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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

地名における「上」と「下」

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記事数=32件/更新日:2005年4月4日/編集者:YSK

地名には、例えば京都市の「上京」「下京」のように、「上」と「下」のペアが多くありますが、これらはどのような基準から呼ばれるのでしょうか?また、地図などにおいては、「北が上」という傾向がみられますが、これはなぜなのでしょうか?

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[17468]2003年6月28日
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[17468] 2003年 6月 28日(土)13:52:37三丁目 さん
地名、疑問編
宗谷本線で、下士別駅が、士別駅よりも北にあります。上=北、が地名のつけ方として普通だと思っていましたから、なぜ下士別は士別よりも北なのに「下」なのだろう、と思いました。地図を見てもよくわからなかったのですが、土地の標高差で、下士別は士別よりも低いからかな?と思いました。我が地理アドバイザーに聞いたところ、川の下流だから「下」と付けられたのだろう、とのことでした。そういう意味では、私の推測は当たらざれども遠からずかな、と。同様な地名が中札内村にもあるよ、と教えてもらいました。もともとは、上札内が中札内よりも南にあるから変だな?と思ったから気づいたそうでして。

そうそう、こういうときは市区町村雑学(大中小上下の入った市)(大中小上下の入った町)(大中小上下の入った村)。ということで、自治体名で比べてみると、南北と上中下が逆転しているのは、ワールドカップで有名になった大分県の中津江村、と上津江村。ちょっとわかりにくかったので、宮崎出身の人に地図を見てもらったら、上津江村の方が川の上流にあたるようです。

京都市の上京区、中京区、下京区、と北から南へ、と思っていたので、意外な感じがしました。それとも、私が誤解していただけであって、上・下は、川の流れ=上流に「上」と付けられていることが、一般的なのでしょうか。

[17429]スナフキんさん
「地図は上が北」という概念を取り払って、自由な角度で地域を捉えることの予行演習とする意図があったらしい
が、気になるところではありますが。
[17469] 2003年 6月 28日(土)14:25:12【2】YSK[両毛人] さん
地名における「上」と「下」
[17468]三丁目さん
士別や上津江村などの事例は、まさに川の上流と下流という位置関係を示したものと思いますね。

また、京都の上京、中京、下京ですが・・・

#本「落書き帳」にお越しになるような方や、京都にかかわりのある方などからすれば極めて常識的なことかもしれませんが、これらは、それぞれ「かみぎょう」「なかぎょう」「しもぎょう」と読みます。アナウンサーさえ、中京区を「ちゅうきょうく」と読んでいたのを聞いたことがありますし、一般的には、このように正しく読める人は少ないのではとも思いますね・・・。

これは、天皇の御座所、すなわち平安京の大内裏のある北を「上」とした都の地域区分が基礎にあるのではないかと思います。

京都の中心部(洛中)を北と南に分けて、「上京」「下京」と呼称するようになったのは、15世紀、室町時代のころとされるようです。周知のとおり、京都は794年の「平安京遷都」により中国の長安を模した巨大な政治都市として成立し、それが都市京都のオリジンとなっているわけですが、当初は都の中心を南北に貫く大通りである「朱雀大路」を境に、東半分を左京、西半分を右京、という分け方が一般的であったようです(朱雀大路は、現在の千本通に比定できるようですね)。

この「右京」「左京」も、都の北端にあった大内裏の位置から、南に向かって都を見て、右、左、というふうに名づけられましたので、北が上の地図上では、右と左の位置関係が逆になっているわけですね。その感覚が、現在の京都市の行政区名(右京区と左京区)にも生きているわけです。

しかしながら、時代が下るにつれて、元来水はけが悪く、居住するには不便の多かった右京は次第に廃れ、京都の都市の中心は左京に移っていきます。その際に、当時都では広幅員の堂々たる大路であった二条通を境に、北と南で都を二分する考えが定着し、町方も独自に成長して、「上京」「下京」という2つの核を持った都市形態に変化することとなります。

ちなみに、「中京」は明治以降、近代都市としての「京都」が発足し、行政機構としての区制が敷かれたときになってはじめて区画された行政区域で、歴史は意外に浅いもののようです。

なお、その他の「上」「下」につきましては、鉄道の「上り」「下り」のように、より大きな都市に向かう方向を「上」、その反対を「下」とする区分法もありますよね。

ですので、わが国においては地名の命名感覚として、「北が上」という思想は第一義的なものではないように感じられますが、いかがでしょうか。
[17470] 2003年 6月 28日(土)14:38:22【1】深海魚[雑魚] さん
上流と下流
[17468] 三丁目さん
上・下は、川の流れ=上流に「上」と付けられていることが、一般的なのでしょうか。
私もその様に感じます。上野、下野の旧国名もそれに近い感覚に基く区分ではないでしょうか。

天塩川水系で見た場合、中川町は下川町より北側ながら下流域となりますね。上川町は塩狩峠を隔てた石狩川水系ゆえ、無関係と思います。我が地元の地名において 「上 (中) 下」 の組揃いといえば、水郡線の下菅谷、中菅谷、上菅谷および、下小川、上小川の各駅が挙げられます。何れも北側が上流なので判り易い構図ですね。(余談ながら、終着駅を共有する磐越東線には、小川郷駅や菅谷駅があります。) 上越線上牧駅南側の下流方向には、関越道の下牧 P.A.がありますね。

[17467] [17469] 両毛人さん
一方の富山県では、庄川流域の礪波地方において、広く栽培されているようです。
冠雪の立山連峰を背景に広がる チューリップ畑、という構図は長年の憧憬でした。これに北陸線 (願わくば ボンネット型の特急通過) が絡めば、最高ですね。ところで 「チューリップ」 を 「接吻唇」 と訳した知人は間違っているでしょうか? (笑)

地名の命名感覚として、「北が上」 という思想は第一義的なものではないように感じられます
御意。一方、「北上」 「南下」 なる一般名詞の存在から、温暖地を求める北半球共通の感覚の様なものがあるのかな、とも感じますね。
[17485] 2003年 6月 28日(土)17:47:01YSK[両毛人] さん
まとめてレス
まず、私は、「落書き帳」にてメールアドレスを公開いたしません。

最近の書き込み内容から類推して、私の現メールアドレスをご存知でおられる方のなかで、私に了承を得ないまま、私のメールアドレスを書き込まれた方がいらっしゃったようですが(事実誤認でしたら、申し訳ございません・・・)、私がメールアドレスを公開しないという方針をご理解いただき、どうかそのような行為は厳に自粛していただけますよう、切にお願い申し上げます。

なお、「両毛人のメールアドレスを書き込んでいいですか」なるご照会をいただいても、私は了承いたしません。よろしくお願いいたします。

ニックネームを「YSK」から「両毛人(りょうもうびと)」に変更した、最初の書き込みに限って、「両毛人改称記念」的な感覚で、メールアドレスを公開いたしました。またそれは同時に、この時(5月17日)既に公開したアドレスを5月末に失効させることを決めていたため、期間限定での公開でした。ご理解をお願いいただければと思います。

[17470]雑魚さん
上野、下野の旧国名もそれに近い感覚に基く区分ではないでしょうか。
いえ、これは東山道に沿って、京に近いほうを「上」遠いほうを「下」としたものだと思います。備前・備中・備後、越前・越中・越後などと同じ論理ですね。

冠雪の立山連峰を背景に広がる チューリップ畑、という構図は長年の憧憬でした。
そうですね。「憧憬でした」ということは、もう既にご指摘の構図をご覧になり、写真などに収めていらっしゃるのでしょうか?ホタルイカの旬の時期に、そういった風景を眺めに、富山に行きたいですね。そういえば、富山には「チューリップテレビ」なるテレビ局があるようです(TBS系列でしょうか)。

「北上」 「南下」 なる一般名詞の存在から、温暖地を求める北半球共通の感覚の様なものがあるのかな
これは、「地図は北上にしてつくる」という原則の中から派生した言葉であるように思います。地図がなぜ北を上にしてつくられようになったかということにつきましては、一般的な説として、方位磁針が北を指し、また方位を知るために古くから北極星が目標とされていたため、というものがあるようですが、定かではないようですね。
[17496] 2003年 6月 28日(土)21:39:03【1】Issie さん
Re:地名における「上」と「下」
[17468] 三丁目 さん
[17470] 雑魚 さん
[17469][17485] 両毛人 さん
ほか皆さん

基本的には皆さんの説明されているとおりでしょうね。

「自然な感覚」としては,まず
1)河川の上流下流 (かつて「オートボルタ」という国が存在しました。フランス語で「ボルタ川の上流」という意味です。現在は「ブルキナファソ」)。
次に,
2)都を基点とした上下ということになると思います。

一方、「北上」 「南下」 なる一般名詞の存在から、温暖地を求める北半球共通の感覚の様なものがあるのかな、とも感じますね。

こういう感覚,現在の私たちはアプリオリ(初めからあったよう)に思い込んでいますが,意外に新しいのではないか,と思います。

房総の場合,半島の南側が「上総」,北側が「下総」です。
これは,奈良期には東海道が相模国府(海老名,または大磯)を経た後,横須賀の走水から浦賀水道を渡って房総半島に上陸するルートを順路としていた名残です。
明治初期までは上総・下総の双方に「埴生(はぶ)郡」が存在しました。下総を管轄した印旛県と上総・安房を管轄した木更津県とが合体して千葉県が成立したとき,上総の埴生郡は「上埴生郡」,下総の埴生郡は「下埴生郡」となっています。それぞれ,1890年代の郡制施行に際しては,上埴生郡は長柄郡と統合されて「長生郡」に,下埴生郡は「印旛郡」に統合されています。

「北が上」というのが何を起源としているのか,私はよく知りません。
平城京(奈良)や平安京(京都)では確かに内裏が都の北端に置かれ,しかもそれぞれ大和盆地(奈良盆地)や京都盆地の北端に位置したせいで,地形的にも「北が高く,南が低い」という状況にあるのですが,これが「必然」とは必ずしも言えないと思います。

平城京に先立って建設された「藤原京」の場合,確かに「北に山を背負い,…」と続く中国式都城の基本設計を踏襲しているのですが,明日香そのものが大和盆地の南に位置するために,こともあろうに都の北端に置かれた内裏に向かって都(みやこ)中の汚水が集まってきてしまい,その点では大失敗だったと言われます。
しかし,モデルとなった長安(シーアン:西安)は,山を南に,北にウェイ川を臨む位置にあるのですよね。もしかしたら,北の方が低かったのでは?

1869年に明治天皇が東京へ「2度目の旅」に発って以来,ほんの一瞬を除いて天皇は東京へ旅行へ行ったまま8世紀末以来の「平安京」にほとんど帰ってこない(睦仁=明治天皇はお墓を伏見に作ったので,死去してから京都に帰ってきました。嘉仁=大正天皇と裕仁=昭和天皇は即位の式典をしに京都にやってきましたが,お墓は東京にあります。現天皇の明仁氏は即位の式典さえも東京でやってしまいました)のですが,それまでの東海道では「東下/西上」というのが当然の表現でしたよね。
今の東海道本線では「西下/東上」となってますけどね。
[17554] 2003年 6月 29日(日)23:57:47ありがたき さん
日本で一番高いところにある駅はど~こだ?
ここちょっとご無沙汰しておりました。
私事なのですが、人事異動がらみで、内示の内容にショックだったり、お別れ会が連日連夜だったり、今日まで目を通すのが精一杯の状態でしたが、心身共に今夜は元気ですw

さて、タイトルですが、真面目な答えを期待すると「野辺山駅」、なぞなぞだと「東京駅」といった感じになるんでしょうか。
ちょっと前の「地名の上下」の話題を読んでいてふと思いついただけのことなのですが。で、その地名の上下について。

[17469]両毛人 さん
[17496]Issie さん
[17515]三丁目 さん

上総・下総の話は、この上下の話を職場でしたときにも、出ました。結論としては、上=北ではないのでしょうね。京都の影響?地図の影響?それとも他に何かあるのでしょうかねぇ。

全国統一見解ではないと思われますが、一例を。東京においては、ほぼ「上≒西」となります。ただし、上野・下野や上総・下総などの例を見ると「上≠西」ですね。これは、お察しの通り五街道をはじめとする街道を基準とした、あるいは海路も含めての「上=京都に近い場所」だからなのです。なので、関東全般では「上≒西」とは必ずしも言い切れませんね。
蛇足ながら、近代地名では、地名の「上下」を清算すべく位置関係を表す場合は「東西南北」の方角を使うようになったそうです。しかし、それも微妙で、なんらかの事情により集落ごと移転し、旧地区に「本」や「元」が使われたりするので、「北○○」の北に「本○○」があったりとかの例もあったり、清算しきれていない場所もままあるみたいですね。
[17578] 2003年 6月 30日(月)15:40:08U+3002 さん
地図の向き
[17485]両毛人 さん
地図がなぜ北を上にしてつくられようになったかということにつきましては、一般的な説として、方位磁針が北を指し、また方位を知るために古くから北極星が目標とされていたため、というものがある

だとすると、かりに文明が南で生まれたとしても、必ずしも南が上ということにはならないですね。
南極星はないですし、すると、方位磁石が南を指す(正確にいえば、南を指すがわに印をつける)ともかぎらなそうです。

[17496]Issie さん
「北が上」というのが何を起源としているのか,私はよく知りません。
平城京(奈良)や平安京(京都)では確かに内裏が都の北端に置かれ,しかもそれぞれ大和盆地(奈良盆地)や京都盆地の北端に位置したせいで,地形的にも「北が高く,南が低い」という状況にあるのですが,これが「必然」とは必ずしも言えないと思います。

「天使は南面す」と言われますから、古来は「北が上」というのは自然な感覚だったと思います。
十二支の第1支「子」は真北で、五行説でも、第1行「木」は北です。
ただし、東アジアの地図は「北が上」ではなく、皇帝に見えるまま、つまり「南が上(というか遠く)」です。
私見ですが、現在の「北が上」という感覚は、古代の「北が上」とは断絶しており、ヨーロッパ起源だと思います。

以下、思いつくままに書き連ねます。

北を上とするのは、プトレマイオス『世界地理書』が起源と言われています。
プトレマイオスは円錐図法を採用したため、北を上にすると地図が正立三角形(△)になり、レイアウト上つごうがよかっらからだそうな。

ただ、「北が上」が主になるのは、ルネサンス以降です。
中世ヨーロッパでは、エデン(もちろん架空)の方角である東が上でした。
同時代のイスラムでは、南が上でした(理由は不明)。

天文学では、自然の法則として、北半球なら「北が上」です。
簡単な例では、(北緯35°なら)北極星の高度は35°、天の南極の高度は-35°です。
天の北極周辺の狭い領域では上下が逆転することもありますが、それ以外では常に「北が上」です。
ただ、これが地図の向きの確立と関係しているかどうかはわかりません。

天体望遠鏡では、視野が180°回転して見えます。
そのため、天体図(天体の地図)は、南が上に書かれることがあります。
近年になって、惑星探査機の写真をもとに地図が描かれるようになったからか、「南が上」の天体図は減りました。

神戸では、北を「上」、南を「下」と言うそうです。
標高/河流からでしょうね。
ただ、これは六甲山以北にまで適用されるのか、気になるところです。

オーストラリアの「南が上」地図は、観光客向けのみやげものらしいです。
[17587] 2003年 6月 30日(月)19:40:43【1】三丁目 さん
地名の「上下」、今一度
拙稿[17468]については、元々、我が地理アドバイザーとしていたものですから、こんな感じだったよ、と、ご報告したところ、以下の疑問点が、自分の中で、解決できないそうです。

「果たして,上流=上(下流=下)に当たらない地名が,何処かにあるのか?ですね。まさに字名になるのでしょうが。」

私たちでは、ちょっと思いつかなかった(見つけられなかった)ものですから、どなたか、実際にある地名の例を、ご存知の方がいらっしゃれば、ご教示頂けると幸いです。あるいは、それはありえないのでは、でも結構です。「上流=上(下流=下)ではない地名が,何処かにあるのか、それともやはり、ないのか」、を知りたいものですから。
[17590] 2003年 6月 30日(月)20:25:56U+3002 さん
Re: 地名の「上下」、今一度
[17587]三丁目 さん
「果たして,上流=上(下流=下)に当たらない地名が,何処かにあるのか?ですね。まさに字名になるのでしょうが。」

字名でなくてもいいなら、

[17554]ありがたき さん
上野・下野
上総・下総
+
相模(むさかみ)・武蔵(むさしも)

がありますけどね。

おそらく、字レベルでもあるのではないでしょうか。
[17598] 2003年 6月 30日(月)21:46:37Issie さん
Re^2:地名の「上下」、今一度
[17587] 三丁目 さん
「果たして,上流=上(下流=下)に当たらない地名が,何処かにあるのか?ですね。まさに字名になるのでしょうが。」

これはむしろ逆に,小さな地名であるほどより「具体的」なものになりますから,現地の河川の上下関係を反映したものになるのではないかと思います。それよりも大きな地名の方が,より「抽象的」に都との位置関係を反映した呼称をとる傾向があるのではないでしょうか。

すでに挙げられている「上総・下総」「上(毛)野・下(毛)野」などペアーもそうであるし,越後内部の地域区分である「上越・中越・下越」というのもそうでしょう。
岩手県の「上閉伊郡・下閉伊郡」や愛媛県の「上浮穴郡・下浮名郡」というのも河川の流れとは別の区分であるように思います(下浮名郡は,のちに伊予郡に統合されました)。
熊本県の「上益城郡・下益城郡」のペアーは,どちらと見るか,微妙なものがありますね。
[18417] 2003年 7月 19日(土)20:13:10【1】太白 さん
上総と下総
[17485] 両毛人 さん
京に近いほうを「上」遠いほうを「下」とした

[17496] Issie さん
房総の場合,半島の南側が「上総」,北側が「下総」です。
これは,奈良期には東海道が相模国府(海老名,または大磯)を経た後,横須賀の走水から浦賀水道を渡って房総半島に上陸するルートを順路としていた名残です。

 私も、この話を聞いたことがあります。確かに、京都から見ると、「相模→(海路)→安房→上総→下総」という順になりますね。源頼朝も石橋山(?)で挙兵して敗れたあとこのルートを経たように記憶しています。
 しかし、更級日記によれば、菅原孝標女は、「あずまの国のはて」である上総国府(現在の市原市でしょうか。市原駅前には更級通りがあります)から京都に帰る際、まず陸路で下総へ向かうルートを通ったようです。平安当時の国司が使った「公式な(?)ルート」が東京湾の陸路経由だったとなると、京都→上総→下総というルートが「順路」だったとは思えないのですが。
 それとも、「方違え」か何かで菅原孝標女は「変則的なルート」を採ったのかな…。

 思いつきですが、房総方面に向かうには2つのルートが存在し、国名を決める際に、「総」の中でより中心であった地域が「上総」になった…とか。違いますかね…。
[18420] 2003年 7月 19日(土)21:26:18【2】Issie さん
Re:上総と下総
[18417] 太白 さん
しかし、更級日記によれば、菅原孝標女は、「あずまの国のはて」である上総国府(現在の市原市でしょうか。市原駅前には更級通りがあります)から京都に帰る際、まず陸路で下総へ向かうルートを通ったようです。

「上総」「下総」が設置された奈良時代初めの「東海道」のルートは 相模→上総→下総→常陸 というものでした。
ところが後に(「武蔵」が「東山道」から「東海道」に編成替えになった771[宝亀2]年ごろ?),このルートは変更されて 相模→武蔵→下総→常陸 というのが東海道の“本線”になりました。下総国府の置かれた現在の市川市からは“支線”が分岐し,現市原市に置かれた上総国府,三芳村のあたりに置かれた安房国府を結んでいました。
平安時代の「更級日記」の頃,上総から都へ帰るには 上総→下総→武蔵→… というのが「順路」だったのですね。

後で気づいたのですが,瀬戸内海ルート西端の防長2州には

 上関(周防・熊毛郡)→ 中関(周防・佐波郡)→下関(長門・豊浦郡)

というセットがありましたね。
海路に川上も川下もあるはずがありませんから,これなど「都」から距離による典型例といえるでしょう。

もう1度,「上総・下総」に戻って…

律令国郡編成に先立つ“国造制”の時代,のちの上総・下総のそれぞれに「海上(うなかみ)国造」が配置されていました。それぞれを区別するために,上総の方を「上海上(かみつうなかみ)国造」,下総の方は「下海上(しもつうなかみ)国造」と呼ぶこともあったようです。
律令国郡の下では「上総」「下総」に分かれたので,ともに「海上郡」となりました。下総の海上郡は現存しますが,上総の海上郡は近世初めに「市原郡」に統合されました。

両総には「埴生(はぶ)郡」という郡もダブって存在していました。
1873(明治6)年に上総・安房を管轄していた「木更津県」と下総を管轄していた「印旛県」が統合されて「千葉県」が新設されたとき,上総の埴生郡は「上埴生郡」,下総の埴生郡は「下埴生郡」となって区別することになりました。
明治半ばの郡制施行の際,「上埴生郡」は「長柄(ながら)郡」と統合されて「長生郡」となり,「下埴生郡」は「印旛郡」に編入されて,ともに消滅しています。
もし,近世初めに上総の「海上郡」が統合されずに明治まで残っていたら,千葉県発足時点で埴生郡同様に「上海上郡」「下海上郡」となっていたかもしれません。

※そうそう,
市原駅前には更級通りがあります

「五井駅」ですね。
郡制下で「市原郡役所」が置かれ,合併前の「市原町」の中心だったのは1つ千葉寄りの「八幡」(駅名は「八幡宿」)だったのですが,いつの間にか地位が逆転していますねぇ…。
[18502] 2003年 7月 21日(月)12:48:24【1】ゆう さん
上下地名ふたたび
[18422]グリグリさん
ご対応感謝します。
福岡市との位置関係を全く意識しなかったかどうかは判断が付かない
そうですね。市名は駅名由来としても、その駅名はといえば、ありがたきさんが[18311]がご紹介くださったサイトでも
最初は「福岡」が有力でしたが、九州にあるため断念。
と、福岡市を意識したことが伺えます。
#でも、福岡駅は富山県だったりして

九州福岡との位置関係を意識したとすると、[18247]のはじめの疑問に戻ります。
上福岡市の「上」はどのような感覚で付けられたものでしょうね。
河川の上流ということはあり得ないでしょうし、両市は京都を挟んで相対しています。
よって、新しい「上」の使い方ということになります。

「北」という意味かといえば、確かに上福岡市のほうが高緯度にありますが、感覚的には「東」のほうが自然です。それとも「東」=「上」という用法もあるのでしょうか。
もしかして(京都ではなく)東京に近いという意味でしょうか。
上福岡の場合、これまでの議論から単純な話ではないことが明らかなのですが、ほかに「東京を基点とした上下」の地名をご存知の方があれば、ご教示ください。
[18505] 2003年 7月 21日(月)14:11:39【2】ありがたき さん
武蔵国における地名の上下の慣習
[18502]ゆう さん

「北」という意味かといえば、確かに上福岡市のほうが高緯度にありますが、感覚的には「東」のほうが自然です。それとも「東」=「上」という用法もあるのでしょうか。
もしかして(京都ではなく)東京に近いという意味でしょうか。

上福岡市のサイト内にて「かみふくおか百科」という今昔を紹介したところがありまして、こんな一文を発見しました。

=====以下引用=====

明治に入ると、22年に川崎、駒林、中福岡、福岡、福岡新田の5か村が合併して福岡村が誕生した。このとき、村の戸数は321戸、人口は1,858人だった。

大正期から昭和期にかけては、村はじまって以来の激動期で、大正3年(1914)に東武東上線の池袋~川越間が完成し、上福岡駅が開設された。

=====引用終わり=====

東武東上線の駅名決定にあたって、九州の福岡を意識して「福岡」を断念したのは[18311]にて紹介したとおりですね。ここからは推測になりますが、ではどうしましょう?となったときに、無印「福岡」を使うことに関してはは九州の「福岡」に配慮したものの、「上福岡」の名称については、福岡村の中での位置関係にて決定したというものではないかと。つまり、江戸時代より江戸近辺の国名、郡名、集落名にて幅広く使われた位置関係の呼称である「上下」を使用したのではないでしょうか。

[17554]にて触れたのですが、もう少し掘り下げてみます。
都市史研究家の鈴木理生氏は東京の地名に関する著書を多数だしているのですが、その中の「東京の地名がわかる事典」によると、江戸時代、武蔵国近隣の国、郡名、五街道をはじめ主要街道沿いの集落名において、地形の高低ではなく京都との遠近にて「上下」で区別する位置記号が使われていたと説明されています。
ですので、江戸城の西側に行くと、江戸城に近い方が「下」になるのですね。上下で対の地名は東京近辺では今でも数多く残っていますね。いくつか例を挙げると、北沢、板橋、井草、高井戸、連雀などなど、いずれも京都側が「上」です。この例に倣えば、上福岡駅の位置は旧福岡村の中では中心よりおおよそ南西に外れたところに位置していますので、福岡村の「上手」になる訳ですね。
ちなみに、東京近辺において位置関係記号を「上下」から「東西南北」としたのは昭和に入ってからだそうでして、それまでの「上下」が方角に対応したものではない(上=北とか東とかではない)ことがわかります。

ほかに「東京を基点とした上下」の地名をご存知の方があれば、ご教示ください。

地名ではないのですが、東京基準での上下といえば、鉄道や道路の方向に使われているのを思い出されますね。わたしは東京基準の上下地名は思いあたりませんでした。思うに、近年地名に付与する位置記号で「上下」をつけようとすると、「優劣」ともとれそうですし、故意に避けられるのではないでしょうか。

と、ここまで、文献やホームページの記述を参考にはしていますが、かなりがわたしの推測するところです。残念ながら「間違いなくこれだ!」というものが探しきれませんでした。ゆうさん、ひとまずここらへんまでで参考になったでしょうか?さらなる情報があれば皆さんにもフォロー願いたいところであります。

参考:上福岡市ホームページ内「かみふくおか今昔」URL: http://www.city.kamifukuoka.saitama.jp/hyakka/konjyaku/history.html
[18506] 2003年 7月 21日(月)16:49:53ゆう さん
地名の上下みたび
[18505]ありがたきさん
詳細なフォローありがとうございます。
ありがたきさんは「推測にすぎない」とおっしゃっていますが、説得力もあり信憑性が高いのではないかと思っています。

ところで、私の目下の疑問は少し違うところにありまして、[18422]グリグリさんの
結果的に方角で区別する
の辺りです。

――広島町が市に移行する際に北広島市と名前を変え、それが結果的に広島市の「北」にあります――
これに異論はありません。

――福岡町が市に移行する際に上福岡市と名前を変え、それが結果的に福岡市の「上」にあります――
少し前の私であれば、深く考えないで「なるほど、そうですね」と思ったでしょう。実際、更新前の http://uub.jp/zat/takada.html にも疑問をもったことはありませんでした。

しかしながら、 http://uub.jp/arc/arc355.html の一連の議論を読んでしまった今、どうも落ち着かないのです。
自分はなぜこれまで疑問を持たなかったのか、ということもあわせて考えたのが[18502]です。

・上福岡のほうが僅かながら高緯度にあるためか?
・「上」=「東」という用法があるのか?
・東京を基点とした上下という用法があるのか?

これらが思い当たりましたが、どうも説得力がないのですね。
[18517] 2003年 7月 22日(火)00:14:22Issie さん
上・下赤塚
[18510] ありがたき さん
2つの宿場の位置関係では、上板橋が北西、下板橋が南東寄りですが、京都に向かうために街道を進むと、日本橋を経由するので、南東側の下板橋の方が京都に近いことになりますね。

あれっ?
私は,日本橋を渡ってわざわざ東海道に入るルートは考えなかったなぁ。
素直に中山道(中仙道)を京都に向かえば 日本橋→下板橋→上板橋→蕨→… となって,当然に「上板橋」の方が京都に近いはずなのですが。

東京府北豊島郡赤塚村になり、6ヵ村の各名称は大字として継承されたそうです。

現在では「上赤塚」「下赤塚」という大字は消滅していますが,おおよそ「板橋区赤塚」の西半分が「上赤塚」,東半分が「下赤塚」に相当するようです。
明治の大合併の際,「赤塚村」の隣には「上練馬村」「下練馬村」が編成されています。下練馬村が「練馬町」となった後,両町村もまた東京市に編入され,板橋区を経て練馬区の一部となっていますが,こちらも「上練馬」が西,「下練馬」が東,となっています。
以前の書き込みにあったように,甲州街道の「高井戸」「布田」などもそうですね。

「石神井」「北沢」の場合には川がからむので,どちらとは言えないのですが。
[19527] 2003年 9月 2日(火)14:36:03hmt さん
「上」と「下」の地名
落書き帳アーカイブズ等に示された事例を興味深く拝見しました。
私は上下の意味付けは命名者の立場で異なるものと考え、次のようにまとめてみました。

先ず、支配者の内裏・都を基準にする上下。まさに「お上」の感覚で名付けた官製地名ですね。
[17469]両毛人さんの上京・下京、[17485]上野・下野(東山道)
[17496]Issieさんの上総・下総(武蔵国編入前の東海道)、[18420]上関・中関・下関(瀬戸内海)
[17590]U+3002さん 相模・武蔵(知りませんでした)
いずれも[17599]Issieさんご指摘の通り広域地名です。

大部分を占める地元密着型の「上下地名」の代表は、発端となった[17468]三丁目さんや [17496]Issieさんのご意見にあった河川の上流・下流と考えます。
[18505]ありがたきさん、[18517]Issieさんにより多数の例が挙げられた武蔵野台地は西高東低であり、おおまかな理屈では川の流れだけでなく、土地の高さでも、京都の方角でも 西=上 を説明できます。
しかしこれらの例における「上」と「下」の高低差は極めて僅かで、川の流れにより結果的に土地の高低がわかる程度でしょう。まして京都の方角など、東国の人々にとっては考慮外のことと思われます。
神田川水系の高井戸・井草、石神井川の石神井・板橋、仙川の連雀と流れの方向は西→東から少し北、南に振れていますが、いずれの例も川の流れの向きと上→下の向きは一致します。北沢川緑道という南東に流れた川の遺跡も日大の近くにあるようです。
河川による「上下地名」は、川越付近の地名でも実証できます。
ここには川越から南東に流れる荒川・新河岸川と、それと直角に南西から流れ込む入間川・不老川(「としとらずがわ」だったのですが、役人が「ふろうがわ」にしてしまったようです。)があります。前者の流域には老袋・古谷・新河岸・福岡・南畑等、後者の流域には奥富・寺山・赤坂・松原等の「上下地名」があり、いずれも川の流れと上下の向きが一致することから、単純な西=上でなく、流れに沿った上下であることが明白です。

ところがこの付近で、上記の規則性に反する実例を見つけてしまいました。
それは上富・中富・下富で、東から西へと並んでいます。見た目には平らですが厳密には西に向って僅かに高くなる筈です。川はありません。
実は、この地は柳沢吉保が川越藩主の時代に開拓させた三富新田であり、ローカルながら“官製地名”なのです。
http://www.pref.saitama.jp/A02/BH00/santome/santome-history.htm
「上」は川越の方角でなく、江戸の方角です。柳沢吉保は将軍綱吉の側近で六義園に住んでいたから、江戸基点も当然かもしれません。江戸時代の支配者にとっては、基点は京都でなかったわけです。
[18502]ゆうさん 東京を基点にした上下の例。[18506] 上=東という用法 にも該当。
「いざ鎌倉」の時代にできた鎌倉基点の官製上下地名もあるかもしれませんね。

地元密着型の「上下地名」に戻ると、第2類型は [18537] Issieさんが示された垂直方向の上下地名です。
例示(上田名・下大島・上原・下原)から、「うえ(うわ)・した」と読む場合は、上下揃っていない場合も含めてこれに該当する地名と思われます。上野原は駅のある桂川の谷から数十m高い段丘上に市街があり、代々木上原も本来は駅から坂を登った台地上です。
駅で思い出したが、「上野」と「下谷」は熟語の上下ペアすね。「上野の山」の別名は「しのぶがおか」(鶯谷駅近くに忍岡中学校)で、しのばずのいけ=不忍池とペア。これは上下から脱線。

[18247]ゆうさん を発端とする上福岡市の「上」問題については、市名の直接のベースになった上福岡駅が、[18524]スナフキんさん指摘のように、中福岡・下福岡のある低地との間に明らかな段差のある台地上にあることから、第2類型の垂直方向上下地名という解釈の余地はあります。
しかし、「うえ」と読まないこと、江戸時代や地形図に「上福岡」の使用例がある([19388] hmt参照)福岡村本村地区が新河岸川の上流に位置することから、第1類型である河川説の方がより妥当と思われます。

アーカイブズ未収録ですが、上諏訪・下諏訪も奥の深そうな地名です。
[18142][18143]kenさん指摘の通り京都基点の街道沿いとは逆で、諏訪大社の上社・下社起源が妥当と思われます。
では、なぜ上社が「上」か? 地図で見ると諏訪湖南岸の上社は、北岸の下社よりやや低い標高のようですから垂直説も否定。河川も無関係。残るは[18158]じゃごたろさんの 本家(本宮)=「上」 説ですか。
この本家説は福岡村本村=上福岡にも使えると言い出すと、また議論再燃になりますね。
親戚に山際(地名)の「かみ」という家があり、隣家は本家なのに「しも」と呼ばれていました。本家よりも河川の論理が優先された例です。
[26344] 2004年 3月 18日(木)21:41:34hmt さん
神様の恋の通い路
地名における「上」と「下」について[19527]で まとめたことがあります。
「お上」の王城の地(原則として京都だが江戸の例もある)を基準として上下を決めた官製地名と地形にもとづく上下地名。
地形型は川の上流(かみ)・下流(しも)が大部分だが、段丘地形では上段・下段のペア地名もあり、この場合は「うえ(うわ)」・「した」と発音されます。「上野・下谷」のように単純な上下の字の入れ替えではないペアもあります。

このようにして大部分の上下地名を解明できた中で残ってしまったのが上諏訪と下諏訪。
諏訪大社の上社・下社に由来するとしても、神社の上下はどこから?
じゃごたろ さん[18158][25716] は 上社=本家 説の後で「諏訪湖の上流側(上川のある側)に上社がある」という発言もされておりますが、「諏訪湖の上流」とは何でしょうか?

諏訪湖には上諏訪から下諏訪に向う水流があるとは思えないし…
と考えたあげく、思いついたのが御神渡(おみわたり)の走る向きです。
「御神渡」は 諏訪湖の結氷が気温変化による収縮・膨張による変化を繰り返した結果、歪に耐えきれなくなった上社側の起点で氷が両側から押されてせり上がるように砕けはじめ、この破壊現象が亀裂・氷の山脈として大音響と共に次々に伝播し、下社側の終点に向って走るとされています。
最近は暖冬の影響で発生は稀になり、昨年観測された御神渡は 5年ぶりだったそうです。

御神渡は上社の男神(建御名方命)が、下社の女神(八坂刀売命)に会いに行く恋の通い路と言われています。
御神渡注進式の神事が行なわれる上川口付近は上社本宮の波除鳥居から下社春宮への直線上にあるようです。

懸案もこれにて一件落着…というわけで、勇んで報告しようとしたら、[18142]kenさん・[18145]kentanさんにより、早々とキーワードが書き込まれていました。
諏訪大社の神事に関係あります?
御神渡りとか関係有りますでしょうか?
[26381] 2004年 3月 19日(金)19:53:06hmt さん
つしまじまにつしまし
対馬島に対馬市ができて過去帳に入った長崎県上県郡と下県郡ですが、その上下関係はいかがなものでしょうか。
朝鮮半島により近い、いわば日本の外側が上県郡というのに違和感がありませんか?
「長崎県の地名」(平凡社2001)は、大宰府からの距離からみた場合 上下が逆のように思われるが、大宰府が置かれる以前から上県・下県の称があり、上県から日本海航路で上京する方が下県から瀬戸内海航路で上京するよりも近かったので、都に近いほうが上県、遠い方が下県とされたと説明しています。
対馬上島・下島についての言及ですが、[18748]なきらさんも
小さい島が上島、京都に近いですね。
うーん。交通体系が違う昔の名前だから上県が都に近いというわけか。
…でも隠岐の場合は京都に近いほうが道後ですね。これはどういうこと?

それにしても昔の人は上下や前後で区別するのを好んだようです。今は東西南北が流行ですが。

それはさておき、タイトルに使った「対馬島」にも違和感がありませんか?
「対馬島」は離島振興法で使われている「指定地域名」かつ「島名」です。
http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/pdf/ichiran1603.pdf
「シマダス」も離島振興センターの本ですからこの名を使っているのですが、屋上屋を重ねた名前という感じです(漢字では重なっていないのに)。
落書き帳の過去ログを検索してもヒットしないところをみると、一般に使われていない「行政地名」のようですね。
国土地理院は「対馬」です。
国土交通省の中なのに、役所の部門が変わると 耳慣れない新しい「行政地名」を作り出す というのでは国民が混乱します。
[26852] 2004年 4月 3日(土)00:00:52Issie さん
諏訪の上下
[26841] でリンクしちゃった御柱祭りの日程を見ていて「あれっ?」と思ったこと。

上諏訪は下社の側なのですね。
諏訪市全体が上社側かと思っていました。
“上”諏訪は上社,“下”諏訪は下社か,と…。

こんな区割りになっているのですね。

<上社> 富士見町,原村,茅野市,諏訪市(中洲・湖南・豊田・四賀)
<下社> 諏訪市(上諏訪),下諏訪町,岡谷市

こういう組み合わせでの合併というのは,なかったのでしょうかね。
[30154] 2004年 7月 5日(月)16:56:27hmt さん
対馬 「上島」・「下島」の謎
[30005]Issieさん
よく書き間違えがちな「対島」なら「2つの島」という意味がありそうな気もしますが,「対馬」には“2つ”という意味はどこにも全くないように感じるところですけど,いかがなものでしょう。

「対馬」という地名はいわゆる“魏志倭人伝”の「始度一海、千餘里至對馬國」で使われ、わが国の正史でも「ツシマ」にあてる字として採用され、今年3月発足の「対馬市」に至るまで“正式の表記”とされています。しかし、對海國・對馬國とする三国志異本もあり、隋書の「都斯麻」、古事記の「津島」など他の表記もあります。
要は、「ツシマ」という地名に後からあてた漢字表記はいろいろあり、「対島」が“正式の表記”でないからと言って、すべて排斥されるべきものではないと考えます。もちろん“確信犯による異表記”と“対馬の誤記”との両方が存在しており、時代や書類の種類によっても判別することは困難かもしれません。

「対島」が「2つの島」か否かは、みかけの漢字よりも「ツシマ」と発音する地名の由来であると思います。「津島」=「船の着く島」説(本居宣長、[18618]U+3002さん)が有力ですが、浅茅湾を間に抱えた上県と下県は、律令時代より前から「ペア」の存在でした。
17世紀に大船越瀬戸、日露戦争前に万関瀬戸が開削される前の対馬は、幾何学的には「1つの島」だでした。しかし、国道382号で縦断できる現在と異なり、浅茅湾を船で連絡していた時代には「南北1ツイをなす2つのシマ」との認識もあったと考えます。
「信州」と同様の呼び方「対州」は、「ペアになっている国」という意味にもとれる表現です。特に「壱州」の隣にあるので。
当地は対州馬の産地だった頃もありましたが、魏志倭人伝の時代には「馬」はおらず、「対馬」は当て字でしょう。
「馬韓に対面する島」説もありましたが、対岸はむしろ辰韓。
韓国の学者によるtu-sem(二島)説もあります。(韓国からは2島に見える。)また、対馬は対島の蔑称であるという説もあるようです。 http://www.dcn.ne.jp/~kozoku/Johuku-anngoh.html
このように諸説紛々ですが「ツイをなすシマ」説は捨て難く、[30000]では“少し怪しい数字島群地名”に拾い上げておきました。

「対馬」の意味もさることながら、近年まで使われていた「上島」・「下島」の名称も謎に満ちています。

[18748]なきらさん
帝国書院1949年発行の「The New SCHOOL ATLAS」…下島(対馬)435…上島(対馬)247 …(単位km2 出典1948理科年表)…
1960年ころまでの地図帳には、上・下島の表示があったような気がします。小さい島が上島、京都に近いですね。
「復刻版地図帳」1934年版、1950年版共に厳原のある南側の島(小さい島)に「上島」、北側の大きい島に「下島」と記されており、1973年版になると地図からは上島・下島の名称が消えています。
吉田東伍:大日本地名辞書(初版1901)の記載は次のとおりです。
 上島(かみのしま):対馬の南島にして即下県郡なり。…
 下(しも)島:対馬の北島にして即上県郡併に下県郡仁位郷の地なり。…

上島が下県郡、下島の大部分が上県郡と逆転している!!
まあ、これらの記載から、20世紀前半を含むある時代には、南が上島、北が下島だったことがわかります。
朝鮮半島により近い北の島、いわば日本の外側の下島には、今年の2月まで上県郡上県町や上県郡上対馬町がありました。ここが「上」であるという理由付けとして、大宰府以前には、上県から日本海航路で上京する方近かったという説 を紹介しました[26381]。「上島」・「下島」は交通体系が変った後の命名なので、上下関係が郡の場合とは逆転したのでしょうか。

「上島・下島」と「下県・上県」の逆転に加えて、更に不思議なことがあります。
今度は 昭和13年文部省検定済・朝鮮総督府検定済「改訂新選詳圖・帝国之部」[22569]を開いてみました。この地図帳は前記「復刻版地図帳」1934年版の少し後の版で、ほとんど同じ内容です。ところがこの地図帳ではなんと北側の大きい島が「上島」に改訂され、上下関係が郡と一致しているではありませんか!!
それが戦後(1949、1950)の地図になると再逆転しているのですから理解に苦しみます。

次に、付録の「おもな島の面積」を見ます。1949年版で 下島(対馬)435km2、上島(対馬)247km2。
ところが、1973年版では、対馬(下県郡)435km2、対馬(上県郡)247km2。「上島・下島」が地図の注記から消えたのに合わせて島名は対馬になりましたが、“2つ”の島を郡で区別しています。面積の小さい方が上県郡となっている間違いのまま、昭和46年4月10日文部省検定済。
地図帳のデータは前年の理科年表を引用していますが、更に遡ると国土地理院のデータで、現在は696km2の“1つ”の島になっています。地図帳によるとどうやら先に島の名称の統合があり、その後1970年代に面積の統合があったようです。

対馬では、元禄以降は郡の境界が島の境界と一致しなくなりました。上県郡(最終的には3町)はすべて下島にあったが、下県郡は上島の厳原町・美津島町と下島の南部にある豊玉町で構成されていました。(美津島町の一部や付属島の帰属に目をつむって単純化した記述です。)
[30191] 2004年 7月 6日(火)06:54:58KMKZ さん
上下逆転、上下分割
[30154]hmt さん
「上島」・「下島」は交通体系が変った後の命名なので、上下関係が郡の場合とは逆転したのでしょうか。

上下逆転といえば、関東では房総半島の奥にあるのが上総で、手前が下総ですね。古代の東海道は、三浦半島から海路で房総半島に抜けるルートだったので房総半島の奥の方が当時の都に近く、上だったわけです。[22929]
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が三浦半島から房総半島に船で渡ろうとして、暴風雨にあい、遭難しそうになった時に妻である弟橘比売(オトタチバナヒメ)が自ら身を投げて嵐を鎮めたという日本神話は、都から房総半島への古代ルートが海路だったことを反映しているのでしょう。

当時は利根川・荒川が合流して流れる大乱流地帯であった現在の東京東部の低地の河口付近に古代の技術では陸路を確保できなかったのでしょうか?
やがて、奈良時代には、現在の東京を経由する東海道の陸路が開かれ、上総・下総の上下関係が逆転してしまいます。
同時に武蔵国は東山道から東海道に所属が変更になり、武蔵国内でも上下関係が逆転したことになります。
上総・上総・武蔵で奈良時代以前の地名について考える時は、上下逆転を念頭におく必要があるかと思います。

武蔵国の最北端、現在の埼玉県上里町付近にあった賀美郡は、東山道では最も都に近いから上で、上を好字2字で賀美と表記したのでした。

埼玉の語源の通説、「都から見て多摩の先にあるから先多摩」は逆で「都から見て多摩の前にあるから前(さき)多摩」だと思ったのも、埼玉が万葉集にも登場する奈良時代以前からある地名だからです。[28467]

さて、上下といえば、国を分割する場合、上下や前後、あるいは前中後に分けますが、上下に分けるのは関東に2例(毛野->上毛野・下毛野->上野・下野、総->上総・下総)あるだけですね。
この違いはどこにあるのでしょう?分割された時期の違いで、上下に分ける方が古いのでしょうか?それとも関東の特殊事情があるのでしょうか?
[33439] 2004年 9月 26日(日)16:35:04hmt さん
上島諸島があるのに 下島諸島がない
[33425]mikiさん
愛媛県岩城村ですが、早々と10/1からの新住所(上島町)にしています。
読みは 上島(かみじま) ですね。

というわけで、「島群」コレクション の上島諸島の読みも「かみじま」ではないでしょうか。ご検討願います。

「上島」と言えば、最も有名なのは 天草上島。大崎上島もあります。最近は使われなくなっていますが、かつては「対馬上島」もありました。対馬における上下逆転の謎[30154]は、アーカイブズ 地名における「上」と「下」 に収録していただいています。

天草・大崎・対馬 いずれも上下のペアが揃っているのですが、「上島諸島」があるのに「下島諸島」がないのが気になります。
現在は弓削島・生名島・岩城島などの島々を「上島諸島」としているようですが、例えば角川日本地名大辞典の「弓削島」の記事には “越智諸島中の島” と説明されており、近年までは 大三島・伯方島・大島 という愛媛県越智郡に属する他の島々と共に 「越智諸島」を形成していたようです。
ところが、「瀬戸内しまなみ海道」が逐次開通してゆくうちに、陸続きになって開発の進んだ島々と、離島状態で残された島々との間に格差が生じ、前者を主とする「越智諸島」と、本島も離島である「上島諸島」とに分離したのではないかと想像します。
今度発足する上島町は、この上島諸島を構成する3町村の他に、離島度?が更に大きい魚島村(魚島諸島)を含んでいます。過去ログを見ると、広島県因島市への越県合併構想[2884] 夜鳴き寿司屋さん もあったのですね。

それはさておき、「上島」の由来は?
角川日本地名大辞典の発行当時は、上記のように越智諸島の一部だったので、現在の上島諸島の項目はまだありません。
しかし、「芸予諸島」の記事を見たら、 “古代に当諸島を上島諸島とし、防予諸島付近を下島諸島として四国を統括する伊予総領の支配化に置き…” とありました。
なるほど、昔の広域地名が最近になって、狭い範囲として復活した ということのようです。

これで、上島諸島があるのに、現在は下島諸島がないという疑問も解決。
[36757] 2005年 1月 14日(金)21:42:34【6】じゃごたろ さん
上諏訪
似たような話題を何度も書き込んで恐縮ですが、「御神渡(おみわたり)」を調べている間に「上諏訪」に関する情報も集まりましたので、その情報を自分なりにまとめてみました。

古くは「下諏訪」は「しものすわ」と呼ばれ、下社のある諏訪湖北岸一帯を指す地名であり、「上諏訪」は「かみのすわ」と呼ばれ、上社のある諏訪湖南岸、特に上社のある神宮寺周辺を指す地名であったそうです。その後、下社の門前町が中仙道の宿場として「下諏訪宿」となり、その周辺が特に「下諏訪」と呼ばれるようになります。そのため現在の「下諏訪」と下社のある位置は一致します。一方、高島城の城下町が甲州街道の宿場として「上諏訪宿」となりましたが、これは神宮寺周辺とは一致しません。現在の「上諏訪」とはこの「上諏訪宿」のおかれた高島城や上諏訪駅周辺を指す地名となりました。

さてここで問題なのは「上諏訪宿」です。はからずもIssieさんが昨年[26852]で、

上諏訪は下社の側なのですね。
<上社> 富士見町,原村,茅野市,諏訪市(中洲・湖南・豊田・四賀)
<下社> 諏訪市(上諏訪),下諏訪町,岡谷市

と仰っているように現在の「上諏訪」は下社、つまり「しものすわ」の領域にあたります。どういうことでしょう。

現・諏訪市は、まず昭和16年に上諏訪町、四賀村、豊田村が合併して旧・諏訪市となり、さらに昭和30年に中洲村、湖南村と合併して現在に至ります(参考:IssieさんのHP)。御柱祭の諏訪市の区分けは、この諏訪市を構成した昔の村単位であることがわかります。

ではこの上諏訪町をさらに細かく見てみると、明治7年に大和村、下桑原村、小和田村が合併して上諏訪村となったものが、のちに町制を施行したものであることがわかります。現在「小和田(こわた)」は高島城の東側に地名として残っているように、小和田村は「上諏訪宿」の存在する村です。その北隣が大和村、南隣が下桑原村です。(実はこの小和田そのものが「御神渡」と非常に関係が深いのですが、それは別途ということで)

ではこの「上諏訪宿」のある小和田村は「かみのすわ」と「しものすわ」のどちらだったのでしょうか。

もし小和田村が「かみのすわ」であったとすると、その南隣の下桑原村も「かみのすわ」と言えます。では「かみのすわ」の小和田村と下桑原村が大和村と合併した際を考えると、その合併でできた上諏訪村が「かみのすわ」ではなく「しものすわ」に組み込まれるということは不自然であり、まず考えられません。つまり少なくとも小和田村と大和村は「しものすわ」であったと考えるのが自然です。

ということは、「上諏訪宿」とは下社の領域「しものすわ」にありながら「上諏訪」の名を与えられたということになるのです。どういうことでしょうか。

高島城が築城されたのは比較的新しく、江戸幕府が開府する直前の1598年に日根野織部正高吉が設計し、完成したものです。この高島城下が城下町のとなるのはその後であり、江戸時代になって甲州街道が整備され「上諏訪宿」となるわけです。もしかしたら湯治場としてそれ以前から発展していたのかもしれませんが、高島城下が「上諏訪」と呼ばれるようになったのは、この「上諏訪宿」以来ではないかと思います。

つまりこういう事が考えられます。現在の「下諏訪」という地名は「下諏訪宿」を経由して直接的に下社に由来するものです。しかし現在の「上諏訪」という地名は直接的に上社から由来するものではなく、「下諏訪」よりも「かみのすわ」に近い方、もしくは「下諏訪」よりも江戸に近い方という意味合いで、高島城下に割り当てられた地名という意味合いが強いのではないでしょうか。ただし「下諏訪」が由来する「しものすわ」が、「かみのすわ」があって初めて成り立つものであり、「上諏訪」が「かみのすわ」とは間接的に由来するということは否定しませんが。

皆さんはどうお感じになりましたか。

さてここで、根本的な問題が残っています。「かみのすわ」は上社に由来し、「しものすわ」は下社に由来するとすると、そもそも上社、下社の「上」「下」はどうして決められたか、ということです。それと関連があるのが「御神渡」ではないかと思います。

何度もここで書き込んでいますが、昔の諏訪湖はいまよりも大きかったと言われています。諏訪湖周辺の地図を見ながら、想像を豊かにして以下をお読みください。

出典がどこだかわからなくなってしまいましたが、江戸時代には諏訪地方(高島藩)の石高を上げるために釜口(天竜川の注ぎ口)を削って、諏訪湖の水位を2m程度下げて陸地を増やしたため、諏訪湖の面積が半分ほどになったということらしいです。諏訪湖の岡谷側は、岡谷IC付近を扇の要とする扇状地形であり、意外と傾斜があります。そのため水位が2m上がっててもそれ程面積は増えません。つまり、水位を下げた際に陸地となったのは諏訪湖の南東の諏訪市側ということになります。

では現在の諏訪湖の面積を二倍にしたらどうなるでしょうか。おおよそ現在の諏訪IC付近まで湖であったと容易に想像できます。それ以前の時代にはもっと広かったでしょう。そうすると、諏訪湖の北端にちょうど下社が位置し、南端に上社が位置するように見えませんか。

そこで「御神渡」です。この「御神渡」は太古から発生する自然現象であり、諏訪神社の歴史以前から諏訪の地に住む人々に知られたものであることは確かでしょう。そのような人々が、一夜にして現れる(といわれる)「御神渡」という自然現象を目の当たりにして、「神様が馬に乗って通った跡」とか「竜神の現れ」と思うのは当然のことと思います。

諏訪湖には竜神伝説があります。大きく蛇行する「御神渡」がこの竜神伝説の由来となったと思われます。地誌によると、上社の祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)は諏訪の地に入った後に諏訪湖の竜神を討伐したとあるようですし、天竜川の名前も諏訪湖の竜神に由来するという説もあります。ちなみに、太古の諏訪湖は釜無川に注いでいたものが、八ヶ岳の噴火によりその流路を遮られ、釜口で決壊して流れ出したのが天竜川であるとも言われています。それが元は「天流川」と呼ばれていたのが竜神伝説と重なり「天竜川」になったと。

話は「御神渡」に戻しますが、太古の人々がその様な自然現象に畏怖心を抱き、その神を祀り、鎮めようとするのは自然な流れです。そして「御神渡」が現れ達する諏訪湖の北岸と南岸にそれぞれお社を建てて祀ったのが現在の諏訪大社の始まりではないのでしょうか。「御神渡」の神事では南北方向に「一之御神渡」「ニ之御神渡」の二本が現れますが、上社には前宮・本宮、下社には春宮・秋宮のそれぞれニ社づつあるのは偶然の一致でしょうか。

男神の祀られる上社と、女神の祀られる下社を結ぶように「御神渡」が現れる、と言うととても神秘的に感じられますが、その逆に「御神渡」の現れる両岸にお社を建てたと考えれば必然的なものとなります。これは記紀の時代以前の話であり、諏訪大社がいつから存在するか不明な、日本で最も古い神社の一つとされるのもそのためでしょう。その後、大和勢力に国譲りをした出雲勢力の伝説をはじめとした様々な伝説が混交して、現在の諏訪大社が成り立っていったのではないでしょうか。

さて「上社」と「下社」。「御神渡」が「神が通った跡」だとすると、どちらからどちらへ通って行ったかは気になるところです。そしてその道筋で、神様が降り立った方が「上」であり、神様が上陸した方が「下」であるとするのも当然のことでしょう。

残念ながら私はこの重要な部分に到達しておりません。敢えて言うならば、太陽の昇る南側から神様が降り立ったと考えるとか、「御神渡」の割れ目からその方向を南から北へと判断したのではないか、ということです(実際に私は御神渡を見たことがないので何とも言えませんが)。そして最初は区別のなかった社が、「御神渡」の「上」「下」に連携するように、「上社」「下社」とそれぞれ呼ばれる様になっていったのではないかと思っています。

長々と書き込んだわりには尻切れトンボ的な書き込みになってしまいましたが、現在の私が考えられる内容は以上です。いかがだったでしょうか。最後の「上」「下」に関してはもっと情報を集めてみたいと思います。

そうそう、あと調査の発端となった「御神渡」に関しては別途書き込みをしたいと思います。
[39273] 2005年 4月 2日(土)04:47:09ken さん
まだまだ「上福岡」
[39241] hmt さん
鉄道院線との同名駅回避は、決して“過剰防衛の産物”とは言えないと思います。

なるほど、お説ごもっとも。

ですが、
「下板橋」駅を頭に入れておいてください。
もちろん、山手線(当時)にあった先輩の駅名「板橋」との同名回避。所在地の東京府北豊島郡板橋町大字下板橋は、石神井川の上流にある上板橋(1914年には上板橋駅もできました)に対応する地名です。
の下板橋は、石神井川の上流下流では関係なく、京都基点の上下ですよね?
明治22年直前の下板橋「宿」は、「中仙道」のいわゆる、普通の板橋宿、今で言う中宿界隈を指し、一方、上板橋「宿」は、現在、上板橋小学校の名前として痕跡をとどめていますが、最寄駅は中板橋の、現弥生町界隈の川越街道の方の「板橋宿」、を指しておりますので。

この界隈、川も皆、東流していますから、必然的に同じになるのですが、上赤塚村、下赤塚村、上練馬村、下練馬村、上土支田村、下土支田村、などなど、皆、西側あるものが、「上」ですよね。
これらは、京都への、「上下」ですよね。

いずれにしても、福岡村に開設された、東上鉄道の駅が、福岡村内では、「上」側に位置していたことは確かですね。
[39287] 2005年 4月 2日(土)18:39:52hmt さん
まだまだ「下板橋」
[39273]kenさん
下板橋は、石神井川の上流下流では関係なく、京都基点の上下ですよね?

通称・下板橋宿が中山道の「板橋宿」であり、「上板橋宿」は現在の板橋区弥生町付近にあった川越街道の宿場であることはご指摘の通りです。
しかし、このことが どうして石神井川の上流下流ではなく、京都基点の上下である とする根拠になるのか理解できません。

現在は欄干の色だけ木に似せたコンクリートの橋ですが、「距日本橋二里二十五町三十三間」という標柱が建っている旧中山道に架かる「板橋」は、上板橋宿の旧川越街道に架かる「下頭橋」よりも石神井川の下流にあります。
板橋宿自体は、江戸に近い側から平尾宿・中宿・上宿に分れていました。
中山道は川の流れと直交しており、「板橋」を渡った先の「上宿」が、京都基点の「上」であることはわかります。なにしろ「京都に行くための」街道施設そのものですから。

しかし、川越街道は名前の通り「江戸と川越とを結ぶための」街道です。中山道の脇往還としての利用法があったことは否定しませんが、本来は「江戸から川越へ下る」街道です。
それにもかかわらず、中山道の平尾宿、現在の埼玉りそな銀行のところで旧中山道から分岐し、四ツ又商店街、東上線大山駅と経由した昔の川越街道が「下頭橋」付近に設けた宿場の名が「上板橋宿」であるのは、川越街道が整備される前から、自然地形(川の流れ)に従った「上板橋」という地名が存在していたからに他なりません。

川の上下でない「江戸中心の上下地名」もありますが、例外的な存在と言えるでしょう。
このようなローカルな“官製地名”の例は、三富新田[7212]で東から西へと並ぶ「上富・中富・下富」[19527]です。

この界隈、川も皆、東流していますから、必然的に同じになるのですが、上赤塚村、下赤塚村、上練馬村、下練馬村、上土支田村、下土支田村、などなど、皆、西側あるものが、「上」ですよね。

北東に流れる白子川沿い上土支田・下土支田の位置関係に注目すれば、単純に「西が上」ではなく、「上流が上」であることがわかります。
上土支田(大泉学園駅付近)は、下土支田(上練馬村を経て練馬区土支田)の南西にあり、中山道経由で上京するとしたら、「京都から遠い側」になります。京都までの里程を考えれば、両者の差は誤差範囲内ですが(笑)。
このような考察からも、単純な「京都に近い西」=「上」という説は、その土地から遊離した机上論と思われます。

土支田から数km北に目を転じれば、荒川沿いに上内間木・下内間木(朝霞市)があります。この付近では荒川がほぼ南流しており、上流の「上内間木」は北にあります。
[19527]では、仙川の連雀、入間川の老袋・古谷・新河岸・福岡・南畑、不老川の奥富・寺山・赤坂・松原等の例を挙げて、単純な西=上でなく、流れに沿った上下であることを示しています。

「中仙道」

「五幾七道之中に東山道、山陰道、山陽道いづれも山の道をセンとよみ申候。東山道の内の中筋の道に候故に、古来より中山道と申事に候」(正徳六年四月触書)
とありますから、「ナカセンドウ」は「中山道」と書くのが正しいようです。
「只今迄は仙の字書候得ども、向後山之字書可申事。」(駅肝録)のように、慣用されていた「中仙道」に対して、本当は「中山道」なんだよと注意する人は昔からいました(笑)。好みで、あえて「中仙道」を使うのだと言われれば、それまでですが。
[39305] 2005年 4月 3日(日)00:44:52【3】今川焼 さん
川の流れに由来しない「上」「下」地名について
[39300] ken さん
全国バラバラっト見てみると、上下が対になっている地名は、必ず、上の方が標高が高い方にありますね。
いえいえ、必ずしもそうとばかりは言えないようです。

「上福岡」はじめ地名につく「上」「下」のお話興味深く拝見しています。
また、[39303] 両毛人 さんがご紹介のようにアーカイブズ地名における「上」と「下」としてもまとめられています。

さて、その中で地名につく「上」「下」は、主に
[17496] Issie さんが
1)河川の上流下流
2)都を基点とした上下
と、分類されており、 2)は、上野・下野や天草上島・下島のような広域地名に多いという印象がありましたが、
[17469] 両毛人 さんが
なお、その他の「上」「下」につきましては、鉄道の「上り」「下り」のように、より大きな都市に向かう方向を「上」、その反対を「下」とする区分法もありますよね。
と、書いておられる第3のケース、それも旧村名や大字名といったローカルな地名にあることに最近気がつきました。

たもっちさんのHPの「京都府の変遷」の中の、「1955年1月1日以前」の丹後半島に、上宇川村・下宇川村が海岸沿いに並ぶ形でありました。
それではと、むじながいりさんの「つかんぼやと」の方を拝見すると、「石川県(能登)→1954年10月1日以前」の能登半島西岸に上甘田村・中甘田村・下甘田村がありました。こちらの方は川の流れとはむしろ逆で、一番山側にあるのが下甘田村となっています。

改めて現在の字名でもそういうケースがあるのではないかと思い、地図で各地の海岸沿いを探してみると結構各地に散在しているようです。
静岡県熱海市上多賀と下多賀
●やや離れていますが、高知県大方町上川口高知県土佐清水市下川口
●「上」と片方は何もつかないペアですが、愛知県美浜町上野間愛知県美浜町野間
また湖岸沿いに並ぶケースとして、
茨城県旧上大津村と旧下大津村(それぞれ小学校名が存続)
茨城県稲敷市上馬渡と下馬渡などがあります。
最後の霞ヶ浦沿岸の「上・下馬渡」ですが、地図で見ると上馬渡の方が湖岸に近いようで川の流れとは逆転しているように見えておもしろいですね。(実際は昔は馬渡地区とその北東側の浮島地区とは水面で隔てられていて「上・下馬渡」は、どちらも並んで霞ヶ浦に面していたんだと思いますが)

[17587] 三丁目 さん
「果たして,上流=上(下流=下)に当たらない地名が,何処かにあるのか?ですね。まさに字名になるのでしょうが。」
私たちでは、ちょっと思いつかなかった(見つけられなかった)ものですから、どなたか、実際にある地名の例を、ご存知の方がいらっしゃれば、ご教示頂けると幸いです。
ご覧になってますか~~!。


それともうひとつ別件で、こちらは広域的な地名で神奈川県の足柄上郡・足柄下郡のペアですが。今の国道1号線や東海道本線の感覚で言えば、京都に近い方が「下」で遠い方が「上」と名付けられているように見えますが、これは古代の東海道が箱根ではなく足柄峠を越えていた名残なのでしょうね。
[39334] 2005年 4月 3日(日)18:36:14【1】hmt さん
ローカルセンターがらみの上下地名、台地の「うえ」と「した」地名
[39305]今川焼さん
[17469] 両毛人 さんが
なお、その他の「上」「下」につきましては、鉄道の「上り」「下り」のように、より大きな都市に向かう方向を「上」、その反対を「下」とする区分法もありますよね。
と、書いておられる第3のケース、それも旧村名や大字名といったローカルな地名にあることに最近気がつきました。

“第3のケース”というのは、1)河川の上流下流 でも、2)都基点でもなく、3)各地の“大きな都市”基準という意味でしょうか?
そこで、能登半島の「甘田」と、●の付けられた5例について、上下の基準となる都市がどこなのかを考えてみました。

伊豆「多賀」の上下の基準は 熱海、足摺に近い「川口」では 高知、知多の「野間」は 名古屋?、霞ヶ浦北岸の「大津」と南岸の「馬渡」の場合は いずれも 土浦 が近くの“大きな都市”でしょうか。
これらは、すべて京都基準としても一応の説明は つきます。
しかし、京都の勢力圏がこれらの各地にまで及んでいるとも思われず、ローカルセンター基準と考えた方が合理的でしょうね。

丹後半島の宇川だけは、基準都市も考えにくいし、同名の川がありますから河川がらみではないでしょうか。

実は、[19527] を書いた時にも、川越や鎌倉など京都・江戸以外の基準地があるのではないかと考えたのですが、適切な実例を挙げることができなかったのです。

さて、地形に由来する上下地名で、河川がらみでないものがあります。

それは、[18537]Issieさん が“垂直方向の上下地名”として紹介している台地の「うえ」と「した」です。
相模原の「上田名」(うえだな)。
近くの上溝(かみみぞ)・下溝は鳩川の上流・下流という普通のケースですが、上田名は、読み方も「うえ」です。
上大島(かみおおしま)のある台地の下の河原は、「下大島(したおおしま)」。
もっと上流、道志川の津久井町青根地区にある「上原(うわはら)」「下原(したはら)」も紹介されています。

[19527] に書いた「上野原」や「代々木上原」、そして「上野」と「下谷」の熟語ペアも同類です。
すべて「うえ」、「した」と読むところが特徴的です。

このようにして、大部分の上下地名を次のように分類することができました。(順番を変えました)

第1に、支配者である「お上」が付けた官製地名。基準は京都で広域地名が多い
例:上野・下野(東山道)、上総・下総(武蔵国編入前の東海道)、上関・中関・下関(瀬戸内海)、上島諸島(下島諸島は消滅[33439])(瀬戸内海)、大崎上島・大崎下島(瀬戸内海)、上島・下島(天草)、上県・下県(対馬)、足柄上郡・足柄下郡(相模)、上北郡・下北郡(陸奥)その他各地の郡(閉伊・都賀・新川・伊那・高井・水内・益城・浮穴等)添上・添下(大和)
京都内の上京・下京は内裏基準
例外として江戸時代における江戸基準の上富・中富・下富(武蔵)

第2に、ローカルセンター基準  上記のように半島や霞ヶ浦に関係した数ヶ所が例示されました。

第3に、自然地形由来の大部分を占める河川の上流・下流。
この話題の発端の「下士別」も、独立のアーカイブズになっている「上福岡」も、このグループであり、実例はいくらでも挙げることができます。

第4に、台地の「うえ」と「した」。

そして、上記のいずれにも該当しなかったのが、「上諏訪」と「下諏訪」。
これについては、「上社」「下社」に由来し、「御神渡」の神事と関連があると考えられております。
[26344] hmt、[36757]じゃごたろ さん
[39335] 2005年 4月 3日(日)18:48:28【1】YSK[両毛人] さん
JR両毛線・水戸線
上記2路線の上り、下りについてです。

両毛線は、小山→新前橋が「上り」、新前橋→小山が「下り」です。
このことは、小山より前橋(高崎)の方が大きい都市であるからなのかと単純に考えていたのですが、路線名の由来ともなっている旧国名の上下とも符合していますから、あるいは下野から上野へ向かう方向を上り、反対を下りとしたのかもしれません。

水戸線は、友部→小山が「上り」、友部→小山が「下り」です。方向としては両毛線のそれと同じです。この場合、友部と小山を比較すると小山のほうが大きい都市なので、上下の方向が決まったのでしょうか。あるいは別の判断基準があるのでしょうか。

私は「水戸線」という名前から、小山と水戸を比べて水戸のほうが大きい街なので、東へ向かう方向が上りなのではないかとずっと思っていました。

以上の点について、ご存知の方がおられましたら、ご教示いただけますとありがたいです。
[39336] 2005年 4月 3日(日)20:00:48【1】hmt さん
両毛線
[39335] 両毛人 さん
両毛線は、小山→高崎が「上り」、高崎→小山が「下り」です。

列車の上り・下りの区別は、都市の大きさとは関係なく、路線の起点と終点で決めるのが原則でしょうが、両毛線の場合は、起点の小山を発車する列車が上り列車になっており、逆転しています。
でも、両毛線の(戸籍上の)終点の新前橋を過ぎて、高崎に到着する時は、高崎起点の上越線の上り線を走ることになります。
複数の路線を直通する列車、例えば大阪発の北陸線列車も、山科までは上り線を走る下り列車ですね。

それはさておき、小山―高崎間の大部分を占める両毛線区間で、全列車の番号(下り奇数、上り偶数)が路線の起点・終点と逆転しているのはなぜか?

明治17年(1884年)8月20日、日本鉄道の高崎―前橋間開通。前橋は利根川西岸の仮駅だったと思います。
当然、上野発の「下り列車」が走りました。大宮―宇都宮の開通は翌年のことです。

おそらく、上記のような歴史的ないきさつによるものと思いますが、水戸線と方向が同じになっていることでもあり(両毛人さん指摘済み)、あえて上り下りを変更することはしなかったのでしょう。

両毛線のように、全列車の上り下りが 路線の起点・終点と逆転している線区は、武豊線など他にもあります。

【1】起点の説明が不足していたので追加します。
両毛線(小山―新前橋)、水戸線(小山―友部)は、共に東北線の支線で、その起点は「東北本線」に属する小山駅です。
水戸線は、原則通り起点の小山から終点の友部に向うのが下りです。
線路の区分や序列は、1909年の「国有鉄道線路名称」で決まりました。
[39338] 2005年 4月 3日(日)20:30:59Issie さん
Re:JR両毛線・水戸線
[39335] 両毛人 さん
上記2路線の上り、下りについてです。

これは,両線の開通した経緯によるものと思われます。

水戸への鉄道は,常磐線ルートの開通に先立って,水戸鉄道の手によって1889年,すでに開業していた日本鉄道(現東北本線)の小山から建設されました。
なので,小山 → 水戸 の方向が自然に「下り」となったと思われます。
水戸鉄道は1892年に日本鉄道に買収され,さらに1906年に国有化されました。
1895年には日本鉄道による田端からの海岸線(現常磐線)が水戸に到達しています。
(上野を出発した常磐線の列車は開業当初,田端まで行ってそこで折り返して水戸方面へ向かっていました。後に 日暮里-三河島 間の短絡ルートが開通して,田端でのスイッチバックが解消されました。)

両毛線の場合は,やや複雑なようです。
両毛線は 前橋 を境に,高崎-前橋 間が日本鉄道によって,小山-前橋 間が両毛鉄道によって建設されました。
まず,1884年に日本鉄道が高崎線の延長区間として 前橋 までの区間が開業しました。当然に 上野 → 高崎 → 前橋 という方向が「下り」となります。ただし,この前橋駅は利根川右岸(西岸)にありました。
両毛鉄道は1888年に 小山-足利 間で開業し,1889年に 前橋 に到達しました。こちらの前橋駅はもちろん利根川左岸(東岸)の前橋市街に近い現在地のもの。
1889年に日本鉄道は左岸の両毛鉄道・前橋駅まで延長し,両線が接続しました。
1897年に両毛鉄道が日本鉄道に譲渡され両線は一体のものとなります。そして上述の通り,1906年に「日本鉄道」まるごと国有化されました。
そして,“戸籍上”は 小山 が起点,高崎 が終点(1957年以降は 新前橋)とされているようです。

にもかかわらず,高崎(新前橋)→小山 方向を「下り」としている理由はよくわかりませんが,
1つは,日本鉄道(高崎-前橋)が両毛鉄道(小山-前橋)を吸収したように見えること
1つは,高崎線の延長として,上野-高崎-前橋 が運転系統上一体の区間として扱われていること
などが,考えられるのではないかと思います。
[39370] 2005年 4月 4日(月)18:25:51hmt さん
上毛から下野に向う汽車は「下り」に決まっている
両毛線の上り・下りに関する御質問[39335]は、
小山より前橋(高崎)の方が大きい都市であるからなのかと単純に考えていたのですが
だけでなく、[17469]両毛人さん
鉄道の「上り」「下り」のように、より大きな都市に向かう方向を「上」、その反対を「下」とする区分法もありますよね。
という基本的な理解を前提としていたものだったのですね。

[39336]では、鉄道の分野では常識の「起点駅→終点駅が下り」を前提として、両毛線における上下逆転現象についてお答しましたが、両毛地域の都市に注目されている両毛人さんの視点を十分に理解した上での回答ではなかったようです。

改めて確認しておくと、日本の鉄道の上り・下りは、東京起点と定められましたが、これは東京が相対的に“大きな都市”だったからではなく、「大日本帝国」という国家の“首都”であったためでしょう。そして、既に両毛鉄道を併合していた日本鉄道を国有化(1906)した後、「帝国鉄道庁」を経て「鉄道院」になり、「国有鉄道線路名称」で線路の帰属や序列を定め、これによって両毛線の起点駅は「本線」側の小山駅になったのです。まさに中央集権体制。

仮に、前橋までの鉄道が開通した1884年には健在だった「中山道幹線鉄道」プロジェクトが実現していたら、もちろん両毛線の起点は、高崎駅になっていた筈です。
実際には、碓氷峠のあまりの難工事により、中山道ルートはプロジェクト×(ペケ)になり、
工事の容易ならざるは始めよりこれを知るといえども、いまその実測を得るに及び、傾斜の急峻なる実に度外に出ず
幹線鉄道は東海道ルートに変更されました(1886)。3年後には、早くも東海道本線全通。

こうして、両毛線に関しては、両毛鉄道や日本鉄道の時代には高崎だった起点駅(上越線ができる前のことです)が、「下野」の東北本線小山駅になるという鉄道体系になってしまいました。

それでも、上毛から下野に向う汽車は「下り」に決まっているわけですね。
両毛人さんはじめ、地元メンバーのみなさんも、そのようにお考えなのではないでしょうか。

…とすれば、両毛線の起点駅が小山になった1909年以降も、上り・下りを変更しなかったのは、両端で接続する上越線・水戸線と向きが揃っているという事情のほかに、
路線名の由来ともなっている旧国名の上下とも符合
という、有力な理由があったと考えるのが妥当でしょう。

蛇足
新発田―新潟間の白新線。なぜ「両新線」でないのでしょうか。
実は、計画・建設時の終点は、信濃川を渡れずに西岸で止まっていた越後線の終点・白山駅だったのです。
白山―新潟間は完成後に越後線に編入されたので、新潟「終点」になりました。
白新線も、両毛線と同様に、終点に向う列車が「上り」になる例外的な線区でした。

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