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[89254] 2015年 12月 6日(日)12:28:13【1】hmt さん
★祝★ 役チャン さん 「公共交通機関による役場巡り」目標達成
10年以上前、[42077] 2005年6月8日 役チャン さん の記事です。
私は「公共交通機関による全国市町村役所・役場めぐり」を行っています。
対象を平成の合併前の市町村+東京23区の3259としており(中略)
役所・役場めぐりについては100%達成を目指し今後とも進めて行くつもりです。

朝日新聞2015/11/30夕刊で 大目標を達成されたことを知りました。おめでとうございます。
大合併前の役所役場 3259カ所訪問 公共交通機関使い、29年かけ

電子版では省略されている部分があり、以下の引用部分は紙面に基づくものです。

>合併前の東京23区、671市、1990町、575村をすべて回ると決めた。

671市、1990町との記載から、基準時点が 1999年4月 篠山市合併 の後であることがわかります。
ひとつ解せないのが 575村でした。総務省資料 に示されているように、当時は568村だった筈です。【訪問不可能であり、地方自治法の対象外である北方6村を除外した数字】

それはさておき、旅を始めてから29年、目標設定から23年での成果に拍手。

>1年間に100カ所程度のペースだったが、退職翌年の05年は最多の331カ所を訪れた。

最初に引用した落書き帳デビュー記事は この頃だったのですね。

続いて、「公共交通機関では行けない役場」と題した、難件の岡山県旧中和村の事例紹介[42127]
3件目の[42478]で、著書『地理が面白い』のご紹介がありました。そのうちに続編が出るのでしょうか。

>最後の訪問は今年9月。船で片道26時間かけた東京都小笠原村だった。

役場巡りの仕上げは 飛び切りの舞台でしたね。
『時刻表2万キロ』の宮脇さん[88851]は、国鉄全線完乗の最後になった足尾線の冒頭で、もう少し情緒のある線区にならなかったことを悔いていました。

hmtとして印象に残っている記事は、[57874]で紹介いただいた和歌山県湯浅町の望楼を備えた庁舎です。
「稲むらの火」 [36355]で知られる安政南海地震津波に関係する話題でした。スレッド[57891][57904]

この安政南海地震発生は、 安政元年11月5日【天保暦】でした。
日本政府は、これにちなんで11月5日を「世界津波の日」という共通記念日にすることを各国に働きかけていました。
最新の報道によると、12月4日の国連総会第2委員会で この決議が採択されたとのことです。
[89249] 2015年 12月 5日(土)16:13:35hmt さん
越中国射水郡(3)新湊
昔の氷見には「布勢水海」と呼ばれた広い潟湖があり、大伴家持もしばしば訪れて遊覧したり、都人を接待したりしたようですが、新田開発・乾田化などに伴って水系も変り、現在は 十二町潟水郷公園として一部に痕跡を残すのみとなっているようです。

…というわけで、オフ会第2日の遊覧船は氷見漁港です。
強風のため短縮された港内コースでしたが、みなさんと共に楽しむことができました。

下船後に集合写真。その後は海王丸見学組ということで、EMM号に乗車。
特にお願いしたわけではありませんが、伏木港を経由していただいたようです。
同じく富山新港を目指したラガー号は先に到着し、3人は既に海王丸でした。

地図を見ると、戦時合併とその解体で話題になった高岡市牧野地区[15592][74310][79475][80421]も近くでしたが、こちらは経由していないようです。

係留されている海王丸の見学も、船内のあちこちを上下しながら巡り、充実したものでした。
その後、今回の旅行では特に意識させられた斜張橋の中でも最大規模の新湊大橋へ。タンカーが橋の下を通って入港する様子を眺めることもできました。

この富山新港、正式名称は「国際拠点港湾 伏木富山港(新湊地区)」だそうです。
2011年の法律で特定重要港湾から改められた国際拠点港湾は、国際戦力港湾の5港【京浜3、阪神2】に次ぐランクで、全国で18港が指定されていますが、本州以北の日本海では新潟港と伏木富山港との2つだけです。

富山新港は、オフ会でスナフキんさんから紹介のあった昭和32年(1957)の地形図に見るように、昔は 浅い【深度最大1.5m、平均0.5m】放生津潟でした。
ここに港を作る計画は大正時代にもあったようですが、第一次大戦後の不況で実現せず。昭和戦前の大築港計画も技術上の問題と戦争で挫折。戦後の高度成長期になり、1960年に運輸省の承認が得られ翌年着工、1968年に開港し、工業港湾として整備されています。

戦後にできた新しい港だから富山「新港」でよいのですが、その場所が「新湊市」となると 文字づかい が気になります。
1889年の町村制から1951年の市制までの間は 射水郡新湊町で、その前身にも新湊放生津町・新湊六渡寺村など「新湊」の付く町村がありました。要するに「新湊」というのは、庄川と小矢部川とが合流していた時代、古代から左岸にあった伏木港に対して右岸に作られた「新しい湊」を意味するのでしょう。現在の地図でも庄川河口右岸(射水市港町)を見ると漁港があります。

それはさておき、掘り込み式の富山新港建設に伴い、港口の航路になる越の潟・堀岡間の陸地は分断され、道路および鉄道の代替として1967年11月から富山県営渡船、通称 越ノ潟フェリーがが運行されました。1986年からは地元住民だけでなく、一般客も無料化しています。今回のオフ会で この県営渡船の乗客になったのは グリグリさん1人だけではないかと思います【ML00132】。
2012年の 新湊大橋 開通後も、渡船は健在なんですね。

渡船の説明に「道路および鉄道の代替」とあるように、海岸経由で富山と高岡とを結んでいた富山地方鉄道射水線も分断されました。
高岡側の越ノ潟-新湊【現・六渡寺】間は、高岡軌道線・伏木線を営業していた加越能鉄道に譲渡され、1980年に万葉線の愛称が付けられました。2002年からは第三セクター鉄道の会社名にもなっています。
乗客の半減した富山側の鉄道は 廃止されました(1980)。
[89248] 2015年 12月 5日(土)16:03:53hmt さん
越中国射水郡(2)氷見と伏木
オフ会会場の富山県氷見市は初めて訪れる地でした。
氷見市の概要 によると、日本海側有数の氷見漁港で有名とのことで、大伴家持ゆかりの史跡や近年湧出した温泉にも触れていました。
氷見(ひみ)という地名の由来は諸説あり、同じ地名は 四国の石鎚山登山道の道筋にある愛媛県西条市にあるとのこと。

万葉集に現れる氷見は 大伴家持の長歌「都奈之取る比美の江過ぎて…」一首だけだそうです。都奈之(ツナシ)とはコノシロの古名だそうで、漁業関連の言葉が枕詞のように使われています。

大伴家持が越中国司として赴任したのは天平18年(746)でした。
能登国は養老2年(718)に成立していますが、家持が赴任する5年前には越中国に併合されており、家持は能登にも しばしば赴いています。渤海国[87470]と日本との交流も始まった頃であり、対岸交易も頭にあったでしょう。

国府は小矢部川が日本海に注ぐ伏木【高岡市伏木古国府・勝興寺付近】にありました。…というか、伏木港は元々庄川の河口であり、現在の庄川の河口は、明治末期の分離工事によって造成されたものでした。
伏木は翌日通過しただけですが、便宜上ここで記します。

左大臣橘諸兄[64972][84084]と親しい関係にあった 青年政治家・大伴家持は 前途洋々の思いを抱いて この越中に赴任したはずです。
しかし、越中勤務の5年間に中央政界の権力は藤原氏に移ってしまい、政治の名門・大伴一族としてではなく、万葉歌人として名を残すことになりました。

北陸道を奥州に落ちた源義経。雨晴岩の伝説は有名ですが、伏木の河口にあった如意の渡しで検問に遭い、 弁慶に扇で打たれた という話が『義経記』にあり、これが 加賀の安宅の関に場所を変えて 伝えられたのが歌舞伎の『勧進帳』だそうです。

変遷情報で確認すると、射水郡伏木町は戦時合併で高岡市の一部になり、市町村名から姿を消しましたが、北前船で賑わった時代を含めて日本海側有数の港町でした。
現在でも伏木地区・新湊地区・富山【東岩瀬】地区より成る 「伏木富山港」 の一部として、新潟と共に日本海の国際拠点港湾を構成しています。

家持のいた伏木から氷見に戻ると、こちらは大きな川が流れる富山平野を主体とする射水郡の他の地域とは少し様子が違うようです。だから、一時的にせよ氷見郡として独立していた時代があるのでしょう。海岸も南部は砂浜ですが、オフ会会場になった九殿浜温泉のある北部は岩石海岸が主になります。

九殿(くでん)というのは、氷見市大字姿の下のレベルの小字名であり、地図では確認できませんでしたが、「ひみのはな」の南にある谷間に九殿遺跡があり、1974年の調査で7世紀初めの製塩遺跡が確認されているようです。平凡社の歴史地名体系p.809中。
九殿浜の沖 約1kmの虻ガ島は、小さいながらも富山県最大の島[87262]

地図で氷見の北方を見ると 石動山があります。山頂は氷見市の領域から少し外れた 石川県鹿島郡中能登町になります。
ここは 山岳仏教の霊峰として、一時は三千人もの山伏がいる大勢力だったようです。
石動山の石は 「天より星落ちて、石となり、天漢石と号す」 とされているが、隕石ではないようです。
石動 いしゆるぎ→いするぎ。
難読駅で有名な北陸本線>とやま鉄道石動駅の所在地は 1962年に小矢部市になるまでは、富山県西礪波郡石動町でした。
前田利家の時代に、家臣の前田利秀が能登の石動山の伊須流岐比古神社を城下町に移し、「今石動」と名付けたのが由来とされます。
[89247] 2015年 12月 5日(土)15:55:07【1】hmt さん
越中国射水郡(1)高岡
第12回になる落書き帳オフ会。今年も参加することができました。
少し遅くなりましたが、例により関連記事を記します。

最初に タイトルを説明しておきます。少し長いです。
北陸新幹線での富山県入りに利用した富山市は別として、今回の行程は 高岡・氷見・射水の3市でした。
変遷情報を遡ると、2005年の平成合併により新湊市と合併して 射水市を形成した4町村が所属した 射水郡 が現れます。
更に遡り「越中四郡」と呼ばれた時代の射水郡は、現在の射水市域よりもずっと広い領域でした。

郡制施行直前の明治29年に射水郡から分離したのが 氷見郡 で、その区域は、1952年から1954年にかけて全域が氷見市になりました。

高岡は、市制町村制施行の少し前【明治22年(1889)2月】に 最初に指定された 36の「市制施行地」[34434]【注】の一つです。当時【郡区町村編制法時代】の行政区画では 「射水郡高岡町」でした。

そして近世以前、越中四郡の頃の「射水郡」は、凡そ現在の3市に対応する行政区画であった ということになります。
「射水」という 地名の由来
富山県を代表する大河である神通川・庄川の間に広がる平野を、水の湧出をあらわす「出水」(イミズ)と呼んだと考えられます。

「射水郡」の頭に富山県でなく「越中国」を冠した理由。それは、改正府県制の影響により「府県」が「地名」に使われるのが一般的になった20世紀 よりも 古い時代の領域を意識して用いた「射水郡」だからです。

【注】最初の市
市制町村制は府県別に施行されたので、最初の市の発足はこれに影響され、1889/4/1より遅れた府県もあります。
また 市制町村制施行前に、佐賀・岐阜・甲府・鳥取が 市制施行地に追加指定されています。
「最初の市」は36ではなく、45府県の市制町村制施行が完了時(1890/2/15)までに発足した40市であると言ってよいでしょう。詳細は[62660]をご覧ください。
参考までに、資料は 明治22年末日における39市の現住人口で、県庁所在地でない市は 高岡の他に 堺・姫路・弘前・米沢・赤間関・久留米の各市がありました。

ようやく、本文に入ります。
当日は北陸新幹線富山駅の改札口前で、グリグリさんから JOUTOU さんの レンタカーへの同乗を誘われ、もちろん 渡りに船と 同行させていただきました[89157]
富山の市街から西へ進むと県民公園太閤山ランドで、このあたりから先は射水市になります。射水市というと、以前の新湊市 という観念が頭に入っていましたが、平成合併で南の旧小杉町まで領域が広がっていることを 改めて認識しました。

庄川を渡ると高岡市。北上して曹洞宗の高岡山瑞龍寺へ。高岡に隠居城を築いた第2代加賀藩主・前田利長は 1614年に亡くなりました。第3代藩主の異母弟の利常は、利長の戒名・瑞龍院殿聖山英賢大居士にちなんで この寺を瑞龍寺と改称し、1645年から1663年【50回忌】にかけて大改築しました。

伽藍配置図。日本最古の寺院建築様式を示す 四天王寺 と同じように、本尊を祀る仏殿を中心として 回廊を巡らせた 左右対称の配置です。仏舎利を収める塔がないのが、最大の違いです。

仏殿というのは禅宗の呼び方で、普通には金堂、本堂と呼ばれる建物に対応します。法堂【はっとう】は講堂ですが、瑞龍寺の法堂は とても大きな建物でした。仁王が安置された山門を含めて 3つの堂が国宝に指定されています。
「浴室」、「東司」【とうす、便所】、「僧堂」【座禅や食事の場】、「庫裏」【くり、台所】と、修行に取り入れる日常生活の場が七堂伽藍に含まれているのは、禅宗様伽藍の特徴です。

創建当時の七堂伽藍が 現代まで完全に保存されているように思われたのですが、よく調べたら、幕末や明治初期の廃仏毀釈により縮小された伽藍の復元工事が近年まで続けられ、その成果があるようです。
幕末に三分の一に縮小されていた僧堂が 創建当時の禅堂に復元されたのも近年のようです。
大庫裏についても、向拝を含む復元改修工事の説明板がありました。向拝とは 神社の拝殿に見られるように屋根の一部が 庇のように張り出した部分 と思っていましたが、瑞龍寺の向拝は 画像 のように独立した屋根でした。もっとも、現地では工事用の幕で隠れていました。

瑞龍寺の後は高岡大仏。カーナビの指示するままにグルグルと回った結果、車窓からその姿を見ることができました。
銅器で名高い高岡ですが、昔の大仏は木造で、1900年の高岡大火までに何回も焼失しているそうです。銅像として再建されたのは昭和8年(1933)と意外に新しい。
余談ですが、仏像は別として人物の銅像第一号とされるのは、兼六園の日本武尊像であるとか。もちろん高岡製です。一番多く作られて全国の学校に普及したのは、昭和戦前にブームとなった「二宮金次郎像」。鐵瓶屋

それよりも、高岡古城公園。
豊臣政権のの五大老として徳川家康と対抗する勢力に担がれる立場にされた前田利家の病死後、約27万石の金沢領を継いだのは、『利家と まつ』 の嫡男・前田利長でした。豊臣から徳川へと政権が交代する難しい時代、家康の加賀征伐を回避して加賀藩の基礎を築くことができたのは、母・芳春院の尽力もありました。
関ヶ原の戦いの後で、前田家は加賀・越中・能登3ヶ国 120万石。異母弟の利常を養子として跡を継がせ 富山城に隠居したが、慶長14年(1609)富山城が焼失し、射水郡関野に築城しました。
北西側から見ると名前の通り小高い岡です。『詩経』の一節「鳳凰鳴矣 于彼高岡」に由来するとか。2012年オフ会の開催地・岐阜の由来[82224]を思い出しました。
エレベーターで岡に上り、中島のある水濠など紅葉の園内を散策、秋の景色を楽しむことができました。

台地の西側は千保川の流れる低地で、ここを碁盤目状に区画して商人町、職人町とし、千保川の対岸には鋳物師(いもじ)を集めて金屋町が開かれました。名高い高岡銅器の始まりです。
しかし、城主・利長の死(1614)で家臣団は金沢に引き揚げ、城下町体制は終りました。
更に一国一城令による廃城が追い打ちとなり、高岡は急速にさびれる危機に直面。
しかし、前田利常は転出を規制して高岡の町を残す保護政策をとり、商工業都市への転換を図ることによって高岡を発展させました。
[89184] 2015年 11月 26日(木)19:47:33hmt さん
斜張橋ことはじめ
斜張橋コレクション には 366件もの橋が収録されています。ざっと眺めたところ、平成以降の架設が多いように感じました。
世界的には西ドイツ【当時】のライン川などが「斜張橋のふるさと」として有名なようです。
そこで、デュッセルドルフの テオドール・ホイス橋の写真 を見たら、1958年竣工・最大支間 260mと書いてありました。
先進地でもまだ60年になっておらず、日本では ここ30年が主であることも頷けます。

コレクションから古い架設年が記録されたものを探してみました。
北海道神納橋の 1963年が最古で、次位が神戸の摩耶大橋 1966年。1968年には尾道大橋と 浜松市の鹿島橋歩道橋が挙げれれていました。1960年代はこれで全部。

ここで「現存しないもの」もコレクション対象になっていることに気がつき、記憶をたどった結果、相模川の相模湖流入口に架けられていた 2代目勝瀬橋 が 「日本最初の斜張橋」である[88047]ことを思い出しました。
かながわの橋100選 によると、初代勝瀬橋(吊橋)の塔を利用し、1959年に橋桁を架け変え。支間長 130m出典
この橋【幅員4m】はコレクションに収録されている3代目勝瀬橋【幅員7.5~10.25m】が開通する 2006年まで使用されました。

廃物利用の塔を用いたあたり、いかにも新形式の橋のテストであることを窺わせます。

神納橋に触れたページを見ると、旭川市神居古潭と深川市納内町を結ぶ道道が通る石狩川の橋ですが、斜張橋と並んで1987年に増設された箱桁橋が架けられています。支間は80.4mと短いものです。
上流側の橋には斜張橋が採用されておらず、短い支間長であることと共に、これもテストという感じです。

1966年の摩耶大橋になると、支間約140m、幅員14mの橋です。これで ようやく本格的な斜張橋の登場か と思いましたが、これと並行して1975年に架けられた 第二摩耶大橋は、これも箱桁で建設されました。やはり、この程度の支間では斜張橋構造にする必要はなかったのでしょうか。
その後、2本の橋は 1995年の阪神淡路大震災に遭遇しました。第二摩耶大橋の方は主橋脚に大きな被害を生じたようです。出典

1968年1月竣工の尾道大橋は 最大支間長 215m。わが国で初めて支間長 200mを超えた本格的な斜張橋です。有料道路として開通後、2013年に無料開放されました。
並んで架けられた新尾道大橋は、「しまなみ海道」を構成する自動車専用橋で、ここで初めて2本の斜張橋が並ぶことになりました。
2本の斜張橋が近接しているので、耐風安定性の工夫などが施されているとか。

最後に「斜張橋ことはじめ」と無関係の余談を少々。

尾道大橋関係に関連して斜張橋の耐風対策に言及しましたが、「新湊大橋の耐風対策」と題する講演会資料 を見付けました。
本題は専門的な内容ですが、その前に 「橋の歴史」・「橋のタイプ」・「橋の大事故」に関する画像がたくさん収録されています。

「橋の大事故」と言えば、日本では文化4年(1807)の永代橋落下事故[75315] がありますが、この事故は収録されていません。参考:落語
死者約1500とも伝えられる大事故の直接原因には交通規制の不備などもありますが、根本原因は 江戸幕府の財政難>永代橋の民営化>メンテナンス作業の不備による構造物の老朽化 だったようです。2012/12/2の中央道笹子トンネル天井板落下事故に通じる問題点があるようです。
[89106] 2015年 11月 19日(木)15:26:20hmt さん
インカ遺跡の麓で 村おこしをした 野内与吉
先月のことですが、福島県安達郡大玉村が、ペルー共和国のマチュピチュ村との間で 友好都市協定を締結した(2015/10/26)というニュースがありました。

世界遺産「マチュピチュの歴史保護区」【1983年登録・複合遺産】。
尖った山を背景にして、尾根に築かれた遺跡の写真は、誰でも見た覚えがあるでしょう。
アンデス山脈中のこの遺跡は、100年ほど前までは 人に全く知られない状態で眠っていました。

インカ帝国の伝説による最後の都・ビルカバンバを求めて イェール大学のペルー探検隊を組織した 米国人 ハイラム・ビンガム。彼が植物の生い茂った西側の急斜面を登りきって、ここにある石組みの遺跡をみつけたのは 1911年7月24日でした。ビルカバンバはこの地ではなかったし、マチュピチュ遺跡もビンガムより少し前に地元民に知られていたようです。
しかし、この遺跡の学術調査を最初に実施し、『ナショナル・ジオグラフィック』誌などの出版物を通じて世界に広くその存在を知らしめた人物として、ビンガムの名は記憶されています。

文字による記録を残さずに滅びた 15世紀のインカ帝国。
写真では 謎に包まれた「天空の都市」というイメージですが、標高2430mというと インカ帝国の首都だった クスコ(3400m)よりも ずっと低いことがわかります。
遺跡があるのは尾根ですが、アンデス山地の大きな地形としては アマゾン川の源流のひとつ、ウルバンバ渓谷沿いであり、麓の村まで鉄道が通じているのも そのためでしょう。

マチュピチュ村は、マチュピチュ遺跡の麓にあり、人口約3000人だそうです。
年間200万人の遺跡観光客は「マチュピチュ村」まで列車で来て、シャトルバスに乗り換えて山上のインカ遺跡に向かいます。

一方の 大玉村 は、昭和30年に玉井村と大山村との合併で成立。平成合併では単独の村として生き残り、全国に先駆けて独自の定住政策を進め、人口が増加し続けています[86365]
安達太良山を望み「大いなる田舎」を自認する農村。「日本で最も美しい村」連合[86495]に加盟しています。

2つの村を「都市」と呼んでよいかどうか? それはさておき、マチュピチュ村と大玉村との間で 世界初の友好関係が成立した背景には、このアンデス山中で、村起こしに尽力した日本人がいました。

それが、福島県大玉村【当時は玉井村】に生まれた 野内与吉(1895-1969)です。
富農の次男ですが 長子相続の時代なので、成人した彼は 契約移民としてペルーに移住して成功する夢を持ちました。しかし、先方の条件が違うので1年で辞めて放浪。ペルーに戻ってからはペルー国鉄に勤務。

野内セサル良郎によれば、1929年にクスコ・マチュピチュ間の線路完成後に、野内与吉はマチュピチュ村の最初の定住者になりました。
飲用や灌漑用の水路、水力発電、機械修理など彼の創意工夫を伴う尽力は村に大いに貢献し、1935年には村で初の本格的な建築物「ホテル・ノウチ」(3階建、21部屋)を建て、一部を郵便局や交番に提供しました。
1939年には村の事実上の責任者である行政官になった彼は村人の信頼を集めていました。

「アグアス・カリエンテス(熱い水)村」(現マチュピチュ村)という名の由来になった温泉も、木材伐採の際に彼が発見したという話もあり、現地では弘法大師のような伝説的英雄になっているのかもしれません。
木材と言えば、彼は材木商としての経験からマチュピチュ付近のジャングルに目をつけており、先住民4家族のみが住んでいたこの村に住み始めた と伝える別の資料もあります。こちらによれば 鉄道開通は1923年。温泉発見の話もあります。

1941年に始まった日米戦争により、ペルーにとっても「日本は敵国」という関係になりました。
野内与吉も、戦時中は公的な活動はできず、監視される状況になったと思われます。しかし、彼を信頼する村人によって 安全は守られていたようです。
前妻と別れたのもこの頃と思われますが、後妻との間も5人の子に恵まれました。

戦後は1947年の土砂災害に際しても働き、1948年には復興のために村長に任命されました。
災害復旧の仕事を片付けた彼は 古巣の鉄道に戻り、クスコに移住して 定年まで勤めて引退したようです。
鉄道の仕事を引き継いだのが ノウチ・セラル・モラレスで、先に引用した野内セサル良郎の父です。

マチュピチュ遺跡が 日本で有名になったのは 1983年の世界遺産登録後でしょう。
しかし、考古学に詳しい三笠宮さまは、早くも 1958年のペルー訪問で見学に訪れ、野内与吉の長女・オルガから花束を贈られました。

日本の新聞にその記事が出た結果、野内家の親類が与吉の健在を知り、大使館を通じて連絡することができました。野内家の人達は 10年かけて100万円を集めると そのお金で与吉を日本に呼び、歓迎会を開くことになりました。このようにして、1968年に野内与吉の大玉村への帰郷が実現しました。52年ぶりのことです。

日本に着いた今浦島・野内与吉の第一声は「電気はついたか?」。

彼は翌年まで日本に滞在しましたが、11人の子供が待っているからと、日本の家族と別れペルーに戻りました。しかし、その2ヶ月後にクスコで亡くなり、家族と村人が見守られながら ペルーに骨を埋めることになりました。日本から持ち帰った玉手箱を開いたので------という記事は みつかりませんでした。

前妻との間にできた次男のホセ・ノウチは マチュピチュ村でホテルを経営。1981年から1983年まで村長に就任。

友好都市の話は以前からあったようですが、お金もかかることなので実現に至らずにいました。
平成27年度になり、日本での支援事業による予算措置が実現。
大玉村からマチュピチュ村を訪問し、マチュピチュ遺跡で友好都市締結式が行なわれたとのことです。
[88941] 2015年 10月 28日(水)16:30:54hmt さん
北九州空港近くの羽島
[88936] グリグリ さん
羽島の所属に関する情報が、Webでもほとんど見当たらないですねぇ。

リンクしていただいたブログの写真からの判断ですが、特殊な趣味的視点をもつ私達は別として、常識的な社会生活を行っている人々の間では、ほとんど無価値と思われる島であるために、Web情報が少ないのではないかと推測します。

では、北九州空港開港という周辺環境の変化をふまえてなされた 訂正の原因は?

これは、表面的には 平成25年面積調 p.104 の記載に尽きます。
訂正(5) 所属未定に訂正(羽島)
(北九州市長(H20.3.19)と京都郡苅田町長(H20.3.24)の申請)

…というわけで、申請内容を境界訂正とした[88936]の下記部分は、事実誤認によるものではないでしょうか。
苅田町との間に所属争論があるように見えます。(中略)との説明から、苅田町からの 羽島を苅田町に含める という公文書による境界申請に基づいて、平成25年の面積調で所属未定となったように考えられます。

先に、北九州空港開港という周辺環境の変化ということを記しました。
私にも、この辺の昔のことはわからないのですが、工業地帯になる前は漁業が盛んで、魚の集まる島や浅瀬には、それなりの価値があったのではないかと考えてみました。

地図を見ると、羽島の近くには毛無島、間島があり、現在空港島になっている付近にも岩礁・浅瀬などがあったと思われます。
漁場という視点に立てば、羽島も 門司の漁村の貴重な漁場として確保される価値があった。

しかし、工業地帯と空港に変貌して漁業が衰え、門司も北九州市の一部になってしまっている現在では、羽島を「門司の領土」として確保する意義は小さくなった。
かくして、周防灘の羽島を 北九州市にも苅田町にも属さない区域【所属未定地】とすることで合意が得られた。
こんな筋書きを想像してみました。

実は、漁業に関係して、「漁業 門司 羽島」で検索すれば、何か情報が得られるかも…と考えましたが、Webでは古い記録は見当たらず。門司審判所の海難記録が2件ありましたが、周防灘ではなく、いずれも日本海にある山口県萩市の羽島でした。この島には昔は人が住んでいましたが、1971年無人化。
[88933] 2015年 10月 26日(月)21:19:35hmt さん
市町村隣接
[88841] [88931] グリグリ さん
大和葛城山北方の4市町村境界隣接に関する国土地理院からの回答を紹介していただき、ありがとうございます。
境界隣接に関する疑問を通じて得られた、自治体の地理的範囲についての認識を、私なりに整理してみます。

基本的に、各自治体が自認する地理的範囲は独自のものであり、隣接自治体の意見が合わないことがある。
隣り合う自治体間で意見が合わない場合は 地理院地図への表示は行いませんので、未確定の行政界が地理院地図に表示されることはありません。

国土地理院の今回の回答によると、関係する自治体から
「国土地理院への境界訂正の申請について、検討はしているが結論はまだ出ていない」
と返答したところ【単数か複数かは不明】があるようです。

現在では、マピオンなど異なる意見の表記も存在し、これに近い意見を持つに至った自治体があるのかもしれません。
現在の地理院地図には、陸地測量部時代からの境界が残っており、そこに示されている隣接関係が、「すべて隣接自治体の合意に基づき確定したもの」と迄は言えないかもしれません。
しかし、問題の4市町村境界について、国土地理院に対して訂正を求める正式の手続きは、現在のところなされていないものと理解されます。
関係する自治体の間で 意見が一致するようならば、正式の境界訂正手続に動くことになるでしょう。

要するに、問題の4市町村隣接関係について、境界線が「今後変更される可能性」はある。
しかし、変更の有無、境界未定になるのか、新たな隣接関係に変更されるのか を含めて、現状では何とも言えない。

私は、国土地理院の回答を このように読みました。

[88931]
この回答からすると、地理院地図はどうやら訂正が必要で、河南町と御所市は隣接していて千早赤阪村と葛城市は隣接していないというマピオンなどの表記が現状として正しいようです。

国土地理院の回答を、そこまで深読みしてよいものでしょうか?

以下、参考までに過去記事を少し拾っておきます。
境界は誰が決めて、地図を作る人はそれをどのように確認しているのか?
この基本的な問い掛け[87841] に対する私の考えは、既に[87846]でも記し、
残念ながら、記された境界が絶対に正しい地図を期待するのは、無い物ねだりではなかろうか?
と書いていました。

富士山を始めとし、地元自治体の意見の相違に基づく境界未定地は各地にあります。
東京の近くでも、平成2年面積調で「境界未定」になった小合溜について、地元意見は江戸時代以来の不一致があったことも記されており、境界問題の根が深いことを窺わせます。[87846]でURLを更新したコラム15「小合溜と都県境」参照。

「境界変更」など国土地理院面積調で使われている用語に関しては、落書き帳過去記事があります。国土地理院からは、「面積調の概要」第I章の末尾に別記Iとして掲載されていますが、そのURLは毎年変ります。最新
[88907] 2015年 10月 16日(金)17:56:09hmt さん
視覚障害者を支援する音響信号機
[88901] 稚拙 さん
得体の知れない「国際標準化」ということばが出てきました。【中略】
一生かかっても理由のわからないことってたくさんありますから、これからも1つ1つ知識を増やしていきたいです。

視覚障害者用信号機の「国際標準化」とは、2007年に制定された ISO 23600 を指していると思います。

その内容は 私もよく理解していないのですが、それよりも、この分野に関係する基礎的な知識を得るために 私が読んでみたのは、国際交通安全学会誌に掲載された解説です。視覚障害者の誘導について

これは 20年以上前の文献で、ISOにおける国際規格化の動向が触れているのは、第2章の いわゆる点字ブロックに関するものでした。5/8コマからの第3章音響信号機については、まだ国際標準化に言及されていませんでした。

音響信号機設置の経緯については、1955年 最初にベル式の音響信号機信号機が設置され、振動式信号機、メロディー式などが開発されたと記されています。
参考までに、メロディー式は 1960年 名古屋でテストされたのが最初。音響信号機ってなあに?

メロディー方式は 21曲が存在。その他に擬音や単純音などの各種方式が存在することになりました。
1975年に全国統一化の要望を受けて整備基準作成に取り掛かり、1996年に擬音への統一方針が出されたようです。
警察庁は 2000年度に調査研究委員会を設置。方角を知りたいという視覚障害者意見調査結果を受けて、擬音の「ピヨ」「カッコー」への統一化。

警視庁交通規制課コーナーに 音響信号機に関するQ&A があり、「擬音式の異種鳴き交わし方式の整備を進めている」と記されていました。

要するに、利用者である視覚障害者の立場で考えれば、個性的ではあるが 多種類が乱立した メロディー方式は、実用的には ベストのものでなかった。
そして、利用者の望む全国統一化と普及とを視野に、仕組みが単純な 擬音式への統一 が行なわれつつある。

私は このように理解し、自分の知識を一つ増やすことにしました。
[88892] 2015年 10月 13日(火)22:48:15【1】hmt さん
10進法の分、60進法の分、4進法の分
[88886] あきすて さん
基本的に、”分”は1/10、”厘”は1/100(”分”の1/10)という認識

漢数字の数詞体系については、落書き帳の初期に[2153] Issie さんの記事があり、1/10の「分」から始まって、厘(りん)・毛(もう)・糸(し)・忽(こつ)・微(び)・…という系列が示されています。
出典は 17世紀の算術書・吉田光由著『塵劫記』や、インドから中国経由で伝来した『華厳経』が挙げられています。
その後、カッパーさんの[9927]もありますが、その内容は難解。

実用的には分(ぶ)・厘(りん)・毛(もう)迄を知っていれば十分と思います。
ここで『単位の辞典』で紹介されている『塵劫記』の原文を見たら、分(ふん)・厘(り)・…となっています。
世間に通用している読み方と違います。

「分」は 文字通り「分ける」という意味です。そこで、基本の数を いくつに分けるのか?

私の理解するところでは、分・厘・毛と分けてゆくのは、インド由来の基本的な数え方である 10進法です。
その場合【日本語の】読み方は「分(ぶ)」です。

天文学の発達したメソポタミアでは、円周を360度【1年の日数】に分け、1度を60に分ける60進法が生まれました。
日本語では、1/60 度の「分」を「ふん」と読んで、10進法の「分(ぶ)」と区別します。
英語では degree, minute(細分), second(2段階細分)と60進法独自の言葉を使います。

天体観測分野での角度測定の歴史は古いが、時間測定の単位として使われる「分」(ふん)や「秒」が測れる 精密な時計 ができたのは、ずっと後のことでしょう。
最初は「1日」という時間を細分して示す目的で作られた「分」や「秒」でしたが、科学技術の発達に伴い制定された現在のSI単位系[86490]の中で、「秒」は一番正確な定義がなされている「基本単位」に出世しています。

余談ですが、10進法を推進したフランス革命[45385]では、時間にも10進法を採用しました。
1週は10日、1日は10時間、1時間は100分。角度についても 直角の1/100の「グラード」を使ったとか。

話が変って、度量衡の「衡」です。これは天秤を使って測定する質量の分野です。
ここでは、分銅の数を最小にできる2進法に利点があり、実用的には2の2乗の4進法や、4の2乗の16進法単位ができました。
質量の基本単位は1両【= 10匁】であり、その 1/4の1分(ぶ)、1分の 1/4の1朱は貨幣の単位として使われました。[33573]
16両【160匁 = 600g】は「斤」という単位です。現在でも食パン1斤などと使われていますが、実際は370g前後であり 340g以上あればOK とのことです。

辞書による いろいろな「分」 の解説
[88888]には既に三省堂国語辞典、大辞林、新明解国語辞典が示されていますが、コトバンクにも 6つの辞書の解説文が載っていました。【大辞林は重複】
確かに、上記の原則論に示した「◯進法」による分け方 以外に いろいろな「分」 の使い方が示されています。

中でも驚いたのが、四分音符は二分音符の半分の長さ という使い方です。
こういう逆の見方もあるのか というのは、計量単位としての「分」に慣れてしまった者の感想で、実は
この語釈の使い方は『ぶ(分)』の原点なんでしょうね。[88888]
一筋縄では解説しきれないほどの「分」の用法があることに感心しました。

【追記】「三分坂」の読み方と、江戸時代の金銭価値
[88891] 伊豆之国 さん
急坂の割増賃金は、銀の重さ三分(さんぷん)=0.3匁を意味しているという横関氏の説。興味深く拝見しました。
お金のことだから4進法だろう。単純にそう考えたら大違いなのですね。
10進法と4進法とでは結果が2.5倍違うことになりますが、それ以上に影響が大きい因子があることを認識しました。

「分」という言葉を使う際には、何を基準にした「分」なのか が明らかにされなければならない。
そのような観点が基本であることを、「三割三分三厘」という用法[88883]に続いて 再認識しました。

金本位と銀本位
「金一両を銀60匁として、『銀三分』は20文に相当し」という記述から判るように、同じ重さでも価値に6倍の違い。

基準が貨幣単位の「両」か 重量単位の「匁」か
金本位の貨幣制度の基準単位は 1両(重量単位では 10匁に相当)。
銀は丁銀として通用した秤量貨幣。従って基準単位は「匁」。従って「銀三分」は 0.3匁の銀の価値。

金と銀で6倍、両と匁で10倍、4進法と10進法とで2.5倍。このすべての相乗になるので、同じ「三分」という表記でも150倍の違いになります。
貨幣の三分(さんぶ)ならば3000文という非常識な高額になるが、三分(さんぷん)の重さの銀なので 実は20文。
この説明に納得しました。


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