字地であったところ、「字新屋敷」「字新地」は上野35町の1町である小田村の住民が移住したところです。

さて市区町村変遷情報で如何に記載するかです。
例えば「上野市街地ノ内 字寿町」というのは、明治3年の洪水で被害にあった「上野馬苦労町」の人々の移住先で、元は上野城の西外堀であったところです。
一般的には江戸時代には、各藩が設定しない限り、城に○○町という名称はありませんでしたので、廃藩置県時には基本的には城の区域は自治体の空白地域となります。それが明治になってから、○○町という名称をつけることで、自治体の空白地域が解消されることになりました。
#城の区域と同様に、城下町の大きな寺の領域も自治体の空白地域でした。

ところが上野の場合は、例えば字寿町と土地に名称を付けたにもかかわらず、住んでいる人が別の馬苦労町の人々であったために、「上野市街地ノ内 字寿町」がおそらく自治体である「上野寿町」となれなかったという事情があります。そして「上野市街地ノ内 字寿町」は上野35町の区域でも周辺の村の区域でもありません。
県令第13号(M22.3.1)で「上野市街地ノ内 字寿町」というようなものをわざわざ記載したというのは、上野市街地には上野35町の区域に含まれず、かつ当然ながら周辺の村にも含まれない区域(e.g.「上野市街地ノ内 字寿町」など)があることの証左とも言えます。

さてこれをどのように記載するのが適当かですが、自治体ではないからといって「上野市街地ノ内 字○○」を記載しないというのは先ほどの「松阪町作地」と同じく不都合な点が出てきますので、採用できません。とはいっても、「上野市街地ノ内 字○○(一部)」という記載はいかがなものかとも思われます。
そこで、この5年後に小田村から城南村が分立した三重県告示第17号(M27.2.13)を参考にして記載するのが良いのではないでしょうか。この県告示第17号では「上野市街地ノ内 字○○」を「元上野町 字○○」と記載しています。

ということは、上野町及び小田村での記載において、「上野市街地ノ内 字○○」とは「上野町(一部)」と記載するのが、一番無難であると考えられます。ただし小田村にある「同 字万町ノ内 反別一町三反九畝七歩二合六夕」というのは先ほどの松阪の事例から考えるに「上野万町(一部)」と記載するのが適切であると考えられます。

参考:地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、M20.10.)、三重県統計書(明治21年)(編・出版:三重県庁、M22.12.21)、上野市史(編・出版:上野市、1961)


(c)以上の複雑な箇所をまとめますと次のようになります。
飯高郡松阪町では、松阪町作地も記載する。後述の飯高郡港村及び飯高郡松江村との整合性より、松阪本町,松阪西町、松阪川井町、の3町では「の一部」の記載もする。
飯高郡港村では、松阪市街地ノ内 字○○というものは、松阪本町の一部,松阪西町の一部と記載する。
飯高郡松江村では、松阪市街地ノ内 字○○というものは、松阪川井町の一部と記載する。
阿拝郡上野町では、上野市街地ノ内 字○○というものは、上野町の一部と記載する。後述の阿拝郡小田村との整合性より、上野万町では「の一部」の記載もする。
阿拝郡小田村では、上野市街地ノ内 字○○というものは、上野町の一部、上野万町の一部と記載する。


(2)枝郷が根拠たる県令に書かれている場合
江戸時代においては、郷帳に○○村枝郷△△村という形態で記載されているものは、例え枝郷であっても公的には一つの自治体としてみなされていました。
こういった自治体は明治5年の区制施行と同時に(遅くとも明治7年頃までには)各府県で大半がなくなったのですが、唯一三重県においては市制町村制施行時まで残ったところが2箇所(津市、安濃郡新町)ありました。

(a)津市
津市は安濃郡の
津56町、伊予町、的場、津興村、津興村ノ内・船頭町、津興村ノ内・上弁財町、津興村ノ内・柳山、津興村ノ内・阿漕町、津興村ノ内・下弁財町、岩田村、岩田村ノ内・岩田町、岩田村ノ内・宮ノ前、岩田村ノ内・佐伯町、岩田村ノ内・弓屋敷、岩田村ノ内・立合町、岩田村ノ内・西裏、岩田村ノ内・久留島、岩田村ノ内・野崎垣内、岩田村ノ内・元築造、岩田村ノ内・出口、岩田村ノ内・弓ノ町、岩田村ノ内・山中、岩田村ノ内・綿内、八幡町、藤枝町、栄町、下部田村の一部、下部田村ノ内・余慶町、乙部村の一部、塔世村の一部、古河村の一部、藤方村の一部
が合併して成立しました。この中で例えば、「津興村ノ内・船頭町」というのは津興村と別個独立した自治体ではあるが、その町の地籍は津興村にあるということになります。
自治体か否かを重視する市区町村変遷情報では「津興村」とは別個に「津興村ノ内・船頭町」を記載する必要があります。

ではその記載方法です。
単に“船頭町”と記載する、“船頭町”と記載した上で詳細情報に“津興村ノ内”と記載する、単に“津興村ノ内・船頭町”と記載する、という3つの方法が考えられます。とは言え、最後の“津興村ノ内・船頭町”と記載するという以外の選択肢は実はありません。

といいますのも、今後市区町村変遷情報はさらに年度を遡ることになるのでしょう。そして明治14年頃まで記載することになったとします。この時、例えば当時の兵庫県神戸区には、“橘通三丁目”、“坂本村ノ内・橘通三丁目”が隣接して存在しています。この記載を問題なく行うためにはM22.4.1の段階で、“津興村ノ内・船頭町”と記載しておかなければなりません。
#なお、上述の津56町に含まれる鷹匠町、西ノ口出屋敷、西裏、馬場、榎ノ下の各町はかつては地籍が塔世村にある枝郷の自治体でしたが、明治17年の連合戸長役場の管轄資料によればこの当時は既に独立した町となっていました。


(b)安濃郡新町
安濃郡新町は古河村、刑部村、古河村/刑部村ノ内・八町、神納村、南河路村の1町4村が合併して成立しました。


参考:地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、M20.10.)、県令第12号(M22.3.1)、県令第13号(M22.3.1)、三重県統計書(明治21年)(編・出版:三重県庁、M22.12.21)(248-251コマ)、津市史第4巻(著:梅原三千、西田重嗣、出版:津市役所、1965)27,28,43-45頁、市制施行地郡区境界組替ヲ処分ス(PDF)(編:内閣、M22.6.)


#私は市制町村制施行時に枝郷がからむ事例というのを上述の2例(津市、安濃郡新町)以外には知りません。

次稿に続きます。
[70687] 2009年 7月 1日(水)23:49:41むっくん さん
茅の輪くぐり&お千度の儀
[70669]EMM さん
むっくんさんが触れている「夏越祓」も同じ行事ですが、「大祓」とか「夏越祓」という名ではなく、とにもかくにも「茅の輪くぐり」の日なんですよね。
はい、確かにそうでした。夏越祓(茅の輪くぐり)とでも書くべきで、肝心のところ(茅の輪くぐり)が抜けていました。
「夏越祓」での「茅の輪くぐり」は、京都においても、行われていない神社も少なくありませんでしたが、ここ10年でかなりの神社で復活してきています。
また京都では「茅の輪くぐり」にあたり、「水無月の 夏越の祓 する人は 千年の命 延ぶといふなり」という歌を唱えながら執り行う神社、唱えないで執り行う神社の2通りがあります。
参考:マリアの京都*フォト日記


さて本日7月1日は、京都では1ヶ月に及ぶ祇園祭の始まりの日であります。
今年も八坂神社で「お千度の儀」が無事執り行われたとの報道があり、いよいよ夏本番だな、という気持ちにさせられます。
[70668] 2009年 6月 30日(火)21:37:29【1】むっくん さん
水無月
本日は6月30日。1年もはや半年を過ぎようとしています。
京都では本日、夏越祓(なごしのはらえ)という、1月から6月までの半年間の罪や穢れを払い、残り半年を無事に過ごせるようにと祈願する神事が、各神社で執り行われました。

とは言っても現在ではどちらかと言えば、6月30日とは京菓子の「水無月」を食べて暑気を払い邪気を取り払う日であるという意識の方が強いです。

「水無月」の源流を遡りますと、旧暦の6月1日に宮中で、冬の間に氷室に保存しておいた氷を切り出して、口にして暑気を払う(疫病除け)行事に行き着きます。
それがその後、宮中では氷室の氷のかわりに氷餅や凍餅という、氷の形をした餅を贈る習慣が生まれました。
さらにその後、宮中外の庶民にも伝わり、氷に見立てた白ういろうを三角に切り(三角に切るのは氷のかけらに見立てているという意味を持つ)、その上に小豆(悪魔払いの意味を持つ)をのせた水無月を食べることで、暑気払い&邪気除けになるとされました。
参考:京都捜索隊

以前氷室関連のこととして、[42735]EMMさんで
金沢では旧暦の6月1日に近い7月1日が現在でも「氷室の日」と呼ばれ、氷室饅頭を食する日
とありましたが、本家・京都でも氷室由来の行事は未だ脈々と受け継がれています。
[70574] 2009年 6月 22日(月)22:42:37むっくん さん
尼崎
[70571]hmtさんで「○が△」という形の地名を
タイプ1 「が」の部分を書かない漢語風の表記「○△」
タイプ2 ○と△とが「が」で連結していることを示すため、両者の間に小さな「ヶ」を挿入した「○ヶ△」
タイプ3 大きな「ケ」を挿入した「○ケ△」
と三つに分類されています。

さてこれを見て思いついたのが尼崎。「尼ヶ崎」と「尼崎」の間で揺らぎを見せています。

天保国絵図(摂津国)(編:江戸幕府、天保9(1838)年)を見てみますと、城の名前は「尼ヶ崎城」であり、その城下町は「尼崎町」となっています。
明治に入ってすぐに作成された旧高旧領取調帳(編:明治政府)では「尼ヶ崎村」(国立歴史民俗博物館作成の旧高旧領取調帳データーベースによる)とあります。
明治7年に兵庫県が作成し内務省に提出した兵庫県管下各区並村名取調書では「尼ヶ崎○○町」となっています。
その後郡区町村一覧(編著:内務省地理局、M14.3)ではM13の時点で「尼ヶ崎町」、兵庫県統計概表明治14年(著:兵庫県庶務課、M18.8.)ではM14.12.31の時点で「尼崎町」、地方行政区画便覧(編著:内務省地理局、M20.10)ではM19.1.の時点で「尼ヶ崎町」となっています。
M22.4.1に市制町村制が兵庫県に施行された時には、県令第24号(M22.2.22)にて近隣の別所村, 竹谷新田村, 大洲村, 大崎村, 西難波村の一部と合併して「尼ヶ崎町」として発足しました。

明治22年の市制町村制施行以降では、兵庫県の統計資料では明治23年までが一貫して「尼ヶ崎町」で明治20年代後半以降からは一貫して「尼崎町」となっていました。ところが国の作成した資料では尼崎市の一部となって消滅するまで当然「尼ヶ崎町」となっており、相違があります。

ではその後です。尼崎市が成立した時の根拠法令の内務省令第15号(T5.3.29)を見てみますと
明治44年法律第68号市制第3条及同年法律第69号町村制第3条に依り大正5年4月1日より兵庫県川辺郡尼ヶ崎町を廃し其の区域と同郡立花村の内大字東難波村及西難波村の区域とを以て尼崎市を置く
とあります。ということは、「尼ヶ崎町」から「尼崎市」となったことが分かります。


さて、上述の揺らぎをどのように見るかですが、これに関し「南部再生」の28号に、
江戸時代には「尼崎」「尼ヶ崎」「尼カ崎」といった表記が混用されますが、明治22年(1889)の町発足時に「尼ヶ崎町」と定められ、続いて大正5年(1916)の市制施行時には、古来公式文書や戸籍簿のうえで「尼崎」という表記が基本だったという理屈を町側が申し立てて認められ、「尼崎市」となりました。
と尼崎市史を基にしたと考えられる記述がありました。この記述からすると、少なくとも自治体名については、本来的には誤記であったにせよ公式に「尼ヶ崎町」として用いられていた時期があり、「尼ヶ崎町」から「尼崎市」になったということが言えそうです。
ただ、地名の尼崎の記述形式については、尼崎市では
尼崎市のHPでは,歴史コーナーの中で古い時代も含めて「ヶ」のない「尼崎」で統一しています。([64928]Issieさん)
という立場を取っています。無論尼崎市の立場では「古来公式文書や戸籍簿のうえで「尼崎」という表記が基本だった」とする以上、尼崎市HPでの記述形式を統一する方法は納得できるところです。


さて上述に関連して市区町村変遷情報(兵庫県)を見てみます。現在は
41 1916.04.01 新設/市制 尼崎市 川辺郡 尼崎町, 立花村の一部
と記載されていますが、法的な観点からは
41 1916.04.01 新設/市制 尼崎市 川辺郡 尼ヶ崎町, 立花村の一部
と書くのが正しいようです。>88さん
[70557] 2009年 6月 21日(日)00:02:30むっくん さん
エラーメッセージ
[70550]オーナー グリグリさん
まず、エラーメッセージで要した時間ですが、その後再度同一キーワードで検索した時とほぼ同一の時間であったと思います。実際に該当しないキーワードを指定した時に比して明らかに短かったと記憶しています。

複数のキーワードを区切る空白ではなくキーワードを指定するカラムの先頭や末尾に意図せずに挿入してしまう空白
この空白を入れた可能性はおそらくないのではないかと思います。
#随分前のことであり、完全にうろ覚えとなっています。申し訳ありません。

ただこのエラーメッセージが出た週は、私のPCのブラウザ(Opera)の挙動がおかしかったこともあり、原因が閲覧者たる私の方にあることも考えられ、同一の症状が再現するかということ自体に現状では疑問符が付きます。
つきましては、こちらの方で同一エラーが再現した時に再度対策をお願いしたい、と考えていますがいかがでしょうか。
[70469] 2009年 6月 12日(金)19:29:57【1】むっくん さん
夜久野3村
[70463]k-aceさん

2ヶ月後に夜久野町と上夜久野村が合併するにもかかわらず、なぜ大油子・小倉地区は夜久野町から上夜久野村に編入されたんでしょうか?
一言で言えば、紛糾した3村の合併論争を、新市町村建設促進法(昭和31年法律第164号)に基づき、知事が裁定して何とか1町への合併にこぎつけた結果ということになるのでしょうか。

時系列で見てみますと、3村を1町へといきなり合併することが出来ませんでした。そのため3村を2町村にするというクッションを置いてから(境界変更はこれに付随するもの)、改めて2町村を1町へと合併させたということのようです。

昭和の大合併では、多くのところで新制中学の設置箇所をめぐって紛糾しましたが、夜久野3村もその例外ではなかったようです。

詳しいことは京都府HPの京都府内の市町村の歴史(PDF)6-7コマ、44コマの説明に譲るとします。

なお、境界変更の期日は市区町村変遷履歴情報に記載されている1958年11月1日でよいものと思われます。
[70299] 2009年 5月 26日(火)21:44:07むっくん さん
平成教育学院でのクイズ
[70291]ガソリンさん

文字情報だけではすぐに閃かなかったので、平成教育学院のHPでのオリジナルの問題を見たところ、答はなんとか導き出せました。
大学2年生の時にサークルの新歓合宿で出題者として出題したこともある(お題の市は異なります)のに、なぜすぐに解けないのでしょうか。
[70258] 2009年 5月 22日(金)15:01:31むっくん さん
北海道に存在した広大な村
[70233]k-aceさん

一級町村制、二級町村制が施行された後に限定しないのならば、明治30年7月の北海道庁告示第142号で成立した石狩国空知郡富良野村もありますね。その範囲としては、
南は胆振日高両国に接す、北は石狩国上川郡に界す、東は十勝国に界す、西は石狩国上川郡界より発する「ナエ」川を下り空知川に落合ひ同川を遡りて「モシリケシユオマナイ」川を遡り歌志内村及夕張郡に界す
とあります。今で言う富良野市(600.97km2)、空知郡上富良野町(237.18km2)、中富良野町(108.70km2)、南富良野町(665.52km2)の区域で、総計1612.37km2にもなります。

北海道って一度分立した自治体が再度合併するケースもありますが、分立したままのところもあります。戦前に広大な村があったのはなぜなんだろう?(未開拓地が多かったから?)
これはまさしくその通りなのではないでしょうか。
明治に入ってからの北海道での市区町村の成立順を見てみます。

(1)ある未開の地域に和人の集落が一つ出来ます。集落が継続的に形成されさらに発展することまで確認されたりすると、その周辺の広大な地域も含めて一つの村として北海道庁告示で公示されます。
北海道庁令第1号(M23.1.15)で成立した石狩国空知郡瀧川村(現:深川市の一部、滝川市)や、先に挙げた石狩国空知郡富良野村(現:富良野市、空知郡上富良野町、中富良野町、南富良野町)などがこの例にあたります。

(2)次に、村として成立しているところで別の未開の地域が新たに開墾されます。成立した別の集落とその周辺地域を以てして、別の村を作るのが適当とされれば別の村が分立して成立するのでしょう。
明治26年12月の北海道庁令第45号で月寒村より分立して成立した石狩国札幌郡広島村(現:北広島市)、明治32年5月の北海道庁告示第142号で石狩国樺戸郡月形村より分立して成立した石狩国樺戸郡浦臼村(現:樺戸郡浦臼町)などがこの例にあたります。

(3)そしてその後、北海道一級町村制や二級町村制が施行されます。

(4)(3)の一級町村制や二級町村制に際し、一級町村制や二級町村制を施行する地としてふさわしくないとして分立を余儀なくされるところもあります。
北海道庁告示第207号(M33.6.7)で石狩国空知郡岩見沢村(現:岩見沢市の一部)よりM33.7.1付けで分立を余儀なくされた石狩国空知郡北村(現:岩見沢市の一部)がこの一例です。

(5)とは言え、中には北海道一級町村制や二級町村制が施行された後に開発が進行したため(3)と(2)の時間的順序が逆になるところもあります。

ここで注目したいのは(1)で、特に比較的早くに1村として成立したところでは、1郡1村ないしはそれに近い形で村が成立したところも珍しくはありません。このため広大な面積を持つ村というのも出来たのではないでしょうか。
先に挙げた石狩国空知郡富良野村というのはまさしく1郡1村です。


[70240]hmtさん
河西郡大正村 は 1915年に3村合併で成立。市区町村変遷情報にも、本別村で記した[67007]の(7)にも記されていませんが、つかんぼやんと北海道年表 によると、大正村も二級町村指定。
これを読んで、[67007]で私が書き落としをしたのかと思いました。
改めて読み返しましたが、河西郡大正村を構成することになった3村(上帯広村,幸震村,売買村)には、内務省令第7号(M35.3.13)でM35(1902).4.1に二級町村指定されたことは書いており、書き落としではなくて一安心です。
では、なぜ内務省告示に記載が無いかといいますと、北海道二級町村制(勅令第37号)(M35.2.22)では
第六十五條 二級町村ト爲ス地ハ内務大臣之ヲ指定ス
と二級町村ト爲ス「地」とあります。
複数の二級村が合併したとしても、合併で成立する村の区域は二級村の指定を受けている「地」であるから、その「地」に新たに成立する村は当然に二級村でなる、ということに他ならないという論理なのでしょう。
ということで、現在の市区町村変遷情報の記載には当然何の問題もありません。
[70219] 2009年 5月 19日(火)02:38:03【2】むっくん さん
Re:「検索条件に合う記事は見つかりませんでした」
[70212]オーナーグリグリさん
(1) 現在も同様の現象は再現しますか?
再現しません。というより[70210]拙稿で書いたように
上記(1)(2)の操作は交互に平行して頻繁に行う
という作業をしていた時に生じていますので、より正確には、再現のさせようがないというのが実状です。

とは言え、この現象には先週だけで4回出会っています。
出会ったときのより詳細な検索条件ですが、書き込み者を「88」と指定しキーワードを「むっくん」と指定した時に1回、書き込み者を「むっくん」と指定しキーワードを「88」と指定した時に1回、書き込み者を「88」と指定しキーワードを「愛知」と指定した時に1回、書き込み者を「88」と指定しキーワードを「愛媛」と指定した時に1回
検索条件に合う記事は見つかりませんでした
なるエラーメッセージに出会っています。
いずれの場合でも検索による表示件数を5件としていました。

山野さんとMasAkaさんの詳細な報告を読むに付け、それら事例とはおそらく別物ではないかと思われます。

(訂正)
【2】表示件数の訂正
[70210] 2009年 5月 18日(月)06:25:50むっくん さん
業務連絡
グリグリさんへ

以下のような不可思議な症状?に遭遇していますのでお知らせします。

手順
(1)新規書き込みをするにあたり、プレビュー画面ですぐに書き込まず「まずプレビューで確認する」で数回書き込み内容を修正する。
(2)「これですぐに書き込む」をクリックして新規書き込みを終わらせる前に、新規タブで落書き帳の過去記事の記事検索をする。
(3)時々
検索条件に合う記事は見つかりませんでした
とのエラーメッセージが出る。
(4)エラーメッセージが出たタブを閉じる。
(5)別途新規タブを立ち上げ(2)と同一キーワードで記事検索を行う。今度は先ほどとは異なり、(3)のエラーメッセージが出ることなく、記事検索が通常の作動をして、欲していた記事が見つかる。

市区町村変遷情報がらみの新規書き込みをする時には、上記(1)(2)の操作は交互に平行して頻繁に行うのですが、以前は(3)のエラーメッセージが出ることはありませんでした。
#なお、私がこの不可解な症状?に初めて遭遇したのは、早くとも今月の10日だったと記憶しています。
#このエラーを確認した時の当方の環境はWinXP(SP3)/Opera9.63です。

[70202]山野さんと同一の不可思議な症状?なのかもしれませんが・・・。
[70115] 2009年 5月 14日(木)01:56:31【1】むっくん さん
最長所要時間を要する路線バスの経路など
[70107]EMMさん
国鉄バス名金急行線
過去に遡れば、この路線がおそらく高速道路を使わない一般乗合路線バスとしての最長所要時間を要するものなのでしょうが、現在ではどこなのでしょうか。

私が思いつくのは奈良交通の
新宮駅前(和歌山県新宮市)~熊野本宮(和歌山県田辺市)~十津川温泉(奈良県十津川村)~五条駅(奈良県五條市)~近鉄八木駅(奈良県橿原市)
の路線で所要時間は6時間30分になります。

この新宮駅前(和歌山県新宮市)~近鉄八木駅(奈良県橿原市)の路線バスには、過去には新宮駅前(和歌山県新宮市)~熊野市駅前(三重県熊野市)~河合(奈良県上北山村)~大和上市駅(奈良県吉野町)~近鉄八木駅(奈良県橿原市)という別の経路の路線もありましたが、現在では廃止されています(参考12)。現存していればこちらが最長時間だったのかもしれません。
なお、ぺとぺとさんが[48753]で挙げられていた
新宮駅前(和歌山県新宮市)~熊野市駅前(三重県熊野市)経由~河合(奈良県上北山村)
新宮駅前(和歌山県新宮市)~熊野市駅前(三重県熊野市)経由~池原(奈良県下北山村)
という2路線はこの区間運転便でしたが、奈良交通HPによると2006年9月末に廃止されたことで現存しなくなりました。


[70113]伊豆之国さん
大津駅から県内のみの経由で一番遠い駅は大津京駅(この駅には特急が止まるので、隣の唐崎駅か?)
大津京駅に停車する特急は他の滋賀県内の駅に停まらないので問題はないのですが、新快速が大津京駅に停まり唐崎駅に停まらないため、大津駅から県内のみの経由で一番遠い駅は隣の唐崎駅となります。

大津駅~大津京駅
本旨からはずれますが、公共交通機関を使い、県外に出ない方法で最も早くつくのは2駅間を直通するバスだと思います。所要時間は18分で、膳所で京阪/JRの乗換えをするよりは若干早いのではないかと思われます。
とは言え、ママチャリを利用すると所要時間は15分もあれば充分だったりしますが。
#余談ですが、大津京駅の1階出口から皇子山駅は200m強ですが、通常はこの間の道路にある信号に引っかかりますので、この待ち時間を期待値として加えますと、大津京駅から皇子山駅までの平均所要時間は4分弱といったところでしょうか。

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[70109]hmtさん
70000件達成記念記事の書き込みを興味深く拝見しております。
むっくんさん[48851]は、2006年のデビューで、長文の12位、文字数RKの17位
とありますが、私の文字数RKは17位ではなくて18位ですので修正をお願いします。
[69986] 2009年 5月 8日(金)22:00:53【4】むっくん さん
栃木県下都賀郡谷中村
[69977]hmtさん
合併に必要な谷中村議会の議決が行われないままの強制廃村という異例の手続き
私が廃村と言われて思い浮かぶのは、岐阜県の徳山村や福井県の西谷村などの事例です。しかしこれらの事例は、強制廃村という手段で行われたものではないため、参考とはなりそうもありません。


まず強制廃村の端緒は明治35~36年の第二次鉱毒調査委員会による報告書のようです。
(藤岡町HP>藤岡町の歴史谷中村記録からよみがえる姿5.合併から現在へ(1)~合併決定と買収~
これで政府の指導下の元、強制廃村の路を歩むことになります。

その後の経緯ですが、「谷中村滅亡史」(著:荒畑寒村、出版:岩波文庫、1999、原著は1907年8月発行)によりますと、当時の栃木県知事が
町村合併の件に付諮問
                   下都賀郡谷中村
下都賀郡谷中村は瀦水池設計に必要上其土地家屋等大半を買収し、村民を他に移住せしめるため、将来独立して法律上の義務を負担するの資格無きに至れると認むるにより、谷中村を廃して其区域を藤岡町に合併せんとす。
但本月十六日迄に意見答申すべし。
明治三十九年四月十四日     栃木県知事  白仁武
と諮問したようです。
谷中村の合併は町村制第42条の「急施を要する場合」でもないのに関わらず、この諮問が強引になされました。
その後、前掲「谷中村滅亡史」によると、この議題は4月15日に否決されたようです。

当時の町村の廃置分合について、権限を握っているのは知事(ひいては内務大臣)であり、町村の議決をも覆せました。
先に書いた栃木県知事からの諮問でも、谷中村の合併は町村制第4条3項の「公益上の必要あるとき」にあたるとみなされていましたから、当時の栃木県知事が地方官官制(明治38年勅令第140号)第6条及び町村制第119条に基づいて、谷中村を強制的に編入合併へと追い込んだものと私は推察します。


この後、前掲の谷中村記録からよみがえる姿5.合併から現在へ(1)~合併決定と買収~では
明治39年(1906)5月、栃木県は「告示第176号」で谷中村を廃し藤岡町へ合併する告示(こくじ)を行い、7月、谷中村は実質的になくなりました。
と書かれています。

ちなみにこの合併に付き、郡市町村廃置分合一覧表(明治36年12月31日-明治41年12月31日)(著・出版:内閣統計局、明42.12.10)では、明治39(1906)年7月1日に実施されたとあり、Wikipediaでは
5月11日、栃木県は7月1日をもって谷中村を藤岡町に編入すると発表。
7月1日、管掌村長の鈴木は、栃木県に、谷中村は藤岡町に編入したと報告。谷中村は強制廃村となる。
と書かれています。
これらの記載は、上述の藤岡町HPの記載と特に矛盾はありません。
以上より、強制的に谷中村を藤岡町へ編入合併した件は、1906(M39)年5月11日付けの県告示第176号により1906(M39)年7月1日に実施されたものと推察されます。

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関連条文

市制町村制(明治21年法律第1号)
町村制第4条 町村の廃置分合を要するときは関係ある市町村会及郡参事会の意見を聞き府県参事会之を議決し内務大臣の許可を受く可し
2(略)
3 町村の資力法律上の義務を負担するに堪へす又は公益上の必要あるときは関係者の異議に拘はらす町村を合併し又は其境界を変更することある可し
4(略)
町村制第42条 町村会は会議の必要ある毎に議長之を招集す若し議員四分の一以上の請求あるときは必す之を招集す可し其招集並会議の事件を告知するは急施を要する場合を除くの外少くも開会の三日前たる可し但町村会の議決を以て予め会議日を定むるも妨けなし
町村制第119条 町村の行政は第一次に於て郡長之を監督し第二次に於て府県知事之を監督し第三次に於て内務大臣之を監督す(略)

地方官官制(明治38年勅令第140号)
第6条 知事は内務大臣の指揮監督を承け各省の主務に付ては各省大臣の指揮監督を承け法律命令を執行し部内の行政事務を管理す


(訂正)
【1】誤字訂正
【2】根拠条文を変更
【3】表現を一部変更
【4】町村制第123条の言及を削除
[69931] 2009年 5月 4日(月)19:51:56むっくん さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時)大分県(その2)
[69930]の続きです。

211 新設/村制 南海部郡下入津村 南海部郡 竹野浦, 河内, 西野浦

211 新設/村制 南海部郡下入津村 南海部郡 「竹野浦河内」, 西野浦
ではないでしょうか。
確かに現行類集大分県官令全書第3帙 (編・出版:浜田至誠、明26.7.17)では竹野浦, 河内となっています。
しかし、大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)、大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、明42.3.25)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)では「竹野浦河内」となっています。
また、地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、明20.10)より明治19年1月現在でも「竹野浦河内」となっています。
以上より、単に現行類集大分県官令全書第3帙 (編・出版:浜田至誠、明26.7.17)が誤記載しただけなのではないでしょうか。


231 新設/村制 南海部郡明治村 南海部郡 庄木村, 大坂本村, 尺間村

231 新設/村制 南海部郡明治村 南海部郡 「床」木村, 大坂本村, 尺間村
ではないでしょうか。
確かに現行類集大分県官令全書第3帙 (編・出版:浜田至誠、明26.7.17)では庄木村となっています。
しかし、大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)、大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、明42.3.25)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)では「床」木村となっています。
また、地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、明20.10)より明治19年1月現在でも「床」木村となっています。
また、大分県統計書大正5年第1編(著・出版:大分県知事官房、大7.3.31)では大正5年12月31日には、明治村の区域にある大字は「床」木です。
以上より、単に現行類集大分県官令全書第3帙 (編・出版:浜田至誠、明26.7.17)が誤記載しただけなのではないでしょうか。


246 新設/村制 日田郡中川村 日田郡 湯山村, 「大鳥村」, 「柚野木村」, 赤岩村, 桜竹村, 女子畑村

246 新設/村制 日田郡中川村 日田郡 湯山村, 「合田村」, 赤岩村, 桜竹村, 女子畑村
ではないでしょうか。
参考:大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)


255 新設/村制 北海部郡下ノ江村 北海部郡 下ノ江村, 「黒岩村」, 田井村, 大野村

255 新設/村制 北海部郡下ノ江村 北海部郡 下ノ江村, 田井村, 大野村
ではないでしょうか。
参考:大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)


261 新設/村制 北海部郡佐賀村 北海部郡 久原村, 上野村, 細村

261 新設/村制 北海部郡佐「加」村 北海部郡 久原村, 上野村, 細村
迫村
ではないでしょうか。
確かに現行類集大分県官令全書第3帙 (編・出版:浜田至誠、明26.7.17)では佐賀村となっています。
しかし大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)、大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、明42.3.25)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)では佐「加」村とあります。
明治22(1889)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第34号(明23.10.6)でも佐「加」村とあります。
大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、明42.3.25)の上部欄外には
25年10月告示第66号を以て佐加村の加を賀と改む
とあります。
明治24(1891)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第29号(明25.7.15)では明治24(1891)年末は佐加村で、明治25(1892)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第37号(明26.7.27)では明治25(1892)年末は佐賀村となっています。内務省告示第37号(明26.7.27)の明治25(1892)年中の廃置分合の所に明治25年に佐加村を佐賀村としたことが記載されています。なお、市区町村変遷情報では
1 1892.10.28 改称 北海部郡佐賀村 北海部郡 佐加村
と既にその旨記載されています。


263 村制 北海部郡四浦村 北海部郡 四浦
280 村制 北海部郡保戸島村 北海部郡 保戸島

新設/村制 北海部郡四保戸村 北海部郡 四浦村, 保戸島
ではないでしょうか。
確かに現行類集大分県官令全書第3帙 (編・出版:浜田至誠、明26.7.17)では四浦村, 保戸島村となっています。
しかし大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)では四保戸村となっています。
明治22(1889)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第34号(明23.10.6)でも四保戸村とあります。
大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、明42.3.25)の上部欄外には
25年10月告示第66号を以て四保戸村を四浦村と改称し保戸島を割きて別に保戸島村を置く
とあります。
明治24(1891)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第29号(明25.7.15)では明治24(1891)年末は四保戸村で、明治25(1892)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第37号(明26.7.27)では明治25(1892)年末は2村に分かれています。内務省告示第37号(明26.7.27)の明治25(1892)年中の廃置分合の所に明治25年に四保戸村から保戸島村を分立し、その後と四浦村と改称したことが記載されています。ゆえに、市区町村変遷情報では上記の変更に加えて
1892.10.__ 分立 北海部郡保戸島村 北海部郡 四保戸村の一部
1892.10.__ 改称 北海部郡四浦村 北海部郡 四保戸村
を追記することになります。以前の記載では1892.10.28でしたが。


273 新設/村制 北海部郡川添村 北海部郡 宮河内村, 広内村

273 新設/村制 北海部郡川添村 北海部郡 宮河内村, 広内村, 種具村, 迫村
ではないでしょうか。
参考:大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)


277 新設/村制 北海部郡津組村 北海部郡 八戸村, 津久見村, 津久見浦, 千恕村

277 新設/村制 北海部郡津組村 北海部郡 八戸村, 津久見村, 津久見浦, 千「怒」村
ではないでしょうか。
大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)では不鮮明でよく分かりませんが、現行類集大分県官令全書第3帙 (編・出版:浜田至誠、明26.7.17)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)の各種資料では千「怒」村となっています。
また旧高旧領取調帳データベースでも豊後国海部郡千「怒」村となっています。

以上多数になりましたがよろしくお願いします。
[69930] 2009年 5月 4日(月)19:51:42むっくん さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時)大分県(その1)
>88さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時)大分県に誤りと思えるところがありましたので報告します。

本論に入る前にこの文章で用いた文献の紹介です。

(1)現行類集大分県官令全書第3帙 (編:浜田至誠、出版:八風堂、明26.7.17)
#市制町村制施行時の廃置分合に、明治26年3月末までの廃置分合も反映させたもの。([62863][69698]拙稿の表に記載のもの)
(2)大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)
#市制町村制施行時の廃置分合をそのまま記載。
(3)大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、明42.3.25)
#市制町村制施行時の廃置分合をそのまま記載している。欄外に明治40年3月末までの廃置分合を注釈を付け加えてある。
(4)新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)
#市制町村制施行時の廃置分合をそのまま記載。
(5)大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)
#市制町村制施行時の廃置分合に、明治24年2月ごろまでの廃置分合も反映させたもの。
(6)大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)
#市制町村制施行時の廃置分合に、明治26年末ごろまでの廃置分合も反映させたもの。
(7)地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、明20.10)
#明治19年1月現在の町村名を記載しています。
(8)大分県統計書大正5年第1編(著・出版:大分県知事官房、大7.3.31)
#大正5年末の町村大字一覧。
(9)明治22(1889)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第34号(明23.10.6)
(10)明治23(1890)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第30号(明24.7.8)
(11)明治24(1891)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第29号(明25.7.15)
(12)明治25(1892)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第37号(明26.7.27)
(13)明治26(1893)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第95号(明27.7.25)

(1)~(4)は総てにおいて参照し、(5)~(13)は適宜参照しました。

以下、本文中での参照資料としては各資料が一致しているものについては、原則として簡略化して(2)のみを記載しました。なお(1)は[62863][69698]拙稿の表で紹介したものですが、明治26年3月末までの廃置分合が反映されているため、明治22年の市制町村制施行時の記載としては誤りとなっているところもあります。

それでは紹介です。


9 新設/町制 宇佐郡四日市町 宇佐郡 四日市村, 城井村, 吉松村, 石田村, 葛原村

9 新設/「村」制 宇佐郡四日市「村」 宇佐郡 四日市村, 城井村, 吉松村, 石田村, 葛原村
ではないでしょうか。
まず現行類集大分県官令全書第3帙 (編・出版:浜田至誠、明26.7.17)では四日市町となっています。
しかし大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)、大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、明42.3.25)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)では四日市「村」となっています。
明治23(1890)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第30号(明24.7.8)では明治23(1890)年末は四日市村ですが、明治24(1891)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第29号(明25.7.15)では明治24(1891)年末には四日市町と村から町に変わっています。内務省告示第29号(明25.7.15)の明治24(1891)年中の廃置分合の所に明治24年に四日市村から四日市町と改称したことが記載されています。ゆえに上記の変更に加えて、市区町村変遷情報では以前は記載があった
1891.__.__ 町制 宇佐郡四日市町 宇佐郡 四日市村
と追記することになります。以前の記載では1891.11.2町制でしたが。。。


12 新設/町制 宇佐郡長洲町 宇佐郡 長洲村, 金屋村

12 新設/「村」制 宇佐郡長洲「村」 宇佐郡 長洲村, 金屋村
ではないでしょうか。
確かに現行類集大分県官令全書第3帙 (編・出版:浜田至誠、明26.7.17)では長洲町となっています。
しかし大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)、大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、明42.3.25)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)では長洲「村」となっています。
大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、明42.3.25)の上部欄外には
24年5月11日長洲村を長洲町と改称す
とあります。
明治23(1890)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第30号(明24.7.8)では明治23(1890)年末は長洲村ですが、明治24(1891)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第29号(明25.7.15)では明治24(1891)年末は長洲町と村から町に変わっています。内務省告示第29号(明25.7.15)の明治24(1891)年中の廃置分合の所に明治24年に長洲村から長洲町と改称したことが記載されています。ゆえに、市区町村変遷情報では以前は記載があった
1891.05.11 町制 宇佐郡長洲町 宇佐郡 長洲村
と追記することになります。以前の記載では1891.5.24町制でしたが。。。


62 新設/村制 西国東郡河内村 西国東郡 小田原村, 森村
79 新設/町制 西国東郡来縄町 西国東郡 来縄村, 界村, 「佐野村」

62 新設/村制 西国東郡河内村 西国東郡 小田原村, 森村, 「佐野村」
79 新設/「村」制 西国東郡来縄「村」 西国東郡 来縄村, 界村
ではないでしょうか。
確かに現行類集大分県官令全書第3帙 (編・出版:浜田至誠、明26.7.17)では来縄町であり、かつ佐野村は来縄町の一部となっています。
しかし大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、明42.3.25)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)では来縄「村」であり、かつ佐野村は来縄「村」の一部となっています。
大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)でも佐野村は来縄「村」の一部となっています。
また明治22(1889)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第34号(明23.10.6)でも来縄「村」とあります。
また、大分県統計書大正5年第1編(著・出版:大分県知事官房、大7.3.31)では大正5年12月31日には、佐野は河内村の区域にあり、高田町(来縄「村」は1907年に高田町の一部となる)にありません。


97 町制 速見郡浜脇町 速見郡 浜脇村
98 町制 速見郡別府町 速見郡 別府村

97 村制 速見郡浜脇村 速見郡 浜脇村
98 村制 速見郡別府村 速見郡 別府村
ではないでしょうか。
確かに現行類集大分県官令全書第3帙 (編・出版:浜田至誠、明26.7.17)では浜脇町、別府町となっています。
しかし大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)、大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、明42.3.25)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)では浜脇村、別府村とあります。
明治22(1889)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第34号(明23.10.6)でも浜脇「村」、別府「村」とあります。
大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、明42.3.25)の上部欄外には
26年4月告示第41号を以て浜脇村を浜脇町とし別府村を別府町と改称す
とあります。
明治25(1892)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第37号(明26.7.27)では明治25(1892)年末は浜脇「村」、別府「村」で、明治26(1893)年末の「市町村現住人口」を表した内務省告示第95号(明27.7.25)では明治26(1893)年末は浜脇町、別府町となっています。内務省告示第95号(明27.7.25)の明治26(1893)年中の廃置分合の所に明治26年に浜脇村を浜脇町とし別府村を別府町としたことが記載されています。
ゆえに上記の変更に加えて以前の記載にあった、
1893.04.__ 町制 速見郡浜脇町 速見郡 浜脇村
1893.04.__ 町制 速見郡別府町 速見郡 別府村
を追記することになります。以前の記載では1893.4.11町制でしたが。。。


125 新設/村制 大分郡東稙田村 大分郡 光吉村, 宮崎村, 田尻村, 岡川村, 鴛野村, 旦野原村, 寒田村, 高城村

125 新設/村制 大分郡東稙田村 大分郡 光吉村, 宮崎村, 田尻村, 岡川村, 鴛野村, 旦野原村, 寒田村, 高「瀬」村
ではないでしょうか。
参考:大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)


150 新設/村制 大野郡新田村 大野郡 西泉村, 小田村, 本城村, 久田村

150 新設/村制 大野郡新田村 大野郡 「玉田」村, 小田村, 本城村, 久田村
ではないでしょうか。
参考:大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)


166 新設/村制 大野郡野津市村 大野郡 野口村, 都原村, 老松村, 原村, 宮原村

166 新設/村制 大野郡野津市村 大野郡 「野津市村」, 都原村, 老松村, 原村, 宮原村
ではないでしょうか。
参考:大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)


176 新設/村制 直入郡松本村 直入郡 穴井迫村, 君ヶ園村, 渡瀬村, 向山田村

176 新設/村制 直入郡松本村 直入郡 穴井迫村, 君ヶ園村, 渡瀬村, 「岩瀬村」, 向山田村
ではないでしょうか。
参考:大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)


192 新設/村制 東国東郡国崎村 東国東郡 川原村, 北江村, 田深村, 安国寺村, 鶴川村, 「小原村」

192 新設/村制 東国東郡国崎村 東国東郡 川原村, 北江村, 田深村, 安国寺村, 鶴川村
ではないでしょうか。
確かに現行類集大分県官令全書第3帙 (編・出版:浜田至誠、明26.7.17)では小原村は国崎村の一部となっています。
しかし大分県管内町村一覧并里程表(著:春山荘平、出版:甲斐書房、明22.4)、大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、明42.3.25)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)では「小原村」の記載はありません。
小原村とは#193で単独村制をした小原村であり、単に現行類集大分県官令全書第3帙 (編・出版:浜田至誠、明26.7.17)で重複記載しただけなのではないでしょうか。

次稿へ続く。
[69917] 2009年 5月 4日(月)00:50:58むっくん さん
第二十二回十番勝負感想
十番勝負の感想を、正答順に書かせて頂きます。

問三:「岡」か「山」の文字 郡山市で○
「政令指定都市岡山市誕生記念」と書かれていて、何かこれに関連するものがあるだろう、と既に出た解答を見ていて、山が多いな、そして残りは岡か、という感じで気付きました。

問五:読みの最初と最後の文字で他の市名 大野市で○
深夜特急さんの尼崎市[69507]を見て、ふと安芸市を思いつきました。他の答を見て共通項の正しさを確認後、未正答県の福井県より大野市を答えました。

問一:複数の都道府県に隣接 いなべ市で○
解答の生駒市、高島市、甲賀市で隣接系とは気付きましたが、なぜか答えるのに二の足を踏んでしまいました。第一ヒントによって背中を押されてから答えました。

問六:はさまコレクション   さくら市で×、小山市で○
第一ヒントをあなぐらむへるぱぁ(笑)に掛けたら、すぐに共通項に気付きました。
はい、[69600]日本人さんと同じ手順です。
それにしても既出の市を答えることは何とかなくしたいものです。

問十:海から概ね500m未満 焼津市で○
第一ヒント提示後に、まず「埋立地にある市役所がある市」を共通項として調べるも、千葉市が×で方向が若干ずれていることに気付きました。
次に海岸線に近い市役所と方向転換してすぐに常滑市を思いつきました。しかし中部国際空港が出来たことで海岸が埋め立てられたこともあり、千葉市との関係上自信が持てませんでした。そこで日本最北端の市である稚内市より北から順に、オホーツク海、太平洋に沿ってしらみつぶしに調べました。誤答を避けるために、正誤の判断を辛めにしていたため、10都道県も調べることになってしまいました。

問七:4月に市長選挙 上天草市で×、湯沢市で○
第一ヒントを見て「投票」という単語に気付き、グリグリさんと同サイトから表を作成して答えました。適当に表を作成しなければ、誤答をせずに済んだものを・・・。

問四:都道府県の人口密度に一番近い 上天草市で○
第一ヒント提示後、既出の答をExcelに都道府県順に並べて、共通項に気付きました。問七で不正解となった上天草市を選択。
安来市を「あき」市と誤読して高知県の市と誤解し、都留市を東京都の市と誤解していたら共通項に辿り着くわけはないですよね(爆)。

問九:「桜」の文字がつく郵便局 寝屋川市で×、行田市で○
第一ヒントから住所に「桜」がある市を答えましたが×。第二ヒントの後、定番の郵便局に気付いて脱力しました。

問八:2005年国勢調査で前回調査より人口が3,000人以上減少 寝屋川市で○
第二ヒントの「国勢調査」を見て、国勢調査で記入する項目を調べたりと若干の遠回りはしましたが、すぐに本命のページを見つけられました。問九で誤答した寝屋川市を選択しました。

問二:鉄道が通っていない 栗東市で×、沖縄市で○
この問題は完答者の中ではどうやら私一人が非常にもがき苦しんだようで。
第二ヒントを苦心して何とか「鉄道がない」と気付いた後で、第一ヒントを「モノレールないよ」と、沖縄県に約6年前に出来たモノレールは除外なんだなと読んで検索スタート。
ここ1ヶ月は朝3時起きをしていている関係で、探している最中は凄まじく眠かったのですが、気力を振り絞って残り2市を北からしらみつぶしに探しました。そして、何とか見つかった1市が沖縄市でした。私の直前に答えられた中島悟さんが宜野湾市を選択されていたので、何とか滑り込めました。

今回は解の数も多く、何とか第十九回以来全問答えることができました。有難うございました。
[69889] 2009年 5月 3日(日)15:02:24むっくん さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時)宮崎県
>88さん
市区町村変遷情報(市制町村制施行時)宮崎県に誤りと思えるところがありましたので報告します。

本論に入る前にこの文章で用いた文献の紹介です。

(1)宮崎県史資料編 近・現代3(編・発行:宮崎県、1995)収録の宮崎県令第17号
(2)現行宮崎県令達彙纂(著:宮崎県内務部第一課、出版:宮崎県、明29.12.1)収録の宮崎県令第17号([69698]の表に記載)
(3)現行宮崎県令達彙纂(著・出版:宮崎県、明43)収録の宮崎県令第17号([62863]の表に記載)
(4)新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12(香川・愛媛県の部分は明23.6)))
#市制町村制施行時の廃置分合そのまま。
(5)大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)
#市制町村制施行時の廃置分合に、明治24年2月ごろまでの廃置分合も反映させたもの。
(6)大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)
#市制町村制施行時の廃置分合に、明治26年末ごろまでの廃置分合も反映させたもの。
(7)地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、明20.10)
#明治19年1月現在の町村名を記載。

#上記のうち(1)(2)(3)は形式が同じですが、(1)は完全に発行当時のものと同じもののようです。


それでは本論です。

2 1889.04.01 新設/町制 宮崎郡宮崎町 宮崎郡 上別府村, 上野町, 川原町, 江平町, 松山町, 瀬頭村

2 1889.04.01 新設/町制 宮崎郡宮崎町 宮崎郡 上別府村, 上野町, 川原町, 江平町, 「北那珂郡」 松山町, 瀬頭村
ではないでしょうか。
宮崎県史資料編 近・現代3(編・発行:宮崎県、1995)、現行宮崎県令達彙纂(著:宮崎県内務部第一課、出版:宮崎県、明29.12.1)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)では北那珂郡 松山町, 瀬頭村となっています。
また地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、明20.10)より明治19年1月現在でも北那珂郡 松山町, 瀬頭村となっています。

現行宮崎県令達彙纂(著・出版:宮崎県、明43)ではすべて宮崎郡となっていますが、これは書き落としであると推察します。


14 1889.04.01 新設/村制 児湯郡上穂北村 児湯郡 南方村, 穂北村, 調殿町, 童子丸村

14 1889.04.01 新設/村制 児湯郡上穂北村 児湯郡 南方村, 穂北村, 調殿「村」, 童子丸村
ではないでしょうか。
宮崎県史資料編 近・現代3(編・発行:宮崎県、1995)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)のいずれでも穂北村、調殿村となっています。
また地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、明20.10)より明治19年1月現在でも穂北村、調殿村となっています。

#なお現行宮崎県令達彙纂(著:宮崎県内務部第一課、出版:宮崎県、明29.12.1)では穂北「町」、調殿「村」となっており、現行宮崎県令達彙纂(著・出版:宮崎県、明43)では穂北「町」、調殿「町」となっていますが、これらは写し間違えであると推察します。


20 1889.04.01 新設/村制 児湯郡東米良村 児湯郡 銀鏡村, 上揚村, 八重村, 中尾町, 尾八重村, 中之又村

20 1889.04.01 新設/村制 児湯郡東米良村 児湯郡 銀鏡村, 上揚村, 八重村, 中尾「村」, 尾八重村, 中之又村
ではないでしょうか。
宮崎県史資料編 近・現代3(編・発行:宮崎県、1995)、現行宮崎県令達彙纂(著:宮崎県内務部第一課、出版:宮崎県、明29.12.1)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)のいずれでも中尾村となっています。
また、地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、明20.10)より明治19年1月現在でも中尾村となっています。

現行宮崎県令達彙纂(著・出版:宮崎県、明43)では中尾町となっていますが、これは写し間違えであると推察します。


48 1889.04.01 新設/村制 東臼杵郡東海村 東臼杵郡 第武村, 粟野名村, 稲葉崎村, 祝子村, 川島村

48 1889.04.01 新設/村制 東臼杵郡東海村 東臼杵郡 「大」武村, 粟野名村, 稲葉崎村, 祝子村, 川島村
ではないでしょうか。
宮崎県史資料編 近・現代3(編・発行:宮崎県、1995)、現行宮崎県令達彙纂(著:宮崎県内務部第一課、出版:宮崎県、明29.12.1)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)、のいずれでも大武村となっています。

現行宮崎県令達彙纂(著・出版:宮崎県、明43)では第武村となっていますが、これは写し間違えであると推察します。
地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、明20.10)より明治19年1月現在、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)では大武町となっており、延岡市統計書(平成20年版)01総説・自然(PDF)4コマでも大武町となっています。
大武「村」or大武「町」については、とりあえず県令の通り大武「村」と判断しましたが。。。


50 1889.04.01 新設/村制 東臼杵郡南浦村 東臼杵郡 浦尻村, 須怒江村, 熊野江村, 島津浦村

50 1889.04.01 新設/村制 東臼杵郡南浦村 東臼杵郡 浦尻村, 須怒江村, 熊野江村, 島「野」浦村
ではないでしょうか。
宮崎県史資料編 近・現代3(編・発行:宮崎県、1995)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)のいずれでも島野浦村となっています。
また地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、明20.10)より明治19年1月現在でも島野浦村となっています。宮崎県統計書明治21年度の第一一 島嶼ノ位置及圍面積の島野浦の所在地も島野浦村となっています。
さらには延岡市統計書(平成20年版)01総説・自然(PDF)4コマでも島野浦村となっていますが。。。

#なお、現行宮崎県令達彙纂(著:宮崎県内務部第一課、出版:宮崎県、明29.12.1)、現行宮崎県令達彙纂(著・出版:宮崎県、明43)では島津浦村となっていますが。。。


61 1889.04.01 新設/村制 東諸県郡倉岡村 宮崎郡 堤内村, 東諸県郡 金崎村, 糸原村, 柳瀬町, 有田村, 吉野村

61 1889.04.01 新設/村制 東諸県郡倉岡村 宮崎郡 堤内村, 金崎村, 「東諸県郡」 糸原村, 柳瀬町, 有田村, 吉野村
ではないでしょうか。
宮崎県史資料編 近・現代3(編・発行:宮崎県、1995)、現行宮崎県令達彙纂(著:宮崎県内務部第一課、出版:宮崎県、明29.12.1)、現行宮崎県令達彙纂(著・出版:宮崎県、明43)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)のいずれでも金崎村のところには「同」と記載されています。
また地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、明20.10)より明治19年1月現在でも金崎村は宮崎郡となっています。


64 1889.04.01 新設/村制 東諸県郡本庄村 東諸県郡 須志田村, 北本庄村, 森永村, 竹田村, 「宮崎郡」 「宮王丸村」, 十日町, 六日町, 向高村, 田尻村, 嵐田村, 本庄南村

64 1889.04.01 新設/村制 東諸県郡本庄村 東諸県郡 須志田村, 北本庄村, 森永村, 竹田村, 十日町, 六日町, 向高村, 田尻村, 嵐田村, 「南」本庄村, 「宮崎郡」 「宮王丸村」
ではないでしょうか。
宮崎県史資料編 近・現代3(編・発行:宮崎県、1995)、現行宮崎県令達彙纂(著:宮崎県内務部第一課、出版:宮崎県、明29.12.1)、新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)のいずれでも南本庄村と記載されており、十日町, 六日町, 向高村, 田尻村, 嵐田村, 南本庄村のところには宮崎郡を示す「同」とは記載されていません。
また、地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、明20.10)より明治19年1月現在でも東諸県郡 十日町, 六日町, 向高村, 田尻村, 嵐田村, 「南」本庄村となっています。

現行宮崎県令達彙纂(著・出版:宮崎県、明43)では宮崎郡 宮王丸村、東諸県郡 十日町, 六日町, 向高村, 田尻村, 嵐田村, 本庄「南」村と前掲の書物とは一箇所表記が異なっています。ただ旧村が本南庄村であるのに、役所位置が南本庄村となっており、これは明らかな写し間違えであると考えられます。



次は判断に迷う箇所ですが、一応記載しておきます。

51 1889.04.01 新設/村制 東臼杵郡南郷村 東臼杵郡 上渡川村, 中渡川村, 鬼神野「川」村, 神門村, 水清谷村

51 1889.04.01 新設/村制 東臼杵郡南郷村 東臼杵郡 上渡川村, 中渡川村, 鬼神野村, 神門村, 水清谷村
ではないでしょうか。
新旧対照市町村一覧(編著:和泉橋警察署、出版:加藤孫次郎、明22.12)、大日本市町村名鑑(編著:星野文三、出版:博聞社、明26.11.9)、大日本全国各府県市町村新旧対照一覧(編著・出版:中村芳松、明28.3.5)のいずれでも鬼神野村となっています。
また地方行政区画便覧(著・出版:内務省地理局、明20.10)より明治19年1月現在でも鬼神野村となっています。
美郷町HP内PDF2コマでも鬼神野村となっています。

しかしながら、宮崎県史資料編 近・現代3(編・発行:宮崎県、1995)、現行宮崎県令達彙纂(著:宮崎県内務部第一課、出版:宮崎県、明29.12.1)、現行宮崎県令達彙纂(著・出版:宮崎県、明43)のいずれでも鬼神野川村となっています。

#これはおそらく鬼神野村であると私は考えていますが、現段階ではとりあえず保留としておいて、現状の鬼神野川村のままにしておく方が無難かなとも考えます。


以上多数になりましたがよろしくお願いします。
[69752] 2009年 4月 29日(水)00:51:46むっくん さん
第二十二回十番勝負
問二:沖縄市


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