少し間が空いてしまいましたが…
[58847] mi(わ)
何がしかのものをリストアップしようとするときには,まず「基準」を明確に定義しておくことが必要だと思います。
…と言っておきながら,実はこの話題について私自身どこに「基準」を置くべきか迷いがあるのでした。
[58852] むっくん さん
たださすがに両国は武蔵で長野県木曽地方は信濃である時期を基準に選ぶべきと考え、廃藩置県の前後で分けました。
ここに「基準」を置くというのも1つの捉え方であって,これを“統一の基準”としてリストアップがされるならば,それはそれで構わないことだと思います。
ただ,以下はあくまで私個人の捉え方であって,「このようにすべきである」と主張するわけでは毛頭ないのですが…
その前に,まず確認しておきたいのは,
「国」という区画(←私,“某所”ばかりで特に目立って使用される「令制国」という呼称について,どうしても違和感があって受け入れたくないのです)について,
たとえば「旧国界」のような表現が用いられるけれども,この区画が“公式に廃止”されたことがあったわけでは決してなくて,単に“使われなくなった”だけである。ただし,いくつかの例外を除いて現実に使われている区画としての性格はとっくに失っていて,その意味では「化石」のような存在である,
…ということです。
話を戻して,
「廃藩置県」を1つの画期点として捉える立場も十分に根拠のあるものであることに異存はないのですが,私としてはもう少し後の時点にその「基準」を置きたいと考えています。
明治4(1871)年7月14日(旧暦)に断行された「廃藩置県」というものは,封建制に由来する「藩」という制度を廃止し,中央集権の確立に向かったという点で,わが国の地方制度において極めてラディカル(根本的)な変革ではありました。
けれどもこの変革は,従来からの 国・郡 という区画には全く手をつけず,これとは全く別の次元で行われたことでした。廃藩置県において,「国」や「郡」という区画の領域については,全く問題にされていません。
「府県」と「国郡」という全く次元の異なる地方区画が初めてリンクするのは,この年の10~11月に行われた「第1次府県統合」です。ここで初めて,「府県」の領域が「国郡」によって規定されました。ただしここでは,「国」と「郡」という区画が“ア・プリオリ”(初めら存在する)として扱われており,その領域を新たに定めたものではありません。
私が 国・郡 という区画にとって最も大きな画期点となったと考えているのは,
[58847] でも示唆した1878(明治11)年の「郡区町村編制法」です。
この時に「郡」という区画が“公式”の行政区画として位置づけられました。ただし,それは
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地方ヲ画シテ府県ノ下郡区町村トス(第1条)
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とあるように,「府県の下位区分」として。
一方,従来の「国」という区画に公式の行政区分としての地位は与えられませんでした。
恐らく,ここで「国」と「郡」の地位の逆転が生じたと私は考えています。
律令制以来,「郡」という区画は「国」という区画を“分かって”設置されるものでした。平安中期以降,律令制が形骸化した後も,この 国 と 郡 の関係は“暗黙の了解事項”であったと思います。徳川将軍が“臣下”である諸大名や旗本にその領知(領地)をあてがう時にも,そのような存在である国・郡,さらに「村」という区画があることを前提に,それらを単位として領知あてがいが行われたことでしょう。
ところが,郡区町村編制法によって「郡」は公式に位置づけられたけれども,「国」はそうではなかった。それでも現実の生活の中で,為政者も含めて人々の間に「国」という区画は“実用に供される地方区画”として“活きて”いた。
しかし“公式の行政区画”ではない「国」の領域を規定するのは何かというと,それは“公式の行政区画”として規定された「郡」である。今や,それぞれの「国」に属するはずの「郡」によって,逆にその「国」の領域が規定されるようになった。
たとえば,「甲斐国」の領域は,山梨県 に属する 西山梨・東山梨・東八代・西八代・南巨摩・中巨摩・北巨摩・南都留・北都留 の各郡の領域によって構成される。
あるいは,「下総国」の領域は,千葉県 に属する 千葉・東葛飾・南相馬・印旛・下埴生・香取・海上・匝瑳 の各郡,および 茨城県 に属する 結城・豊田・岡田・猿島・西葛飾・北相馬 の各郡によって構成される。
もはや,「国」という区画は“それ自体”で存在するものではなく,それを構成する「郡」によってその領域が定まる存在である…
そのように考えると,現在の区画に直結する「郡」(すでに多くの郡が消滅し,残るほとんどの郡も「市」に蚕食されてその領域を大幅に縮小していますが)が確立した「郡制」施行,つまり,最後に 岡山県 で郡の再編が行われ,郡制が施行されて「郡」という区画が確定した1900年まで「基準」点を下げていいのかもしれません。郡という区画が確定して,ここでようやく「国」の領域も確定した。ちょうど時代は「国」という区画が“現実の地方区画”としての生命を失い始めた時期であり,徐々に使用されなくなっていく。つまり,この頃から「国」の“化石化”が進行した。
一般に,下総国と常陸国の境界は 鬼怒川~小貝川~利根川 ラインとなっています(その後の流路変更によって完全に一致するわけではないのですが)。
現在,千葉県の旧香取郡(現・香取市および成田市)と茨城県の旧稲敷郡(現稲敷市)の境界は,おおよそその通り,“現在の”利根川となっています。
けれども,1899年までは両県の境界は現在の利根川よりももう少し北側にありました。つまり,現在の稲敷市(…のうちの旧河内町・東町)の一部は,もとは 千葉県香取郡,つまり「下総国」に属する村々でした。1899年に現在の利根川が両県境とされて,利根川以北の村々が 茨城県稲敷郡 に編入されたものです。稲敷郡は「常陸国」の所属ですね。
だからと言って,「稲敷市」が 下総・常陸 両国にまたがる,とは考える必要はないように思います。
この場合,利根川以北の村々が 千葉県香取郡 から 茨城県稲敷郡 に編入されたときに,下総国 と 常陸国 の国界も移動した,と考えた方がよい…
と,考えるわけです。
つまり私としては,郡区町村編制法 か,あるいは 郡制施行 のあたりまで,「基準」点を下げたいな,と思っているのです。
ところで,
明治4年11月20日に 摂津国住吉郡 が「大阪府」に,11月22日に 和泉国大鳥郡 が「堺県」に属するものとされました。
この時,堺市街と大和川の間にある以下の村々
中筋村,七道村,北庄村,西万屋新田村,遠里小野村
は,大阪府(摂津国住吉郡)と堺県(和泉国大鳥郡)のどちらに属していたのでしょうか。
なお,これらの村々は,1889年の町村制施行のための「明治の大合併」で 大鳥郡向井村 となりました。