前回
[86351]の後半に続いて、「伊勢参宮をめぐる鉄道」についてこれまで調べたことから。
現在の近鉄名古屋線の一部(桑名~江戸橋)の前身となっている、「伊勢電鉄」。元々、この路線は、現在のJR関西本線などの前身である「関西鉄道」が津への支線(後の参宮線→現在は紀勢本線の一部)を建設する際、大阪方面からの距離を短くするために亀山を起点としたため、県庁所在地の津に行くためには遠回りを強いられることになった四日市と津との短絡を図るために計画されたとされ(「鉄道ピクトリアル(以下、TP)」誌(
[86351])より)、明治44年に「(初代)伊勢鉄道」として創立し、大正4年に白子~一身田(高田本山)間で「孤立路線」として営業を開始。大正13年までに当初の目的であった四日市と津の間がひとまず完成、14年には伊勢若松~伊勢神戸(現・鈴鹿市)までの支線も開通しています。その後の飛躍は、15年に社長に就任した、四日市出身の実業家で「豪腕」として知られた熊澤一衛氏。社名を「(2代目)伊勢電気鉄道」(「初代」は、後の「三重交通神都線」となった宇治山田(伊勢)市内の路面電車(
[86351])が名乗っていたことがある)と改め、全線を電化、更に北は名古屋、南は伊勢への延長を計画。昭和4年に桑名まで、5年には外宮に近い「大神宮前」駅(
この辺りと思われます)まで延長開業しています。しかし、名古屋への延長は、折からの「昭和大恐慌」や、木曽三川への架橋に際して国鉄の鉄橋を払い下げて再使用しようとした計画に絡むスキャンダルが発覚し、それが遠因となって「伊勢電鉄」は経営破綻。ライバル会社であった、現在の近鉄大阪線の東半分と山田線の前身「参宮急行」に吸収合併という異常事態に陥ります。結局、名古屋への延長は、合併後の昭和13年、「参宮急行」の子会社「関西急行電鉄」の手によりようやく実現、これにより現在の近鉄名古屋線の根幹が出来上がったことになりました。
一方、大阪からの伊勢直通を目指した「参宮急行」は、現在の近鉄奈良線などの前身、「大阪電気軌道(大軌)」(
記事集)が、桜井まで来ていた現在の大阪線を伊勢方面へ延ばすことをもくろみ、「大和鉄道」(近鉄田原本線の前身)から株式を取得して系列会社化し、大和鉄道が取得していた伊勢への路線免許を譲り受け、「参宮急行」を子会社として設立。昭和5年までに山田(現・伊勢市)まで、その1年後にターミナル駅・宇治山田駅まで全通しています。これにより大阪・上本町から伊勢への直通ルートが出来上がり、直通特急の運転も始まり、この時点で全線非電化、SLが走っていた国鉄関西線~参宮線を圧倒し、今日まで大阪~伊勢間の直通客をほぼ独占するという状況が確立されています。
この両私鉄の開業により、松阪付近から伊勢までの間は、既存の国鉄参宮線に加えて私鉄2路線が加わって、3社による激烈な集客合戦が始まることになったわけですが、既に国鉄線があるところへ、競合路線といえる2私鉄に共に路線敷設免許を与え、そしてほぼ同時に開業したというのも不思議ですが、やはりこの「過当競争」の弊害が間もなく現れてくることになります。前述した通り、伊勢電鉄が不祥事もあって脱落し、ライバル会社に飲み込まれる、ということになったわけですが、この伊勢電鉄の「敗北」に関して、前記「TP」誌には、次のようなことが書かれていた記憶があります。
…伊勢電鉄が、名古屋延長を後回しにしても伊勢への路線建設を急いだ理由は何か。もちろん、その一つは同時期に名乗りを上げた参宮急行への対抗意識ですが、もう一つ、三重県人の熊澤氏にとって、「三重県内の鉄道として、何としても自分たちの手で完成させたい」という欲望があったようです。せっかく伊勢まで開通しても、起点が桑名では中途半端で、大阪方面から直通する参宮急行と比べてもやはり不利は否めない。当時、関西線は単線で列車本数も少なく、名古屋延長を優先しておれば、中京圏の客を獲得することによって発展が望めたのではないか…。
伊勢電鉄が参宮急行に合併され、関西急行電鉄を介して名古屋乗り入れが実現したことにより、名古屋~大神宮前間の直通運転が行われ、この時点でようやく名古屋~伊勢間で関西線~参宮線より優位に立つことになったのですが、それもつかの間、程なくして太平洋戦争に突入、新松阪(
この辺り)~大神宮前間は「不要不急路線」として昭和17年に廃線となりました。新松阪から、既に参宮急行の支線として開業していた伊勢中川からの線と接続する江戸橋までの区間も単線化されます。名古屋と伊勢の間は、伊勢中川を境にゲージが異なるために(中川~江戸橋間の支線は、参宮急行本線と同じく当初は1435mmゲージで開業したのですが、伊勢電鉄の合併後に、旧伊勢電鉄にあわせて1067mmに変更)、直通ができず、中川での乗り換えとなりました。
戦時中の大合併で「近畿日本鉄道」が発足(戦後間もなく南海電鉄が分離)後も、しばらくこの形が続いたのですが、昭和34年の伊勢湾台風による甚大な被害からの復旧に際し、名古屋~中川間を旧大軌・参宮急行系統の大阪線・山田線と同じ1435mmゲージに広げるという思い切った大改修を行うことになります。これにより再び名古屋~伊勢間の直通が復活し、また中川付近を短絡する新線も開業し、上本町・鶴橋と名古屋の間をノンストップで結ぶ特急も運行を開始しました。その後、昭和45年の鳥羽線開業、これに合わせてそれまで「孤立路線」(参宮線とは鳥羽駅で接続)だった志摩線(元・志摩電鉄-三重交通志摩線)の大改良により、名古屋・大阪・京都方面から賢島までの直通特急が運行され、現在に至っています。一方、旧伊勢電鉄の路線のうち、支線として戦後も残った江戸橋~新松阪間は、中途半端な路線になってか、利用者の低迷が続き、伊勢湾台風による被災後もいったん1067mmのまま再開したのですが、結局昭和36年に廃線となり、その路線跡の多くは道路に転用されています。結局、伊勢鉄道~伊勢電鉄が建設した区間のうち、ほぼ半分に当たる、競合区間であった津~伊勢間が姿を消したことになったのでした。
一方、国鉄時代にも「元関西鉄道関係路線への冷遇」が続いたせいもあってか、これといった改善策も行われぬまま、時代の波から取り残され、うら寂れたローカル線に甘んじることになって久しくなったJR参宮線(現在は紀勢本線の一部になっている亀山~津~多気間を含む)。それでも、実は既に明治時代より一部複線化が行われ、増加するお伊勢参りの客に対応していたのですが、こちらも伊勢電鉄と同様、戦争による「受難」を迎えることになります。いくら当時のご時世、お伊勢参りが「国民的行事」とは言っても、いくらなんでも3路線もの競合は「輸送力過剰」とみなされたのでしょうか。複線区間のレールの一方は、戦時中の鉄材供出の対象とされ、昭和18年までにこれらの複線区間は全て単線化され、現在まで復活していません。
こちらを見ると、
先の第二次世界大戦がなければおそらく国鉄参宮線は全線複線化+電化され近鉄名古屋線の現在の繁栄はなかったであろう
とあるのですが、仮に近鉄名古屋・山田・鳥羽線が今と同じように1435mmに統一・直通運転されて特急街道となったにしても、国鉄~JRが以前から「やる気」を出し、名古屋~鳥羽間の電化・完全複線化(現・(2代目)伊勢鉄道の部分も)を早期に行っていれば、特急を多数運行して近鉄と熾烈な争いを展開し、また現在の近鉄志摩線「志摩電鉄」も、1067mmのままJRと相互乗り入れし、JRの豪華リゾート特急が賢島まで直通して、逆に近鉄は鳥羽まで延ばすのが精一杯、という展開になっていたかもしれません(大阪~伊勢志摩に関しては、やはり時間的にもルート的にも有利な近鉄の優位は動かなかったでしょうが…)。
>hmt さん、出来栄えはいかがでしょうか?
ご指摘があったら遠慮なくお願いいたします。
♯お伊勢参りと同様、社寺参拝を目的とした路線の競合は、「金比羅参り」にもありました。これに関しては、
[24903] Issie さんの書き込みに詳しく述べられていました。