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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[90057]2016年3月9日
hmt
[90056]2016年3月9日
hmt
[90043]2016年3月5日
hmt
[90042]2016年3月5日
hmt
[90033]2016年3月2日
hmt
[90029]2016年3月1日
hmt
[90023]2016年2月29日
hmt
[90008]2016年2月25日
hmt
[90002]2016年2月20日
hmt
[90000]2016年2月20日
hmt
[89994]2016年2月17日
hmt
[89991]2016年2月15日
hmt
[89989]2016年2月15日
hmt
[89983]2016年2月13日
hmt
[89967]2016年2月11日
hmt
[89954]2016年2月6日
hmt
[89935]2016年2月4日
hmt
[89934]2016年2月4日
hmt
[89933]2016年2月4日
hmt
[89925]2016年2月2日
hmt

[90057] 2016年 3月 9日(水)14:36:48hmt さん
地域自治区 合併特例区 (7)住所から名瀬が消える?
タイトルは、「Wikipedia名瀬市」で指摘されている問題です。
その要点を記すと、2006年の合併により 旧名瀬市が奄美市の地域自治区である「名瀬」になり、住所表記が地域自治区名を冠した「奄美市名瀬◯◯」に変更された。その地域自治区は、設置期限が2016年3月31日までとなっているので、本年4月以降の住所表記からは地域自治区名が除かれ「奄美市◯◯」となる予定。

ところが、奄美市サイト内を「住所」で検索してみても「名瀬消失」が問題にされている様子はありません。
疑問を抱いて調べてみたら、例規集に掲載されている 地域自治区設置協議書に記載された 設置期間が変更 されていました。
(地域自治区の設置期間)
第3条 地域自治区の設置期間は,合併の日から平成33年3月31日までとする。
一部改正〔平成27年条例26号〕

なるほど、昨年末の市議会で地域自治区【名瀬, 住用町, 笠利町】の存続期間が5年延長され、「名瀬消失」の問題点は、事前に回避されていたのでした。

このケースは、盛岡市や奥州市のような 地域自治区の名称に使われた「区」の存廃問題ではありません。
しかし、2016/3/31となっていた設置期限の延長により「名瀬」が住所地名に残ったことに 何故か 安堵。

同類として、設置期限を 2015/3/31から 2021/3/31まで 6年延長した 平戸市【生月町, 田平町,大島村】の例があります。
[90056] 2016年 3月 9日(水)13:35:39【1】hmt さん
地域自治区 合併特例区 (6)奥州市 5地域自治区の設置期限2年延長
[90015] ピーくん さん  
盛岡市の玉山区は2016.4.1,廃止予定 です。
[90050] ニジェガロージェッツ さん  
期日が来ましたら区コレクションに反映させていただきます。

間近に迫った平成27年度末。盛岡市玉山区の他にも 設置期限が到来する地域自治区が多数あり、その動向をまとめるべく、記事を準備しております。

しかし、同じ岩手県内で 2016/3/31が設置期限となっていた 奥州市の動き が定かでなく、現状を纏めた記事を書きかねていました。
具体的には[87943]の後、昨年9月の市議会で 市長が 設置期限の1年延長を表明したこと までは掴んでいたのですが、その先が不明でした。

ところが、現在開会中の議会に 市長が求めた「1年延長案」に対して、最大会派議員から「2年延長案」が提出され、これが可決されたとの報道が昨夜入りました。IBC岩手放送

2年先には 地域自治区を廃止して 奥州市を一体のものとして進めようと考える市長。
【一般制度への変更も含めて?】地域自治区を存続させて分権体制の継続を図る議員たち。
両者の意見は割れたままのようですが、 『区』コレクションの修正に関しては、当面 それを考える必要がなくなった ということです。

なお、2年先に裁きを受けることになるのは、地域自治区だけでなく、市長も議員も同じです。2014年の選挙
[90043] 2016年 3月 5日(土)16:35:39hmt さん
本郷元町にあった吉祥寺 明暦の大火後 住民は武蔵野に、お寺は駒込に移る
[90037] 伊豆之国さん
その吉祥寺には実は「吉祥寺」というお寺がない、
地名の由来となった「吉祥寺」はここにあります。昔はこの辺りを「駒込吉祥寺町」といっていました)

「振袖火事」の名でも知られる明暦3年(1657)の大火は、3ヶ所から出火し、天守閣を始めとする江戸城、大名屋敷、市街地の大半を焼き、都市構造と景観とを一変させました[56610]
その被災地の一つが 本郷元町にあった曹洞宗諏訪山吉祥寺(きっしょうじ)でした。現在の地図では、小石川後楽園の東側になります。

この付近で焼け出された人達は 江戸から五里離れた武蔵野、五日市街道沿いの地に入植することになりました。この地は武蔵野台地の尾根筋にあたる高所で[75152]、水利が悪かった時代は未開発で残されていたのですが、少し前の承応2年(1653)に「玉川上水」が造られていました[58728]。もちろん主目的は飲用ですが、被災者による台地開拓のために灌漑用としての便宜も図られたことと思われます。
人々は この開拓村を 故地ゆかりの「吉祥寺村」と呼びました。

…で、吉祥寺自体は大火後どうなったのか? 文京区教育委員会の掲示によると、お寺も類焼して、現在地【駒込】に七堂伽藍を建立し移転したとあります。

住民は武蔵野に移されたが、太田道灌による江戸築城に遡る由緒あるお寺は 江戸に残留した結果、
その吉祥寺には実は「吉祥寺」というお寺がない
ということになりました。大きなお寺なので、明暦大火の際にも伽藍の一部が焼失を免れ、駒込の伽藍完成前には、本郷に残っていたのかもしれません。参考

武蔵野の吉祥寺村とは無関係の話ですが、西鶴の『好色五人女』のお話。天和の大火(1683)で焼け出された八百屋お七は、避難先の駒込吉祥寺で知った恋人と再会したいばかりに放火の罪を犯し、鈴ヶ森で火炙りになりました。モデルになったのは別のお寺のようですが、駒込吉祥寺はベストセラー小説の舞台に使われたくらい、江戸市内で有名なお寺だったということでしょう。

話は武蔵野の吉祥寺村に戻ります。明治13年郡区町村一覧 神奈川県北多摩郡で読みを確認すると、現在と同じ「キチジャウジ」になっています。
この地が大きく変貌するに至ったきっかけは鉄道でした。
明治22年(1889)3月31日、神奈川県北多摩郡境村、吉祥寺村などが合併して武蔵野村になり、翌4月1日には市制町村制施行。
その10日後の 1889/4/11 新宿-立川間に甲武鉄道が開業しました。

この鉄道、地図で見るように見事な直線路線です[34522]
そうなった理由につき、武蔵野市サイトでは、本文に「甲州街道や青梅街道の敷設案が反対運動によって頓挫したため」と記しながらも、「建設を委託された鉄道局が、最短のルートを採ったという説もあり」と注を加えています。

とにかく この直線ルートにより、甲州街道沿いの調布町や青梅街道沿いの田無町でなく、武蔵野村に停車場ができることになりました。もっとも、青木栄一氏によると、「甲州街道ルート案」などそもそも存在しなかったとのことです[58190]

開通当初の停車場は強い誘致のあった境【武蔵境】でしたが、東京府になった後の明治32年には、吉祥寺停車場も開設され、井の頭池と桜の小金井堤は観光客で賑わいました。1922年に国分寺までの電車化と複線化が完成。その翌年に関東大震災。東京からの移住者で人口は増大することになりました。

国勢調査人口  
北多摩郡武蔵野村 1920年  4931  1925年 10366
北多摩郡武蔵野町 1930年 17229  1935年 25221  1940年  41767  1947年 63479
武蔵野市  1950年 73149  1955年 94948  1960年 120337  以後省略
[90042] 2016年 3月 5日(土)14:31:56hmt さん
Re:自治体コード
[90041] グリグリさん
以前にも書いたと思いますが、データベース検索などで利用している自治体データには自治体コードは組み入れていません。国勢調査データは独自のデータベースを構築しおり、その際に自治体コードを入れるようにしました。

そうでしたか。[90033]に記した要望は、そのような事情を知らぬまま書いたものでした。
データベースの違いで、簡単に実現できない事情を説明していただき、了承しました。
[90033] 2016年 3月 2日(水)17:29:16【1】hmt さん
Re:国勢調査データをよろしく!
[90032] グリグリ さん
【リリース当初から自治体コードが表示されていたのは】国勢調査データです。

早速のお返事ありがとうございます。
発端となった[90023]の指摘【このサイトの中でコード自体の表示がなかった旨の発言】は、ご推察のとおり、国勢調査データ 全体が今回初めてリリースされたと勘違いしたことに基づくものでした。

確かに、面積データに関連して書いた[84563]の中で、「グリグリさんも、データベース検索や国勢調査データなど関連メニューの再編成を視野に入れる必要性に言及」と発言しているのですが、実はその5ヶ月前に「国勢調査データ」が現実に発足していたこと[83734]に気づかないまま、まだ計画中のメニューと思っての発言だったのです。

国勢調査そのものについては、落書き帳の中でかなり多くの発言を残している hmtですが、各回の個別データ比較となると関心度が薄いというのが正直なところです。
「国勢調査データ」発足の2013年夏には、頭が御母衣や松江の方に行っており、国勢調査から離れていたようです。

そのようなわけで、2013/7/28「国勢調査データ」のリリース当初から、自治体コードが表示されていた。
そのことを、今回初めて理解しました。
[90023]の指摘は勘違いであり、[90029]はそれを引きずった疑問でした。

それにしても、元のデータベースとしては自治体コードを含めて整備されているのに、市区町村プロフィールにはコードが表示されておらず、データベース検索の表示項目にもなっていない。
この現状は、宝の持ち腐れではないでしょうか。

「都道府県市区町村」サイト利用者全体のことを考え、国勢調査データ以外のページからも 自治体コードを探しだすことができるよう、ご一考いただけないかと思います。

リクエストを頂いていた振興局の表示を北海道の市に対しても入れてみました。

早速のご採用ありがとうございます。

例えば、人口順の表示では若干違和感がありますけど(北海道の市にだけ表示が追加されるという点で)

「(総合)振興局」という表示自体が「住所の表示」【郡を使用】と違うので、若干の違和感は当然です。
この表は、住所とは関係ない「行政的な所属区分」を表わしたものであると割りきって考えましょう。
そのように割り切れば、知事の権限の一部が支庁長【(総合)振興局長】に委ねられている北海道だけに、道と市町村との間に独自の区分ができていることが理解できるでしょう。北海道行政組織規則[71706]
[90029] 2016年 3月 1日(火)21:47:02hmt さん
自治体コードが表示されているのは どこでしょうか
[90026] グリグリさん
自治体コードはリリース当初から表示しており滝沢市誕生時にも更新対応しています。

自治体コードが表示されるページとして 真っ先に思い浮かぶのは 市区町村プロフィール です。
しかし、例えば “滝沢市誕生時に更新対応” されたという新設コード「03216」。
市区町村プロフィールには、コードを表示すべき 列 自体が存在していません。

市町村一覧表の下に設けられ、県旗をクリックすることにより開く「岩手県のデータ」。
その中にも、自治体コードに関する項目は見当たりません。

リリース当初から自治体コードが表示されていたのは どこでしょうか?
[90023] 2016年 2月 29日(月)21:58:08【1】hmt さん
国勢調査データ(比較ページ)
[90022] グリグリさん
公表された平成27年国勢調査の速報値を受け、平成合併前からの国勢調査人口との増減比較表を示していただきました。
膨大なデータにもかかわらず、見易い表を早々と作り上げていただいた処理能力に感心するばかりです。

さて、本筋の人口増減に関するコメントではないのですが、この表に接しての感想を少々記します。

1 市区町村コード
この「都道府県市区町村」サイトの中で、「市区町村プロフィール」を始めとする多くの表では、地方自治体コード順の配列が行なわれてていたものの、コード自体の表示がありませんでした。
例外はありますが、市コードの数字は県内で生まれた市の順番を示し、欠番は消滅した市への思いを誘います。町村のコードも、県内の位置や県庁所在都市からの遠近など、なかなか示唆的であり、単なる順番付け以上の役目を果たしています。
このサイトの表の中に地方自治体コードが登場したことは、歓迎すべきことだと思っています。

付言すると、市区町村コードを含む地方自治体コードは、1968年に自治省が導入した6桁の「全国地方公共団体コード」以来3種類がありますが、最も普通に使われているのは、今回の表にも使われている5桁の 「統計に用いる標準地域コード」 で、2009年に総務省統計局所管の現在の名称になりました。

上記のリンクで得られる最新のコード一覧表【2014年滝沢市】は、hmtマガジン 自治体コード の説明文からのリンクでも得ることができたのですが、今回提供された 人口比較表【市町村】により、このサイト内で直接に見ることができるようになりました。

2 北海道の(総合)振興局
上記の「人口比較表【市町村】」を見ると、市については「(総合)振興局/郡」の列が空欄になっています。
明治時代に制定された法律「市制」の時代に「郡」から独立した存在として発足した「市」ですが、こと北海道に関する限り「(総合)振興局」の列を空欄にしておくのが適切かどうか、問題があるように思われます。

北海道支庁設置条例によると、「市」は形式的には「支庁」に含まれず、これが現在の「(総合)振興局」にも持ち越されています。
しかし、条例の他に「北海道行政組織規則」が制定され、そこでは市の区域に係る事務であって支庁長において処理することとされているものが定められました。

(総合)振興局が所掌する事務は広範なものであり、これにより、実務上 では、北海道の市は(総合)振興局の管内と位置付けられています。

このような実態から考え、今回の人口比較表においても、北海道各市の所属する(総合)振興局が記載されることが望ましく、これは各市の地理的な位置を認識するのにも役に立つと思われます。
ご一考いただけないでしょうか。
[90008] 2016年 2月 25日(木)17:49:07【1】hmt さん
伊豆が「関東」だった頃
[90003] 伊豆之国さん 熱海は関東ではない
「伊豆」にルーツを持つ人として大いに違和感を抱かざるを得ません。第一、熱海が属する伊豆国は「関八州」の中には入りません。

ごもっともな意見ですが、せっかくの機会なので、伊豆と関東との昔の関係を少し考えてみました。

「関八州」という言葉は、江戸時代に広く使われていた言葉と思います。
鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には、「関西38国」「関東28国」という日本60余州を二分する用例 建仁3年8月27日の記事がありました。歴史背景 
このような「広義の関東」の用例もあり、その場合、伊豆はもちろん関東の域内です。

江戸時代の「関八州」は、いざという時の江戸防衛を担うべき 箱根関・小仏関・碓氷関を意識した範囲です。
もっとも、戊辰戦争に際しての防衛線としては、全く機能しませんでした。
この地理意識では、防衛線西側の伊豆・駿河・甲斐・信濃は「関八州」の外であり、結果的には、これが 明治以降の「関東地方」に持ち越されていると思われます。

夏目漱石『坊っちゃん』(1906)の記述は、「箱根が境界」という江戸っ子の地理意識を裏付けています。
四国辺のある中学校の数学教師として東京を立つ 三日前に清(きよ)婆さんを見舞い、
おれの行く田舎は「西の方だよ」と云うと「箱根のさきですか 手前ですか」と問う。

しかし「都道府県」に関心をもつ私達としては、明治初期に導入された地理区分にも注目したいと思います。
明治4年11月14日の太政官布告第584号は、それを示しています。
今般関八州 群馬県を除くの外 並に伊豆国 従来の府県被廃 更に左の通 府県被置候事
足柄県 県庁 小田原
相模国 足柄上郡 足柄下郡 高座郡 大住郡 愛甲郡 陶綾郡 津久井郡 
伊豆国一円

この足柄県の後、神奈川県 東京府 入間県 埼玉県 木更津県 印旛県 新治県 茨城県 栃木県 宇都宮県と続きます。
余談:神奈川県,東京府,木更津県,栃木県,宇都宮県に県庁所在の都市名が記されていない理由がわかりますか?
都市名を名乗った府県では、県庁所在地が自明であるために、記す必要がなかったものと理解されます。
少し先立って出された 群馬県第559号を加えると、関東9ヶ国(伊豆を含む)は 1府11県[36047]になります。

高座郡が神奈川県でなく足柄県に記載され、淘綾(ゆるぎ)郡の表記にも疑問点があります。しかし明治4年11月の「3府72県体制」では、この布告により明らかなように、伊豆国は相模国の大部分と共に「足柄県」に編制されました。

[24127] Issie さん
伊豆国は相模国西半部(当初は境川以西。実際は相模川以西)とともに「足柄県」に編成され,県庁を相模国足柄下郡小田原に置きました。
ここでは,紛れもなく「伊豆は関東の一部」となりますね。

[24127]にも記されているように、「韮山代官」支配地は、江戸時代から関東と結びついていました。その一例:江川代官所経由で幕府に提出された相模国津久井県「青山村御林絵図」弘化4年[55523]
江川代官所支配地域は、伊豆だけでなく 武蔵・相模・駿河・甲斐の各国に及んでいました[59110]

代官である江川氏の本拠地・韮山の役所は 支配地の分布からすると 南西部に偏った場所ですが、韮山代官は通常は江戸役所【武蔵・相模・甲斐を担当】にて勤務し、冬だけは韮山代官所に入ったとされます。参考
江戸(本所)と韮山と2つの役所の他に、伊豆国三島、甲斐国郡内地方の谷村、駿河国富士郡の松岡【東海道の富士川東岸付近】にも陣屋が存在。
これら幕府直轄領には、版籍奉還よりも前に 韮山県 が設置されています。

ここで注意したいのは、韮山県が 明治4年11月に 足柄県に統合されたのではない ことです。
韮山を始め伊豆国内の管轄地は足柄県になりましたが、韮山県でも武蔵国多摩郡所在の村の多くは東京府に、一部は入間県にという具合に所在地に応じて異なる府県になります。旧田安家領など甲斐国にあった韮山県所属地も(甲府県経由で)山梨県になるなど、複雑な動きがあるようです。
明治4年11月の変更が、同年7月の廃藩置県 及びそれ以前に作られた県の「統合」ではなく、所在する郡を単位として県を再構成する整理(リセット)であったことは、[76179]で記した通りです。

もっとも、府県の整理作業はこれで完了したわけではありません。伊豆国だけを見ても、明治9年(1876)4月18日に静岡県に移管され、更に明治11年(1879)1月11日に伊豆七島が東京府に移されます。
伊豆半島の存在故に細長い足柄県は、好一対の能登半島を持つ石川県と違い、短命に終りました。
当時は関東地方、中部地方という区分は存在しなかったし、「関八州」に属していない伊豆七島を「関東」と呼ぶのにも少し抵抗を感じますが、伊豆の島々は 関東の足柄県から中部の静岡県へ、再び関東の東京府へ と流転することになりました。

時代は戻りますが、武家政権を樹立し、自らの支配地域を「関東」と呼び始めた東国武士団。
鎌倉政権の最有力武士として、政子の実家・北条氏がありました。北条とは、伊豆国田方郡にあった地名のようです。歴史的視点からすれば、伊豆は間違いなく「関東」であったと思われます。

そして室町幕府が設けた鎌倉府。その長官は「鎌倉公方」または「関東公方」と呼ばれ、関八州に伊豆国と甲斐国とを加えた10ヶ国を支配しました。鎌倉公方の当初の役職名は「関東管領」だったようですが、後には執事の上杉氏【足利尊氏の母の家系】が「関東管領」と呼ばれるようになりました。
扇谷上杉家の家宰・太田道灌が1457年に江戸城を築いた頃の関東。既に関東公方や関東管領が入り乱れた内戦が始まり、鎌倉公方は古河に逃げ出したので「古河公方」。公方の後任も鎌倉入りできず「堀越公方」。
結局のところ 堀越御所の支配地は伊豆国だけとなり、最後は「伊豆国討入り」をした北条早雲に滅ぼされました(1493)。
1495年に小田原城を奪取し、戦国時代の関東経営で知られた後北条氏の起点も、伊豆国だったのでした。
蛇足:江戸時代にも喜連川【栃木県さくら市】の藩主になっていたのは、古河公方の後裔のようです。

熱海を含む伊豆国が「関東地方」の域外扱いされるのは、現在の都道府県に基づく地方区分をとる限り、やむを得ないことでしょう。
しかし、歴史的観点からは どうも「伊豆と関東とは切っても切れぬ縁にある」と考えた方がよさそうです。

伊豆七島【現在は伊豆諸島】のことはさておき、伊豆国が「関東」であるか否かという問題は、結局のところ その時々の地方制度次第 と思われます。
それにしても、明治9年4月に「伊豆国は静岡県」という形になり、そのまま定着した真の理由は何だったのでしょうか?

明治9年(1876)、この年には4月18日と8月21日の2回に分けて所謂「第2次府県統合」が行なわれました。太平洋側では 4月に足柄県が分割され神奈川県と静岡県とに分れただけでなく、8月には浜松県も静岡県に統合されました。
そして日本海側でも、石川県が 4月に新川県を、8月に敦賀県の嶺北も統合して「大石川県」になりました。

足柄県が分県・消滅という貧乏くじを引いた直接原因は、府県を再編成する試行錯誤の一過程における「3府35県体制」でした。しかし、嶺北が石川県へ、嶺南が滋賀県へと分県・消滅の道をたどった敦賀県の方は、明治14年(1881)に「福井県」という名で復活しています。越中国も明治16年には富山県として分立再置。

これらの復活組と比べると、静岡県の一部として定着した伊豆国・遠江国はどこが違っていたのでしょうか。
伊豆/駿河について言えば、三島と沼津との関係が伊豆を静岡県に引き止めるように働いたのでしょうか?

現状の伊豆。これは「府県」とは別の枠組みである「伊豆・箱根」の方が 収まりがよいように感じます。

最後に、現代生活に欠かせない電力で使われた「関東」。
50Hz東京電力管内は、伊豆にとどまることなく、駿河国の一部に及んでいます。
戦時体制下では富士川の東・現在の東京電力管内に電気を供給していたのは、「関東配電」という会社でした。「関東電気保安協会」という名は、現在もこの地域で使われています。
[90002] 2016年 2月 20日(土)12:16:41hmt さん
都道府県と市町村の役割分担
[90001] ぺとぺとさん
これは、平成24年3月31日以前の旧法においては「知事」が告示することになっていたためです。

早速のご教示、ありがとうございます。

「地方分権一括法」と呼ばれる平成11年法律第87号は、平成大合併にも深く関係するものであり、落書き帳の記事でも何回か言及していました。最近では[82018]

しかし、都道府県から市町村への権限委譲政策はその後も進められているのですね。 内閣府
その代表的なものとして、平成23年に成立した「第2次一括法」。

この一括法が落書き帳に登場したのは初めてのことと思いますが、法律専門家でない者にとっては、700頁以上に及ぶ膨大な新旧対照表には 目を奪われるばかりです。
[90000] 2016年 2月 20日(土)08:43:56【1】hmt さん
愛西市平和町
地名変更情報
[89999] おっ、次は90000番だ。

では、折角与えられた機会を生かし、若干のフォローを。

愛知県中島郡平和町は 2005/4/1に その全域が稲沢市に編入されて消滅しました。

市区町村変遷情報の方は 1行で済んでいるのですが、郵便番号・住所での「愛西市平和町」が『自治体越えの地名』を裏付ける根拠として出され、話が複雑化しました。記事集

私は愛西市町名一覧を根拠に、【現状での】否定的結論に肩入れしただけだったのですが、その後の記事により、過去の一時期には愛西市平和町が実在したらしい情報が示されました。
そして、[89962]で正攻法と思われる公報により確認する道筋が示され、[89997]によって、愛西市平和町の誕生から消滅に至る経過の確認が示されたわけです。
すっきりと解決していただき、感謝します。

この機会に、市町村区域内の町字変更手続と、その効力発生公示に関する 地方自治法の条文を 改めて確認しておきます。
----------------
第二百六十条第1項 市町村長は、政令で特別の定めをする場合を除くほか、市町村の区域内の町若しくは字の区域を新たに画し若しくはこれを廃止し、又は町若しくは字の区域若しくはその名称を変更しようとするときは、当該市町村の議会の議決を経て定めなければならない。
第2項 前項の規定による処分をしたときは、市町村長は、これを告示しなければならない。
第3項 第一項の規定による処分は、政令で特別の定めをする場合を除くほか、前項の規定による告示によりその効力を生ずる。
----------------
効力発生は、法律では「市町村長の告示」が原則になっています。
[89997]で紹介された愛知県知事告示に効力発生日が記されていることは、愛西市平和町の勝幡町編入の件が「政令(地方自治法施行令第百七十九条)で特別の定めをする場合」であったということでしょうか。

[89997] ぺとぺとさん
愛西市平和町誕生の記録はあるのに消滅の記録がなかったのは、個人的に少し疑問に感じています。

市や県の告示記録が存在するとしても、閲覧が容易でない情報も多いことです。国土地理協会情報には掲載してほしいですね。
郵便番号。こちらも地名廃止で実体を失ったゴミ番号は 廃棄処分してほしいと思います。

ところで、石川県の4自治体に東西南北が分散する事例[75173]から始まった『自治体越えの地名』。
1府3県5郡【誤記訂正】に及ぶ広域にまたがる「葛飾」[75350]まで 話を広げたこともあるのですが、今回の愛西市平和町では、ずいぶん細かい話になってきたと思っています。
それでも、市町村区域内の町字変更情報というものについて改めて考えさせられ、有益な経験を得ることになりました。
[89994] 2016年 2月 17日(水)17:15:24hmt さん
海と島 (26)長崎県小値賀町・野崎島
BS JAPANの『空から日本を…』で 「長崎県五島列島」が放送されました。
第1回 は、宇久島から中通島まで。

私としては 「自然地理的観点」からして、今回のタイトルに異議を唱える気は全くありません。
小値賀町プロフィールにも、「五島列島の北部に位置し」と書いてあります。

しかし「行政的観点」からすると、佐世保市の宇久島や、北松浦郡小値賀町の小値賀島・野崎島などは「平戸諸島」であり、「五島列島」とは別の指定地域として扱われています。離島振興対策実施地域一覧(H27/7/13) p.5参照。

広大な肥前国松浦郡が東西南北4郡に分割されたのは 郡区町村編制法に基づく 太政官布告明治13年第22号別冊 でした。この時に 宇久島・小値賀島は北松浦郡になり、南松浦郡の五島列島と分離しました。
しかし、藩政時代の小値賀島は平戸藩領でした。また 島の数から判断しても、宇久島・小値賀島は、中世以降ずっと「五島」に含まれていなかったのかもしれません[26554]

町の沿革の最後に記されているように、「小値賀町(おぢかちょう)」という仮名遣いを採用していますが、URLに使われた表記は「ojika」です。
2005年に石巻市と合併した宮城県牡鹿町は「おしかちょう」でした。

それはさておき、長い歴史を持ちながら現在の人口は施設管理人1人という野崎島は、落書き帳に何回も登場しています。最近では[89357]

今回 空から眺めて知ったことは、野崎島の中央部に 「ダム湖」が作られていることでした。
事実上の無人島であっても、この島の山に降る雨は貴重な水源として ダム湖 【mapionでは無視されている】に集められ、人口は多いが 水源に恵まれない 小値賀島に 送られているとのことです。野崎島水源の森

その小値賀島。火山島ですが 概ね平坦。ご多分に漏れずの高齢化ですが、それでも島外からの若い移住者もあり、子供も生まれて賑わっていたようなので、一安心しました。
野崎島の水が、この人達を支えているのですね。

野崎島の南に隣接するのは細長い中通島。新上五島町の主島です。
今回の番組動画には、集落ごとに26も作られた教会の分布図がありました。

次回2月23日の放送は 五島列島の第2回で、五島列島最大の 福江島が登場します。
亀の子模様の「三井楽の円畑」を 空から見ることができることを期待しています。
[82801] [82804] [82810] グリグリさん、hmt 参照。
[89991] 2016年 2月 15日(月)19:53:04【1】hmt さん
hmtマガジンの更新 と 利根川歴史地図の修正リンク先
[89986] まなちゃん さん
具体的には「uub.jp/hmt/hmt??.hmtl」→「uub.jp/hmt/hmt??.html」と直していただくようお願いします。

あらあら。ニックネームに紛らわしい略号を使ったのが原因で、誤記に誘導してしまったのですね。
ご迷惑をかけて ごめんなさい。
そして、hmtマガジンをご愛読いただき 有難うございます。

これだけでは単純すぎるので、hmtマガジンの更新を1件入れておきます。【2016/2/16再更新】

群馬埼玉県境の主要部は、昔で言えば「上武国境」をなす利根川に沿っていますが、現在の利根川本流と完全に一致しているわけではありません。

最近の投稿のいくつかは関東平野中央部に関係するものですが、話題が復活している 三県境を始めとして、この地域は 多くの河川による複雑な流れの影響を受けて形成された歴史を持っています。
hmtマガジンの 渡良瀬遊水地利根川と国境・県境との関係に収録された記事は、そのような歴史を理解するのに役立つものと思います。

現在は大河の面影を全く残していない「三県境」。
しかし、歴史を遡って調べると、利根川の分流の一つである「合の川」が「渡良瀬川」と合流していた時代があり、当時の流れに沿って上野国と武蔵国、上野国と下野国、下野国と武蔵国という三国の境界が定められた。
そして、川の流れが変り農地になってしまった現在でも、全国唯一の存在 「歩いて訪れることができる平地の三県境」 として珍重されている。

関連地図を引用しながら 利根川流路変遷図という記事 をまとめたのは、5年前でした。
その少し後、okiさん から『下総国之図』に関する解説記事[77106]をいただきました。
これに対するレスは、既に マガジン に収録していたのですが、okiさん の記事そのものは収録から洩れていました。
遅れ馳せながら今回追加更新しておきます。

マガジンのメンテナンス。これで 一応は済ませた つもりだったのですが、WEBの変化は激しく、見直したらリンク切れが続出していました。
とりあえず、主なリンク先の現在のURLを記しておきます。

URBAN KUBOTA 19号 特集「利根川」 大熊論文の図3はp.21、図4はp.22-23です。
利根川東遷概史
隅田川少考
「下総之国図」収録500年前の江戸川の流れ 変更なし
[89989] 2016年 2月 15日(月)18:12:55hmt さん
三県境の標柱
[89928] グリグリさん
測量が行われる前に写真撮影に行こうかな。
ということで、2016/2/7再訪時[89961]の写真を[89972]で紹介していただき、興味深く拝見しました。
2010/11/21に行なわれたオフ会3県境探訪会の時には水路周辺の地表は雑草や枯草で覆われていたのですが、今回の写真では その大部分が取り除かれ、露地状態になっている。第一印象は、この変化でした。
私なりの感想を記し、それから派生した新しい知見を記しておきます。

2枚目と3枚目が水路合流点です。「土管のような」[89928] 円筒形の杭も確認できますが、それよりも注目に値するのは、その左下に頭を覗かせている標柱です。

これは、毎日電子版記事[89961]で「目印の標柱」として紹介された物であろうと思われます。
用水路の接点で、積み重なった泥を取り除いて目印の標柱をあらわにし、3県の接点と確認した。

オフ会探訪時には大勢で合流点付近を視察したのですが、誰も「目印の標柱」の存在につき発言をしていません。水中に堆積していた泥や草によって 目に触れにくい状態だったのでしょうか。

そんなことを考えながら オフ会探訪ルート写真集を見直してみました。

ルート図には、丸数字1番から20番までの他に、左部に2列、下部に1行の写真が収録されています。
下部右から3枚目に水路合流部の写真があり、確かに枯草のために今回の写真よりも見えにくい状態です。
しかし、よく見ると埼玉県という紙の先に標柱の頭らしきものがあるように思われ、その位置も前記円筒形の杭の左下に見えた標柱の先端と一致するようです。

そのような目で見ると、群馬県領の先端、栃木県領の先端にも柱状構造が見えますが、こちらは細すぎます。
埼玉県側にある柱は、次の4枚目の写真で カメラをかざした手の下方にも見え、やはり人工物のようです。
私達一行は、決定的な証拠を見逃していたのかもしれません。

オフ会探訪ルート写真集に記録されている その他の標石についても記しておきます。
ルート図左部2列目上から7番目は「基点」標石の写真です。地上に現れているのが文字(基点)だけなので、[76876]では標石という言葉を使いましたが、地下に埋められている部分を含めれば、「標柱」の形をしていると思います。最初に挙げた2016/2/7の写真では緑色の看板柱の背後に見えている柱がそれであると思われます。草だけでなく表土の一部が除かれたらしく、見た目が高くなっています。

ルート図上で 11番のすぐ北にある「基点」標石から水路に沿って少し北に進むと、ルート図 12番の「群馬県」標石です。これも 1980年の群馬県区画整理事業([88961]毎日記事)によるものと思われますが、栃木県側の岸に設置されています。その事情については、88さんが[76925]で考察を加えています。

もう一つ、私が知らなかったもので その位置も意味も不明ですが、ルート図左部2列目上から6番目に「板巾」と読める標石がありました。

2016/2/7の1枚目の写真は看板でした。
朝日デジタルの記事によると、栃木市の古沢さんが手作りの看板を立てたのは約20年前とのこと。風雨に晒された手書きの看板は何度も書き換えられたと思われます。
一見すると今回撮影された写真はWEBにある2014年埼玉県民の日(11/14)に撮影された 写真と同じように見えます。しかし、栃木市藤岡町下宮(旧谷中村)・邑楽郡板倉町間田・加須市小野袋の3つの字名に振られた読み仮名が平仮名から片仮名に変更されており、新版であることがわかります。

2014年の写真には「基点」標石の写真もありますが、杭の文字がかすれていて読めなかったと記されています。2010年撮影のオフ会ルート図掲載写真と比べると、不明瞭な文字の下に露出した部分が長くなっているようです。

2014年の写真では、合流点付近が綺麗に整備され、はっきりと直線状の水路である様子が注目されます。
草に覆われていた2010年とは大違いの印象です。
管状の柱も既に立てられていますが、その横には今回掘り出されたとされる標柱らしきものが見えません。

謎は深まるばかりですが、この写真により、右側(北)からの水路と、東に向う左下側の水路との中心線が少し食い違っている様子がわかります。北の栃木群馬県境線と東の栃木埼玉県境線との食い違いが見えるmapionは、この水路に沿って描かれているものと理解されます。

88さんの[76925]には
元は三尺(≒90cm)の土羽(どは、盛り土で作ったの斜面)の水路であり、それを、「群馬縣」の境界柱付近では、コンクリート構造物の水路に改修したものでしょう。3県境付近では「土羽」のままでした。
と記されていましたが、2014年の写真では群馬県側だけでなく、埼玉県側のコンクリート構造物も はっきりと見えます。してみると、「埼玉県」の標柱も見えて当然と思われるのですが、どうしたのでしょうか?

それはさておき、水路と県境の位置関係についても、[76925]は詳細に論じています。要点を記すと
水路の中心線が県境ではなく、この水路【水流だけでなく護岸を含む】が属する県は、3県境から北方向が群馬県、東方向が埼玉県の所属と推定しています。
従って、標石のある護岸までが群馬県である という推測でした。

でも最後に記された言葉は次のようになっていました。3市町による今回の作業は、これなのでしょう。
土地の境界というものは、当該土地の所有者(及び機能管理者ら)が、現地で、境界確定協議の上、測量し、境界確定書(民法上の契約にあたる)を交わすことが必要、となってしまいます。
[89983] 2016年 2月 13日(土)15:44:25【1】hmt さん
女子高生が卒業する3月 石北本線の「旧白滝駅」は廃止
[89971] 桜トンネルさん
JR北海道全453駅のうち、(中略)1日平均で乗車人員が1人以下の駅も58駅あるとのことでした。
参照記事には58駅が列挙され、「※」の駅は2016年3月26日(土)のダイヤ改正と同時に廃止が予定と記されています。廃止駅を数えると7駅です。
北海道新幹線開業を伝える 平成28年3月ダイヤ改正 のp.10で明らかにされている廃止駅は8駅ですから1駅少ない。突き合わせると、石北本線「旧白滝駅」が落ちていました。
【追記】
たびたび話題になった 小幌駅 の「当面1年間存続」も記されていました。
今後の状況を見ながら、1年ずつ更新検討とか。

「旧白滝駅」については、7年前の冬に [67564]で言及したこともあります。下りローカル列車の停車は1日に1本だけ。
ところが調べてみたら、最近 海外メディアで大きく取り上げられた話題と関係していることを知りました。

発端は中国中央テレビ(CCTV)の英語Facebookで、上白滝駅と唯一の利用者である女子高生の物語を写真付きで投稿したものでした。元の記事には 駅名の誤報など正しくない部分もあるようですが、全体として見れば、北海道ローカル駅の置かれた厳しい現状を伝える記事です。

その中で 地元住民や鉄道会社の努力の甲斐あって 駅を3年間存続させることができ、通学の足が確保された物語は、何かほっとさせるものがあります。

この落書き帳で紹介しておくに値する内容であると思われるので、日本の検証記事をリンクしておきます。
[89967] 2016年 2月 11日(木)20:05:40【1】hmt さん
板倉町・栃木市・加須市と地権者との合同による、3県境界確認調査
[89961] グリグリ さん
関東平野の真ん中「平地の3県境」。昨年末から復活していた 落書き帳の話題ですが、2月9日の合同調査で陽の目を見た「泥に埋まっていた標柱」の存在により、事実上異議なく決着したようです。

毎日新聞配信の記事によると、この標柱は「1980年に群馬県が終えた区画整理事業に際し、県境の確認用に据えた」ものであるとか。
これが標柱に記されていた文字により直接確認できたものか、別の資料によるものかはわかりませんが、三県境の位置を示す有力な証拠でしょう。

朝日デジタル には 短いながら確認作業の一部が動画で示され、「水路の底から3県境を示したとみられる杭も見つかった。」と記されています。
このことから、2010年訪れた際に既に地上に現れていた「基点」と記されていた標石[76876]とは別に存在した、新発見の証拠であると考えられます。

3市町が補正予算を組むという措置までして 年度末に実現した今回の調査。
水路合流点の底に埋もれていた新証拠が得られたことは、確かに大きな成果であると思われます。
新聞では、これに基づく公式の手続きは3月上旬までかかると報じています。
しかし、88さんが[76925]で示されているように、水路に関する法的問題はなかなか複雑なようです。

新発見の標柱に基づいて単純に現在の水路を県境と認定すると、水路の左岸に既に存在していた標石との関係が問題になるでしょう。[76929]
「基点」や「群馬県」という標石がある地点は、渡良瀬川を前身とする水路の左岸だから栃木県である。
そのように単純に認定してよいものなのでしょうか?
このような矛盾を生じないようにしながら、3月までという短期間のうちに、間違いのない結論が得られるのか、今後も注目してゆきたいと思います。
[89954] 2016年 2月 6日(土)21:10:33hmt さん
下総
[89943] 実那川蒼さん
個人的に気になっている例を挙げます。下総(しもうさ)は下(しも)+総(ふさ)の合成と考えられますから、「追う」タイプのように見えます。ところが、JR東日本の総武本線にある下総中山駅のローマ字表記は「Shimōsa-Nakayama」になっており、発音も「王」タイプなのです。(中略)自然言語は一筋縄ではいかないものだと思いました。

「下総」のような古い歴史をもつ地名では、語源を伝える漢字表記と 現在の発音 との間には変化があります。

語源漢字1発音1漢字2発音2かな表記ローマ字表記の例
あわ/うみ(近)淡海オー/ウミ近江オーミおうみcity.omihachiman.shiga
とおつ/あわ/うみ遠淡海トーツ/オーミ遠江トートーミとおとうみstation/toutoumi
かみつ/ふさ上総カミツ/フサ上総カヅサかずさkazusa-h(上総高校
しもつ/ふさ下総シモツ/フサ下総 シモーサしもうさShimōsa-Nakayama駅[89943]
かみつ/けぬ上毛野コーヅ/ケヌ上野コーヅケこうずけ(神津島こうづしまKozu Shima)
しもつ/けぬ下毛野シモツ/ケヌ下野シモツケしもつけcity.shimotsuke

[89925]で紹介した地図表現検討会報告書で採用している「長音を表す記号の省略」方式を用いる場合、その詳細は 備考2でを示されています。
これを「下総」のケースにあてはめた場合、常識的な判断では「シモツ/フサ」の短縮により 現在の「シモーサ」という単純な長音発音が生まれたと思われます。
その場合は、ヘボン式表記「Shimōsa」【JRで現実に使用】から 長音記号省略の原則に従った「Shimosa」になります。

しかし、駅名のかな表記は「しもうさ…」です。
これだけでは、発音が「シモーサ」なのか、「シモウサ」なのか判別できません。
後者、すなわち表音ローマ字表記が「Shimousa」である場合は、
長音に対応する元の漢字が一文字の場合には「o」に短縮するが、二文字に分かれる場合には短縮しない
の前者「Shimosa」ではなく、後者「Shimousa」になります。
確かに、一筋縄ではいきません。
[89935] 2016年 2月 4日(木)20:24:40hmt さん
ローマ字表記・英語表記 (4)Ono City問題
[89927] グリグリ さん
大野市と小野市がどちらも"Ono City"と表記するのはどう考えてもおかしいと思います(佐倉市とさくら市をローマ字表記で区別できないのはやむを得ないとしても)。この問題をカッコよく解決する手段が見当たらないのが現状かと思います。

60年以上も前から完全一致の表記を続けている府中市を始めとして、多数の 同名・同音の市 があります。
当事者である市当局としては、手段が見当たらないと言って、手をこまねいていることはできません。

元々、同一の名称を排除する根拠とされた通達そのものに合理的な根拠があるわけでもなく、「別の地名であることを区別する必要がある場合」には、それに応じて「区別できる表記」を選べば済む問題です。

さしあたり問題になりそうな自治体サイトの表記を見ても、完全同一の府中市(広島県と東京都)、伊達市(北海道と福島県)では都道府県名を付しています。
正式表記の異なる 佐倉市と さくら市 の場合は、紛らわしい名称を後から名乗った方が「tochigi-sakura」として区別できるようにしています。

福井県大野市(1954/7/1)と兵庫県小野市(1954/12/1)の場合、共に「Ono」というローマ字表記を使っていながら、それが問題になるとは認識していなかったのではないかと推測されます。
でも、インターネットが普及して市のURLを定める段階になると、区別のつかないことが顕在化しました。

それに対応して「city.ono.fukui」と「city.ono.hyogo」で区別する。これは妥当な解決です。
市当局のとった解決策を代弁すると次のようになります。
国際的に用いるラテン文字表記において、日本の地名を県名で区別することは、自然なことである。
国内的な区別に使われている「長音表記」にこだわるのは、むしろ不自然である。

「Ono City問題」に関係する他の例を見ると、大野城市は「city.onojo.fukuoka」ですが、豊後大野市は「bungo-ohno」とハイフンを使うと共に、「city.minoh」にも使われた「oh」を選んでいます。

参考までに山陽小野田市は「city.sanyo-onoda」です。「ono」は当然として、「sanyo」は「サニョー」と英語読みされる おそれ があります。
でも、Pnasonicに統合される前の「SANYO」が知られていたので、心配はないのかもしれません。

町では、岐阜県揖斐郡大野町が「town-ono」を使っています。
先を越された?福島県田村郡小野町は「town-ono.fukushima」と、県名を付けて区別。

2005年に廿日市市に編入された広島県佐伯郡大野町は「ono-town」でした。WARP
なるほど、順番を変えることにより、岐阜県と広島県の大野町は共存していたのか。
2005年に豊後大野市になる前には大分県大野郡大野町がありました。大野郡5町2村合併協議会は「ohnogun-gappei」で、これが「bungo-ohno」市に引き継がれていたのでした。

函館本線渡島大野駅【2016/3/26から新函館北斗駅】の所在地は、10年前の新設合併までは北海道亀田郡大野町でした。WARPに残されている上磯町との合併協議会では、合併前の表記未発見。
その他平成合併で消えた町村の表記は、岩手県九戸郡大野村が「vill.ohno.iwate」、香川県三豊郡大野原町が「town.onohara.kagawa」、高知県高岡郡大野見村が「vill.onomi.kochi」、群馬県北群馬郡小野上村が「vill.onogami.gunma」で、宮城県加美郡小野田町は未発見でした。
[89934] 2016年 2月 4日(木)15:04:50【1】hmt さん
自治体越えの地名
[89933]の準備作業中、たまたま 郵便番号490-1323 を見たら、稲沢市平和町内に「勝幡新田」(ショバタシンデン)という地名があることに気がつきました。mapionを追記

[89930]で言及されている 愛西市勝幡町 との関係で、自治体越えの地名に該当するのではないかと考え、情報提供しておきます。
[89933] 2016年 2月 4日(木)14:28:51hmt さん
Re:愛西市平和町
[89932] N さん
ただ、素朴な疑問なんですが、郵便番号が振られているのに、実際にその住所は存在しないことってあるのでしょうか。

愛西市町名一覧 の中に、平和町が見当たりません。

念のため、愛西市のサイト内で平和町を検索すると3件出ますが、そのうち2件は隣接する稲沢市平和町【旧中島郡平和町】に関するものでした。
残る1件は平和町奉賛会への支出ですが、これも稲沢市の 国府宮はだか祭 へのご祝儀です。

郵便番号が設定された理由は不明ですが、「愛西市平和町」が実在しないことは、ほぼ確実と思われます。
[89925] 2016年 2月 2日(火)21:59:39【1】hmt さん
ローマ字表記・英語表記 (3)地名の英語表記に関する国土地理院の報告書
[89992] グリグリさん
リンクしていただいた「外国人にわかりやすい地図表現検討会」のページにより、国土地理院から 昨年9月に 地名の英語表記及び外国人にわかりやすい地図記号について-外国人にわかりやすい地図表現検討会報告書- が出ていたことを知りました。
落書き帳で話題になっている「ローマ字表記・英語表記」を考察するにあたり、この文書の第一部(p.4~22)に記されている「英語表記方法」は一読に値するものであると思われます。
なお、p.23以降は地図記号に関するものが主になっています。

[89923] N さん
単純に漢字が切れ目になっているのではないでしょうか。
「郡(kori)」「山(yama)」、「桑(ko)」「折(ori)」、「箕(mino)」「面(o)」、「直(No)」「方(gata)」
漢字ごとに区切る意味があるのかはよくわかりませんが。

箕面が「箕(mino)」と「面(o)」と別々の字で構成された複合語に由来するものであり、その発音も「みの・お」であり、歴史的仮名遣い当時から長音ではなく、別の文字に使われた母音が連続した結果「オ・オ」の発音になったものであることは [89899]で記しました。桑折も同様です。
一方、郡山の「郡」・直方の「直」は「オー」と長音で発音する漢字が使われており、これは 東京・京都・大阪[89901]・神戸と同類です。

国土地理院の 前記報告書 p.21-22には、第一部の別添文書として「表音のローマ字による表記方法」が掲載されています。
注-2(4)【長音を表す記号の省略】については、特に備考2が付けられています。
備考2
長音を表す記号は、省略することを原則とする。
ただし、50音の「い」段の長音は、「i」を重ねて表し、「えい」は「ei」と書く。
また、表音のローマ字表記が「ou」「oo」「uu」となるときに、対応する元の漢字が一文字の場合にはそれぞれ「o」「o」「u」に短縮するが、二文字に分かれる場合には短縮しない。ただし、短縮する表記が通用している場合には、短縮してもよい。
例:
瀬戸内(せとうち)市 Setouchi City
大野(おおの)町 Ono Town
桑折(こおり)町 Koori Town
善通寺(ぜんつうじ)市 Zentsuji City
勝浦(かつうら)町 Katsuura Town

青梅(おうめ)市については、「オーメ」という長音ですから、長音記号を省略した「Ome」とする原則に従っているように思われます[26231]
また、歴史的仮名遣い「あをめ」[18402]に基づき、対応する漢字を「あお/メ」【梅にはバイの他に「メ」という音があります】考えると、長音部の元の漢字は1文字になり、これも「Ome」になります。

しかし、備考2の末尾には次のように記されています。
例外の例:青梅(おうめ)市 Ome City  ※同市ページでもOme Cityとなっている。

これは、元の漢字を「あお/うめ」と見て、これに対応する「O/ume」としなかったことをもって、「例外」と扱ったのでしょうか?

備考2を含む長音の取り扱い。これは、ローマ字表記・英語表記の中で 最も難しいところのようです。


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