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[91332] 2016年 9月 5日(月)15:36:18【1】hmt さん
小田原市・南足柄市の将来のあり方に関するアンケート
[91331] 山野さん
此処を見て変遷(予定)情報見るも・・(中略)
小田原市・南足柄市の将来のあり方に関するアンケート
既に結果が公表されてはいるものの、誰も書いてない様なので載せて置きます。(中略)
(合併等が必要:41.01%)
(どちらかと言えば:32.22%)

最初は、「誰も書いてない様なので」について。
変遷情報の詳細に未成立の合併情報が記載されているのですが、発見されていなかったようです。
これは誰でもやる見落としですが、順序として 一応 所在を明らかにしておきます。

【追記】山野さんにお詫び
[91333] グリグリさんの記事により、山野さん自身により既に削除されている記事[91331]は、アンケート結果の公表を記した「2016/8/16付変遷情報」の更新よりも先であったことを知りました。従って、上記の部分に記した「発見されていなかった」「見落とし」は事実でなかったようであり、これにより気分を害されたことをお詫びします。
更新履歴は見ていなかったので、[91331]と同日であることに気付きませんでした。>グリグリさん
【追記終】

市区町村変遷予定情報都道府県別一覧に次の項目あります。
18 神奈川県 (日付:なし)変更種別:未定 ○○市 小田原市, 南足柄市, 8町村を列挙 詳細

詳細の 2016/2/3 に「合併を含め広域連携の可能性を探る2市協議会を10月に設置する」記事があり、最後の 2016/8/16 にアンケート結果の公表が記録され、次のような表現になっています。
合併、中核市移行、広域行政について両市で検討協議することに賛成する意見が多数を占めた。

ここでは「賛成多数」と簡略化されています。詳しく知りたい読者のために、敢えてアンケート結果の一部を小田原市の資料に基づいて再録すると 次のようです。
-------------
問3 「合併」「中核市移行」「広域連携」について検討協議することについてどう思いますか
1 必要である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 41.01%
2 どちらかといえば必要である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 32.22%
3 どちらかといえば必要ない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5.30%
4 必要ない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4.99%
5 わからない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 14.97%
※ 未回答・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1.51%
-------------

情報は 詳しく伝えた方がよい というものではなく、読者の為を考え、簡略化して伝えることも必要です。
しかし、簡略化したために、誤解を与えることになっては困ります。

今回のアンケートについて言えば、そののポイントは「賛否の数字」よりも、市民が要否について回答した「設問3の対象」にありました。
[91331]で記された「合併等が必要:41.01%、どちらかと言えば:32.22%」という表現では、「等」を見落とした読者により、「合併賛成が7割もあったのか」と 誤解されるおそれがあります。

「合併」「中核市移行」「広域連携」について検討協議すること
という設問3の対象を安易に簡略化するのは危険です。

これから先、簡略化した情報提供をしていただく際の参考になればと考え、敢えて一筆を記しました。ご了承ください。
[91329] 2016年 9月 4日(日)16:33:32hmt さん
金山
[91324] 伊豆之国さん
[91327] Takashiさん

「金メダル」がランキング最高位を示す言葉であることは、この落書き帳の十番勝負などでも使われています。
金メダルの元祖?であるオリンピックの金メダルは、銀製メダルの表面に6g以上の金メッキしたものと定められているとか(規則70 付属細則2-2)。

それはさておき、金属としての素材価格は金と同水準の貴金属【白金やロジウム】もあるのに、それらを遥かに凌ぐ人気を集めているのは、金独特の「黄金色」と、金貨や工芸品として親しまれてきた?歴史の重さがあるためと思われます。

その金を産出する国と言えば…反射的に南アフリカと答えてしまうのは、10年前の知識でした。
金の国別産出量の推移を見たら、中国が躍進していることに驚きました。
世界全体の生産量も年間3000tで、白金の200t、ロジウムの30tとは桁違いの規模であり、旺盛な需要に応えています。

では、マルコポーロが 黄金の国ジパング と紹介した日本の現状は?
2013年の世界ランキングを見ると、金の生産量は世界40位の 7.4tでした。
生産量には廃棄物リサイクルや輸入鉱石からの生産量も含まれるでしょうから、国内金山からの産出量は これより少ないと思います。

その中で年間約7tの金を算出しているのが、鹿児島県伊佐郡菱刈町から 2008年に伊佐市になった菱刈鉱山です。規模は外国の鉱山よりも小さいながら、鉱石1tに平均40gの金を含む 高品位の鉱石を産出しています。

住友金属鉱山の特設ページには、日本の主要金山における産金量累計値(2015年3月末現在)がありました。
これによると、菱刈は長い歴史を持つ佐渡が閉山までに算出した金の2倍半以上を産出して稼働中。
3位の鴻之舞鉱山(北海道オホーツクの紋別市)も住友で、1955年の約3tが最高。
4位も鹿児島県で、三井串木野鉱山は、2009年に採掘再開とあり、また薩摩半島南端に近い知覧町【2007年南九州市】に赤石鉱山を操業し、金鉱石の採掘を行ない、国内の銅製錬所に販売しているそうです。

5位の鯛生(たいお)金山も、昭和初期の全盛期には東洋一の金産出量で、従業員3000人の大金山だったそうです。
1972年閉山となった鯛生金山跡は、佐渡鉱山と共に経済産業省による 近代化産業遺産群33 の一つ「19.金山」として認定されました。
鯛生金山の年間産金量は1938年に2.3tを記録し、佐渡を上回る日本一の金山になった記録もあります。リンクの 68/121コマ。

鯛生金山の跡は、地底博物館・鯛生金山 として公開されています。
その所在地は日田市中津江村[91229]。9/18にオフ会が開かれる杖立温泉から梅林湖・蜂の巣湖沿いに遡り、国道442号に出た地点から西に進んだ大分・福岡県境付近です。

ここで会うたも何かの縁 遊んでいってくんなまし
オフ会にクルマで参加する方の中で、翌日に 鯛生金山跡を地底探検してみる気になった方が出現するようならば、ぜひとも連れて行っていただきたい。そんな下心も含めての金山紹介でした。
[91310] 2016年 9月 1日(木)19:19:45hmt さん
固有名詞の表記
今年からマイナンバー制度の利用が始まっています。…と言っても、これまでのところ、生命保険会社から通知カードのコピー送付を依頼された程度だったのですが、最近 銀行取引に関連し、口座名義人、即ち「人名表記」の変更を求められる事態を経験しました。
これが、マイナンバー制度開始に伴うもののようなのです。

もちろん、こちらのサイトの対象である「地名表記」の問題ではないのですが、固有名詞としては同類なので、無関係とは言えないように思われたので、これを機会にご紹介しておきます。
全国銀行業界のページによると、ある種の取引を行う際に「マイナンバーの提示を伴った本人確認」が求められており、それに対応する趣旨のようです。

私の場合、もちろん偽名やニックネームで口座を作っているわけでなく 本名の口座なのですが、その中の1文字が戸籍に記載された旧字体でなく、新字体【当用漢字→常用漢字】で通帳に印字されていました。
何十年も前に開いた口座であり、当時の通帳に使われた字体の確認はしていませんが、銀行業務が電算化した初期には 使える漢字が限られており、戸籍【昔は手書き文字】と同じような旧字体が使えなかったので、世の中に広く使われている当用漢字体による印字が 自然に採用された可能性が大きいものと推察します。

その後、電算機の性能とそれが利用される社会環境は大きく変りました。住民基本台帳や戸籍簿の電算化だけでなく、国語政策にも変化がありました。そして訪れたのが、マイナンバー制度による一元管理【名寄せ】への動きです。

本人確認の際に提示するマイナンバー通知書には、旧字体【電算化により改製された戸籍簿に使われているもの】が印字されています。
銀行の口座には、常用漢字として通用している新字体が使われています。
旧字体の印字と新字体の印字は「同じ字」であるか否か? 
また、「文字の同一」と「人物の同一」との関係は? 最初に、ここらから考えます。

「同じ字であると認める」【A】ならば、本人確認は簡単でしょう。しかし「字体が違うから別の字である」【B】と考えると、少し慎重に進める必要があります。銀行協会のページにある“「通知カードおよび運転免許証などの本人確認書類」などを提示してください”という言葉は、別の字である可能性がある場合に対処する準備に役立つと受取ることができます。運転免許証の写真等を併用することにより、仮に【B】だとしても本人確認の目的を達することが期待されます。

少し戻りますが、「戸籍に使われた文字」が正しいとして、それは「手書き」から電算機による「印字体」に変更されているのですから、求められるのは「画像としての一致」ではなく、文字を認識する脳の働きをふまえた上で、手書き・印字の違い、旧字体・新字体などの書体を超越した「文字としての同一性」です。

「一点一画をも揺がせにせず」などという言葉があります。確かに「大」・「太」・「犬」のように一点の有無や位置で別の字になってしまう場合もあります。
しかし、大多数の漢字では人間の脳はもっと融通が効く、悪く言えば「いいかげん」なものです。
「森鴎外」をご存知でしょうか?
「鴎」という字の左側は本来「區」です。しかし簡略化された「区」が当用漢字に採用され、更に形声文字「駆」のパーツとしても使われました。「かもめ」の場合は当用漢字対象外なので公式の新字体は制定されていませんが、人々はこの考えに順応し、字書に存在しない「鴎」という字を自然に受け入れています。
【注意】法律上は人名漢字にもなっていませんから、出生届に「鴎」を使うことはできません。

要するに、構成要素(例:画数)に明らかな相違があっても、「同じ字」を表わす記号であることは否定されません。
特に当用漢字→常用漢字に制定されている新字体は、国家自らが約70年もにわたり「同じ字」として、使用することを奨励してきた実績があります。
そして、常用漢字のような公式の字体が制定されておらず、【B】の疑いがある場合でも、「運転免許証などの本人確認書類」の併用によって、本人確認の目的を達することが期待できます。

次に、国語政策における固有名詞の扱いを見ます。
1946/11/16の内閣告示で1850文字の当用漢字を制定した際の趣旨は「漢字の制限」が あまり無理なく行われる めやす であり、「使用上の注意」の冒頭に掲げられたのは、次の言葉でした。
この表の漢字で書きあらわせないことばは,別のことばにかえるか,または,かな書きにする。

しかし 固有名詞については、当用漢字表「まえがき」で “法規上その他に関係するところが大きいので、別に考えることとした”としており、「大阪」を「大坂」と書き換えることは実行されませんでした。

その反面、仙臺・横濱・金澤 などは、当用漢字採用時に「自動的に」当用漢字の簡易字体を使った 仙台・横浜・金沢 という表記に変りました[74082]
つまり、「同じ字」の簡易字体採用は、固有名詞であっても躊躇なく行なわれたと理解されます。
銀行の電算化に際して「同じ字」の新字体が使われたのは、社会通念上当然のことでもありますが、地名についてのこのような事例に照らしても、十分に理解できることです。

70年後の現在、当用漢字制度は常用漢字制度に変っています。
こちらでは「まえがき」改め「前書き」から「漢字の制限」という言葉がなくなり、字数も1945字(1981年)から2136文字(2010年)に増加しています。固有名詞については、更に人名用漢字も大幅に許容されており、国語行政は 70年前の漢字制限時代から 多様な表記を認める方向に変化したことを感じます。

旧字体の個人名に愛着を持つ人が多い中で、戸籍電算化を進めた背景にはそれなりの労苦もあったこととは思います。
それに基づいて実現したマイナンバー制度も、ある程度 多様な表記を個人に認めています。
だからといって、当用漢字→常用漢字制度が戦後の社会にもたらした大きな成果である「表記の平易化」・「表記の共通化」に反する結果に通じる動きには警戒を要すると考えています。

ここで、難しい漢字が使われた地名の代表格「鹽竈」について言及しておきます。
自治体名は1889年から平易な俗字を使った「塩竈」になっており、これが1941年の塩竈市に引き継がれています。そして、「竈」(かまど)とは意味が違う別の文字を使った「塩釜」さえも混用されているのが現実です。例:塩釜駅。
市役所自身は本来の「竈」を使いながらも、市民や他の官公庁が「塩釜」と表記した文書については、「塩竈」と解釈して受理するとしています。出典
自分の「こだわり」を持ちながらも、社会的に通用している異表記も認める。このような態度は参考になります。[74061]
「こだわり」の類例としては、わざわざ 2点しんにゅうの「蓮」に改称した蓮田市の例[77399][77400]も出ましたが、これはちょっと「やりすぎ」。

推測ですが、政府が求めているのは マイナンバーによる本人確認だけであって、字体の相違を厳密にチェックしろと言っているわけではないでしょう。制度の趣旨は 社会基盤としての共通番号であり、「名寄せ」による脱税防止は期待しているでしょうが、無用な負担を民間に負わせるものではない筈です。

今回の件で、銀行が字体の僅かな違いを気にして口座名義の変更を求めたのは、民間企業の過剰な自衛本能が働いたものであり、法的根拠に基づくものではないと推察しています。
私自身としては少し驚いたものの、手続自体 さほど面倒なこととは思っておらず、応じるつもりです。

この記事を書いているうちに感じたのは、本当に「モノ申すべき相手」は、マイナンバー制度でも銀行でもなく、字体の僅かな違いを拾い出して「別の字」と決め付けたがる社会傾向ではないかということです。

学校で経験した「書き取り」における厳密な採点から、字体の微差を許容しない習慣が身についた人々。
これに個人的な好みが結びつき、更には電算機技術の発達が多数の文字種を実現させ、それに別々のコードを付けてしまった。
こんな事情から無用な漢字が電算機で使えるようになり、検索洩れを引き起こす原因にもなっている。

世の中には「正解は一つだけ」ではなく、「どちらも正しい」ことが たくさんあると認識しましょう。
おおらかな態度で接しましょう。「いいかげん」とは「良い加減」、つまり「許容範囲が広い」ことです。
この記事で指摘した問題も、実は杞憂にすぎないものだった。そのようになる社会の実現を願っています。長文をお詫びします
[91296] 2016年 8月 30日(火)23:11:37【1】hmt さん
JR北海道 平成27年度 輸送密度
[91295] 山野さん
(廃止検討対象区間)輸送密度500人キロ未満の7線区

タビリスを見たら、下記のように記されていました。
2016年度決算【2015年度決算の誤記】で輸送密度500人未満の線区は、以下の9つです。【記載は8線区】

ご指摘のように記載洩れや誤記がありそうなので、JR北海道平成27年度決算(H28/5/9)を確認しました。

8/10コマに 利用状況のデータと 輸送密度別路線図とがありました。
これを見ると、運休している日高線が 全社平均を出している主表から除外されていますが、欄外に別記されているように、輸送密度 【注】185人/km/日です。
日高線を加えると 輸送密度500人未満の区間は 9つになります。
廃線が実質的に決った留萌~増毛と新夕張~夕張の2区間を除けば、廃止検討対象は7区間。

なお、この表には JR北海道全線区のデータが掲載されています。
全線区のデータ公表は、平成26年度からとのこと。

【注】輸送密度
1980年の国鉄再建法[85139]の時に、幹線と地方交通線とを仕分ける目的で使われた「モノサシ」では、輸送密度4000人/km/日が基準値として使われました。
JR北海道が 今後も単独で維持することを目指す(日経)という 2000人/km/日でさえ、その半分です。
状況は誠に厳しい と言わざるを得ません。
[91282] 2016年 8月 27日(土)18:43:27【1】hmt さん
米軍統治下の沖縄
[91263] グリグリさん
先週放送された NHKスペシャルを紹介していただきました。
米国統治下の沖縄に関係するこの件については、私もフォローしたいと思っているのですが、未知のことが多く、まとまった意見を記すことができません。

散発的な書き込みになってしまいますが、とりあえずのメモを記録に残しておきます。

終戦後の沖縄の市は、言わば難民キャンプと呼ばれるものでしたが、番組では収容所という表現で紹介していました。

「収容所」という表現は、琉球の風さんの[1188]を始めとして この落書き帳でも度々使われてきました。
地上戦により日本の行政機構は壊滅しており、居所を失った住民の収容施設は米軍の軍政下。
不完全ながら日本側が関与するようになったのは、戦火が収まり沖縄諮詢会が発足した後の地方行政緊急措置要綱。この要綱で「市」と呼ぶことになった住民収容所の自治組織は 1945年9月に発足。沖縄本島12市の他に 粟国,伊平屋,慶良間列島,久米島の各市があり 合計16市[1260][4680]

また、そこに収容された人々は、沖縄本島で難民となった人たちではなく、終戦前に日本本土に移動していた(疎開?徴用?)沖縄人10万人を沖縄に強制移動させた人々のことでした。

これは誤解部分があり、沖縄本島で難民となった人たちの収容所【16市】と別に、本土の「沖縄人10万人」を沖縄に強制移動させた際にできた収容所があったことを指しているように思われます。
1946年には日本から琉球への入域者が 10万人以上あったという統計があります。出典

これが日本から強制移動させられた沖縄人労働力ではないかと思い 少し調べてみたのですが、その実体解明に役立つ手がかりは得られませんでした。
ちょっと気になる存在が 後に「みなと村」[1219]になった地域です。これは那覇港の荷役労働関係かと思いますが、軍事基地関係作業で必要とされた労働力を集めた収容所地域が、他にもあったのではないかなどと想像してしまいます。

この番組に対する批評も出ています。

鈴木祐司さんの記事の中に、次の記載がありました。
“空白の1年”の1年後には決定的な出来事もあった。通称「沖縄メッセージ」と呼ばれる昭和天皇からマッカーサーに宛て送られた「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させることを依頼するメッセージ」である。

既に象徴の地位にあった天皇が このような意見を示したと伝える話を知り、驚きました。沖縄県公文書館, Sebald文書 , あの日の沖縄_1947/9/22

「メッセージ」に関連する矢吹晋さんの論評 ちきゅう座

テレビで報道された基地問題につながる沖縄の戦後問題。
ちょっと調べてみただけで、まだまだ知らないことが多いことを実感しました。
[91229] 2016年 8月 17日(水)18:59:19hmt さん
杖立への道
オフ会が開かれる杖立温泉に通じる道は 国道212号ですが、日田方面から向かう途中、熊本地震による通行不能箇所が生じています。
オフ会メーリングリストでは、既に 2016/7/2に かぱぷうさんの詳細な報告がありました。
福岡から日田・杖立温泉経由の黒川温泉行きの大型バス運行ルートが通行不能になり、熊本県小国町役場付近の「ゆうステーション」経由の迂回運転を余儀なくされている。
このことについては 現在も変らないのですが、乗用車の迂回ルートは、その後短縮されました。

現在の 国道212号迂回路図 には、日田IC~杖立温泉所要時間(乗用車)が1時間15分から45分へと30分短縮されたと記されています。
以前の乗用車迂回路は、杖立温泉東側の山中を広域農道経由熊本県に入るもので、小国町役場付近迄は南下しないものの、大型車迂回路に近いものでした。

もう少し詳しく記すと、日田市大山町汗入場(あせりば)地区の田北トンネル付近が9月末まで全面通行止めという状況は変わらぬものの、もう一つの規制区間である日田市天瀬町・下岩戸トンネル付近【杖立温泉のすぐ下流】は7月15日17時から片側交互通行可能になりました。これにより、乗用車は広域農道「スカイファームロードひた」(市道)と県道12号天瀬阿蘇線の一部を使って松原ダム付近の梅林湖畔に出て、開通区間の先にある杖立温泉に行くことが可能になりました。

余談ですが、梅林湖で杖立川と合流するのが津江川です。文字は違いますが、同じ「つえ」なのでしょう。
こちらの上流は下筌(しもうけ)ダムによる「蜂の巣湖」になっています。この名は 1959年ダム反対運動目的の監視小屋・「蜂の巣城」に由来しています。マクベスを戦国時代に翻案した黒澤映画は「蜘蛛巣城」。
「津江川」から思い出すのは2002年サッカーワールドカップでカメルーンのキャンプ地になった「中津江村」。落書き帳過去記事が多い有名村も日田市の一部になりました[21428]

それはさておき、大型車迂回路は、国道210号→大分県道12号→日田広域農道【スカイファームロード】→熊本県の小国広域農道→国道387号と結んだものです。

黒川温泉行き高速バスが停車する「ゆうステーション」があるのは、熊本県阿蘇郡小国町大字宮原(みやのはる)。1984年までは宮原線【久大線の支線】の終着駅がありました[90675]。東西に走る国道387号が 南北に走る国道212号と交差する少し東で、ここから212号を北上して県境に到達した地点が杖立温泉です。

宮原線は終着駅・肥後小国の先、どんな計画があったのか? 1922年の改正鉄道敷設法[79718]別表第113号
佐賀県佐賀ヨリ福岡県矢部川、熊本県隈府ヲ経テ肥後大津ニ至ル鉄道 及隈府ヨリ分岐シテ大分県森附近ニ至ル鉄道
最初の区間は佐賀線でした。矢部川=鹿児島線の瀬高【みやま市】から先を延長して豊肥線肥後大津を結ぶ線の途中、隈府【菊池市】から分岐して久大線豊後森付近の恵良に至る線の一部が宮原線だったのでした。
最後は、またも「杖立への道」と関係ない余談になってしまいました。
[91213] 2016年 8月 15日(月)12:39:47【3】hmt さん
海と島 (28)大きな無人島
[91212] 白桃さん
「面積1km2以上の無人島」ってあるのでしょうか?

過去記事[33529][85822]を参考に 上位と思われるものを列挙し、再検討してみました。
その結果によると、事情はそれぞれ異なるが、馬毛島や野崎島は 現在は再び有人島化したようです。

島名面積km2所在地コメント
渡島大島9.74北海道松前町[15328][23960]の29
馬毛島8.17鹿児島県西之表市島を手に入れた企業が有人島化 その狙いは?
兄島7.88東京都小笠原村世界遺産になる前は空港計画があった
大黒神島7.30広島県江田島市[29879][33494]黒い噂
野崎島7.11長崎県小値賀町[89994]他多数 現在は管理人が定住し宿泊できる有人島らしい
春国岱6   北海道根室市[85822]
屈斜路湖中島5.81北海道弟子屈町
枝手久島5.79鹿児島県宇検村奄美群島 開発計画
北硫黄島5.56東京都小笠原村[79266]
弟島5.20東京都小笠原村墓や小学校の門など定住遺跡あり
洞爺湖中島4.84北海道壮瞥町、洞爺湖町遊覧船で行ける
鳥島4.78東京都(市町村なし)[18943][22460]
南硫黄島3.54東京都小笠原村[74102]

なお、下記のようにまぎらわしい存在の島もあります。

硫黄島は 23.73km2もある大きな島で、戦前は1000人以上の人が暮らして賑わった島でしたが[56162]、現在は火山活動のために一般人が定住することはできません。
 # 火山と言えば、一時的な避難でしたが、三宅島 55.21km2も無人化した時がありました。
しかし、硫黄島には海上自衛隊員が常駐しています。つまり「住民がいない有人島」です。
南鳥島 1.52km2も 同様に海上自衛隊員が常駐しています。南鳥島には気象庁職員も常駐。

これに対して、「人がいる無人島」もあります。
広い意味では、住民基本台帳の住所を有する居住者も、国勢調査の常住者もいない島が「無人島」として扱われると思います。
しかし、居住者・常住者に限定して有人・無人を区別することにすると、「定住していない通勤者や旅行者」がいっぱい居るのに「無人島」という事例が たくさん出てしまいます。
その代表が「民間空港島」なのですが、その他の事例も含めて [86161]で例示しておきました。
[91185] 2016年 8月 11日(木)19:10:50hmt さん
国民の祝日「山の日」
[85642] ピーくん さん
平成28年から8月11日を「山の日」となります。
…というわけで、本日が記念すべき?第1回の「山の日」。

上高地で開かれた全国大会には 皇太子さまが 家族連れで出席されたとのことです。NHK News Web

20年前に国民の祝日になった「海の日」は、東北地方巡幸の明治天皇が海路で横浜に帰港した明治9年(1876)7月20日に因むもので、1941年制定の「海の記念日」からでも75年の歴史があります。

「山の日」制定の動きは 国会では 2013年からのようで、上記のように 2014年に早くも改正法成立。

全国大会が開かれた日本アルプスが 日本を代表する山であることに異論はありませんが、極論すれば山だらけの日本です。
…で、山地の割合が最大の都道府県はどこか? ちょっと気になりました。

都道府県データランンキング には まだ収録されていないようなので、日本統計年鑑を見たら、「都道府県,地形・傾斜度別面積)」という表がありました。

昭和57年の調査によるデータですが、そんなに変わるものではないので これでよいでしょう。
山地、丘陵地、台地、低地、内水域等の5種に分け、47都道府県ごとの面積がkm2単位で示されています。
この5分類の面積を合計した値を都道府県ごとの総面積と考え、これに対する比率を求めます。

ところが、「内水域等」に問題がありそうです。
北海道の 5,367km2には 北方領土 5033km2が未分類のまま含まれているので、実質 334km2。
そこで、北海道だけは 北方領土を計算から除外することにしました。

滋賀県や茨城県の「内水域等」面積が大きいのは当然ですが、県内の比率を求めると、なんと大阪府が17.9%で 滋賀県の14%を上回ります。東京都、長崎県、愛知県も茨城県の4.8%を上回ります。
離島や埋立地の扱いに問題があるのではと疑いましたが、よくわかりません。

このように未解明の点があるデータですが、本題の山地面積に関しては、おしなべて比率の大きいことでもあり、妥当な数字が出ているだろうと考え、以下のように「山地の多い県」ランキグングを作ってみました。

全国で山地比率が最大になった県は 鳥取県の 87.2% でした。
以下、2 高知県、3 山梨県、4 長野県、5 愛媛県、6 和歌山県、7 奈良県、8 徳島県、9 広島県、10大分県、11 岐阜県、12 群馬県、13 熊本県、14 福島県までが 75%以上。全国平均は 61%です。

上位の県の多くは、国民の祝日制定前から、県独自の「山の日」を作っていました。
こうち山の日【11月11日】、やまなし山の日【8月8日】、信州山の日、えひめ山の日【11月11日】、紀州山の日【11月】、奈良県山の日・川の日、ひろしま山の日、ぎふ山の日【8月8日】ぐんま山の日【国民の祝日制定後に廃止】

16位の静岡県は富士山の日、34位の香川県が かがわ山の日【11月11日】、41位の大阪府が おおさか山の日【11月】。
そして 47位の千葉県は山地の割合が飛び抜けて少ない 7.6%で、対象は丘陵地でしょうが 里山の日があります。

歴史的な日付に因むものではないので、山の形をした「八」や樹木を象った「11」を用いた日が好まれているようです。
[91167] 2016年 8月 8日(月)18:11:12【1】hmt さん
それは黒船から始まった (4)外国人居留地
[65167] Issieさん
【修学旅行の目的地としての】横浜が 中華街だけとは,大変さびしい。

横浜を訪れて学ぶべきことは多いわけですが、幕末の開港に始まった「外国人居留地」。
中華街を通じて「外国人居留地」が存在した過去を学ぶのも大切なので、このシリーズに取り上げます。

ご存知でない方も多いと思いますが、「租界」(そかい)という言葉がありました。大辞林の説明。
19世紀後半から解放前の中国の開港場で、外国人が行政権と警察権を握っていた地域。

現在の学校では どのように習っているか知りませんが、同じ19世紀後半(幕末)の開港から、明治の条約改正[54388][62517]までの間(1859~1899)、上海など中国の都市の「租界」と同様に「外国の領事裁判権を認めていた地域」が 日本にも ありました。それが「外国人居留地」です。
外国人居留地は、開港場「五港」である 横浜・神戸・長崎・箱館(箱館は有名無実、新潟には設けず)の他に、「開市」した東京(築地)・大阪(川口)にも存在しました。

横浜居留地を示しておきます。
明治30年の地図【クリックで拡大】を見ると、 外国人居留地には 官有地・民有地と異なる色分けがされており、特殊地帯であったことが明らかです。
山下居留地という文字付近の南京町【現在の中華街】に隣接した三角形の官有地にも注目してください。
現在の地図と照合すれば すぐにわかりますが、加賀町警察署[57730]です。

言うまでもなく清国は領事裁判権を持つ国ではありませんが、清国人も居留地の住民でした。居留地内に出入りする日本人もいました。領事裁判権は認めるとしても、外国人居留地は 当然 日本の警察権を行使する地域です。
加賀町警察署の位置は、このような複雑な状況に対応するものであったのでしょう。
多数の中国人が住むようになった事情は[65179]に記しました。南京町という呼び名は長い間使われてきましたが、戦後に犯罪多発地のイメージを一掃する目的もあり、横浜中華街として再生しました。

山下居留地の30ヶ町。[65183]では明治19年の資料に基づいて山下居留地の29町名を紹介しました。
横浜市中区史地区編 第3章山手・山下地区 の11/88コマによると、花園町を加えた30ヶ町は 明治12年1月に命名され、加賀町警察署の他に薩摩町バス停、電話線の支線名に現存しているそうです。

関内の街路は基本的に海岸線基準の碁盤目(並行と直交)ですが、中華街だけは 東西南北の正しい碁盤目なので話題になりました。下記 中国の学者の発言は [65181]にリンクされています。
中華街は斜めではない。斜めなのは周りのほうだ。

この向きは、開港のひろば99号 図2に示されているように、開港より前の嘉永4年の水田畦道に遡ることが確認されています。「横浜新田」の造成時からとすると文化年間(19世紀初期)でしょう。海岸線基準の「周りの道路」は 1858年以後。
文久2年(1862)に幕府の工事が行なわれ、水田は居留地に造成され、街路も整備されました。しかし実務(高低差や補償の処理)を考慮し、農地の形は 街路の向きとしてそのまま残されたようです。「風水に基づいて中国人がこの土地を造成した」という都市伝説は否定されるが、風水の観点から優れたこの地は中国人に好まれ、中華街になった。開港のひろば100号は、このように伝えています。[65180][65183]

話が江戸時代の横浜新田造成に及んだ機会に、横浜の土地造成に少し触れておきます。
横浜市中区史地区編 第1章素顔の中区 の13/49コマによる概況。
明暦2年-寛文7年(1656-1667) 吉田新田 約120ha 江戸の商人吉田勘兵衛(最初の名は野毛新田)
宝暦-天明年間(1751-1788)  隣接の西区の区域に尾張屋新田、宝暦新田、安永新田、藤江新田
天保4年-10年(1833-1839)   岡野新田、平沼新田
文化年間(1804-1818)     横浜新田
嘉永年間(1848-1853)     太田屋新田【現在の関内】 三河出身の商人太田屋徳九郎
明治初年(1868-1871)     野毛浦【現在の桜木町付近】

地図があった方がよいですね。
[65182] Issieさん
こちら は個人のページのようですが,横浜開港以前の地図(横浜村外六ヶ村之図)が掲載されています。
小さくて見えにくいけれど,「横浜新田」と書かれているところが,今の中華街ですね。

現在の地図とほぼ逆向きで、北北東にある海を下に描かれていますが、「横浜村外六ヶ村」を数えてみます。
半島状をなす「横浜村」の南に「横浜新田」。その右(北西)の「太田屋新田」は まだ水面状態。
図の中央部は左の中村川と右の大岡川との間に大きく描かれているのが「吉田新田」で、一部は派大岡川を隔てた太田屋新田と同様の水面状態です。
大岡川の左(西)には「太田村」があり、大岡川の河口・左岸には「野毛浦」があります。現在の桜木町付近。

これに、図の右側・緑色の野毛山のある「戸部村」と、中村川右岸沿いの「石川中村」とを加えると8ヶ村になり、「横浜村外六ヶ村」より多くなってしまいます。水面だけの太田屋新田はノーカウント?

この地図の出典は記されていないのですが、前記開港のひろば99号図2と似ており、『横浜村並近傍之図』(横浜市中央図書館)に基づいて模写したものではないかと推察します。
[91105] 2016年 8月 5日(金)18:16:42hmt さん
それは黒船から始まった (3)神奈川と横浜
ハリスによる日米修好通商条約の第3条には、ペリーの時に開いた下田・箱館以外に開く4港【神奈川・長崎・新潟・兵庫】とその期日が記されています。最初の開港場は神奈川と長崎で、期日は条約調印から約15ヶ月後の 1859年7月4日。期日は米国独立記念日でしたが、実際は最恵国条項にもとづき 7月1日に開港しました[54351]。安政6年6月2日は 旧暦の日付ですが、何故か6月2日が現在の横浜開港記念日に採用されています。

それよりも問題なのは、開港を約束した「神奈川」の解釈です。
オランダ・中国との限定貿易時代からの窓口・長崎は ともかく、江戸に近い東海道の宿場町である「神奈川」に外国の商人が来て 一般の日本人と接触する。それにより 問題が起きたらどうするのか?
 
日本側は トラブル回避のために、東海道筋から外れた横浜村を神奈川の一部であると解釈して、ここを開港地とすることを画策しました。しかし、ハリスら外国側は 長崎の出島貿易の再来になることを心配し、神奈川宿付近に領事館を設けてこの動きを牽制しました。参考

両者の駆け引きはありましたが、条約発効を前に幕府は横浜村での開港場建設を開始し、既成事実化しました。結局のところ、水深の深い横浜を貿易港とする利点に 外国側も納得し、横浜開港の運びとなりました[65179]

万延元年(1860)になると、幕府は中村川から海岸までを直結する長さ580間の堀川を開削[54352]。元町・中華街駅は、堀川の地下を横断しています。
これによって居留地は、北を海、西を大岡川末端部の内海、南西を派大岡川、南東を堀川に囲まれた「出島」状態になり、派大岡川の大岡川への合流点の南側にある吉田橋などには木戸門と見張番所が設けられました。
このような関門に囲まれた内側が「関内」、外側が「関外」です[54351]
条約には「居留地の周囲に門墻を設けず出入自在にすべし」とあります。番所は日本人用で、外国人については出入自在ということなのでしょう。

「神奈川県横浜市神奈川区」というように、地名としての神奈川と横浜とは入り乱れています。
これは元々は狭域地名[6474]だった両者が、時代の流れの中でそれぞれ広域地名化してしまったことに由来します。

最初に示すのは、明治7年に水路局が発行した 海図 YOKOHAMA BAYです。
図の下方に象の鼻を中心とした開港場・横浜の市街地が描かれています。街路は海岸線に従った約40度の斜め方向ですが、中華街だけはほぼ正しく東西南北を向いています。その左の白地には外国人居留地の文字もあります。『ふるあめりかに袖はぬらさじ』の遊郭[54351]は 現在の横浜公園付近にありました。

大岡川河口部の内海は既に埋め立てられ、そこに開業後間もない(初代)横浜駅があります。
現在の桜木町駅ですが、その西側には野毛山・掃部山が迫っています。掃部山の県立青少年センターには神奈川奉行所跡の碑があります。
この神奈川奉行所[54388]は 慶応4年3月19日に新政府軍に接収されて横浜裁判所[75497]になりましたが、翌月には神奈川裁判所と「神奈川」の名が復活しました。
3月に横浜裁判所を名乗りながら翌月には神奈川裁判所という朝令暮改ぶりから、“開港場は横浜”と認識していた日本の新政府が、前政権が締結した条約の手前、対外的には“ここは神奈川”で押し通さなければならないことに気付き、慌てて改名した事情を読み取ることができます。[20917]
慌ただしい改称はその後も続きましたが、神奈川府を経て明治元年9月21日 神奈川県 で落ち着きました。
「県庁は横浜にあるのに神奈川県」という ねじれ現象は現在まで続いています。

なお、初代の神奈川県庁舎は明治15年に焼失、2代目は明治末期に解体。「キングの塔」で有名な4代目庁舎は、関東大震災で倒壊した3代目庁舎の後に 1928年完成したもの。開港のひろば88号
知事が執務する現役の庁舎としては、1927年竣工の大阪府庁本館に次いで全国で2番目に古いものとか。なお、群馬県昭和庁舎[55438]も 1928年の建築で、分館として使用されているようです。

庁舎のことはさておき、県名の由来「神奈川」という地名は、海図の北の方に見えています。
江戸日本橋から 1品川・2川崎と上る東海道3番目の宿場町でした。
明治末期の地形図を見ると、右上に「かながは」駅が見えます。現在の横浜駅のすぐ近くで、少し前の1901年に橘樹郡神奈川町から横浜市に編入された後でした。

昔からの郡名を調べると、東海道筋の宿場は 2川崎・3神奈川・4保土ヶ谷と武蔵国橘樹郡が続いた後、5戸塚で相模国鎌倉郡に入ります。 久良岐郡横浜は明らかに陸路の本筋から外れています。
このような横浜の位置が、鉄道の時代になってから、スイッチバックやら直通線やらを必要とした原因になったのでした[49808]

地名として全国に知られるようになった村名「横浜」とは対照的に、郡名「久良岐」は忘れられた地名になっています。調べたら久良岐橋がありましたが、中村川の上を通る高速道路の橋のようです。新吉田川が大通公園になる前は「川の十字路」でした。

また話が逸れてしまいましたが、明治末期の地形図に戻ります。明治7年の海図から30年以上後なので、陸地化が進んでいますが、それでも現在の横浜駅の西側には大きな内海が残っていました。
現在の地名では大部分が西区で、帷子川に近い南側が南幸、北側が北幸。この付近は内海橋名も残っている かつての岡野新田でした。

大まかに言えば、東海道【赤線】と横浜道【緑線】とが昔の海岸沿いです。
神奈川駅の先、弧を描く埋立地を初代横浜駅目指して進む鉄路の西端付近に 萬里橋[79942] の文字が見えます。
横浜オフ会では横浜駅から2代目横浜駅へのルートとして 万里橋経由が予定されていましたが、本隊から遅れた私が実際に渡ったのは帷子川の河口の築地橋でした。

万里橋については [49808][82973]で Old Map Roomを引用して説明していました。それによると、明治24年の 1:20,000地形図 など各時代の地形図が掲載されていたのですが、現在では残念ながらアクセスすることができません。

それはさておき、幕府が横浜開港に伴って設置した役所の名が何故「神奈川奉行所」だったのか?
条約での約束「神奈川を開港する」と辻褄を合わせるためとしか考えられません。
神奈川/横浜と同じように「兵庫を開港する」と約束して開港した神戸とペアにしたシリーズを書いたのは 10年前でした。[54297][54430]


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