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千本桜さんの記事が50件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[77119]2010年12月27日
千本桜
[77093]2010年12月23日
千本桜
[77083]2010年12月22日
千本桜
[77082]2010年12月22日
千本桜
[76288]2010年10月2日
千本桜
[76196]2010年9月16日
千本桜
[75500]2010年7月19日
千本桜
[75490]2010年7月17日
千本桜
[75322]2010年6月8日
千本桜
[75311]2010年6月7日
千本桜
[75271]2010年6月4日
千本桜
[75252]2010年6月3日
千本桜
[75196]2010年5月27日
千本桜
[75176]2010年5月23日
千本桜
[75169]2010年5月22日
千本桜
[75156]2010年5月22日
千本桜
[74447]2010年3月26日
千本桜
[74322]2010年3月11日
千本桜
[74255]2010年3月4日
千本桜
[74203]2010年2月22日
千本桜
[74167]2010年2月16日
千本桜
[74115]2010年2月8日
千本桜
[74112]2010年2月7日
千本桜
[74078]2010年1月30日
千本桜
[74046]2010年1月25日
千本桜
[73486]2009年12月31日
千本桜
[73406]2009年12月27日
千本桜
[73392]2009年12月25日
千本桜
[73386]2009年12月24日
千本桜
[73371]2009年12月21日
千本桜
[73357]2009年12月20日
千本桜
[73340]2009年12月17日
千本桜
[73280]2009年12月13日
千本桜
[73208]2009年12月5日
千本桜
[72957]2009年11月26日
千本桜
[72894]2009年11月20日
千本桜
[72228]2009年10月21日
千本桜
[72164]2009年10月12日
千本桜
[72073]2009年9月26日
千本桜
[71771]2009年8月23日
千本桜
[71763]2009年8月23日
千本桜
[71735]2009年8月20日
千本桜
[71254]2009年8月1日
千本桜
[71220]2009年7月31日
千本桜
[70939]2009年7月25日
千本桜
[70914]2009年7月22日
千本桜
[70855]2009年7月18日
千本桜
[70841]2009年7月16日
千本桜
[70836]2009年7月16日
千本桜
[70779]2009年7月11日
千本桜

[77119] 2010年 12月 27日(月)00:33:18千本桜 さん
卯名沢は小字
[77111] k-ace さん
町名・大字名のみを対象とし、小字名は割愛。
気仙沼市本吉町卯名沢

本吉町は大字を編成していませんので、卯名沢は小字として扱うのが妥当かと思われます。当然ですが、近隣の中島下宿今朝磯などもすべて小字で、敢えてそれらを総称する大字相当の地名を挙げるなら小泉(藩政期の小泉村)になります。旧小泉村の中心となる小字は。藩政期の小泉村は明治22年(1889)に他村と合併せずに単独で町村制下の小泉村になりましたから、大字を置く必要がなかったのです。昭和30年に小泉村、津谷村、大谷村が合併して本吉町が成立しましたが、やはり大字は置かずに、自治体名(本吉町)の後ろに直接 小字名を書くことになっています。
[77093] 2010年 12月 23日(木)19:21:14千本桜 さん
引綱から唐琴へ、平から金ヶ瀬へ
[76203] hiroroじゃけぇ さん
落ち着いて書き込みする時間がとれず、ご返事が遅くなって申し訳ありませんでした。
唐琴は明治22年まで存在した引網村のことではないかと推察します。もし、地理範囲に変わりがないなら、今も引綱と呼ばれて良いはずなのに、どうして唐琴に改称したのでしょうか。
という私の問い掛けに
人口が集中する「唐琴」を採用したのではと推測しています。
との回答を頂きましてありがとうございました。私も人口や居住空間(集落)が少なからず作用しているだろうと感じています。そこで、私なりに藩政期の引綱村が現在の倉敷市児島唐琴町に変化する過程を追ってみました。
明治22年、引綱村と田ノ口村が合併して町村制下の田ノ口村が発足。引綱村の区域は田ノ口村大字引綱となる。
明治40年、田ノ口村と鴻村が合併して琴浦村が発足。田ノ口村大字引綱の区域は琴浦村大字引綱となる。
大正4年、琴浦村が町制施行。琴浦村大字引綱の区域は琴浦町大字引綱となる。
昭和31年、琴浦町と児島市が合併して(新)児島市が発足。琴浦町大字引綱の区域は児島市唐琴町となる。
昭和42年、児島市と倉敷市、玉島市が合併して(新)倉敷市が発足。児島市唐琴町の区域は倉敷市児島唐琴町となる。
昭和46年、倉敷市児島唐琴町に住居表示が実施されて倉敷市児島唐琴1~4丁目となる。住居表示が未実施の区域は倉敷市児島唐琴町のまま残留。
昭和31年に大字引網を唐琴町に改称したようですね。ここまでは調べることができたのですが、なぜ引綱ではダメだったのかについては分からずじまいです。実は、宮城県でも昭和31年に大字平(藩政期の平村)が金ヶ瀬という地名に改められています。あまり参考にならないかとは思いますが、平が金ヶ瀬に変化して行く経緯を紹介します。
【第1段階】
寛永14年(1637)、6月23日朝より大雨。24日雨止まず。25日雨止まず。26日洪水。この洪水で刈田郡宮村(現・蔵王町)の金ヶ瀬宿は流出して河原と化した。同じ場所での再建は方策がたたず、領主の片倉重長は伊達藩主に請願して柴田郡平村(現・大河原町)の畑地を拝領し、そこに屋敷割りを実施して、侍1、町足軽27、百姓修験1、百姓16、計45軒を移転させることにしました。
【第2段階】
寛永19年(1642)、金ヶ瀬宿が平村の南西部に移転して宿駅業務を再開する。この時に形成された町並みは、後に増設される金ヶ瀬新町に対して金ヶ瀬本町と呼ばれます。
【第3段階】
享保6年(1721)、金ヶ瀬宿の貨客増加に伴い、平村の村落部に住む農民90軒を強制移住させて金ヶ瀬宿を拡張する。この時に増設された町並みは金ヶ瀬新町と呼ばれます。金ヶ瀬本町と金ヶ瀬新町は途切れのない一連の町並みになっていて、安永風土記には、本町 長サ三丁拾弍間 家数四十五軒。新町 長サ八丁 家数九十三軒と書いてあります。この時点で平村の村落部に住む住民と金ヶ瀬町場に住む住民の比率が完全逆転しましたから、平とは金ヶ瀬のことという感覚が生まれ始めてもおかしくないと思います。対外的な知名度は、地籍上の村名「平」よりも町場名「金ヶ瀬」の方が勝ってしまったのではないかと想像します。
【第4段階】
明治22年(1889)、平村、堤村新寺村が合併。平村の町場名をもって金ヶ瀬村になりました。旧3村は、平村が金ヶ瀬村大字平、堤村が金ヶ瀬村大字堤、新寺村が金ヶ瀬村大字新寺となりました。
【第5段階】
昭和31年(1956)、金ヶ瀬村は大河原町に合併。村内の旧3大字は、大字平が大河原町金ヶ瀬、大字堤が大河原町堤、大字新寺が大河原町新寺となりました。この段階で大字平(藩政期の平村)は金ヶ瀬という名に置き換えられて消滅しました。
こうしてみると、平は金ヶ瀬に庇を貸して母屋を取られた格好ですが、私としてはあまり抵抗感がないんですよね。リアルタイムのできごとではなく、昔のできごとだからというのも少しはあります。しかし、何よりも大きいのは、へんちくりんな大字のエリア変更がなかったこと。過去の歴史が見えなくなるような大字の領域変更がなかったこと。天保郷帳や安永風土記などの古い書物に書かれている「平村」をそっくりそのまま「金ヶ瀬」に置き換えれば意味が通じる状態に保たれたこと。それが一番の理由です。大字の変更で私が一番恐れるのは、無感心なるが故に安易な領域変更に走る行政による歴史破壊です。これがリアルタイムで目の前で行われたなら、たまったもんじゃありません。
[77083] 2010年 12月 22日(水)19:38:07千本桜 さん
市区町村変遷情報および『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』
[76590]88 さん
静岡県(336件)、長野県(391件)の計1,257件(いずれも町村のみ)の一括登録をしていただきました。
いつも感謝しながら市区町村変遷情報を利用させていただいております。ところで、市制町村制施行時の情報の静岡県ですが、「市制町村制施行前の町村名等」を記載する欄に「施行後の町村名」が掲載されているようです。88さんが間違う筈はないという前提で見ていますから、もしかして私の方が見方を誤っているのかな?と少々頭が混乱していますが、念のため御確認おねがいします。

[76822]YT さん
『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』 東北編
天保郷帳では陸前国栗原郡92村ですが、旧高旧領取調帳では1つ増えて93村になっています。どうしてかなと調べたところ、明治4年(1871)に真坂村から北沢村が分村したことによる増加のようですね。北沢村は江戸期の昔より独立した1個の自治村だと思い込んでいましたが、YTさんの『旧高旧領取調帳』と『天保郷帳』の村数比較を見て、勘違いしていたことに気がつきました。ありがとうございました。ところで、旧高旧領取調帳では羽前国置賜郡292村2町となっていますが、その2町がどこなのか、御存知でしたなら教えて頂けないでしょうか。
[77082] 2010年 12月 22日(水)19:26:40千本桜 さん
鈍感都市
[76095] 白桃 さん
その市の郊外?にあるバス停に到着
そのバス停は大内バスストップのことだと推察しますが、そこで下車した人の数が気になりました。そして仮に、利用客が少ないことを理由にバス会社が大内バスストップへの停車をやめると通告してきたなら、東かがわ市の行政や住民はどんな行動に出るのだろうと考えてしまいました。A・バス会社に停車継続を働きかける。B・行政も住民も無関心のままやりすごす。さあ、東かがわ市はA・Bどちらをとるでしょう。
こんなことを書きますのも、昨年2月から岩沼、大河原、白石に東京行き夜行バスが停車しなくなり、宮城県南部は長距離バスの空白地帯になってしまったからです。私は訳あって大河原、白石両バス停の乗客数を時折チェックしていましたが、乗車する人が非常に少なく、バス会社が停留所を廃止したくなるのも分からないわけではありませんでした。しかし、地域には地域の側の論理があって当然で、東京行きのバスは地域にとって必要、交通機関は都市戦略に欠かせないアイテム、だから通過措置は回避して欲しいと、ダメもと承知で行政が声をあげるのを期待していましたが、その声も聞かれないまま実質バス停廃止に至りました。こうして大河原は東京と直結する交通手段を失ったのですが、それでも平然としていられるのは都市として鈍感すぎ。なにしろ、18万人圏域の中心地としての役目を背負っているのですから、もっと敏感にならなくちゃと思うのです。
そこで、国の出先機関配置から見た東北地方の拠点都市を書き出します。対象となる役所は「地方裁判所またはその支部」、「法務局またはその支局」、「国税局の税務署」の3つに絞ります。東北地方の都市で3機関がすべて設置されているのは青森、五所川原、弘前、十和田、八戸、盛岡、二戸、宮古、花巻、水沢、一関、仙台、気仙沼、石巻、古川、大河原、秋田、大館、能代、本荘、大曲、横手、山形、酒田、鶴岡、新庄、米沢、福島、会津若松、郡山、白河、相馬、いわきの32市1町です。平成の大合併後の自治体にまだ馴染めないので、合併前の自治体を念頭に置いて書きました。このそうそうたるメンバーの中に名を連ねながら、東京との直結交通手段もなければホテルもない大河原町って、やっぱり異色ですね。
[76288] 2010年 10月 2日(土)08:19:57千本桜 さん
児島、日比、水城の御礼
[76203] hiroroじゃけぇさん
[76204] かぱぷうさん
[76205] 中島悟さん
[76263] hiroroじゃけぇさん
私の疑問にお応え下さいましてありがとうございました。拝読いたしましたのに、御礼の書込みが遅れて申し訳なく思っております。実は[76196]を書込んだ後に、敬老会、同級会などの準備や種々の会合が重なって舞い込み、落ち着いて書込みをする時間がとれない状態に陥っておりました。この後も、村の鎮守の秋祭りやカラオケフェステバルに追われますが、それらが終われば書込み可能な状態に戻れると思います。塩生・通生・宇野津をまとめて本荘と呼ぶ習慣はないのだろうか?など、お尋ねしたい事はまだまだあるのですが、取り敢えず御礼まで。
[76196] 2010年 9月 16日(木)08:22:18千本桜 さん
児島、玉野市日比、太宰府市水城
[59333] hiroroじゃけぇ さん
地元における一般的な区分は、
児島(味野・小川・琴浦・田ノ口・唐琴・赤崎・由加をまとめて)
下津井
塩生(しおなす)・通生(かよう)(リンク先は塩生)
郷内
と分かれています。自治体の変遷とは必ずしも一致していませんので分かりづらいでしょう。大まかに言えば、山に囲まれ東側または南側が海の地域が児島、それ以外は別々と言うことです。
児島に関して幾つかお尋ねします。
1・公的な行政区分ではなく、世間の一般的な人々の地理意識を知りたいので教えてください。琴浦から少し離れた地域の人々、例えば下津井や日比の人は琴浦の地理範囲をどのように捉えているのでしょう。A・下の町・上の町の区域を琴浦と呼んでいる。B・下の町・上の町・田ノ口・唐琴・由加・白尾の全域を琴浦と呼んでいる。捉え方は世代によって違いがあるかもしれません。そこで、1つはhiroroじゃけぇさん世代の感覚で捉えた琴浦。もう1つは70才以上の高齢者の感覚で捉えた琴浦。二者の立場からの琴浦を解説いただけたなら幸いです。
2・唐琴は明治22年まで存在した引網村のことではないかと推察します。もし、地理範囲に変わりがないなら、今も引綱と呼ばれて良いはずなのに、どうして唐琴に改称したのでしょうか。
3・塩生(しおなす)・通生(かよう)で1つの区域とした場合、宇野津はどこへ行ってしまうのでしょう。塩生に含まれるのでしょうか。
4・次に、現在の公的な住所地名の話に移ります。旧児島市の区域では、大字に相当する町丁名のほとんどが児島を冠して倉敷市児島○○と表記するのに、郷内村、下津井町および味野町の菰池だけは児島を冠称しません。何故でしょうか。後に児島市に編入された郷内村の区域が児島を冠称しないのは理解できますが、児島市発足当初から児島市に組込まれていた下津井町と味野町の菰池地区が児島を冠しない理由がわかりません。児島を冠せず、いきなり倉敷市下津井、倉敷市菰池になるのが不可解なのです。赤崎が倉敷市児島赤崎ですから、菰池は倉敷市児島菰池になるのが一般的だと思うのですが・・・。
5・さらに不可解なのは下津井の大畠です。明治22年以前、下津井町の区域は下津井村、吹上村、田ノ浦村、大畠村に分かれていました。現在の住所表記は、下津井村の区域が倉敷市下津井、吹上村の区域が倉敷市下津井吹上、田ノ浦村の区域が倉敷市下津井田ノ浦なのに、大畠村の区域は下津井を付さずに倉敷市大畠です。大畠村の区域が児島も下津井も冠称しないのはなぜでしょうか。

玉野市やその周辺に住む世間の人は、日比の地理範囲をどのように捉えているのでしょう。
A・日比という地名を耳にすると、藩政期の日比村に相当する区域を思い浮かべる。
B・日比という地名を耳にすると、日比に渋川和田を加えた区域を思い浮かべる。
C・日比という地名を耳にすると、日比、渋川、和田にを加えた区域を思い浮かべる。
私の関心は、今も日比という地名が玉を包含する力を持っているかどうかにあります。

かぱぷうさんへ
太宰府市近隣、例えば筑紫野市や大野城市の人たちは、水城という地名が及ぶ地理範囲をどのように捉えているか知りたいので教えてください。
1・太宰府市水城あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、と言い習わしている。
2・太宰府市坂本あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、C・坂本へ行くと言い習わしている。
3・太宰府市通古賀あたりに行くことを、A・太宰府へ行く、B・水城へ行く、C・通古賀へ行くと言い習わしている。

明治22年、藩政期の水城村, 国分村, 坂本村, 観世音寺村, 通古賀村, 片野村, 吉松村, 向佐野村, 大佐野村の9村が合併して町村制下の水城村が誕生しました。これら旧9村は水城村の大字に引継がれ、後に太宰府町の時代を経て、太宰府市の大字・町丁名に継承されています。ところが、旧9村のうち片岡村の名称だけは現在の太宰府市の住所地名に見当たりません。ここから先は推測で書きますが、大字片岡(旧片岡村)は住居表示が実施されて朱雀○丁目になり、住所地名としては消滅してしまったのでしょう。私の関心は、この片岡という地名が世間の人に今も使われているかどうかにあります。かぱぷうさんは片岡という地名を口にしたり耳にしたことはありませんか。もし、かぱぷうさん世代になじみのない地名だとしても、住居表示が実施される以前に物心がついていた人たちは今も片岡という地名を使っているかもしれません。高齢者が片岡を口にしているのを耳にしたことはありませんか。
[75500] 2010年 7月 19日(月)18:13:52千本桜 さん
田老森崎
[75493] 2010 年 7 月 17 日 (土) 22:55:15 しんちゃん さん
岩手県宮古市田老森崎(郵便番号0270354)という所があります。しかし地図検索しても指示点はありますが、どの地図にも字名が書かれていません。どんな所なんですか。

宮古市田老森崎の名称と字界はちず丸で確認できます。ただし、字界の精度は保証できません。マピオンで田老森崎43番地を検索するとこの場所が表示されますが、ちず丸は そこを田老末前の領域にしています。どちらかがズレているわけですが、この場合に限って判断するなら、ちず丸の字界線がズレている可能性が高いと思います。また、ちず丸やマピオンの他に国土地理院ウォッちず2万5千分の1地形図併用をおすすめします。2万5千分の1地形図には森崎の表記がなく、字界も表示されていませんが、地形や集落への想像をかきたててくれます。

森崎は町村制が敷かれる明治22年以前は末前村の字(あざ)でした。角川地名大辞典によると、末前村の字(あざ)は七滝・青倉・立腰・日影山・森崎・末前・和山・鈴子沢の8字です。ただし、日影山は現在、日影と呼ばれているようです。ちず丸は この8字名を全部表示していまが、ウォッちず2万5千分の1地形図は森崎・日影・和山の3字名を表記していません。2万5千分の1地形図の集落名表記は、地籍の上で存在するかどうかではなく、地図の上で集落としての図形が確認できるかどうかで決まります。ですから、家屋が存在しない字(あざ)の名称は表記されず、家屋が少ない字(あざ)も名称表記がされないことがあります。また、ひとかたまりの集落に見えても、複数の字(あざ)に跨がっているものが多々あります。この場合、すべての字名を表記すると繁雑になり、等高線・河川・道路・家屋・植生などの表示に悪影響をおよぼすので、代表的または総称的な地名のみを表記し、他は省略します。

森崎が2万5千分の1地形図に表記されなかった理由は、家屋が少ないことに加え、中心集落の末前と ひとかたまりの集落とみなされ、省略されたからではないかと思います。世に出回っている多くの地図は、国土地理院の地図を基にして作られています。地理院2万5千分の1地形図に記載されない地名は、他の地図にも記載されないことが多くなります。森崎もその例でしょう。

末前村の字だった森崎は明治22年、末前・田老・乙部・摂待の4村合併で田老村(後に田老町となる)が成立すると、田老村大字末前の小字になりました。住所は昭和59年まで田老町大字末前第5地割字森崎○○番地と表記していたようです。昭和59年に字(あざ)の名称変更があり、大字末前第5地割の字句を外して田老町字森崎になりました。この名称変更に関する資料が見つかりましたので貼っておきます。その後、平成17年に田老町は宮古市・新里村と合併し、田老町字森崎は宮古市田老森崎となって現在に至っています。
[75490] 2010年 7月 17日(土)17:05:46千本桜 さん
間違い探し
[75488] 白桃 さん
東かがわ市の合併等の経過図ですが、一部が間違っていますね。
横レスをお許しください。福栄村を構成する入野山村が記載もれですね。

三本松高校の同級生だった市長に言っとこう・・・
この系統図を東かがわ市の市長に見せて、間違い探しをしてもらいましょう。ヒントなしで一瞬に間違いを探し当てたら、頭をなでなでしてあげて下さい。そのとき、ついでに次のことを市長に質問して下さい。
「中筋地区と三本松地区の家並は連続状態ですから、中筋○○番地を三本松○○番地に改めましょうよ。中筋なんて田舎臭い大字名を捨て、都会的な三本松を名乗らせてやれば住民は喜びますからね」。これに対して「いいアイディアだ!」などと乗って来たなら、頭をゴッツンしてやりましょう。藩政村が大字として継承されてきた歴史の重みを認識させましょう。
東北地方の某町では、住所政策担当者にこの認識が足りません。藩政村とか大字の歴史を知っている住民はいないから、大字の名称や領域を変更しても良いのだそうです。変な理屈ですね。
[75322] 2010年 6月 8日(火)22:02:35千本桜 さん
サントス生まれの編集者が選ぶ福岡県の三都市
茨城県:水戸、土浦、日立
(たとえ時代遅れといわれても、まだ この3都市に執着します。“つくば”をいまいち理解できていないからかな)
埼玉県:さいたま、熊谷、川越
(さいたまは浦和それとも大宮?、それが第3位選びに少し影響しますが、川越が伝統の重みで所沢を押し倒し)
千葉県:千葉、銚子、館山
(千葉県の形状を思うと銚子、館山を配置したときが最も安定感を感じます。柏、船橋ごめんなさい)
新潟県:新潟、長岡、上越
(第2位長岡、第3位上越、ともに順当かと思います)
岐阜県:岐阜、高山、大垣
(第2位は岐阜の勢力が及ばない高山。第3位は大垣と多治見が決戦して大垣に)
静岡県:静岡、浜松、沼津
(沈丁花は枯れても香しという諺は沼津のためにあるような)
愛知県:名古屋、豊橋、岡崎
(第2位はすんなり豊橋に決定。第3位は岡崎と豊田が決戦の末に岡崎の判定勝ち)
兵庫県:神戸、姫路、豊岡
(第2位は迷わず姫路。第3位は独自の都市圏を形成し小粒でもピリリと辛い豊岡。尼崎、西宮ごめんなさい)
福岡県:福岡、北九州、久留米
(サントス生まれでトスマニア島育ちの編集員は福岡、北九州、鳥栖を選びました。いくらトスマニアでも、やりすぎでしょう。でも鳥栖は福岡県三都市の一つに選ばれて喜んだそうです。唐津は福岡県三都市から漏れてがっかり。佐賀県って・・・)
[75311] 2010年 6月 7日(月)08:35:41千本桜 さん
Re:県下三都市決定戦
[75271]で書いた
広島県には3つの都市を記載して広島県であることを伝えようとしています。広島、福山、もう1つはどこでしょう。
答えは廿日市でした。

[75306] 白桃 さん
以下の9県で3つの都市をお選びください。
時間がないので取り敢えず、番外・大阪府の「酒の肴編」です。
市りとりマニアの編集者は大阪府の地図に大阪、門真、松原の3都市を表記しました。これにクレームをつけたのは先輩編集者でした。3都市が近くに固まりすぎているというのです。そこで先輩編集者は手本を示しました。いいか、よく見ておけ。大阪府全体を見渡して摂津、和泉、河内の3国にそれぞれ1都市ずつ配置するのがベストなんだ。そして大阪、貝塚、河内長野を選びました。どうやら、この先輩も市りとりマニアだったみたいですね。こんな末期症状の地図編集現場を見て、堺、岸和田、高槻、枚方の面々は、あまりのばかばかしさに第2都市、第3都市に立候補するのをやめたそうです。
[75271] 2010年 6月 4日(金)20:57:10千本桜 さん
Re:イバラキの市に突っ込みを入れてみる
[75263] 白桃 さん
孤軍奮闘しているようなので援軍参加します。さっき、本屋で立ち読みしたプレジデント別冊、なかなか面白かったです。内容が「出世・結婚・お金は県民性で9割決まる」とかで、各県ごとに、ものすごく簡単な地図が載っているわけです。どんな地図かというと、県の輪郭と主要都市が3つ4つ載っているだけで、他の情報は一切なし。たぶん、こういう簡略な地図を真剣に見る人は少ないと思うのですが、主要都市の選択が実に面白い。たとえば、鳥取県は県の輪郭の中に鳥取、米子、倉吉の3都市をプロットして鳥取県であることを表しています。これは順当な選択ですね。山形県は山形、酒田、米沢を選択。3都市だけで山形県を伝えるなら、これも順当。新潟県にも3都市がプロットされています。新潟、長岡とくれば残り1つはあの都市だと思うでしょう。ところが、あの都市ではなく糸魚川を選択しています。なんでやねん。宮崎県も延岡を外して、宮崎、都城、日向を記載。肩透かしを喰らいました。福島県には4都市をプロット。福島、郡山、いわき、そして喜多方!。なんで喜多方?。会津若松が怒るで。ここでクイズです。広島県には3つの都市を記載して広島県であることを伝えようとしています。広島、福山、もう1つはどこでしょう。思わず、うにゃ~とするような都市が選択されています。
では本題の茨城県に突っ込みます。こういう簡略な地図の場合、水戸、土浦、日立の3都市を記載すれば済むだろうと考えるのは、どうやら時代遅れの男たちの感覚みたいです。この地図では水戸、日立、つくば、取手を選択し、土浦を外しています。つくばが土浦に取って代わる。これも時代の流れかなと納得しようと努力してはいるのですが、どうにも納得できないのは、つくばに県都のマークが付され、水戸はその他の一般都市と同じマークで扱われていることです。関東あたりでは水戸って、そんなに影が薄いんでしょうか。(笑)
[75252] 2010年 6月 3日(木)22:49:15【1】千本桜 さん
東北地方の自治体を越える地名
青森県上北郡六戸町大字犬落瀬/青森県三沢市大字犬落瀬
青森県三戸郡五戸町大字上市川/青森県八戸市大字市川町
岩手県花巻市成田/岩手県北上市成田
宮城県大崎市田尻北小牛田/宮城県美里町南小牛田
宮城県大崎市鹿島台木間塚/宮城県遠田郡美里町木間塚
宮城県黒川郡富谷町明石台○丁目/宮城県仙台市泉区明石南○丁目
宮城県黒川郡富谷町東向陽台○丁目/宮城県仙台市泉区向陽台○丁目
宮城県仙台市泉区南中山○丁目/宮城県仙台市青葉区中山○丁目
宮城県仙台市青葉区小田原○丁目/宮城県仙台市宮城野区小田原○丁目
宮城県仙台市青葉区花京院○丁目/宮城県仙台市宮城野区花京院通
宮城県仙台市青葉区五橋○丁目/宮城県仙台市若林区五橋○丁目
宮城県仙台市青葉区土樋一丁目/宮城県仙台市若林区土樋一丁目
宮城県仙台市青葉区茂庭/宮城県仙台市太白区茂庭
宮城県仙台市若林区四郎丸/宮城県仙台市太白区四郎丸
秋田県仙北郡美郷町金沢/秋田県横手市金沢・金沢本町・金沢中野
山形県新庄市大字本合海/山形県最上郡大蔵村大字合海
山形県尾花沢市大字五十沢/山形県村山市大字五十沢
福島県伊達郡国見町大字西大枝/福島県伊達市梁川町東大枝
福島県福島市松川町下川崎/福島県二本松市下川崎
福島県田村郡三春町大字南成田/福島県田村市船引町成田
福島県双葉郡大熊町大字小良浜/福島県双葉郡富岡町大字小良ケ浜

秋田県の美里町を美郷町に訂正。
[75196] 2010年 5月 27日(木)20:43:27千本桜 さん
市場統合
河北新報の報道によると、今年9月ごろをめどに大河原町地方卸売市場、白石市地方卸売市場、角田市地方卸売市場の3市場が統合。白石市、角田市の市場を閉鎖し、大河原町の市場に機能を集約するとのことです。またしても市町逆転。市の都市機能が町に引き寄せられる不思議な地域の、地味なローカルニュースでした。
[75176] 2010年 5月 23日(日)08:07:24千本桜 さん
♪ウミはステキだな~
大磯がハズレだとすると、あとはアソコしかないと思うのですが、人口資料を持ち合わせていないので確認できません。そこで推測ですが、1920年当時に人口1万超の町になっていた要因は炭坑にあり、1960年当時2万人超の町になっていた要因は母都市Fの膨張によるベッドタウン化にあると考えてよろしいでしょうか。すると答えはウミ。
[75169] 2010年 5月 22日(土)20:59:20千本桜 さん
大忙し
[75167] 白桃 さん
これの正解はもちろん音更町なんですが、実は、全国でいうと、もうひとつだけあるのです。
昭和35年には既に人口集中地区を形成していた あの町だと思いますが確認できません。なぜなら、私はいま大忙しだから。
[75156] 2010年 5月 22日(土)02:38:17千本桜 さん
四国旅行
[74078]で書いた四国旅行の件、先週実行して参りました。個人の自由が利かない団体旅行でしたが、晴天に恵まれ、穏やかな瀬戸内の風景を久しぶりに眺めることができました。伊丹空港を出発したバスは中国池田IC→(中国自動車道経由)→神戸JCT→(山陽自動車道経由)→神戸西IC→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路ICのルートを走行して淡路夢舞台へ。夢舞台を全部見るには3時間ほど欲しいのですが、許された滞在時間は40分だけ。我が家のジギタリスやラベンダーはまだ蕾さえ付けていないのに、淡路島では もう咲いているのですね。広い園内の一画だけを見て回り、昼食のため旧東浦町の海鮮料理屋へ急ぎました。このあたりは40年ほど前に自転車で走り抜けていますから、久しぶりの再訪問になります。

昼食後は淡路島の北辺をなぞるように岩屋経由で海辺の道を走り、研修先の旧北淡町のとある施設へ向かいました。研修終了後は北淡ICから鳴門北ICまで神戸淡路鳴門自動車道を走行して大鳴門橋架橋記念館へ。記念館の展望台から眺める風景は明るい日差しを浴びて美しく、海上遊歩道「渦の道」のガラス床から覗き込んだ海もスリルがあって良かったです。この日の宿は大毛島にある大きなリゾートホテル。阿波踊りのショーを見ながらの宴会でした。

翌日は7時30分にホテルを出発。バスガイド嬢によると徳島県には市が4つあるそうな・・・。「徳島市、鳴門市、阿南市、えーと、あと1つは、小松島市ですね。」と言っていました。バスは神戸淡路鳴門自動車道、高松自動車道、徳島自動車道を乗り継ぎ、8時30分には美馬市の脇町に到着しました。平日の朝、まだ観光客がいない静かなうだつの町並みを目にして、私は正直舞い上がりました。宮城県では こんな素晴らしい町並みを見ることができません。でも、脇町観光に割り振られた時間はたった30分。ガイド嬢は300mほど先を指し、「あそこまで行ったら戻って来て下さい」と案内していましたが、それを無視して500m先の脇町劇場オデオン座、そして中心街の県道12号沿線商店街を見て回りました。

脇町観光の次は金比羅参りです。金刀比羅宮へは脇町→(県道12号を西へ走行)→美馬町→(国道438号経由)→琴平のルートで行きました。国道438号を進むにつれて高度が上がり、眼下に吉野川流域の風景が広がって、遠くに貞光の町が見えました。琴平の滞在予定は昼食を含めて2時間弱ですからハードスケジュールです。本宮まで登るのを諦めて途中で引き返し、参道新町商店街JR琴平駅琴電琴平駅神明町商店街→参道の順で町歩きをしました。琴平は町なのに田舎の市より都会的。昔も今もスーパータウンです。参道の食堂で早めの昼食を済ませ、松山へ向って出発。善通寺ICから先は松山自動車道を ひた走るだけなのでガイド嬢も一休み。車内はお昼寝タイムに入って静かになりました。

午後2時に松山のとある施設に到着。そこで研修交流会を済ませて子規堂へ。再びガイド嬢の出番到来です。ガイド嬢によると松山市は人口46万、四国一の大きな都会だそうな・・・。人口にうるさい人がいなかったのはガイド嬢にとって幸いでした。みんなの関心は人口よりも土産品選びにあるようです。個人的には中心商店街の銀天街と大街道を歩きたかったのですが願いは叶わず、バスは子規堂から市役所、県庁、三越前を通過して松山城ロープウェイのりばへ移動。松山は2度目ですが、松山城に登るのは初めてです。天守閣から見渡す市街地の規模は、宇都宮と同じ程度かなと感じました。ロープウエイの下り最終運行が午後5時ということで、早めに下山して道後温泉に向かいました。

その夜の宿は温泉街のどまんなか、あの有名な道後温泉本館の近くでした。平日なのに道後温泉本館の周りは観光客で賑わっていました。こんなふうに賑わっている温泉街を見るのは、3年前に見た草津温泉以来のことです。この道後温泉と宮城県の秋保温泉は年間宿泊客数がほぼ同数ですが、景観は道後の方がずっと大きな温泉場に見えます。秋保は施設が充実した大規模旅館が多く、遊びも買物も旅館内で済ませてしまうので温泉街が育たないようです。秋保って、そんなに大規模旅館が多いのか?と訝る方のために、秋保と道後の旅館規模を比較をしてみます。宿泊収容人数100人以上の旅館を対象に規模別分布を調べると次のようになります。
宿泊収容人数秋保温泉道後温泉
900人以上2軒0軒
700~899人3軒1軒
500~699人1軒1軒
300~499人3軒9軒
100~299人4軒6軒
宿泊した旅館は道後温泉の中でもハイクラスの旅館でしたが、秋保温泉の大規模旅館に慣れてしまった身には少々物足りなさを感じました。私はこれを秋保症候群と呼んでいます。旅館の中に各種施設が整っていないと、どのようにして時間を過ごせば良いのか分からなくなる症候群です。たぶん、仙台周辺には秋保症候群に陥っている人が他にもいると思います。

翌朝は5時に起きて温泉街を散歩しました。道後温泉駅前のからくり時計を眺めていると、「昨夜は明かりがついて綺麗でしたよ」と背後から声をかけられてびっくり。ふりむくと左手にお酒、右手にカップラーメンを持ったホームレスのおじさんが優しい まなざしで こっちを見ています。おじさんは一定の土地にとどまっていられない病気なのだそうです。ひとつ どうです、と酒をすすめられましたが遠慮しました。7年前に隅田川の川べりで博識なホームレス氏にビールを御馳走になりましたが、今度のホームレス氏もなかなかで、「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の・・・・」と茂吉の歌を投げてくるではありませんか。それならこっちも茂吉でと、道後温泉宝厳寺の歌碑に刻まれた「あかあかと一本の道通りたり・・・・」を返しました。ホームレス氏との不思議な時間が流れます。聞けば、望まれずに生まれてきた身とか。でも、そんな優しい目をして身の上話をするのは良くないよ。つい、ほろりとするじゃないか。コンビニで牛乳を買った時の釣銭を、そっとホームレス氏の手に渡しました。

朝食をすませて8時に旅館を出発。石手寺に向かいました。実は、今度の旅行まで石手寺の存在を知りませんでした。想像以上に大きな寺で、朝から観光客やお遍路さんで賑わっていました。ガイド嬢の説明によると、四国八十八ヶ所めぐりの中で一番に参拝客が多い寺だそうです。でも、先を急ぐ旅なので滞在時間は30分だけでした。バスは国道317号を走行して今治へ。そして、しまなみ海道に入ります。来島海峡大橋から今治市街を遠望すると、1棟だけ周囲の建物より突き出た高層ビルが見えました。あれが有名な今治国際ホテルなのだろうか?。絶好の行楽日和のなか、大島、伯方島、大三島と進んで愛媛県とはお別れです。

多々羅大橋を渡って広島県に入りました。しまなみ海道を生口島南ICで下りて一般道へ。生口島の南海岸を回って耕三寺に向かいました。サンセットビーチあたりで、「あれが因島です」とガイド嬢。え!、それはあり得ない。あれは三原市の海岸のはず。でも、それは観光旅行にとってたいした問題ではないのでしょう。バスはちゃんと予定どおり耕三寺に着いたのですから。耕三寺の評価は分かれますね。同行者の話を聞くと、石手寺にはまたいつか来てみたいが耕三寺はもういいだろうという人もいて。瀬戸田の食事処で昼食とお買物です。2泊3日の旅もここが最後の立寄り場所とあって、みんなお土産を買い込んでいました。因島、向島と進んで新尾道大橋にさしかかりました。そこから尾道の美しい風景を眺めることができました。でも不思議です。風景に色がないのです。千光寺山も向島も町並みも、そして青いはずの海までもが水墨画のように白黒です。しかも、反射して光っています。力強いタッチで描かれた水墨画のような尾道。あれは太陽光線のいたずらか、それとも幻影か。新尾道大橋を渡るほんの一瞬ですが、絵になる構図の尾道の美しい風景を見ることができたのは幸いでした。

尾道からは山陽自動車道を走って伊丹空港へ。ハードスケジュールな旅でしたが無事帰宅できました。なお、文中ではバスガイド嬢と書きましたが、本当は“嬢”と言ったら失礼なくらい人生を積み重ねた大ベテランガイドさんでした。ガイドさんは3つ間違いました。徳島県の市数、松山市の人口、三原と因島の取り違えです。でも、それを補って余ある巧みな話術と心配り。素晴らしかったです。あのガイドさんが落書き帳を見ているとは思えませんが、この場を借りて御礼申し上げます。
[74447] 2010年 3月 26日(金)20:44:03千本桜 さん
石巻
[74412] 牛山牛太郎 さん
お久しぶりです。
3月8日には石巻市の市役所が移転を開始し、22日に完了しました。
移転した石巻市役所は雰囲気が良さそうですね。某町の町役場のように、外壁の色が暗くて いかにも役所らしい造りだと訪庁するのも気が重くなります。その点、元デパートの建物を利用した石巻市役所は外観がピンク系、1階がスーパー、6階まで全階エスカレーターあり、映画館だったスペースが議場という変わりものですが、気軽に立寄れそうで好感が持てそうです。ただ、気になったのは駐車場の料金です。大河原駅前ビルの駐車場は60分未満が無料で以降1時間ごとに100円ですが、石巻駅前の市役所駐車場は60分未満が無料で以降30分ごとに150円です。30分ごとに150円は大河原の3倍、仙台市役所の二日町駐車場の1.5倍です。石巻の地価の安さを思えば少し料金が高すぎるように感じます。ちなみに石巻市役所前の路線価は、高知県いの町の中心街から離れた山の際を走る町道と同額の1平米50,000円です。いの町の路線価が高すぎるのか、それとも石巻の路線価が低すぎるのか・・・どっちもみたいですね。そんな訳でまたまた懲りもせずに路線価の話に入ります。路線価は都市の規模を評価したものではないことを承知の上で、都市規模と路線価を照合しながら そのギャップを楽しんでいるわけですから、地価関係者の皆さんは気になさらないでください。

[74322]では釧路・石巻・滝川と徳島県諸都市の路線価を比較しましたが、今回は石巻に焦点を絞ってみます。石巻の中心街を歩いていると岩手県の一関や水沢とそれほど変わらない規模に見えたりしますが、実際の規模は見た目より もっと大きな都市だと思います。そこで、石巻と同じような規模の市を選出し、それらの市との比較を通じて石巻の路線価を考えてみることにします。石巻は都市圏人口221,282人、市域人口161,192人、DID人口97,637人で、市域人口は減少しています。それを踏まえて下記の条件に当てはまる市を類似規模の市とします。
条件1・都市圏人口が15万から25万人(2005年都市雇用圏)
条件2・市域人口が10万から20万人(2009年10月1日推計)
条件3・DID人口が5万から15万人(2005年国勢調査)
条件4・人口増加率がマイナス数値(2005年国勢調査と2009年10月1日推計の市域人口比)
以上の4条件をクリアした市を「類似規模の市」とします。これに該当するのは、鳥取会津若松宇部都城米子大牟田三条石巻伊勢桐生今治酒田岩国鶴岡八代の15市です。ただし、特例として次の市を加えたいと思います。条件1の「都市圏人口」が規定の15万人に満たないものの、条件2、条件3および条件4をクリアした延岡北見新居浜。条件3の「DID人口」が規定の5万人に満たないものの、条件1、条件2および条件4をクリアした飯塚上田の5市です。これで類似規模の市は20市になりました。以上の20市については、最高路線価の位置をセンターにして航空写真をリンクしています。最高路線価は各市とも概ね中心街に位置していますが、伊勢と三条だけは異色です。伊勢の最高路線価は中心街の伊勢市駅周辺ではなく、町並みの どん詰まり伊勢神宮内宮の入口付近。三条の最高路線価は中心街の本町ではなく、新興の燕三条駅前にあります。また、心情的には苫小牧、室蘭、小山、足利、太田、上越、松阪、尾道、山口も類似規模の市とみなしたいのですが、条件に合致しない点があるので外します。では、類似規模20市の都市圏人口(2005年都市雇用圏)、市域人口(2009年10月1日推計)、DID人口(2005年国勢調査)、人口増加率(2005年国勢調査に対する2009年10月1日推計市域人口)、製造品出荷額(2006年)、|卸売販売額(2007年)、小売販売額(2007年)、人口比小売額(小売販売額を市域人口で除した数値)を表形式にまとめてみます。表作成の都合で会津若松を「若松」と表記します。

順位都市圏人口市域人口DID人口人口増加率製造品出荷額卸売販売額小売販売額人口比小売額
(万人)(万人)(万人)(%)(百億円)(百億円)(百億円)(万円)
1位鳥取 25鳥取 20大牟田 10米子 -1.0今治 73北見 38鳥取 22北見 136
2位若松 25宇部 17石巻 10新居浜 -1.0新居浜 69三条 34米子 19米子 129
3位宇部 25今治 17若松 9都城 -1.4上田 59今治 32都城 19若松 127
4位都城 24都城 17延岡 9飯塚 -1.6鳥取 57宇部 29石巻 18伊勢 121
5位米子 24石巻 16北見 9鳥取 -1.7宇部 54鳥取 29上田 18上田 115
6位大牟田 23上田 16鳥取 8伊勢 -2.0石巻 35上田 28宇部 17石巻 115
7位三条 23米子 15桐生 8上田 -2.3伊勢 34米子 25北見 17飯塚 114
8位上田 22岩国 14新居浜 8三条 -2.5若松 33酒田 20若松 16都城 113
9位石巻 22鶴岡 14宇部 8北見 -2.5三条 31都城 20今治 16鳥取 113
10位飯塚 20八代 13米子 7宇部 -2.6岩国 31石巻 20伊勢 16酒田 111
11位伊勢 18伊勢 13都城 6若松 -2.8延岡 29新居浜 17飯塚 15新居浜 102
12位桐生 18飯塚 13今治 6今治 -3.0都城 29岩国 16岩国 14三条 101
13位今治 17延岡 13岩国 6八代 -3.1大牟田 28若松 15鶴岡 14宇部 100
14位酒田 16若松 13八代 6鶴岡 -3.2鶴岡 28伊勢 15酒田 13岩国 99
15位岩国 15北見 13鶴岡 6延岡 -3.3桐生 27飯塚 13新居浜 12鶴岡 99
16位鶴岡 15大牟田 12酒田 6岩国 -3.4米子 26八代 13大牟田 12大牟田 97
17位八代 15新居浜 12伊勢 5石巻 -3.7八代 24延岡 11八代 12今治 95
18位延岡 14桐生 12三条 5酒田 -4.1酒田 23大牟田 10延岡 12八代 91
19位北見 13酒田 11飯塚 5桐生 -4.5飯塚 18鶴岡 8桐生 10延岡 89
20位新居浜 12三条 10上田 4大牟田 -4.8北見 15桐生 5三条 10桐生 84

石巻は都市圏人口9位、市域人口5位、DID人口2位、製造品出荷額6位、卸売販売額10位、小売販売額4位、人口比小売額6位ですから、都市景観の貧弱さとは裏腹に結構高い位置に付けています。しかし、人口増加率は17位と低迷。さらに、1平米当りの最高路線価は鳥取185千円、岩国185千円、伊勢170千円、米子145千円、上田140千円、今治140千円、宇部115千円、新居浜97千円、三条92千円、延岡91千円、都城90千円、飯塚82千円、会津若松81千円、大牟田73千円、桐生69千円、北見67千円、八代62千円、酒田61千円、石巻54千円、鶴岡53千円の順で、石巻は19番目に低落しています。最高路線価が低いのは人口減少が原因かというと、そうでもなさそうです。もっと大きな要因は商業の郊外立地による中心街の空洞化のようです。石巻は商業の郊外立地が著しい都市で、昭和の終わりごろには中心街の橋通りアイトピア立町大通りが寂びれはじめ、郊外の中里地区が活発な商業地になっていたと記憶しています。あれから20年以上を経た今では、中里地区がさらに郊外の蛇田地区にその座を奪われています。現在、商圏人口36万をかかえる宮城県第2の商都石巻の商業活動は、郊外の蛇田地区に完全移転してしまったようです。蛇田地区は、店鋪面積33,000平米を超すイオンSCや11,000平米超のイトーヨーカドーをはじめ、大型のホームセンター、家電店、ドラッグストア、ファッションショップ、さらには銀行、ホテルなども進出して急激な変ぼうを遂げています。その小売店の合計店鋪面積は十日町、大和高田、日南など人口6万人クラスの1市まるごと分の店鋪面積に匹敵し、愛媛県内子町の小売店全部を束ねて4倍してもまだ足りない面積に達しているだろうと推測されます。これほどの店鋪面積が半径わずか500mの区域に集積しているのですから、さぞ地価は熱く跳ね上がるだろうと思うのですが、なぜか路線価の評価額は冷めていて、内子町の国道から1本裏に入った用水堀とおぼしき水路に沿った小道よりも1,000円安い1平米49,000円ですから驚きです。こんなことを書いてると、路線価図の使用目的を間違えてるぞと叱られそうですが、都市規模を念頭において路線価図を眺めると新鮮な驚きが沢山あって面白いものです。
[74322] 2010年 3月 11日(木)07:52:26【1】千本桜 さん
徳島県諸都市vs釧路・石巻・滝川
平成21年分の路線価を見ていて釧路、石巻、滝川3市の最高路線価が低いと感じました。都市の大きさというか、地域の中で占めている都市としての役割の重さに比して、低いと感じるのです。徳島県の諸都市と対比すると、その低さが明確になります。人口集中地区を形成していない藍住町、石井町、美馬市の一等地より、釧路市の一等地の地価が安いなんて・・・。最高路線価(平成21年分)、DID人口(平成17年国勢調査)、行政人口(平成17年国勢調査)、事業所従業者数(平成18年事業所・企業統計)、年間小売販売額(平成19年)を表形式にまとめました。

都市最高路線価DID人口行政人口事業所従業者数年間小売販売額
徳島県 徳島市440,000円189,975人267,833人139,412人30,177,566万円
徳島県 阿南市94,000円5,604人78,002人31,506人6,529,878万円
徳島県 小松島市89,000円19,296人42,115人15,366人3,792,090万円
徳島県 吉野川市86,000円6,547人45,782人15,303人3,381,167万円
徳島県 藍住町82,000円32,286人10,417人3,954,153万円
徳島県 石井町81,000円26,068人8,755人2,370,478万円
徳島県 鳴門市80,000円21,695人63,200人24,291人4,682,792万円
徳島県 三好市80,000円5,410人34,103人13,070人2,163,911万円
徳島県 北島町79,000円11,866人20,703人8,495人2,811,262万円
徳島県 美馬市76,000円34,565人11,472人2,956,786万円
北海道 釧路市66,000円165,175人190,478人84,024人18,721,195万円
徳島県 松茂町65,000円14,926人8,675人1,766,759万円
宮城県 石巻市54,000円97,637人167,324人71,400人18,484,583万円
北海道 滝川市28,000円33,564人45,562人18,748人5,248,671万円

北海道釧路市の最高路線価・北大通五丁目の北大通りは、人口集中地区を形成しない徳島県美馬市の拝原地区を走る県道と同額の1平米66,000円。
宮城県石巻市の最高路線価・鋳銭場の石巻駅前通りは、徳島県阿南市学原町の国道を逸れて奥まった袋小路と同額の1平米54,000円。
北海道滝川市の最高路線価・本町一丁目の国道451号通りは、徳島県美馬市脇町の農地の中を走る市道より1,000円安い1平米28,000円。

書込み訂正。阿南市大字学原を阿南市学原町に訂正しました。
[74255] 2010年 3月 4日(木)00:14:07千本桜 さん
愛媛県内子町VS北海道釧路市
愛媛県内子町(人口18,546)と、その10倍の人口を持つ北海道釧路市(人口184,492)の路線価を単純比較します。人口は2008年10月1日の推計人口。路線価は平成21年分の評価額です。
内子町で最も評価額が高いのはこの場所で、1平方kmあたり79,000円。町外れの農地と家屋が入り混じるこの場所では66,000円です。一方、釧路市で最も評価額が高いのはこの場所で、1平方kmあたり66,000円。内子町の町外れと釧路市の中心街が同額とは・・・。

[74252]小松原ラガー さん
この町の中心駅?
その駅は、北島三郎♪「終着駅は始発駅」ですか?
[74203] 2010年 2月 22日(月)20:56:39【1】千本桜 さん
飫肥駅
[74200] Issie さん
もしかしたら酒谷川を渡って飫肥町の領域に乗り入れていたのかもしれません。ただ,今町も本町(飫肥1~10丁目)も川のそばから市街地が密集していそうで,それならどこに突っ込めたのか。
軽便鉄道は昭和6年、吾田村大字星倉から飫肥町大字本町まで400mほど延伸しています。酒谷川を渡ったのですね。でも、どのようなルートで走っていたのかは不明です。 Issieさんがおっしゃるとおり、市街地が密集しているので鉄道を突っ込む余地がなさそうです。また、Yahoo! の地図や写真を見ても、鉄道跡らしき形状が見つかりません。酒谷川に鉄橋を架けたのなら、両岸にルートの痕跡が残っているはずなのに、その痕跡が無いのが不思議です。ここから先は推測で書きます。推測と言っても全くの当てずっぽうではなく、むかし大河原駅前通りを走っていた軽便鉄道を念頭に置いての推測です。思いますに、吾田村星倉の飫肥駅から飫肥町本町の新駅までは、現在の国道222号と同じルートを走っていたのではないか。道路橋の稲荷下橋を利用して酒谷川を渡り、そのまま本町通りの路上に突っ込んだのではないか。400m延伸ですから、新駅の位置は現在の飫肥一丁目と二丁目を区切る本町通りの道ばたではないか。軽便鉄道ですから、道路の上を走れたのではないか。鉄道ルートの痕跡が無いのは、道路上を走っていたからではないか。そのようなことを考えてみました。間違っていなければ良いのですが、また、はらはらドキドキです。推測することを楽しむお遊びですので、間違っていたら笑って許して。

書込み訂正機能を使って書込みです。
直前に今川焼さんからの書込みがありました。軽便鉄道の新駅は本町通りの少し南になるのですね。間違いまして失礼しました。実際のところ、本当は酒谷川をどのようにして渡ったのだろうと気になっていました。大河原の軽便鉄道は道路橋の尾形橋を使って白石川を渡りましたので、「飫肥 稲荷下橋 軽便鉄道」で検索しましたところ、日南の今昔というサイトにヒットしました。これを見ると、稲荷下橋に沿って鉄橋が架けられていたようです。サイト内の昔と今の写真を見比べて思ったのですが、本町通りは拡幅されていますね。昔の家並は残されているのでしょうか。素朴な疑問です。
[74167] 2010年 2月 16日(火)08:22:37千本桜 さん
温泉ランキング。日南市。
宮城県の温泉クイズの答えです。年間宿泊客数50,000人以上のランキングと温泉名は次のとおりです。
順位温泉名平成20年平成15年
1位秋保温泉834,000人996,000人
2位鳴子温泉488,000人390,000人
3位遠刈田温泉346,000人411,000人
4位作並温泉276,000人326,000人
5位南三陸温泉166,000人0人県の資料では志津川湾温泉
6位中山平温泉103,000人141,000人
7位東鳴子温泉85,000人141,000人
40年ほど前の雑誌「旅」の記事を書きとめていたノートを見ると、当時の宮城県では鳴子温泉がトップでした。温泉地の盛衰も浮き沈みが激しいですね。個人的な感想ですが、遠刈田温泉が意外に頑張っていると感じました。また、2年前に松島でも温泉を掘りあてて松島温泉を名乗るようになりましたから、今後の統計には「松島温泉」の名も登場することになるでしょう。

ついでに、40年ほど前の雑誌「旅」に掲載してあった温泉ランキングも書いておきます。日本を東西に分けて相撲番付ふうに書いてありますが、ランキングの上位から下位に向って30位までを羅列します。
【東日本】
熱海、川湯、洞爺湖、鬼怒川、伊東、登別、湯ノ川、中禅寺、修善寺、小涌谷、定山渓、下田、小涌谷、片山津、中山、熱川、飯坂、層雲峡、下呂、宇奈月、日光湯元、東山、西浦、那須、和倉、草津、伊香保、温根湯、浅虫、芦原
【西日本】
雲仙、別府、白浜湯崎、観海寺、指宿、勝浦、霧島、内牧、道後、玉造、城崎、湯田、皆生、有馬、小浜、嬉野、三朝、長門湯本、鳥取、日奈久、湯ノ山、長島、雄琴、牧ノ戸、湯之児、戸下、二日市、鉄輪、宝塚、湯原
西日本のトップは「雲仙」ですが、狭義の別府に観海寺・鉄輪など広義の別府を加えると、やはり西日本最大の温泉地は別府になります。牧ノ戸温泉や戸下温泉のランクインが何とも奇異ですが、真偽のほどは分かりません。

[74142] 伊豆之国 さん
私が初めてみちのくに足を踏み入れた、その思い出の温泉(過去に書き込んでいます)。
みちのく初体験は作並温泉でしたか。私も伊豆之国さんと同じ旅館に泊まっています。また、奈良の今井町に行かれたとか。今井は未訪ですが、歩いてみたい街の一つです。


[74136] 白桃 さん
合併により成立した市の市役所の位置というのも、その後の人口推移に大きな影響を与えるもんですな・・・。
[74137] Issie さん
両者に優劣はつけられず,恐らくは妥協の結果 吾田 に市役所が置かれ

この手の話題に乗りたくなる癖があります。飫肥と油津の人口が減少し、市役所所在地の吾田が一人勝ちしていることをネタに、あれこれ調べながら遊んでみました。

まず最初に飫肥、吾田、油津の境界線チェックです。すると、飫肥駅は飫肥ではなく吾田(大字星倉)にあることが判明。飫肥市街を一歩出れば吾田(大字星倉)の領域です。油津駅周辺にも吾田(大字平野)の領域が伸びていて、油津市街を出るとすぐ吾田(大字平野)になります。どうやら飫肥と油津は領域内に市街地を広げる適地に恵まれていないようです。ことさら面積の狭い油津は既に可住地が満杯状態で、人口増加を望むのは絶望的です。開発余地のある吾田が人口受皿になるのは自然の成り行きだったようです。

油津と吾田の関係はミステリアスで、油津市街の中にも吾田(大字平野)の領域臭が漂っています。地図上で油津を歩いているはずが、実はここは吾田(大字平野)ではないかという疑念が湧いて来たのです。きっかけは、あるサイトの日南郵便局に関する次の記述です。
1951年(昭和26年)日南市大字油津町から同市大字平野に移転するとともに、日南郵便局に改称。
上記をストレートに解釈すれば、大字平野は近世村の平野村で、平野村は明治22年に星倉村などと合併して吾田村になりましたから、日南郵便局の場所は吾田ということになります。でも、そこは明らかに油津市街の真ん中です。いったい、油津市街は油津なのか吾田(大字平野)なのか。謎を解かずにいられません。

そこで、油津市街の古い地名を追ってみました。すると、光明院という寺名からも、岩崎という町丁名からも、昔は平野村または吾田村大字平野に属していた形跡が見つかったのです。さらには、日南市 大字油津平野 字古奥という変な地名まで出てきて迷は深まるばかり。明治22年に油津村が単独で油津町になったのだから、大字油津平野という名の大字はありえないはず。大字油津平野とは何者か。ここには、88さんが纏めて下さっている市区町村変遷情報に書かれていない区画変更が隠れているぞと思っていたら、わりあい簡単に謎が解けました。油津と平野は下記のように複雑な関係にあったようです。
江戸時代、油津は平野村の一部だった。
明治15年、平野村から油津村が分立し、油津村以外の区域は平野村として継続。
明治22年、油津村は単独で油津町になり、平野村は星倉村, 隈谷村, 戸高村, 西弁分村と合併して吾田村になる。
明治41年、油津町が吾田村大字平野の一部を編入。
油津市街の中に漂う吾田(大字平野)の臭いの正体は、油津町の「吾田村大字平野の一部編入」にあったのですね。平凡社や角川の地名辞典があれば一発で解明できる事柄でしょうが、あいにく所持していないので、ここに辿り着くまで結構遠回りしました。でも、この遠回りが楽しいのですよ。

では、吾田村大字平野の一部を編入する以前の油津町はどこかというと、現在の油津一丁目から四丁目にあたる狭い範囲だったようです。この狭い領域では市街地の拡張に対応しきれないのは当然で、明治41年の油津町による吾田村大字平野の一部編入は必然だったのでしょう。現在、誰もが油津そのものだと思っている市街(油津駅・山形屋・油津小学校などのエリア)は、かつての吾田村大字平野に形成されたことになります。間違っていなければ良いけど・・・少し、はらはらしてます。

どこが中心???昆明、混迷深まるばかり・・・
路線価を見て感じたまま書くと、昭和の頃の中心は油津で、A地点の山形屋・宮崎銀行前からB地点のアーケード街にかけてでしょう。今もA地点が日南市の最高路線価を保持しています。しかし、都市機能の郊外移転が進んだ現在では、A地点よりも路線評価額は低いものの、長い区間に亘って水準以上の評価額が続く吾田地区の国道222号沿道C地点が実質的な中心になっていると思います。でも見た目はやっぱりA・B地点でしょうね。お遊びですので間違っていたら笑って許して。
[74115] 2010年 2月 8日(月)23:50:46千本桜 さん
温泉クイズ
[74113] 白桃 さん
A温泉:読み方が試験に良く出る温泉ですか?
ありふれた漢字二文字ですが、なぜ、あの字が「う」なのか、「読み」は確かに難解ですね。

B温泉:「こけし」で有名ですか?
C温泉も「こけし」で有名ですが、B温泉の「こけし」は首を回すとキイキイ鳴ります。

C温泉:帰り道は近かった?
まだマイカーを保有していなかったころ、C温泉まで何度か自転車で行ったことがあります。向う時は遠がったなぁ。でも帰り道は近かった。これ、ほんとの実感です。自転車というのは微妙な地形の変化を体感させてくれるのですね。

D温泉:松本清張「山峡の章」に出てきますか?
ここは「山峡の章」の舞台でしたね。A温泉と共に「仙台の奥座敷」と言われていましたが、近年ではA温泉に水をあけられてしまいました。

E温泉:人口17,441人(1月1日現在推計)の町にありますか?
いまでは本吉郡も1郡1町になってしまいました。温泉とは無縁に思える地域でも掘れば温泉が涌くのですね。この温泉を掘り当てた「ホテルK」からの眺め。何が凄いかというと、ホテルに入ったとたん、延長160メートルにも及ぶロビーの窓から、○○○湾の風景が丸ごと目に飛込んで来るのです。何に感動するかは人それぞれでしょうが、私はこのオーシャンビューに感動しました。

[74114] YT さん
一方E温泉は食事も景色も最高でした。
ホテル関係者ではありませんが、お褒めいただいて感謝します。食事は値段に左右されて当たり外れがあるとは思いますが、あの素晴らしい景色は、低額料金で宿泊した人も、高額料金で宿泊した人も、みんな平等に眺めることのできる最高のサービスですよね。
[74112] 2010年 2月 7日(日)23:28:14千本桜 さん
宮城県の温泉クイズ
宮城県内の温泉に関するクイズです。年間宿泊客数が5万人を超える温泉をまとめてみました。ランキングは平成20年の宿泊客数を基準にしていますが、参考までに平成15年の宿泊客数も掲載しました。数値は敢えて千人未満を四捨五入しています。宮城県内にはこの他にも多数の温泉がありますが、年間宿泊客数が5万人に満たないために残念ながらランクインできなかった主な温泉として、北から順に鬼首温泉、川渡温泉、青根温泉、鎌先温泉、小原温泉をあげておきます。さて、ここで問題です。1位から5位までの温泉名を伏せてあります。A・B・C・D・Eにあてはまる温泉名をお答え下さい。いずれも宿泊客数の多い著名な温泉ですから、旅行好きな人には簡単すぎるかもしれません。でも、5位のE温泉だけは難問のはずです。

宮城県の温泉・年間宿泊客数50,000人以上の温泉ランキング
順位温泉名平成20年平成15年
1位A温泉834,000人996,000人
2位B温泉488,000人390,000人
3位C温泉346,000人411,000人
4位D温泉276,000人326,000人
5位E温泉166,000人0人
6位中山平温泉103,000人141,000人
7位東鳴子温泉85,000人141,000人

A温泉のヒント:大規模な高級旅館が多く、500人以上の宿泊客を収容できる旅館だけでも6軒あります。年間の宿泊客数で比較すると四国の道後温泉と同等規模の温泉になりますが、湯の街歩き楽しむほどの街並みはありません。そもそも、A温泉には温泉街など有るのかしら?といった雰囲気です。遊興も買物も大規模旅館内で完結するので、温泉街が不要なんでしょうね。ちょっと淋しい。最大規模の旅館は収容力およそ1,000人の「S」。

B温泉のヒント:A温泉と違って湯のまち歩きが楽しめます。宮城県で最も大きな温泉街を形成していますが、観光機能だけの街並みではなさそうです。周辺集落にとっては日常生活圏の中心で、4年前までは町役場もありましたが、合併で総合支所になりました。最大規模の旅館は収容力およそ600人の「Nホテル」。

C温泉のヒント:背後に控えた山岳観光地への基地としての性格を有し、近くには県内最大規模のスキー場もあります。B温泉より小規模ですが、整った街路形態をした温泉街があります。温泉街としては宮城県で二番目に大きな街並みでしょう。最大規模の旅館は収容力およそ1,000人の「ZRホテル」。

D温泉のヒント:旅行計画で宿泊地を設定する際に、A温泉と競合関係になりやすい地理的位置にあります。歓楽街などとは無縁の温泉地ですが、老舗旅館の有名な露天風呂と、その露天風呂まで下る長い長い木造の階段は趣があります。最大規模の旅館は収容力およそ1,000人の「ホテルG」。

E温泉のヒント:温泉とは無縁の海沿いに建つ一軒宿が増改築し、それまで最大だった福島県のホテルハワイアンズの宿泊収容力を抜いて東北最大規模でグランドオープンしたのは1997年のことでした。そのホテルが温泉を掘り当てて6年ほど前に開湯したのが、この温泉です。旅館は収容力およそ1,300人の「ホテルK」だけです。ただ、温泉名が不確かです。県の資料には「○○○湾温泉」と記載されていて、○○○は平成17年に合併消滅した旧町名と同名です。しかし、当事者のホテルは「×××温泉」を名乗っていて、×××は合併で誕生した新町名と同名です。ですから、解答は「○○○湾温泉」、「×××温泉」どちらを答えても正解にします。
[74078] 2010年 1月 30日(土)20:11:36千本桜 さん
淡路・四国の御礼。人口減。
[74047] 小松原ラガー さん
[74048] 今川焼 さん
[74049] 88 さん
[74051] futsunoおじ さん
皆様、ありがとうございました。たぶん、小松原ラガーさんあたりが書き込んで下さると思っておりましたが予想通りでした。淡路・四国への旅行は私も参加しますが、実際に計画を練っているのは幹事さんや旅行会社です。しかし、「何か良い案はないか」と意見を求められたので行程表を見せてもらったところ、観光スポットごとの発着時刻は書いてあるものの、ルートが大雑把で不明確なものでした。車窓からの眺めも観光の一部と思っている私は、事前にルートをつかんでいないと不安になるのです。そこで、自分なりに行程を検討してみることにした次第です。私案が実際の旅行に反映される保証はありませんが、旅行計画を練ること自体がとても楽しくて、気分はすでに空想の旅へ出発しています。しかし、地図を見ると神戸周辺では高速道路の他に六甲北道路などの一般有料道路が何本も走っていて、それらが同じ色で印刷されているものですから、どの道路(路線)を繋げて走れば良いのか判断がつかない状態でした。そこで、路線別に色分け着色してみたところ、1・山陽自動車道経由。2・阪神高速7号北神戸線経由。3・阪神高速3号神戸線経由の三案が浮んだわけですが、これはやはり小松原ラガーさんはじめ皆さんの御意見どおり、1か2の選択になりそうですね。
個人的には、今川焼さんの「神戸港や六甲山を眺めてみたいという方が多ければ3を」に惹かれますが、我を通すわけにもまいらず、残念だけど諦めざるをえないようです。今川焼さんに関しては、[71819]で綴られた富来のくだりが凝縮された短編紀行文を読むようで素晴らしく、とても感心しておりました。目の前に現れた現象を地理的にとらえる感覚が身に付いておられるのですね。今回の書込みでも随所にそれを感じました。淡路・四国の旅は仰せのとおりバスの最前部に陣取り、飛込んでくる風景を地勢図や地形図と対比しながら眺めることにするつもりです。また、脇町観光のアドバイスは実にリアルで参考になりました。ただ心配なのは、時間の都合で脇町観光がカットされる可能性があることです。その時は、鳴門から高松自動車道を走行し、東讃の中心都市・三本松を横目で追いながら琴平に向うことになりますが、三本松市街はビルが林立しているので(笑)見のがさずに済みそうです。
琴平からは善通寺ICで四国自動車に上がって松山に行きます。個人的には、88さんがお住まいの高松をもう一度見たいのですが団体旅行では自由が利きません。松山までは時間の都合でどこにも立寄らないで走るだけです。川之江も三島も新居浜も横目で見ながら通過するだけ。そして、小学校の同級生の「みよちゃん」が住んでいる西条も通過するだけです。これって、街歩きを趣味にしている人間にはストレスが溜まりますね。ましてや、防音壁で視界が遮断されて市街地遠望もできなかったりすると、変な理屈だけれど「通行料をただにして」と言いたくなります。それは勿論冗談ですが、見たい所を見れずに横目で過ぎるのは実際にストレスが溜まります。
だいぶ前のことですが、「どなたかインターチェンジの利用車台数ランキングを御存知でしたら教えていただけませんか?」と問いかけたところ、futsunoおじさんに道路公団のサイトを紹介していただいたことがありました。今度も道路時刻表のサイトへリンクを貼っていただきまして、ありがとうございました。私はインターネットが苦手で、検索の活用方法も分からないまま原始的に市販の道路地図帳を見ながら電卓で区間距離を弾き出しておりました。紹介していただいたサイトはこれからも活用させていただきます。ありがとうございました。

[47072]白桃 さん
三大都市圏への人口集中にブレーキ
[74074]Issie さん
大阪圏の人口減少にもブレーキ?
大都市圏の話題に田舎の情報を突っ込んで申しわけありませんが、こちらは人口減少にブレーキがかかりません。全国的には、もっともっと人口減に悩んでいる地方もありますから話題にするほどではないかもしれませんが、なぜか気になります。
仙南圏ビッグ4の平成17年10月1日~平成22年1月1日の人口と人口増減数
市町名2005年10月1日2010年1月1日増減数
白石市39,492人37,763人-1,729人
角田市33,199人31,927人-1,272人
柴田町39,809人39,162人-647人
大河原町23,335人23,470人135人
かつて、町としては東北一の人口を誇った柴田町も4万人を目前に足踏みし、ついに人口減に転落。仙南圏2市7町の中では、かろうじて大河原町だけが人口増を保っています。でも、もうだめみたい。昨年1年間だけを取りあげると減少組の仲間入りをしています。

仙南圏ビッグ4の1年間(平成21年2月1日~平成22年1月1日)の人口増減数
市町名純増減自然増減社会増減
白石市-447人-213人-234人
角田市-391人-177人-214人
柴田町-154人4人-158人
大河原町-52人27人-79人
軒並み社会減というのが辛いですね。みんな、どこへ行ってしまったのでしょう。千昌夫さんも「あんた」という曲で、♪「どこへ行ったのよ 戻って来てよ ねえあんた」と唄っていますが、戻って来ても仕事がないんですよね。
[74046] 2010年 1月 25日(月)07:06:45【1】千本桜 さん
淡路&四国についてのお尋ね。ややこしい涌谷町。
ちょっとお尋ねします。大型バスで伊丹空港から淡路島の淡路ICまで行きたいのですが、いろいろなルートが浮かんできて迷っています。下記の三ルートを考えてみましたが最短時間で到達できるのは、どのルートでしょうか。途中で観光はしません。ただ走るのみです。有料道路の通行料金は気にしません。
1・伊丹空港→中国池田IC→(中国自動車道経由)→神戸JCT→(山陽自動車道経由)→神戸西IC→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC
2・伊丹空港→中国池田IC→(中国自動車道経由)→西宮山口JCT→(阪神高速7号北神戸線経由)→布施畑JCT→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC
3・伊丹空港→(阪神高速11号池田線経由)→豊中IC→(名神高速道路経由)→西宮IC→(阪神高速3号神戸線経由)→月見山出入口→(第二神明道路経由)→垂水JCT→(神戸淡路鳴門自動車道経由)→淡路IC

同じように、大型バスで徳島県の脇町うだつの町並みから香川県琴平町の金刀比羅宮まで行きたいのですが最短時間で到達できるのは、どのルートでしょうか。
1・脇町うだつの町並み→(県道12号を西へ走行)→美馬市美馬町→(国道438号経由)→琴平
2・脇町うだつの町並み→(県道12号を東へ走行)→脇町IC→(徳島自動車道経由)→美馬IC→(国道438号経由)→琴平
3・脇町うだつの町並み→(県道12号を東へ走行)→脇町IC→(徳島自動車道経由)→井川池田IC→(国道32号経由)→琴平
4・脇町うだつの町並み→(県道12号を西へ走行)→美馬IC→(徳島自動車道経由)→井川池田IC→(国道32号走行)→琴平

[74025] 白桃さん
ややこしや、津山東町と加茂町
宮城県の涌谷町もややこしいです。涌谷市街は江合川を挟んで両岸に展開していますが江戸期の自治体区分では左岸が涌谷村、右岸が馬場谷地村になります。市街の重心は馬場谷地村の方にあります。しかし、地籍上は別々の村でも二つの村は一体となって城下町を形成していましたから、地理的には一つの都市集落と解釈して良いだろうと思います。この涌谷村と馬場谷地村の関係が少しややこしい。
まず、馬場谷地村から。江戸期には馬場谷地村に涌谷町と呼ばれる宿場町が置かれ、それを取り囲むように伊達氏家中小路が配置されました。当時の人がこの地理空間を馬場谷地という名でとらえていたか、それとも涌谷という名でとらえていたか非常に気になるところですが、答えは町村制施行時の町村名にありそうです。明治22年、馬場谷地村は単独で町制を敷き涌谷町に改称しました。隣に涌谷村があるのを承知で涌谷町を名乗るとは身勝手にみえますが、たぶん地籍上の村名「馬場谷地」よりも町場名「涌谷」の方が広く知られていたからだろうと思われます。馬場谷地村が単独で町村制下の町になった涌谷町(明治22年~昭和23年の自治体)の区域には大字がありません。現在、この区域の住所は自治体名+小字名で涌谷町字○○と表記します。
次に涌谷村です。涌谷村には涌谷城があって城下の家並みが広がっていました。明治22年、涌谷村は上郡村、下郡村、小塚村と合併して元涌谷村になりました。角川地名大辞典には「隣村の馬場谷地村が江戸期の宿場町名の涌谷町を継承し涌谷町と改称したので、涌谷村に元の字を冠した。」と書いてあります。隣村に名前を奪われた恰好ですが、当時の人がどのように感じたかは不明です。元涌谷村(明治22年~昭和23年の自治体)は旧4村の名を大字として残しましたから、江戸期の涌谷村の区域は元涌谷村大字涌谷になりました。住所は自治体名+大字名+小字名で元涌谷村大字涌谷字○○と表記します。昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して現行涌谷町になりました。現在、住所の上で涌谷町涌谷と表記される区域は江戸期の涌谷村の内にあるでしょうか、それとも馬場谷地村の内にあるでしょうか。くだらないクイズで済みません。

訂正
朝の忙しい時間に書込みしましたので安易に端折りすぎた箇所がありました。昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して現行涌谷町になりました。と書きましたが、正しくは、昭和23年、涌谷町と元涌谷村が合併して涌谷町になり、その後、昭和30年に涌谷町と箆岳村が合併して現行の涌谷町になりました。が正しいので訂正します。
[73486] 2009年 12月 31日(木)16:29:36千本桜 さん
宇多津、日和佐、富士川
[73420] 蒼の狼 さん
閉まってる店が多いのはわかってましたし、遊ぶんだったら宇多津まで行きましたからね。
それも商店街が寂れる一つの要因かと思いますが、いかがでしょう。
私が坂出の商店街を見たのは40年も前のことです。でも、白桃さんが書かれた「坂出:この商店街のシャッターはいつ開くのだろう・・・」という坂出の現状は想像できます。また、私が見た宇多津町は昔からの市街地で、蒼の狼さんが闊歩されたのは宇多津町の新しい市街地でしょう。新しい宇多津町は凄いらしいですね。市に至らない町としては、沖縄県北谷町などと共に超スーパータウンの部類に入ることでしょう。東北のスーパータウンo町は間違いなく宇多津より地味です。平成16年調査の香川県商圏調査報告書をネットで見ることができますのでリンクします。買回商圏における宇多津町の凄さが見えてきますね。丸亀商圏が西に向かって及ぶ範囲は三豊市までなのに、宇多津商圏はそれを乗り越えて観音寺市まで延びているのですから驚きです。

[73445] oki さん
美波町のHPではウミガメ博物館の住所が「日和佐字浦370-4」となっていましたが、「日和佐字浦」という住所はなく、近世村の名称をそのまま残す「日和佐浦」です。
とあるHPには、うみがめ博物館の住所が「〒779-2304 海部郡美波町大浜海岸」と書いてあります。大浜海岸に面した観光施設ですし、天然記念物に指定された名称も「大浜海岸のウミガメ及びその産卵地」ですから、「日和佐浦」より「大浜海岸」の方が場所の特定も安易になり効果的なのでしょう。しかし、「住所」と銘打打ち、郵便番号まで記載しているのですから、ちゃんとした住所地名で「〒779-2304 美波町日和佐浦」と書いて欲しかったと思うのは私だけなのだろうか。大浜海岸に位置することを伝えるためなら、もっと別の表現方法があるはずですね。さて、本題に入ります。美波町役場の住所は大字+小字の形式で「美波町奥河内字元村18番地」と表しますが、日和佐郵便局の住所は小字なしで「美波町日和佐浦119番地」と表します。明治22年以来、奥河内も日和佐浦も同一自治体として一緒に歩いてきたわけですが、奥河内は小字を地番区域とし、日和佐浦は大字を地番区域とするように別々の道をとったのは、いつ頃からなのでしょう。

[73473] inakanomozart さん
もっと遠く離れた県の町だったら抵抗がなかったかもしれませんが・・・
静岡県民ではありませんが、静岡県富士川町がなくなって山梨県富士川町ができることに戸惑いを感じています。なにしろ、静岡県への第一歩が岩渕駅でしたから。

今年もきょうが最後。それでは皆様、佳いお年をお迎えください。
[73406] 2009年 12月 27日(日)09:04:18千本桜 さん
自治体の改称。DIDと都市地域。
[73387] Issie さん
生見尾村は,1921年に単独で町になりました。その際に改称して「鶴見町」。
やはり、同様の例は全国的にあるようですね。
鹿児島県では、明治22年に枕崎村など4村が合併して「東南方村」を名乗りましたが、大正12年に単独で町制に移る際に「枕崎町」に改称しています。
宮崎県では、明治22年に妻町など9村が合併して「下穂北村」を名乗りましたが、大正13年に単独で町制に移行して「下穂北町」になるやいなや、数ヶ月後には「妻町」に改称しています。
大分県では、明治22年に香々地村と見目村が合併して「岬村」を名乗りましたが、大正8年に単独で町制に移る際に「香々地町」に改称しています。
こうしてみると、新しい自治体名を名乗ってはみたものの馴染めず、むしろ藩政村名(ただし、都市機能を備えた町場集落のある藩政村)の方が通用しやすかったのではないかと思われます。宮城県でこのような例に当てはまるのは下記の町村です。
明治22年、長町村と郡山村が合併して茂ヶ崎村になる。大正4年、茂ヶ崎村は単独で町になり長町に改称。
明治22年、閖上浜など5村が合併して東多賀村になる。昭和3年、東多賀村は単独で町になり閖上町に改称。
明治22年、雄勝浜など12村が合併して十五浜村になる。昭和16年、十五浜村は単独で町になり雄勝町に改称。
明治22年、矢本村など3村が合併して鷹来村になる。昭和15年、鷹来村は単独で町になり矢本町に改称。
明治22年、志津川村など3村が合併して本吉村になる。明治28年、本吉村は単独で町になり志津川町に改称。
明治22年、柳津村と黄牛村が合併して麻崎村になる。明治39年、麻崎村は単独で町になり柳津町に改称。
明治22年、津谷村など3村が合併して御嶽村になる。昭和16年、御嶽村は単独で町になり津谷町に改称。
以上は町制に移行する際に改称したケースですが、下記の一件は、村制を継続するのに、それでも改称しています。
明治22年、根白石村など6村が合併して泉嶽村になる。明治30年、泉嶽村は根白石村に改称。

[73398] rigst さん
仙台ホテルで初めてフランス料理を食べた時の感激よりも、初めてDID人口を見たときの感激が何十倍も大きかった。わなわなと震える感じと言いましょうか。でも、仕方ないことですが、DIDをもって都市地域とするには矛盾もつきまといますね。たとえば、代表的な例をあげると登米市迫町佐沼。たぶん平成17年時点でもそうだと思うのですが、市役所や商業施設が立地する新市街はDIDの区域外。DID区域は都市施設が抜け出してしまった旧市街。時代にそぐわなくなって来ているのでしょうね。
[73392] 2009年 12月 25日(金)00:16:24千本桜 さん
都市雇用圏
[73386] 千本桜
都市雇用圏では勝山町・久世町が落合圏に含まれるのですね。
rigstさん、ごめんなさい。上記の件、勘違いして書きました。落合圏(落合町、勝山町、久世町、美甘村、富村:39,611人)は、金本・徳岡両氏が提唱した「都市雇用圏」に該当するものではなく、「都市雇用圏」の定義から「DID>10000」および「昼夜比>1.0」の条件を除いた上で、rigstさんご自身が編み出した圏域だったのですね。こういう独自の発想による圏域設定、大好きです!。ところで「DID>10000」ですが、南陽市のように2つのDID(赤湯地区と宮内地区)を合算して10,000人超とみなすことに抵抗を感じるのですよ。それなら10,000人以下でも迫や六日町を都市雇用圏の中心自治体として認めて欲しいと思ってしまう。たぶん、rigstさんも同じ考えでおられるものと思います。北海道、近畿、九州もよろしくお願いします。

[73388] 桜トンネル さん
人口も2000人以上増加しているようです
悩まされている人もいると思うので取り急ぎ。12,000人以上の間違いじゃない?
[73386] 2009年 12月 24日(木)08:08:05千本桜 さん
町並み歩き、徳島県、都市圏
[73342] 伊豆之国 さん
町並み歩きが話題にならなかった頃
町並み歩きが流行り出したのは、国鉄のディスカバージャパン・キャンペーンによるところが大きいと思いますが、それ以前から西日本の萩・津和野などは観光客を集めていましたよね。どうも、町並み歩きは西日本が優勢で東北地方などは劣勢に感じます。角館や大内宿は萩や妻籠宿に比べたら後発だし、宮城県の白石・岩出山・登米なども趣が有るにはありますが、観光客を集めるほどの古い家並が連続しているわけでもないし。それで、蔵の町村田をおすすめしたいのですが、景観未整備の現状では「通」の人たちに喜んでもらえても、普通の観光客からは「何だ、こんな街」と言われそうで怖い。本当は良い町並みなんです。これからでしょう。

[73362] oki さん
江戸時代の阿波国で「町」を名乗った地域は数少なく、脇町のほかは川島、富岡くらいです。
なるほど・・・。川島は古く江戸期からの町場だったのですね。私は長年、何故に税務署・警察署などの公的機関が鴨島ではなく川島に置かれているのを不思議に思っていました。これで疑問が解けたような気がします。ありがとうございます。下に、主な国機関の設置場所を一覧表にしてみます。
徳島市鳴門市小松島市阿南市牟岐町鴨島町川島町脇町池田町
法務局
税務署
労働基準監督署
公共職業安定所
地方裁判所
簡易裁判所
農政事務所
ところで、1889年に麻植郡 川島町, 桑村, 宮ノ島村, 山田村, 東山村の一部が合併して桑川村になりましたが、その桑川村は18年後の1907年に、単独で川島町に改称して町政施行しています。合併ではなく単独で町政に移行するだけですから、誰憚らず桑川町にすれば良さそうなものですが、川島町に改称したのは何故でしょう。


[73363] 白桃 さん
注目の脇町ですが、吉野川中下流域における首邑の座は次第に鴨島に奪われていったようです。
昭和31年改訂発行の徳島県新誌(初版は昭和26年発行)は川島町について「旧川島町は吉野川南岸の一地方的中心地
」と記述し、鴨島町については「最近中央橋の架橋によって吉野川北岸との交通が便利になり、町の成長発展をきたしつつある」と記述してあります。鴨島が「成長発展をきたしつつある」という記述。このことから、昭和20年代はまだ川島の中心性が高く、鴨島が(急激に)追い上げているように感じ取れます。中心性の点で逆転した時期は分かりませんが、いずれにしても昭和10年代・20年代の吉野川中流域では脇町・川島・鴨島が都市間競争を展開していたのでしょうね。[15425]で白桃さんが書かれた三本松~鴨島間の国鉄バスも、中央橋で吉野川を渡っていたのだと思います。昔なら三本松が鴨島を引っ張ったのでしょうが、今もバスが走っていたなら鴨島が三本松を引っ張る関係になっていたのでしょうか?。

[73365] suikotei さん
合併時の本庁舎は最も新しく延床面積も広い穴吹町役場
そういう事情があったのですか。今後、脇町と穴吹の関係がどのように変化するか気になりますね。

[73384] rigst さん
新たな都市圏定義方法に胸をはせながら過ごす師走の夜でしたとさ。
はじめまして rigstさん。私も都市圏に興味があります。都市雇用圏では勝山町・久世町が落合圏に含まれるのですね。新鮮な驚きです。種々の最新統計を見たいのですが、現在、Excelを開けない環境にあります。それで、手持ちの本の中では最新(1998年、古すぎ!)の東洋経済地域経済総覧を見ているのですが、微妙なところなんでしょうね。とくに落合と久世の関係は。
[73371] 2009年 12月 21日(月)20:16:59千本桜 さん
スーパータウン
昭和31年12月改訂版発行、日本書院の「○○県新誌」によると、昭和30年10月1日における「○○町」の面積は137.7平方キロメートルで、人口は41,343人だそうです。昭和30年に4万人を超していた、このスーパータウンはどこでしょう。当時の町名と現在の市名をお答えください。落書帳メンバーの中には、あ!なんだ、と即答できる方がいらっしゃいます。
[73357] 2009年 12月 20日(日)08:35:30【1】千本桜 さん
頑張れワッキー
[73331] 白桃 さん
自分でもわかりませんが、吉野川の北側に鉄道が走っていたら、(鍛冶屋原線は無視)、脇町は遅くとも昭和の合併時に市制施行をしていたのではないか、
美馬郡の人口分布変遷と徳島本線の関連性を調べるのも面白そうですね。そのためには、明治期からの人口推移が分かればベストでしょうが、あいにく古い年代の資料を持ち合わせていませんので、昭和45年以降の国勢調査人口だけを表にしてみました。(昭和50年以降は確定値ですが、昭和45年の数値は速報値かも知れません)
調査年脇町美馬町穴吹町貞光町半田町一宇村木屋平村
昭和45年19,06110,47211,6438,8129,4065,0923,622
昭和50年19,02610,08110,3858,1218,4573,7323,098
昭和55年19,19410,2309,8788,0137,9152,9292,340
昭和60年19,33110,1489,2607,5287,2832,5301,950
平成2年19,1329,9348,4916,8996,7712,1241,602
平成7年19,0649,4838,1506,5296,3411,7441,505
平成12年18,3769,3107,6325,9635,5901,5471,314
意外にも、鉄道が走っていない脇町・美馬町より、鉄道が走っている穴吹町・貞光町・半田町の人口減が激しいのですね。脇町に焦点を当ててみます。資料がないので推測で書きますが、間違っていたら教えてください。たぶん、脇町の人口ピークは昭和20年代後半で、2万5千人程度いたのではないでしょうか。その後、急激に減少したはずですが、昭和45年から平成7年までは横這いで持ちこたえています。徳島市のベッドタウンに成り得ない距離に位置し、しかも、鉄道が走っていない環境での人口横這いは敢闘賞ものでしょう。工場誘致の賜でしょうね。ところが、何が原因か分かりませんが、平成12年には少し目立つ人口減になっています。
美馬郡の機能的センターが脇町なら、サブセンターは貞光でしょうね。平成の合併で、美馬市(脇町・美馬町・穴吹町,木屋平村)とつるぎ町(貞光町・半田町・一宇村)に分かれて合併したのは、そのような力関係が影響したからでしょうか?。でも、そうだとすると、貞光グループと関係が深そうな美馬町が脇町グループに組込まれていたり、美馬市の市役所が脇町にあらず穴吹だったり、ちょっと理解しにくいところがありますね。
脇町は未訪ですが、貞光・穴吹は自転車で走りました。ウン十年前の8月20日(晴れ)、高知市から徳島市まで走行。大歩危・小歩危の風景と、池田の町の繁華街を見たいという思いが強かったですね。川島か鴨島あたりで薄暗くなり、徳島市に着いたときは夜だったような。その夜は徳島駅で寝ました。元来めんどくさがりで記録するのが苦手ですが、自転車旅行中は気になった場所だけ、短いメモを書き残していました。たとえば次のように。小野田=中心となる所がない。宇部=変な街。小郡=大河原より上。山口=静かだ。福山=情緒全くない街。笠岡=小さい。倉敷=大原美術館(100円)に入る。ゴッホの「アルプスへの道」とゴーガンの「タヒチにて」に感激す。岡山=整った街。宇野=バス待合所に寝る。坂出=商店街安っぽい。丸亀=葉書に丸亀城をスケッチ。等々です。宇部が変な街とか、笠岡が小さいとか、坂出の商店街が安っぽいとか、いろいろ書いてますが、それは、笠岡はもっと大きな街で、坂出の商店街はもっと立派だろうと想像していたからにほかなりません。なので関係者の皆さん、気にしないでください。

追記
なかなか古い記憶が抜けなくて徳島本線と書きましたが、民営化後の1988年にJR四国は徳島本線を徳島線に改称していたのでした。
[73340] 2009年 12月 17日(木)18:49:01千本桜 さん
ハーヌ民国 チョンホワ民国
[73329] 興田小 さん
かつては教えていたが現在は避ける傾向にある表現はほかにもあるのでしょうか?
わたしが思いついたのは「旧大陸」と「新大陸」や「支那」です。
最近は「南朝鮮」も耳にしなくなりましたね。

[73330] Issie さん
学校で(公式に)教わったとなると
記憶が定かではないのですが、中学校で教わったのは「北朝鮮」「南朝鮮」だったような。「北朝鮮」は工業国で、「南朝鮮」は農業国という教えられ方をしたような・・・。ところが、姉が残して行った昭和29年発行開成館の中学社会科地図には、南北ひっくるめて「ハーヌ民国(韓国)」と記載されているのですよ。ちなみに、中国の名称については、ページによって「中国」だったり、チョンホワ(中華)民国だったりしています。もちろん、私の時代はハーヌ民国とかチョンホワ民国という教えられ方はしていませんけど。
[73280] 2009年 12月 13日(日)08:44:24千本桜 さん
国機関の統廃合
宮城県内における国機関の統廃合の話題を二つ。仙台法務局は、県北部の築館支局(栗原市)を来年2月、古川支局(大崎市)に統合して廃止する方針を決めました。これで、面積800平方キロメートル、人口77,000人の栗原地域から法務局がなくなります。栗原地域の中心機能が集まる築館は、平成17年9月実施の消費購買動向調査で商圏消失が判明。その後も商圏回復ができないままです。そして、今度の法務局支局廃止と、なにかと寂しい状況にあります。一方、県南部では昨年4月、白石公共職業安定所(白石市)が大河原公共職業安定所(大河原町)に統合されて大河原公共職業安定所白石出張所になりました。白石市・角田市より人口が多い柴田町。白石市・角田市より中枢機能の集積が進む大河原町。また一つ、仙南地域の市町逆転現象が進んだようです。どうして、「市」「町」「村」などと、面倒くさい3種類に分けなければならないのかとボヤキながら今年も終わろうとしています。
[73208] 2009年 12月 5日(土)21:20:47千本桜 さん
国土地理院発行地図販売代理店
[73205] hmt さん
地図販売店一覧 を見ると、そのすべてを取り揃えているのは、東京でも、日本橋の ぶよお堂、駿河台下の 内外地図[73200]、それに渋谷から1km余先の青葉台にある 日本地図センター だけのようですね。
(財)日本地図センター は国土地理院の外郭団体ですから性格が異なりますが、(株)武揚堂と内外地図(株)に日本地図共販(株)を加えた3社は国土地理院発行地図の元売捌所ですから、品揃えが多いというか、揃えて置かなければならない立場にあるのでしょう。武揚堂、内外地図、日本地図共販の元売捌所3社を通じて、全国の国土地理院発行地図販売代理店(書店など)に流れる仕組みになっていますので。
[72957] 2009年 11月 26日(木)06:54:28千本桜 さん
井原
[72944]白桃 さん
特に井原市では、白桃としては珍しく結構時間をかけて歩きました。
井原は未訪地ですが、恩ある人の生まれ故郷ということもあって興味がありました。それに、旧市街(小田川沿いの谷口集落)を置き去りにしたまま、大胆に新市街(井原駅前地区)を造成している点でも関心がありました。旧市街を置き去りにしたまま新市街を造成したというのは、あくまで地形図や空中写真を見ての印象です。つまり、真上から見下ろした印象です。これを横からの目線で見て、どんな印象を受けられましたか。井原の規模の街で駅前通りが片側二車線(両側で四車線)というのは、ゆとりある空間に感じませんでしたか。たぶん、旧市街と新市街のコントラストが明確な都市だろうと想像しますが、いかがでしたか。それに、旧市街(谷口集落)の区域は旧山陽道から少し逸れているのですね。微妙な逸れ方。なんで?、と考え込んでしまいそうな逸れ方です。
[72894] 2009年 11月 20日(金)13:01:57千本桜 さん
八女郡福島町
[72893]Issie さん
福岡 八女郡福岡町 ほか →1954. 4. 1 福岡市 →八女市
県名に釣られた誤打だとは思いますが、正しくは、福岡 八女郡福島町 ほか →1954. 4. 1 福島市 →八女市ですね。
[72228] 2009年 10月 21日(水)08:15:15【1】千本桜 さん
町場名と藩政村名、公称と通称
[72164]で、古くからの町場名が明治期の新町村名に引き継がれた事例を挙げましたが、もう少し詳しく書いてみます。町場の規模はさまざまで、菅生宿下戸沢宿のように戸数50戸あるかないかの町並みでも町場は町場です。ちなみに、いまも菅生の町場の通称は「町」。そして下戸沢の町場の小字名も「町」です。しかし、このように小規模な町場ですと、その名が明治22年の新町村名に影響を及ぼした可能性は低くなります。影響を及ぼすには、それなりの規模と都市機能の集積が必要になります。そこで、江戸期の仙台藩で商業活動が許されていた町場を選出し、それを便宜上の「町場」とします。商業活動を許された町場は、おおむね規模の大きな町場でもあります。宮城県史は仙台藩の在方商業の統制について次のように記述しています。
藩指定の町場以外では原則として在方の商業は禁ぜられ、農民の商人化はもとより厳重に取り締まられた。領内の町場は、中期において77、享保19年(1734)に89、幕末に96に増加しており、ここで定期に日市が開かれ、商業取引が行われた。
として、江戸中期における77の町場名と市日を紹介しています。町場の内訳は、現在の岩手県に属するものが一関、水沢など31町場。宮城県に属するものが古川、気仙沼など46町場です。では、宮城県に属する46の町場名と明治期の新町村名の関わりを見てみましょう。まず、町場が属した藩政村名と明治22年の新町村名を調べ、次の5つに分類します。

【類型1】町場と藩政村が異名なものの内、町場名が明治22年の新町村名に引き継がれたケース。
(例)町場=川崎。藩政村=前川村。明治22年新町村=川崎村

【類型2】町場と藩政村が異名なものの内、藩政村名が明治22年の新町村名に引き継がれたケース。
(例)該当するものがありません。

【類型3】町場と藩政村が異名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に引き継がれなかったケース。
(例)町場=金津。藩政村=尾山村。明治22年新町村=藤尾村

【類型4】町場と藩政村が同名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に引き継がれなかったケース。
(例)町場=高城。藩政村=高城本郷。明治22年新町村=松島村

【類型5】町場と藩政村が同名なものの内、どちらも明治22年の新町村名に絡んでいると思われるケース。
(例)町場=白石。藩政村=白石本郷。明治22年新町村=白石町

【類型1のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
川崎前川村川崎村(柴田郡)なし
亘理小堤村亘理町(亘理郡)なし
吉岡今村吉岡町(黒川郡)なし
松山千石村松山村(志田郡)なし
小牛田南小牛田村小牛田村(遠田郡)なし
涌谷馬場谷地村涌谷町(遠田郡)なし
宮野下宮野村宮野村(栗原郡)明治8年下宮野村など3村が合併して宮野村
佐沼北方村佐沼町(登米郡)なし
登米寺池村登米町(登米郡)明治6年寺池村など4村が合併して登米村
飯野川相野谷村飯野川村(桃生郡)なし
類型1は、藩政村名を採らずに、町場名を採って明治期の新町村名にしたケースです。小堤村・今村・馬場谷地村は明治22年、合併しないで単独で町村制の町に移行し、町場名をもって亘理町・吉岡町・涌谷町に改称しました。佐沼は北方村に属する宿場町(通称佐沼町)ですが明治22年、北方村から分離して自治体の佐沼町になりました。明治22年に前川村など5ヶ村が合併して発足した川崎村は、前川村の町場名「川崎」を新村名にしています。松山村・小牛田村・宮野村・登米町・飯野川村も町場名が新町村名に繋がっています。

【類型2のリスト】
類型2は、町場名を採らずに、藩政村名を採って明治期の新町村名にしたケースです。しかし、該当するものがありません。町場名と藩政村名が異なる場合は、【類型1】のように町場名が引き継がれるか、【類型3】のように双方とも引き継がれずに新名称が立てられています。江戸期に商業取引を許されたほどの町場は、ネームバリューもステータスも藩政村より勝っていたのでしょう。仙台藩では、町場名が藩政村名を抑えて新町村名に引き継がれることはあっても、藩政村名が町場名を抑えて新町村名に引き継がれることはありませんでした。勿論これは、それなりの規模と都市機能を有した町場があった場合の話です。有効な町場がない場合は藩政村名を新町村名にしている例も多々あります。

【類型3のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
金津尾山村藤尾村(伊具郡)なし
米岡西野村米山村(登米郡)なし
横川福地村大川村(桃生郡)なし
類型3は、町場・藩政村・新町村の名称が全て異なります。町場名・藩政村名とも新村名に引き継がれなかったケースです。明治22年、尾山村と藤田村が合併し、新村名は旧村名から1文字ずつ採って藤尾村になりました。旧村はその大字になりましたが、通称町場名「金津」は今も健在で、公称大字名の尾山や藤田よりも汎用されている感じさえします。江戸期からの町場名「金津」「米岡」「横川」が明治期の新村名に引き継がれなかった理由は何となく推測できますが、長くなるので割愛します。

【類型4のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
高城高城本郷松島村(宮城郡)なし
真坂真坂村一迫村(栗原郡)明治8年真坂村と清水村が合併して真坂村
狼河原狼河原村米川村(登米郡)明治8年狼河原村と鱒淵村が合併して米川村
釜谷釜谷浜大川村(桃生郡)なし
柳津柳津村麻崎村(本吉郡)明治8年柳津村と黄牛村が合併して麻崎村
志津川志津川村本吉村(本吉郡)明治8年志津川村など3村が合併して本吉村
津谷津谷村御嶽村(本吉郡)明治8年津谷村など3村が合併して御嶽村
馬籠馬籠村御嶽村(本吉郡)明治8年馬籠村など3村が合併して御嶽村
類型4は、町場と藩政村が同名なのに、双方とも新村名に引き継がれなかったケースです。新村名に引き継がれなかった理由は何となく推測できますが、長くなるので割愛します。ただし、志津川についてのみ感想を記します。志津川村は明治8年に周辺2村と合併して本吉村になりました。なぜ志津川ほどの町場が、その名を捨てて本吉村になったのだろう。たぶん、本吉郡の中心としての自負および中心でありたいという願望が込められていると推測します。しかし、そこには「本吉」と言う名の町場はありません。本吉村を名乗ってみたものの、そこにあるのは「志津川」と言う名の町場です。おそらく、どこか不安定でおさまりが悪かったのでしょう。明治28年に志津川町に改称しています。明治期に成立した亘理郡亘理町や登米郡登米町は、そこに「亘理」「登米」と呼ばれる町場があるから、ぶれないのです。しかし、昭和の合併で成立した柴田郡柴田町や牡鹿郡牡鹿町(現・石巻市)などは、いまだに地名としての定着がぶれているように感じられます。

【類型5のリスト】
町場名藩政村名明治22年の新町村名明治元年~町村制施行直前までの動き
白石白石本郷白石町(刈田郡)なし
大河原大河原村大河原町(柴田郡)なし
船岡船岡村船岡村(柴田郡)なし
村田村田郷村田村(柴田郡)なし
角田角田本郷角田町(伊具郡)なし
丸森丸森村丸森村(伊具郡)なし
金山金山本郷金山村(伊具郡)なし
岩沼岩沼郷岩沼町(名取郡)なし
中新田中新田村中新田町(加美郡)なし
宮崎宮崎村宮崎村(加美郡)なし
古川古川村古川町(志田郡)なし
三本木三本木村三本木村(志田郡)なし
岩出山岩出山本郷岩出山町(玉造郡)明治5年岩出山本郷が岩出山村に変更
田尻田尻村田尻村(遠田郡)なし
高清水高清水村高清水村(栗原郡)なし
築館築館村築館村(栗原郡)明治8年築館村と成田村が合併して築館村
岩ヶ崎岩ヶ崎村岩ヶ崎町(栗原郡)なし
沢辺沢辺村沢辺村(栗原郡)なし
金成金成村金成村(栗原郡)明治8年金成村と畑村が合併して金成村
若柳若柳村若柳町(栗原郡)なし
石森石森村石森村(登米郡)なし
米谷米谷村米谷村(登米郡)明治8年米谷村と楼台村が合併して米谷村
小野小野本郷小野村(桃生郡)なし
鹿又鹿又村鹿又村(桃生郡)なし
気仙沼気仙沼本郷気仙沼町(本吉郡)なし
類型5は、町場・藩政村・新町村が共に同名のケースです。藩政村と新町村が同名のため、一般には藩政村名を継承したと思われているようです。それを否定するつもりはありませんが、町場名も大きく影響しただろうと私は思うのです。なぜなら、ここで取り上げた46ヶ所の町場は商業活動を許された町場ですから、大なり小なり都市性格を有しています。このような町場のネームバリューは、藩政村の名を上回っていたのではないでしょうか。それは、類型1から推測できます。類型1は町場名と藩政村名が異なりますが、すべて藩政村名を捨てて町場名を新町村名に採用しています。その逆に、町場名を捨てて藩政村名を新町村名に採用した自治体はありません。類型5で風変わりなのは古川です。通称「古川」と呼ばれる町場は、藩政村でいうと古川村・大柿村・稲葉村・中里村に跨がっていました。新幹線古川駅の開業で中心街が駅前に移動するまで、古川の中心街は七日町でした。しかし、この七日町は地籍上は古川村ではなく大柿村の内にあったのです。でも、江戸期や明治期の人は七日町界隈に行くことを、「大柿村に行く」とは言わずに「古川に行く」と言っていたと思うのです。

近年、地図や道路案内板やネットを見ていると、公称が本流で、通称は傍流に押しやられ過ぎていると感じます。住所に対する感覚が昔と変わってきたので仕方ないのでしょうが・・・。

誤字を1文字訂正しました。
[72164] 2009年 10月 12日(月)09:57:07【1】千本桜 さん
明治期の市町村名に影響を及ぼした町場名
角川地名大辞典は富来町の町名由来を中世以来の院名によるとしています。しかし、明治22年に町村制施行で誕生した富来村の村名決定にあたっては、院名「富来」よりも町場名「富来」が強く影響しているのではないかと思います。中世富来院の区域に位置する藩政村は明治22年、下記のようにA~Gの7村に統合されました。
合併前の藩政村町村制による合併後の新村名
A地頭町村・領家町村など7村富来村
B今田村・東小室村など16村稗造村
C相神村・八幡村など11村東増穂村
D酒見村・大福寺村など4村西増穂村
E風無村・風戸村など3村西海村
F鹿頭村・赤崎村など6村西浦村
G西谷内村・藤瀬村など9村釶打村
過去に富来院に属していたことを理由に富来村を名乗れるなら、A~Gの7村はいずれも富来村を名乗れたはずです。しかし、富来村を名乗ったのはAであり、Bは稗造村、Cは東増穂村、Dは西増穂村、Eは西海村、Fは西浦村、Gは釶打村を名乗りました。なぜAは富来村を名乗り、B~Gは富来村を名乗らなかったのでしょう。それは、すでにAの区域内に「富来」と呼ばれる町場が存在していたからだと思います。推測ですが、Fの鹿頭村やGの西谷内村の人たちは、Aの地頭町・領家町に形成された町場へ行くことを「富来に行く」と言っていたのではないでしょうか。地頭町村や領家町村は地籍上の名称で、これを公称というのでしょう。しかし、それと同等またはそれ以上に「富来」という通称が汎用されていたのだろうと思います。それは、天保国絵図が地頭町村を富木村と表記していることや、正保郷帳が地頭町村の代わりに富木村を用いて「富木村 領家町 町本江村」として高付していることからも推測できます。

公称と通称の混用はどこにでもあることで、能登国でも公称の村名と通称の町場名が混用されています。そもそも、七尾・輪島・穴水という町場はあっても、七尾村・輪島村・穴水村という藩政村はありませんでした。七尾は藩政期の所口村や府中村などに跨がって展開する町場の名称です。江戸期や明治初期の能登の村人にとって、七尾の町に遊びに行くのは楽しみだったはずです。そのとき彼等は「七尾に行く」という言い方を多用し、「所口に行く」という言い方は少なかったと推測します。地名の汎用性としては、公称の村名「所口」より通称の町場名「七尾」が勝っていたように思います。明治22年、所口村・府中村・小島村・藤橋村が合併して町村制下の七尾町になります。同じように、輪島も藩政期の風至町・河井町に跨がる町場の通称です。この通称の町場名「輪島」が明治22年に発足した輪島町に繋がっています。また、穴水も藩政期の大町村・川島村に跨がって形成された町場の通称です。この穴水と言う町場の名が、明治22年発足の穴水村の村名決定に大きく影響していると思います。そして、富来もまた同じだと思います。

公称村名とは異なる通称町場名を持つものとして、[71220]で原ノ町宿(現・福島県南相馬市)、登米宿(現・宮城県登米市)、水沢宿(現・岩手県奥州市)をあげました。以上は、なじみの深い東北地方の中から3例をピックアップしたものです。このような事例は東北地方や能登地方以外にもたくさん転がっています。たとえば美作国の真庭郡(現・真庭市)では、藩政期の垂水村に通称「落合」と呼ばれる川舟港町があり、その名が明治22年に発足した落合村の村名に影響しています。同じく、藩政期の高田村に通称「勝山」と呼ばれる城下&宿場があり、その名が明治22年発足の勝山村に直接結びついています。しかも、高田村は他村と合併せずに単独で町村制の村に移行したのに、あえて勝山村に改称しています。と言うことは、当時すでに藩政村「高田」よりも町場「勝山」の名が地名として勝っていたのでしょう。勝山・落合と並ぶ真庭郡の拠点町場に「久世」がありますが、こちらは藩政村名も「久世」、町場名も「久世」ですから問題はなかったようです。

公称村名より通称町場名が勝っていたために改称したと思われる事例は宮城県にもあります。藩政村の小堤村は単独で町村制の町に移行したのに、町場名をとって亘理町に改称。同じく今村は吉岡町に改称。馬場谷地村は涌谷町に改称しています。岩手県の遠野や広島県の竹原もそうですね。藩政村の岩手県横田村は単独で町村制の町になり遠野町に改称。広島県下市村も単独で町村制の町になり竹原町に改称しています。亘理、吉岡、涌谷、遠野、竹原の共通点は、明治期に警察署が置かれたことからも分かるように、地域の中心性を担った町場だということです。このような場合、公称の村名より通称の町場名の方がステータスが高くなるのでしょう。小堤村、今村、馬場谷地村、横田村、下市村がそれまでの公称村名を捨て、通称町場名の亘理、吉岡、涌谷、遠野、竹原を新自治体名に採用したのは、そのような背景があってのことではないでしょうか。もっとも、亘理、遠野、竹原については、郡名、通名、荘名などの広域地名も絡んでいますから、それらと町場名の複合由来とすることもできます。しかし、直に影響を及ぼしたものは何かをつきつめれば、江戸期の町場名が明治期の町村名に影響している可能性は非常に高いのです。角川地名大辞典は宮城県亘理町の項で下記のように記述しています。
明治22年~現在の亘理郡の自治体名。小堤村の街衞地域を古くから亘理駅と称していたことから町名に採用。
小堤村の町場が古くから亘理駅と呼ばれていたので、新自治体名は「小堤」を用いず「亘理」にしたと言うことです。郡名、荘名、郷名などの広域地名と同じ名称の市町村については、その名称由来を郡名、荘名、郷名にあるとするだけでなく、域内に郡、荘、郷と同名の町場が存在していないかを確認する必要があると思うのです。

城下町、宿場町、港町、在郷町といった町場は、元来それ自体が一つの施設だろうと感じています。施設ですから名称が必要になります。その名称が地籍上の村名と同名の場合もあれば、異なる場合もあったのでしょう。

書込み訂正機能で下記のとおり訂正しました。
明治22年発足の穴水町の町名決定→明治22年発足の穴水村の村名決定
[72073] 2009年 9月 26日(土)11:09:40千本桜 さん
富来・西海の冠称
志賀町に移行した旧富来町域の住所は、自治体+大字+小字+番地で機能しますから、理論的には地区名(明治22年から昭和29年までの村名)を付さなくても住所として成り立ちます。しかし、実態は地区名を付す地区もあれば付さない地区もあって、統一されていません。。
1・富来地区は大字名の前に地区名「富来」を付す
2・西海地区は大字名の前に地区名「西海」を付す
3・福浦地区は地区名を付さない
4・熊野地区は地区名を付さない
5・稗造地区は地区名を付さない
6・東増穂地区は地区名を付さない
7・西増穂地区は地区名を付さない
8・西浦地区は地区名を付さない
富来地区は大字名の前に地区名「富来」を付けます。西海地区も大字名の前に地区名「西海」を付けます。しかし、福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区は大字名の前に地区名を付けません。どうして、こんなふうになったのでしょう。それが話題の発端でしたね。これに関しては、EMMさんとokiさんが「富来」「西海」の冠称を考察しておられますが、いずれも現段階では推測の域を出ておらず、明確な答えに至っていないようです。お二方にしてそうなのですから、私などには難しすぎて分かるはずもありません。思いますに、合併がらみの住所取り扱いは、往々にして論理よりも情緒に左右されたりするものです。情緒に左右されて決定したものを当事者不在のままあれこれ考えても、結局は推測の域を出ないで終わるでしょう。いっそのこと、当事者の町役場に問い合わせてみたらいかがでしょう。たった4年前のできごとですから、いきさつを憶えている方もおられるはずです。ただし、「富来」「西海」の冠称理由が明らかになったとしても、なぜ他の地区は地区名を冠称しないのかという疑問が残ります。それに対しては、「他の地区からは地区名の冠称要望がなかったから」という、あっさりした他人事のような答えが返ってきて肩透かしを喰らいそうな気がします。ですから、仮説→検証→考察などと堅苦しいことを言わずに肩の力を抜いて、もっと自由に地域を考えることを楽しみましょう。私は、そのようにします。

「富来・西海地区」と「他の地区」の扱いが異なるということは、両者に何らかの地理的相違があってのことかも知れません。地形図を用いて相違点を探してみたいと思います。最初に、次の手順で五万分の一地形図に各種境界線を描き入れます。
1・五万分の一地形図4面「剣地」「穴水」「富来」「七尾」を接合して1枚の地形図にします。
2・地形図に描いてある旧富来町の境界線を太く赤い線でなぞります。
3・Yahoo! 地図などを参照して、地形図に大字の境界線を細く赤い線で描き込みます。
4・富来・西海・福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区の境界を太く赤い線でなぞります。
5・各大字の機能中心地点を探し出し、それぞれの位置に赤い点を落します。
こうして、地形図に自分の手で境界線を描き進むうちに、大字の領域と集落の関係が見えてきます。小さな村落が多い中、小規模ながら町並みを形成している集落も見られます。赤崎、風無風戸、酒見、地頭町領家町高田、福浦港などです。このうち、赤崎、酒見、福浦港の町並みは、それぞれの帰属大字にすっぽり収まって、他の大字にハミ出ていません。ところが、風無と風戸の町並みは途切れることなく連続し、大字界を跨いで一つの町並みになっています。同じように、地頭町、領家町、高田の町並みも連担して、三つの大字に跨がって一つの市街地を形成しています。このような場合、藩政村や大字と言ったククリではククリ切れない別種のククリ感覚が生まれるはずです。

町の場末の縄のれんで、鳥羽一郎さん、金井克子さん、瀬川瑛子さん、ちあきなおみさんが、「浦霞」「一ノ蔵」を注ぎながら、「富来」の話で盛り上がっています。三重県出身の鳥羽さんが、宮城県の酒を呑んでも、富来の話をしても、よそ者が出過ぎるな、などと言う人は誰もいません。ちょうちん一つ、椅子五つ、他人の肩も気にならぬ。そんな小さな居酒屋での会話です。
【鳥羽一郎】俺は、♪「兄弟船」を唄うたび、風無と風戸の村を思い出すんだ。
【金井克子】♪「波の谷間に 命の花が ふたつ並んで 咲いている」という歌でしょう。「命の花」ってなに?。
【鳥羽一郎】「命の花」とは、風無と風戸ことさ。二つは兄弟のように繋がって海辺に張り付いているだろう。
【瀬川瑛子】ほんとだわ。風無と風戸の家並は連続しているのね。
【ちあきなおみ】そーね。風無と風戸は二つで一つなのね。もう切り離せないという感じ。タンスにゴンだわ。
【鳥羽一郎】だから、風無・風戸を一つにまとめて表わす呼び名が必要なんだ。それが西海さ。
【瀬川瑛子】私はね、♪「命くれない」を唄っていると、地頭町と領家町が浮かんでくるのよ。
【鳥羽一郎】♪「生まれる前から 結ばれていた そんな気がする 紅の糸」か。地頭町と領家町を表わしてるね。
【金井克子】地頭町と領家町も二つ併せて一つの町場になってるわ。まるで夫婦の関係ね。
【鳥羽一郎】♪「だから死ぬまで ふたりは一緒」というわけか。
【ちあきなおみ】そーね。地頭町と領家町も二つで一つよね。高田を加えると三つで一つ。タンスにゴンだわ。
【鳥羽一郎】だから、地頭町・領家町・高田を一つにまとめて表わす呼び名が必要なんだ。それが富来さ。
【ちあきなおみ】私の歌に♪「さだめ川」というのがあるけど、知ってる?。
【瀬川瑛子】♪「あなたの愛に 次の世までも ついて行きたい 私です」という歌でしょう。
【鳥羽一郎】「次の世までも・・・」って、富来町が消滅して志賀町に移行することを暗示してるね。
【ちあきなおみ】そーね。富来町がなくなっても、風無と風戸は西海というククリの中で結ばれていたいのね。
【瀬川瑛子】そーよ。志賀町になっても、地頭町と領家町は富来というククリの中で結ばれていたいのよ。
【鳥羽一郎】もしもだよ、風無と風戸の町並みが山で断絶されていたなら、どうなるだろう。
【金井克子】そのときは、♪「他人の関係」よ。♪「あなたはあなた そして私はわたし」という感じね。
【鳥羽一郎】風無は風無、風戸は風戸か。すると「西海」というククリ感が弱まるだろうな。
【瀬川瑛子】地頭町と領家町の町並みが農地や山林で分断されていたなら、どうなるの。
【金井克子】もちろん、♪「他人の関係」よ。♪「地頭は地頭 そして領家は領家?」という感じね。
【ちあきなおみ】そーね。地頭町や領家町の前に「富来」を付けたいという気持も薄らぐわね。
【瀬川瑛子】結局、「富来」「西海」を付けたのは、大字と集落の関係にも原因がありそうね。
【鳥羽一郎】まあ、少しはね・・・。そんなところだろう。
こうして、地理談義に盛り上がりながら、場末の縄のれんの夜は更けて行くのでした。もちろん、これはフィクションです。どのように受けとめるも、読み手の皆さん次第です。ただ、私がはっきり言えることは、大字と集落の関係の処理がお粗末になってしまった町が東北地方の某所にあるということです。そして、旧富来町は、まだそのような事態におちいっていないので救われるということです。

ついでに、旧富来町(石川県志賀町)と旧河北町(宮城県石巻市)の大字を比較してみます。両町を比較するのは、面積が同じで人口も似通っているからです。面積と人口は1965年の数値です。
【旧富来町】
面積=124平方km、人口=15,000人、大字数=59、大字の平均面積=2平方km、大字の平均人口=254人、中心になる大字=地頭町・領家町、中心になる町場名=富来。
【旧河北町】
面積=124平方km、人口=19,000人、大字数=17、大字の平均面積=7平方km、大字の平均人口=1,118人、中心になる大字=相野谷、中心になる町場名=飯野川。
両町を比較すると、旧富来町の大字は旧河北町の大字に比べて小規模なことに気が付きます。人口の少ない大字とその人口を書き出します。人口は角川地名大辞典を参照しました。
【旧富来町の人口の少ない大字、人口100人以下の大字】
深谷0人、大鳥居3人、六実8人、灯9人、八千代10人、中泉13人、江添20人、香能20人、日用23人、楚和30人、入釜47人、地保52人、日下田53人、阿川55人、切留65人、生神67人、豊後名73人、八幡座主74人、牛下77人、栢木77人、広地77人、草江80人、大西85人、荒屋86人、小窪87人、尊保89人、田中93人、谷神93人。
【旧河北町の人口の少ない大字、人口1,000人以下の大字】
北境241人、尾の崎312人、馬鞍406人、東福田448人、成田520人、中野566人、皿貝634人、中島697人、長面762人、福地870人、針岡870人、釜谷891人、三輪田940人、大森954人。
旧富来町には人口100人以下の大字が28ありました。現在ではもっと増えていると思われます。それに対し、旧河北町には人口100人以下の大字がありません。大字の規模が明らかに異なっています。旧富来町深谷は人口0人ですから集落はありません。能登の大字は歴史的に一大字一集落とはいうものの、現実において大鳥居、六実、灯、八千代、中泉、江添、香能、日用、楚和などが単独の集落として成り立っているのだろうか?と、ふと思うのです。

[71891] oki さん
「富来」が冠称された理由が過去へのノスタルジアだとすれば、
富来院、富来郷といった遠い過去へのノスタルジアより、合併で消滅しようとしている富来町への惜別の思いが「富来」を冠称させたのだと思います。まして、富来地区住民にすれば、西海・福浦・熊野・稗造・東増穂・西増穂・西浦地区の住民よりも、その思いは強かったことでしょう。

[71997] oki さん
(※陸奥国信夫郡伊達郷、武蔵国新座郡志木郷は上記集計から除いています。
伊達は信夫郡から分郡した伊達郡が名称の由来と考えられることが理由。
とすると、[71947] で今川焼さんが紹介して下さった陸奥国白河郡石川郷も除外対象になると思います。中世に白河郡から石川郡が分郡してますので。また、現行石川町の名称由来が石川郡にあるのかと言うと、一概にそうとも言い切れません。明治7年に藩政村下泉町村、内槇村、外槇村、高田町村が合併して石川村が生まれましたが、すでに江戸期より下泉町村、高田町村に跨がる町場は「石川町」と呼ばれていました。明治7年発足(明治22年町制)の石川村は江戸期の町場名「石川町」に由来し、昭和30年発足の石川町は明治22年町制施行の「石川町」に由来しているとも考えられるからです。もし、昭和30年発足の石川町の名称が郡名由来だとすると、同じ石川郡に属していた浅川町、平田村、玉川村、大東村が、なぜ石川町または石川村を名乗らなかったのかと言う疑問が残ります。

[72059] 白桃 さん
岡山、倉敷周辺は「小都邑」が一杯あって複雑怪奇、結構面白いですよ
それが、岡山県東部の海寄りの地域になると、片上、伊部、牛窓、長船、邑久など「小都邑」というよりも「小小都邑」ばかりで、なかなかのみこめません。特に、藩政村「尾張」を中心とした自治体が、郡名と同名の邑久町を名乗っていたのが複雑怪奇。和気を知りたい。それにしても牛窓って、「窓」がつくから覗き見したくなりますね。一度はぶらり町歩きをしたくなるような旅情をかき立てられる地名です。
[71771] 2009年 8月 23日(日)20:32:25千本桜 さん
了解しました
[71767] オーナー グリグリさん
了解しました。グリグリさんにまでご心配をおかけいたしまして申し訳ございませんでした。
[71763] 2009年 8月 23日(日)00:11:23千本桜 さん
不思議
[71737] EMM さん
そして[71240]については「削除→再投稿」と言うことは誓って行っていないと言うことは明言いたします。
話をそらさないで下さい。削除した上で再投稿したのかを質問しているのではありません。EMMさんは[71240]に訂正の手を加えていますね。はっきり言えば、千本桜を貶める非常に幼稚な発言をした後に、その部分を削除しています。それなのに、書込み訂正回数を示す【数字】がタイトルバーに表示されていない。とても無気味です。私が問題視しているのは、千本桜を貶めたかどうかではなく、書込み訂正をした痕跡を隠していることにあります。
[71735] 2009年 8月 20日(木)23:31:45千本桜 さん
酷すぎる手口
[71198] EMM さん
千本桜さんの「中途半端な資料による中途半端な考察」
上記の書込みはEMMさんの誤解と邪推の産物です。私は、ただ単にピンポイント富来の存在を確認したかっただけ。そういう段階でした。それなのに、中途半端な考察と決めつけられても何のことだかさっぱり分かりません。
EMMさんは[70838]
「富来」という地名は、歴史上出現して以来徹頭徹尾広域地名である…明治以前に富来村(富木村)なんてものが実在したことはなかった
と書込んでいますから、ピンポイント富来の存在を否定したい気持ちが先走るのでしょう。でも、他の人の意見を拒絶するのは良いことではありません。
もしかして互いの書込みの中に誤解を誘発する書込みは無かったかと再度読み直してみました。そこで、EMMさんが大幅な書込み訂正をしていることを知りました。[71239][71240][71427]を訂正していますね。訂正前の文を私は読んでいます。小学生でも「これは変だぞ」と思うくらい酷い個人攻撃が書いてありましたね。大幅に訂正するなら、訂正機能を使わずに新たな項を立てて書込むのが道理かと思います。自分に都合の悪いことを隠してしまおうとするのは良くないことです。これだけなら本日あえて書込みするつもりはありませんでした。しかし、どうしても書込まなければならない重大なことに気がついてしまったのです。EMMさんは[71240]を書込み訂正しているのに、【1】や【2】という訂正記録が表示されていません。 EMMさんは、ご自身に都合の悪くなった書込みを人に知られず訂正する裏技をお持ちなのですね。落書き帳の信頼に係わる出来事です。
[71254] 2009年 8月 1日(土)21:59:40千本桜 さん
富来
[71239] EMM さん
今日は非常に疲れています。多くを書く気力もありません。

私は[70836]
富来の名を存続させながら全ての地区を自治体名+大字名の形式で統一できないものだろうか・・・。そんなことを模索したいと思ったわけです。
と書いています。しかし、私はこの結論をまだ出していません。それなのに、EMMさんは私が結論を出したと決めつけている。辛いですね。こんな受け止め方をされて、一方的に言いたい放題さんざん避難されて・・・。やはり今は苦しくて書き続けられません。でも、旧富来町の中にピンポイントの「富来」が存在したことを確認できて安心しました。この確認なしには前へ進めません。場所が地籍上の地頭町村であれ領家町村であれ、形態が城下町であれ宿場町であれ、どちらでも構わないのです。地頭町村、領家町村、高田村の区域の中に富来と呼ばれる場所があったことを確認できればよかったのです。そのことだけ、お伝えしておきます。
[71220] 2009年 7月 31日(金)07:49:48千本桜 さん
富来
[71199] EMM さん
千本桜さんの「中途半端な資料による中途半端な考察」を見てかなり頭に血が上った状態で書いてしまっています。
ずいぶん失礼な書き方をしますね。よく考えてから物を書きましょう。

[70940] EMM さん
また、「仮説」も飛躍しすぎでないか、予備検証してますか?
飛躍していません。地道に積み重ねたものの上に成り立つ仮説です。
藩政期の南新田村に原ノ町宿の町場があり、その名が明治22年発足の原町村(現・福島県南相馬市)に繋がっていること。藩政期の寺池村に登米宿の町場があり、その名が明治22年発足の登米町(現・宮城県登米市)に繋がっていること。藩政期の塩釜村に水沢宿の町場があり、その名が明治22年発足の水沢町(現・岩手県奥州市)に繋がっていること。このような事例を多々ふまえた上で、藩政期の地頭町村には富来宿と呼ばれる町場があり、その名が明治22年発足の富来村(現・石川県志賀町)に繋がったのではないかという仮説をたてています。
さしあたり、そこに富来宿なるものがあったと言っていい証拠は提示できますか?(少なくとも角川・平凡社両辞典にそう言うものは出てきません)
平凡社の辞典に書いてあるじゃないですか。富来町の項に「地頭町村には外浦街道の富来駅が置かれ、領家町村とともに富来地方の物資の集散地として栄えた」とあります。また、地頭町村の項にも「外浦街道の宿駅富来駅が置かれ、駅馬15疋を常備」と書いてあります。やはり、富来という名の宿駅は存在したのです。重要な部分ですから宮城県図書館に行って調べてきました。

EMMさんの「富来考」発表までは書込みしないつもりでいましたが、あまりにも無礼な書込みを目にしたものですから書込みました。
[70939] 2009年 7月 25日(土)21:13:29千本桜 さん
富来考・富来と言う名の町場
[70838] EMM さん
「富来」という地名は、歴史上出現して以来徹頭徹尾広域地名である…明治以前に富来村(富木村)なんてものが実在したことはなかった、じゃあ富来って何?どこが富来?
地形図を見ていると、富来は地頭町村の一部、または地頭町村の別称ではないかと思えてなりません。地形図に描かれた地頭町の市街地が、「ここが富来だ」と主張しているように感じられるのです。天保国絵図には富来村があって地頭町村がありません。それを見て、富来村の中に地頭町という町場が形成されていたのではないかと考えましたが、富来村という藩政村が存在しなかったとなれば話は別です。そこで、地頭町村の中に「富来宿」または「富来町」と呼ばれる町場があったと、考えを変えてみます。明治22年の町村制で発足した富来村の村名は、地頭町村の中の「富来宿」または「富来町」に由来するのではないかと考えます。十番勝負が始まりますね。続きは十番勝負が終わった後で。
[70914] 2009年 7月 22日(水)08:04:35千本桜 さん
おはようございます
[70901] 伊那谷 さん
和泉橋警察署編の新旧対照市町村一覧、まだほんの一部ですが興味深く見せていただきました。これは参考になる資料ですね。

[70910] 白桃 さん
「青」が入る市、あなたは幾つ言えますか。青梅、青森、静岡、清須、清瀬、土佐清水・・・、これぐらいですか???
縦でも横でもいいじゃないとサバ読めば、あそこも仲間。老眼鏡かけてます?
[70855] 2009年 7月 18日(土)01:59:31千本桜 さん
ばなな漁港と富来漁港
[70844] EMM さん
昨日は西海地区の漁港を富来漁港と呼ぶ大胆さを笑いましたが、もっと笑える大胆なネーミングの漁港が宮城県にありました。恥ずかしくなるネーミングなんですが、関係者のみなさんは本気だったのでしょう。その名は「ばなな漁港」といいます。平成14年の水産政策審議会議事録の一部を引用します。
名足漁港と馬場漁港の合併でございます。これを合併して「ばなな漁港」という名前にしようとするものでございます。これは馬場漁港と名足漁港が隣接しておりまして、これを合併して、中核的な漁業基地として整備したいと考えているものでございます。名足漁港がこれでございます。馬場漁港はこれでございまして、この辺を中山地区と言うそうでございますので、馬場の「ば」、中山の「な」、それから名足の「な」を取りまして、合併後の名称は「ばなな漁港」としたいということでございます。
おもしろいでしょう。これなら、まじで富来漁港あらため能登金剛漁港もありかも。この、ばなな漁港から富来漁港の謎の一部が解明できそうです。

(水産庁HP内で検索して出てきたPDFファイルからすると、昭和26年に富来漁港という名で第4種漁港の指定を受けた可能性有り)
水産庁HP内のPDFファイルでは「ばなな漁港」を、漁港名「ばなな」、指定年月日「S26.12.13」、区域変更年月日「H17.9.14,」としています。漁港の区域と名称の変更を平成14年に審議しているのに、指定年月日「S26.12.13」は一見すると変ですね。でも、この年月日は、ばなな漁港の前身である名足漁港、馬場漁港が漁港に指定された日なんですね。ばなな漁港になったのは平成17年9月14日なんでしょう。富来漁港は、指定年月日「S26.7.28」、区域変更年月日「H17.9.1」と書いてあります。あくまでも推測ですが、昭和26年7月28日に指定されたのは富来漁港の前身であろう風無漁港と風戸漁港ではないかと思います。そして、当時は両港とも第1種漁港だったのではないかと推測します。西海村が富来町と合併したのは昭和29年ですから、昭和26年に西海村の漁港に隣町の名である富来を付すとは考えにくいのです。富来漁港と呼ばれるようになったのは、どう考えても昭和29年以降ではないでしょうか。
[70841] 2009年 7月 16日(木)21:10:55千本桜 さん
富来漁港
[70838] EMM さん
富来漁港がどこかは調べればすぐに分かりますが、これまた千本桜さんを惑わすにふさわしい代物なのです。
まったく想定外でした。風無・風戸に西海ではなく富来をもってくるとは石川県農林水産部もなかなか大胆(笑)。地元ではそれほど違和感を感じないネーミングなんでしょうね。大衆受けを狙って能登金剛漁港でも良かったような・・(冗談です)。でも、なんといってもミステリーなのは明治以前に富来村は存在しなかったということです。すると、あの天保国絵図に描かれた富来村や、地形図の図名の富来は何なんだろうと謎は深まるばかり。予告編に続く本編の書き込みを期待しています。あまり夜更ししてはだめよ。ゆっくりで良いのです。
[70836] 2009年 7月 16日(木)04:42:01千本桜 さん
富来
EMM さん
[70774]で「富来に関する考察。私も参加させて下さい」と書きましたが、考察したい事柄をもっと具体的に書くべきだったことに気が付きました。私は次のようなことを考えていたのでした。
富来地区、西海地区については大字名の前に地区名(昭和29年までの村名)を付して志賀町富来地頭町、志賀町西海風無のように表しますが、熊野地区、稗造地区、東増穂地区、西増穂地区、西浦地区については地区名を付さずに志賀町三明、志賀町酒見のように表します。自治体名+地区名+大字名の区域と自治体名+大字名の区域が混在して不揃いですね。これを、自治体名+大字名に統一できないかと考えた次第です。そうすると富来の名が消えることになりますが、富来の名を残したいと願う人たちから反対される可能性があります。そこで、富来の名を存続させながら全ての地区を自治体名+大字名の形式で統一できないものだろうか・・・。そんなことを模索したいと思ったわけです。
【事例からの発想】
明治22年、宮城県柴田郡では入間野村、四日市場村、船迫村など藩政10ヶ村が合併し、藩政入間野村の宿駅名「槻木」にちなんで槻木村(後に町に昇格)になりました。藩政村はそのまま槻木村の大字に継承され、槻木村大字入間野、槻木村大字四日市場、槻木村大字船迫などになりました。昭和31年、槻木町は船岡町と合併して柴田町になりました。槻木町の大字は柴田町に引き継がれ、柴田町大字四日市場、柴田町大字船迫などになりました。槻木の名は消える運命にあるのだろうか・・・。しかし、槻木町は中心部の大字入間野を大字槻木に改称して柴田町大字槻木とすることにしました。様々な受け取り方があるとは思いますが、槻木町はその名を大字入間野の区域に託して消えて行ったのだと思います。こうして入間野の名は消えましたが槻木の名は残りました。入間野を残すか槻木を残すか、苦しい選択を迫られたことでしょう。
同じく明治22年、平村、堤村、新寺村の藩政3ヶ村が合併。藩政平村の宿駅名「金ヶ瀬」にちなんで金ヶ瀬村になりました。藩政村は金ヶ瀬村の大字に継承され、金ヶ瀬村大字平、金ヶ瀬村大字堤、金ヶ瀬村大字新寺になりました。昭和31年、金ヶ瀬村は大河原町と合併。金ヶ瀬村の大字は大河原町に引継がれ、大河原町堤、大河原町新寺になりましたが、このままでは金ヶ瀬の名が消えてしまいます。しかし、金ヶ瀬村は中心部の大字平を金ヶ瀬に改称して大河原町金ヶ瀬とすることにしました。こうして平の名は消えましたが金ヶ瀬の名は残りました。
私はこの2例の大字名改称を肯定的に受け止めています。理由は、町村制で誕生した槻木村の名は藩政村入間野に形成された町場名「槻木」に由来し、昔から入間野=槻木、槻木は入間野の別称という雰囲気があったと考えられるからです。平と金ヶ瀬の関係も同様です。もう1つの理由は、周辺大字との統合や境界変更を伴わず、単に入間野を槻木に、平を金ヶ瀬に変えただけですから、同名小字が発生せず、地番組替えの必要もなかったことにあります。ですから、入間野を槻木に、平を金ヶ瀬に改めることに大きな抵抗感はなかったものと思われます。これを富来に当てはめることはできないだろうか。どれか1つの大字を富来という名に改称し、志賀町と合併して消滅する富来の名を残すという方法です。たぶん、志賀町富来七海を志賀町七海にできても、志賀町富来にはできないでしょう。では、志賀町富来地頭町はどうでしょう。志賀町地頭町にもできるし、志賀町富来にもできそうな予感がします。ただし、明治から今日までの合併を含む社会変化を思えば、地頭町を富来に改称するのは不可能になっているかもしれません。
【地形図からの推測】
ウォッちずは既に現在の地名に修正されているのであまり参考になりませ。そこで、たまたま手許にあった平成3年発行の5万分の1地形図「富来」を見てみました。牛下、生神、七海、領家町、高田、東小室の地名は記載されていますが、なぜか地頭町がありません。それに、自治体名の富来町はあるのですが、集落名の富来がありません。地形図の図名は、その図に出てくる代表的な集落・居住地名を採用するのですから、富来という名の集落があるはずです。富来はどこへ行ってしまったのでしょう。思いますに、以前は現在の地頭町にあたる区域に富来という集落名が記載されていたのではないか?。現在の地頭町こそ昔の富来ではないかと思えてくるのです。槻木が入間野村の町場名であったように、地頭町は富来村の町場名だったのではないかと・・・。
【百科事典からの推測】
1972年発行の百科事典の次のような記述があります。
南部の福浦港をはじめ、富来、赤崎、領家、七海などの港は漁業が盛んで、また富来は商業の地方的中心で
ということは、富来領家でも富来七海でもない富来富来があるのですね。それは現在の富来地頭町ではないだろうか。
【天保国絵図からの推測】
やはり富来村は存在したのですね。位置から推測すると現在の地頭町の区域だろうと思います。
私、今回の事例に付いて千本桜さんは2つの事を見逃している(あるいは見ないようにしている)のではないか、と思っています。
具体的には
「富来と言う地名自体の歴史を追う事」
「○○村内××村と言うのが富来の2例に特異な話か」
と言う事です。
的を絞ります。地頭町を富来と言う名に置き換えることはできないかと発想した場合、最も効果的なのは、藩政村名と町村制発足時の大字名およびその区域界を知ることだと思います。ですから、あまり古い時代に遡る地名由来は考えていないのです。また「○○村内××村と言うのが富来の2例に特異な話か」については、まったく特異な例ではなく、身近な宮城県にもたくさん転がっています。中には時代経過とともに本村と端郷の関係が逆転しているものもあります。現在は石巻市の一部になっていますが、江戸期の根岸村ノ内の渡波村は第1回人口集中地区調査で1万人を超す市街地に発展しているのに対し、本村の根岸は渡波市街地の在郷にあたる村落になりました。昔は根岸の中の渡波だったのに、今では渡波の中の根岸です。[70779] で端郷の領家町村と高田村を引っ張り出したのは別の疑問あったからです。富来村が住所の上で地頭町村と領家町村に分離したのはいつか。小室村の中の高田村が小室と分かれて、地頭、領家と一緒になったのはいつか。これが判らなかったから釈然としなかっただけです。

[70786] むっくん さん
県令第23号(M22.3.8)によれば、牛下村、生神村、領家七海村、七海村、地頭町村、領家町村、高山村の7村が合併して富来村が発足しました。
ありがとうございました。明治22年の富来村発足直前には富来村がなかったのですね。すると、天保国絵図に描かれた富来村は、いつ、どこへ行ってしまったのでしょうか。ミステリーもまた楽しい。

[70834] EMM さん
うーん、結局富来の話に到達できなかった…書く内容はだいたい頭の中でまとまったんですが…
急を要するものでもないし、急がなくていいですよ。私も書き始まったら止められなくなって、こんな時間に・・・。
[70779] 2009年 7月 11日(土)00:07:13千本桜 さん
天保国絵図の冨来
平成17年に志賀町と合併して消滅した富来町には、富来と呼ばれる特定の区域があったのではないか?という思いが頭をよぎります。平成17年まで存在した旧富来町ではなく、昭和29年まで存在した旧旧富来町でもない別種の富来です。もっと古くからの富来です。そこで天保国絵図能登国を開いてみました。そこには福浦村、牛下村、生神村,七海村、冨来村などの村名が記載され、冨来村の隣には冨来村之内領家町が記載されています。江戸期には冨来村があったようです。そして、冨来村には枝郷というか端郷というか正式な呼称はわかりませんが、領家町村という村が存在したらしいのです。天保国絵図の冨来村とは、現在の地頭町のことではないかと仮説を立ててみました。同じように、小室村にも小室村之内高田村というのがあったらしいのです。で、何を知りたいのかというと、明治22年に町村制下の富来村が発足したわけですが、そのとき何村と何村が合併して富来村が発足したのか。そして何という名の大字を設置したのかということです。書いているうちに文章がくどくなっているのに気が付きました。申し訳ありません。これから晩飯食べます。


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