「洛中」ですか。改めて考えてみると面白いテーマですね。
[36653]今川焼さん
私などは、もう少し広くかつての京都市電の環状線とも言うべき循環系統(22番)の走っていた西大路、北大路、東大路、九条通で囲まれた範囲かなというイメージもあります
確かに、市電の循環系統があった範囲内を洛中というイメージもありますね。今でいうと市バスの循環系統(200番台)の経路の内側ということになるでしょうか。
こうすると、東端が銀閣寺道~東天王町あたりで東大路通ではなく北白川通になるという問題も出てきますが、それを除くと、だいたい「洛中」のイメージに合致する範囲と言えますね。
これだけですとあまり説得力もないので、もう少し突っ込んで調べてみました。
[36642]両毛人さん
一般には、上京・中京・下京の3区の範囲なのかなとも思いますが、平安京の時代まで遡れば、都の南端は現在の九条通でして、南区の一部もその範域に入ってきます。
平安京の範囲は、一条大路、東京極大路、九条大路、西京極大路で囲まれた長方形、現在の通り名でいうと一条通、寺町通、九条通、葛野大路に当たります。この長方形の内側が「洛中」であり、外側は「洛外」。こうすると、上京・中京・下京区に加えて北・右京・南区の一部も含まれることになります。
もっとも現在では、一条通は細くて目立たない通りであることから、その北側を東西に走る今出川通より南を洛中とする考え方もあります。
時代は下って16世紀末、豊臣秀吉は京都再建の一環として「御土居」を築き、その内側を「洛中」と定めました。平安期の「洛中」と比べると、北端が鷹峯や上賀茂神社付近まで拡大する一方、西端は天神川(紙屋川)とされて東西の幅は狭まりました。参考→
京都市文化市民局
17~18世紀頃には、馬に乗ったまま洛中に入ることを禁じ、「是より洛中碑」が建てられました。現存するのは、
上京区室町通寺之内下ル(室町小学校内)
上京区堀川通上御霊上る東側(水火天満宮境内)
上京区御前通一条下る(仁和小学校内)
中京区木屋町通二条下る西側(日本銀行京都支店内)
下京区大宮通塩小路下る(梅逕中学校内)
だそうです。これを見る限り、ちょうど現在の上京・中京・下京区の範囲に近いものになります。「是より洛中碑」について、詳しくは
京都市歴史資料館から、「京都のいしぶみ」を参照してください。
ところで、洛中の外側の地域を「洛外」と呼び、洛外はさらに洛北・洛東・洛南・洛西の4つに分けられます。一般的には、北・左京区を洛北、東山・山科区を洛東、南・伏見区を洛南、右京・西京区を洛西と呼ぶように思いますが、左京区のうちでも北大路通または今出川通あたりから南は、洛東と呼んだほうが相応しいでしょう。しかし、これらを分けるための厳密な区分はないとのことです。
例えば、高雄。行政的には右京区に属しますので洛西ということになります。JTBの“るるぶ.com”では洛西に分類(
→参考)。一方、JR東海の「そうだ、京都、行こう。」キャンペーンには、洛北の高雄という表現が登場します(
→参考)。洛西というとどうしても嵯峨野・嵐山・清滝・愛宕といったところが思い浮かびますので、高雄を洛北と分類したい気持ちもわかります。
なお、
[36659]いっちゃんさんご指摘の通り、鴨川の東、銀閣寺付近から東福寺付近界隈は「洛東」というより「東山」と呼ぶほうが一般的です。「洛東」はむしろ、東山を越えた山科区を指す用語として使われているようです。例えば、山科区にある府立洛東高校(
→地図)や、山科駅前の商業施設
「ラクト山科」などがあります。
ちなみに、“洛○高校”シリーズの残り、府立洛北高校(
→地図)は左京区下鴨本通北大路上ルに、府立洛西高校(
→地図)は西京区にあります。
[36642]両毛人さん
鉄道が現在の位置を東西に貫通するにあたり、洛中の概念が変容し、かつての都の範域のうち鉄路より南の地域は徐々に「洛中」から「洛南」へとそのイメージを変えていったのではという推測も成り立つと思っているのですが、これとて確証はありません
東寺周辺も分類の難しいところで、「洛中」とするものもあれば「洛南」とするものもあり、どちらとも断定は出来ないでしょう。ただ、地域を区分するのに鉄道路線はたいへん“使いやすい”ものなので、東海道線より南側を「洛南」とするのは、それなりにわかりやすい区分だとは思います。
#かくいう私も、阪急沿線在住ゆえ、JR東海道線の南側は洛南=遠いなぁという感覚はあります。