ご無沙汰しております。
四国の渇水状況について、香川用水の問題など、主に香川県のことについて議論が進んでいるようなので(もう過去の話題かもしれませんが渇水状況が解決したわけではないので)、地元出身者として、徳島側から見た考えを一つ。
[58781] hmt さん
せっかくできている早明浦ダムと香川用水が、県境の壁に阻まれて生かしきれないという姿には疑問を感じます。
「四国三郎」は、兄貴の坂東太郎に比べれば、もともと懐が小さいというハンデがありますが、それでも精一杯の力を発揮できるような仕組みを整えてゆく必要があると感じた次第です。
仰ることは誠にごもっともで、合理的に考えれば、05年渇水時における徳島側の対応はきわめて理不尽であり、香川県民から見れば惻隠の情のかけらもなく、第三者の目には地域エゴそのものと感じられると思います。
しかし、徳島側にも言い分はあります。端的に言えば、徳島の吉野川流域というのは、決して水に恵まれた地域ではないのです。より正確に言えば、「利用できる水に関して、非常に不自由してきた地域であった」ということでしょうか。
池田以東の吉野川は中央構造線の谷を通って紀伊水道に注いでいます。そのため、吉野川の河道は両岸の段丘面に比べて低く、通常の方法では吉野川本流の水を農業に使うことはできませんでした。
江戸時代、大河の中下流には用水が開削され、流域は水田化されて穀倉地帯になるのが一般的な姿でした。この場合、水量が増える中流域に堰をつくって取水し、等高線に沿って長大な用水を引き回し、流域を灌漑するのが通常の手法です。しかし、吉野川は河道が低いため、この手法がとれませんでした。本流から水が得られなければ支流から引水するほかないわけですが、吉野川流域の徳島平野は四国山地の北側に位置し、気候的には讃岐平野とさほど変わりません。それでも、四国山地に源流を持つ南岸側はまだしも、阿讃山脈を源流とする北岸は、用水確保という面では讃岐平野と条件は同じなわけです。そして、特に中流域においては、北岸平野の方が南岸よりよほど広いのですね。
このため、徳島平野の広い範囲が、江戸時代を通じて畑作地のまま留められました。以前にもご紹介した「町歩下町帳」によれば、江戸中期における四国の水田、畑地の反別(面積)は以下のようになっています(反別の単位は町)。
国 | 田反別 | 畑反別 | 反別計 | 田% |
阿波 | 11818 | 20439 | 32257 | 37 |
讃岐 | 22036 | 7050 | 29086 | 76 |
伊予 | 29144 | 22117 | 51261 | 57 |
土佐 | 21590 | 11412 | 33002 | 65 |
一見して明らかなように、阿波の水田率は他の3国に比べて極端に低い数値です。その理由が、県内第一の平野である徳島平野で水田化が進まなかったことにあるのは明らかでしょう。藩政期、阿波藩の穀倉地帯は徳島平野ではなく県南の那賀川流域と淡路だったのです。
以上のように、藩政期の吉野川流域は讃岐平野と同様に水に恵まれない地域だったのですが、状況はむしろ徳島の方が悪かったと言えるかも知れません。讃岐の場合は単に大きな川がないだけですが、徳島の場合は目の前を滔々と流れる大河がありながら、その水を利用できないわけです。しかも、この川は平常時には何の恵みももたらさない代わり、ひとたび大雨が降ったときはとんでもない暴れ川となって流域の村々を襲いました。「
吉野川洪水史」によると、万治二年(1659)から慶応二年(1866)までの二百年間に、阿波国内で約百回の洪水(風水害)があった、とされています。
さらに悪いことがあります。江戸時代、吉野川流域が全国随一の藍作地帯だったことは周知ですが、その背景には、上で見たようにこの地域が水田化困難だったこともあります。藍という作物は多量の肥料を必要とするため連作不可能とされているらしいですが、藍を経済基盤としていた阿波藩は実に巧妙な策を案出しました。毎年のように氾濫する吉野川に堤防を築かず、上流から流下してくる豊かな土壌を、氾濫時に藍畑へ自然客土するという手法です。ナイル川の氾濫によって肥沃な土壌を補給していた古代エジプトと同じようなものですね。
これによって藍の連作が可能になり、阿波藩は四国随一の経済力を手にします(このほかに阿波藩は、斎田(鳴門)の塩、那賀川上流部の材木という商品を手中にしており、藩都である徳島城下は全国でも有数の都市でした。もっとも、それで領民が幸福だったか否かはまったく別の話ですが)。
吉野川に堤防を築かずに肥沃な土壌を客土するのは、藍の栽培に関しては合理的なやり方でしょうが、流域に住んでいる農民にとってはたまったものではありません。豪農層は高台に石垣を築いてその上に家を建て、洪水時に備えたようですが、一般の農民は溢水のたびに逃げまどわなければならなかったでしょう。
加えて悪いことがありました。徳島平野は四国山地の北側に位置しますが、吉野川の源流は山地南側の土佐にあります。そのため、徳島平野でたいした降雨でなくとも、土佐側は豪雨で、それが前触れもなく洪水になって流域平野に押し寄せることが少なからずあったのです。徳島側でも大雨が降って洪水になるのを「御国水」、土佐だけで降った水が押し寄せるのを「阿呆水」として区別する用語すらあったようです。
このような状況が最終的に解決されるのは、吉野川総合開発によって早明浦ダムと池田ダムが建設され、池田ダムから取水する全長69.2kmの吉野川北岸用水が完成する1990年になってからで、北岸地域が全面的に水田化したのは北岸用水の開通後であったようです(北岸用水の工事が始まったのは1971年です)。
一方、同じく池田ダムから取水する香川用水が、阿讃山脈を貫く阿讃トンネル(5032m)を通じて通水したのは1974年です。このときは上水道だけの通水で、農業用水、都市用水の本格通水は75年、東かがわ市までの全線通水は78年とのことです。
吉野川流域の住民から見れば、歴史を通じた水不足の状況は香川側と同じです。一方、香川の方は吉野川の洪水による被害をまったく受けておらず、徳島側だけが引き受けてきたわけです。ところが、流域開発による利益は香川の方が先に享受することになります。また、明治以降、徳島県民の香川県に対する感情は微妙なものがあります。有り体に言えば、江戸時代には徳島の方が先進地であったにもかかわらず、明治以降、宇高航路が開かれた香川の方が四国の玄関口になった結果、高松の方が徳島より都会になり、徳島県民は香川から田舎者と見下されてきた(と徳島県民は思っている)、という背景があります。
このような状況の中で、それが国土計画上合理的だから吉野川の水を香川県に分水します、といっても、徳島県民がはいそうですかと納得するわけはありません。
河川維持に必要な 13t は別として、 30t が1975年の早明浦ダム建設以前から徳島県内で取水利用されてきた実績値で、水利権として認定されることにより、徳島県の「財産」になっているわけなのでしょう。
ということですが、以上のような吉野川の水利用事情を考えれば、30tの方も、徳島県内で実際に利用されてきたかどうかには疑問符がつきます。しかしこの分を、徳島ではダム建設前は利用不可能だったのだから香川用水にも回す、などということを言い出せば、吉野川総合開発そのものが不可能になっていたでしょう。要するに、吉野川に関する徳島県の「不特定用水」(既得権)なるものは、過去千年以上の洪水被害を一手に引き受けてきた吉野川流域住民に対する配慮から設定されたもの、と私は考えます。この地域の住民は、吉野川に対して愛憎様々な感情を抱いており、それにはこの地域に耕地が開かれた、遅くとも2000年前からの歴史があると思われます(阿波のうち吉野川流域の古代名は粟国で、これは古代から水田化不可能で畑作地であったこの地域の特性を表しているのでしょう)。
現徳島県知事である飯泉嘉門氏は大阪府池田市出身の自治官僚ですから、このような徳島県民の思いを共有しているとは思えません。しかし、彼の支持基盤である県会議員は流域農民の意向を無視できませんから、「吉野川水系水利用連絡協議会」では、「他の出席者があっけにとられるような態度」しか取れないのでしょう。
私は、以上のような歴史的背景に照らしても、香川用水に対する徳島県民の対応が倫理的に正しいとは思いません(後で記すように、私が吉野川流域の出身者でないことが大きな理由でしょうね)。しかし、香川県民が、長年に亘って吉野川の洪水と闘ってきた流域住民に対し、その歴史的背景に敬意を表した上で、配水を要請する態度に出ているのかどうかについては、いささか疑問があります。
「この辺りは『阿波の北方』いうて、昔から水争いが絶えんかった。だから、香川に分水するなんて、昔は絶対、考えられない。不特定用水? 知事さんの発言が地元の感覚、流域の声を代表していると思う。ここでうんと言えば、『県は何やっとんぞ』と農家が黙ってはおらん」
この吉野川流域農民の発言に対し、愚かしい地域エゴと切って捨てるのは簡単ですが、それでは問題は一歩も前に進まないでしょう。これは論理ではなく感情や情念のレベルに属する事柄であり、その背景には、以上のような歴史を通じた吉野川との愛憎一体となった関係があります。情念に論理を対置するのは愚の骨頂でしょう。
ということで、香川県民の皆様には、どうして香川用水の配水に関して徳島県民が常軌を逸した対応をするのか、その歴史的背景にもご理解をいただき、徳島側の重苦しい情念を解きほぐす形での説得方法を考えていただきたい、と思う次第です。
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ところで、私自身は吉野川流域ではなく、那賀川流域である県南の阿南市出身です。客観的に見て、現時点では吉野川より那賀川の方が危機的状況です。吉野川水系では早明浦ダムの貯水率が55%で、徳島用水の取水制限が13.9%、香川用水20%節水に対し(6月1日現在)、那賀川水系では長安口・小見野々ダムの貯水率はわずか7.6%、第6次取水制限で農水、工水ともに60%節水(5月24日)という状況ですからね。ところが、この掲示板で流れるのは香川側の状況ばかりで、那賀川流域への言及が皆無だったので、事情を知って欲しいというのも、久々に書き込みをした理由です。
那賀川流域が危機的な状況になっても、吉野川流域からの分水は一切ありません。しかし、香川県に分水しているのに同じ県内に分水しないのは不合理ではないか、という意見は特に出ていないようです。物理的に考えて、四国山地の剣山山系をぶち抜く分水トンネルの建設は非常に困難でしょうが、それだけではありません。
先日、田舎で一人暮らしをしている父親に電話をして状況を聞いたのですが、農業・工業用水は別ですが、上水で供給される一般的な生活用水にはまったく問題がないとのことでした。ネットで事情を調べてみると、阿南市の上水道は那賀川下流部の井戸から取水しており、上流ダムの貯水状況とは無縁のようです。実のところ、この点は今回調べて初めて知ったことで、阿南市に住んでいたときは自宅に来ている水道の水源がどこにあるかも意識していなかったのですね。
那賀川水系の井戸から取水する以上、究極的には那賀川の水の有無に関係するわけですが、この川の源流部である木頭地域は全国でも屈指の多雨地域で、04年には年間6000㎜近い降水量を記録しています。これは少し極端ですが、年間3000~4000㎜の降雨はごく普通で、それが伏流水となって何年もかけて下流に流下し、それを上水源として取水しているのでしょうから、上流のダムが空同然になっても下流の上水道は特に問題ない、ということのようです。
この点は、ダムの水がなくなれば即座に飲み水に影響が出る吉野川流域や香川用水流域と異なるでしょうね。その分、阿南市を含む徳島県南部は台風の常襲地で、それによる被害は常に受けていますが。
同じ渇水といっても、四国山地の北側と南側では性質がまったく異なるということでした。
上水には影響がないといっても、農業・工業用水が現在のような状況では産業活動に大きな支障が生じることは確実ですから、梅雨時の降水や、あまり被害のない雨台風が四国南部に襲来してくれることを願って、今回の書き込みを終わります。